人間とコンピュータ

 今朝の朝日新聞の別刷り「BE ON SUNDY」に、コンピュータの将棋ソフトと人間の対局のことが書かれていた。 チェスは97年に人間のチャンピオンがコンピューターに負けてから人間の逆転はなく、将棋も、日本の将棋人口の99.99%が勝てないという。しかし囲碁の場合、コンピューターの実力はいまだアマ初段に届かない。その違いは、ゲームの開始から終局までの局面の総数によって生じ、概算でチェスは10の123乗、将棋は10の226乗、囲碁は10の360乗で、囲碁のシュミレーションは、将棋やチェスより難しくなるからだという。

 コンピューターは基本的に、膨大な数の定跡手を記憶して、ルール上可能な手を何手か先までしらみつぶしに探索し、最も有利な局面となる手を選んでいくので、相手に勝つという目的だけであれば、ハード性能の向上によって、時間をかけさえすればチェスだけでなく、将棋も囲碁も人間に勝てるようになっていくのだろう。

 そうした状況に対し、人間とコンピューターの境界の議論が出たりする。しかし、羽生善治三冠は、以下のように淡々と言い切る。

 「勝ち負けだけを争うものなら将棋にそれほどの価値はない。思いがけない発想やドラマチックな逆転が共感と感動を呼ぶ。感動的な俳句を作れないように、コンピューターに人間の共感を得られる将棋は指せません。」

 つまり人間的能力は、勝ち負けのなかだけにあるのではない、と彼は言いきっている。

 しかし、彼のこの言葉を聞いて、私たちは自分のなかにコンピューターに負けない領域が確保されていると安心してしまってもダメだ。

 なぜなら、今日において、思いがけない発想やドラマチックな逆転によって人の共感と感動を呼ぶことは、勝ち負けにこだわることより難しいことかもしれないからだ。

 子供の頃から競争社会に明け暮れているのも、競走社会のなかで頑張った方が、幸福になる可能性が少しでも高いのだと人々が信じているからだろう。

 つまり、思いがけない発想やドラマチックな逆転で幸福になることなどテレビドラマや映画のなかだけの世界で、現実にはなかなか起こり得ず、競走に勝つことが大変でも、勝ちさえすれば確実に何かを引き寄せることができるということ。そして、勝ち負けは、相手との比較で発生するから、相手の設定のしかたによっては、自分も勝者の側に立てるという気持になれること。自分に力がなければ、ブランド品や恋人の学歴や勤め先や収入や子供の学校で競い合うこと。そのように誰しも様々な形での競走意識に囚われ、コンピューターの得意な勝ち負けの争いに埋没して、人間の固有性を失っていく。

 といって、競走という舞台から降りて、「勝ち負けに関係ない」と言いながら何かをやっていても、ただ何かをやっているだけで、人を感動させたり共感させるレベルのことから遠いということもある。つまり、コンピューターでもできる俳句をつくっていたり、絵画を描いているということもあるわけだ。そうなった時も、人間としての固有性は確保されていない。

 羽生善治の「勝ち負けだけを争うものなら将棋にそれほどの価値はない。思いがけない発想やドラマチックな逆転が共感と感動を呼ぶ」という言葉は、彼が第一人者であり、人を感動させる力をもっているからこそ説得力があり、ヘボ将棋を打っている人が言っても、言い訳にしか聞こえず、誰も聞く耳を持たないだろう。

 これからの社会は、職場をはじめ様々な領域にロボットやコンピューターが進出して、人間の仕事が取って代わられていく。

 「編集」の仕事などは、人と会ったり打ち合わせをしたり、人間っぽい仕事でコンピューターにはできない仕事のように思われることもあるが、そうではない。たとえばメール技術などの発達などによって、昔なら5,6人の編集者が必要だった雑誌が、1,2人の編集者でできるようになっている。具体的に誰が取って代わられたかということではないが、全体として、編集とみされていた作業のなかから多くのことがコンピューターに奪われ、現時点でコンピューターにはできそうもないことだけが、仕事として残されているだけで、将来的には人間的領域はさらに狭められるかもしれない。

 インターネットの発達は、人間にできることとは何かということを、ますます人間に問うことになる。

 コンピューターに感動的な俳句を作れない、と羽生は言う。しかし、人間なら無条件に感動的な俳句を作れるともかぎらないから、その言葉に安心もできない。人間が社会的にもコンピューターに取って代わられずに人間として活動して生きていくためには、「条件」が必要になっている。

 感動的な俳句をつくるということが、いったいどういうことを意味するのか、自分ごととして引きつけて考えることだ大事なのだろう。

 俳句というのは一つの象徴であり、表現活動にかぎらずサービス業務においても、「自己満足的な作業」もあれば、「感動的な仕事」というものもあるが、その違いはいったい何なのか。どちらが良いとか悪いではなく、「自己満足的な作業」というのは、遅かれ早かれ、社会的にはコンピューターやロボットに取って代わられる。

 取って代わられたくないと思って、社会の外に逃走し、自己満足的に自らのアイデンティティを確認し、現代社会を非人間的であると悪口を言っても、そういう悪口は、自分と同じ境遇の人に届くかもしれないが、社会のなかで奮闘し足掻いている大勢の人には関係ないものになる。それだと、今日の社会の問題を解決する根本的なものになっていかない。

 現代において、「感動的な仕事」というのは、いったいどういう質のものなのか。

 羽生の将棋が感動的になり、コンピューターの将棋がそうならないとすれば、それはいったい何故なのか。

 コンピューターは、膨大な数の定跡手を記憶して、ルール上可能な手を何手か先までしらみつぶしに探索し、有利な手を選ぶことができるが、その目は将棋盤の上にだけ向けられ、対戦している相手そのものに向けられていないのではないか。人間に向き合うのではなく、将棋盤の上に展開する「現象」に対応しようとするのがコンピューターだ。

 それに比べて羽生は、将棋盤の上の現象だけを眺めて分析して将棋を指しているのではないだろう。また、受けを狙い、パフォーマンスのように我流の将棋を展開しているのでもないだろう。さらに、自分は自分、人は人などと言って、自分の狭い殻に閉じこもっているわけでもないだろう。

 彼は、これまでの無数の棋士たちの癖をはじめ特徴を深く学習している。そして、今日の新しい世代の傾向についても深く学習している。つまり、人間というものについて、深い関心を持ち、思考し、その性質を知り、機微や流れを読んだうえで自分がいかに対応するか考え、考えたとおり動けるように訓練している。さらに、それらの努力を、普通の人なら雑巾を絞りきったと思ってしまうところから、さらに振り絞って、一滴か二滴の水を絞り出し、その水滴を少しずつ溜めるように行い続けている。

 社会の中にしっかりと足場を定めながら人を感動させる仕事というのは、そういうところからしか生じないのかもしれない。

 もしそれを「誰しもできる努力ではない」、と言いきってしまうのならば、同時に、「誰しも人間として生きていくことはできない」と言わなければならないのかもしれない。

 人間のお腹から生まれたらといって人間として生きていける保証のない時代なのだ。

 そして、人間として生きていけない状況を社会や政治のせいにすることは、評論家の収入源になることがあっても、一人一人にとって何の解決にもならない。むしろ、そうした他人任せの意識が、さらに自らの人間性の喪失につながる可能性がある。

 一人一人が、雑巾を振り絞ったと思うところからさらに絞るように人間であるための努力をして、その集積によってしか、社会のパラダイムは変わらないだろうという予感がする。

 そうしなければ生きていけないというところまで行かないと、なかなかそうはならないのが人間なのだけど・・・。


風の旅人 (Vol.22(2006))

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