言葉との付き合い方

 昨日のNHK教育テレビのETV特集で、言葉に関する3つの対談があった。そのうち、多和田葉子さん(作家)と伊藤比呂美さん(詩人)、福原義春さん(資生堂名誉会長)と平田オリザさん(劇作家)の二つの対談が、対照的で興味深かった。
 多和田さんたちの対談においては、「言葉」が主役で、平田さんたちの対談においては、言葉を使う「人間」が主役という印象を受けた。
 多和田さんと伊藤さんは、例えば漢字は、そこに在るだけで揺るぎがたい「意味」を放ち、その呪縛にとらわれてしまうのに対し、ひらかなとかカタカナは、意味性がはかなく消えていくような特性があって、その自由さが好ましいというようなことを言っていた。また、多和田さんが、「美」という文字が、大きな羊という意味を持っていると知って、ドイツの市場などでにある大きな羊の肉を見る時の印象が変わったというようなことを言っていた。多和田さんと伊藤さんの対話の根底に流れている感覚は、私が受けた印象では、人間は言葉を道具として活用するためにそれを身につけていくのではなく、生まれた時から宿命として言葉のなかを生かされていくというものだ。それぞれの言葉が「人格」のようなものをもっており、人間は人間と付き合うように言葉と付き合っていかなければならない。言葉との付き合い方を修復しないかぎり、人間同士の付き合い方を修復することはできない。そういう格闘イコール多和田さんの言葉を通した表現活動なのだ。
 それに対して、福原さんと平田さんの対談では、「言葉」に生命を吹き込むのは人間であって、その扱い方次第で、生きた言葉にもなれば死んだ言葉にもなる。決められた言い回しをステレオタイプ的に使用するのではなく、その時、その場に適した言葉を見つけだして使用した時に、その言葉は生きたものになるし、生きた言葉の使用が人間関係を良好にし、人間社会を良好なものにしていくという考えが展開された。
 福原さんは名経営者だし、平田さんは演劇という集団表現の演出家であるわけだから、言葉による「コミュニケーションスキル」の大切さを説くのは必然だろう。
 しかし、その場合、コミュニケーションスキルによって言葉に吹き込まれる「生命」というのは、その場に相応しい「生かされ方」という意味であり、おそらく、そうした発想の根底には、自分を主体にして、物事を生かす生かさないという思考特性が隠されている。
 その考えは、会社を守るリーダーや、今日のような厳しい社会環境のなかで自分を活かそうと前向きに努力している個人にとっては、とても説得力があるものだ。
 私は、経営現場の末席にいる者として福原さんを尊敬している。また、福原さんは、ただの経営者ではなく、プロ級の写真家でもあるし、ランの栽培においても玄人だ。また、「風の旅人」を二年間も定期購読していただいている。
 経営以外の様々なことは、福原さんにとって自分を活かすための肥やしであり、その中心には、強くバランスのとれた「個」としての自分がいる。おそらく、平田オリザさんもそうなのだろう。
 しかし、福原さんや平田さんのように強くバランスのいい自分を持っていない多くの人は、自分の意思とは別に、自分が置かれた場に相応しい自分であろうと努力し、その場にふさわしい言葉を身につけて、自分の役割を果たそうとする。しかし、たとえば会社など限られた世界で一生懸命に身につけた習慣言語を、そのままステレオタイプ的に外で出してしまい、失敗するというケースになることも多い。
 そうしたケースに対して、福原さん達は、経験と訓練の必要性ということを言っていた。確かに、訓練をすることで、福原さん達の域に近づけるだろう。
 しかし、そうした考えは、場に相応しい自分を取捨選択してつくり、場にふさわしい言葉を取捨選択して使う循環を自分のものにしている人には、納得性の高いものだが、それとは逆の循環のなかにいる人には、違和感がある。例えば、ニートなど、強くバランスのいい人の選択からもれ、除外された世界で生きる人たちだ。
 どんな「人間」も、言葉を通して現実の世界に生きている。言葉によって物事を識別し、言葉によって思考することが自分として生きることだから、場に相応しい自分を自覚している人は、場に相応しい言葉を自覚的に選別することができるが、場に相応しい自分を自覚できていない人は、場に相応しい言葉を自覚的に選別することもできない。
 つまり、場に相応しい自分を簡単に取捨選択して決めることができない人は、言葉の訓練以前に、「場に相応しい自分とは」という問題に突き当たってしまう。
 そして、「場」というのは、自分が生きている現実世界である。現実世界がどういうものなのか、言葉によって突き止めなければ、最初の一歩が踏み出せない。
 現実世界には、強くバランスの良い人が、次々に自分に相応しいものを選びとっていくと同時に、打ち捨てていったものや言葉が山積みになっている。そして、ほとんどの人は、そこに残されたものや言葉に対して意味と無意味の選別をすることができないまま取り憑かれ、取り憑かれることそれじたいが、その人の記憶となり、歴史となり、人生になっている。空中をさまよっているような記憶と人生、説明不能な記憶と人生。本当に起こっているのかどうかもあやしい記憶と人生。
 そういうあやしい状態で、現実世界がどういうものか言葉によって突き止め、その現実世界に相応しい自分となり、相応しい言葉を使うことが可能だとはとても思えない。
 ごく一部の強くバランスのいい人を除いて、周りの期待に添うような自分を一生懸命に演じて、相応しいとされる言葉を発して、その場をやり過ごすか、そうしたストレスに耐えられない人は、自分に閉じこもるしかないだろう。

 それに対して、多和田葉子さんは、言葉の選別の仕方ではなく、言葉との付き合い方そのものを根底から見直そうとして深く考えているように思えた。
 言葉から拒絶されたり、宙づりにされたり、つまづいたりして、そこに生じる戸惑いとか葛藤によって、言葉と自分自身が立ち上がり、それぞれが自己を語るような関係。人間に都合良く選別される言葉ではなく、様々な記憶や歴史をもって現実の世界に生きている言葉を尊重し、様々な記憶や歴史をもって現実の世界に生きていく人間として、それを乗りこなそうとする骨の折れる付き合い方。
 場に相応しい自分と言葉の選択が簡単でない人にとっての救いがあるとすれば、つまづいたり、戸惑ったりが連続する格闘を自分ごとにして、そこに自分を見いだすしかないのかもしれない。
 ちなみに、多和田さんは、「美」を大きな羊と言っていたが、白川静さんの辞書によれば、「美」は、羊の全形を上から見た形であるのだが、犠牲として神に供える羊に欠陥がなく、完全で正しいものであることを示しているという。白川さんの解釈は、ほとんどの字が、物の形を写しとっただけのものでなく、そこに神と人間の関係、もしくは当時の人間社会にとっての社会価値が籠められたものになっている。人間が言葉を便宜上使い分けるのではなく、人間が言葉との相互作用を通して「新しい言葉」を作り出すのだ。もしかしたら、最近の携帯電話などの絵文字がそういうものなのかもしれない。また、伊藤比呂美さんが多和田さんとの対談で言っていた、自分で好き勝手に作るジャパニーズイングリッシュがそういうものなのかもしれない。もともと、伊藤さんの「詩」はそのように自分で好き勝手に作るものだったのかもしれない。
 でもそうした絵文字や詩やジャパニーズイングリッシュは、やはり社会性を獲得してはじめて、「新しい言葉」と言えるのだろう。人間は社会的動物であり、社会的動物としてのアイデンティティが言語なのだ。「自分の言葉」と言えるものによって、社会と渡り合っていくことが、自分のアイデンティティの獲得なのだ。福原さんと平田オリザさんも、最終的にそういう結論に至っていた。そして、逆の方向から格闘して歩んでいるように見える多和田さんも、もしかしたら、そこに向かっているのだろうか。強くバランスのいい人もそうでない人も、今ある自分と、今ある自分の言葉のうえに胡座をかいているわけにはいかないのだということでは共通している。
 多和田さんと伊藤さんの対談は、おそらく多和田さんが一人で講演しても、あのような話しの展開になるだろうということで、対談の妙味があまりなかったのだが、もし、多和田さんと福原さん、もしくは平田オリザさんが対談する企画があったら、どういうものになるのか、とても興味深い。