生命ー希望の贈り物

 この前、本橋成一さんと会って飲んだ時に話にでた「生命ー希望の贈り物」監督:呉乙峰 を、ポレポレ東中野で見た。
 「風の旅人」の6月号で本橋さんがカザフスタンで撮影したディアスポラ(韓国人とチェチェン人)を紹介するのだけれど、本橋さんの取材テーマと、この映画に通じるところがあるように思い、強い関心があったのだが、なかなか時間がとれなかった。
 そして、ようやく今週観てきたのだが、「映画の日」の前日だったためか、観客は私一人しかいなかった。
 私一人で見るには、本当にもったいない素晴らしいドキュメント映画だった。
 この映画は、1999年の台湾大地震が舞台になっている。災害の悲惨さをセンセーショナルに伝えて、すぐに別の事件に走ってしまう報道が多いなか、この映画は、被災した人々のその後を4年にわたって真摯に取材したものだ。絶望の淵に落とされた人々が、再び自分を取り戻して生き始めるまでを追っていくのだが、その行動や言葉の全てを通して、映画を見る者は、生きる意味を根底から問いかけられる。そして、必死な思いで人間を生きさせる力が電流のように伝わってきて、得も言われぬ思いになる。
 登場人物は、プロの役者ではないが、その表情や発せられる言葉は、どんな名演技よりも心に迫ってくる。事実をありのままに伝えようとしてノンフィクションで表現しても、表層的な現象だけしか見えてこないものが多く、その為、表現者の意図に添ってフィクション化した方が、伝えるべきことを伝えやすいということがある。しかし、そうしたフィクションは、作者の解釈によって「事実」が操作されることでもあり、誠実な作者は、そのことについて、深く自覚的であるだろう。
 純粋な客観というものはない。といって、主観の上に胡座をかいていても、真実には近づかない。おそらく、批評家にとっても、この問題はつきまとっている筈だし、異文化を研究する川田順造さんのような人類学者でこの問題をおざなりにしている人など、まったく信頼に値しないだろう。川田さんは、文化の三角測量という方法で、異なる価値観・文化を持つ人々を対象に研究を重ね、それを言語化することで、世界認識の仕方を改めて根底から問い直そうとしている。ここ数日、このブログのなかで考えてきた「批評家」のあり方にしても、そうした問い直しが必要だと思う。 
 そして、今日の社会で影響力がもっとも大きい「報道ドキュメント」こそは、「事実」に対する客観と主観の問題を根本から問い直す必要があるのだが、残念なことに、この分野が、そうした問題に対して、もっとも無自覚だとも言える。
 「生命ー希望の贈り物」の呉監督は、ドキュメントを通して、台湾大震災の状況説明をしようとしているのではない。台湾大震災はもちろん悲劇的な大災害であるけれど、人間として生まれて生きていくかぎり、どんな人間にも様々な困難が付きまとうわけで、その困難な現象そのものより、そうした局面に立ち会わざるを得ない人間の”生きる意味”を根底から問い、感動の力によって示そうとしている。
 しかし、どんなに作為無く客体に向かい合って記録しようとしても、対象の選び方や切り取り方に作者の意図が現れてしまうわけだから、完全に「ありのまま」であることはできない。人間という不完全な存在が観察者として介在しているかぎり、事実に歪みが生じることは避けられない。そうしたことを呉監督が意識していたのかどうかわからないが、このドキュメント映画は、台湾地震の被災者たちの「生命」を追いながら、同時進行的に、監督自身の心の中を、映画の中にさらけだしている。生きていながら死んだも同然と感じさせる監督の実父や、死んでいながら監督の心のなかで生き続けている友人との関係を通して、「生命」に対する監督自身の葛藤や煩悶が取り込まれているのだ。
 カメラレンズの向こう側の世界だけでなく、カメラレンズのこちら側の「生命」に対して揺れ動く心があからさまになっていくことで、主体のフィルターを通して客体が描かれていることを前提として認知しながらも、主体と客体の境界がなくなって、”生きること”の大きなテーマのなかに観る者が引き込まれていく。そのように引き込んでいく力によって、そこにある「他者の現実」が、自然と自分ごとになっていく。
 そうなってくると、映画のなかに登場する実在の人たちの表情や視線や声や動作が、どんな名俳優の演技よりも、心に強く迫ってくる。彼らは、それぞれの仕方で、喪失からの回復を遂げる。ある者は、新たな子供を生むことで、ある者は、夫婦で一生懸命働くことで、また自殺によって両親をはじめ先に逝ってしまった者たちへの復讐を果たそうとまで考えた者は、悲しみの詰まったその土地を離れて新しく生きていく覚悟によって・・。
 自分を奮い立たせて、一生懸命に働き、いたわり合い、時に泣いたりはしゃいだりしながら、悲しい感情に耐えて生きる人間の美しさに愕然と気付かされる。
 映像の力によって、緑美しい山里を一瞬にして乾いた赤土の荒野に変えてしまった自然の底力を思い知るとともに、人間への信頼をあらためて思い抱かせるような”救い”と”祈り”が、このドキュメント映画には脈打っている。
 このような映画を見ると、あらためてドキュメント映画の持つ力を再認識させられる。
 時間と空間のなかに主体と客体をない交ぜにし、かつ、観客を同じ空気に包み込みながら、偶然としての現実を心の必然にまで導く強烈な力が、そこにはある。
 しかし、雑誌には雑誌にしか伝えられないこともあるだろう。雑誌もまた、編集者というアレンジャーの意図による「現実」の解釈を提示するものだから、上に述べた主体と客体の問題から逃れることはできない。こうしたブログによって、編集者の解釈のフィルターをあからさまにして、読者にその歪み具合を示しておくことが必要かもしれない。