批評の前提条件

ホシ様

 丁寧で深いコメント、有り難うございます。
 ホシさんが言及されていること、とてもよくわかります。また、問題意識の持ち方としても、同じものがあるように感じました。
 批判や批評の問題に関しては、無くなればいいというのではなく、そのあり方について改めなければならないことが多くあって、そうでないと、ひどい批評とそれに便乗するメディアの相互作用で、言論を取り巻く状況はますますひどくなるような気がします。
 しかし、今日の批評のあり方を批判するなら、それについて、自分なりの考えを述べる義務があります。

 ホシさんがおっしゃるように、ある種の前提、条件、文脈を顧慮せずにある事柄や作品を優れているとか劣っているとか言われても、主観的すぎて、わけがわからなくなります。
 まず、今日の批評や評論には、そういう類のものが多くあります。
 それとは反対に、ある種の前提を明確に決めて、評価するやり方も多くあります。その、ある種の前提というのは、「お墨付き」や「権威」に準ずるケースが多くあると思います。賞の氾濫や、有名人の賞賛、マニア向けのものであれば、その道の権威がどう評価しているか等など。
 この両極に別れた批評とか評論が、現在を埋め尽くしているのではないかというのが、私の実感です。

 私個人の考え方としては、ものごとの評価には、「前提条件」が必要だと思います。
 その「前提条件」の設定の仕方が大事だと思います。その「前提条件」にどれだけのものが籠められているか、その「前提条件」の提示によって、その評者が信用に値するかどうかということになるのではないかと思います。もちろん、そこには受け手のレベルが関係してくるでしょう。「前提条件」として、「昨年の芥川賞を受賞した作品だから、素晴らしいんですよ」と言われて、「そうなんだ」と納得してしまう人もいるでしょうから。
 でも、まずは、評論家や批評者の品定めが必要です。その一つの鍵が、評論家や批評者の「前提条件のたて方」を知ることではないかと私は思うのです。それがオープンになることによって、その評者が行う評価は、相対的なものになる。
 優れた評論には、その「前提条件」がしっかりと深く織り込まれているように思います。そしてそれを明らかにする「フェア」さも備わっているように思います。
 作品を評価する優位な立場にだけ胡座をかくのではなく、「前提条件」のたて方によって、自分自身もまた評価されるという構図を、今日の「言いっぱなしの批評」が溢れる状況のなかで、意識して築いていくことが必要ではないかと思います。
 すなわち「前提条件」の構築のため、その批評者は、作品のお勉強をするだけでなく、今日の状況や未来の展望なりを、自分なりにしっかりとイメージして考えていくことが義務づけられる。他人任せにできない。
 また、一般的には駄作と見做されている音楽作品などでも、「特殊な経験」という「前提条件」に則せば、その特殊な経験を共有する人にとって大切な作品になることもあるかと思います。その場合、批評家の存在意義は、その「特殊な経験」を「前提条件」としながら作品の価値を知らしめることではないでしょうか。

「いまや人文書の世界というのは、社会がどれだけ変わろうとある種の趣味を持つ人(たとえば、鉄道など)は必ず一定数おり、作り手の意識はともかく、経済的な部分としてはその種の後ろ盾=普遍性に担保されて制作が可能になっているのだ」という考えは、なにも人文書にかぎらず、ほとんど全ての出版物の戦略になっていると思います。
 たとえば今日の印刷コストであれば、単行本のソフトカバーだと、5000部で150万円くらいでできます。私は単行本を三冊作りましたので、構造がよくわかりました。それを1600円で売れば、流通経費と印税をひいて、800円が出版社に入ります。そうすると大雑把に言って、2〜3000部ほどで損益分岐点を超えます。それ以上売れると、利益になります。しかも、雑誌に比べて、手間はほとんどかからない。そうなってくると、2000部は確実にとれる手が早い書き手を揃えることが出版社のメリットになります。また、プロでなくても、イラク人質事件など話題の人であれば、損はしない計算が成り立つわけです。2ヶ月に1度、同じような本が出る作家などにしても、ベストセラーになることが計算できなくても、「あの手の内容」が好きな人が2000部は確実にいることがわかっているから、出し続けるのでしょう。そして、たまに10,000を超えたりすると、出版社はすごく利益になります。もちろん、会社全体が食べていけるような利益ではありませんが、そういう計算できる書き手を、編集者は、10人とか20人揃えていこうとするわけです。そのようにして流行作家が作られます。一年で5,6冊本が出て、それが店頭に並ぶと目立ちますから、知名度も増して、2000部が5000部になって10,000部になって10万部になっていく。
 でも、その1万とか10万は、マーケティング的には成功していても、やはり「固定した前提条件」のなかの出来事であって、私が書いた1万人以外の人生の、今でなくてもどこかの節目で、琴線に触れてくる可能性が残されているものではないと思います。

 その違いは何か。
 それを考えて示すことは、私自身の「前提条件」を考えて示すことにもなるでしょう。
 「前提条件」にも、幅があります。ある人にとっては、”お金儲け”であり、ある人にとっては”神”や”聖書”ということもあるでしょう。
 誰に誉められるとか世間で評価されるといったこととは別の、自分としてそこに達しているかどうか、という手応えのような「前提条件」。私にとっての「前提条件」とはそういうことですが、これについては、もう少し考えていこうと思います。
 ホシさんのような読者に刺激されることを、有り難く思います。