二元論からの脱出

 現在は、起承転結以前。
 いろいろなものが溢れているけれど、確かだと思えるものは何もない。
 確かなものとは、真・善・美が一つになったもの。
 現代は、それがバラバラ。真や善でなくても、美しく華やかに見えさえすればいい。

 昨日の夜、テレビでやっていたけれど、昼間の平凡な自分は本当の自分ではなく、”セレブコース”に給与の半分を注ぎ込んで、フレンチキスの要領で紅茶を飲むマナーを覚え、ロゼのシャンパンの味を覚える。5畳半の部屋に住みながら、お医者様との結婚を狙って、高級会員制見合いパーティに通い続ける。その会員制パーティに来るお医者様は、ほとんどが”サクラ”かもしれないのに・・・。
 仮にそのような努力を経て運良く”お医者様”と結婚することができても、そのようにモノゴトの表面的なことにこだわる性向が、毎日の生活を幸せなものに導くとは思えないのは私だけだろうか。

 それはともかく、歴史は、真・善・美が一致した何かを確かだと思いきれるところから”起”がはじまり、それが発展し、やがて、その在り方に矛盾が生じ、終結を迎えるのではないか。
 しかし、戦後社会は、太平洋戦争のトラウマで、真・善・美の一致に危険な空気を嗅ぎ取る癖がついている。真・善・美など口にするのは、新興宗教だけの特権だ。

 現在は、不確かさの中をいかに確かに生きるかという、パラドックスの時代なのだろう。
”セレブ ”を夢みたり、お医者様”との結婚に懸命になるのも、錯覚かもしれないが、そこに、幸せを確約してくれそうな気配があるからなのだろう。何にも手を出せずに、指をくわえたまま、不確かさのなかに埋もれるように生きていくのを惨めだと感じているのだろう。
 そう、私たちは、人それぞれ、歴史以前の混沌のなか、何かを新しく始めるその準備のために、あがき続けている。

 ただ、そのあがく自分が、自分の知らないところで、二元論の短絡思考に侵されていることに気付いていないことだけが問題なのだ。
 幸せの絵図がワンパターンということ。しかも、知らず知らず、人から押しつけられている幸せの絵図だということ。
 そして、中国で激しく反日抗争をしている人たちも同じ。政府が愛国心育成のために教育のなかで国民に擦り込んだ絵図を根拠に、「愛国無罪」という暴力が正当化される。
もちろん、その布石として、日本の教科書問題や、小泉首相靖国神社参拝や、日本の国連安保常任理事国に向けた動きなどが関係しているのかもしれないが、大半の人の心理は、60年代、70年代の日本社会と似たようなものだろう。急激な社会変化と急激な経済成長のなかでの、言いしれぬ不安。国家全体を覆う成長のエネルギーが、国民一人一人のなかに激しい外向きの闘争意欲を生じさせ、そのはけ口を必要とする。

 日本はそういう経験を歴史的に経てきているのだから、近代以降の歴史を俯瞰するような立場から、その”過程”にある人に配慮した言動を取ってもいいのかもしれない。
 教科書問題など、侵略が進出か、表記の仕方を二元論的に議論するよりも、中国の学校教育で行われている教科書をも教材にする懐の広さを見せてもいいのではないか。歴史というのは、立場が変われば、これだけ解釈が変わるものだという視点を獲得することが、これからの人間には必要だろう。
 司馬遷の「史記」にしても、当時の中国の敵対国である匈奴の立場から歴史を書くと、「漢」こそが毎年貢ぎ物を送り届けている属国になるわけで、両方の視点からモノゴトを伝えて、その違いが生じる理由について考えるようになると、歴史は、年号と一方向の視点に基づく歴史事実を覚えるばかりの今日の学校教育よりも、もっと興味深いものになると思う。

 考えてみれば、人はいつの時代も、他者から押しつけられた価値観のなかで生きている。仮に、そのことから逃れられない宿命にあるとしても、そういう自分の状況を相対的に見れる思考を獲得すれば、世界の見え方が変わるのではないか。教育もまた、その方向に進むべきではないか。
 逆方向からの視点さえも自分のなかに取り込むことで、閉塞した二元論の世界でモノゴトを対立的に捉える思考と行動から脱出すること。
 新しい時代の起承転結の「起」は、そこから微妙に始まるような気がする。