日本国憲法

憲法記念日。敢えて言いますが、私は、ある基準に基づいて憲法を見直していく議論をしていく必要があると考えています。
その基準とは、「現実」に合わせるのではなく、「実現の困難な理想へのベクトル」を掲げるということです。たとえば現在の9条について意見が交わされる時、改憲派は、現実に合っていないからと言い、反対派は、改憲=戦争への道と言います。どちらにも共通していることは、憲法に明文化されたものが今日の現実に直結されるという考えです。
私は、「憲法」を現実ではなく「理想へのベクトル」にすべきだということで、9条の改憲には反対です。
「現実」というのは刻々と流動的であって、そんな虚ろなものに合わせて明文化したものを最高法などにしてしまうと、その「言葉」が人間の新たな可能性を殺してしまいます。
 アメリカの独立宣言は、「人は生まれながらにして平等である」を唱っていますが、黒人差別が吹き荒れる時に、この宣言が「現実」に則していないからといって「現実」に合わせたものにすると、その「明文化された言葉」の上に人間は胡座をかきます。
 人間の歴史は、最初から完全である筈がなく、常に試行錯誤の過程にあるわけですが、その試行錯誤を奪う「明文化されたものの絶対化」こそが、もっとも厄介なものです。正義とか大義名分もそうです。極端で過激な動物愛護だってそうです。
 人間は、理想だけでは生きていけず、歴然たる現実も次々と存在します。その1つ1つの現実に対応するために、その現状のなかから最善の解を導く試行錯誤が必要です。明文化されたものを楯にしただけの意見を言うだけなら、その時々の状況について何も考える必要がないわけですから、楽なもんです。でもそれは思考停止状態に陥っているということで、そういう人の言うことは今一つ信用できません。
 共産党は、今日も新聞広告全面を使って、憲法の改定に反対する党であることを主張しています。国会では憲法を変えようと言う議員が大多数だけど、国民のなかでは少数であり、自分たち共産党は、国民のみなさんと力をあわせて憲法を守っていきます、というのがメッセージです。でも、その共産党は、国民からほとんど支持されておらず、だから、国会の中で少数という現実があります。なぜこういうことが起こるかと言うと、国民は自分たちの「現実」に対応できる力(思考力やバランス感覚も含めて)のある政治家を選ぼうとし、その現実志向の議員たちが、国会の多くを占めているからでしょう。ならば、共産党を「理想のベクトル」に向かう党と国民が受け止めているかというと、そうではないような気がします。ある側面で共産党の言動に「絶対化されたものの前での思考停止状態」を感じ、そのように硬直したものの恐さを国民が感じているかもしれません。
 いずれにしろ、明文化されたものの上に胡座をかくという状態が一番問題だと思います。
 人間の現実は、綺麗事ばかりで成り立っていませんが、その現実に対応するための現実的行動を起こす際に、ある種のやましさとか恥の感覚とかを残したまま、それでも、考えに考えた末、そうせざるを得ないという状態が、健全だという気がします。
 そのためにも、「憲法」は「実現のために時間がかかると認識しているが、それでも掲げなければならないものに対するベクトル」であった方がいい。
 現在の憲法には、9条のような理想と、制定された当時の現実対応が混在しているように思います。各種の現実対応法は、憲法の下に存在していればいいことです。
 旅行ビジネスを行う場合でも、民法、商法、旅行業法の三段階があり、顧客との契約においては、旅行業法が、商法や民法より優先されます。その旅行業法は、当初、経営体力の弱い旅行産業を守らなければならないという現実を踏まえて、商法や民法に比べて、旅行業者の責任を軽くしていました。だから、問題解決において、旅行業法で旅行会社が守られていたとしても、民法とか商法を念頭に置く顧客との認識のズレが生じます。そのズレがあるからこそ、旅行会社は、開き直りができず、顧客の説得のための努力を継続しますし、旅行業法の範疇を超えて顧客の認識に近づき、それを超えていこうと努力します。その過程を踏みながら、旅行会社のサービスは進化し、それに伴って旅行業法は改定され、さらにハードルが高いものになっていき、その新たな現実に対応しようと努力できる企業だけが顧客の支持を受け、そうでないところは淘汰されます。そのようにして、企業にとっても顧客にとっても理想的な環境が少しずつ整えられていきます。
 そういう意味で、憲法を、目先の現実に合わせた「旅行業法」のようなものにするのではなく、それらの「現実対応法」が将来進んでいく先にあるものにすべきだという気がします。現実の問題に関しては、「旅行業法」などの「現実対応法」で問題解決をはかりながら、それに睨みをきかし試行錯誤や議論を促すものとして「憲法」が存在するのではないかと思います。特に日本は、西欧諸国の人々にとっての「聖書」に該当するものがありませんから。