子供のことより、大人はどうあるべきかを問い直すことが先決

 通信教育大手ベネッセコーポレーションの2000万件を超える顧客情報流出の事件を通して、この国の歪んだ姿がはっきりと浮かび上がった。

 子供の住所その他のデータを獲得すれば、幼年期から大学進学まで、子供の成長に合わせて様々な教育支援ソフトその他の販売に利用できるらしく、その分野で圧倒的な力を誇るベネッセコーポレーションの顧客名簿は、同業他社の羨望の的らしい。

 少子化によって市場規模が縮小してきているので 、ベネッセ自身も、その名簿を使い、異なる事業部の複数の社員が一人の顧客に対して営業攻勢をかけているらしいが、競合企業(今回、表面化したのはジャストシステム)は、高いお金を支払ってでも名簿を手にいれようとし、そこにつけ込んで金儲けをしようとする人間が、社内もしくは関連業者の中に潜んでいる。
 教育産業に限らず、昨今の様々な企業活動は子供をターゲットにしたものが多い。
 この国の多くの大人は、子供達の未来のことを真剣に考えることはなく、子供達を蝕んでしまうことを承知で、子供達を金儲けの手段として見ているようだ。
 大人は、社会の僕のように、社会的通念に対しては忠実に生きている者が多い。だから、社会的通念が何ものかによって操作されると、簡単に誘導されてしまう。幼児教育や、進学支援などの企業のビジネス上の仕掛けに対して、他の家の子供達がそうだからという理由で、苦しい家計をやりとりして支出をする。
 またゲームメーカーなどが次々と送り出す高価なコンピューターゲームなども、他の子供がみんな持っているからという理由で安易に買い与える。
 親が子供に対して、どのように育って欲しいかという個別のビジョンは、あまり持っていないようだ。だから社会の未来に対しても、どうあるべきか具体的なイメージを抱いていない。平和で安全・安心で、そこそこ娯楽を楽しむことができて生活に困らないこと。国に対する希望も、子供の将来に対する望みも、似たような傾向を帯びているが、それが自分の頭で考えたものか、テレビドラマやニュースやコマーシャルに刷り込まれたものなのか判別がつかなくなっている。政治家の選挙演説も、同様のフレーズが繰り返されるが、みんな同じ内容なので、自分の頭で考えている言葉だとは思えない。
 一人ひとりの親や政治家が、子供や国の未来のことを自分の頭で考えてはいない。社会の現状を、自分の目を通して見てはおらず、社会に流布する言説に影響を受けて、判断基準がそちらに偏っている。日々の人間関係や仕事上の判断においても、他人は自分をどのように見ているかという視角から自分を見る癖がついている。
 ビジネスにおいても、社会の未来を真剣に考えるのではなく、顧客からどう見られるかという基準が当然の尺度となり、顧客ニーズや顧客サービスを重視した目先の”マーケティング論”に異論を挟むことは難しい。雑誌やテレビにおいても、編集会議や企画会議では、現在の視聴者は何を求めているか、現在の視聴者に面白いと言ってもらえるかということが、判断材料になる。アートと呼ばれる分野においても、海外で評価されたというだけで、もてはやされる。いずれにしろ、自分の目で見て判断したり、長期的な視点で自分の頭を通して考えるのではなく、現在という狭い枠組みの中で外からの評価付けばかりを気にしている。
 日本の国際貢献も、集団的自衛権に対する議論にしても、賛成であれ反対であれ、海外からどう見られるかという言い方を、さも当然の顔をして語る有識者は多い。
 集団的自衛権の行使容認の閣議決定の件にしても、「急いで閣議決定した結果、説明が十分でなかった。分からなければ賛成も反対もできない。だから、政府には分かりやすい説明を求める」というインターネットジャーナリストの正論が、安易に支持される。現代の日本社会に蔓延している”価値観”で計れば、これらの考え方は、”無難に正しい考え方”であり、だから多くの人の支持を得ることになる。
 しかしながら、何か根本的なところで間違っているのではないかという違和感を、私は、拭いさることができない。
 集団的自衛権の問題は、この1ヶ月の間に大騒ぎになっているが、だからといって、この1ヶ月に発生した問題だということではない。大騒ぎになっている話題にしか反応しない人が多いだけのことで、その中の”有名人”が、「理解できない」から、「詳しい説明をしろ」と主張して、多くの人の”同意”を得ている。

 1993年に小沢一郎が、「日本改造計画」を出版しているが、その中で彼は、「日本は、戦後の過度のアメリカ依存の構造を改めなければならない。アメリカの属国ではなく、自分の足で立つ普通の国にならなければならない。だから、アメリカに従属した形で自国の防衛をアメリカに委ねるのではなく、集団的自衛を明確にしてアメリカに積極的に協力すべきである。また、アメリカからの要請に従って、規制緩和や市場競争化を行なうのではなく、要請がある前に積極的に規制緩和、市場競争化に取り組むべきである」といった内容のことを書いている。「日本が自立した国になる為に」と言いながら、その”自立”とは、アメリカに言われてからやるのではなく、言われる前にやるという程度の意味でしかない。

 20年も前に、今の安倍政権が言っていることと、ほとんど同じことを主張しているのだ。こういうのを見ると、小沢氏や安倍氏が、本当に自分自身で考えた言葉なのかと思わざるを得ない。けっきょくどちらも、官僚の言葉(一人の官僚ではなく官僚全体の総意のようなもの)であり、官僚がそれを推し進めるうえで、今の安倍政権が非常に都合の良い状態になっただけではないかと、天の邪鬼な私は思ってしまう。そして、この”都合の良さ”は、今後さらに加速するだろう。なぜならば、「理解できない」から「詳しい説明をしろ」という”正論”が次第に強くなってきているので、理解しやすいもの、説明しやすいものだけを選び取って示すことで人を動かすことが、より簡単になっているからだ。具体的には、「経済優先」、「国際貢献」、「グローバル化の流れの中で」、「国民の生活を守る」、「国民の安全を守る」といったわかりやすいキャッチフレーズが、今後益々大きな力を持つことになるだろう。

 そして、その効果をあげるために、”不安”が使われる。子供をターゲットにしたビジネスにしても、他の子供達に差がつけられないようにとか、英語ができなければいい会社に就職できないとか、わかりやすい論法で、巧みに不安心理を煽ることが常套手段になっているが、政治もまた同じだ。
 不安心理につけ込まれやすいのは、けっきょくのところ、日頃から自分の頭で考える癖をつけていないからであり、なのに、「理解できないから、わかりやすく説明しろ」と言っているようでは負のスパイラルに陥るだけだ。
 先日も、公開のトークショーに参加したが、その時、過疎化の進む地方をどう活性化するのかという話題になった時に、「主人公が木村拓哉で、都会から地方に移住するカッコいいライフスタイルというテレビドラマでも作ればいいのではないか」という意見があり、頷く人が多かった。
 根深い問題は、わかりやすく手っ取り早い方法が問題をより複雑化させ、問題解決を遠ざけるということを、よく理解できていない日本人が非常に多い。
 地方に移住するということは、新たな環境で新たな生活を創造するということであり、その為には、自分の頭で将来の方向性(具体的な形である必要はない)を思い描き、新しく遭遇する一つ一つの情報を取捨選択しながら自分の道を作っていく力が求められる。

 そのことがわかっていないと、いとも簡単に、「現実は甘くなかった」などと、分け知った顔で言うことになるだろう。

 他人の基準でよいとされること(世の中のブーム)に安易に従う体質を変えないかぎり、自分が直面する問題に、自分で対処できない。そして、少しの不安に耐えられなくなる。人気タレントを使って人を引き寄せるという発想は、自分が直面している問題に自分で対処できず、困難があればすぐに逃げ出す可能性の高い人を多く集めようとする発想であり、それが地方の活性化につながるとはとても思えない。

 どんな場合も、”現実が甘いかどうか”ではなく、”自分が甘いかどうか”であり、”自分の考え方と、やり方次第”だと思えるかどうかが肝だ。

 実際には、自分がどういうやり方をしようとも通用しない現実というものがあるかもしれないが、”自分の考え方次第、やり方次第”という心の備えができているかどうかで、人生はかなり左右される。運命に対して自分がコミットできる可能性が、僅か数パーセントでもあると信じる力が、社会に蔓延するニヒリズムを超える力になるからだ。
 だから、親は、子供に対する時、「何事もきみの考え方次第、やり方次第で変わる」ということを、きちんと伝える必要があるし、身を持って示す努力をしないといけない。しかし、多くの親は、逆のことをする。「周りの傾向に合わさなければ、仲間はずれになるぞ、人生は失敗するぞ」と子供に言い、自分自身も世間体ばかりを気にして、人からどう思われ評価されるかが、自分の価値判断と行動指針になってしまう。
 今朝の京都新聞に哲学者の鷲田清一さんが、「哲学の使い方」という文章を寄稿していた。自分達があたりまえのこととしてこれまで不問にしてきた前提を、改めてほぐし、問い直していくことを推奨する内容だ。
 たとえば、「ママ友」というテーマでも、ママ友という付き合い方があるという前提で、その現実に対して深く考えることなく自分を合わせている人が多いが、実際には、多くの人がどこかで違和感や悩みを感じていたりする。そこで、いろいろ悩みや違和感を持っている人達が自分の考えを打ち明けているうちに、「友達って何?」 「ママ友って友達なのか?という問いが立ってきて、自分達の悩みの元になっている考えや判断に探りを入れ出す・・・。
 哲学することは、知っている(と思い込んでいる)ことを改めて問い直す作業だと鷲田さんは書く。
 ヨーロッパでは、”哲学”は中等教育の主要科目であり、フランスでは、文系の生徒で週に8時間、理系を目指す生徒でも週に3時間の履修が課せられているそうだ。
 なんでもかんでもヨーロッパを見習う必要はないが、ヨーロッパの教育制度を積極的に取り入れてきた日本の学校教育において、ヨーロッパが大事にしている”哲学”を外すことは、大きな支障になるのではないか。ヨーロッパ人がつくりあげた、知識を重んじて知識の体系を世界観や人生観に反映させていく教育においては、知識情報をきちんと吟味していく思考の根が重要であり、そこを鍛えないと知識情報に翻弄されてしまい、知識によって豊かにしようとする世界や人生が逆に貧しくなってしまう。ヨーロッパ人は、そうなってはいけないという生理感覚を共有しているからこそ”哲学”を大事にしている。だからこそ、ヨーロッパでは、色々なことを知っていること以上に、自分はどういう考えを持っているかが肝心で、人に対する信頼も、そこに基礎が置かれるのだ。
 日本の大人が、そういう本質的なことを理解したうえで欧米型の教育制度をとりいれているかどうか疑わしい。欧米にどう見られるかを気にして、欧米にバカにされないように、欧米型の教育に追随しているだけなら情けない。昨今、海外通とみなされる人が、グローバルな人材づくりとか、世界に通用する大学づくりなどと言っているのは、けっきょく、外からの評価ばかりを気にする体質の延長にすぎない。外からの評価ばかりを気にする人達のなかで上手に結果を出した人達が、現在の日本の様々な制度の中枢にいるから、ますますその方向に添った制度が作られて行くという悪循環に陥っている。

 昨今では、学校だけでなく、企業においても、欧米の有名企業が行なっている教育システムや、社内制度を、”最先端”だと吹聴し、見習うべきだと主張する”事情通”の露出が増えている。そういう人達の言説を聞いていると、なんだか底が浅いなあ、10年後には何と言っているのかなあ思ってしまう。

 鶏が先か卵が先かわからないが、子供向けのビジネスで成功している会社が集めた顧客データを盗めば、自分のところもその分野のビジネスでうまくいくと発想する企業が多く現れ、そして実際に、そういう顧客名簿さえ手に入れば、ある程度はうまくいってしまうという社会の、その場凌ぎを繰り返しながら問題を先送りしていく構造は、”最先端”を紹介する事情通の人気や、事情通をもてはやすメディアの構造とつながっている。

 ママ友のグループに入らないと子供も仲間はずれにされるかもしれないという心配によって、ママ友グループが権威化され、そこに所属する母親が増えることで、ママ友グループの権威は、実態化する。
 Aが最先端だと誰かが吹聴して、話題の欲しいメディアに取り上げられ多くの人が迎合する流れができると、Aの露出がますます増えて、Aが最先端だという合意みたいなものが形成され、Aを知っているかどうかが、時代に遅れていないかどうかの基準になる。
 そもそも、自分はどう思うのか? と、一人ひとりの大人が、様々な問題を問い直していかないかぎり、いつまでも子供は、無責任な大人が作り出す流行や、悪習や、莫大な国の借金や、原発放射性物質を押し付けられる犠牲者となり、ビジネスの食い物にされる。
 そもそも、大人の責任って何?
 現代社会の大人とされる我々の言動は、果たして大人と言えるものなのか?
 周りからどう思われるか、子供達からどう見られるかなど、外からの目はいったん横に置いて、自分の頭で、自分の言葉で、大人はどういう存在であり、どうあるべきなのか?と哲学していくことが、今の日本社会にもっとも必要なことだ。

 大人が、他人の基準でよいとされることに安易に従うという体質を変えないかぎり、子供に対して、自信を持って接することはできない。

 自分の哲学を持ち、自分の倫理観を育み、自分自身の判断基準を持つ。それは、大人自身の自立ということであり、子供をどう育てるかという議論に先んじて取り組むべき重要な課題だと思う。

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