写真と人間

 連休中、恵比寿の写真美術館で「写真はものの見方をどのように変えてきたか」の第一部「誕生」を見た。今から150年前、人類が写真技術を発明した頃のプリント写真を見ることが出来るのが、はじめて実物を見て、大変驚いた。というのは、写真表現としてのクオリティの高さは、既にその当時、今と変わらないレベルに達しているからだ。
  昔は、フィルムからプリントに引き延ばす技術がなかったものだから、大きなプリント写真を作ろうと思えば、それと同じサイズのフィルムを作る必要があった。フィルムの原理は、今も昔も変わらないわけだから、フィルムが大きいだけ、描写力が素晴らしくなる。しかも、フィルムに写り込む範囲が広くなるし、感度が低いために長時間露光を行っている為、被写体深度も深い。
 ただ、フィルムサイズが大きくなるということは、カメラも巨大になる。カメラやフィルムや関連器具を運ぶだけで大変な労力だ。そこまでして撮影行為を行うということで、撮る人も相当テンションが高くなっている。作品に気合いが入っているのだ。
 そして、写真の発明当時は、そこにものが写っているだけで人間は満足していたのだが、発明から30年も経つと、そこに何がどのように写っているかということが問われるようになっている。つまり、写真は、記録ではなく作品表現になっており、しかも、既にかなりのレベルの高さを実現しているのだ。
 そう考えると、後の100年の歴史はいったい何だろうということになる。
 はっきり言って、質的に進化しているとは思えない。この100年間は、大衆化の時代であり、昔なら一握りの者にしか扱えなかった巨大で操作の難しかったカメラが、誰でも扱える物になった。撮影の為に相当な気合いを入れる必要があったものが、お気軽にできるようになった。あと、撮影現場で、フィルムを一枚一枚手作りしていたのが工業製品になったことで、簡単に早く撮影できるようになった。質的な変化ではなく、小型軽量化とスピードアップなのだ。そして、取り扱いが便利になったゆえに、表現内容にエネルギーを傾けることができるようになったのだが、そのことは、質の向上ではなく、表現の種類の増大につながった。そして表現活動の価値は、鮮度が問われ、人がやったことのない種類の表現をするということが競われるようになったのだ。
 考えてみれば、たとえばペルセポリスやエジプトに行ってもそうだが、よくもあんな昔に人間はあれだけのものを作ったものだ、永遠の謎だ、などと言われるが、そうではなく、人類は、写真技術と同じように、ものごとの原理に気づいた時、とても早い段階に、高いレベルで物事を具現化してしまう力を備えているのだろう。石器時代に描かれたラスコーの壁画にしたって、今の絵画表現があれを超えているかどうか。ミロのヴィーナスにしても、モナリザにしてもそう。中世のゴシック建築にしてもそうだ。人類は、現代の人間が考えている以上に早い段階で高い水準の知恵を獲得している。階段を少しずつ上るように進化しているのではなく、初期段階で質的に最高レベルに達し、その後は、スピードとか利便性とか種類の豊富さにおける発展となっている。ただ問題なのは、誰にでもできるということで、その分、技術力や精神力が伴わない状態で物づくりをすることが許されてしまい、全体のレベルは低下しているかもしれない。もちろん、この点について、優劣ではなく、誰でも平等にできるようになること自体が、進化の証という考えもある。
 このあたりは、理屈ではなく、メンタルな部分でどう感じるかの問題だろう。
 ただ、私は、写真美術館で150年前の写真を見てググッとくるものを感じた後、1Fのブックストアで多種多彩な今風の写真集を見たが、表層の差別化が、とても空疎なものに思われてしかたがなかった。“自分らしさの追究”の大合唱のなかで、一見、多種多様さを装っているが、実際は、「自分のことだけに興味がある」という一色に染まっているように感じたのだ。