未来から見る現在?

 昨日、京都で行われた白川静先生の第24回「文字講話」に行く。今回が最終回。2時間半立ちっぱなしで講演した後、最後ということで、花束贈呈とか、聴衆代表の挨拶とか、セレモニーが続く。その間、周りの者が椅子を用意し、お座りになることを勧めるが、それを拒み、挨拶の言葉を話し続ける人の方を向き、立ち続ける。背筋を伸ばして生き続けて、深遠な知の境地に至っていながら、モノゴトに向き合う際の初心者のような腰の低さに深く感銘を受ける。
 
「現在をただ生きるだけでなく、未来から現在を見る時に美しいと感じられる現在を生きていると言えるか否か。」

 白川先生は、そのような話で締めくくられた。
 しかし”美しさ”というものをどう捉えるかという問題は残る。”美”は、それぞれの価値観だということになれば、テロリズムも、そこに含まれてしまうし、実際に、テロリストはそう思っているだろう。
 7月6日からの先進国首脳会議の前に、ロンドンや東京の幕張で、大金持ちの有名アーティストが中心になって、派手なコンサートが開かれた。その趣旨は、先進国首脳会議が始まる前に、より多くの人に「アフリカの貧困を知ってもらう」ということだ。また、同じ時期に、ビルゲイツがスポンサーになって、「貧しい国をほっとけない」キャンペーンが、全国紙の一面広告を通じて発表された。
 こういう場合、スポンサーのクレジットを入れているということは、朝日新聞など新聞社がしっかりと広告代を受け取っているということだろう。広告会社が仕掛けて、NGOを束ねてビルゲイツに交渉してお金を引き出して、新聞広告を打つ。「7月6日、8人にゆだねられる800万の命」というキャッチコピーと、ビルゲイツが資金面でサポートしているというクレジットとともに。それぞれのニーズを満たすように考えられた仕掛けということだろうか。しかし、残念ながら、その誌面のどこを見ても、ビジョンは示されていない。本当に大事なことなら、広告でやる必要はないと思うが・・・。
 今回のG8では、アフリカ問題が議論されることになっていた。アフリカは確かに貧しい。しかし、貧しいのはアフリカだけではない。それでもアフリカに焦点が当たったのは、欧米にはアフリカ系の移民が多く、選挙にも影響があるという各国の政治的配慮だろう。
 しかし、同じアフリカのなかでも、スーダンダルフール地方で行われている政府軍と政府軍に後押しされているイスラム民兵の黒人キリスト教徒に対する虐殺は、この国の石油の約半分を輸入している中国が国連の常任理事国としてスーダンの現体制を強引にかばうことや、資源をめぐる大国の駆け引きのために、見て見ぬ振りをされている。
 アフリカの貧困を知ってもらいたいと熱狂的にライブを行った有名アーチストは、イベントの後、「今日は最高の日だった。とても気持ちよかった」と正直にインタビューに答えていた。
 大歓声のなか、歌を歌い、汗をかけば、それは気持ちのよいことだろう。しかし、アフリカの支援を訴えるイベントで、出演者が気持ちよくなって達成感を得ても、何にもならないのではないか。
 また、400円か500円のホワイトバンドを腕にまきさえすれば、世界の貧困に対する問題意識をアピールすることにつながるとして、有名アーティストやスポーツ選手を広告塔のように使い、宣伝している。この収益金が実際にどのように使われるかは、誰も知らない。寄付で集めたお金は、その一部が実際に寄付で使われさえすれば、それでいいことになっている。9.11のテロの後、アフガニスタン難民の支援目的という名目で、パキスタンまでビジネスクラスかファーストクラスの飛行機で行って、アフガニスタンには入らず、安全上の理由といってパキスタン国内の5つ星の高級ホテルに宿泊していたボランティア団体の代表のことは、記憶に新しい。もちろん、全てがそうだというのではない。そういう人のために、真面目に仕事をしている人が迷惑しているということもあるだろう。
 しかし、今回のイベントにしてもそうだが、イベント性を高めることで大人数にアピールできるという大義名分によって、モノゴトが簡略化され、表面的に扱われ、その他の数多くの情報や娯楽のようにワイドショーで話題となって消費され、参加した人々も熱狂的な余韻が奇妙な達成感になってそれなりに満足して、やがて次の関心事に浮遊しながら移っていくという構造に取り込まれてしまう。
 もしかしたら、そういう風潮は、世界の貧困をテーマにしながら、「倫理」の現場にも侵攻する消費心理と刹那的快楽主義と、それを利用して増長する今日の経済構造の反映にすぎないかもしれないのだ。
 経済活動は、消費者心理=国民心理のうえに成り立っている。資本主義社会においては、利己主義や快楽主義は、疑いようもなく推進力になっている。この社会では、「好きだから、気持ちがいいから、」という理由に基づく行動を否定し得ない。そうした感情と行動を否定することは、個人の自由や尊厳を否定することであり、それを行い得るのは隠然たる社会の圧力であり、ファシズムということになる。そして、突き詰めてゆくと、ファシズムと、現在の利己的快楽主義のどちらがいいか、という議論になる。そういうロジックによって、消費者の側に立ってそのニーズに応えることで存在感を発揮している文化人や知識人は、今日の傾向を神妙な顔で批評することはあっても、基本的に、利己的快楽主義を擁護する言論に流れやすい。すなわち、私たち資本主義先進諸国の既得権益になっている「自由」は守らなければならないということだ。

 それに対して、資本主義の恩恵を十分に受けていない地域の場合は、「好きだから、気持ちがいいから」という動機は、生きて生活していく理由にならない。個人的な欲求や利益を追求していくシステムも生活空間も限られているのだから、そこにいる人々が、生きていく目的として、社会や共同体のために進んで義務を負おうとすることは、私たち資本主義社会にどっぷり浸かっている人間が考えているよりも自然なことではないだろうか。
 彼らは、知識に毒されていない分、知識としてそうすべきだと考えるのではなく、肌感覚として、納得感を伴ってそう感じるだろう。そうした人に対して、その共同体のリーダーが、社会や共同体のために進んで自爆テロを行うことの崇高さを説き、実行する人を聖なる戦士として美化すれば、それに感化される人は増え続けるだろう。そして、それを力づくで押さえれば押されるほど、テロの大義名分は強くなる。(続く)