自分のやりたいこと?(続き)

 そもそも、「自分のやりたいこと」とか、「自分のレール」を最初からイメージできる人って、ごく稀にいるのかもしれないけれど、ほとんどいないと思う。

 誰にとっても修業期間というか潜伏期間があるのだけれど、その期間にいったい何をするべきなのかと悩むことが多い。「やりたいことがわからない」と言う状態は、きっと、そういう時期なのだろう。

 「やりたいことがわからない」と思っているのは、自分では自分の全てがそう思っていると錯覚をしているけれど、実は、それは大脳新皮質の自己認識の領域にすぎない。

 ヒトの脳は大脳新皮質だけで成り立っているのではなく、情緒などを司る旧皮質も重大な役割を果たしている。

 しかし、新皮質で現在進行している状態を、新皮質は言語化できるが、旧皮質で現在進行している状態を新皮質で言語化することは難しい。旧皮質のことは旧皮質に聞かなければわからないのだが、旧皮質は言語活動を行っていないから、「言うに言われぬ気分」という形でしか認識できない。

 旧皮質のことは、現在進行形では言語化できないけれど、その結果を見て、「あれはこういうことだったのか」というように、後になれば言語化できることがある。

 「言うに言われぬ気分」の時は、言語化できないということで無きに等しいものとして扱われがちだが、後になって「あれはこういうことだったのか」と言語化できるのだから、「無」ではなく確かに存在していたということだ。

 昔の人は、そういうことがよくわかっていたのではないかと思う。

 大脳新皮質で意識化できず言語化できないからといって「無」ではない。言うに言われぬ感覚があるかぎり、それは「在」である。だから、その「言うに言われぬ感覚」に敏感であろうと努める。そして、後になって「あれはこういうことだったのか」と言語化できたものを、共同体の共有の知恵として蓄えていく。しかし、その知恵を共有する方法が大脳新皮質に媚びるようなやり方(論理とか証明とか)になってしまうと、大脳新皮質に寄りかかってモノゴトを見たり判断する癖がついて、現代社会のように「言うに言われぬ気分」を無きに等しいものとして扱う風潮が共同体に広がってしまって危険だ。だから、(論理とか証明)といった方法ではなく、歌とか伝承とか、「言うに言われぬ気分」を濃密にパックした状態で、知恵を伝えていこうとしたのではないか。

 

 大脳新皮質は、現在進行形の分析を得意分野としているみたいで、「明確」さを好むようだ。現在から繋がっていく未来を「予測可能」にしたがる。今やっていることが、未来の何に繋がるか、それがはっきりしないと不安で不満になる。

 「こんなことやって、いったい何になるのだ」とか、「何をやればいいのか、わかんねえ」と不満が露わになる状態というのは、大脳新皮質の働きが優位になっているのだろう。

 そういう状態の時に、「過程」と「結果」をダイレクトに結ぶようなハウツーものがあったりすると、そこに明確な答えがあるように錯覚して、すぐに飛びついてしまう。大脳新皮質優位の社会において、ハウツーものは流行る。そしてハウツーものを読めば読むほど、大脳新皮質に寄りかかってモノゴトと付き合うようになってしまう。

 もちろん、勘がいい人(旧皮質の働きのいい人)は、ハウツーもののくだらなさを察して、そのなものに見向きもしないだろう。

 そういう人の一部は、現在の「言葉」(大脳新皮質の産物)にほとんど期待していない。彼らは、音楽を愛好している。音楽によって、「言うに言われぬ気分」のなかに確かに在るものを満たしている。それは昔の人が、大脳新皮質に寄りかからない方法で、知恵を共有したことと類似しているかもしれない。

 現代のインテリの多くは、大脳新皮質に寄りかかってモノゴトを考えるので、昔の人の伝承の知恵などを、論理性や整合性や実証生が無いということで、劣ったものとみなす。もしくは、尊重するという言い方で分析の対象とし、学問の進化(と勘違いしている)の一つのプロセスとして処理したがる。

 「風の旅人」Vol.16で紹介した故保苅実さんの著書「ラディカル・オーラル・ヒストリー」は、そのことを鋭く看破したものだった。

 最近、私の会社でもそうだが、職場などで長続きしない人が増えている。また、「やりたいことがわかんねえ」と働かない人も増えている。昔と比べて社会が豊かになって、仕事がなくても食っていけることも、その一因だろう。さらに、貧しい時には無我夢中で働くしかなかったから、大脳新皮質が、意味とか理由とかを問う暇がなかった。「食っていくにはしかたがない」と感じる旧皮質に従って、一生懸命に働いていた。

 やることがわからなくても、自分が敷くべきレールがわからなくても、言うに言われぬ気分のまま頑張っているうちに、いろいろな経験が蓄積していき、ある日、その結果を顧みて、大脳新皮質が、「なんだそういうことだったのか」と気づく瞬間が訪れる。でもそれは、その瞬間が訪れてみないとわからない感覚なのだ。

 訪れてみないとわからない感覚がいつか自分に訪れると信じたくても、最短距離や保証や確証など、「わかりやすさ」を狡っ辛く求める大脳新皮質が、それを邪魔する。

 性急に「意味わかんねえ」と毒づく状態は、脳が働いていないのではなく、大脳新皮質の回路が、狭く閉じてしまっている状態なのではないかと思う。

 大脳新皮質の回路が狭く閉じると、世の中のモノゴトが自分の手によって人工的に左右できなければ気がすまなくなる。その状態で、粘り強い力を発揮できる人は、用意周到なシュミレーションを行い、少しずつその守備範囲を広げていくが、粘り強い人もそうでない人も、自分のシュミレーションの範囲内で作りあげた諸々の「現実」に囲まれていないと不安になることに変わりがないのではないか。

 「モノゴトを人の手によって人工的に左右できるという発想」は、自然がつくり出した人間の大脳新皮質の働きだから、それもまた自然の一部であって、決して反自然なことだとは思わない。しかし、大事なことは、大脳新皮質の働きは、あくまでも自然の一部であって、全体ではないということ。大脳新皮質は新しく自然に付け加えられた機能にすぎず、森羅万象の多くは、どちらかというと人間の旧皮質(言うに言われぬ領域)と親和性が高いのだ。

 大脳新皮質が認識する「一部」を「全体」だと想定してしまう。この思考特性は現代社会の至る所に潜んでいる。その思考特性があるからこそ、実験やシュミレーション結果をダイレクトに全体とリンクさせ、技術はハイテク化できる。そして、そういう社会体制をより尖鋭化するため、大脳新皮質の働きが尊ばれ、教育とか躾などを通して、社会の様々な価値観を規定していく。

 社会がそうなっていけばいくほど、「自分のやりたいこと」とか明確な筋書きが見えないと、動けない人も増えてしまう。しかし、とにもかくにも、その宙ぶらりんのなかで足掻き続けると、大脳の旧皮質(言うに言われぬ領域)が刺激されて鍛えられる。<不吉な予感>を司る領域が自分のなかで健全に働いているかぎり、短絡的で美味しそうな話に簡単に騙されることは少ない。

 しかし、その足掻きが無くなってしまい、旧皮質の働きが衰え、そこで司られることが、食の不安や恐怖といった生存のために最低限に必要なことだけになっていくと、大脳新皮質が好む「わかりやすいロジック」と簡単に結びついてしまうこともある。

 後になってから、「あの時代は異常だった。政府に騙されていた」などと振り返る時は、だいたいそういうものではないか。別の時代に生きている人間にとって「あり得ないこと」は脳の働き加減によって、いとも簡単に起こりうるのではないか。

「自分のやりたいことがわからない」と不満の時は、自分のやりたいことが本当にないからそう思うのではなく、大脳新皮質の働きが旧皮質に比べて優位になりすぎているだけなのだ。朝を起きて陽を浴びている時に、自分の深いところからふつふつと湧いてくる気持ちがありさえすれば、その時点で「自分のやりたいこと」が無いようだけど既に何か在る状態なのだ。

 特に意識していなくても、朝起きて、食事をして、会社に行こうとする。「何のために」と考えた瞬間に濁ってしまうが、考える前に行動しようとしていることは、自分の深いところが、きっとそれを欲しているのだ。その欲するものは、「そうすることのメリット」などといった大脳新皮質が考えそうなことではない。おそらく、そうした方が、ある種の気持ちよさを得られることを旧皮質が知っているのだ。その気持ち良さに従って、大脳新皮質に支配されていない「場」(自然の中など)で働くことができれば、おそらく、気持ちよさは損なわれないだろう。しかし残念なことに、現在社会のほとんどの職場が、大脳新皮質の完全優位な状態になってしまっている。

 そして、そこで頑張れる人は、大脳新皮質の働きが極端に優位な人で、大脳新皮質が考えるメリットを享受しようと虎視眈々と考える人だ。しかし、それだけではない。旧皮質が優位に働く人でも、大脳新皮質が優位な環境で足掻くことによって、自分を強く鍛えることができると予感する人もいる。自分を強く鍛えなければ生物として環境を生き抜いていけないという信号は、おそらく旧皮質から発せられている。

 現在と未来をどのようにダイレクトに繋げるかという小賢しいシュミレーションよりも、未来がどうなっても生き抜ける自分づくりこそ生物が生存するための最高の知恵だと知っているのは、大脳新皮質ではなく、きっと旧皮質なのだ。それは、深いところで生命力とつながっているのだと思う。

 と、ここまで考えて、生命力を鍛えるためには、子供を、「自分の思うようにならない環境」に晒して、それに対する耐性をつけさせることが一番大事なのだと改めて認識した。「自分の思うようになる環境」というのは、大脳新皮質を喜ばせる環境にすぎず、それはヒトの全体を満たすものにならない。

 そして、「自分の思うようにならない環境」というのは、けっきょく「自然」なのだが、周りに自然が少なくなっても、それに類した環境を見出すことはできるだろう。