今日の写真文化について

 

 本日より新宿三井ビルにあるエプソンのギャラリー EPSITEで、野町和嘉さんの写真展が開催される。→http://epsite.epson.co.jp/

 風の旅人の13号でも紹介したアンデスの写真だ。

http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/13/image2.html

 昨年、イタリアで制作された野町さんの写真集 「地球巡礼」は、野町さんの写真活動の集大成と言えるもので、世界各国合わせて10万部以上の注文があったが、母国の日本では僅か数千部しか書店に並ばなかった。

 野町さんの写真の凄みというのは、見るだけで一目瞭然で、よけいな解説は必要ない。言及するとすれば、なにゆえにこのような写真が、他国に比べて日本人にあまり受け入れられないかということだろう。

 野町さんと話しをすると、よくこの話しになるが、野町さん自身は、日本の生活環境などにも問題があって、時間的にも空間的にもゆっくりと写真集を見て写真と向き合う余裕もないし、訓練もできていないからではないかと言う。

 そういうこともあるかもしれないが、私が思うに、日本では、当たり障りのないものの方が受け入れられ、野町さんの写真のように迫力のあるものは、敬遠されがちである。迫力があるというのはどういうことかというと、見る者の価値観に揺さぶりをかけてくるものだ。自分の価値観に揺さぶりをかけてくるものと真摯に向き合うことはエネルギーがいる。現在の日本人は、日常を生きていくことに精一杯で、それだけのエネルギーが残っていないか、自分の価値観に揺さぶりをかけられることを迷惑だと感じているのではないだろうか。

 だから、自分の価値観にあまり影響のない癒しとかを求める。もしくは、価値観はそのままで、その価値観を補強するような知識や情報のようなものは求める。写真も、そのニーズに応えて、癒し系や説明的なものが増える。もちろん、それだけだと退屈になるから刺激も求めるが、その刺激は、ハリウッド映画のように他人事のように付き合えることが前提であり、強く自分ごととして引き受けようとするものではない。見た翌朝にはすっかりと忘れ去ってしまえるものだ。

 ならば欧米人が日本人よりも自分の価値観が揺さぶられることに対して度量があるのかと言えば、私はそうは思わない。

 彼らの自我はとても強く頑なだから、少々のことで価値観が揺さぶられることがないだけだ。野町さんの写真を見ても、冷静に素晴らしい作品として鑑賞し、知的エッセンスとして話の種にできてしまう。野町さんの作品を見たからといって、自分の人生にあまり影響を受けないだろう。

 それに比べて日本人の自我はそこまで強くない。だから、自分の価値観が揺さぶられることが恐いのだ。自我が弱いからといって悪いのではなく、潜在的に柔軟性があるということだとも考えられる。

 でも本当に大事なことは、その柔軟性を維持しながら魂に負荷を与えて、生きていくうえでの抵抗力をつけていくことではないかと思う。

 芸術作品というのは、本来、そのように魂に負荷を与えるものだと思う。綺麗なだけで毒にも薬にもならないものは、芸術ではなく装飾なのだ。装飾は自分を飾るものであり、自分の価値観に問いかけるものではない。

 ふだん生活の周りに置くものは、安心とリラックスを与える装飾で構わないだろう。

 しかし、そうしたものばかりに触れていると、生きていくうえでの抵抗力が低下する。だから、時々、扱いをまちがえば毒になるが、薬になる可能性もある芸術と向き合う必要がある。

 野町さんの写真は、そういうものだと思う。

 ベラスケスやレンブラントの絵を見て「恐い」と言って逃げた私の幼い子供は、野町さんの写真を見ても同様に、「恐い」と言って目を背けた。

 芸術というのは、子供のように無防備の魂にとって、恐い力を持っているものなのだと思う。

 そういう恐い力を持ったものが、今日の商業主義的な考えのなかで、廃れていく。ベラスケスやレンブラントが支持されるのは、恐い力を持っているゆえのことではなく、単に有名だからだ。投資目的や、人に自慢するためにあの絵を所有したいと思う人がいても、あの絵を自宅に置いて、時々向き合いたいという人は稀だろう。

 恐いものと向き合うことは、今すぐに役立たないけれど、後でジワジワと利いてくる。そういうものがなくなってしまうと、この瞬間を表層的に生きればいいという文化になってしまうし、実際にそうなりつつある。

 そうなって本当に構わないのか。人間というのは、他の動物と違って、未来というものを、考えたくなくても考えてしまう生き物であり、その未来に向かって次第にものごとが味気なく手応えもなく無味乾燥になっていくことをイメージすることほど、辛いものはないだろう。特に、これからの人生が長い若者にとって、味気ない未来しか選択できないと知ることは地獄のようなものだ。

 今この瞬間の慰めではなく、根元にたち返って未来に一歩を踏み出す。そういう作品を発見し、大事にしていかなければ、日本の写真文化の未来はないと思う。