写真家の野町和嘉さんが、紫綬褒章を受章されました。
おめでとうございます。
俳優の松坂慶子さん、写真家の野町和嘉さんら23人が・・と、きちんと名前が出ていました。
野町さんの写真展は、5/17まで恵比寿の写真美術館で開催されています。
http://www.syabi.com/details/nomachi.html
昨年の10月に、高知県立美術館で行われた展覧会の写真を、さらに広大なスペースのなかで、見応えあるものに再構成されています。どれだけ大きなスペースでも、写真の迫力が損なわれないのが野町写真の凄さです。
高知県立美術館の展覧会の時に、私と野町さんでトークを行いました。こちらにアップされています。
http://www.nomachi.com/wordpress/?p=88
また、今回の展覧会図録で、稚拙な「野町和嘉論」を書かせていただきました。
さらに、野町さんの新しい写真集「ペルシア」も平凡社から発行されています。
この写真集は、野町さんの写真集にしては、穏やかな人々が多く写っています。チベットにしろ、ナイルにしろ、極限下での人間の営みを追い続けてきた野町さんですが、イランでの視点はちょっと違います。
「イラン」という国はニュース報道で、きな臭いイメージで伝えられることが多いですが、実際はまったく異なり、平和で穏やかな空気が満ちています。人々の表情も生き生きて豊かです。アメリカと対立しているがゆえに、日本のメディアもイランを悪玉のように扱うのですが、イランの実態を野町さんの写真を通じて見ていただきたいですね。
野町さんの写真に関しては、このブログで何度も書いてきたので、今さらという感じですが、「風の旅人」の創刊は、野町さんと出会い、野町さんから圧力を受けなかったら実現しなかったことでした。
6年半前の10月、雑誌編集の経験がない私に対して、野町さんは、日本の雑誌界のことをさんざん嘆いた後、「雑誌をつくれよ」と言ったのです。
そもそものきっかけは、日野啓三さんでした。日野さんの「どこでもないどこか」と「砂丘が動くように」の単行本の装丁に野町さんの写真が使われていました。
私の恩師でもある日野さんの遺著になった「ユーラシアの風景」を出版素人の私が日野さんへの個人的な思い入れだけで作ってしまい、それを持って野町さんのご自宅に行った時のことでした。
日野さんの死の直前だったように記憶しているのですが、日野さんのこととか色々話している時、野町さんが突然、「雑誌を作れよ!」と圧力をかけてきたのです(笑)。その時は、雑誌づくりなんてピンとこなかったので無視していました。しかし、それから二週間くらい経って、確か日野さんが亡くなってすぐの頃だったと思いますが、「あの件、どうなってる、進んでいる?」と野町さんが電話をかけてきました。
「いったい何のこと?」という感じで答えたら、「雑誌の件だよ、4月に出すんだったら、もう準備を進めなければならないだろ」と完全に本気モード。「まじですか?」とか言いながら、数日後に、「じゃあこんな感じで」と適当に企画書を書いて送ったら、「こんんなんじゃ、だめだよ、最低150ページくらいないと、グラビアの迫力が出ないだろ」と却下され、なんだかよくわからないうちに、グラビア誌への道が決まったのでした。
当時の私は写真界のことはまったく知らず、野町さんの部屋にズラリと並んでいる写真集を抜き出して、「この人いいですね」とか言うと、「紹介するよ」みたいな感じで決めていたような記憶があります。執筆者については、私が好きだった白川静さんとか河合雅雄さん、養老孟司さん、岩槻邦夫さん、松井孝典さん、川田順造さん、当時は知る人ぞ知る存在だった茂木健一郎さんとか、その時点で考えうる最強メンバーにダメもとでアプローチしたら、みんなにあっさりと承諾いただいて、奇跡的に出航することができた。
白川さんに手紙を書いて三日目くらいに電話した時、まさかご本人が電話口に出るとは思わなかったので、とても焦った。でも開き直って挨拶したら、白川さんは既に企画内容と手紙に目を通してくれていて「あんた、こんなの、ほんまに実現するんか、みんなやる言うとんのか?」と仰った。ダメもとだと思っていたので、「実現できないことを白川先生にお願いする筈はありません」と答えたら、「そうか、実現するんやったら、やるわ」と、その場であっさりと受けてくださった。
今思うと、奇跡としか思えないけれど、野町さんから圧力を受けてから、二ヶ月ちょっとで白川さんの承諾をいただき、それでも最初の原稿を待っている時は、ほんとうにみんな書いてくれるのかなあと心配で心配でならなかったけれど、一番最初に白川さんの原稿が届いて、その勢いのまま創刊号が形になっていった。
創刊号は今読み返すと破綻している部分もあるけれど、妙な勢いと熱がある。
「真」という文字と、「死を超える」というテーマで白川さんに書いていただき、白川さんの気迫に満ちた顔の横に、「そろそろ死にましょか」という手書き文字を大きく添えた。
今ならこんな大それたことはできないけれど、当時はバカだったからやってしまった。そのゲラを持って、京都の白川さんの家に行った。チャンチャンコ姿で迎えてくれた白川さんは、ゲラを見た瞬間、目がギラリと光ったが、次の瞬間、穏やかな表情で、軽く頷いた。
当時、白川さんは90歳を過ぎていたが、120歳くらいまで生きるんじゃないかと本気で思っていた。それほど気力に満ちあふれていた。
それでも、白川さんを相手にそういうことができてしまったのは、創刊号で掲載されている野町さんの鳥葬をはじめ、凄まじい写真とかがあってのことだ。茂木健一郎さんも、野町さんの写真に強いインパクトを受けておられた。
創刊号に、当時の自分の思いを詰め込んで、次のような言葉を書き込んだ。
「この世ならぬことどもを味わうためには、この世のことを知り尽くさねばならない。極大から極小へ、瞬間から久遠へ、虚も実もなく、私たちの住む世界のありとあらゆる枠組みをぬけて、人間のはるかなる彼岸まで生きなければならない。暗くぬらぬらと官能的で深い人間の業を熾烈に食らい、東西の思潮、文化・風俗を融通無碍に習い遊び、よろこび、かなしみをこまごまと織りなして、創っては壊し、また創っては壊し、また創っては壊し、有のなんたるかを知り、無のまことの意味を知りたい。」
創っては壊し、また創っては壊し、また創っては壊し。次で37冊目になるが、創刊の頃の気持ちを維持できているかどうか。維持できなければ、続けてもしかたがない。
38号から表紙も一新して、テーマも「彼岸と此岸」と変えて、やっていこうと決めていたけれど、なんとなく煮え切れないままだった。
創刊号で書いたように、「人間のはるかなる彼岸まで生きなければならぬ」という勢いで、気持ちを新たにしてやらねばならぬ。
野町さんの紫綬褒章の受章をきっかけに、もう一度、原点帰りをしようと心に決めた。
「おくりびと」とかについて、ぶつくさ言っているのではなく、創刊号http://www.kazetabi.com/bn/01.htmlのように、生も死も超えた鮮烈な写真や言葉と出会いたい。