「ユーラシアの風景」と「風の旅人」

 今日、アラスカに住んでいる若者が編集部に来た。彼は、「風の旅人」の読者で、アラスカでも、ずっと読んでくれているという。有り難いことだ。彼と話している時に、日野啓三さんの遺著である「ユーラシアの風景」の話しになった。

 「ユーラシアの風景」という書物は、出版に関しては全く素人の私が、日野啓三さんへの思いだけで制作したものだ。

 私は、長い間、日野さんを深く敬愛していた。若い時に日野さんの著書に出会って、人生の方向性が変わったと言えるかもしれない。

 私は、大学を中退し、二年間にわたり諸国を放浪し、日本に帰国してからも穴蔵にこもるようにアウトサーダーに徹して生きていこうと思っていた時期があった。

 日が沈んでから田町へ行き、アルバイト先の居酒屋のカウンターに入ってお客の相手をしながら、深夜まで酒を飲んだ。そして、風呂無し、トイレ共同の4畳半の北向きの部屋に帰り、太陽が昇るまで本を読んだり、音楽を聴いたりして、明け方、床に就く。そして、昼すぎに起きて、バイトが始まるまで本を読むような生活。

 社会から一歩距離を置くことで、社会のことが見えるなどと自惚れて、頑なに世捨て人のような生活をしていた。孤独なくせに、強がり、無理をしていたように思う。

 そんな時、日野さんの本に出会った。日野さんの文章を読んだ時、世界を自分に引き寄せて自分の内面世界と呼応させて外に紡ぎ出すその文体の鮮やかさと深さに思わず呻った。いろいろな文章を見てきたが、日野さんの文章は、技術的に真似できないという以前の問題として、世界と自分のあいだを、これほどまで適切に綿密な言葉で編んで繋ぐことは自分には到底できないと感服させられた。

 その当時の日野さんの小説の主人公は、アウトサイダーではなく、社会のなかで誰もが普通に行っていることを当たり前のこととして行っていた。たとえば会社などでは勤務態度も成果も周りからの信頼も非常に良い人たちだった。しかし、彼らは、そうした状態に安住できず、ふと日常の裂け目から向こう側の世界へと一歩踏み出しているような人たちだったのだ。ある日、わけもなく会社の方向に向かうのとは逆のバスに乗って、夢の島の埋め立て地に行ってしまったり、住宅地の中の樹木に被われた古い洋館に踏み込んで謎めいた人々と深く関係し合ったり。

 社会のなかで多くの人ができていることを当たり前のことのように行ったうえで、そこから一歩先に行く、というのが、私の心に引っ掛かった。というのは当時の私は、会社で働いたこともないのに会社を批判していたり、社会がどのような構造で動いているか身をもって経験していないのに、社会を批判しているようなところがあったからだ。

 頭で考えるだけで、本当のところは何もわかっていない。誰もが普通にできることを自分もやった上で、あれこれ言うべきなのだ。そういうことを人に説教されても私は耳を傾けなかっただろうが、日野さんの小説の力が、そのような思考を私に促したのだ。

 そして、その時から、私は髭を剃り、いろいろな会社の面接を受けた。当時、新聞での求人の大半は、「応募資格:大学卒業以上」と明記されていたので、高卒の学歴しかない私は、履歴書すら送ることができず、アルバイトニュースで仕事を探した。面接ではろくな説明もしてもらえず、働き始めたら電話でのいかがわしいキャッチセールスみたいな仕事が多く、一週間くらいで辞めることが続いた。いかがわしさを体験することも、ビジネスの仕組みがどうなっているか肌で知ることにもつながったし、ビジネスをしてお金を稼がなければ生きていけないのならまともなビジネスをしたいと心底思ったし、まともなビジネスとはどういうものかを真剣に考えるきっかけにもなった。

 それから幾つもの仕事を点々として年齢と経験を重ねていき、自分の裁量で自由にモノゴトを動かせるようになった時、私は、仕事を口実に敬愛する日野さんと接点を持とうと考え、有楽町の朝日ホールでのイベントを企画し、講演をお願いするために日野さんに手紙を書き、会いにいった。私は、日野さんの書物を全て読み込んでいたので、最初から意気投合し、日野さんに「きみは、僕と同じことを考えているな」などと言われ、帰り際に、ワイエスバルテュスのリブロポートの分厚い立派な画集を頂戴した。日野さんの書き込みや、煙草の匂いが詰まった画集は、今でも私の宝物だ。

 そして、その後、日野さんに会社のPR誌への寄稿を依頼した。日野さんの家に行った時、書斎に並べられていたアルバムをパラパラとめくると、カッパドキアとかタクラマカン砂漠など日野さんが撮った独特の雰囲気を放つ写真があり、それらの写真と呼応するエッセイをお願いしたのだ。毎月、私が写真を選び、テーマを決め、日野さんに文章を書いていただいた。そういうプロセスを作ったので、必然的に、毎月のように日野さんの自宅にお伺いすることができた。日野さんが好物の麹町にある秋本の鰻などを持って、せっせと通った。「きみはなぜ僕がここの鰻しか食べないのを知っているのだ」と、初めて秋本の鰻を持っていった時、日野さんは驚いていたが、たまたま、会社が秋本の近くだったのだ。そして不思議なことに、日野さんは下北沢に住む前は半蔵門のマンションに住んでいて、そこは私のオフィスから交差点を挟んで斜め向かいの場所だったと後で知った。

 そのように日野さん宅に通っている間、癌の転移やクモ膜下出血での入院が何度かあったが、連載は途切れることなく続いた。あれだけ病魔に次々と襲われる日々のなかで5年近く連載が続いたことは奇跡だ。

 そして、日野さんの作家人生の絶筆が、「ユーラシアの風景」の最後に掲げられた「北欧の奥行き」というエッセイとなった。

 この「北欧の奥行き」を書いている時の日野さんの体調は悪く、文字はほとんど解読できない状態であったが、日野さんの息子さんと必死で文章を読み取った。その時、もう先は長くないと覚悟し、日野さんが生きている間に、それまでのエッセイをまとめて単行本にしようと決心して動いた。自分でレイアウトをし、装幀のイメージを作り、ディレクションをし、紙を選び、印刷会社に発注し、作ったのだ。コンテンツさえあれば、本を制作することは大して難しいことではなかった。難しいのは、それを書店に流通させることであり、そのためトーハンとか日販など書籍流通会社にかけあった。書籍流通会社は、既存の出版社以外の会社と新規の口座を開設することを、あまり望んでおらず、いくら作家として実績のある日野さんの本といえども、なかなか良い返事をくれなかった。長い交渉の末、ようやくトーハンだけが取引をしてくれ、書店に並べることができた。日野さんが亡くなる1ヶ月前だった。

 それを持って日野さんのところに行った。日野さんとは、ほとんど目だけで会話をした。

 雑誌編集の経験もない私が編集長になって「風の旅人」の創刊の準備をせっせと始めたのは、「ユーラシアの風景」ができたのと、日野さんが亡くなる間くらいだったと思う。

10月〜12月にかけて構想を固め、4年前のクリスマスに、執筆者の大先生たちに一斉に筆で書きしたためた手紙を送った。送った翌日に、酒井健さんから了承の電話を受け取り、こちらから電話をかけたのは白川静さんが一番最初で、12月29日の6時くらいだった。今思えば、手紙を書き送ってすぐに返事をもらうために電話をかけるのは、相手が雲の上の大先生だけにちょっと無謀かなと思うが、当時は匹夫の蛮勇だった。

 電話口に白川さんが出るとは思っていなかった私は不意をつかれ、当時91歳という高齢を意識して大きな声で話した。白川さんは「そんなに大きな声で話さんでも聞こえとるがな」と言った。そして、「あんたこんな大それた企画、実現すんのか?」と聞いてきた。実現する当てもなにもなかったが、強気に、「実現できないことを白川先生にお願いする筈がありません」と答えると、「そうか、実現するんやったら、書いたる」と言ってくれた。4年前の年末、電話越しに、白川さんの自宅がしーんと静まり、白川さんの息づかいだけを感じていたことを、今でも生々しく思い出すことができる。

 そして、日野さんのところに「ユーラシアの風景」を持っていって、いろいろ目で会話した後の帰り際、日野さんが、突然、ガバッと半身だけ起こして、私の手をもの凄い力で握りしめたあの感覚も生々しく思い出すことができる。

 日野さんも白川さんも先立たれたが、肉体が滅ぶことでいっそう魂がこの世界に広がり、私も含め全ての人の周辺にゆきわたっているように思う時がある。

 霊魂という一つの個体がゆらゆらと飛び回るイメージは私にはなく、水から気化した水蒸気があっという間に部屋中に広がるように、肉体から解き放たれた強い思念は、世界中に広がるような気がするのだ。世界中に広がっているから、誰しも、それを感知する状態を整えていれば、感知できる。信じるか信じないかではなく、感知できる状態を整えているかどうかで、感応するものが違ってくるのだと思う。


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