アンドリュー・ワイエス

 青山にある「青山ユニマット美術館」 http://www.unimat-museum.co.jp/tenrankai.html というところで、アンドリュー・ワイエスの小規模の展覧会が行われていた。

 ワイエスは好きな画家だけど、まとまった作品を見たのは、1995年に東急文化村で行われた展覧会以来だ。今回の展覧会は、以前に見た世田谷美術館東急文化村の展覧会とは比較にならないほど小規模なものだが、それでも、ワイエスの絵が飾られている部屋に入ると、他とまったく異なる空気が息づいていることが感じられる。

 今回の展覧会では、ワイエスの作品に多く見られるテンペラ画ではなく、水彩画がほとんどだった。ワイエステンペラ画は、草、髪の毛、釘の一本ずつや染みの濃淡さえないがしろにされず、細い絵筆でしっかりと描かれているが、水彩画は、白い余白も多く、ざっくりと世界を掴み取っている。それでいて、とても精緻に描いているように感じられる。

 私は、ワイエスが鉛筆だけで描いた素描も好きだ。リブロポートが出している大型本の画集には素描がたくさん掲載されていて、時々見るが、鉛筆の簡単なタッチで風景や人物の骨格をしっかりと捉えてしまうところが凄いと思う。

 今から12年ほど前、小説家の故日野啓三さんの家に初めておうかがいして話し込んだ後、「きみ、絵は好きか」と言われて頂戴したのが、このリブロポートのワイエスの「カーナー牧場」という画集だった。私は日野さんにワイエスが好きだとは一言も言わなかった。にもかかわらず、最初の顔合わせで、日野さんが豪華な画集を私にくれたのは、不思議なことだった。

 ワイエスは、引き算の画家だと思う。具象的に描いているように見えるが、見に見える全てを描いてはいない。彼のリアリズムは、世界の骨格に到達するために、付加的な肉を殺ぎ落としていくことによって成されている。見えているものを描いているというより、見えるものじたいが内包する、見えないものや隠されているものの”含み”を伝えている。見えるものと見えないものとの間の緊張感に、感情が反応する。だから、とても抽象性が強い。

  

 ワイエスは、潔い。ニューヨークを中心に華々しく展開された美術の動向には目もくれず、世界的に有名になっても、ひたすら隠遁者のように描き続けた。ワイエスは、15年もの間、自宅近くに住むヘルガという女性を描き続けていたが、240点にも及ぶその素晴らしい作品は、ずっとアトリエに保管されていた。彼にとって絵は、自己主張ではなく、祈りの行為そのものだったのだろう。

 ワイエスの絵は、どれもが清冽で美しい。澄みきって満ち足りた時間が、ゆったりと流れている。朽ちかけた家屋、傷んだ屋根、枯れたトウモロコシの茎や使い古した生活道具など、ワイエスに描かれた物たちは、親しい友人のようにしんみりと語りかけてくる。

 ワイエスは言う。

「あるものとじっくりつき合っていると、しまいには自分がそのなかに生きているような気がしてくる」と。

 ワイエスは、秋から冬にかけての季節を好み、その風景を多く描いている。

「私は秋と冬が好きだ。その季節になると、風景の骨格が感じられてくる。その孤独、冬の死んだようなひそやかさ」

 20代の頃、ジョージ・ウィンストンの「DECEMBER」という曲をかけながら、ワイエスの画集を見ていると、孤独に対して強くなれるような気がした。

 「DECEMBER」は、「THANKS GIVING」という曲から始まる。

 ワイエスの絵の底辺には、この曲と同じく、自分と自分を取り囲む物が在ること、刻々と自然が変化すること、生が持続することに感謝する気持ちが、静かに流れている。

 ワイエスの絵に満ちているのは、この<感謝>という尊い感覚だ。

 この世は、然るべき時に、然るべきものが、然るべき形で現れる。どの一瞬も、ただ偶然に成り立っているのではない。そして、人間の一生も、路傍の雑草や小さな花以上でも以下でもない。世代交代しながら綿々と連なる生命には、再生と復帰の厳かな仕組みが秘められている。その仕組みによって、我々は生かされている。その摂理を知るものだけが持ちうる静かで澄みきった諦観が、ワイエスの絵には満ちている。

 ワイエスの絵に描かれる人物は、現実の向こうを見据えている。彼らが見ているものは、未来なのか過去なのか、その表情には、懐旧の念も後悔も不安もない。全てを慎んで受け入れる境地にあるように見える。


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