敢えて自殺について(2)

 今朝の朝日新聞の朝刊の社会面は、自殺一色。しかも、学校関係ばかり。

 高校の必須教科の履修問題で保護者向け説明会の直前に自殺した校長先生、校長に名指しで叱責されたことなのどに対する抗議の自殺。

 統計的には一日平均、70名ほどが自殺しているわけだから、その中から学校関係を拾い出すのはわけがないだろう。その記事だけで社会面を作ろうとするセンスが、実にくだらないと思う。

 「自殺するほど思い詰めていた、自殺するほど責任を感じていた、自殺するほど追いつめられていた、死ぬほど周りが酷い仕打ちをしていた」などと、「自殺」が、その人の被害の大きさや、周りの環境のひどさを示すバロメーターとして安易に利用されている。

 そして、抗議の手段として、反省の手段として、逃げの手段として、自殺が用いられる。

 誰も、自殺した人を責めない。自殺した人を気の毒に思い、その人を死に追いやった自分や周りの人を責める。

 自殺のなかに隠れている自分本意の傲慢さに気付いていても、知らないふりをする。

 自殺する人は、自殺することによって、周りの人が自分のことを不憫に思い、同情してくれると、どこかで知ってしまっている。

 自殺する行為によって、周りの人たちが、どれほどの理不尽な責め苦を負うのか考えもしない。敢えて、理不尽と言う。なぜなら、自殺した本人はもうこの世にいないから、残された人たちには話し合う余地も、反論する余地もまったく残されないからだ。

 そのように、自分と関係ある人たちを一方的に置いてきぼりにするようなやり方は、卑怯だ。

 はっきり言って、自殺はカッコ悪い。みんな口に出して言わず、表面的には同情するポーズを取っているが、心の中では、きっとバカにしている。

 誰しも、それぞれの現実を生きていくことで精一杯で忙しいのだ。そして、誰しも社会に腐るほど存在する様々な葛藤や軋轢にさらされて苦労しているから、自らの死をもってそれから逃れようとする人間なんて、抵抗力がないだけだと思っている。

 私の知り合いで、若い時に、自殺したくなるほどの苦しみのなかで、大学を退学したヤツがいる。それで、いつ、どこで死んでもいいと開き直って、旅に出た。ほとんど野宿をして、ヒッチハイクをして、どこかで暴漢に襲われたり、身体を壊してのたれ死にすればいいと思って、中近東を放浪した。日本にいて、手首を切って死のうが、旅の途中、地雷を踏んだり、誰かに襲われて死んでも一緒だと思っていた。死ぬ気になれば、危険とされる所でもどこでも行けた。

 でも人間というのは、そのように死のうと思っても、なかなかしぶといものだ。

 旅の始めは、海外旅行がはじめてということで要領もわからないし、語学もまったくダメだったから、惨めな思いをいっぱいして、それが悔しくてしかたがなくて、その悔しさが、いつのまにか、生きる力になってしまっていた。そして、二ヶ月もしないうちに、旅のコツを掴んで、旅が楽しくてしかたがなくなってしまった。

 つい数ヶ月前まで死ぬほど苦しんでいたことが、まるで他人のように思われた。そして、彼は、そのまま1年ほど、あちらこちらを放浪して、日本に帰国した。

 日本に帰国しても、普通に社会復帰はしなかった。夜、居酒屋でアルバイトをしながら、本を読んだり、映画を見たりして過ごしていた。孤独で少し寂しかったけれど、以前ほど耐え難くはなかった。抵抗力がついていたのだ。

 1人で生きていく覚悟のようなものができていたので、アルバイト先で厭なことがあっても、「いつ辞めてもいいんだから」と気楽な気持ちで働いていた。そのような生活を続けているうちに、彼女ができて、自分のことより彼女のことが好きになって、まともに働こうと思うようになって、就職した。

 彼は、自殺しようと思いつめていた頃の自分のことを、自分を悲劇のヒロインのように思い込んで、その自分の悲しみに酔っていたと分析している。

 自分に息詰まったら、旅に出るのが一番かもしれない。旅に出ると、いかに自分が狭いところしか見ていなかったかがわかる。狭い日本に閉じこもって、狭い部屋に閉じこもって、狭い自分の心に閉じこもると、自分しか見えなくなる。自分しか見えなくなるから、自殺をする。

 自分が自殺することによって責め苦を負う人のことが少しでも見えれば、自殺なんてできやしない。もし、それが見えているのに自殺できるとすれば、やはり自分本意で自己愛ばかりが強い傲慢な人なのだ。両親をはじめ自分の周りの人よりも、自分を愛する気持ちが強すぎるから、自殺できてしまうのだ。

 旅に出ると、自分を愛する気持ちも、別の種類のものに変わる。

 気の毒で可愛そうな自分を愛するどころか、そういう自分が恥ずかしくて気持ち悪く思うようになる。そして、人とかモノゴトの関わりのなかで変わっていく自分を、愛するようになる。

 旅に出ると、ほんとうに短期間のうちに、いろいろな刺激を受けて、自分が変化していき、変化していく自分のことが自分でもよくわかる。変化する自分のことがわかると、とても楽しい。

 自分や自分を取り巻く環境が永遠に変わらないと思うから、死にたくなるし、自殺できてしまう。

 しかし、実際には、自分も周りの環境も、あっという間に変わることができる。旅に出ると、それがわかる。

 そして、自分も周りも変わることがわかった瞬間、自殺によってその可能性を断ち切らずによかったと思う。自殺してしまったら、そういうこともわからないまま死んでしまうことになる。それは、勇み足というもので、相撲にたとえると、あまりにも心残りな負け方だ。死んでしまった本人には、心残りはないから関係ないと言うかもしれないが、その分、残された肉親などにに、やりきれないほどの強さで残されてしまうのだ。後悔しても時すでに遅しなのだ。その後悔もまた、残された者にだけ、強く残されてしまう。自殺した人間は、全てを清算するために自殺するのだろうが、清算なんてできやしない。清算できない深刻なものが、肉親をはじめ周りの人間に残される。そして、その人たちは、それを引きずりながら悶々と生き続けるはめになる。悔やみきれないものをいっぱいに抱えながら。