芸術と職人仕事

 昨日のエントリーで少し触れた、横浜美術館で行われている森村泰昌さんの展覧会→http://www.yaf.or.jp/yma/exhibition/2007/special/02_morimura/index.html で、私が圧巻だなあと思ったのは、レンブラントに関する一連の作品と、ブリューゲルの「盲目のアレゴリー」を元にした作品だった。

 レンブラントの若く元気な頃から、多くの哀しみを重ねながら晩年の憔悴した表情に変遷していく顔になりきった肖像画の連作を見ていると、森村さんが、この自意識過剰のレンブラントを自分と重ねながら、せつない気持ちで、同時にとてもナルシステックに、深く愛していながら、その気持ちを突き放しているような感覚が伝わってくる。

 また、森村作の現代版「盲目のアレゴリー」では、拝金主義者に引きずられるように、ブランド品で身を固めた人間、兵士、アーティスト、子供が川に落ちていく。

 この作品に描かれているブランド品の「Tiffanyティファニー)」は、「TO FUNNY」というロゴになっているが、このロゴがなくても、充分に可笑しい。

 このブースには、ゴヤ「ロス・カプリチョス」を題材にした現代版森村風の寓話の連作があって、「世界を救えるのは笑いではないのか」というコピーが添えられている。

 しかし、「笑い」は「笑い」でも、森村作品の「笑い」は、自分を楽な状態に置いて他人を気軽に茶化したようなものではないことが重要だ。

 もの凄いエネルギーと手間暇をかけて、自分自身が拝金主義者やブランド信仰者や兵士や芸術家になりきる。そのうえで、自分が、川にひきずられて、それに必死に抵抗する。そのように自覚する自分の自意識が時代を司る大きな力に抗いながら作品を作るのだが、その行為すらも、TO FUNNY なのだ。

 そして、もしもこの作品が、そうした現代の構図をなぞるだけの平易なものであれば、どこかありきたりで、くだらないと私は思う。

 森村さんの作品は、笑いにつなげていくための周到な準備が凄いのだ。すなわち、作品のディティールが凄い。よくもまあこれだけマニアックに作れるものだと呆れるほど、また可笑しくなるほど、徹底しているのだ。

 「現代の構図を表す」とか、「世界を救えるのは笑いではないのか」といったメッセージなど関係なく、徹底的にこだわった手作りの作品の隅々に宿る、”職人仕事”に私は敬意を感じる。

 現代アートと称するものの多くは、コンセプトが先に立って下手な仕事をカムフラージュしたり、「理屈ではなく感性だ」などと言いながら大した努力もせずに手を動かすだけだったり、時代に対する批評性とか言いながら、メディアなどで充分に伝えられている”情報”を、メディア媒体ではない目先を変えた方法で形作るだけであったり、時流の商業ニーズに媚びただけのものであったり、なんでもありという状態だが、形は様々であっても、自己都合的で、生真面目な職人仕事を軽んじるというところが、共通しているように感じる。

 森村さんの仕事は、ぱっと見た感じがコンセプチュアルなので、そういう風に捉えられるかもしれないけれど、その本質は、”生真面目な職人仕事”というイメージを私は持った。

 職人仕事で一番肝要なことは、つまらない自意識を捨てることだろう。人が住む家なのに、デザイナーのつまらない自意識で、デザイン優先などと言ってベランダで布団を干すことすらできない物件もある。

 家具にしても、使い勝手がよく長く愛着を持って付き合えるものが一番なのだが、デザイン優先で、座り心地の悪い椅子などもたくさんある。そして、そういうデザイン優先の物を持つことが、自己の世界を主張することができるという理由で売れたりする。

 そのように私たちの周りには、自意識過剰の自己主張の物が溢れており、作り手と買い手は、そのことに無自覚だ。

 それに比べて、生真面目な職人の仕事は、素材と対話し、素材に敬意を抱き、素材を生かす技術を厳粛に身につけ、その素材と自分を一体化させるように努めながら、その時に自分が置かれた状況(気候、風土、使われる環境etc・・)に応じて自分なりの工夫を付け加える。それは、素材を愛するということでもある。そのように愛することで、自意識は自然と滅却される。

 森村さんは、芸術の分野で、生真面目な職人仕事を貫徹しているのではないか。先人達の作品と対話し、それらに敬意を抱き、それらを生かす技術を厳粛に身につけ、その作品を自分を一体化させながら、自分が置かれた状況に応じて、自分なりの工夫を付け加える。

 そのように芸術を深く愛することと、自意識の滅却を同時に実現していく。

 奈良時代の仏師であれ、ゴシックのステンドグラス職人であれ、ジョットから始まるルネッサンスフレスコ画制作者であれ、レンブラントなど17世紀オランダの肖像画家であれ、どの時代においても、芸術家の肩書きの前に、生真面目な職人であったことを忘れてならないと思う。