「未来」=「明日の自分」とつながる表現行為

 現在、東中野の「ポレポレ東中野」という小さな映画館で、「炭鉱(ヤマ)に生きる」という映画が上映されている。

 同時に、同じビルのIFにある「ポレポレ座」で、炭鉱画家?の山本作兵衛さんの絵画展が同時開催されていて、それに関するイベントが一昨日の夜行われたので見に行った。

 「山本作兵衛絵画展」の主催者による紹介内容は、次のようなものだ。 

 「炭鉱画家・山本作兵衛の絵をモチーフに、筑豊での人々の暮らし、また、その社会を描いた当作品の上映に合わせ、生前の作兵衛を知る写真家本橋成一の所蔵する2点を含む、作兵衛の原画約30点を特別に1階カフェで展示致します。山本作兵衛は生前、600点余りの炭鉱絵画を遺しました。本作品中では彼の作品約100点がハイビジョンで収録され、細部まで精緻に再現されていますが、彼の作品の多くが所蔵されている資料館では、保護の為、10年に一度しか公開が行われておりません。この機会に是非、ご覧ください。」

 明治、大正の頃、写真がまだ一般的でなかった頃、炭鉱での仕事内容などを山本作平衛さんが絵画で記録している。その絵画は、緻密かつ大胆なタッチで描写されているのだが、記録性に優れているだけでなく、炭鉱の仕事に対する敬意や愛着や誇りが反映され、どの絵画も美しくて力強い。暗く汚いイメージで語られることの多い炭鉱生活を、人間が真剣に生きる現場として、厳粛で崇高なものにまで高めているのだ。

 作平衛さんは、絵も文字も全て独学で身につけたらしいが、その作品は、近年の頭でっかちのアートではなく、古代のラスコーの壁画など芸術の原点に通じるものが感じられる。

 作平衛さんがそれを実現し得たのは、炭鉱の労働者としてその仕事に深くコミットし、炭鉱を取り巻く世界の関係性を自分ごととして深く引きつけていたことと、その関係性を外に向けてきっちりと伝えたいという思いが強くあったからだろう。

 モノゴトを表現するというのは、技術も大事だろうが、それ以前の問題として、自分のなかに満々と溢れるものがあり、それが自然とこぼれ出るくらいの状態でないと、だめなのではないか。その溢れるものは、愛情や哀しみや畏れや、それ以外の言うに言われぬ気持ちであり、それが表現への衝動や、エネルギーと深く結びつくのではないか。

 もちろん、自分では溢れるものがあると感じていても、客観的にはそれほどでもなかったり、自分では大したことがないと思っていても、実際は凄い場合がある。

 また、溢れるものがあるからといって急き立てられるような気持ちで取り組んでも、焦燥感によって、大事なものをこぼしてしまうかもしれない。モノゴトにはタイミングというものがある。作兵衛さんの絵は、人が働いている現場のすぐ傍に張り付くように写生したものではなく、自分の記憶のなかにあまりにも鮮明に焼きついて残っているものを描きだしたわけだが、自分が深くコミットして体験したものを、一度、自分の意識の届かないところに漬けておいて、しばらく経ってから、自然に湧き出るように浮かびあがってきたものを捉えるという、緊張と緩和が程良いバランスになった状態で制作されている。それだからこそ作品が、押しつけがましいものにならず、それでいて、伝えるべきことが伝わってくるというものになっている。大竹伸朗もそうだが、<記憶との付き合い方>が上手いのだと思う。

 作兵衛さんの絵には、昭和時代のものがないが、その理由を問われた時、彼は、「だって、写真があるでしょ」と答えたと言う。

 自己顕示欲で絵を描いているわけではないから、自分の役目が終わったと思った瞬間、絵を描かなくなった。

 自分の中に溢れるものが無いのに表現を行うのは、いろいろな邪念があるからであって、作品にはその邪念が反映されてしまうものだ。その邪念が反映されたものを評論家が見て、「現代が表現されている」などと論じることがあるが、それらの表現物は、「現代」を表現するものではなく、現代の現象の一部になったものとして、そこにあるだけだ。

 「現代を表現すること」と、「現代の現象の一部になること」は同じではない。そして、「現代の現象の一部」を寄せ集めても、「現代」にならない。

 それはなぜか?

 現代の現象の一部は、絶えず増殖する過程のなかにあり、どれだけ寄せ集めても、「現代」の一部の現象にすぎず、全体を捉えるものとならないからだ。

 「現代」を捉えたければ、「現代の現象の一部を増殖させる関係性やシステムそのもの」に向き合わなければならないだろう。しかし、そのシステムをアカデミックに論じることもまた、「現代の現象の一部」を切り取った状況説明にすぎなくなる。

 大竹伸朗の作品群は、現代の現象の一部を切り取ったものではなく、「現代の現象の一部を増殖させる関係性やシステムそのもの」になっている。彼の作品群を通じて表現されているのは、まさしく「現代そのもの」だと思う。

 しかし、「現代そのもの」を表現する方法は、大竹さんのように「現代を疾走し続けること」でしかあり得ないのだろうか。

 ラスコーの洞窟絵画を見る人も、山本作兵衛の絵画を見る人も、「その時代」の息づかいをリアルに知ることが出来る。それはすなわち、その表現が、「その時代そのもの」になっているからだ。

 作品を作る当人たちは、未来の人のことをどれだけ意識していたのかわからないが、彼らによって作られた作品は、未来の人たちから見て、彼ら自身の存在証明が明確に行われているように感じられる。

 作品の作り手が主観を排して客観的な描写に努めたとしても、作品はその時代そのものにはならない。なぜなら、そこには、その時代のムードが抜け落ちるからだ。その時代のムードは、表現者と対象の関係のなかにもたちこめている。世界と呼応することで生じる作り手の「思い」は、手前かってな主観なのではなく、時代のムードの反映なのだ。だからそれが欠落したものは、その時代そのものを表すものにならないと思う。

 といって、作り手の「思い」ばかりが濃密で対象に対する観察力が欠けているものからは、時代の気分は伝わっても、時代そのものの輪郭が見えてこない。

 時代そのものの輪郭を知ることは、その時代を構成する人や物の背後にある関係性を冷静に捉えることでもあるだろう。

 どんな「時代」も、その時々の「関係性」の総体だろう。関係性を抜きにした「時代」はあり得ないと思う。そして、その関係性の中に「表現者」も組み込まれている。それは組織の構成員であるとか歯車の一つであるといった客観的事実のことだけを意味するのではなく、「時代(社会)」に対してポジティブであれネガティブあれ何かしらの思いが生じているその時点で、関係性が発生しているということだ。

 人間が生きているかぎり、そこには何かしらの思いが発生している。

 その渦巻く思いと、その思いを発生させる関係性の輪郭が示された表現こそが、その時代の生き証人のように、「未来の人」とつながっていくのではないかと思う。

 そして、忘れてならないことは、「未来の人」というのは、自分が会うかどうかわからない他人ということではなく、「明日の自分」でもあるということだ。

 芸術家にかぎらず、どんな人でも、今この瞬間に生じている自らの「思い」をウヤムヤにごまかさず、その思いを発生させる関係性の輪郭を捉えようと冷静に努力し、自分が納得できる状態まであれこれ修正したりしながら確認していく思考そのものが、明日の自分につながっていく「表現行為」なのだと思う。



風の旅人 (Vol.22(2006))

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