ヒッグス粒子とマスコミ報道と、大きな疑問点

 ヒッグス粒子が発見されたような報道がなされている。 
 ITmediaや産経の見出しは、ヒッグス粒子が完全に発見されたかのように伝え、NHK、読売、日経は、「ヒッグス粒子と見られる粒子発見」と少しだけぼかし、朝日は、「ヒッグス粒子発見、年内確定へ」、スポーツ新聞では、「ほぼ発見」と書く。
 ふだんヒッグス粒子素粒子物理学のことなんかとは無関係のメディアが、一斉にオウムの用に「ヒッグス粒子」と連呼し、専門家と言われる人に、説明をさせたりする。
 そして、同時に、東北に莫大な投資を必要とし、かつ莫大な電気代がかかる粒子加速器(ヒッグス発見後の研究を目指す)を誘致する動きが発表されたりする。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/iwate/news/20120706-OYT8T01240.htmいつものことだが、メディアがリードする世界は、誰かが背後で糸を引いているかのように、タイミングや内容が揃えられている。確信犯か、それとも愚鈍なのかわからないが、糸に操られるかのように見えるメディア各社。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1207/06/news045.html ITmedia
http://sankei.jp.msn.com/science/news/120705/scn12070500160000-n1.htm 産経
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120704/t10013333771000.html NHK
http://www.asahi.com/science/update/0704/TKY201207040487.html 日経
http://www.asahi.com/science/update/0704/TKY201207040487.html 読売
http://www.asahi.com/science/update/0704/TKY201207040487.html 朝日

 実際のところ、CERN(ヨーロッパ合同原子核研究機構)の所長は、何らかの新粒子が発見され、それがヒッグスの可能性が高いと言っているが、断定していない。
 CERNの運営には、年間1000億円もの大金が必要で、これまでも何兆円ものお金が使われている。一国の運営では無理なので国際的なプロジェクトになっていている。ギリシャ問題から火がついて経済不安に脅かされる欧州で、いつCERNの予算が削られるかわからないので、何かしらの成果をにおわせる必要があったと指摘する人もいるが、私も、7月2日にアメリカのフェルミ研究所がヒッグス粒子の可能性を示唆する声明を出し、4日に、CERNが”ほぼ発見”と言い、直後に東北への粒子加速器の誘致の件がテレビニュースで伝えられるなどタイミングがよすぎると思う。
 でも仮に、CERNが発見したものがヒッグス粒子であったとして、ヒッグス粒子は、標準理論にとって必要な粒子なのかもしれないが、私には関係ない。
 その理論が難解で私には理解できないから私には関係ない、と言っているのではない。
 ヒッグス粒子は、素粒子理論にとって必要な存在なのかもしれないが、現在の素粒子理論は、世界を探求する一つの手段にすぎないと思うからだ。
 科学的探求そのものを否定するつもりは、まったくない。宇宙のことを問い、自らのことを問い続ける姿勢は、人間にとって大切な資質だと思う。しかし、わずか一つの分野の探求が、人類全ての人間にとって重要だとみなすのは、傲慢だと思う。
 素粒子論では、ヒッグス粒子(ヒッグス場)を質量の起源だと想定している。
 空間の中を素粒子が進む際に、ヒッグス粒子が“まとわりつく”ことで粒子が抵抗を受ける。素粒子に対して動かしにくさを与えている粒子がヒッグス粒子で、その動かしにくさが、質量だと考えられているらしい。
 しかし、仮にそうだとして、ヒッグス粒子が空間を埋め尽くしているのだとしたら、粒子は、その抵抗を受け続けるので、同じ速度で飛び続けない筈だとシンプルに指摘する研究者もいる。しかし、そのシンプルな疑問に対する、シンプルな答えがないように思う。
 ヒッグス場の中にエネルギーがあって、そこからヒッグス粒子が生まれるけれどすぐに別の素粒子となって消えてしまい、それ自体を観察できないので、CERNなどが加速器を使って行っている研究では、そうして生まれた別の素粒子を検出して、その別の素粒子からヒッグス粒子が存在したかどうかを判断するという方法がとられているというのだが、そういうストーリーは、何だか煙に巻かれたような気になる。
 場それ自体に、何かしらのエネルギーが満ちているということを前提にするところまでは、そんなに違和感はないのだが、そのエネルギーの仕組みを素粒子の動きだけで説明しようとするところに無理があるように感じる。
 ヒッグス粒子というのは、物事を一元的にしか考えられない思考の結果なのではないか。
 人間誰しも一元的に思考する癖があり(近代の教育のせいというのもあるが)、結果をもたらしている一つの原因を探り、それを発見する喜びに取憑かれやすい。なんだか問題が解決したかのような気持ちになって、すっきりするから。
 もちろん、一元的に思考を煮詰めていくなかで、厳密な態度で、そうでなさそうなものは切り捨て、できるだけそうでありそうな可能性だけを残していくわけだが、そのプロセスがいかに公正を期していたとしても、たとえば観測技術の変遷によって、過去の裁定が、また違って見えてくる場合もある。にもかかわらず、一度否定されたものが新たに見直されるためにはハードルが高くなってしまうし、一度認められたものは、矛盾するような現象が現れるようになっても、それを自明なものだと信じる人が多いために、否定することは非常に大掛かりの仕事になってしまう。
 たとえば、統一理論を構成する電磁力の問題にしても、電磁力は重力よりも強力であるが近距離間の力に限られ、星と星の間など宇宙空間の遠距離には作用が及ばないということが前提になっている。だから、宇宙の構造やエネルギーを考えるうえで、重力と質量が重要視され、粒子に質量を与えるヒッグス粒子なるものや、認識できないけれど質量を持っているとされるダークマターなるものが存在しなければ、計算上、宇宙のエネルギーと構造の問題がうまく解けないということになる。ダークマターは、銀貨団の中の銀河の運動の観測結果から、銀河同士を互いに引き寄せるためには、光学的に観測できる銀河の何百倍もの質量や重力を及ぼす物質が存在しないとおかしいという推測から始まった概念だ(1934年〜)。銀河団の中の銀河を結びつける力を、質量と重力だけで計算する結果だ。
 しかし、近年、量子力学とは異なるアプローチで宇宙のエネルギーと構造を解明しようとする動きも、急速に発展している。
 JAXA(宇宙航空研究機構)の宇宙プラズマ物理学などもそうだろう。
 http://www.isas.jaxa.jp/j/enterp/science/plasma.shtml
 JAXAの、「あけぼの」や「ひので」といった観測衛星は、太陽等に対するこれまでの固定概念を覆すような映像を送り届けているが、ヒッグス粒子に比べてあまり話題にならないのは不思議だ。
 この映像などを見ると、太陽の表面は、赤々と燃えているのではなく、真っ黒に、見えるし、黒点と呼ばれるものは、これまでのイメージである、赤くドロドロに溶けた星の表面の黒いエクボなどではなく、太陽の黒い表面を覆うガスの隙間から見えるわずかな部分にすぎないのではないかと気がしてくる。
 http://www.isas.jaxa.jp/j/topics/event/2012/0521_annulareclipse.shtml

 こうした宇宙プラズマ物理学の研究が進み、宇宙空間における電磁場の働きがみなおされる可能性だってある。近距離だけではなく、遠距離においても電磁場の作用があるとわかると、宇宙の構造とエネルギーを考えるうえで、質量や重量だけではなく電磁流体力学も考慮に入れる必要が出てきて、そうなると、ヒッグス粒子ダークマターと言われる仮定の物質を想定する必要がなくなるかもしれない。
 電磁流体力学は、1970年にノーベル物理学賞を授賞したハンス・アルヴェーンが唱えた説だ。
 「電導性流体の中では、流体の運動が磁場の変化をもたらして電流を誘起し、その電流と磁場との相互作用から流体への力を生じ、よって流体の運動自身が変化する」というものである。つまり、運動が磁場の変化を起こし、その変化が電流を発生させ、電流と磁場の相互関係が力を生み、運動に変化を与えるということ。量子論の説く宇宙論とまったく異なる立場から宇宙の構造とエネルギーを研究している「プラズマ宇宙論」は、この電磁流体力学を元にしている。
 その考えによると、たとえば太陽系内の星々においても、銀河団の中の各銀河の関係においても重力だけで運動が発生し秩序構造ができているのではなく、磁場と電気と運動が相互に関係し合うプラズマの力によって運動と秩序が存在し、プラズマには引力も斥力もあるので、重力や遠心力とみなされる力は、その力の一部ということになる。
 量子論に元ずく宇宙研究は、粒子加速器の中でミクロの物質をぶつけ、そのデータに基づいて高度な数学を駆使して続けられ、現在のように数学上の探求が先行するようになると、宇宙の構造は、粒子が基本だと言っていたのに、それで説明が苦しくなると、波になったりヒモを持ち出したり、粒子も場も同じだと言ったり、認識できない暗黒物質があると言ったり、概念があれこれ複雑化する。
 それに対して、宇宙プラズマ物理学は、「ひので」や「あけぼの」などの最新の人工衛星を通じて、人間が認識できる新たな観測結果を獲得し、それをもとに宇宙探求を行う。この動きは、大航海時代がはじまって地球規模の観測が可能になり、天動説から地動説へ、平な地球から丸い地球へとコペルニクス的な認識の転換が起こった時と状況が似ているなあと私は思う。権威ある知識人(当時は聖職者)が言っていたことが、後になってふりかえれば、まるで違っていたということが起こりうるだろう。
 それはともかく、現在、マスメディアがこぞって取り上げているヒッグス粒子なるものの真偽に関係なく、自分が生きていくうえで拠り所にしていく価値観や理論はそういう類のものではないと私は感じる。その理由は、ヒッグス粒子の理論が複雑難解すぎて自分の日常とかけはなれているという単純な根拠によるものではない。宇宙に存在する生物の一つにすぎない人間の認知機能は、イルカや蜜蜂や鳥とも違っているのだが、にもかかわらず、人間の認知機能だけを基本に(人間に感じられないものを感じられる生き物はたくさんある)宇宙の構造を解き明かしたとしても、それは人間にとっての宇宙でしかないと思うからだ。つまりヒッグス理論もまた、時代とともに変遷してきた人間の神話の一つにすぎない。
 神話が悪いと言っているのではない。むしろ、私は、神話は必要だと思う。
 しかし、たとえばアボリジニの神話ならば、世界の構造を自らの認識に頼って解き明かすとともに、この世界でどのように生きていくことが賢明なのか子供から孫へと伝えられていく。それが、人間の世界に対する作法になる。人間が神話を必要とするのは、人間が生きていくうえで、世界に対して、どのようにわきまえていくか知る事が必要だからだ。
 ヒッグス粒子を発見して何の役に立つという質問に対して、それは、モナリザのピースだとか、ラテン語をなぜ学ぶのか尋ねるのと同じだと答える学者がいるそうだが、私は同じだとは思わない。
 ラテン語を学ぶのであれば、年間に1000億円の税金を使うのではなく、自分のお金でやればいい。人類のための勉強だと主張するのは、おこがましい。
 また、モナリザは、絵の見方を知っているかどうかに関係なく、その絵じたいが人々の心を強く引きつける魅力に満ちあふれている。しかし、標準理論は、標準理論の理解の仕方を知っている一部の人間にとってそうかもしれないが、多くの人間にとって魅力あるものではない。その状況を、上から目線で、知らない方が知的探求を怠っているからであり、知的探求こそ人間の崇高な資質だと詭弁を弄する研究者もいるが、知的探求とは何も数学的なお勉強だけとは限らないし、情報格差を作り出して自分の優位性を誇る(やたらと専門用語を駆使する)人が知的であるとは、とても思えない。そういう自分自身を客観視し相対化できないことは何よりも知的に反する態度だから。
 ダヴィンチの絵は、そうした情報格差を超えて人々の心に働きかけ、深遠な世界の探求へと誘う力があるからこそ素晴らしいのだ。
 だから、このWIREDのような記事は、自分達の陣営の正当化にすぎないと思う。
 http://wired.jp/2012/07/06/what-can-we-do-with-the-higgs-boson/

 いずれにしろ、ダビンチの絵のように心が引きつけられるものは、どこかで自分の生き方に深く関わってくる。自分に働きかけてくる記憶となるのだ。
 また標準理論の探求が人類のロマンだと主張する研究者もいるが、それは、その人にとってそうかもしれないけれど、私にとって、ロマンだとは全く思えない。
 個人的には、ロマンある科学的研究は、たとえば知的権威とは遠いところで開発されたオオマサガスのようなものだと思っている。単なる実用性を超えて、それが実現すると世の中が変わるのではないかと、素人でも素朴に感じられるような研究こそロマンだ。それは、世界に対する諦めや絶望を希望に変える力がある。
 また地震を予知する研究でも、電気通信大学の早川正士が行っている地震解析ラボは、まったく予算がつかないと言う。地面の中を探る学者が地震研究の権威であり、権威となれば成果を出せなくても予算はとれる。早川氏のように、地震予知の為に電磁現象を探るという発想は、いくら地震予知の成果を出しても、地震研究の異端であるかぎり政府から予算がもらえないという現状。(ギリシャでは、この方法が政府に公認され、有効活用されているようだが。)
 ヒッグス粒子の探求は、実用とは関係なく人間の夢だと言い放ちながら、年間に1000億円もの大金を使われ、人類の末永い平和と安心に貢献する可能性が少しでもありそうな研究分野にお金がいかない。この不思議な構造は、いったい何から生じているのだろう。
 プラズマの働きが、太陽系や銀河全般に及んでいるという考え方は、現在、宇宙論の中では異端である。プラズマという電磁気的な力が考慮に入ると、重力だけで導こうとする宇宙の構造が変わってくる。しかし、そうした電磁気的な力が広範囲におよぶというのは、量子論宇宙ではまったく認められていないというか、研究分野が異なるということで、量子論の研究者の研究対象になっていないように思われる。宇宙の問題は、人類の英知を結集しなければならない問題なのに、実際は、縦割り行政のようになっている。にもかかわらず、マスコミは、その一部を全体のように取り上げる傾向がある。

PS.オサマサガスって、これから色々問題も出てくるかもしれないけれど、うまくいけばいいのになあ。
 この映像のなかで、オオマサ社長がいいことを言っている。「発明はひらめきというけれど、そうではない。努力をたくさんして、数多い経験をして、その中の違う分野のことがすっとつながる。違うもの同士がつながることが、発明なのだ」と。
 これは、今の宇宙論探求の研究者にとっても、大切にしなければならない姿勢。
 
 オオマサガスの紹介→




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