恐い話

http://biz-journal.jp/2012/07/post_374.html
 ニコン従軍慰安婦の写真展を取り下げようとしたことに関して、良識的な人やメディア関係者などから、ニコンは厳しく非難されている。圧力に屈したとか、報道の自由云々とか。当然だろう。しかし、問題の根はもっと深いところにあると思う。私は、とりたててニコン贔屓ではないが、ニコンが開催している展覧会の質は、他のカメラメーカーが開催している写真展よりも質が高い部分があると思っている。人目を引く派手なパフォーマンスが苦手で誠実に写真を撮り続けている人達も、ニコンサロンで写真発表の機会を得ている。それは、ニコンが、ニコン製品以外の写真でもニコンサロンでの写真展開催を認めているのに対して、キャノン等他のカメラメーカーは、あくまでも自社製品のPRの為に写真展を開催しており、自社製品以外のカメラやプリンターを使っている場合は、受け付けていないのだ。

 それだけ、ニコンが、会社存続の為にビジネスも大事にしなくてはならないけれど、写真そのものの魂を大事にしているとも言える。おそらく、この「慰安婦」の写真も、他のメーカーが主催している写真展ならば、最初から土俵にあげてもらえなかった可能性が高い。そのニコンが、写真展の取り下げを決めて、裁判で争い、裁判で負けた後も執拗に、「ニコンとして写真展を開催しているわけではない」という異常な行動を取り続けたことに対して、「社会的圧力に屈した」と非難するのはたやすい。しかし、これら一連のニコンの行動は自社ブランドのイメージを損なうことは明らかであり、それを覚悟で、ニコンはそうせざるを得なかった。これはいったいどういうことだろうか。それほどまでニコンを恐れさせる存在があり、公然とその力を行使できるという状況が、今の日本社会にあるということではないだろうか。もしかして、原発問題や、瓦礫処理問題などについても、背後にそういう恐ろしい力が存在していると考えるのは、考え過ぎだろうか。もしかしたら、メディア等も含めて、容易く「原発ムラ」などという言葉で非難できるような相手は可愛いもので、大衆の矛先をそちらに向けさせておいて、陰で大きな力を行使する、もっと恐ろしい存在がいたりするということはないだろうか。こういうことを書く事すら恐いという状況に日本がなっていかないことを、心から祈ります。