第1033回 古代と現代のシンクロニシティ

 

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(亀岡、御霊神社)

 最近、シンクロニシティが頻繁に起こる。シンクロが起きる時は、自分が行なっていることが正しい方向に向かっている証拠と、以前、誰かから聞いた記憶があるが、今、起こっているシンクロは、少し薄気味悪いくらいだ。

 ここ数年、日本の古代の聖地を訪れている。そして、それらの聖地が、どうやら太陽の軌跡と深く結びついているのではないかと感じるようになった。冬至夏至の日の太陽の日の出と日の入の方向を結んでいるライン。または、春分秋分の日の出と日の入の場所。古代人は間違いなく太陽観測を行なっていたと確信を持っているが、それだけでなく、縄文時代の聖地と、たとえば秦氏などの渡来人の聖地とのあいだで、ライン上の関係が感じられるようなところもあり、どういうことなんだろうと気にし始めると、ラインに取憑かれたようになってしまった。

 そして、こうした古代探索の旅に、最近、若い文化人類学の研究者の友人を同行させるようになった。その友人が、つい先日、ハワイの大学に戻った時、知り合いのアメリカ人教授を通じて宇宙物理学者を紹介された。その宇宙物理学者は、NASAスペースシャトルがいかに地球への帰還時に安全に海へと着水するのか、といったことを計算する研究班にいたそうだが、西洋知は古代知に比べて何周も遅れているのになんと傲慢なことだろうかと何らかの機会に感じたようで、退官後は天文考古学の分野に入り込み、古代ハワイ人の宇宙観や、日本の縄文時代の暦の研究をするようになったらしい。

 そして、東芝国際財団のJapan Insight部門の研究員として岐阜県金山の縄文遺跡の調査もしたらしい。

 岐阜県の金山は、私も昨年訪れたが、いくつもの巨石が配置された古代の天文台みたいなところで、春分秋分冬至夏至などの時に、巨石の隙間などに太陽光線が入り込むように設計されている。

 その宇宙物理学者は、古代人は間違いなく宇宙観測を行なっていたと確信をもっていて、近畿の大五芒星の地図(伊勢神宮熊野大社伊弉諾神宮、丹後の皇大神社伊吹山を結ぶラインが正五角形になる)を持ち歩いているそうだ。

 驚いたのは、私と、若い友人のあいだで、最近ずっと、この不思議なラインのことを語り合っていたのだけど、その彼が、初対面のアメリカの宇宙物理学者から、同じような内容の話を聞かされた。しかも、この直前にも、私と一緒に亀岡や近江など、古代のラインに関係する場所を訪れたばかりだった。奇遇といえば奇遇だけれど、日本とアメリカ、そして古代までつながるという時空を超えたスケールの奇遇も珍しい。

 実は、今週の月曜日、私が企画した対談に東京から来てもらった映画監督の小栗康平さんと写真家の鬼海弘雄さんを、亀岡に案内した。

 私は、亀岡を何度も訪れているが、最近、亀岡の佐伯地区で大規模な都市遺跡と寺院遺跡が発見されたと知り、その現場を見たくなったのだ。

 その場所は、『古事記』の編纂者の1人稗田 阿礼 (ひえだ の あれ)の生誕の地とされる稗田野神社の近くで、佐伯郷と呼ばれるところだ。古代、このあたりは隼人の居住地で、近くを犬飼川が流れ、桂川へと接続し、その下流が京都の嵐山で、さらに石清水八幡宮のところで巨鯨池に至り、そこから宇治川経由で琵琶湖、木津川経由で大和、淀川経由で河内へとつながるという河川ネットワークの要の地だ。

 太陽のラインで言えば、春分秋分の太陽の日の出の日の入の東西のライン上で、嵐山の天龍寺太秦蚕の社平安神宮永観堂、近江の三井寺を結んでいる。平安神宮を除いて、隼人や秦氏が絡んでいる。

 稗田神社の本殿の背後の鎮守の杜は、3000年も前から食物の神、野山の神を祀った場所とされているが、稗田神社の位置は、このラインの少し上だった。そして、この佐伯の古代遺跡が、ちょうどライン上なのだ。

 しかし、私たちが訪れた時、残念なことに、遺跡は発掘調査の後に埋め戻されていて、また別のところで発掘調査が継続中ということだった。この遺跡は、かなり規模の大きなものらしい。

 派出所などで確認しながら訪れたところで遺跡を見られず、少し落胆したが、周りの地理的状況を確認して自分を納得させて車を走り出したところ、すぐそばにこんもりとした杜があったので停止したら、鳥居が見えた。確認すると、御霊神社だった。

 この御霊神社は、稗田野神社と並び「上ノ社」「下の社」と呼ばれており、奇祭「佐伯灯篭祭」(*中世、女性から男性に仕掛ける夜這いで知られていた。)を行う佐伯郷4社の1社。巨木が鬱蒼と茂り、聖域にふさわしい境内となっている。境内のムクノキは亀岡の名木の中で単木としては最大で、京都府下でも最大級の巨木とのこと。

 この御霊神社も、蚕の社を軸とした東西のライン上にあったのだ。

 ただ一つ分からないのが、京都の御霊神社の場合、早良親王など、奈良時代から平安時代にかけて政争に巻き込まれて陰謀によって非業の死を遂げた人の怨霊を鎮め、祀るものだが、亀岡の御霊神社は、吉備津彦を祀っていた。

 吉備津彦は、第10代崇神天皇の時の四道将軍の一人だ。四道将軍とは、ヤマト王権に従わない各地の豪族に対し、北陸、東海、西道、丹波に派遣された将軍のことで、吉備津彦は、吉備(兵庫西部、岡山)に派遣されたのであって、亀岡に派遣されたのは丹波道主だ。丹波道主の娘の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が第11代垂仁天皇に嫁ぎ、景行天皇を産み、その息子がヤマトタケルとなる。

 なぜ、吉備津彦が亀岡の御霊神社に祀られているのか、今のところわからない。

 それはともかく、佐伯遺跡において出土した瓦は大量で、軒丸瓦や丸瓦など4種類だった。綾部市の綾中廃寺と同型の瓦が見つかり、古代の亀岡と綾部で職人同士のつながりがあったと考えられ、寺院を区画する柱塀の痕跡もあった。

 約100メートル離れた場所からは平安時代の墨書土器や皿、木簡などが出土した。これだけの規模の都市遺跡は、地域の拠点だったことは間違いない。

 そういえば、この日の朝、小栗さんと鬼海さんを朝の散歩に誘い、嵐山の渡月橋から嵯峨野を歩いた。 

 亀岡の佐伯遺跡と、東西のラインで結ばれる天龍寺で、小栗さんが、門番の人に色々と尋ねていた。今でも天龍寺は巨大な敷地を誇るが、かつては今の十倍の広さがあったらしい。天龍寺は、足利尊氏の時代に作られたが、もともとは、平安時代の初期、嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子によって創建された日本最初の禅寺だった。

 橘氏は、もともとは県犬養氏で、壬申の乱の際に大海人皇子を支えて勝利に導き、その恩賞で橘という姓を賜った。県犬養氏は、隼人と考えられる。

 そして、亀岡の佐伯遺跡のそばを流れるのも犬飼川であり、ここも隼人の居住地だ。

 現在、この目で見ることのできる過去の足跡の何倍もの規模のものが、地面の下に眠っていて、ネットワークを結んでいる。

 そこにアクセスするためには、意識的な行動だけでは難しい。シンクロニシティという意識を超えた力が、偶然のように見えて実は必然の因果で、導いてくれるような気がする。

第1032回  亀岡と近江を結ぶ磐座のネットワーク

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 (上:亀岡 出雲大神宮。下:東近江 三上山山頂)

 桂川松尾大社と嵐山のあいだあたりから北を見ると、美しい山々の連なりが見られます。
 左の端に愛宕山があり、右の端に比叡山。そのあいだ、西から高雄山の麓の神護寺や、神山の麓の上賀茂神社大文字山などもあるのですが、そこに、古代人が残した不思議なラインが存在します。
 愛宕山神護寺上賀茂神社、そして下賀茂神社の神体山とされる御影山が、東西一列に並んでいます。しかも、そのラインは、比叡山の向こう、琵琶湖を超えて近江富士と呼ばれる三上山の麓の三上神社、その反対側は、愛宕神社の背後にある亀岡の出雲大神宮にもつながっています。
 亀岡の出雲大神宮には大きな磐座がありますが、出雲大神宮の背後の神体山は、下賀茂神社の神体山と同じ”御影山”という名です。さらに近江の三上山の山頂にも磐座があり、そこは、天御影命という鍛治の神様が降臨した場所とされています。
 亀岡の出雲大神宮と近江の三上山と京都の下賀茂神社の神体山が”御影”という名でつながっているのです。
 さらに、昨日登った上賀茂神社の神体山の神山の山頂にも磐座があり、磐座のネットワークでも結ばれています。
 古事記の中で、東近江の三上山と亀岡(丹波)の関係は、彦坐王(ひこいますのみこ)の系譜でつながっているのですが、それは、第12代景行天皇や、その息子のヤマトタケルを産む系譜です。
 景行天皇を産んだ日葉酢媛は、第11代垂仁天皇に嫁ぎますが、その父親は丹波道主。実家があったところは、大堰川(現在の桂川)流域で、亀岡から松尾大社のあいだではないかと想定されています。
 平安京への遷都は794年ですが、秦氏桂川流域を開発し始めたのは5世紀末で、同じ頃に、松尾山で月読神が祀られ始めました。さらに、松尾大社から徒歩30分、上桂と桂のあいだに、京都市最大の前方後円墳天皇の杜古墳がありますが、これが築かれたのは4世紀、卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳と変わらない時期です。
 京都の歴史は、平安京よりもずっと以前まで遡ることになりますが、弥生後期(もしかしたら縄文)から、桂川を通じて、亀岡、嵯峨野、松尾、巨椋池桂川と木津川、宇治川の合流点)、そして近江やヤマト、大阪湾とつながっていたということになります。
 京都の西は、古代、水上ネットワークの要だったことは間違いないです。

第1031回 人生の切り替えの時

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 10年以上、1000回以上書き続けてきたHatena Diaryのブログが、まもなく終了し、Hatena Blogという新方式になるという通達があった。そのため、こらまで書き続けてきたブログの文章を移行した。

 Hatena Diaryは、慣れてはいたものの、様々な SNSが登場し使い勝手がよくなっているのに比べ、扱いにくい感じはしていた。でも、長文を描く場合は、それなりの心構えが必要だからと気にしないようにはしていた。

 でも、おそらく、その扱いにくさゆえに、ブログにわざわざ文章を書くという人は減り続けているのだろう。そうして、ブログに書かれていることも、SNSに書かれていることも、差がなくなっていくのだろう。

 それも時代の流れ。意固地になって抗っていてもしかたがない。

 方法は変わりつつも、本質的に変わらないように、ということが大事なのだろう。

 人生は、こうした切り替えの連続で成り立っている。

 新しい環境を、どのように前向きに捉えていくか。ネガティブな感情に引きずられてしまうと、たちまち、負のスパイラルに陥ってしまう。

 自分に言い聞かせるわけではないが、たとえ悲しい出来事であってもその変化を受け止め、自分の置かれた状況を理解すること。

 そして、なんとかなる、なるようになると、どこかで開きなおって変化を受け止めること。

 昔からそういうスタンスでやってきて、そのため、ドロップアウトも繰り返してきた。以前の自分とまったく違うこと、違う状況の中にいて、久しぶりに会う人に、その切り替えの大きさに戸惑われることもある。一貫性がないと言われてしまえばそれまでだが、自分の中では本質的に変わらず、いくつかの人生のパターンを経験させてもらっている、という風に受け止めている。

 悲しすぎる出来事も、きっと運命が自分を耕してくれているのだと信じていたい。

 色々と複雑で心苦しいことが重なって、そのまま落ち込んでいくのではなく、発想を変えて、その状況だからできることを、とりあえずやっていると、そのとりあえずの中から、新しい種が生じて、それが今までと違う形で育っていくことがある。その成長の方向に、自分の人生を合わせていくために、シフトチェンジ。

 という流れからなのかどうかわからないが、京都の東山に暮らし始めて4年半、東山は気に入っていた場所だけれど、あることをきっかけに別の場所に住もうと決意して、新しい居場所を探し始めて一ヶ月も経たないうちに、京都の西、松尾大社と嵐山のあいだに新しい居場所を見つけた。

 桂川の流れと、北にそびえる愛宕山から比叡山にかけての山並みが印象的だ。

 これまで長く生きてきて、始めて認識したことだけれど、同じ市内の西と東で、朝の始まりが大きく違う。

 東山は、東に山がそびえているので、朝日を見ることができない。そして朝は暗い。整理感覚として、朝の始まりが遅くて、いつも8時に起きていた。

 6時とか5時に起きていると友人が話すのを聞いても、そんなに暗いうちから活動しているのだとしか思わなかった。

 しかし、京都の西は、朝がものすごく早い。そして、朝日と朝焼けが素晴らしい。だから自ずから早起きになる。荘厳なまでの朝日を見たいという感情の力の方が、ベッドでグズグズしていたいという気持ちを凌駕するからだ。そうすると、夜も早く床につくことになる。

 1時に寝て8時に起きるという生活を20年以上続けていたが、そういうライフサイクルも変わっていくだろう。

 そして、京都の西に居場所を見つけて、昔、話だけ聞いてわかったつもりになっていた白川静さんの桂川周辺の早朝散歩のことが、15年も経って初めて実感として少しわかるようになった。

 2003年の春先、京都の桂に住む白川さんを訪ねたことがあった。ちょうど「風の旅人」において白川さんの連載が始まった頃で、当時、白川さんは93歳だったが、とても元気だった。その秘訣は、毎朝、5時に起きて、桂離宮桂川周辺を1時間ほど散歩すること。その後、朝食をとって昼まで仕事に集中する。そして、1時間ほど昼寝。2時頃に起きて、人と会うのは、昼寝後、頭が少しボンヤリしている2時から2時半。その後、再び仕事に集中して、夕方、目が疲れたら終わり。夕飯を食べて、ニュースを主に1時間くらいテレビを見て、早めに床に就く。そういう生活を何十年も続けていた。
 たとえば大きな賞を受賞するなど、どうしても東京に行かなければいけない時も、東京に泊まらず、用事をすませたらすぐに京都に戻ってくると聞いた。私が連載をしていただいたのは、風の旅人の創刊号から15号まで、白川さんが93歳の時の4月号から95歳の8月号までだった。白川さんは、その翌年、亡くなられたが、96歳の最期まで生涯現役だった。
 白川さんは、学会では異端で、甲骨文字や金文といった草創期の漢字の成り立ちに於いて、宗教的、呪術的なものが背景にあったと直感し、考察を深められたが、実証が難しいということで、実証主義者中心の学会からは批判され続けている。
 さらに、万葉集などの日本古代歌謡の呪術的背景に関しての論考もされているが、同じく実証主義の専門家の支持を受けていない。
 私が聞いたところによると、白川さんは、最初、万葉集の研究をしたかった。しかし、万葉集を研究するということは漢字を研究せざるを得ず、そうして漢字の深遠へと探求を深めていった。そして、甲骨文字などに直に接しているうちに、古代文字の中に宿る言霊を感受せざるを得ず、そこから、甲骨文字や万葉集の中にも流れている呪術性に対して霊感が開かれていった。
 そういう探求の道を深めず、たとえば万葉集という文学枠の中で専門的研究を行っている実証主義者が、そこに呪術性を読み取れないからといって、白川さんの研究を評価しないというナンセンスな状況。それは、自分の理解力、想像力、洞察力を超えた人間を認めないという今日のアカデミズムの頑迷さと陳腐さとなっている。だから、とりわけ文系の学問では人々を魅了する力が完全に失われている。アカデミズムに限らず、各種表現分野においても、同じような傾向はある。客観的分析、海外などでの流行の先取りに一生懸命の評論家に、表現者が現場で感受している霊性は伝わらない。
 それはともかく、白川さんの霊性は、毎朝、朝日とともに起きて、桂川の周辺を朝日を浴びながら歩き続けるという生活を何十年と繰り返していたことによっても育まれていたのかもしれない。
 96歳で亡くなる直前まで現役で、それまで誰も成し遂げていなかった金文(青銅器文字)解読の大仕事を終えた瞬間、内臓疾患(多臓器不全)により逝去。
 近代化以前は、健康な人が死ぬというのは、そのように、ある日、突然、去っていくという風だったのだろう。

 

 

第1030回 脆弱な世界だからこそ感じられる生の本質

 台風と地震が連続して起こり、空港閉鎖とか、停電の長期化というニュースが伝えられるけれど、携帯が使えなくなるとスマホ決済ができなくて買い物ができないとか、ネットによる救援活動の輪の広がりとか、これまでの自然災害と違う状況が起きているなあと実感する。
 6月下旬、中国の四川省の東北部や南部で大雨が続き、大洪水が起こった時は、仮想通貨のマイニングファームが浸水の被害に遭い、稼働停止を余儀なくされたという。マイニングでは非常に複雑な演算を処理するため、莫大な電力を消費する。
 米Morgan Stanleyのアナリストはこの四川省での洪水が世界のマイニング活動の8〜10%に影響を与えたとし、「中国のマイナーは世界のビットコインやその他主要仮想通貨の50〜70%を生成していることを考えると、今回の件でマイニング業界の脆弱性が露呈しただろう」と、中国にマイニング産業が集中する危うさを指摘した。
 
 昨日の夜、テレビのスイッチをつけると、メディアアーティストの落合陽一さんが、デジタルネイチャーというコンセプトを述べていた。
 すべての社会現象の背後に、コンピューターによる計算と、それによって作り出される仕組みがあり、それがどういうものかを意識することなく人間が生きるようになると、人間の自我もまた希薄化し、物質と非物質、見えるものと見えないもの、聞こえるものと聞こえないもの、人間とそれ以外などの分別も消えていく自由な感覚世界になっていくと。
 つまりコンピューターが作り出すヴァーチャルな世界とそうでない世界との区別をつけることが無意味になってしまった世界が到来し、人間の意識も次のステージに入っていく。
 こうした変化は、かつて植物の光合成の力によって大気中に多くの酸素が供給され、そのことによって、生命体にとって毒素であった酸素を生きるために必要なものにする生物が生まれて増えていったが、現在、進行中のデジタルネイチャーもまた、同じような生態系の変化につながっているという。
 生態系全体まで広げて考えることはどうかとは思うが、現在、生態系の頂点に立っている人間の意識がどう変わるかによって人間以外の生態系への影響も大であることは確か。そうした人間社会に生まれた仮想通貨も、これまでの紙幣に変わるという程度の影響力ではなく、これまで国が管理していた通貨というものに対する根拠のない信頼が無意味化されてしまう、それはつまり、中央集権的な力による洗脳で、根拠のない信頼を作り上げていたにすぎないという事実が明らかになる事件ではあると思う。
 このたびの大停電によって、デジタル化社会の脆弱性が鮮明になった。
 しかし、デジタル化社会の方がそれ以前の仕組みより不安定かどうか、という議論は意味がなくて、どちらであれ確固たるものは存在しない、ということを、より明確に認識できるのはどっちかという風に考えた方がいいと思う。
  話はまったく変わるけれど、数日前、ブラジルの国立博物館が火災で焼け落ちて、2000万点に上る所蔵品のほとんどが焼失した。老朽化による漏電が火災の原因とされ、建物の予算をけちった政府の責任だという非難が高まっている。
 しかし、その非難は、大切なものを一箇所に集めるだけ集めて、一つの機関でそれを正しく管理しなければならないという発想の延長であり、この発想が変わらなければ、他の原因で、一箇所に集めた全てが失われる可能性は残り続ける。
 それと同じことで、中央集権的管理による従来の貨幣制度が安定、という幻想を捨てなければならない。(年金制度も同じ)。
 この地上の現象は、どんなものでも脆弱で、微妙なバランスの上に成り立っており、そのことを意識しながら敏感に生きていくか、そのことを考えないように洗脳されて、虚構の安心の中で鈍感に生きていくかの違いにすぎない。そして、虚構の安心の中の鈍感に慣らされてしまうと、何か起きた時に、パニックになる可能性が高くなる。
 しかし、中央集権的システムは、長年、既存の制度は安定して安全ですよと人々を洗脳してきて、洗脳された人々の盲信がシステムの安定に寄与するという構造でもあったので、今さら、安全ではないとは言えない。今の制度に対する信頼がなくなったら、社会不安になることは間違いない。だから人々は不安の中でも安心を切望し、政府は安心を力説する。その相互作用の中で、偏狭で排他的な安心イデオロギーができてしまう。自分の安心さえ確保できれば他は関係ないという。とくに日本社会は、お金を落とす海外旅行客には寛容でも、難民や移民の受け入れは先進国の中で際立って少ない。
 どうも現在の日本人は、「安心でなければ幸福ではない」というイデオロギーに染まっている。
 本当は、システムの脆弱さを意識せざるを得ない環境の中で生きる方が、気遣いや寛容など、人間の心の受容度が大きくなり、人間関係を軸にした社会全体の幸福観は増すかもしれないのに。
(もちろん、脆弱性への耐性が鍛えられていないと、自分の不安をコントロールできずに攻撃的になったり、排他的になったりするだろうが)
 それでも敢えて言うならば、多くの受け継がれてきた文化は、世界の脆弱さへの認識がベースになっているはずで、文化力によって、脆弱性への耐性が養われていた。 
 日本文化は、その典型で、例えば「もののあはれ」という美意識は、何一つ安定的に固定していない世界という認識と、そうした世界の受容が前提になっている。
 そうした文化本来の力は、堅牢たる組織構造に守られた学術研究の積み重ねだけでは、想像力が届かず、読み解くことができなくなる。
 森は雨の恵みを必要とするが、森の中に生息するキノコなどの微生物が、風に乗りやすい構造を持って空中高く舞い上がり、「バイオエアロゾル」となり、周りの水蒸気を集める雨の芯となって雨を降らすメカニズムに貢献している可能性があるらしい。
 自らに必要なものを得るための仕組みづくりに自らが深く関わるということを、生物のもっとも原初の形であるキノコなどが行っている。
 人間だけが、自分以外の何かによって生を管理され保護されて安心するというわけにはいかないだろう。

第1029回 もののあはれ源流への旅。玉石の力と言霊の力

 兵庫県北部の出石に行ってきた。
 山の中での水晶拾いに誘われたからだが、個人的には、もう一つの関心事項があった。
 それは、出石には出石神社という但馬を代表する古社があるからだ。この神社の祭神は、天日槍命(あめのひぼこのみこと)という渡来系の神(新羅の皇子)で、神功皇后の母親の祖先にあたる。神功皇后の父方の祖先は私が探っている和邇氏だが、神功皇后には和邇氏と新羅の皇子の血が流れており、その彼女から第15代の応神天皇が生まれ、奈良から河内へとヤマトの拠点が移動する。
 そうした歴史の復習はさておき、”出石”という名のとおり、この地は”石”(玉とか鉱石)と関係あるだろうと推測できるが、実際に出石を含む但馬地方には、金や銀など実に多種多彩な鉱山がある。さらにその周辺も、鉄の大江山、日本一のスズ鉱山として栄えた明延鉱山、佐渡金山(越後)、石見銀山(石見)とともに古代から中世にかけて日本の重要な財源であった生野銀山もある。
 また明延鉱山のある養父には、今でも大きなヒスイの原石を見ることができる。
 勾玉の材料であるヒスイは、糸魚川のものが最上級とされるが、もしかしたら古代は、但馬も、ヒスイの生産地の一つだったかもしれない。
 出石神社の祭神の天日槍命は、一人の人物ではなく帰化人の集団で、製鉄とか須恵器の伝来と関係あるという説もある。
 その天日槍命の伝承の中で、”玉”との関係が綴られる。
 天日槍命が日本にやってきた理由は、逃げた妻を追ってきたからで、その妻は、女性の陰部に太陽が差し込んで生まれた赤い玉から生まれたとされている。
 そして、天日槍命は八種の神宝を持ってきたが、その神宝は、『古事記』では、玉が二つと、振浪比礼(浪を起こす布)・切浪比礼(浪を鎮める布)・振風比礼(風を起こす布)・切風比礼(風を鎮める布)・奥津鏡(沖の航海を守る鏡)、辺津鏡(岸の航海を守る鏡)の八種とされている。
 『古事記』や『日本書紀』に記されている神功皇后三韓征伐の物語でも玉が重要で、神功皇后が海中から得た水晶の如意珠には、玉の中に剣の形が現れており、この宝珠を得てからの神功皇后は占術の力で遠征において連戦連勝。この物語は、能の「西宮」でも謳われている。その如意珠とされるものは、西宮の廣田神社に納められており、年に一回、秋に公開される。

 勾玉は、三種の神器の一つでもあるが、現在、三種の神器のうち天皇が実物を所持しているのは勾玉だけであり、草薙剣尾張熱田神宮八咫鏡伊勢神宮にあるとされる。
 そして、日本の古代史の中で、”玉”の位置づけは複雑に変遷していた。
 三種の神器の鏡と劔に関しては、大陸伝来のものであり道教の影響が強いと考えられる。古代中国においても王の葬送儀礼などにおいて鏡と劔が用いられている。
 それに対して、玉は、日本において縄文時代から特別なものとして扱われていた。
 とくに縄文文化の最盛期とされる中期(BC3000年〜BC2000年頃)にはヒスイの素晴らしい大珠が作られていた。しかし、縄文後期から晩期にかけて、ヒスイの大珠は姿を消し、勾玉が登場する。その時から、ヒスイは、北陸の生産地から遠く青森や関東などに運ばれて玉製品が制作されるようになる。
 そうした変化の背景には、稲作が始まって富の蓄積がはじまり、鉄器製品の普及とともに各地域のクニに支配者が生まれてくることがあったかもしれない。クニの支配者たちは、軍事的な支配だけでなく、宗教的な支配者でもあった。なぜなら、穀物の栽培や治水灌漑工事など多くの人々を動かすために、宗教的な儀式や呪術的行為によって、支配者の説得力を高める必要があったからだ。
 勾玉は、一種の呪具として、宗教的な役割をもっていたことは間違いないと思われるが、そうした宗教的統治手法が、農作技術とともに全国に広がっていったのだろう。
 しかし、その後、劔と鏡という大陸由来の神器は、支配者たちの儀礼や祭祀道具として残り続けていたにもかかわらず、勾玉は少しずつ減っていって、奈良時代に入ると、ほとんどなくなってしまう。
 三種の神器うち、劔は軍事権で、鏡は祭祀権を表すともされるが、勾玉は何を意味するのか?
 おそらく劔と鏡は首長や新しい宗教的権威である神官と関係が深く、勾玉は、古くからの呪術者と関係が深かった。小さなクニが統合されて国家が誕生すると、首長的役割と神官的役割を果たすものは軍と宗教を盾に大きな権力を持つようになるが、呪術者は、権力者から嫌われ、時には恐れられ、クニのはずれ、日常的世界と異界の世界の境界に追いやられ、村人たちの霊的相談役のような存在になった。
 大陸伝来の陰陽師や祈祷師、僧侶などに役割を取って代わられた古来からの呪術者は、神がかりをして祖霊たちと交流することができる存在だったのだ。

 勾玉は、魂を意味するものであり、それは祖霊=神の宿りだった。
 勾玉を振ることは魂を振ることで、その共振共鳴の原理で、神を自らに憑依させて力を増大させる。卑弥呼のようにかつてはクニの指導者であった呪術者(シャーマン)は、そのように人々の集団をとりまとめた。
 ”魂振り”という言葉の意味は、活力を失った魂を再生すること。広義には、鎮魂(たましずめ)を含める。
 そして、玉(魂)を振ったり、色彩をヒラヒラと振るわせたり、太鼓などの音を振動させて魂を活性化させたり沈静化するという発想は、音の振動によってメッセージを伝える言霊信仰となる。短歌や祝詞は、書かれている内容よりも発せられる音に重きが置かれた。歌うという行為は、時には呪いであり、治癒であったのだ。
 
 近畿地方には出石周辺の山々もそうだが神体山と呼ばれる姿美しい低山が数多くある。そして、それらの山々の頂上付近には必ずと言っていいほど磐座がある。その理由は、神体山が長い歳月を経た風化によって、柔らかい部分が削られ、硬い部分だけが残った山だからだ。その頂上付近は、もっとも雨風に晒されている部分であり、非常に硬い岩だけが風化を免れ、磐座となって残っている。
 古代、それらの神体山の頂上の磐座の周りは、歌垣の舞台だった。近隣の村の人々が山に登り、若い男女が恋の歌の掛け合いを行っていたことが風土記などにも記されている。
 言霊の力がその人物の力であり、男も女も、その力を磨いていった。そして、めでたく男女が多く結ばれるとその年の豊作が期待された。磐座に男性器や女性器を連想させるものが多いのも、生殖と五穀豊穣に共通する生命原理が霊力を通して呼び起こされるからだろう。
 こうした言霊と生殖と生産を結びつける古代文化の伝統が、後の『源氏物語』など日本固有の文学へと流れ込んでいく。”もののあはれ”とは、生命循環の摂理を魂の共鳴共振で受け止めることなのだ。
 『源氏物語』は、現代の小説のように一人で室内にこもって目で読むものではなく、女房語りといって一人の女官が声に出して読み、周りの者が声の震えを身体で受け止めて言霊を共有し、共振共鳴する場を作り出す装置だったということを考慮しないと、物語の真相も理解できない。「源氏物語」研究が、作者が紫式部単独かどうかといった史実の調査や、一つの文献的資料として解釈の相違の議論に落ちこんでいくと、本質から遠ざかっていくような気がする。
 現代的感覚では、自らの成長はみずからの努力によるものとされるが、そうした自助努力の意識は自己意識の肥大化を伴う。成功者がより傲慢になっていくのも、そのためだ。
 それに対して、古代人は、力は外側からきて自分に憑くものと考えていた。外と自分のやりとりを魂と感じ、とりわけ祖霊との交感を重視した。祖霊といっても人間だけとは限らない。岩や樹木や川、山など自らを取り囲む森羅万象は、それぞれ世代交代を繰り返しながら今という時を刻んでおり、その恩恵を受けるうえで、それらの自然物の祖霊に対する感謝も大切なこととなる。富の蓄積が始まって特権階級ができる前は、そうした信仰が当たり前のものだった。長く平和が続いた縄文時代は、まさにそういう時代だった。
 そして、玉は、そうした祖霊との交感のための呪具だったのだ。そう考えると、なぜ勾玉が胎児のような形、もしくは、偉大なる漢文学者・東洋学者の故白川静さんが示されたように、骨の屈折すなわち「死体」を著す形なのか納得できる。誕生と死は、過去と未来の接点。不思議なことに、胎児は、まもなく死にゆく皺々の翁のような顔で生まれてくる。
 ”玉石”の位置づけの変遷の歴史は、魂の捉え方や森羅万象と人間との関係の変遷の歴史でもある。
 まずは、縄文後期に、ヒスイの素晴らしい大珠が消えて勾玉になった。
 次の変遷は、小さなクニが統合されて一つの国家が形成されていく過程で、劔や鏡が大王や神官の側で祭祀道具として用いられ続けたのに対して、玉を用いる呪術者が、支配者によって政治の中心から遠ざけられていった。
 そして、次なる大きな変遷は、天武天皇の時代となる。
 壬申の乱(672年)に勝利したことによって専制君主として君臨し、律令制の導入に向けて制度改革を進めた天武天皇は、自らが陰陽師でもあり、日本で最初の天文台も作り、官僚組織としての陰陽寮を設置した。当時の最新科学である陰陽道を政治に積極的に取り入れたのだ。
 新しい価値観と思想を摂取することに積極的だった天武天皇の時代に、日本や天皇のルーツを描くことで過去を尊重する心構えを広める『古事記』と『日本書紀』の編纂が指示される。
 それは天皇の権威づけという意味もあるが、過去から現在までの系譜を整えることで今ある世界の正当性を示し、争い事を抑える目的もあっただろう。
 三種の神器という概念が生まれたのは、この頃だ。
 『古事記』の中では次のように記される。
 スサノオが、亡き母イザナミのいる根の国に行く前に、姉のアマテラスに会おうと思って高天原へ昇ると、山川が響動し国土が震動したので、アマテラスはスサノオ高天原を奪いに来たと思い、武具を携えて彼を迎えた。スサノオはアマテラスの疑いを解くために、ウケイ(誓約)をしようと提案し、まず、アマテラスがスサノオの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以宗像三女神が生まれた。 
 次に、スサノオが、アマテラスの「八尺の勾玉」を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から五柱の男神が生まれた。
 その男神の一人、アメノホシオミミの息子が天孫降臨のニニギであり、その三代後が神武天皇だから、天皇家のルーツは勾玉ということになる
 その後、ニニギが高天原から天孫降臨する時、アマテラスが三種の神器をもたせ、その後、天皇となるものは、その三種の神器を受け継いでいくこととなる。
 しかし、第10代の崇神天皇の時に、三種の神器のうち、鏡と劔の祟りを恐れ、その相応しい落ち着き場所を求め、豊鍬入姫命、次の垂仁天皇の時に倭姫命が受け継いで各地を巡り、最終的に伊勢にいたり伊勢神宮に祀った。
 さらに、第12代の景行天皇の息子であるヤマトタケルが東征に出発する時、伊勢神宮の斎女だった倭姫命から草薙の劔を与えられ、遠征からの帰路、尾張のミヤズヒメに預けたまま伊吹山に登り、神の怒りに触れて病となり命を落とし、そのまま草薙の劔は尾張熱田神宮が保持し続けていることになっている。
 天皇のルーツを、スサノオが噛み砕いた勾玉として描かれ、勾玉以外の劔や鏡は、ヤマトの宮中を出て別のところにあると古事記日本書紀に記されていることは、とても暗示的だ。
 玉を日本古代からの呪具としてみると、天皇の呪術者的な役割が、より明確になる。軍を象徴する劔や、謀略につながる知識を象徴する鏡をヤマトの宮中に置いておくことは、禍の種をそばに置いて秩序を不安定にすることであり、そのことを「祟りを恐れる」と表したとも考えられる。
 それはともかく天武天皇の時代、勾玉の取り扱いは、不可思議な動きを見せる。
 まず、天武天皇が亡くなったすぐ後に制定された飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は、日本史上、最初の体系的な律令法と考えられているが、現存しておらず、詳細は不明な部分が多いのだが、その中で、勾玉は三種の神器に含まれていなかったが、後に、中臣氏の主張で新たに加えられたという説がある。
 そして、古事記(712年)の中で、玉石は”勾玉”と記されているのに対して、その後に完成した日本書紀(720年)では、曲玉と記されている。卑字・凶字が吉字・好字として書き換えられているのだ。
 天皇がルーツが勾玉なのだから、卑字・凶字はふさわしくないと考えられたのかもしれないし、勾玉を天皇の魂そのものとすると、天皇即位の儀礼の時に神器として受け継ぐのは、劔と鏡という大陸伝来の神具だけでいいということにもなるし、色々と試行錯誤があったかもしれない。
 いずれにしろ、勾玉も三種の神器の一つとして落ち着き、その日本古来の呪具が、三種の神器のうちただ一つ、天皇家が保持し続けるものとなる。(実物は誰も見ていないが、劔と鏡は、それぞれ熱田神宮伊勢神宮にあり、天皇家が保持しているのは「形代」ということになる。)
 大王の時代(第10代崇神天皇の頃から)、劔と鏡という武力と知力を象徴する大陸由来の呪具が権力者の重要な祭祀道具であったが、第40代の天武天皇の後、日本古来からの呪具である”玉”(魂)の権威が、復権した。それは、どうやら祖霊の力の復権も意味している。
 応神天皇をはじめ歴代の大王たちは激しい戦いに勝ち残ったものであったが、天武天皇は、そうした戦いに懲りていた可能性がある。(古代日本では、権力の頂点をオオキミ(大王)と呼ばれたが、遣隋使を始めた推古天皇の頃から「天皇」という称号が用いられるようになったと考えられる。)
 672年に壬申の乱が起こる前、当時、大海人皇子だった天武天皇は、死を間際に迎えた兄の天智天皇に次の天皇になるように懇願されるが、そのことが禍の種になることを察し、次の天皇天智天皇の子供の大友皇子がなるべきだと答え、自らは、妃の鵜野皇女(後の持統天皇)や子供の草壁皇子ともに吉野に隠棲した。
 しかし、時代の流れに抵抗することはできず、吉野で挙兵して東国に向かって軍を整え大友皇子の軍を打ち破った天武天皇は、天皇を軸とした調和の国を作ろうとしたのではないか。天皇という存在は、おのれ一人の力によって国の中心に君臨しているのではなく、祖霊たちに守られることで国の安定を保つ媒介者であり、そのための各種の儀礼を司る。祖霊とは、戦争で死んだ英霊という意味ではなく、上にも述べたように森羅万象を循環していく生命全体のこと。そうした思いで、体系的な律令法を作るとともに、陰陽道など森羅万象の摂理を科学的に整える方法を導入し、さらに祖霊の魂をより意識化するための歴史書の編纂を命じた。
 その時から、日本は、独自の統治方法を作り出した。中国においては、歴代皇帝が全権力を手にしていたが、日本では国家統治の『権威』を天皇が担い、『権力』を握る最高責任者を天皇が任命するという形になった。天皇は、皇帝のように民衆を支配する存在ではなく、民衆の生活に責任を持たなければならない存在であるという位置付けである。
 この統治方法は、後の摂関政治だけにとどまらず、武士の時代においても征夷大将軍天皇が任命するという形、現在でも、衆議院議長内閣総理大臣の指名の経過を天皇に直接報告し、 天皇が、国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命する(憲法6条1項)という形で引き継がれている。
天武天皇の功績かどうか、奈良時代から平安時代の終わりまで、日本は、権謀術数は数多く発生し、そのたびに祟りの騒動が持ち上がるが、政治の中心部における大規模な軍事的対立はなくなる。)
 そのように魂の力で国土を治める天皇のルーツが、スサノオが噛み砕いた玉である。玉は、天皇の魂であるとともに森羅万象に満ちる生命の振動と関わっている。
 玉は、縄文時代から続く生命全体を共振共鳴させる呪具であり、祝詞や和歌などに、その力が受け継がれていった。文学とは何かを考える上でも、そのことを忘れてはならない。
 そのことを一番理解して実践して形にした現代の文学者は、今年の2月に亡くなられた石牟礼道子さんだろう。20世紀文学で唯一つだけ後世に伝えるとしたら、石牟礼さんの「苦海浄土」がもっとも相応しい。石牟礼さんの晩年、インタビューをさせていただいた時、重度のパーキンソン病で身体を静止させることができず、玉振りのように激しく身体を震わせながら一つひとつ言葉を発していたことが忘れらない。(不思議なことに、話す時には身体が震えるが、筆を持って書く時は、身体の震えを収まると仰っていた)。
 言葉の美しいことを玉にたとえて「言葉の玉」と言うが、言葉の美しさとは言霊の力を感じられる言葉ということであり、そうした霊力の備わった言葉だけが、時空を超えて、祖霊神のように、人々に共振共鳴される。
 源氏物語が、古代の和歌と、中世の「能」をはじめとする様々な文学や絵画を結んだように。
 17世紀末に生きた芭蕉が12世紀末に生きた西行の言霊に感化されたように、そして、西行が7世紀に生きた柿本人麿たち万葉歌人の言霊を昇華させたように。

第1028回 アメリカンフットボールと近代合理主義社会。

 アメリカンフットボールのことが大問題になっている。どのニュースもこの件を大きくとりあげ、それ自体が異様な状況となっている。アメリカンフットボールのルールを知っている日本人はほとんどいないが、今回の出来事は、ストーリーとして面白いのだろう。権力者の非情と、権力者に翻弄されて傷つけられた若者の構図が。私は、大学を中退するまで強豪チームでラグビーをやっていて、この種の戦闘的なスポーツのことを少しは理解できるので、おそらくだけれど、今回の問題の真相は、テレビニュースなどが誘導している方向と若干違うのではないかと思っている。
 勝利至上主義であること、全てがトップダウンで、上には一切意見を言えない体質であること。そのため、監督が神様のようになってしまっていたこと。これは、アメリカンフットボールという完全分業制の近代合理主義の賜物のような特殊なスポーツが陥りやすい落とし穴ではあった。
 今回、監督やコーチ、そして選手が自分の人生を大きく狂わせてしまうような事態に直面することになってしまったのは、こうした環境の問題が一番大きく、その環境の特殊性を、その中にいるために自覚できていなかったことが今回の結果を招いてしまった。当事者たちにとって痛恨の極みであると思う。
 今回の事件の当時者である監督もコーチも、スポーツマン出身であり、悪意をもって相手選手を怪我させようとしていたとは到底考えられない。いくら勝利至上主義といえど、子供の頃にテレビアニメで見たような、ライバルのスーパーヒーローを試合前に怪我をさせるという構図が成り立つようなスーパーヒーロー(その選手がいるかいないかで勝負の結果がまったく違う)は、現状のどのチームにも存在しないと思う。(大リーグで大活躍する大谷選手でさえ、怪我で戦列を離れても代わりの選手はいる。)
 おそらく、コーチが選手に放った「相手選手を潰せ(怪我をさせるくらい)」という言葉は、会見に臨んだ選手の真摯さから判断するに、真実だったと思う。
 同じく会見に臨んだコーチの発言から想像するに、このコーチは、うまく言葉を操れずに激しく単純な言葉で気持ちだけを前面に出して指導してきたのだろう。
 そして、このコーチが想定していたのは、相手のクォーターバックがボールを持って走っている時、またはボールを投げる時に、相手がぶっとんでしまって怪我をするくらいの猛烈なタックルをくらわせることだったのではないかと思う。
 「怪我をさせろ!」というのはそういう意味で、まさか、ボールを投げ終えた後、しばらく時間が経って、気持ちが緩んで後ろ向きになって何の警戒もしていない状況の選手に、背後から強烈なタックルをくらわせることまで想像していなかったのではないかと思う。
 「やれなかったではすまないぞ」と試合直前にコーチが選手にかけた言葉も、「手段を選ばずにやるんだぞ、いいな!」という極悪人の台詞のようなことではなかったと思う。
 ただ、退場した選手が一人で泣いている時、「優しすぎるのがダメだ」などと声をかけたのは、このコーチの想像力の乏しさで、起ってしまった事の大きさがわかっていなかったのだろう。局面が自分の想像を超えて一人歩きしてしまった時、自分の言動が理に添わなくなっていくのはよくあること。
 アメリカンフットボールというのは、一人一役で、試合中に自分に課せられた仕事は極めて限られている。アメリカが作り出したこのスポーツは、近代合理主義社会の仕組みそのものであり、大企業の不祥事につながる問題もここにある。
 自分の目の前の仕事の結果だけが問われる。そして失敗をすれば、自分の居場所を失う。代わりはいくらでもいる。そういうプレッシャーをかけられ、かつ、限られたターゲットだけを与えられたら、全体のこと、先のことなど考える余裕がなくなり、そのターゲットだけを目指して、猪突猛進するしかなくなる。
 テレビで何度も繰り返された今回の事件の現場映像で、遠く離れた相手のクォーターバックに向かって、試合の流れとは無関係に全力で走っていき、背後から猛烈なタックルをくらわせた選手の姿が、何か象徴的な意味をもって私たちの心に食い込んできたのだ。それが何なのかは意識できないけれど、何とも言えない恐ろしいもの。その恐ろしさは、組織の中で追い詰められ、生きていくために自分の居場所に執着し、権力者の評価に怯えて暮らす自分とも重なる。
 最近、今回の選手のような状況に陥った人の会見がとても多い。とくに大物政治家や組織内の権力者に忠実であったがために自分の行為を歪めてしまった人たちの釈明。
 彼らは組織内でとても優秀と評価されてきた人たちで、順調に出世もした。根っからの悪人ということではないと思う。しかし、結果的に、自分の行為を歪めてしまった。そして、それが明るみに出た後も、日大の20歳のアメフトの選手のように潔く語ることができていない。
 この両者の違いは、アメフトの選手が、自分のやってしまった行為を受け止めて、自分にはアメフトをやり続ける資格はない、そのつもりはないとケジメをつける心境に至ったのに対して、空疎な言葉を繰り返す政治家や官僚は、色々と複雑なものを抱え込みすぎて、そのケジメをつけられないのだ。悲しいかな、人生の成功と失敗の判断の基準が、まったくわからなくなってしまっている。
 日大の選手のように、自分の言葉で、誠実に語ることで、過ちに至った状況を多くの人々は理解してくれる。しかし、空疎な言葉で真実を歪め続けると、迷路から脱けだすことはできない。
 そして、もう一つ恐ろしいことは、メディア社会というのは、当事者同士が腹を割って話し合えば解決するかもしれない問題でも、全国民を巻き込んだ異様な騒ぎにしてしまい、結果として、当事者たちの人生を嘲笑うかのように狂わせてしまうこと。たった一度の過ちが、それまでの努力の全てを粉砕してしまい、未来も暗澹たるものにしてしまうこと。
 さらに、問題が当事者だけに止まらなくなる。大学一になってモチベーションも高かったはずの日大フェニックスの選手たちも巻き込まれてしまったし、この異様な騒ぎで、日大の学生たちも、世間に対して、どこか後ろめたい気持ちを持たざるを得なくなる。
 テレビの解説者や専門家は、わかりやすい構図で語ろうとするが、彼らもまた、アメリカンフットボールの選手のように組織内で非常に限られた役割だけを与えられ、目の前の結果(視聴率)だけがターゲットであり、結果を出せないと自分の居場所を失うというプレッシャーにさらされ、必死になっているだけのこと。そして、メディアは、関係者の家族を待ち伏せして大勢で取り囲んでインタビューするなど、一人ひとりは悪人ではないかもしれないけれど、結果的に神経が麻痺して思考停止状態に陥り、常識を欠いた行為で、人を傷つけることを平気で行っている。そのことを果たして自覚できているかどうか。
 もっと言うならば、子供達の健康を損なうことを利益に結びつけている企業活動を行っている会社や、手抜き検査を続けていた自動車会社や欠陥住宅販売の社員も同じ。
 私たち近代合理主義社会の住人は、自分に与えられた役割以外のことに、意識も思考も配慮もいかなくなり、目の前の結果だけを負わされるプレッシャーの中にいる。そして、時々、その行為が深刻な事態とつばがり大問題となるが、大問題となっている企業や個人だけを一斉に非難攻撃することばかりが繰り返されている。
 同じ環境の中に居続けていると、非常に限られた役割でしかないのにそれが世界の全てのように感じてしまい、それを失ったら世界が崩壊してしまうような恐怖で、絶望し、プレッシャーに押し潰されて自殺してしまう人もいる。 
 今回の日大の選手のように、その世界に見切りをつけるという心境に至った時、もしかしたら別の視点を得ることができるかもしれない。その時、自分はなんて狭い世界の中に閉じ込められていたのかと気づき、本当の意味で、やり直せるのかもしれない。
 しかし、過ちに気づいてやり直すことを許さない雰囲気を作り出す大衆メディア社会の暴力が無くならないかぎり、それは簡単ではない。

第1027回  室礼ーOfferings


 京都のど真ん中の京町家で、4月14日から5月13日まで、写真と工芸と美術のコラボレーション第4回「室礼展」を開催します。本日、なんとか施工を終了させました。今年は、同じ時期に開催されるKyoto grapieの期間に合わせましたので、昨年までに比べて、写真を充実させています。
 詳しくは、こちらのホームページをご覧ください。
https://kazesaeki.wixsite.com/shitsurai
 日本を代表する写真家、鬼海弘雄さんの「 portrait 」を、ほぼ等身大の大きさで10点ほど展示しました。鬼海さんは、海外を含め、様々なところで展覧会が開催されていますが、通常の写真展と違い、他の工芸美術との響きあいをご堪能ください。私も、ピンホール写真を2点、展示しています。テーマに即して、写真だけでなく、建築、工芸、美術などとともに絶妙に響きあい、相乗効果を発揮しています。ぜひ、体感していただければ幸いです。