植物という未知の扉(修正)

 今日、岩槻邦男先生とお会いした。
 人間は、真、善、美の概念がある。しかし、動物にはそういう概念はないだろう。
 人間は植物を見て美しいと思う。しかし、動物は、まずそう思っていないだろう。
 人間は、実利を超えた活動を行うことが出来て、そこに人間ならではの特性はある。
 しかし、人間だけがなぜ、そういう能力を身につけることができたのか?

 今日、岩槻先生とお話をして興味深かったのは、人間は、植物を観察して精神的なことを多く学んできたのではないかということだ。もちろん、人間は動物からも多くのことを学んできたが、動物の活動や世界認識の仕方に関しては、人間はある程度、自らの想像力の範疇で理解できることが多い。しかし、植物の活動や世界認識に関しては、人間の理解を超えている。植物は、神秘だ。神秘というのは、美を感じさせる大きな要因だろう。神秘というのは、真理探求の衝動を生むだろう。また、神秘を感じさせるものとの距離の認識が、自分を省みることにつながり、それが善悪の概念を生むのかもしれない。

 動物の個体は寿命があり、生殖細胞を通じて、次世代に生命をバトンタッチしていくことしかできない。
 しかし、樹木は、生存環境さえ整っていればは寿命がなく、個体としての樹幹は死なず、枝の最先端および根の最先端で常に一次成長が行われ、伸び続けていく。
 それでいて、種子を飛ばしたり動物に運ばせたりしながら、奇想天外な子孫繁栄のシステムを作り上げている。かつ、光合成によって酸素を作り出して、動物など他者を生かしている。そのように植物の生存戦力は何かとても深遠なもののように思う。
そして人間は、確かに身体としての個体は動物であり、寿命がある。しかし、精神とか知的活動においては、樹木が、枝や根の先端からさらに一次成長を続けて伸びていくように、成長のダイナミズムがやむことはない。そして、美や知の伝達方法に関しては、樹木の種子のように、書物や写真やインターネットを介して、飛散させていくことができる。
 そして三つ目の他者を生かすシステムだが、人間だけが他の動物と違って、自分以外の生き物に特別な思いを抱くことができるし、自分の生活に直接関わってこない他の人や生物のことで心を痛めたりすることがある。
 植物のように他者を生かすシステムを完全に構築できているわけではないが、その兆しのようなものは常に垣間見せている。
 身体的には動物の人間が、精神的に植物に近づこうとしている。
 樹木は、仰ぎ見るだけで人間を哲学的にする。一年のうち、決まった時期に咲いて一瞬にして散っていく桜を見て、人間は、無常の世の理をしみじみと察したりする。
 動物を見る時より植物を見る時の方が、人間は心静かになり、深いところで対話するような気分になる。そうして人間は、植物から人智を超えた何かを得ようとしている。

 例えば免疫など、人間の生命工学の大きな節目は、植物を媒介にして発見されているのだという。植物の方が実験材料として手に入れやすいからかもしれないが、理念や基礎においては植物を媒介にして行われ、それが実用化のレベルになってくると、動物を媒介にするのだそうだ。
 そのように人類の歴史を見ても、最初の気づきは、植物が与えていることが多いのだ。
 人間にとって植物は、完全に知り尽くすことができない存在であり、それゆえ、いつの時代も、未知の扉としてそこにあるのかもしれない。