第939回 生命は、瘤だらけ。

 日々、当たり前のように生きているけれど、生きて存在していること自体が、いったいどういうことなんだろうと不思議でならない。生命のこの精巧さ、強靱さ、脆弱さ。生命がこのように存在させられているのは、一体どういう理由があるのだろうか。
 ダーウィンの唱える進化論で説明されても、生命の神秘の解答は、もっと深遠なところにあるような気がして納得できない。
 夕方になると、家のまわりをジョギングする。法観寺まで駆け上がり、八坂神社に向かい、円山公園で軽く体操をして、知恩院の前を走り抜けて平安神宮に向かう道沿いに青蓮院がある。そこには、樹齢数百年(800年という説もある)のクスノキの大樹がある。その樹の根に手をかざして、見上げる。そういうことを繰り返している。自分の祈るような思いを、時空を超えて生きてきた樹木に託すように。
 四方に伸びる枝は、幹本体よりも長く、何本もの手が虚空に広がり、全体から畏ろしいまでのオーラを放っている。
 幹本体は、あちこちに瘤が盛り上がっている。それらの瘤は、樹木のエネルギーが型に収まりきれずに外に押し出ようとする形にも見える。樹齢数百年のあいだに、そうした衝動が何度も何度も繰り返したのだろう。無数の瘤の集まりが、樹木そのものの本質のようにも見える。
 生命は、型に収まりきれずに、もがいている。そのもがきこそが生命の証とするならば、現代社会において「病」と整理しているもののなかに、生命の本質が秘められているとも言える。
「病」とされる症状に陥ると、そのもがいている状態が、苦しみという言葉で表される。確かに苦しい。しかし、「苦しい」という言葉を知らずに、その状態と向き合えば、どうなんだろう。わけのわからない突き上げるような衝動。いったい何の衝動が、どこに向かって、突き上げようとしているのか。その先に、生命は、何を志向しているのか。
 世界は揺さぶられて何かが引き起こされる、ということが繰り返されてきた。エネルギーというものは、常に、そうした破壊と創造を引き起こす。瘤だらけの幹に生命力を感じるのは、生命力が、まさにそうしたエネルギーであることを、私たちが本能的に知っているからだ。エネルギーが強すぎると、社会的にはうまく調和ができず、畏ろしい瘤になる。調和とは程遠い瘤を醜いと思う人もいる。しかし、長い歳月を乗り越えた大木が無数の瘤をまとっているということは、瘤の積み重ねこそが、その樹木の歴史なのだ。人類の歴史もしかり。そして、一人ひとりの人生もまた、瘤のような身じろぎ、溢れ出るような衝動を否定してしまうと、いったい何が残るというのか。
 機械のように秩序的に管理された身体と心が健全という考えは、永遠に連なる生命よりも、ただこの瞬間を無難にやりすごしたいという無気力と相性がいいだけかもしれない。