科学の言葉

 ご指摘をいただいた「科学の言葉」について、私の考えを述べます。

 門外漢のたわむれをお許しください。

 科学、とりわけ20世紀科学は、根本的なところで違ったところから出発して、その上に構築されているのではないかと私は思えてならないのです。

 というのは、20世紀というのは量子力学の時代ですが、これを語るうえで、ハイゼルベルグの「不確定性原理」を抜きにできません。

 この原理を一言で言うと、『量子の世界では確率的にしか状態を知ることはできない。』というものですね。人間の観測技術がどんなに発達しようとも量子の位置と運動量の両方を正確に知ることはできないと。それらの現象に関して、これまた必ずといっていいほど、「シュレーティンガーの猫」のパラドックスがでてきます。(この説明は省略)

 そして、その逆説的矛盾を矛盾でないのだと諭すために波動関数があります。簡単に言いすぎるとよくないかもしれませんが、そのからくりを説明すると、量子というのは常に2個が絡み合っていて、その間に複雑な関係性がある。様々な人間の観測現象を通して発生する複雑なデータを組み合わせ、ともかく人間は波動関数というものをつくった。

 そして、その波動関数をもとに、観測によって得られた量子の特定の属性をインプットすると、その式にしたがって、もう一つの量子の属性は決定される。インプットする性質が異なれば、結果も異なる。観測者の決定が、もう一つの量子の属性をその都度変えてしまう。ようするに、そんな感じでしょうか。そうなると、量子というのは、その波動関数で表される複雑怪奇な数式で表される全体像です、ということになる。だから、その数学を理解できないものは、科学の最先端で議論する資格がない、ということみたいです。

 こうした話の展開で、私がウーンと首を傾げてしまうのは、そもそも“観測”というのは、何によって行っているのかということです。

 今日の科学の世界では盲目の科学者はいないでしょう。おそらく彼らは、どんな精密な機械を使おうが、最終的に目で観測を行うわけです。つまり視覚です。しかし、視覚というのは、可視光線しか認識できない。可視光線というのは、七色のスペクタルで表される光の中でも波長が長い領域の現象です。これらの7色が重なり合った時に、光は白になります。人間が感じられる光は、白と黒を合わせた、この範疇です。

 しかし、これは大事なことですが、量子の世界の波長は、人間が感じられる最小の波長の青や紫よりもさらに短い。つまり見えないから、人間は観測できない。見えないものを観測したと認識した時点で、その見えない波長は既に他の何かと干渉し合って異なるものになってしまっています。

 人間が見える波長のなかでも、赤など波長の長いものは屈折しにくいですが、青や紫は、屈折しやすいことが知られています。そうすると、それ以上に波長の短い量子は、ものすごく屈折してしまう筈です。ここにパラドックスがある。観測できない(目に見えない)ものを観測すればするほど誤差が生じ、その誤差を埋め合わせるために波動関数が、より複雑化してしまう。そして、観測現象も多岐にわたりますから、いろいろな属性がでてきて、次々と新しい(と言われる)粒子が発見される。新しい粒子は、観測による干渉の賜なのに。

 こういう展開に、なにかとんでもないパラドックスが、かってに自己増殖しているというイメージを私は持っています。

 そもそも”光”とは何なのか、という時点に立ち帰って、モノゴトを考えなければならない時期にきています。たとえば、宇宙の果ての銀河の映像を見ます。でもそれは、目に見える7色の波長の世界でしかない。ビックバン宇宙説も、遠くの銀河が広がっていく現象を見て、そう感じたわけですが、それは、7色の波長の世界です。

 そして、7色の波長の世界とはいったい何なのか。

 これについても、認識が歪んでいます。

 光は、空気中の粒子にぶつかった時に色として現れます。赤から緑など波長の長い領域は酸素との反応。また、光が水素のなかを通ると、光が“吸収される”ことが観測されています。 水素というのは、もっとも質量が小さな元素です。酸素は、それよりも、かなり大きい。窒素も酸素も同じくらいです。(この二つが地球上に多いのは、その比重の重さの元素を引き留めておく構造に地球がなっているからでしょう)。

 つまり太陽の光の波が、空気中の重い物質にぶつかると赤、軽い物質にぶつかると、紫から、見えないほど短い波長になる。それらが適当に混ざり合うと白い光になる。そして、物質量が多くなればなるほど赤が強くなる。だから夕焼けは赤い。地上に近いところを光が通って粉塵などの干渉を受けるからでしょう。

 プリズムなどで太陽の光を分光する時、“太陽の光”という言い方が間違っています。分光された色は、“太陽の光”の色ではなく、太陽の光が地球上の大気分子や物質に干渉された結果であり、かつ、太陽の光のなかの、人間の目に見える範囲に限定したもの、という言い方が正しいのだと思います。

 それで、宇宙の遠いところにある銀河にしても、色がついたものは、目に見える光の波長を見ているにすぎません。それで恒星などを分類する時に、青みががった星は水素が中心の星であると言われたりするのですが、何か根本的なところでおかしい、という気がします。水素の中を光が通ると青から透明に近くなることは知られていますが、水素が爆発して青い光になるわけではありませんから。そして、水素は単体では爆発しません。酸素など他の分子と結合した時に、気体が水になり、運動エネルギーを低下させ、それが爆発的な燃焼になるだけでしょう。水素と水素となれば、それは陽子と陽子の核反応で、青とか赤の範疇のことではなく、別の次元の話しになります。

 ともかく、水素は質量が小さい。だから光はあまり干渉されない。干渉されないから波長が短くなる。ならば、干渉するものが何もなければ、もっと波長が小さくなる。でも、人間には見えない。

 そして、大気成分が異なるか亜、地球上と月の上では、太陽の光の見え方が異なる。月の上では、太陽それじたい(つまり太陽周辺の粒子の色)が輝いて見えるが、月の上には色や明るさはありません。

 当然ながら科学者は、光というものをそのように分けて考えているとは思いますが、観測者である自分が人間であるかぎり、その光の約束事に縛られた存在であることを忘れてしまっている場合があるのではないでしょうか。

 光や電子が物質か波かという議論もナンセンスで、それらは波だと断言していいのではないかと私は思います。波であることは間違いないが、人間の目に見えない波長の波である。それを人間が実験観測すると、人間の目に見える範囲の場所に波を止めるわけですから、当然ながら点として現れ、粒子ということになってしまう。私の独断で言うと、電子というのは、分子や原子が持っているポテンシャルエネルギーで、それが振動となって現れた現象ではないかと思います。質量が大きくなればなるほど、ポテンシャルエネルギーが増え、その分、運動エネルギーは現象する。つまり、粒子自体のプルプルとした震動は増えるが、粒子としての動きは遅くなる。

 そして、粒子自体のプルプルとした震えというのも、その粒子が存在する場に他の気体分子などがあって干渉されるからそうなるのでしょうし、運動もまた干渉されている筈です。

 完全な真空状態の運動エネルギーやポテンシャルエネルギーと、全然違ったものになるでしょう。そもそも、その二つのエネルギーは分化していない筈で、干渉物が生じた時にはじめて粒子そのものの震動(ポテンシャルエネルギー)と、飛び回る動き(運動エネルギー)に分化するのだと思います。

 さらに、赤より波長が長い色は赤外線であり、よく知られるように、赤外線は熱線です。「温度」というのは、物質の運動エネルギーが、赤外線のレベルまで下がったところから生じる。赤外線の方が紫外線よりも熱いのでエネルギーを持っているように感じる人がいますが、それは錯覚です。紫外線は熱くないけれど強いエネルギーをもっている。強いエネルギーから、運動エネルギーが減少していくと、その減少した分が熱エネルギーになるだけです。このあたりも、何か大きな勘違いが生じていて、熱い方がエネルギーが大きいと感じる錯覚が生じています。

 そうした錯覚から、太陽は強いエネルギーを持っているから、その内部は、きっと1500万度の高温に違いないということになっています。誰も調べようがないのですが。

 おそらく1500万度という高温世界は存在しないでしょう。それほどまでにエネルギーが高まっているとすると、その運動エネルギーは熱ではない筈だからです。原子爆弾の爆発にしても、熱とか閃光とか爆風とかキノコ雲といった人間の認識できる現象は、地球上の他の分子と干渉しあった結果の二次的なもので、それら以前に、熱くもないし、目にも見えない放射波が、あっという間に周りを走り抜けて、破壊しつくしているわけですから。

 理論上では、人間の認識できない“光”の領域があることをわかっている。しかし、観測者になる時、神ではなく人間である自分のことを忘れている。量子の運動は、可視光では絶対に見えない世界なのに、見えたことにしてしまう。そうしないと、実証したことにならない。このパラドックスが矛盾の始まりで、後は、その矛盾の増幅でしかありません。