世界が変わる兆し

トヨタがF1から撤退することが大きなニュースになり、担当取締役の泣き顔が新聞に大きく掲載されていた。相変わらずのメディアらしい仰々しい演出だ。

この件については、トヨタの取締役会で激しい議論が重ねられてきたとニュースに書いてあった。しかし、かなり以前にトヨタのPR関係の仕事をしている友人から聞いた話だと、創業家から来た豊田章男社長は、社長に就任以来、これまでの体制の中で続けられてきた仕事に執着する取締役に対して、かなり厳しい対応を取っているということだった。

そのため、その友人もPRの仕事の多くを失った。従来のように、莫大なお金を使ったイベントでディーラーに発奮を促したり、派手なPRといった大手広告代理店が主導する手法に依存するのではなく、「良い商品を、手頃な値段で、早く作れば、それだけで十分に売れる」という考え方になっているのだと聞いた。そして、友人には気の毒だが、トヨタの判断としては間違いないと思った。

実際に、自動車産業が不振と言われるなかで、新型プリウスは爆発的に売れた。納車待ちが9カ月になってしまったが、この期間がもっと短ければ、さらに販売を伸ばせただろう。ディーラーも、この不況下で、発破をかけられなくても必死になっている。彼らの望みは、「売りやすい商品」であり、宣伝やイベントのコストを車体価格から引いてもらった方が、販売しやすく歓迎だろう。

ガソリンから電気へと、車産業にとって100年に一度の大変化という言い方がされるが、車が変われば世界も大きく変わる。それは単に環境問題だけでない。これまで石油を中心に整備されていたインフラが電気に変わると、パワーバランスも大きく変わるだろうし、何よりも、人間の潜在的価値観に対する影響が大きいと私は思う。

大手メディアが、「人々に夢を与えるF1からの撤退は寂しい」というような論調で伝えていたが、大手メディアが中心になって、F1を夢のような存在に作り上げていただけのことだ。

F1が日本で最も注目を浴びていたのは、1980年代後半のバブル絶頂の頃だった。マハラジャのお立ち台のように自らの“爆発力”を誇る時代だった。その時期、日本のホンダのターボエンジンを積んだマシーンが連戦連勝していたが、欧米社会のプライドと防衛意識のためか、エンジン規制が行われて、ホンダエンジンの圧倒的な力が殺がれた記憶がある。F1には、欧米社会の貴族階級意識が色濃く感じられる。

20世紀、世界中の人々を虜にしていった欧米文明には、魔性の魅力がある。暴飲暴食をすれば身体に悪いことがわかっているのに、派手な性悪女(男)と一緒になれば酷い目に合わされることがわかっているのに、自己破壊的な欲望を刺激されて、のめりこんでいってしまうように、F1マシーンの爆音とか、ガス爆発エンジンの極限まで追求するような姿勢は、どこかでそこにつながっている気がする。だからバブルの狂乱とマッチしたのだ。

そうした自己破壊的な性質を人間が普遍的に併せ持っていることは間違いない。古代からディオニソスの祭典のような憑依的な狂乱状態は世界各地の社会構造のなかに組み込まれ、そうした時々の自己解放的祭典が、理性の力に頼ってそれに縛られて生きる人間の心身のバランスに必要なことなのだ。

しかし、その解放の手段として、F1マシーンの“爆発力”のようなものを求めたのは、実は20世紀の価値観に知らず知らず支配されていたからだと私は思う。

20世紀の人間は、この宇宙における最大の力は、爆発であるとイメージしていた。

最先端科学を結集した宇宙ロケットの開発も、エンジンの爆発力を高めることと、その爆発力を支える構造の強化が最大の課題だった。そして、爆発のエネルギーというものは、自己の内側に蓄えられ、それが外に向かって放出され、運動エネルギーに変わって終わるものだと、誰もが素直に信じていた。ゆえに、場を活性化させるためにも、“爆発”を求めたのだ。「爆発があれば、活性化しているようにイメージできて安心する」と言い変えた方がいいかもしれない。

こうしたイメージが、星の輝きのメカニズムとして理解されているし、宇宙誕生のビックバンにも通じる。20世紀の価値観のなかで、活性化とは爆発なのだ。

人間が考えることは、自らの中に潜在的に植え付けられているイメージから無縁でいることはできない。世界とは、人間が認知する範疇の出来事であり、認識が変われば世界も変わる。

そして今、少しずつではあるけれど、人間自身と環境世界の相互関係を通して、認知世界が変化してきているような気がする。

爆発力に頼って大きなエンジン音を立てるガソリン車から静かな電気車への変化は、そうした意識変化を大きく加速させることになると思う。力というものが、“爆発”のような、これみよがしな派手なパフォーマンスによるものではないということを当たり前のこととして感じ、活性化とは、“爆発”のような目に見えて賑々しい現象とは限らないと知るようになるだろう。“爆発”が無いと寂しく思う心理もまた、20世紀的な価値観のなかで作り上げられていただけだと多くの人が気づくのだ。

 それゆえ、“爆発的”なイベントや宣伝で、“爆発的”にヒットすることが、“力の発揮”だと思い込まされていた時代は、もうまもなく終わることは間違いない。

もちろん、派手な爆発=力の象徴という価値観だからこそ優越的な立場に立てた人達の自己防衛としての抵抗は生じる。

しかし、メディアが、トヨタのF1からの撤退を大きく報じ、キャスターが感傷的なことを述べても、多くの人にとって、どうでもよいことのように伝わっているのではないか。もはやF1のテレビ中継を楽しみに待っている時代ではないのだ。

“ガス爆発”から、“電気”へと、私達の周辺でインフラが整えられ、投資も増え、さらに新しい発見が繰り返されるようになる。

いつの日になるかわからないが、電気の取り出し方が、劇的に変わるのではないかと私は予感する。現在は、火力発電所をはじめ爆発力によって電気を取り出し、それを貯めて使って、無くなれば貯めるという、20世紀の爆発型エネルギー構造の延長にある。

電気は、そのように動力によって作り出すものだというイメージが定着している。しかし、極北のオーロラは、動力によって光り輝いているのではない。太陽から吹き付けてくる陽子が地球大気(分子や原子)にぶつかり、それらを励起させ、電荷を帯びて過剰で不安定なエネルギー状態になったイオンが、元の安定した電気的中性状態になろうとして、過剰なエネルギーを光として放出している。つまり、地球は、太陽から熱とか光だけでなく、電気エネルギーも受け取っているのだ。

私達は、太陽の爆発力によって生じる熱や光を受け取っていると信じているが、もしかしたら、私達が受け取っている光や熱は、太陽から降り注ぐ莫大な量の陽子の電気エネルギーが転換したものかもしれないではないか。

まあそういう私個人の夢想はいいとして、エネルギーというものは、作りだして蓄えて消費するものではなく、(電気的)相互関係のなかで常に生じ、受け渡され、戻ってくるという循環システムの中に位置づけられるものであることに、少しずつ人々の意識が変わってきていることは間違いないだろうと思う。そういうイメージが当たり前のことになっていくと、きっと人生観も世界観も変わっていく。

その時、上に述べたような、理性の力に頼ってそれに縛られて生きる人間が、心身のバランスを得るための、“20世紀型の爆発的なこと”以外の方法が、そこに必然的に発生する。メディアが牛耳る社会の表層では見えにくいが、既に、それは発生している。

それは、“出会い”に関することではないかと私は思っている。

人は誰しも自分の場を持っているが、これまでの“出会い”は、その場のなかで、ある程度予想された範疇で完結的に閉じていくものが多かった。

しかし、インターネットの驚くべきインフラ整備により、自分の場のなかに、多くの要素がややこしく絡み合ってくるような状態になってきた。そうした複雑系状態を拒み、対称形で整理された意外性のない環境に閉じこもっていたい人もいるが、むしろ非対称性の複雑系環境の中で予測不可能性を楽しめる心得が出来ている人が増えてきた。なぜ非対称の新たな関係が楽しいかというと、対称性の中に閉じたわかりやすい関係では想定できていなかった、より高次の何かが生まれることがあるからだ。

対称性のなかでは、1+1=2でしかなく、部分の総和が全体だった。しかし、非対称の場合は、1+1=2とはまるで違うものになっていく。

私は、「風の旅人」を作る時は、常にこの感覚を大事にしているのだが、そのスタンスで臨んでいると、自分の想定を超えたものが生まれる。そうした自己超越が、20世紀型自己爆発にとって変るものになるような気がする。

いろいろな局面で、非対称性の出会いが生じやすい環境になってきていることは間違いない。そして、そういう状況は、対称性の予測可能世界を頑なに守ろうとする保守感覚の人にとって非常に抵抗感のあることで、彼らによって、予測不可能性の危険性が大きく主張される。

しかし、非対称性の出会いが生む高次の変位は、経験を通してしかわからないものであり、既にその感覚がわかる人は、潜在的に数多くいるだろうと思う。