「われらの時代」から「永遠の現在」へ

 来年の4月以降の企画を考えて、立ち止まっていて、少し揺らぎながら進みはじめた。

 2月に出る30号で、「われらの時代」というテーマは終わり、大竹伸朗さんの表紙も終わる。

 4月の31号から、「永遠の現在」というテーマで、望月通陽さんの表紙になる。

「われらの時代」というテーマでは、現在の表層の現象を追うのではなく、「近代」というものの性質を掘り下げたいと思った。「われらの時代」とは、近代の思考特性のバイアスのかかった時代だから。

 そして、現在見ることができるもののなかに「近代的思考」特有の性質が濃密に出ているものもあれば、現在見られないもののなかに、「近代的思考」特有の性質によって失われているものがある。

 今私たちが生きている時代というのは、そのなかにいると、それが絶対的なもののように錯覚してしまうが、人類の歴史のなかの例外的な一部分にすぎないかもしれない。”智慧”という側面で見ても、「現代」はこれまでの時代で最高のところにあると考えがちだが、それは、どこを見るかという視点の置き方の違いによるものにすぎないのではないかと思う時もある。

 例えば、12月1日に発行される「風の旅人」の第29号で、千葉県の九十九里浜を取り上げている。

 この海岸は、弓形のきれいな海岸線だが、太平洋の荒波を受けて凸部分の海岸が削られていく。昔は、削られた土が海に運ばれ、やがて砂となって凹部分の海岸に打ち寄せられて見事な砂浜をつくり、砂浜が大きく育っていくと凹凸の境がなくなり、もとは凸部だった海岸の侵食が減った。そしてまた少しずつ、もとは凹部だった海岸の砂が海に運ばれることで凹凸ができ、凸部が浸食を受ける。そうしたリズムが何百年、何千年と続いてきた。そのリズムに任せていると、ある一定の線よりも浸食されることもなく、美しい海岸が損なわれることもなかった。 

 しかし、近代的思考は、今この一瞬の対応を何よりも重要視する。

 凸部の海岸が削られ始めると、大慌てで護岸工事をする。いくら工事をしても台風がやってくると破壊されるので毎年のように工事をする。自然を相手に意地になるかのように、その工事は少しずつ大規模なものになっていく。凸部で人間が抵抗するため、結果として、新たな砂が凹部に供給されず、砂浜が少しずつ削られ、痩せてくる。数百年、数千年という単位で見れば、その時々、多少の変化があっても同じような状態に戻り、長く続いていた海岸線の風景が、戦後の数十年でまるで違うものになってしまった。

 今この瞬間だけでなく、過去から連なり、これからもずっと連なっていく大きな時間のなかの永遠の現在を生きるという感覚が、「近代人」は弱いのだろう。

 「そんなの当たり前じゃないか、誰だって今この瞬間に対応することで必死なんだよ。後のことなんか考えてられないよ、オマエだってそうだろ」と言われてしまえば、近代の思考の癖にどっぷりとつかった私も、反論はできない。

 とはいえ、「今この瞬間のことばかり考えるのが人間だ、それが人間のエゴであり、本質だ」という考えには素直に同意できない。

 なぜなら、この近代以前、そういう短絡的な考えだけで生きていない人間がたくさんいたからだ。もしくは、そのように短絡的になりがちな人間をセーブする智慧が存在していたからだ。幾世代もかけて作りあげてきた美しい棚田や、様々な職人芸などを見ると、そう思わざるを得ない。

 もしかしたら、「今この瞬間のことを優先する」というのは、人間の本質ではなく、「近代」の洗脳かもしれない。

 身の回りを見渡しても、「今この瞬間の優先」を主張するものばかりが溢れている。

 かつての人間は、住空間のなかに、過去と今が同居していた。そこに時間の連なりが感じられた。お年寄りがいて、柱に傷があり、壁には染みがあり、洋服には繕いの痕がある。庭先には、干し柿があったり、家の中で漬け物をしたり。幾層もの時間の層が、当たり前のことのように混然と交じり合いながら、調和していたのだ。

 しかし、今は、時間を経て味わいを増したものを、うす汚れたものとみなし、新しい物に買い換えることが当たり前になる。壁の染みは、ビニールクロスを張り替えることで見えなくする。家は、マンションの折り込みチラシのように、ぴかぴかで、のっぺりとした感じが良い物だと錯覚されている。

 家だって、人間の「顔付き」のようなものがあるはずなのだが、「顔付き」が良いか悪いかという微妙さを判断できず、パーツでしか見ることができなくなっている。それすらもわからなくなり、実績のある建築家かどうか、大手の建築会社かなどなど、肩書きでしか判断できなくなっている。家に限らず、人を見る目もそうなっているのだろう。

 そういう近代生活が、はたして人間の知恵として深まった状態と言えるのだろうか。

 そうした問題意識から私は、第31号からのテーマ「永遠の現在」において、時間本来の多層性を強く意識したいと考えている。

 そういう視点で写真を探し、選んでいて、これはと思う人に連絡をとっているのだが、比較的若い人が多かった。若い人は、「近代的価値観」が当たり前の状態のなかから出てきたわけだから、それを盲目的に崇拝する気持ちを持てないのかもしれない。

 戦後の貧しい状態の時に、キラキラとした「近代生活」に憧れた人たちとは異なる感受性を持っている人が多いのかもしれない。

 そして嬉しいことに、その人たちに連絡を取ると、そのうち外国人をのぞいてほとんどの人が、これまでの「風の旅人」のことをじっくりと見てくれていて、自分の方からもそろそろ私に連絡をしたいと考えていたと言っていることだ。機が熟すということなのだろうか。

 この世には「シンクロ」というものが実際にあると、私は心のどこかで信じている。いろいろ企画を練っている時は、なかなかふんぎりがつかないのだが、そういうシンクロの力によって、前に進めることが多い。「あらかじめそうなるようになっていたのだ」と自分自身のなかで思うところがあるのだ。

 そういうことは迷信の一種かもしれないけれど、思案の果てにものごとを決定する時には、けっこう大事なポイントになるものだ。

 自分の我欲で何かをしたい場合は、「因果」、つまり結果が大事になるだろうが、私は、原因はわからないけれど、なぜかそうせざるを得ないという「因縁」によって、「風の旅人」をつくっている。

 もちろん商業雑誌であるから「結果」は大事なのだけど、その「結果」と「自分の人生」を一本の糸で結びつけて完結させる気はない。人は誰でも、たまたま、何かの導きによって、こうなっているのであって、だからといってニヒリズムになるのではなく、その流れを悪い方に澱ませて止めてしまうのではなく、次なる時間の位相へと自分を運ぶしかないと思うのだ。