デジタル力を包含するアナログの力?

 2000年以降の著しいデジタル化競争の中で、あまりにもユニークな経営を行なっているのは富士フィルムだ。
 近年、富士フィルムが発表するデジタルカメラにおいても、その方面に詳しい人はよく知っていると思うが、その特長は、デジタル技術を駆使しながら、”アナログ”思考であることだ。
 例えば、カメラは写りさえすればいいとポイントから、どういう高機能を付け加えていくか、その機能面で優劣を競うという発想はデジタル的だ。
 デジタルという言葉は、歌人であり細胞生物学者永田和宏さんが、ディジット、つまり指に由来する言葉で、指折り数えるというような、離散的な量の表示であると書いている。それに比べて、アナログは連続的と訳されることが多いが、もともとはアナ(類似の)とログ(論理)に由来する言葉で、ある量を別の何かの量に変えて表示すること。
 富士フィルムデジタルカメラの開発は、「カメラを持つことの喜び」という、指で数えることができない、感情に訴えた、”言うに言われぬもの”を目指して行なわれているところがユニークだ。”しみじみとする何か”という見た目や触感は、実はそこに膨大な情報があるからこそで、それがゆえに、簡単に飽きて消費してしまうこともない。
 そしておそらく富士フィルムのこのスタンスは、カメラだけでなく経営戦略においても同じなのだろう。
 指折り数えることができる物に依存するのではなく、物と物の<間>にあるものの可能性を読み取ろうとすること。そして、アナロジー(類推力)を使って、その<間>にあるものを、別の何かに変えて抽出すること。
 富士フィルムは、その名のとおり、かつては写真フィルムにおける世界メーカーだったが、カメラのデジタル化によって、その得意分野は凋落した。この10年ほどの外部環境の激変をもっとも強く受けた企業の一つと言っていいだろう。
 フィルム需要は、2000年当時に比べて10分の1以下に減っているが、富士フィルムは、その間に、売り上げ高を1兆4400億円から2013年度は2兆4400億円と、1.7倍にしている。経常利益も、1570億円で、ここ数年増益だ。
 数年前、富士フィルムが、今では主力になっている化粧品事業を始めた時は驚いたが、
写真フィルムとスキンケア化粧品の製造技術は、微粒子制御技術で共通しているらしい。 
 フィルムカメラの時代からデジタルカメラの時代への大変化の際、これまで培ったカメラ関連での新技術を付け加えていくというディジットな改良を加えるのではなく、技術面におけるアナロジー(類似力)によって、局面を打開しているのだ。
 もちろん、企業経営だから、業績や市場動向や社員数その他の数字を厳密に見ながら手を打っているわけだが、数字を管理するというより、数字の動向を読み取ることが大事で、
それもまたアナログの力が必要になる。
 会議や社外向けの発表でも、今のソニーのように、数を発表し、数を修正し、言語説明がしやすい言い訳を繰り返すというデジタルなコミュニケーションを行なっていても、そこから新たな可能性が伝わってこない。そういうデジタルな言葉に触れても、言うに言われぬ魅力や、意外な面白さや、しみじみとした味わいは感じられない。そんな情報のアウトプットならば、機械やコンピューターにだってできる。
 おそらくホモサピエンスを、”賢い人”とするならば、それは、類推力を備えているということが前提ではないか。
 経験した事がない事態に直面した時に、「経験がないから」とか「初めての出来事だから」、「やり方がわからないから」と簡単に言い訳をするのは、標本整理は得意だけれど、具体的な答がないと対応できないディジットな思考特性だ。
 「これと似たようなことが、かつてあった。」というイメージをもとに、別の何かと何かを結びつけて(フィルムと化粧品のように)、未だ顕在化していない対応方法を模索することは、ディジットではなく、アナログ(類推論理)によってこそ可能だ。
 そして、日本人は、これまで蓄積してきた日本文化を振り返ってみて、間と間を読み取って異なるものを連想して結びつける類推論理を鍛えていた。
 この世に、まったく同じものはないけれど、どんなものにも、何かしら共通することはある。”違うけれど、ある意味で同じ”という洞察が、日本人のコミュニケーションの核心にある。そして、その”ある意味で”に該当する部分の掘り下げ方や裾野の広さが、その人の経験を物語っている。
 現在の社内教育や学校教育は、標本箱の中の要素を分類したり入れ替えたり覚えたりするばかりのディジットの側面が強すぎ、そうした教育は、見た目の整理、優劣、損得、対応にしかつながらない。
 たとえば、司馬遷史記を読んで、年号とか国名とか登場する人物名とか諺の起源とか、ディジットな情報をインプットするだけなら、変化対応力は育たない。
 2000年も前に書かれたものなのに、この世の道理は今と類似したことがいっぱいあるなあ、その2000年も前に、そこからさらに1000年も前のことが引き合いに出されて、この世の道理の類似性が説かれているなあと感慨に耽る時間こそが、激動の時代には必要だろう。変化が著しいからと言って、目の前のデータばかりをデジタル思考で追うばかりだと、ますます窮地に陥るような気がする。
 窮地というのは、望ましくない選択肢から一つを選ばなければならないというデジタル的な思考による困難な境地のことを言う。アナログ(類推論理)が働かない為に選択肢が限定されてしまい、その限られた選択肢を望ましくないと思っているから窮地なのだ。
 だからといって、単に新しい技術に疎いだけなのに、私はデジタル派ではなくアナログ派だと主張するのも、選択肢を、二つあるうちの一つの物事に限定するという意味でデジタル思考だ。デジタル思考というのは、特定の事物や経験に心が居付き、囚われてしまうことだ。
 かつて経験したことがない厳しい氷河期を生き延びたホモサピエンスの本当の賢さは、一つ二つと認識できるデジタル事物が溢れかえる状況においても、個々の事物に囚われることなく、その背後の力をアナログ(類推論理)によって感覚的に掴み、だからこそ流れを読むことができ、もし仮に流れを読み誤ったとしても事の顛末は一筋縄ではいかないと柔らかく受け止め、パニックに陥ることなく、次の判断の糧とすることだろう。

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