第1464回 縄文人には見えていて、現代人には見えていないもの。

 先ほど書いたことの補足だけれど、今回、北海道でもオーロラが見えた。

 私は、自分でも縄文土器を作り続けていた時期があったのだが、縄文土器の文様は、オーロラのようなプラズマ現象ではないかという気がしていた。

 縄文人は、実際にオーロラ現象をよく見ていたのではないかと思うのだ。

 というのは、縄文遺跡は、東北から北海道にかけて多い。そして、貝塚の貝の種類や貝塚のある場所から、当時の海岸線が現在よりかなり内側で、海水温も高かったことがわかっている。

 つまり、当時は、現在より暑かった。恐竜時代ほどではないかもしれないけれど、太陽活動が盛んだった可能性がある。

(恐竜だって、なぜあれだけの巨体になったのか? 太陽から受け取るエネルギーが、現在の地球環境とはまったく異なっていたということだって考えることもできる)。

 縄文時代、人々の食生活は、かなり恵まれていたと近年の調査でわかっているが、もしかしたら、太陽エネルギーのおかげで、食物も豊かに育っていた可能性もある。

 そして、縄文人にとって、天空に現れるオーロラなどの現象と、自分たちの生活を支える食物が、かなり具体的につながってイメージとして捉えられていたのではないだろうか。

 木の実を煮詰める縄文土器の装飾が、プラズマ現象のようにエネルギッシュなのは、そのためかもしれない。

 もちろん、現在の科学的な観点からは、そういう説明はされない。

 しかし、異なる環境のことを、自分がいる環境の常識でははかれない。

 私は、一時期、憑依したように縄文土器づくりに夢中になって、1週間に一つ作っていた。

 小説家の田口ランディさんと八ヶ岳周辺に行った時、立ち寄った博物館で縄文土器づくりの講習があり、それに参加したのがきっかけだった。

 その時、ひたすら没頭して土器を作ったのだけれど、学芸員さんが、「本当に初めてですか?」と、その完成度に驚いた。

 無心で手を動かしていただけなのだが、自分では、八ヶ岳周辺を旅して、その場のエネルギーを全身に浴びたような感覚があった。

 その頃の私は、八ヶ岳周辺に通い詰めていて、八ヶ岳に拠点を作ろうと真剣に考えて土地を物色していたほどだった。

 その理由は、夏、久高島など南の島々を旅した後、ものすごく体調の悪い状態が続いていたのだが、八ヶ岳の麓の清里で写真家の井津建郎さんとトークを行った時、その場に到着した瞬間、それまでの体調の悪さが嘘のように消えたことがあったからだ。

 そして、トークを終えて東京に戻った日、食事をしている時、突然、40度の熱が出て、それから5日間、ずっと高熱状態にいた。そのあいだ、ものすごく汗をかいて、なにか浄化されたような気持ちになった。それで、八ヶ岳と自分とのあいだに何かあるような気がして、通うようになった。

 縄文土器づくりは、その延長だった。

 そんなことがあり、大地の磁場の力が私たちの活動に大きな影響を与えているような気がして、インターネットで色々調べていたら、アメリカのサイトで、Thunderboltsという本格的なプラズマ研究の学者たちが集まっているサイトを見つけた。ノーベル物理学賞を受賞したハンネス・アルヴェーンのプラズマ宇宙論を深めていくため、世界各国のプラズマ学や考古学や天文学の研究者が関わっている場だった。

 私は、これだと直感し、このサイトに連絡をとって、私の考えを伝え、風の旅人への連載を依頼したら、即決で、あなたの見立ては間違っていないと連載を引き受ける返事がきた。

 そして、風の旅人の第31号から第40号まで、翻訳に苦労しながら連載を続けた。

 当初は4ページくらいのつもりだったが、期待以上に、長い文章と多くの写真を送ってもらい、いつも10ページほどの大分量での掲載となった。

 このプラズマ宇宙論は、相対性理論に基づいた物理的な宇宙観ではなく、現在、宇宙全体の99%がプラズマ状態であるという新しい常識に基づいた宇宙論である。

 19世紀まで、私たちの宇宙は、分子や原子で構成される質量のある物質で成り立っていると考えられていたが、現在、素粒子の研究が進み、ニュートリノのように、質量も電荷も帯びていないけれどエネルギーだけを持っている粒子も発見されている。

 ニュートリノは、発見されているだけでなく、宇宙空間で光子に次いで多いとも考えられており、毎秒、私たちの身体を、膨大なニュートリノが通過しているのだ。

 目に見えなくて、物質化していないために、物理的方程式では記述できないけれど、実際に存在している粒子が、私たちの身の回りに溢れている。

 気配というのは、錯覚ではなく、リアルに存在しているけれど、私たちの目に見えないだけなのだ。

 私が、現在、ピンホールカメラを使って、日本の古層を探究しているのは、物ではなく気配こそが、古層への回路だという直感があるからだ。高速シャッターで写す高精細な写真では気配をとらえにくい。物が写りすぎるからだ。そのため、レンズのないピンホールカメラで、長時間露光をするという方法で、物の見え方を抑制することで、物の周りにある空気の気配が感じられないものかと試行錯誤している。

 私たちは、古代人と違って、かなり人工的な世界に生きている。だからといって、私たちの身の回りから、自然が、完全に消えて無くなったわけではない。

 そうした自然を、唯物論の世界では、単なる物として扱い、人間に都合よく利用できるものだと思ってしまっている。

 物として扱う時には、息吹とか気配を感じていないから、崇める気持ちも、畏れる気持ちも生じない。

 オーロラのような超常的な現象であっても、現代人は、綺麗ねえと観賞するだけ。

 しかし、エスキモーにとってオーロラは、「死者の精霊」。

 ならば、縄文人にとっても、そうだったかもしれない。

 死者の精霊をまとった縄文土器に入った食物を食べるということは、まさに自然界において朽ちて死んだら土となって新たな生命の糧になる構造と同じであり、その循環的構造の中に人間も位置付けられているということになる。

 縄文時代土偶にも、オーロラのようなプラズマ模様が描かれている。八ヶ岳山麓の尖石の考古学博物館にある仮面の女神が、その代表であり、この土偶は、見るからに宇宙的なエネルギーを身に纏っている。

 縄文時代は、はるか古代の出来事であるけれど、もしかしたら、未来的なものを暗示している可能性が高い。

 その未来というのは、目に見える世界だけに意識を限定しがちな現代人が、目に見えないけれど確かに存在しているものに対する意識を、広げていく先に開かれているような気がする。

 たとえば、人を信用できるかの判断も、肩書きや見た目にごまかされるのはなく、その人が醸し出している気配を敏感に感じ取れる能力を備えていた方が、間違いはないだろう。

  日常的にも、そういう判断を失っているわけではないのに、メディアで発信される情報は、気配という微妙なものに重きが置かれることはなく、コメンテーターなどにしても、早口で明確に多くの情報を伝えられる人が選ばれているケースが多い。

 芸術作品にしても、現代は、コンセプチュアルなものが多いし、説明可能なものが流通しやすいのだが、この流れも、目に見えないものに対する人間の感受性を劣化させる。

 そうした世の中の傾向のことはともかく、目に見えないものに対する感受性は、生物が生きていくうえで重要な能力であり、この能力を劣化させた生物は、修羅場の自然界ですぐに死に絶えてしまう。

 私たち人間だって同じだ。

 目に見えないけれど確かに存在しているものに対する感度を鈍らせないためには、どうすべきなのかを意識して、そのためには何をすべきかも意識して、生きていくことも大事なことだと思う。

 

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第1463回 人間の目には見えない宇宙の真理。

 太陽フレアの大爆発によって、低緯度でもオーロラが見られたというニュースが、各地から届いている。

 その場にいた人たちがスマホで撮影したオーロラを、世界中のどこでも見られるわけで、地球上に起きていることを人類全員が共有化できる時代になっていることを、つくづくと感じる。

 素人が撮ったものでも、オーロラの映像は美しい。しかし、どこか不気味でもある。太陽活動が、ダイレクトに地球に影響を与えていることの証明でもあるからだ。

 私も含めて、私の周りでも、この期間、体調のすぐれない人が何人かいる。携帯電話の電磁場で体調がおかしくなる人もいるわけだし、脳のシナプスや人間の細胞のイオン交換など、私たちの身体も一種の電気活動なのだから、大量の陽子(正電荷を帯びている)が吹き付ける太陽フレアの大爆発の影響をまったく受けないということはないだろう。

 私たちが生きている地球は、空気という電気的には中性の分子に取り囲まれているものの、高度10万メートルまでいくと、陽子と電子が自由に動き回るプラズマ状態だ。負電荷を持った電子と正電荷を持った陽子がほぼ同数で混在している状態では電気的に準中性だが、そこに太陽から大量の陽子(正電荷)が吹き付けるわけだから、電気的なバランスが崩れる可能性がある。だから、オーロラという発光現象が起きている。

 そして、地球の核は、主に鉄を主とした金属の塊であり、この金属部分が動くことで発電機のように電気が生じ、その電気によって磁場が作られていると考えられている。

 通常は、この磁場の力によって太陽や銀河系から吹き付けられる太陽風(正電荷)や銀河からの宇宙線(不電荷)を跳ね返しているのだが、低緯度でもオーロラが見られるというのは、地球の磁場の通常のバリア力よりも、太陽風の力が少し勝っているからだ。

 いずれにしろ、私たちの生命活動だけでなく地球活動も、そして、太陽や銀河も含む宇宙活動全体が電気活動ということになる。

 現在の地震学の権威もそうだが、物理学を主体に宇宙や社会や生命のことを考える癖が、私たちにはついている。

 物理的な思考は、目に見えている現象の説明には向いている。

 1879年、アメリカの発明家エジソンが電球を発明し、世界から夜が消えた。電気が日常的なものになってからは150年しか経っていないが、理論物理学者のアインシュタインは、エジソンが電球を発明した1879年に生まれている。

 アインシュタイン特殊相対性理論を発表したのは1905年だ。

 プラズマに関する認識が広まっていったのは20世紀になってからで、アインシュタイン相対性理論で宇宙の構造を説明した頃は、宇宙全体が電気的な現象で成り立っているという認識はなかった。

 話は変わるが、私たちは、気配とか、気の流れといった言葉を使う。

 物理的な思考に偏っていたら、気配というのは、ただの錯覚でしかないが、気もまた、エネルギーの流れだ。

 人の周りの気配がオーロラのように色で見える人が、確かに存在する。

 渡り鳥は、磁力線が、目に見えていて、その線にそって飛んでいるという研究報告がある。磁場に反応するタンパク質が、視覚神経のなかに存在しているようなのだ。

 また、人間には目えない紫外線を、夜行性の哺乳類や、トナカイは、見ることができる。

 紫外線は、視覚細胞に有害なので、一般の動物では水晶体などで吸収し、網膜に届かないようになっている。だから見えない。

 しかし、緯度の高い地域に生きるトナカイは、冬、太陽がほとんど地平線から顔を出さない時は、空が青っぽく薄暗い状態で過ごすことになるので、その状態でも物事がよく見えるように、紫外線も網膜に届いている。その時、トナカイの瞳は青色になっている。

 そして、太陽光が降り注ぐ夏期間、トナカイの瞳は黄金色になり、紫外線が網膜に届かないように変わる。

 つまり、見えるとか見えないというのは、その時々の環境によって、生命体の身体が、変化しているだけのことにすぎない。

 現代社会においても、生活サイクルが昼型と夜型では、物の見え方が違ってくる可能性がある。

 一人の一生では、それほど大きな変化はなくても、何世代も続くと、どうだろうか?

 電気の無い時代、闇の深い時代に生きていた人々が、冬期間のトナカイのように、波長の短い光が少しは見えていた可能性だって否定できない。

 また砂漠のように光が溢れている環境世界と、森のような薄暗い環境世界では、人間の目の見え方も変わってくるだろう。

 キリスト教ユダヤ教イスラム教など一神教が、砂漠から生まれた宗教だということはよく知られている。

 それに対して、森の国である日本は、八百万の神と言われる多神教の国であり、樹木や岩や滝などが神々の依代とされてきた。

 自然への感謝や畏敬や畏怖は、抽象的な概念ではなく、具体的なものだったのだと思われる。

 日本には、大地震や台風など自然災害が多いということもあるが、それだけが理由ならば、アニミズムではなく、一神教の神の怒りとして受け止めることも可能であり、日本の自然崇拝や精霊崇拝は、具体的に、そのように感じとる敏感な身体的感覚が、日本人には備わっていたからかもしれない。

 たとえば、日本にはラジウム温泉が多くあるが、その大半が花崗岩地帯であり、花崗岩地帯は、自然放射線が強い。そして、比叡山安芸の宮島や琵琶湖の竹生島など、聖域も多い。

 癒しの島として人気がある屋久島は、屋久杉など豊かな森林資源があるだけでなく、島全体が花崗岩であるため自然放射線も強く、それが癒し効果になっているのかもしれない。この島は雷も多く、かなり電気的な場所であることは確かだ。

 また、東の鹿島神宮から秩父を経て諏訪、伊勢、高野山、九州の高千穂まで、日本の重要な聖域が、中央構造線上に並んでいることもよく知られている。

 なぜそうなのか明確な答えはないが、事実としてそうなっているのだから、何かしらの理由があるのだろう。

 花崗岩地帯に聖域が多いのと同じで、中央構造線上も、エネルギーの力が強い可能性があり、現代人にはわからなくても、古代人は、それがわかっていた。

 使わない筋肉や脳力は衰える。私たちは、そのことを実感として感じている。

 しかし、私たちが、実際は衰えているにも関わらず、あまり感じ取れていないのは、感じる力なのだ。

 感じとる力が衰えているから、感じとる力が衰えていることを、感じ取れないという悪循環。

 感じる力が重要なはずの芸術表現分野などにしても同じで、コンセプトという頭でっかちの理由づけが作品評価の基準になってしまっているのは、感じとる力が劣化してしまっているからだろう。

 感じとる力というのは、生命体が生きるうえで最も重要な力だ。地震が起きそうな気配を感じた生物が、突然動き出すのも、そのためだ。

 犬は、オーロラが出る前に吠えるそうで、それは、オーロラの音が聞こえているからだという説もある。 

 また、上空にオーロラが見えていないのに、犬の遠吠えに合わせてシャッターを切れば、オーロラが写るという話もある。

 エスキモーにもオーロラの音が聞こえるようで、エスキモーにとってオーロラは、死者の精霊だ。

 オーロラ観測の観光客の中にも、時々、聞こえる人がいるという。

 目と同じで耳だって、生きている環境によって、その力は変わってくる。 

 コウモリのように視力にハンデがあると、聴力が異様に発達する。もしかしたら、これは逆かもしれず、圧倒的に優れた聴力を備えているからこそ、中途半端な視力がノイズになるので、その力を劣化させた可能性だってある。

 すなわち、人間も生物も、環境に合わせて自分自身の最適化をはかろうとする。

 銀行員になることが人生の成功者になると信じていれば、銀行員になるための努力をするように。

 しかし、人間にとっての問題は、人間自身が、環境を人工的に作り出すことであり、その人工的環境のなかで人間が最適化をはかろうとすること。その過程のなかで、上に述べた「感じる力」のように、人間は、自らの環境に合わせて生きているうちに劣化させてしまう能力があるのだけれど、そのことに無自覚のまま、新たな人工的環境を作り続けるという悪循環を引き起こす。

 解決策は、これだと言い切れるものはないけれど、同じ環境に染まらないということが、大事なポイントかなという気がする。

 同じところに住み、同じ職場に通い、同じ人とばかり会うと、自分の感覚が鈍っていても、そのことがわからなくなってしまう。

 古代日本人は、マレビトを大事にしていた。

 マレビトは、不安で畏ろしい存在でもあるが、異なる世界との媒介者でもあった。

 芸術表現や学問研究もまた、一種のマレビトのようなものだったけれど、いつのまにか、現実に即したものが有用とされる価値基軸ができてしまった。

 芸術や学問が、すでに常識化してしまっている現実感覚を固定させるものに成り下がって、現実の向こうへの扉を開ける力にならないと、胸をときめかせたり、胸を打つものにならない。

 私たちの感じる力は、なくなってしまったわけではなく、抑制する方向へと導かれている。

 子供の遊び場が典型的だが、何かあった時の責任問題とやらで、いろいろな場所で過剰な安全対策がなされているが、それは同時に、人間の危険察知能力を減退させる。

 経済は、人の感覚を麻痺させることが、成長の原動力であり、政治も、人々の感覚が鈍い方が、操りやすいくなる。

 本来、その突破口にならなければいけない芸術表現や学問も、消費経済の下僕になって、現実対応という処世的なことばかり気にする時代に、私たちは生きている。

 

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第1462回 情報として表に出てこない日本のリアリティ

日本という国は、いくら都市化が進んでいるといっても、国土の70%以上が山岳地帯であり、島国であるがゆえに、少し移動するだけで大海原を見ることができる。
 こうした自然風土の国でありながら、山も海も見えない大都市のなかだけで日々暮らしていると、現実感覚が狂ってくる。 
 テレビやインターネットから送り届けられる情報を現実世界だと思ってしまうと、その情報をもとに自分の行動を決めていくことなるが、テレビやインターネットから漏れている情報も膨大にある。
 テレビやインターネットの影響力は大きくて、その情報をもとに動く人々の数は非常に多いのだが、その情報に従って行動して、果たして、どれほどの満足度が得られるものか、少しは冷静に考えた方がいいだろう。
 京都は、世界的な観光地だが、それでも、人々が集中するエリアとそうでないエリアがあり、人々が集中する場所が魅力的で、集中しない場所に魅力がないとは限らない。
 私は、2014年から5年ほど京都の東部にあたる祇園近くに拠点を置いていた。最初は、観光地のど真ん中なので、日々、観光気分で楽しかったが、まもなく飽きてしまった。
 そして、観光客が急増し、それとともに、以前は美味しいランチを食べられた店の料理の質が下がり、質を維持したところは長い行列ができて気楽に利用できなくなった。
 生活にいろいろと不便が生じたこともあり、京都の西の桂川沿いの松尾大社に拠点を移したが、松尾大社と嵐山のあいだの風光明美な川沿いをジョギングコースにして、飽きることなく、混雑に悩まされることなく、過ごすことができている。
 阪急嵐山駅から渡月橋を越えて嵯峨野に向かう道は大混雑だが、渡月橋から松尾大社の方向に来る人はいない。人の流れは、一方向であり、その流れは自らの意思というより、人が流れているから、その流れに身を任せている人が多い。その結果、混雑した場所で割高なものを食べて、風景ではなく人の姿ばかり見て過ごすはめになる。
 世の中には、いろいろな幸福論が出回っているが、人々の流れに押し流されていると、幸福でいられるはずがない。
 周りの人がやっていることを自分ができていないと、自分を不幸だと思いこんで、周りの人の後追いをする人が多いようだが、そうした思考特性と行動特性は、不幸の悪循環につながるような気がする。
 人が集まるところは生活コストが高くなる。そして、人が集まるところは、魅力的な場所だからとはかぎらず、周りの人の行動に影響を受けやすい人が集まっているだけ、ということもある。
 京都の祇園を歴史のある地域だと思っている人が多いが、あの一帯は、明治維新までは建仁寺の境内だったから、祇園の街並みは、日本が近代化してからできたものであり、大した歴史はない。
 東山は、清水寺など歴史的建造物が多いという理由で多くの観光客が集まってくるが、歴史的といっても大半が室町から江戸時代以降であり、現在、私が拠点にしている松尾大社周辺の方が、平安時代やそれ以前に遡る場所が多く残っている。
 しかし、京都に長年住んでいる人でも、江戸時代くらいの知識はあっても、平安時代以前のことは、さっぱりわからないという人が大半だ。
 わからないから情報にならないだけで、情報にならないから、人も集まってこない。
 京都には1000年の都というキャッチフレーズがあっても、1000年という歳月を、リアルに感じられる場所は限られている。そして、それらの場所において、その歴史を、語り伝えられる人は、ほとんどいなくなっている。
 1000年の歳月を超えるものは、形をとどめることも難しいので、語り伝えることができなければ、何も無いに等しくなる。
 太古の昔に確かに存在し、そのエッセンスは後世へと受け継がれ、形は違えど、今を生きる私たちの中に脈打っている。文化というのは、そういうものだ。
 私たちは、自分が生まれてから経験してきたことを糧に自分の思考や感性を育んでいるが、自分が意識していないところで、文化の力によって、自分の思考や感性に方向付けがなされている。
 いくら都市化が進もうとも、1000年を越えて伝えられてきたこの国の文化と私たちは無縁でいられない。
 歴史を知ることは、過去にあった事実を確認することではなく、文化の背景を探り、現代と過去の繋がりを手繰り寄せていくこと。そのうえで、未来へのヒントを見出すこと。
 
 京都の月読神社は、今でこそ松尾大社の摂社の位置付けだが、平安時代は、松尾大社と等しく名神大社だった。
 この月読神社の境内に、月延石がある。今では安産祈願の石になってしまっているが、月延というのは、出産時期を後ろに延ばすという意味。

 これは、神話上の物語だが、神功皇后新羅討伐に出兵した時、お腹にいた第15代応神天皇を産んでしまうと戦いに支障が出るため、この石をお腹に巻いてお腹を冷やして、出産時期を後ろにズラしたという伝承がある。
 もともとこの石は、新羅討伐の後、神功皇后応神天皇を産んだ場所だとされる九州の糸島の鎮懐石八幡宮が鎮座する所に設置されていたが、雷が落ちて三つに分かれ、一つは壱岐の月読神社、もう一つが京都の月読神社に設置されたが、今では、京都の月読神社にしか残っていない。
 神功皇后新羅討伐は、事実ではなく神話伝承であるが、なぜ、その神話伝承と京都の月読神社のあいだにつながりがあるのか。
 これは、日本の古代を考えるうえで、かなり重要な問題だが、この謎を解く記録はどこにもなく、そのため、この真相にたどり着くためには、いろいろな周り道をする必要がある。
 これが絶対に正しいという一つの答えではなく、いろいろな考えを重ね合わせて、その上で想像するしかないことであるが、その想像の過程において、この月延石に、日本の精神文化の成り立ちと、その継承にどのような人々が関わっていたかが浮かび上がってくる。
 日本の歴史を理解するうえでの一つの大きなポイントは、一つの解答を得てすっきりすることではなく、たとえば皇居のように、日本の真ん中は謎に満ちているが、真ん中を謎にし続けることで守られるものがあるというメカニズムを知ることだ。

 

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第1461回 今年の木村伊兵衛賞の受賞作品展の、哀しいまでの空疎さ。

昨日、池袋の新文芸坐小栗康平監督の「眠る男」と 「伽倻子のために」の デジタル4Kレストア版を観る前に、銀座に立ち寄って、写真界の芥川賞などとメディアが煽る木村伊兵衛賞の受賞展を観てきた。
 そして、会場に入るなり、その空疎な内容に呆然。ポスターのような無機質な写真が掲示されていて、モニターに会場内を映しているような動画が流されていたから、ここは展示の入り口のようなもので、部屋の向こうに、展示会場があるのかと本気で思った。
 世間の注目度はわからないが、写真表現の関係者なら木村伊兵衛賞のことを気にかけている人はけっこういるので、その受賞展ということで会場に来た人が他にも大勢いると思うが、私のような印象を抱いた人が大半だったのではないだろうか?
 それとも、私が、浦島太郎のように、時空がズレたところに住む住人になっていて、物事の感じ方も、他の人とはまったく別のものになってしまっているのだろうか?
 そもそも木村伊兵衛賞に関しては、私が風の旅人を作り続けていた時、選考委員を担っている写真家たちと、まったく接点がなかった。土門拳賞など他の写真賞の場合は接点があったので、木村伊兵衛賞というのは、同じ写真分野であっても、私とはまったく関係のない領域なのだろうという思いもあった。
 さらに、近年、この賞は社会的にはまったく注目を浴びることもない状況だが、(他の写真賞もそうだし、写真に限らず文学賞などもそうだが)、そもそも賞に関わっている新聞社や出版社の地盤沈下が著しく、瀕死の状態から復権を願って、ピントの外れた迷走を繰り返すばかりという印象だった。
 しかし、昨年、木村伊兵衛賞を受賞した新田樹氏は、私が表現姿勢に敬意をもっていた写真家の一人で、彼のサハリンに関する写真は、これまでの受賞作と少し違っていた。そして、選考委員の人たちが、全員、「本当はこういう写真を見たかった」と感想を述べていたので、もしかしたら、写真表現の潮目が変わってきたのかなあと期待するところがあった。
 それで、一昨年前まではあまり観に行っていなかった木村伊兵衛賞の受賞展に、昨日、足を運んだのだった。
 その結果、写真界の迷妄は、ここに極まるという感想しかもてなかった。
 展示を観た後、わけがわからないので、選考委員たちの選評を読んでみたが、「表現の多様性としてこれもあり得る」といった理屈っぱい言葉が並んでいるが、特に心動かされたという言葉はどこにもないように感じられた。
 こんな状況だと、写真表現は、ますます地盤沈下していき、写真界の中の人たちだけで、これが新しいとか、これもあり得るなどと理屈っぽく議論をしていても、世の中からまったく関係のないガラパゴス諸島状態になっていくしかないだろう。
 今回の受賞作家は、カメラをもって、コンセプトみたいなものを作って、何か表現行為に関わろうとしている大勢の一人なので、責任はない。
 同じようなことは他の誰でもできるし、他の誰かが似たようなことを行っていても、違いもよくわからないだろう。テーマは「多様性」なのに、作品自体に、強靭な固有性はない。
 深刻な問題は、こうした安易な写真行為に対して、もっともらしい言葉を添えて持ち上げている選考委員にある。
 そもそもの問題として、安易な言葉で説明できてしまうようなことを、表現する必要があるのかということ。その程度のものに賞を与えてしまう業界の底の浅さが悲しい。
 頭の中で、あれこれ分別くさく計画したもの(プロジェクトと称している)の意義がどうのこうのと議論するのではなく、胸を打つ何かが表現の生命線だという当たり前の正直さをもとに、作品評価をするべきではないか。
 そして、これが最も難しくて、しかし肝心で、もはや表現を志す人たちの大半から失われているものだが、「世の中の変化の一番最初に芸術表現がくる。思想や政治は、その後に続くものだ」という矜恃が、表現の中に少しでも垣間見られるかどうかということ。
 写真表現のメルクマールが、そこにないと、写真表現が、世の中の人々に、新たな眼差しを届けることにつながらない。
 現在、新しいなどと形容される写真表現は、世の中で既知となっている現象を、なぞっているだけであり、未来を切り拓く眼差しを反映したものではない。
 物を写すことが、既存の現象(心象も含めて)を写すことでしかないから、その限界を感じる者が、実験と称して、作為ある試みで人々の目先を惑わして、新しい視点などと言っている。
 こうした現在の写真表現界において、もっとも欠落してしまっている視点は、他者への眼差しの深さや、他者への距離を掴むための真摯な悩みだろうと思う。
 「他者」という言葉を使った作品は多いけれど、実際に他者と向き合う際のスタンスはあまりにも安易で、他者という言葉すら、もはや記号でしかない。
 たとえば、今回の木村伊兵衛賞の受賞者は、社会の中の多様な「個」と向き合うプロジェクトとやらを行っており、Between Breads and Noodlesという受賞作は、「政府事業としてドイツへ派遣された在独韓国人や彼らの家族を写真に収め、移民2世以降のアイデンティティーに着目し、国籍の狭間に生きる人々を追った作品で移民という言葉では一括りにできない多様な背景と価値観を持った人々を捉えている」と説明されている。
 このプロジェクトのなかで、写真家は、「ドイツには多くの移民が住んでいるものの、ドイツ人は、アジア人ということで一括りにしている」という批判をこめて、アジア6か国から輸入された40種類の味の2000個のインスタントヌードルを陳列に並べたものを写真に撮るという方法で自分の概念を主張している。
「ドイツ人から見れば、アジア人は、パンではなくヌードルの人ということだが、味は一つ一つ異なるんだよ」という主張なのか、なんなのかよくわからないが、まったく意味を解せないアプローチだ。
 一人ひとりの人間の違いというのは、インスタントヌードルの味の違いに置き換えられる程度のことなのか。
 そして同じドイツ人でも、アジア人を妻にしていたり友人付き合いをしている人だって多くいて、そのドイツ人たちは、アジア人という一括りではなく、固有の個人として付き合っているはず。もしも、Between Breads and Noodlesが、「一般的ドイツ人」という認識のもとに行われているプロジェクトなら、その時点で自家撞着をおかしており、そういう思考特性から逃れられない矛盾した自分こそが、現代の哀しき表現テーマになり得る。
 それ以前の問題として、Between Breads and Noodlesというテーマ自体が、あまりにも時代錯誤だ。
 この表現者は、「アイデンティティ」ということを強く主張しているが、アイデンティティは、オリジナルの自分=「その人らしさ」という程度の意味ではない。アイデンティティは、存在に対する痛切で哀切な祈りであり、そのことは、苦境のなかでもがき、悶える心を通して伝えられる、人間にとって試練ともいうべき深淵な哲学的な問いだ。
 それこそ、今私が書いているような言葉をいくら並べても無意味で、昨年の木村伊兵衛賞の受賞作家である新田樹氏が、サハリンに取り残された日本人と、長年、息を潜めるようにして丁寧に関わり続けたなかで撮られた写真から、かろうじて浮かび上がってくる気配を通して、人間のアイデンティティに関わる底知れぬ問題が、自分ごととして引き寄せられる。
 極限的に難しいのは、このアイデンティティの問題において、他者として関わっていくこと。
 このアイデンティティをめぐる問題で、外部の人間が出かけていって、カメラを向ける際に、どのような距離感であることが適切なのかという問題。
 その距離を掴むまでに、新田樹氏が、どれほどの時間をかけ、試行錯誤を繰り返したかは、彼の写真から伝わってくる。すなわち、彼の写真からは、写真に写っている人々のアイデンティティをめぐる哀しき宿命と、その宿命に他者として向き合わざるを得ない新田氏の悲痛のようなものが伝わってきて、だからこそ、その写真を観る者にとっても、サハリンに暮らす人たちの置かれた状況が、自分ごとにならざるを得ない。
 しかし、今年の木村伊兵衛賞の受賞者は、「移民問題などを政治問題のように処理したくない」とか、「一般の人々は生きている人間のバックグラウンドの方に関心を寄せやすいが、そんなことよりも、目の前にいる人間のその人らしさ(=多様性)を伝えたい、その人らしさ(=多様性)は、ドイツへの韓国人移住者であれ、世界の他の地域に住む人間であれ、普遍的なものだ」と単純化している。そして、バックグラウンドは関係ないということだからか、一人ひとりの内実には深く関わっていないのだが(写真からはまったく伝わってこない)、そもそも、他者の多様性というかアイデンティティに関わる際の、注意深さとか、距離の掴み方に対する葛藤が、まるでないように感じられる。
 会場にあった作品で、背広を来た初老の男性と白いドレスの少女が居間のソファに座っている写真にしても、それこそ陳列されたインスタントヌードルのような味気ない写真である。これが、被写体の存在に対する敬意をこめた写真のつもりなのか、それとも、アイロニーなのか、何だかよくわからない。
 生命の息遣いのようなものが感じられない写真からは、「異国で生きる韓国人は、このように表面を取り繕って固まって生きている」というメッセージなのかと思ってしまい、だとすると、この写真はアイデンティティの喪失の表現ということになる。ならば、この問題に対して、もう少し様々な角度から掘り下げて向き合って欲しい。しかし、私が写真から受ける印象とは違って、写真家の思いとしては、この写真は、異国で生きる韓国人の多様性の表現ということのようだ。
 さらによくわからないのが、ヴィデオ・インスタレーションにおいて、滋賀県にあるブラジル人学校に通う0歳~18歳の約80名の子どもたちと関わって撮影したようで、その人たちを展示会場に連れてきて、彼らが、自分が写っている作品を見たりしている光景をビデオカメラで収めているだけのもの。そうした状況設定を、作品だと称している。
 仮に、その状況設定が表現として必要だとしても、撮るということにおいて大事なことは、撮られる側との距離でありフレームだ。本当にその距離でいいのか? そのフレームでいいのか?
 なぜなら、撮るという行為は、目の前に展開している光景から、ごく一部だけ切り取ることになり、その切り取られた部分を表現として確定させてしまうというジレンマがある。これは、静止画であれ動画であれ同じ。動画は、画面が動いているので、その距離やフレームの制限から自由でいられるように錯覚している人がいるが、とんでもない間違いだ。
 そうした間違いをもとにした、緊張感のない緩い眼差しで撮られたビデオが、ヴィデオ・インスタレーションという作品になっている。だから私は、この展示会場を、入り口にすぎず、展示会場に設置された記録カメラが、ダラダラと展示会場の中の状況を映しているだけかと錯覚した。
 この木村伊兵衛賞の受賞作展を見て途方に暮れたまま、銀座から池袋に移動して、新文芸坐で、小栗康平監督の「伽倻子のために」の デジタル4Kレストア版を観た。
 この「伽倻子のために」は、日本文壇初の外国人として芥川賞受賞した李恢成の小説を映画化したものであり、たまたまだが、今回の木村伊兵衛賞受賞作家と同じく、朝鮮半島出身の人を主題にしている
 李恢成は、1945年の敗戦後、家族で日本人引揚者とともに樺太から脱出し、長崎県大村市の収容所まで行き、朝鮮への帰還を図ったが果たせず、札幌市に住むことになった。
 樺太という日本と当時のソ連のあいだの広大な空白地帯には、多くの日本人や朝鮮人が移り住んでいたが、日本とソ連の戦争後、ソ連に占領されることになり、そのため、当事者たちにしかわからない苦難が生じた。
 昨年の木村伊兵衛賞受賞の新田樹さんは、樺太に取り残されてソ連と日本の狭間で生活苦とアイデンティティをめぐる問題に苦しめ続けられた日本人を、長年にわたって撮影した。
 そして、小栗康平さんは、樺太から逃れたものの朝鮮半島に戻ることができなくて、日本で生きる宿命となった在日朝鮮人である李恢成の作品の映画化を行った。
 小栗さんは、なぜ、これを映画にしたのか?
 それは、このテーマは、日本国内のことで自分たちの身近にあることなのに、自分にとって最も遠く難しい「他者」と向き合わざるを得ないことだからだ。
 「他者」というのは、朝鮮人という外国人を意味するわけではない。日本国内で生きながら、朝鮮人である自覚と誇りを持ち、しかし、そのことが、日本国内で生きづらい状況を作り出すという不条理のなかに存在する人たちは、そういう不条理と無関係でいられる自分にとって、対岸にいる最も遠い他者である。
 その難しい他者と、自分のあいだに、どういう橋を架ければいいのか?
 表現を志す者が、こうした困難なチャレンジをしなくて、一体誰がそれを行うというのか。
 当時の日本国内の政治状況を考えても、この難しい問題を映画化することは、激しい反目を受ける恐れはあったから、慎重に取り組む必要があった。そして、それだけの苦労をしても、商業的な成功など、まったく考えられなかった。
 小栗さんは、処女作の「泥の河」が、世界的に高い評価を得て、商業的にも成功した後、次の作品をどうするかという状況にいた。
 小栗さんを表現者として信用できるところは、世の中で「売れっ子」のような状況になって浮かれるわけではなく、その逆に、社会的に注目度が高まっているからこそ、敢えて、最初から商業的な成功を期待できないけれど、多くの人が見落としている大事なことにチャレンジできるのではないかと考えて実践するところにある。
 時流に乗ったこと、他の誰でもできるようなこと、誰かが既にやっているようなこと(自分がやったことも含めて)をやっても意味がない。 
 そういうことを平気でできる人は、表現者としてのスピリットを失っている、もしくは最初から持ち合わせていない人だ。
 眼差しが変われば、意識が変わる。意識が変われば、世の中が変わる。
 写真や映画に関わる表現者は、人間の眼差しに関わる芸術表現者であるはずで、彼らが創造する表現が、人々の眼差しを変え、思想を変え、やがて政治を変える。
 その過程においてどれだけ時間がかかるかわからず、絶望感と無力感に蝕まれることになることを承知のうえ、世の中の変化の一番最初に芸術表現がくるという矜恃を持ち続けること。
 そうした矜恃があれば、安易な言葉で説明できるようなことを表現にしない。だって、そういうものは、既に世の中で手垢まみれになっていることだし、人々の眼差しを変えたり、胸を打つものになるはずがないからだ。
 人間には、頭だけでなく胸があり、胸で感じる感覚は、よほど神経が鈍くなっていないかぎり、失われていないはずだ。
 写真や美術の展示に出かけていって、胸を打つようなものが何も伝わってこないのに、いいね!とか、あれこれ理屈を並べて持ち上げたりしているのは、裸の王様を見て、周りの人たちが褒めている衣装を自分が見えていないことを人に知られたくなくてビクビクと周りに迎合している状況と同じであり、素直な子供のように、「王様は裸だ」と言えるかどうかだけの問題の中に、我々はいる。
 胸を打つ表現には、必ず、渾身の力を振り絞ったものがある。そして、人間が渾身の力を振り絞ろうと思えば、そういうスイッチが入る困難な状況に自分の身を置く必要がある。
 安易な環境では、いくら精一杯やりましたと言っても、渾身の力にはならない。
 だから、優れた表現者というのは、敢えて困難な状況へと自分をもっていく傾向にある。本能的に、渾身のスイッチを入れるためにはそれが必要だとわかっているからだ。
 そして、人は誰でも、長い人生のなかで、自分では望まなくても、渾身の力で向き合わざるを得ない修羅場の事態がある。そうした修羅場は、自分に秘められている可能性に気づく瞬間でもある。
 その秘められた可能性こそが、未来を切り拓く力なのだ。
 未来は、便利な電子機器が用意してくれるようなものではなく、誰にとっても自分で切り拓いていくものであり、その困難の時、胸の内側から自分を支える力となるものこそが、芸術表現だった。
 凄いと感じたり、胸が締め付けられるような思いになったり、芸術作品の圧によって自分のちっぽけな自我が吹っ飛んでしまったりといった体験は、一種の浄化であり、禊とか祓いのようでもある。
 現在の世の中は、情報も物も紛いものが溢れかえっており、知らず知らず、全身にそれらの紛い物が取り憑いていて、その影響下、コントロール下に置かれている。
 まずは、それらの紛い物を祓わなければ、物事の本当が見えなくなり、裸の王様を見ているだけなのに、周りの反応に流されて、そこに実態があるかのように振る舞い続けるという虚ろな人生を送ることになる。
 今回、木村伊兵衛賞の受賞展を見るために、わざわざ銀座まで足を運んだ人で、虚ろなものを感じた人は、かなり多かったのではないかと思う。
 その中から、どれだけの人が、大きな声で、「王様は裸だ」と言えるのかどうか。
 とくに、写真表現に携わっている人たちにとって、これは他人事ではすまない。もちろん、自分は自分、自分のやれることをやっていればいいと、マイペースを主張して他人事にできる人もいるが、私たちは、そのように、どれだけ多くのことを他人事にしてきているのか。
 自分が乗っている足元が地盤沈下し続けているのに、それを他人事だと思っていられるのは、表現者としての感度が、かなり鈍っているということだろう。

 

 

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第1460回 日本人の潜在的な心の在り方と、海人とのつながり。

古代に対する関心の持ち方は人それぞれだが、私は、卑弥呼のクニがどこにあったかということよりも、日本人の潜在的な心の在り方に関心がある。
 日本の縄文時代は10000年も続いており、明らかに大陸の影響を受けたと思われる弥生時代以降の歴史は、その4分の1でしかない。だから、縄文時代の日本人の心が完全に消え去ってしまったとは思えず、それが、どのような形で今日まで引き継がれてきたのかを辿りたいという思いがあって、私は古代世界のフィールドワークに没頭している。
 そして、その鍵を握るのは、海人だと思っている。海人というのは、海や川で漁を営むだけでなく、船を使って遠方と交流していた。
 20世紀の人類学を切り拓いたとされるマリノフスキが、南太平洋のニューギニアでフィールドワークを行い、近代世界からは未開人とされた人々の洗練された思考を明らかにした。
 彼らの文化は、近代西欧に比べて劣っているわけではなく、異なるだけで、非常に研ぎ澄まされ、豊かで、繊細な秩序を持っていた。
 マリノフスキや、彼に続いたレヴィ=ストロースは、対象を外から眺めて上から目線で相手のことを結論づけるのではなく、対象の懐の中に入っていって、内側からその全体像を感じ取るというフィールドワークを対象を理解するための方法としたのだが、これは、人類学に限らず、どの分野においても重要な姿勢だと思う。
 物事を頭の中だけで理解しようとすると、自分の常識や経験の範疇に当てはめて整理しがちになる。そうした理解は、自分の世界を広げることにつながらない。
 これは、歴史を対象とする場合も同じ。過去の営みを、現代に比べて劣っていると現代人は考えがちだが、歴史のどの段階においても、それぞれの時代ならではの、非常に精密で豊かな秩序世界が築かれている。
 マリノフスキの調査で興味深いのが、トロブリアンド諸島における「クラ交易」と呼ばれるもので、これは、ニューギニア島の東に広がる500kmほどの海域の島々を結ぶ交換の制度だ。
 500kmというのは、日本では鹿児島から紀伊半島、そして紀伊半島から房総半島くらいの距離にあたる。
 トロブリアン諸島の住民は、カヌーの船団を編成して、海域を時計回りと、反時計回りに移動しながら交流を行うのだが、このクラ交易の中心になるのが、時計回りの方は赤い貝の首飾りで、反時計回りの方では、白い貝の腕輪。これを欲する側は、これを手にいれるために出かけていく。しかし、どれだけ大変な思いをして手に入れても、自分の物として所有できず、しばらく保持した後、これを取りに来た別の島の人に渡さなければならない。そのようにして、この腕輪や首飾りは、島々のなかをゆっくりと移動していく。
 現代的な「交易」は、何かを所有したい場合は、その見返りを差し出して自分の物にする。しかし、クラ交易で受け取ったり手渡したりする腕輪や首飾りは、お互いが行き交うためのモチベーション装置にすぎず、クラ交易は、別の島々の共同体を結び付けて、衝突を避けるための仕組みになっているのだ。
 この交流のために、彼らは危険な航海に出るわけだが、出発の際には安全祈願の呪文を唱え、航海の途中も祈りを続ける。
 20世紀になっても、この地球上には、こうした西欧近代とはまったく異なる文化の仕組みを維持していた人々がいたわけで、古代日本の海人も、もしかしたら、このトロブリアンド諸島の人々のような価値観で交流を行っていたかもしれない。
 縄文時代の装身具で有名なのが糸魚川のヒスイだが、これは北海道から沖縄まで流通しているし、伊豆諸島南部の三宅島、御蔵島八丈島に生息するオオツタノハノの貝を貝輪に仕上げたものが、北海道まで広域に分布していた。
 海を行き交う人々の力なくして、こういうことはできなかっただろう。
 そして、物の交換という形で各地と交流していた人々は、情報交換をも行っていたわけだから、後に、物語の伝承の担い手になっていっただろう。 
 日本の古代において、物語伝承に大きく関わっていただろうと思われる人々がいる。
 それは、和邇氏と呼ばれる人たちで、この後裔が柿本氏や小野氏であり、多くの古代文学者を生み出している。
 和邇氏は、祖を吾田片隅とし、吾田というのは、南九州に拠点を置いていた海人勢力とされている。
 なぜ和邇氏が、物語伝承と深く関わっていたと考えられるのか?
 それは、古事記などにおいて、もっとも多く登場するのが和邇氏関係であることや、歴史の節目となる重要な出来事に、和邇氏の陰が見え隠れしている(その多くが悲劇的主人公だが)からだ。
 史実かどうかはともかく、古代の物語として特に重要な天孫降臨において、ニニギと結ばれたコノハナサクヤヒメは、別名が、神吾田津姫であり、これは、南九州の海人勢力である吾田の女神とされる。そして、このコノハナサクヤヒメを祀る代表的な聖域が、日本全国の浅間神社の総本社である富士山本宮浅間大社だが、この神職は、和邇氏の後裔である富士氏がつとめてきた。
 また、これも史実かどうかはともかく、古代日本の英雄ヤマトタケルは、母親の播磨稲日大郎姫が、播磨風土記において、和邇氏の娘とされている。
 そしてヤマトタケルの父、景行天皇は、丹波道主命の娘の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)だが、丹波道主命の父、日子坐王の母は、和邇氏の娘、意祁都比売命(おけつひめのみこと)である。
 つまり、ヤマトタケルには、父母を通じて、和邇氏の血が流れていることになる。
 仁徳天皇皇位を譲るために自殺をした菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)=宇治が聖域の母親も、和邇氏だ。
 コノハナサクヤヒメに象徴されるように、女性を通じて、和邇氏の影響力が潜んでいる。
 そして、神話のなかでコノハナサクヤヒメの父とされるのが大山祇神で、この神は、名前に山を含みながら、渡しの神ともされ、瀬戸内海の大三島が重要な聖域であるように、海上交通と大きく関与していた。山の神でもあるのは、船を造るためには山の樹木は欠かせないからだろう。
 大山祇神は、伊豆周辺では三島明神とされ、その后神として、大島の波布比売、伊豆半島の伊古奈比咩命、神津島の阿波比売などがおり、阿波比売は、近畿や四国では天津羽羽神で、”はは”というのは蛇のことである。波布もまた、同名の蛇が南西諸島にいる。
 古事記における大山祇神と結ばれ子を産んだとされるのは、野椎神(のづちのかみ)であり、これも蛇である。
 縄文土器には蛇のモチーフが多く見られるが、縄文時代、蛇は聖なる生物であった。
 大山祇神の后たちが蛇を象徴しているのは、大山祇神が、縄文時代からの海上交流に関係する渡しの神であるからだと思われる。
 この大山祇神の娘のコノハナサクヤヒメと、他の文化圏からやってきた者の象徴であるニニギが結ばれた。神話は、日本の古代を、そのように伝えている。
 そして、和邇氏(後の小野氏)の痕跡は、古代のまつりごとの中心であった畿内だけでなく、関東においても残されている。

 武蔵国一宮は、聖蹟桜ヶ丘に鎮座する小野神社である。
 小野神社から多摩川をはさんで対岸が、武蔵国国府が置かれた府中だ。
 そして、古事記において、ヤマトタケルが野火に囲まれた時、草彅の剣によって難を逃れた場所は相模国となっており、その候補地が、厚木市小野で、ここにも小野神社が鎮座している。
 ヤマトタケルが船で房総半島に渡ろうとした時に嵐が起こり、それを鎮めるために妻の弟橘媛が犠牲となって入水するが、その前に詠んだ歌、「さぬさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」のなかに、「小野」の地名が記されている。 
 そして興味深いことに、聖蹟桜ヶ丘の小野神社と、厚木の小野神社を結ぶラインの延長上が神奈川県二宮町の吾妻山で、ここにコノハナサクヤヒメを祀る浅間神社があるが、この吾妻山には、入水した弟橘媛の櫛が海辺に流れ着いて、それを埋めて故人を偲んだという伝承もある。
 この二宮町は、縄文時代の痕跡が多く残っているが、古墳も多く、全体では200近くが確認されている。しかし、他の地域のような土を盛り上げてつくる古墳は存在せず、丘陵の斜面に横穴を削って埋葬する横穴墓ばかりだ。
 横穴墳は、全国的に見ると、内陸部には少なく沿岸部や重要河川沿いに多く作られている。
 地域的には、大分、熊本、福岡、島根、静岡、神奈川、千葉、茨城、福島、宮城に多く、東京、埼玉、宮崎、石川、奈良が、これに続いている。
 そして、横穴墓として全国的に有名なのが、埼玉県比企郡吉見百穴で、200基を超える墓穴を見ることができる。

 この場所は、聖蹟桜ヶ丘にある武蔵国一宮の小野神社の真北42kmである。そして不思議なことに、武蔵国の小野神社から、ヤマトタケルの野火の伝承がある相模国に小野神社を通って、弟橘媛の櫛が埋められたという伝承地で横穴墓が集中する二宮町までも42kmなのだ。

 



 吉見百穴の場所は、内陸部であるが、荒川の水上交通路を使って東京湾まで出ることができる。そして、この群集墓がある小山からの見晴らしはよく、秩父の山々から富士山まで一列に望むことができる。古代の関東もまた、河川交通と海上交通によって、各地が結ばれていた。
 (続く)


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第1459回 時代の先端を疾走し続ける91歳。

 現在、東京と京都で同時開催中の川田喜久治さんの写真展。
 本日、東京のPGIギャラリーでのオープニングパーティがあったので、野町和嘉さんと訪れた。
 川田さんは、私と同じ1月1日生まれだが、今年、なんと91歳になった。
 2022年の秋の展覧会でお会いして以来なので1年半年ぶり。さすがに、これくらいの年齢の方は、1年とか2年後に会うと、老いを感じるのが普通で、今回もそれなりに覚悟をして出かけたのだが、まったく変わっていなかったのでびっくり仰天。
 野町さんも、前回、川田さんとお会いしたのは私と一緒だったので、同じく1年半ぶりで、その変化の無さに、「化け物だあ」と唖然。お顔に皺やシミが出ているわけではないし、背中はまっすぐだし、パーティのあいだも、ずっと立ったままで、疲れたそぶりもない。
 食生活はどうなっているのかと聞くと、最初に出てきた答えが、「肉と魚を交互に食べている」とのこと。「肉ばっかり続くとさすがにねえ」と、まるで、中年にさしかかった30代とか40代の答え(笑)。
 この食生活は私と同じだとうれしくなってお酒のことを聞いた。私は、ほぼ毎日、少量だけれど飲んでいて、休肝日がない。酔っ払うためではなく、食事がおいしくなるから飲んでいるだけなのだが、辞めた方がいいですかねえと川田さんに伝えると、「僕も毎日飲んでいるけれど、お酒は飲んでいた方がいいよ、気分が高まるでしょ。」との答え。まるで私の心の声を代弁してもらったようで、一安心。
 まあ、こうしたことは前置きで、本当に驚いたのは、展示されている写真が、この1、2年に撮った新作ばかりなのだけれど、ものすごく斬新であること。芸術家に年齢なんて関係ないとはいえ、90歳を超えて、生涯でもっともエッジが効いた作品を作り出しているのは尋常ではない。
 しかも、川田 さんは、ほぼ毎日のように撮影し、インスタグラムにアップしているのだが、その写真を、その日のうちに自分でA2サイズのプリントにして、それを展示しているのだ。
 後になってから展示用にプリントを制作するというのが一般的な写真家がやることだが、川田さんは、撮影時のリアリティが鮮明なうちにプリントまで仕上げることをモットーとしている。
 もちろん、時間を置くことで熟成されるものもあり、その時にプリントを作れば、まったく異なるものになるかもしれない。しかし、それはそれで構わず、それはまた別の作品だという意識を川田さんは持っている。
 とにもかくにも、川田さんにとって現在進行形の作品は、そのスピード感が命。なぜなら川田さんは、刻々と変化し続ける時代社会と向き合って作品を作り続けており、”旬”であることが何よりも大事。優れた料理人の仕事の速さと同じ。
 川田喜久治さんというのは、日本の戦後写真界の牽引者であり、川田さんが所属していたセルフ・エイジェンシーの写真家集団VIVOのメンバー、東松照明さん、奈良原一高さん、細江英公さんなどは、写真界の伝説である。
 だから、戦後間もない頃のvivoの時代のエピソードが語られたり書物で読む時に、川田 さんの名前が出てくると、とても不思議な感じがする。
 今、目の前に、現役バリバリの当人がいるわけで、夢を見ているような気分になる。
 しかも、年に一回ほど、筆達者でセンスのいい直筆のご連絡をいただいたりする。
 私は、川田さんとは16年ほどのお付き合いになるが、出会った時すでに75歳になっていたということだが、その時も若々しかったのだが、話をしている時の感じは、当時と今、まったく変わりがないのも驚きだ。発する言葉も明晰だし、人の話に対応する柔軟な対話力も健在だ。
 その秘訣は、やはり、上にも書いたように、毎日、集中して自分がやるべきことをやり続けていることだろう。そして、色々言い訳したり、もったいをつけたり、後回しにせず、スピード感を維持し続けていることが大きいと思う。
 小説家の丸山健二さんが、毎日、少しずつでもいいから必ず数行ずつ書き続けるということを言っていたので、それを川田さんに伝えると、「毎日数行を欠かさずに続けて一年で一冊の長編小説になる。そういうものだよね」と即答。
 少しずつであっても、集中を途切れさせないということが大事とも言っていた。
 私も実践できているかどうかはともかく、まったく同じ考えで、昔のように、あれもやりたい、これもやりたいという気持ちはなく、一意専心できればそれでいいという思いが強い。
 一意専心の極北は、白川静さんなのだが、私が地道に行っている「日本の古層」のプロジェクトについて、川田さんは、気遣ってくださっているのだが、白川さんの「字訓」や「字統」に通じる極めて大きな仕事と言っていただいた。私にとって、これはどんな言葉よりも、心の支えになり、勇気づけられる言葉だ。
 ピンホール写真についての感想など、いろいろな方からいただいているのも励みだけれど、白川さんの名前を出して評価してくださるのは川田さんだけで、つまりそれは川田さんも白川さんのことを深く理解しているからであり、私にとって二重に嬉しい。
 20代、30代の未来を背負う若い表現者には、川田 さんの作品の中に漲っている疾走感と、時空を超えたスケール感を、ぜひ感応してもらいたい。
 評論家が、あれこれ分別くさく分析する時間を許さないほど、川田さんは、彼らの言葉の前を走り続けている。

 

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第1458回 口先だけの分析なら、もはやAIの方が上手にできる。

昨夜の地震の状況を知ろうと思って、朝、テレビをつけたら、屋台を引きながら無料でハーブティーをふるまい、薬に関する相談などにのっている若い薬剤師が紹介されていた。
 彼がこういうことをするようになったきっかけは、病院の待合室で、患者さんが隣の人に対しては気軽に自分の症状や心配事について話をしているのに、いざ医師や薬剤師の前に来ると、素直に心の中を打ち明けてくれないことがあって、自分と患者さんのあいだにある壁のようなものを取り払う必要を強く感じたからだと言う。
 彼は、壁の外側から相手と接するのではなく、壁の内側に入って相手と接することが大事だと思い、そう思うだけでなく、具体的な形にしたことが素晴らしい。 
 医療分野に限らず、「外側から見る」ことと「内側に入って見ること」の違い。
 この違いこそ、意識の転換、すなわち世界の転換に関わる大きなポイントでないかと私は思っている。
 「外側から見て分析する」ことの問題は、レヴィ=ストロースが、100年前に文化人類学の研究において問題提起していたことだ。自分が向き合う対象を、博物館の展示物のように整理することを目的化しているような学問研究に対しての問題意識。
 こうした「外から目線」は、今日的学問の隅々なで行き渡った目線であり、その学問的目線から派生した今日的な情報伝達において普通になされていることである。
 相手を単なる「物」として冷たく扱うということ。その「物」じたいに、魂などまったく感じていないことが当たり前になっているが、対象が人間である場合も同じ。その行き着く先は、人間も、ただの「数値」に置き換えられて判断される現実である。
 結婚相手の人間の優劣は所得で判断され、 健康度を計る目安は、血圧や血糖値がいくらか?であり、芸術作品の素晴らしさを判断する目安は販売数や集客数。ニュースソースの優劣は視聴者数。SNSやユーチューブでは、いいね!の数で一喜一憂。
 南海トラフ地震においても、想定震源域で「マグニチュード6.8以上の地震が起きたとき」に、気象庁は専門家による検討会を開くことになっているそうで、昨夜、豊後水道で起きた地震は、想定震源域であるものの、基準を下回るマグニチュード6.6だったため、検討会は開催されないと気象庁から発表があった。
 現代社会において、数字の力、その説得力は最強であるらしい。
 しかし、数字には現れにくい(現時点では現れていない)内実というものがあり、未来の種は、そこに潜んでいる。
 そして、外側から見ているだけでは、その内実に触れることができない。
 リヤカーを引きながら、相手と同じ目線で語り合うことを始めた若い薬剤師は、そのことがわかっている。
 「わかっている」とか、「わかっていない」という言葉も、安易に使われており、専門家と称する人は、世間一般では、わかっている人だとみなされている。
 しかし、経営評論家に、本当の経営ができるだろうか。写真評論家や芸術評論家に、いい作品が作れるだろうか?
 作る側と評論する側では、役割が違うとか専門が違うと言われるけれど、本当にそれでいいのだろうか。
 外から評論することと、実際に会社を経営することや作品を作ることのあいだに、言いようのない隔たりがある。そして、この隔たりの中にある言うに言われぬものこそが、実際の経営や作品作りにおいては、極めて重要な鍵である場合が多い。
 経営評論家が、実際に会社の経営者にならないとしても、経営者の身近にいるアドバイザーとして、毎日のように起きる複雑なトラブルや課題に対して、その都度、優れた経営者が判断するように、素早く、適切な判断ができるようでなければ、信頼できる経営評論家とは言えないだろう。
 写真評論家や芸術評論家にしても、実際に写真を撮ったり作品を作ることを行わなくても、クリエイターが、作品をまとめた形で発表するための作品集や展示会などを行う場合、口先でああだこうだと言うだけでなく、最も適切な形でアウトプットするための具体的な対応ができなければ、信頼できる評論家とは言えないだろう。
 なぜなら、相手(作品)のことをわかるというのは、相手(作品)を分析することではなく、相手(作品)の中に秘められた力を引き出せること、生かせることだからだ。
 これは、会社組織の中の上司と部下の関係においても同じ。部下のことをわかっている上司というのは、部下を分析して、それらしく評価付けする人ではなく、部下の力を引き出せる人。
 それができる人は、リヤカーを引いている若い薬剤師のように、相手との併走ができる。
 昨日、希望者に対して実施しているポートフォリオレビューを行った。
 私のポートフォリオレビューは、一般的によくあるように、写真家が持参する作品を見て、あれこれ分析したり、上から目線でアドバイスをするといったことは行わない。
 私のポートフォリオレビューは、実際に本や展覧会などのアウトプットを行うことを想定したうえで、その写真家と一緒に、作品を組み上げていく。もちろん、手を動かすのは私であり、写真家が、それを見ながら、どう思うか、どう感じるかをくみとって形にしていく。
 私は、20年以上、それこそ無数の写真家の作品に対して、そのように対応してきた。そして、その集中時間を苦としていないので、時間を忘れて没頭してしまう。 昨日も、午後1時から始めて、休憩もなしに、午後7時半まで行った。
 写真をセレクトしながら構成して、全体の入り口となる表紙からタイトルから、展開から、具体的なレイアウトデザインまで、一挙に60ページほどの形にした。
 だいたい、いつもこのくらいのボリュームまで作り上げて、後は、ソフトの使い方や印刷発注の方法などを伝え、写真家自身の手で続きを行えるようにしている。
 もちろん、この時間で私と写真家が併走して作ったものを絶対視する必要はなく、家に帰って冷静になって自分で手を加えていけばいいし、そのようにして改良したものをPDFで送ってもらえば、それを見て、さらなる対話を行えばいいと思っている。
 目指すべきは、その人が作り上げていくものとして、最適で最善のものであること。
 「数字」ではなく「内実」で人の心に働きかけができるもの。
 展覧会などに行って、心の中では、そんなにいいとは思っていないのに、有名人が絶賛していたり専門家が高評価を与えていたり、なんかの賞を受賞していたり、世間で評判のようだから「いいもの」なんだろうなという感じで見るのではなく、その「内実」に、本当に心が動かされるのかどうか。
 そうした「内実」のあるものを作り出して、それが伝わることこそが、作り手として本当の喜びであることを、わかってほしい。心の底でわかっていながら、社会の壁で実践できていない人に、実践できる方法を、具体的に伝えたい。 
 表現者を自称する人々が世の中に溢れかえっており、何のために表現行為を行うのか?という根本的な問いに立ち返るところから、表現を志す人は始めなければいけないのではないかと思う。
 しかし、それを、言葉で説いているだけなら、口先だけの評論家と同じであり、口先ではなく、実際に手を動かして、具体的な形にして、見せることが大事な時代になってきているのではないだろうか。
 口先だけの分析なら、もはやAIの方が上手にできる。 AIが苦手なことは、言葉にならない微妙で繊細なものの中に、大事な種が秘められていることを察する力だろう。
 屋台を引きながら、一人ひとりと対話しながら自分の心の中に蓄積していく人々の繊細微妙な心模様は、屋台を引く人間だけにわかる経験であり、その経験は、標準化された言葉に置き換えて、他の人に簡単に伝えられるものではない。
 それをわかろうと思えば、自分も、実際に屋台を引くしかない。

 

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