第1038回 広河隆一氏の性暴力について ⑵

 年末に週間文春の記事が出て時に文章を書いたが、今日、彼に対するあらたな告発の記事が、文春に掲載された。

 今日発売の週間文春において、広河隆一氏の、前回の記事よりもさらに悪質な性暴力の記事。前回の記事を読んで、それまで自分の中だけに抱え込んで苦しんでいた女性が、この問題を自分の外に露わにすることで、自分に対する罪の意識から少しは解放されたと。もちろん、あれだけ酷いことがあり、その傷が完全に癒されることはないが、それでも、犠牲者は自分だけでなかった、自分が悪いわけでなかったのだと再認識することで、自分で自分を責め続けるという地獄からは、少しは抜け出すことができるのかもしれない。その告発の勇気は、誰にでも持てるものではないけれど、こういう勇気ある告発があったことで、1人で抱え込んでいた他の女性で、少しは救われた人がいるかもしれない。
 それにしても、広河氏の性暴力は、異様すぎる。これまで私たちが知っていた性暴力は、組織内の力関係を利用したものが多かったので、その範囲も限られていた。しかし、今日の文春の記事だと、広河氏は、ジャーナリスト志望の女性や、人権をテーマにしたイベントや講演会に集まってくる人を罠にかけていたわけで、そういう人たちを自分の懐に巻き込んで操る方法論を作り上げていた。その犠牲者は、学生とか、まだ社会人生活の浅い、純粋で無垢な若い女性たちだった。
 人権派ジャーナリストとしてどうかとか、もはやそういうレベルで議論する問題ではなくなっていて、モンスターになってしまっている。
 純粋な気持ちでイベントなどに参加したりボランティアを行って、こうした被害を受けて苦しみを負わされているという状況を知ると、彼個人の悪質さが際立ちすぎて、理解がついていかず、胸が苦しくなる。
 行為だけでなく、「きみはもうセックス相手をしては替え時だ」とか、「(セックス相手として)他の男たちに貸す」といった、女性の尊厳を徹底的に傷つける言葉による暴力もすごかった。
 15年くらい前の彼のことはよく知っていたが、親しい間柄にはなれないと思うところはあったものの、ここまでとはわからなかった。
 彼の人間性の問題だと片付けることは簡単だし、もちろん、それが大きいのだが、人は最初からモンスターだったわけではなく、人をモンスターにしてしまう何かがあるのではないか。
 「自分と付き合うと、報道の世界で都合がいいよ」という台詞は、彼の誇大妄想か、ペテンか、それとも実際にそういうことが成り立っていたのか。(ジャーナリズムに関する賞の審査員などをつとめて、人の進路に影響を与えることができる)
 また、事務所にベッドが設置されていて、それをそういう目的のために使っていることを薄々察知しているにもかかわらず、周りの人が何もできなかったという金縛り状態、だからますます悪質さが増長してしまうという悪循環。
 なぜそういうことが起こってしまうのか。戦争などにしても、後から振り返ると、なんであんなバカなことを、というのがたくさんあるが、その時、その渦中にいた人たちは、思考停止、感覚麻痺に陥っている。企業の不祥事も、本来は真面目な人たちなのに、なぜあんなことを、ということがある。あたかも催眠術にかけられていたように。
 DAYS JAPANは、次の最終号で、この広河問題を特集するのだという。その気持ちはわからないでもないが、それでも、あまりにも極端ではないかという気持ちがしないでもない。私は、 DAYSの創刊の時に少し関わったが、雑誌の編み方が極端すぎるのではないかと懸念を覚え、さらにその後、広河氏と仕事はできないと感じることがあって彼から離れていたが、 DAYSの最後が、そういう壮絶な自己否定の形になるというのは、創刊の時に感じた”極端さ”とも、重なり合う。白か黒か、正義か悪か、敵か味方か、なぜ、そんなに極端になってしまうのか。DAYSの文化には、中庸とか、間合いとか、余白とか、余韻が、まったくなかった。
 人権の旗を掲げながら人権を蹂躙することは、革命の前後などを通して、人類史でいくつものケースを我々は見てきた。
 極端な主張、極端な行動の背後にあるのは、実は、その人の空虚ではないかと、ずっと思ってきた。
 広河氏の正義の旗を掲げた行動は、真に誰かのことを思ってのことではなく、空虚に蝕まれていた結果として、自分にとっての攻撃の対象が必要で、それが、国家とか体制といわれるものだったのではないか。
 今回の文春の記事の中にあるアルバイト女性に対する破廉恥行為などは、セックスの強要とは別の次元の、空虚に蝕まれた人間の変態行為としか思えない。
 あの広河氏と同一人物なのかと夢を見ているように思う人もいるだろうが、これが同一であることの根っこを、私たちは、深く洞察する必要があるかもしれない。

第1037回 天と地と人間を貫く不可思議な力!?

 昨日の夜、突然、若い友人が電話してきた。
 彼は、世間では心の病気とされる症状があり、とても感度が高く、繊細なセンサーを持っていて、そのため、現代社会では非常に生きづらい状態で生きている。しかし、幸いなことに、彼は、自分の状況を客観視する眼差しも持っており、不安定ながらも、薬の力も借りて、なんとかバランスをとりながら生きている。
 その彼が、正月に、全身を貫く電気的な衝撃を受け、その結果、近視のため普段は書棚に並んだ本のタイトルが見えないのに、くっきりと見えたり、自分の身体が別のものになってしまったような感覚になり、意識を失う直前までいき、かろうじて耐えた。その後も、車でドライブに出かけると、ある場所になるとものすごく気分が悪くなったり、その逆だったり、自分に一体何が起こっているのか不安を覚えて、私に電話してきた。
 私に電話してきた理由は色々あるが、その一つは、彼が「風の旅人」の熱心な読者で、その中で連載していた「電気の宇宙論」の中のプラズマ現象などもすべて読んでいて、この正月に自分に衝撃が起きた時に、とっさに、”プラズマ”という言葉が頭によぎったからでもあった。
 他の誰かに電話しても、「疲れているだけじゃない」と言われておしまいだが、私なら、違う答が得られるのではないかと期待して。
 私は、べつに霊能力者でないし、自分がそういうセンサーを持っているとは思っていないけれど、子供の頃、隣に本物の霊媒師が住んでいたという経験などから、自分の感覚では捉えきれない何かが存在しているのだろうな、という意識は持っている。
 それで、彼が電気的衝撃を受けたという自宅の場所などを色々と確認したら、私が、現在、探求している古代のレイライン上にあったので驚いた。
 そのラインは日神のラインと自分では名付けているのだけど、どうにも太陽と関係がある。
 それで、今年の正月、太陽に何かあったかと調べていたら、この正月、太陽と地球の距離が一番近づいていたという記事があった。
 さらに、私は知らなかったけれど、1月3日に、天に巨大な火球が降って、日本の至るところで観測され、動画にも残されていることがわかった。NHKまでとりあげているので、フェィクニュースではないのだろう。
 その火球は、四国の剣山あたりに墜ちたんではないかという観測も出ているが、私に電話してきた彼が住んでいるところは、剣山のすぐ近くではないけれど、四国の対岸の和歌山で、剣山と同じ中央構造線上の、日前神宮國懸神宮のそばだ。
 日前神宮國懸神宮は、奈良の三輪山から見て、冬至の日に太陽が沈む方向だが、そのラインは、私が住んでいる松尾大社比叡山を結ぶラインと平行だ。
 ラインのことは抜きにして、日本を横に貫く中央構造線は、地下にエネルギーが凝縮しているところであることは間違いなく、鉱物の鉱脈も多い。
 そして、南海トラフ地震との関係も指摘されている。
 そうした地下の出来事と、天に徴(しるし)のように現れた光球の関係は、私にはわからない。
 しかし、聖書の時代も、日本の古代も、この天の徴(しるし)のことが記録されている。

 たとえば、大化の改新の前、634年、大きな彗星が現れたのをきっかけに、毎年、次々と異変が起きたことが記録されている。
 日蝕、大洪水、宮殿の火災、干魃による飢饉、台風などの天変地異のほか、凶事とされる星の動きまでが記録されている。
 このような時、舒明天皇崩御し、本来ならば息子の中大兄皇子が世継ぎとなるところ、なぜか、舒明天皇の皇后が、641年に皇極天皇として即位する。しかし、その年も、長雨、日照り、大地震、虫の大発生、日蝕など異変が続いたことが日本書紀に残されている。その後、乙巳の変大化の改新)が起こり、白村江の戦いで日本は惨敗する。
 聖書の黙示録などと、非常に似ている。

 非科学的なことを言うつもりはないが、この正月、感覚の鋭い人の全身を貫いたという電気的衝撃は、いったいなんだったのか。
 時間的には、火の玉が墜落した時間とはズレているので、墜落の衝撃ではない。火の玉の正体は、今のところ隕石ではないかとされているので、その隕石が地球に近づき、プラズマエネルギーを発していたのかもしれない。
 おそらく、彼以外、この正月、同じような衝撃が全身に走っていた人がいるのではないだろうか。彼が特別なわけではなく、人よりも感覚が鋭いだけなので、同じような人は他にもたくさんいると思う。

https://www3.nhk.or.jp/n…/html/20190103/k10011766421000.html …#nhk_news#nhk_video

第1036年 とても残念な日本の精神的光景。

 

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 とても残念な日本の精神的光景。
 桂川の河川敷には広大なグランドと、草原の広がりがある。正月休みということもあり、草原の上で凧揚げを楽しむ親子がいたり、キャッチボールをする父と子、また、正月休暇で、ミニサッカーの娯楽を楽しむ大人がいた。
 それぞれが、それぞれの時間をエンジョイしながら、それぞれの場所に関しては、適度な棲み分けを行えばいい。本能的に、距離を保ちながら、それができる余裕が、広大な河川敷にはある。
 しかし、大人と子供がキャッチボールをしていて、子供のやることだから手加減ができず、手元が狂って、そのボールが、サッカーをエンジョイしているフィールドに転がっていくことだってある。
 そういうことに、いちいち目くじらを立てる必要はない。
なのに、突然、そのサッカーをエンジョイしている大人のうち、一人の女性が、「私たちは、この場所を、予約して、お金を払って使ってんです。だから、もう辞めてもらえますか!」と大きな声を立てる。
 自分たちがお金を払っているグランドの中に他人が入り込んで何かをやっているわけではなく、お金を払う必要のない広大な草原の上で楽しんでいる人の手元が狂って、そこから飛び出したボールが転々と、自分たちの権利がある領域に入り込んでくることが許せないらしい。
 悲しいことに、この国は、子供の遊びに対する寛容がどんどん無くなって、大人の娯楽や、大人の権利ばかりを主張する国になってきていると実感される光景が、いたるところある。
 保育園や幼稚園の少なさを非難する時も、それは、子供達全体のことを憂慮してのことではなく、自分の子供を預かってくれる場所がないというだけの理由で、自分の家の側にそれができると、うるさいから嫌だと反対する大人。

 南青山の児童相談所建設に対しても、児童相談所は、南青山のブランドイメージを損ねるから反対だと、正々堂々と声高に叫ぶ人がいた。そういう姿がテレビに写し出されても、それを恥ずかしいことだと思わない自己正当化の鈍感な感性が、そこにある。

 自分が信じる正義のための破壊行動がテレビに写されても恥じない心理と同じだろうか。

 先日、このブログで書いた広河隆一氏の性暴力のことにしても、正義のために活動しているという自惚れが、自省する心を喪失させ、さらに彼を正義のヒーローのように扱い神輿に載せて担ぐ人々が、彼の自惚れを、よりいっそう肥大化させてしまった。
 いずれにしろ、大人が、ワイワイはしゃぎながらミニサッカーに興じて、自分の時間をエンジョイするのはけっこうだが、その楽しみを邪魔されたくないと大きな声を出しているその女性は、品性のない大人の典型だという気がする。
 そういう人にかぎって、なにやら、ヒーロー気分なのか、随分と堂々としている。
 そのチームの中には、品性も教養も知性もある人がいて、まあそのくらいのことは普通のこと、と受け止めて、一度目、転がってきたボールを取って、笑顔で返す人もいた。
 その品性も、おそらく真の意味で知性も教養もない女性は、そういう優しい男性が、優柔不断で頼りないとでも思ったのか、自分が声を上げなければいけないという自己中心的な正義感なのか、堂々と、胸を張って、高圧的に「ここは私たちに権利がある場所なんですよ」と声をあげる。
 なんだか、とても醜悪で、恥ずかしいものが、そこにあった。

第1035回 人権派ジャーナリスト広河隆一氏の性的暴行について

 まもなく新しい年が始まろうという時、とんでもない事実が発覚した。

 人権派として知られるジャーナリストの広河隆一氏が、最低でも7人の女性への性的暴力の責任をとる形で、「DAYS JAPAN」という雑誌を発行する会社の代表取締役を解任されたと発表があった。

 これまで、芸能プロダクションや高級官僚や政治家など、世俗的な利益や地位や名声を求める人々が集まりやすいところでは、この種のスキャンダルは珍しくなかった。

 しかし、人権を守るという旗を掲げて活動しながら、その活動に積極的に関わりたいと集まってくる人たちを罠にかけていたという今回の事態は、これまでの性的暴力とは別種の異様さがある。神父の児童性的虐待を連想させるところもあるが、人里離れた修道院での出来事ではなく、社会の中で大々的に正義をアピールしている現場で、しかも、犠牲になっていた女性が、明らかになっているだけでも7人という多さ、そしてその犯罪的行為を行っていた人物と、昔、深く関わりがあったゆえに、鳩尾のあたりが、キリキリとする。

 立場を利用して愛人になるように強要したというレベルを遥かに超えて、手当たり次第に女性たちの人権を踏みにじる行為を繰り返し、周辺の人々も、そのことを薄々察していたという。

 この異様な事態を作り出していながら、広河隆一氏は、その事実を認めた上で、ホームページにごく短い謝罪文を載せ、DAYS  JAPANの代表取締役を解任された、というケジメのつけ方を発表した。

 政治家や官僚などが、事実を認めず、地位に留まり続けるという執着を見せることが多いが、それに対してこの広河氏の迅速な行動を、潔い態度だと思う人は、よもや、いないだろう。

 この事件が公になる前から、DAYS JAPANという雑誌 は、あと数ヶ月で休刊することが決まっていた。しかも、この雑誌を発行する会社は、上場企業ではなく広河氏の個人会社にすぎない。

 高級官僚や大会社の幹部のように、そのポジションを追われることで金銭的にも大きな痛手を負うという状況と大きく異なる。

 DAYS JAPANという組織名と切り離された方が、広河氏にとっては楽なことで、その皺寄せは、組織に残る数名の人に、一挙に押し寄せるのだ。

 なかには、「今回の事件は広河個人の責任だけではない、DAYS JAPANという組織としての責任はどうなっているのだ!」と怒りの矛先をスタッフに向ける人もいるが、その人は、今回の出来事を世の中の政治家や官僚の不祥事と混同している。DAYS JAPANという既存の組織があって、その代表を広河氏が務めていたわけではなく、DAYS JAPANという組織は、広河氏個人の”願望”を形にするために広河氏が作ったものにすぎない。そして、その組織は、広河氏を崇拝した人たちによって支えられてきたが、そこには、広河氏の呼びかけで集まった大勢のボランティアや寄付者が含まれる。

 そして、哀しすぎることは、広河氏の願望には、自分自身が人権を守るために戦っている人たちの中でスターになり、芸能人のスターのようにスポットを浴びて女性にもてて、女性を自分の思うようにできる、ということまでも含まれていたことなのだ。

 自分が行っている表現活動などが、たとえ今報われなくても後の時代のために何かしらの意義あることにつながっている、そのことが他の何よりも大事、そうした使命に尽力していることに対して本当の意味で矜持をもっていれば、自分を厳しく律することもできる。

 しかし、広河氏は、モテたいという虚栄心や大勢の中で目立ちたいというプライドは高かったが、孤高の矜持はなかった。

 女性への性的暴力における責任の取り方として、被害にあった女性たちへの対応はもちろんだが、当面の問題として、定期購読のために前払いでお金を支払っている人たちへの対応がある。

 その対応を、 DAYS  JAPANに残る人たちで行うのは、あまりに酷すぎる。

 私も経験があるが、この残務処理は、地道ながら大変なものだ。何千人といる定期購読者で、あと何回分残っているかで金額も異なる。それを一つひとつ確認して指定口座に振り込まなければならない。

 今回の事件が公になっていなければ、広河氏は、「これまで正義のために戦ってきたけれど力尽きました、預かっている金額は、自分の今後のジャーナリズム活動の寄付金にしてもらえないか」といった内容のメッセージを読者に送りつけたかもしれない。寄付を募るという手法は、DAYS JAPANの創刊以来ずっと行われていた。

 広河氏は、ボランティアの支援をあてにして運営してきたので、たぶん幕引きも、ボランティアの手を動員しようと考えていただろう。

 しかし、こうした事件が起きて、その方法は通用しない。

 返金のための事務処理は、残されたスタッフに集中する。その時、裏切られたという気持ちの強い読者から、「これまで続けてきた定期購読のお金も返せ!」という非難を浴びるかもしれない。

 その非難が、DAYS JAPANに残る少人数の人々にふりかかることは、絶対にあってはならない。彼らもまた犠牲者なのだ。

 だから、この事件に対する広河氏の責任の取り方として、「DAYS JAPANの代表を辞める」などという生ぬるいものでいいはずはなく、雑誌休刊における返金処理など、最後の最後まで、広河氏自身が、代表の名をもって行うべきなのだ。定期購読者の全員に連絡をとり、謝罪をし、返金の手続きをすべきだと思う。果たして、前受け金として預かったお金が残っているかどうか心配だが。そのうえで、被害にあった女性たち全てに向き合わなければならない。

 

 私は、20歳の時、大学を辞めて海外放浪をする前、広河氏の「パレスチナ」という新書本を読んだ。その影響もあって、放浪中にアラビア語を学んで、アラブ諸国をまわろうと決め、チュニジアのブルギバスクールに僅かな期間だけれど通った。

 なので、2003年の4月に「風の旅人」を創刊した時、すぐに広河氏に連絡をとった。そして、2003年8月発行の第3号から、2004年2月発行の第6号まで彼の特集を組んだ。イスラエルへの取材のため取材費も準備した。

 それら風の旅人の4冊で編集した広河氏の写真や文章は、たとえ戦乱の犠牲者のことを伝えるものであっても、抑制がきいたもので、それゆえ、心に突き刺さるものだったと思う。

 その期間、広河氏と何度も会い、話をし、その中で、広河氏の雑誌創刊の夢のことを聞かされた。

 1988年4月号から1990年1月まで講談社から発行されていた「 DAYS JAPAN」という雑誌があり、アグネスチャンの講演料問題という奇妙な理由で廃刊に至ったが、広河氏は、あれと同じようなジャーナリズム雑誌を作りたいと言っていた。

 2003年当時は、そうした雑誌の発行はとても無理だと思われていたが、私は、そういう時代に敢えて「風の旅人」という雑誌を創刊し、広河氏は、その内容を高く評価してくれた。そして、その運営のノウハウを教えて欲しいということだった。

  DAYS JAPANの発行後、広河氏が雑誌創刊のいきさつを語る時、かつての DAYS JAPANの廃刊のいざこざが落着いた時、再び、当時の有志が集まって始めたようなことを言っていたが、実情は違う。すでに、廃刊から13年が経っていたし、当時、広河氏のまわりの人たちは、みんなジャーナリズムの新雑誌の創刊など不可能だと決めつけていた。彼の仲間が集まった時も、みんな反対するか無視をし、私一人だけが、それは可能なのだと主張した。というのは、2003年というのはデジタル製版が本格化しつつある時であり、それまで、たとえば風の旅人の場合は150ページほどあるが、その製版代がアナログ時代は800万円、さらに版下制作、写植や修正代などを含め、印刷や製本にかかる前に1000万円ほど必要だったコストが100万円もかからなくなっていた。さらに、メールの発達などによって、編集部員の負担は減り(手書きの生原稿を打ち直す必要もなくなっていた)、その数も少なくてすんだ。私は、実際にそのような新しい方法で運営していた。

 デジタル製版のクオリティに不安があったが、風の旅人の印刷クオリティで広河氏は納得し、その方法でトライする決意をした。

 さらに、売れなければ返本され、なのに40%以上もコミッションをとるトーハンや日販などの書籍流通に依存せず、新しい定期購読者の獲得のために書籍流通を行うという割り切りで、定期購読者を全読者の半数くらいにもっていけば、制作コストも大幅に安くなっているゆえに、かつての雑誌のように十万を超える発行部数の必要はなく、15000部くらいの発行数で、広告出稿をとりにくいジャーナリズム雑誌でも十分に運営が可能だというシミュレーションを彼に伝えた。そして、印刷見積もりをとり、ページ数を決め、効率のよい紙取りができるサイズ(風の旅人と DAYS JAPANは、ページ数は風の旅人が倍以上あるが、判型は同じ)で、広河氏の DAYS JAPANは船出をした。2004年4月だった。さらに、資金協力を仰ぐために、風の旅人をよく読んでくれていた大企業の創業社長に広河氏を紹介し、多少の資金も得ることができた。私は、創刊号の校正刷りも確認した。

 そして、DAYS JAPANの創刊後は、風の旅人とのあいだで、志を同じくするものどうし、お互いの雑誌で紹介し合おうという話もした。

 そのようにDAYS JAPANの創刊までの準備に深く関わった私は、創刊号の巻末に名前が記された。

 しかし、DAYS JAPANの創刊後、それまで絶対に無理だと言い続けていた人たちが、動きだしたトロッコに乗り込むように入ってきた。

 そして、第2号から、私の名前は消え、広河氏が依頼をして承諾した有名人の名がズラリと並び、「DAYS JAPANはこういう人たちに支えられています。だからあなたも賛同してください!」という内容のキャッチが強調された。

 お互いの雑誌で紹介し合うことは、私は果たしたものの、広河氏は、一度も実行しなかった。

 さらに、風の旅人の第9号(2004年8月発行)で、セバスチャンサルガドのページを作ると伝えた時、サルガドを崇拝する広河氏は、自分も DAYS JAPANの中で紹介したい、だから連絡先を教えて欲しいと言い、私は、その申し出を受けたものの、風の旅人の第9号よりも1ヶ月早い発行のDAYS JAPAN(2004年7月発行)の中で、風の旅人で掲載する予定の写真、とくにポスターでも使うメインの写真は使わないで欲しいと彼に伝えたものの、あっさりと裏切られ、その写真がデカデカと掲載されていた。

 DAYS JAPANの創刊以来、その編集内容に対して、私はすでに違和感を覚えていたが、このサルガドの件で、私は彼を信用できなくなった。感謝とか恩義といった、人間関係の基本が通じないような気がした。

 広河氏は、戦場での悲惨なシーンを積極的に掲載するという方針だった。しかし、当時、私は、「戦場で死体を撮った方が金になる」と言い切る報道写真家のことなども知っていて、目を奪う悲惨な写真の背景が気になっていた。

 また、見るものの思考を停止させるような衝撃性よりも、見るものが想像力を働かせて思考し、当事者意識を持てるような誌面づくりの方が大事だと私は考えていた。想像力を喪失して思考停止に陥り、自分が非難する相手は悪で、自分は善という線引きをすることがもっとも恐ろしい結果を生むことがある。歴史をふりかえっても、そうした例は数多くある。

 DAYS JAPANを発行する前、一人のジャーナリストだった広河氏は、もっと抑制のきいた表現を行っていた。だから、私は、彼の文章と写真を、風の旅人に掲載していたのだ。

 しかし、 DAYS JAPANという組織を持ってからの彼は、心に語りかけることより、人の目を惹きつけること、人の目を奪うことに重点を移していったように思う。

 そして、一人のジャーナリストの時は、自分の作品を各出版に持ち込んで売り込み、その相手が、たとえ未熟者でも選択権を持っているという状況に耐えなければいけなかったが、自分が雑誌媒体の所有者になると、自分のところに作品を売り込みたい人がやってくる。そして、ジャーナリズム大賞などという権威的な機関をつくれば、自分の価値観で人をジャッジするという強い立場に立てる。そういう権力を持ってしまうと、人は傲慢になる。権力を批判する立場だった人が権力を持つ側になると、180度変わってしまうことは、歴史を振り返ればいくらでもサンプルがある。

 私は、風の旅人の運営において、どんな人間の中にも潜んでいる、そうした権威主義、権力主義を警戒していた。警戒していてもそれが出てしまうこともあるけれど、自分の中にもそうした根があるかどうか自問しているかどうかによって、行動は大きく変わってくる。

 私は、風の旅人の誌面の中で、作家や写真家のプロフィール、肩書きや経歴を掲載しなかった。名前と生まれ年と出身地の記載だけにした。また、高名な写真家たちから、風の旅人の賞を作るようにとアドバイスされたが、断った。

 アウトプットされたものだけを見て判断することが大事なのに、肩書きや経歴や賞の受賞云々で物事の価値を判断してしまうこと、また、そのように人々の判断を導くものが世間にはあまりにも多く、私は、そこに与したくなかった。

 DAYS JAPANが創刊されてからの広河氏のやり方は、反体制を旗に掲げているものの、私には、それまで体制がやってきたことと方法論が大して変わらないように感じた。そのことも、彼に近づかないようになった理由だった。

 DAYS JAPANの創刊後、その編集部で働く女性たちの何人かとは会ったり、話をしたことがある。(編集部で男性に会った記憶がない)。編集スタッフは、広河氏に命じられらのか、自主的なのかわからないが、風の旅人の定期購読もしてくれていた。

  DAYS JAPANで働いていた人たちや、ボランティアとして支えていた人たちは、当然ながら、真面目な人たちだ。金儲けのために人を利用しようとする人たちは、他に相応しいところに行く。

 ただ、そうして集まった人たちは、DAYS JAPANの情報の深さや情報の伝え方の適切さ、権威主義的な広河氏の矛盾を、どれだけ見極めていただろう。

  DAYS JAPANの情報の質や伝え方のことは考慮されず、広河氏が発する正義のメッセージが、正義の所在がよくわからなかった時代のなか、多くの真面目な人を惹きつけていたのだろうと思う。テレビや新聞や週刊誌など、情報の質や情報の伝え方が、議論の余地もないほど酷いものが多すぎるので、唯一、DAYS JAPANが、まともに見えたのかもしれない。

 人の目を奪うためのやり方を躊躇なく実行し続けた広河氏の作る「 DAYS JAPAN」は、私が作っていた「風の旅人」などより遥かに有名になり、その有名力という権力によって、広河氏は、ますます傲慢になってしまい、自分が行っていることに対して何も判断できなくなるほど、思考と感性が麻痺してしまった。

 そして、いつしか、自分の欲望を満たすために、自分の権限と力をどう使うかを覚えて、味をしめてしまった。卑劣な芸能プロダクションの社長のように。

 芸能人の世界のように、表の顔と裏の顔を使い分けることで世俗的に成功するというところではなく、ジャーナリズムの世界で、「この人に見捨てられたらやっていけない、だから従うしかない」と思い込ませてしまう催眠術は、広河氏自身がかけたものか、それとも、この時代そのものに、そのように人を錯覚させる魔力があるのか。マスコミは、芸術家やジャーナリストもタレントのように扱い、そのように扱われることが表現者自己実現の達成のようになり、その姿に憧れて後を追う人が増えた。

 思えば、私も20歳の時、将来何をすればよくわからず、広河氏の「パレスチナ」を読み、ジャーナリストのような仕事で活躍できるような人間になりたいと思ったことがあった。また、人生の目的として、広河氏が掲げているような崇高な使命が欲しかった。

 詐欺師は、時代の変化の中で形を変えていく。人権という聖域だと考えられていた場所で、今回のような事件が起きたことに対して、真摯に人権のため活動を続けている人たちが、一番、途方にくれているだろう。被害にあった女性たちも、そばにいてそれを阻止できなかった人たちも、自分が巻き込まれてしまった渦の正体がよくわからず、だから、被害者なのに自分に責任があるかのように思いこんで、苦しみを増大させてしまう。

 今回の事件を受けて、様々な媒体で、このたびの出来事について様々な人が意見を述べている。

 自分の強い立場を利用して何人もの女性を陵辱し、傷つけてきたセクハラ、広河氏の行ってきたことの酷さ、おぞましさ、そして許し難さ、また被害にあった女性たちの苦しみ。立場や、広河氏との関わりによってその発言の内容は異なってくる。

 そして私は、私の経験の範疇でしか彼のことを語ることができない。

 忘れもしない今から36年前、1982年の夏、私は20歳だった。その5月、イギリスとアルゼンチンのあいだでフォークランド戦争が起き、その夏、イスラエル軍によるベイルートへの大爆撃があった。私は、そのニュースをチュニジアで見ていた。広河氏の「パレスチナ」によって導かれた場所だった。イスラエルキブツにいた時に第三次中東戦争が始まって、その経験をきっかけにジャーナリストになった広河氏の軌跡をなぞろうとさえ考えていた。

 このたび、一体何が起きたのか、自分の中でまだ整理できていないけれど、広河氏の存在は、20歳の時の諸国放浪の時、40歳の時の風の旅人の創刊の頃、私の中に深く関わってくる何かがあった。

 正しさというのは一体何なのか。時計を戻すことはできず、そのため、人は後悔に苦しめられる。しかし、自分がやってしまった取り返しのつかないことを心から反省し、いっさいの虚栄を捨て、懺悔のためにだけ生きることも、人間には可能だろう。

 人権は、声高く叫んで主張するスローガンではなく、これが善でこれが悪だと言葉で簡単にくくれるものではなく、心の琴線ではかるものだ。

 想像力を麻痺させ、思考停止状態になってしまうと、それはただの盲信、程度によっては狂信になってしまう。

 残念ながら、広河氏の人権に対する想像力や思考力は鈍麻してしまっていた。謝罪文で彼が使っている”不実”(愛情や誠意のなさ)という言葉にも、人権や、このたびの女性の被害に対する彼の麻痺感覚が現れている。

 彼の行ったことは、誠意の問題ではなく、今後の展開によっては刑務所行きの可能性もある暴力的な犯罪である。真面目な人が正しさの砦だと信じて逃げこんだ場所は、実際には、権力者の横暴によって人権を踏みにじる場所だった。広河氏は、そういうことを行っていた。その恐ろしい現実認識から始めて、罪の償いをしていくしか道は残っていない。 

 今回の問題は、広河氏個人の資質の問題が大きいと思うが、正しさにはこのような危険性がつきまとっているという認識を共有しておくことも大事だという気がする。

 最後に、こうした問題について文章で伝えることは、とても難解。いくら長文で書いても、入りきらないことがいっぱいある。風の旅人と DAYS JAPANの両方を読んでくれている人であれば、文章になりきれない微妙なニュアンスも読み取ってもらえるかもしれないけれど、そうでない人は、この文章の中だけで物事を判断するしかない。

 そうした言葉の限界を強く感じるから、人は、もっと丁寧に作り込んだ表現を必要とするのだと思う。しかし、丁寧に作り込んだ表現に丁寧に向き合ってくれる人が減っていることも事実。自分の表現を磨くのではなく、人のアウトプットするものを見て、あれやこれやと自分の好きなように採点する人ばかり増え、丁寧な物作りをしたり丁寧に物事に取り組むことが、とても難しい環境だと思う。

 やっていることが正義かどうかで判断するよりも、物事や人に対する向き合い方や取り組み方が、どれだけ丁寧に行われているかを判断することの方が、大事かもしれない。

第1034回 一千年前の文化が、今を超える。

  

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 京都東山の泉湧寺塔頭の即成院で行われた山下智子の「京ことば源氏物語」、第20帖『朝顔』を聞いてきた。
 即成院には、1094年に造られたという阿弥陀如来と二十五の菩薩像がある。それらの仏様を背後に語られた源氏物語の『朝顔』の帖は、とても素晴らしかった。ちょうど私の前に、宗教学者山折哲雄さんが座っておられ、昨年、私が企画した源氏物語のイベントで講演をお願いしたことがあったのでご挨拶をしたところ、これぞ『源氏物語』の真髄、という印象を持たれたようだった。
もののあはれ」とはなんぞということが、この『朝顔の帖には凝縮している。
 そして、現代文や原文よりも山下智子が語る京ことばの方が、もののあはれと幽玄を伝えるうえで、より言霊の力をもっているということが実感された。
 そして、源氏物語は、その言霊をより強く感応するため、耳で聴くために書かれたということもわかる。
 老いてなお性に奔放な源典侍と、美しく高貴で教養も豊かだが男性には奥手の朝顔の姫君を対比させながら、これまで光源氏と関わった多くの女性達のことが源氏の口から語られ、それらの女性の素晴らしいところを描き出すほどに、今は亡き藤壺の素晴らしさが、よりいっそう鮮明になる。
 しかし、その素晴らしさは、雪のつもる月夜の庭という現実離れした時空の中、藤壺の霊魂を登場させるという設定によって、夢の中の夢のように、よりいっそう現実の彼方の出来事のように感じられるが、それだからいっそう、切なく、胸に迫るものがある。
 この物語の後、光源氏は、雪のつもる月夜の庭という幽玄の世界から、現実世界の栄華を極めた豪華絢爛な世界を築いていくことになるが、この朝顔の帖で、すでに魂は彼岸に向いてしまっているということが伝わってくる。
 そして、その後、光源氏は、月明かりに照らされた雪の中に溶け消えていくようにフェードアウトして、彼を主人公とする『源氏物語』から下りてしまうのだ。 
 源氏物語は、単なるモテ男の女性遍歴などではない。女性遍歴を含め、宮廷生活の彩り豊かな華やいだ世界は、もののあはれや幽玄の世界を、より深く味わい尽くすための仕掛けのようなもの。永遠は、極楽浄土は、時を超える真理は、魂の陰影の深さの中にこそ潜んでいる。
 源氏物語も、平安の時代に掘られた仏も、そのことを、魂の染み入るような深さで伝えてくる。
 一千年も前の文化に比べて、最先端だと気取っている今日の文化は、魂の深さ、世界を洞察する力で計ると、あまりにも浅く、薄っぺらく、周回遅れのランナーのように思えてならない。
 

第1033回 古代と現代のシンクロニシティ

 

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(亀岡、御霊神社)

 最近、シンクロニシティが頻繁に起こる。シンクロが起きる時は、自分が行なっていることが正しい方向に向かっている証拠と、以前、誰かから聞いた記憶があるが、今、起こっているシンクロは、少し薄気味悪いくらいだ。

 ここ数年、日本の古代の聖地を訪れている。そして、それらの聖地が、どうやら太陽の軌跡と深く結びついているのではないかと感じるようになった。冬至夏至の日の太陽の日の出と日の入の方向を結んでいるライン。または、春分秋分の日の出と日の入の場所。古代人は間違いなく太陽観測を行なっていたと確信を持っているが、それだけでなく、縄文時代の聖地と、たとえば秦氏などの渡来人の聖地とのあいだで、ライン上の関係が感じられるようなところもあり、どういうことなんだろうと気にし始めると、ラインに取憑かれたようになってしまった。

 そして、こうした古代探索の旅に、最近、若い文化人類学の研究者の友人を同行させるようになった。その友人が、つい先日、ハワイの大学に戻った時、知り合いのアメリカ人教授を通じて宇宙物理学者を紹介された。その宇宙物理学者は、NASAスペースシャトルがいかに地球への帰還時に安全に海へと着水するのか、といったことを計算する研究班にいたそうだが、西洋知は古代知に比べて何周も遅れているのになんと傲慢なことだろうかと何らかの機会に感じたようで、退官後は天文考古学の分野に入り込み、古代ハワイ人の宇宙観や、日本の縄文時代の暦の研究をするようになったらしい。

 そして、東芝国際財団のJapan Insight部門の研究員として岐阜県金山の縄文遺跡の調査もしたらしい。

 岐阜県の金山は、私も昨年訪れたが、いくつもの巨石が配置された古代の天文台みたいなところで、春分秋分冬至夏至などの時に、巨石の隙間などに太陽光線が入り込むように設計されている。

 その宇宙物理学者は、古代人は間違いなく宇宙観測を行なっていたと確信をもっていて、近畿の大五芒星の地図(伊勢神宮熊野大社伊弉諾神宮、丹後の皇大神社伊吹山を結ぶラインが正五角形になる)を持ち歩いているそうだ。

 驚いたのは、私と、若い友人のあいだで、最近ずっと、この不思議なラインのことを語り合っていたのだけど、その彼が、初対面のアメリカの宇宙物理学者から、同じような内容の話を聞かされた。しかも、この直前にも、私と一緒に亀岡や近江など、古代のラインに関係する場所を訪れたばかりだった。奇遇といえば奇遇だけれど、日本とアメリカ、そして古代までつながるという時空を超えたスケールの奇遇も珍しい。

 実は、今週の月曜日、私が企画した対談に東京から来てもらった映画監督の小栗康平さんと写真家の鬼海弘雄さんを、亀岡に案内した。

 私は、亀岡を何度も訪れているが、最近、亀岡の佐伯地区で大規模な都市遺跡と寺院遺跡が発見されたと知り、その現場を見たくなったのだ。

 その場所は、『古事記』の編纂者の1人稗田 阿礼 (ひえだ の あれ)の生誕の地とされる稗田野神社の近くで、佐伯郷と呼ばれるところだ。古代、このあたりは隼人の居住地で、近くを犬飼川が流れ、桂川へと接続し、その下流が京都の嵐山で、さらに石清水八幡宮のところで巨鯨池に至り、そこから宇治川経由で琵琶湖、木津川経由で大和、淀川経由で河内へとつながるという河川ネットワークの要の地だ。

 太陽のラインで言えば、春分秋分の太陽の日の出の日の入の東西のライン上で、嵐山の天龍寺太秦蚕の社平安神宮永観堂、近江の三井寺を結んでいる。平安神宮を除いて、隼人や秦氏が絡んでいる。

 稗田神社の本殿の背後の鎮守の杜は、3000年も前から食物の神、野山の神を祀った場所とされているが、稗田神社の位置は、このラインの少し上だった。そして、この佐伯の古代遺跡が、ちょうどライン上なのだ。

 しかし、私たちが訪れた時、残念なことに、遺跡は発掘調査の後に埋め戻されていて、また別のところで発掘調査が継続中ということだった。この遺跡は、かなり規模の大きなものらしい。

 派出所などで確認しながら訪れたところで遺跡を見られず、少し落胆したが、周りの地理的状況を確認して自分を納得させて車を走り出したところ、すぐそばにこんもりとした杜があったので停止したら、鳥居が見えた。確認すると、御霊神社だった。

 この御霊神社は、稗田野神社と並び「上ノ社」「下の社」と呼ばれており、奇祭「佐伯灯篭祭」(*中世、女性から男性に仕掛ける夜這いで知られていた。)を行う佐伯郷4社の1社。巨木が鬱蒼と茂り、聖域にふさわしい境内となっている。境内のムクノキは亀岡の名木の中で単木としては最大で、京都府下でも最大級の巨木とのこと。

 この御霊神社も、蚕の社を軸とした東西のライン上にあったのだ。

 ただ一つ分からないのが、京都の御霊神社の場合、早良親王など、奈良時代から平安時代にかけて政争に巻き込まれて陰謀によって非業の死を遂げた人の怨霊を鎮め、祀るものだが、亀岡の御霊神社は、吉備津彦を祀っていた。

 吉備津彦は、第10代崇神天皇の時の四道将軍の一人だ。四道将軍とは、ヤマト王権に従わない各地の豪族に対し、北陸、東海、西道、丹波に派遣された将軍のことで、吉備津彦は、吉備(兵庫西部、岡山)に派遣されたのであって、亀岡に派遣されたのは丹波道主だ。丹波道主の娘の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が第11代垂仁天皇に嫁ぎ、景行天皇を産み、その息子がヤマトタケルとなる。

 なぜ、吉備津彦が亀岡の御霊神社に祀られているのか、今のところわからない。

 それはともかく、佐伯遺跡において出土した瓦は大量で、軒丸瓦や丸瓦など4種類だった。綾部市の綾中廃寺と同型の瓦が見つかり、古代の亀岡と綾部で職人同士のつながりがあったと考えられ、寺院を区画する柱塀の痕跡もあった。

 約100メートル離れた場所からは平安時代の墨書土器や皿、木簡などが出土した。これだけの規模の都市遺跡は、地域の拠点だったことは間違いない。

 そういえば、この日の朝、小栗さんと鬼海さんを朝の散歩に誘い、嵐山の渡月橋から嵯峨野を歩いた。 

 亀岡の佐伯遺跡と、東西のラインで結ばれる天龍寺で、小栗さんが、門番の人に色々と尋ねていた。今でも天龍寺は巨大な敷地を誇るが、かつては今の十倍の広さがあったらしい。天龍寺は、足利尊氏の時代に作られたが、もともとは、平安時代の初期、嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子によって創建された日本最初の禅寺だった。

 橘氏は、もともとは県犬養氏で、壬申の乱の際に大海人皇子を支えて勝利に導き、その恩賞で橘という姓を賜った。県犬養氏は、隼人と考えられる。

 そして、亀岡の佐伯遺跡のそばを流れるのも犬飼川であり、ここも隼人の居住地だ。

 現在、この目で見ることのできる過去の足跡の何倍もの規模のものが、地面の下に眠っていて、ネットワークを結んでいる。

 そこにアクセスするためには、意識的な行動だけでは難しい。シンクロニシティという意識を超えた力が、偶然のように見えて実は必然の因果で、導いてくれるような気がする。

第1032回  亀岡と近江を結ぶ磐座のネットワーク

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 (上:亀岡 出雲大神宮。下:東近江 三上山山頂)

 桂川松尾大社と嵐山のあいだあたりから北を見ると、美しい山々の連なりが見られます。
 左の端に愛宕山があり、右の端に比叡山。そのあいだ、西から高雄山の麓の神護寺や、神山の麓の上賀茂神社大文字山などもあるのですが、そこに、古代人が残した不思議なラインが存在します。
 愛宕山神護寺上賀茂神社、そして下賀茂神社の神体山とされる御影山が、東西一列に並んでいます。しかも、そのラインは、比叡山の向こう、琵琶湖を超えて近江富士と呼ばれる三上山の麓の三上神社、その反対側は、愛宕神社の背後にある亀岡の出雲大神宮にもつながっています。
 亀岡の出雲大神宮には大きな磐座がありますが、出雲大神宮の背後の神体山は、下賀茂神社の神体山と同じ”御影山”という名です。さらに近江の三上山の山頂にも磐座があり、そこは、天御影命という鍛治の神様が降臨した場所とされています。
 亀岡の出雲大神宮と近江の三上山と京都の下賀茂神社の神体山が”御影”という名でつながっているのです。
 さらに、昨日登った上賀茂神社の神体山の神山の山頂にも磐座があり、磐座のネットワークでも結ばれています。
 古事記の中で、東近江の三上山と亀岡(丹波)の関係は、彦坐王(ひこいますのみこ)の系譜でつながっているのですが、それは、第12代景行天皇や、その息子のヤマトタケルを産む系譜です。
 景行天皇を産んだ日葉酢媛は、第11代垂仁天皇に嫁ぎますが、その父親は丹波道主。実家があったところは、大堰川(現在の桂川)流域で、亀岡から松尾大社のあいだではないかと想定されています。
 平安京への遷都は794年ですが、秦氏桂川流域を開発し始めたのは5世紀末で、同じ頃に、松尾山で月読神が祀られ始めました。さらに、松尾大社から徒歩30分、上桂と桂のあいだに、京都市最大の前方後円墳天皇の杜古墳がありますが、これが築かれたのは4世紀、卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳と変わらない時期です。
 京都の歴史は、平安京よりもずっと以前まで遡ることになりますが、弥生後期(もしかしたら縄文)から、桂川を通じて、亀岡、嵯峨野、松尾、巨椋池桂川と木津川、宇治川の合流点)、そして近江やヤマト、大阪湾とつながっていたということになります。
 京都の西は、古代、水上ネットワークの要だったことは間違いないです。