第1142回 鬼とは何か? という本質的な問い。かぐや姫の背後にあるもの(後半)

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中宮寺 木造菩薩半跏像 (中宮寺ホームページより)

 かぐや姫は、高畑勲監督のジブリ映画で大ヒットして、その映画のサブタイトルが、「姫の犯した罪と罰」だったため、かぐや姫罪と罰は何ぞやと、この映画を見た人たちで議論になったようだ。

 映画の中で、その罪とは、「地球上の虫や鳥や動物たちのように生きること」に憧れたせいだと語られている。

 そのため、「生命そのものの営みが、なんで罪なのか?」という疑問が残されたのだ。

 かぐや姫の罪については、古くから多くの研究者によって議論が繰り返されているが、明確な答えは出ていないようなので、少し考えてみよう。

 竹取物語は、源氏物語のなかで、「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」とあるように、日本最古の物語といわれるが、成立年も、作者もわかっていない。

 竹取物語の原文の中で、かぐや姫は、地上に降りた理由として、「昔の契りありけるによりなむ」と述べていて、その段階では、特に、罪をおかしたなどとは書かれていない。

 そして、物語の最後、かぐや姫を迎えに来た月の王は、翁に対して、汝、幼き人と声をかけ、「汝が少し功徳をなしたから、汝の助けになるだろうと、しばらく、かぐや姫を地上に置いておいたが、翁は、それからずっと黄金を貯めづけて、すっかり変わった」と言った後、

かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤しきおのれがもとに、しばしおはしつるなり。罪の限り果てぬれば、かく迎ふるをと述べている。

 ここで初めて、かぐや姫の罪ということが出てくるわけだが、この部分の意味として、「かぐや姫は、罪を犯したために、賤しい翁のもとに(穢れた地球に)、しばらく降ろされたが、罪の期間が終わったので、迎えにきた」とされているわけだが、竹取物語が書かれたのは9世紀から10世紀と考えられているが、その頃はまだかな文学は完全に成立していない。

 そして、竹取物語の原本は存在していない。写本は、物語が書かれた時より300年以上経った室町時代の初期が最古とされている。さらに、室町時代に書かれた写本ではなく、江戸時代に活字印刷で出回った活字印刷で出回った「流布本系」が、現在において、かぐや姫の原文古典の扱いになっている。そして、このプロセスの中で修正が加えられてきたこともわかっている。

 なので、この部分を、江戸時代に書かれたものを基準にして理解しようとすると、どうにも意味が通らないような気がしてならない。

 前後の文脈から判断すると、ここで月の王が述べる言葉は、現世の罪というものは、(そのままにしていたら)限りがない、ということではないのか?

 私がそのように解釈するのは、かぐや媛は、月から迎えが来る前、月に帰りたくないと嘆き悲しみ、迎えが来てからも、世間のしがらみに執着し続け、喜怒哀楽の虜の中であり、天界から見たら、まさに罪の中にあるように思えてならないからだ。

 しかも、羽衣を着せられるギリギリの瞬間まで、帝宛に言い訳じみた手紙を書き、手紙と一緒に不死の薬を地上に残す。

 不死の薬なぞというものは、究極の執心であり、自然界の摂理に反する究極の罪である。虫や鳥や動物たちのように生きることとはまったく相反する人間ならではの煩悩だ。

 かぐや姫は、俗界で生きているうちに、煩悩の虜になっていた。

 結婚を進められて、「浮気でもされたら後悔するに違いない」と答えたり、5人の男を試したりする行為などは、自己にとらわれ心おごる状態である。

 しかし、かぐや姫は、羽衣を着せられた瞬間、一切の執心が消え、卑しい翁のことを、いとほし、愛しと思しつることも失せて」、何事もなかったように車に乗って、月に帰っていくのだ。

  かぐや姫は、罪をおかしたから地球にやってきたのではなく、俗界で長く生きていると罪に限りがなくなるから、月の世界からお迎えが来たのではないか。

 かぐや姫は、俗界で喜怒哀楽の暮らしを続けた結果、財を蓄えることにしか精を出さない賤しい翁に対してさえ執着してしまっていた。

 羽衣を着るというのは、そうした俗界の執着の外に出ることなのだ。

 かぐや姫の物語で、最も重要なところは、かぐや姫が去った後である。

 かぐや姫が残した手紙と不老不死の薬を受け取った帝は、

逢ふことも 涙に浮かぶ わが身には 死なぬ薬も 何にかはせむ」

 と呟く。この部分を、「嘆き悲しみの中にいる自分にとって、不死の薬は、なんの役にも立たない」と訳してしまうと、ちょっとニュアンスが変わってくる。

 逢ふことも 涙に浮かぶ という情景は、かぐや姫との出逢いを、幻のように思い返して見ている状況のように感じられる。

 この状態は、羽衣を着せられたかぐや姫が、憑き物が落ちたようになった状態と近い。

 帝にとっては、不死の薬、それがどうした? 自分には関係ない。という感じだ。

 それは、役に立つとか立たないかという俗界の分別を超えて、哀しみの中の諦観であり、哀と真の愛がイコールになる心境だ。

 そして、帝は、その不老不死の薬と、かぐや姫からの手紙を、駿河の山の頂上で燃やさせる。その山は「富士の山」と名付けられ、燃やされた煙は、未だに雲の中に立ち上ると伝えられている。 

 この最後の文章に、この作者の”もののあはれ”観が表現されているのに、無粋な研究者は、「当時の富士山は、火山活動が活発だったことを表している」などと説明する。

 この物語の最後、肝心なことは、帝は、不死の薬だけでなく、かぐや姫からの手紙も燃やさせたことだ。

 雲の中の向こうは、かぐや姫が帰っていったところであり、不死の薬や手紙といった執心につながるものは、煙となって、俗界のことはすっかり忘れているかぐや姫の世界に上っていくのである。

 帝の到達した達観の境地がそこに表現されており、その世界観こそが、”もののあはれ”である。

 この竹取物語を起源に、源氏物語など日本特有の文化が育っていくことになる。

 竹取物語を本流とするならば、垂仁天皇に帰された竹野媛の物語や開化天皇の時の竹野媛の物語、そして羽衣伝説は、支流である。それらの水が集まって竹取物語になっていく。

 その源は、かぐや姫のモデルとなった迦具夜比売命かぐやひめのみこと)の曽祖母である竹野姫が巫女をつとめた丹後の間人である。

 かぐや姫が帰っていったところは、俗世間を離れて忌み籠り、神に奉斎するところでであろう。

 前回のブログに書いたように、古代、太陽の神も月の神も、天の神の両目だった。

 竹野媛の父親の由碁理(ゆごり)は、丹後の籠神社に伝わる海部氏勘注系図では、始祖・天火明命の七世孫と記されている。

 籠神社の発祥は、現在、奥宮になっている真名井神社で、天火明命豊受大神を祀ったことを起源としている。

 丹後の地は、全国でもっとも豊受大神を祭る聖域が集中しているところだが、峰山町に、月輪田という三日月型の水田の史跡があり、豊受大神が、天照大神のために籾種を蒔いて稲作をした場所が月の輪田であるとされる。また、真名井神社においても、豊受大神は、月神の一面を持っているとされている。

 この竹野の地が、蘇我氏物部氏が争っている時、聖徳太子の母親、穴穂部間人が隠遁していたところであった。

 そして、第26代継体天皇は、竹野にルーツを持つ竹野媛ゆかりの堕国や、かぐや姫の父親ゆかりの筒城を、都にした。

 第50代桓武天皇も、堕国に長岡京を建設し、その後、筒城の甘南備山の頂上から北を見て、そのライン上に平安京の真ん中の朱雀通りを計画し、その上に、羅生門大極殿を築いた。しかし、桓武天皇平安京を造営する前に、甘南備山の真北のライン上には、竹野媛と同じく甚凶醜(いとみにくき)という理由でニニギに忌避された磐長姫を祀る西賀茂大将軍神社が鎮座していたのである。

 さらに不思議なことに、筒城の地の甘南備山から真南に行ったところが、斑鳩中宮寺跡だ。現在法隆寺東伽藍夢殿の東隣にある中宮寺は、室町時代後期までここにあった。

 中宮寺は、聖徳太子の母親、穴穂部間人の宮殿だったものを聖徳太子が寺にした、もしくは、穴穂部間人自身の開基だったとされる。

 中宮寺のあった場所が、京田辺の甘南備山、その真北の麓の月読神社、平安京羅生門平安京の中心の朱雀通り、大極殿、磐長姫を祀る西賀茂大将軍神社と同じ南北ライン上にあるのは、単なる偶然なのだろうか。

 中宮寺には、凛として気高い半跏思惟像がある。この仏像は、如意輪観音像と称されているが、造像当初の尊名は明らかでなく、弥勒菩薩像として造られた可能性も高い。

 しかし、そんな分別はどうでもよく、この像は、日本に数多くある像の中で、もっとも美しいものであることは間違いない。気高さがあり、近寄りがたい雰囲気もあるが、見ているだけで人を幸せにする力がある。

 この像は紛れもなく女性であり、穴穂部間人という女性を通して、古代の竹野媛につながる神に仕える巫女を連想させる。

 羽衣を着せられて罪を祓われたかぐや姫は、この半跏思惟像のように、穢れた俗界の愛憎とは無縁の境地であったろうと思う。

                                  (つづく)

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上から、磐長姫を祀る西賀茂大将軍神社、平安京大極殿羅生門平安京の中心、朱雀通りの位置決めの基準となった京田辺の甘南備山(この北麓に月読神社)、斑鳩中宮寺跡。東経135.74で、完全なる南北の一直線上である。

  

 

第1141回 鬼とは何か? という本質的な問い(5) かぐや姫の背景にあるもの(前半)

 前回の記事で、第11代垂仁天皇の時に、甚凶醜(いとみにくき)という理由後宮を出され、その途中、堕国で自殺した竹野媛のことを書いたが、多くの人はマニアックな話だと思うだろう。しかし、この話は、誰もが知っている「かぐや姫」ともつながっている。

 この二つを結びつけるものは、日本海に面した京都府丹後市、旧竹野町の間人という場所である。

 この場所は、竹野媛の生まれ故郷というだけでなく、飛鳥時代蘇我氏物部氏とのあいだで争い事があった時に、聖徳太子の母親の穴穂部間人が隠れていたところでもあった。

 さらに、この場所は、第10代崇神天皇の時、日子坐王による鬼退治があり、さらに飛鳥時代聖徳太子の異母弟の当麻皇子による鬼退治の伝承のある所でもあり、その鬼が追い詰められた場所が、間人の海岸にある立岩だ。 

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間人の海岸にそびえる立岩。

 聖徳太子の母親が隠れていた地域が、聖徳太子の弟によって鬼退治されるというのは、いったいどういうことなのか?

 この謎について、納得感の得られる書物は、私の知る限り、どこにも見当たらないが、日本の古代を考えるうえで避けて通れない問題である。

 今では日本海の寒村にすぎない場所の伝承は、ローカルな昔話でしかなくなっているが、この間人という土地は、古代史を読み解く上で重要な史跡が数多く残されている。 

 立岩から少し行った所に、4世紀末に作られたと考えられている日本海側最大級の神明山古墳があるし、すぐ近くに王の墓とされる組み合わせ式の長持形石棺が出土した産土山古墳をはじめ、古墳が多い。

 さらに、ここは竹野川の河口で、竹野川を遡っていくと、川にそって、弥生時代のハイテク都市として知られ羽衣伝説とも関わってくる奈具岡遺跡や扇谷遺跡などがあり、さらに弥生時代最大規模の墳墓や、青龍3年(235年)という、卑弥呼の時代の年代がきっちりと刻まれた、紀年銘鏡では最古の鏡が出土した大田南古墳もある。しかも、この青龍3年の方格規矩四神鏡は、継体天皇の古墳がある大阪府高槻市の安満宮山古墳から出土した鏡と同じである。

 これらの事実から、竹野川が海に流れ込む間人という土地が、古代史を解く上で、非常に重要な鍵を握っていることがわかる。

 もちろん、「謎の丹後王国論」という研究が行われていることは私も知っている。

 丹後王国論は、この丹後の地に、ヤマトや吉備と並ぶ独立性のある勢力が存在していたという内容で、網野銚子山古墳、神明山古墳、蛭子山古墳など日本海側を代表する巨大古墳が、この地域に集中的に造営されていることがその根拠であり、さらに、その後の様々な出土品から、古代、この地が栄えていたことが実証されている。

 しかし、三つの大きな古墳は、造営の時期がヤマト王権の拡大期と重なっており、しかも、4世紀の中旬頃に作られた蛭子山古墳から、順々に南から北へと場所が移動し巨大化しているので、これらの古墳は、ヤマト王権に対抗する勢力のものではなく、ヤマト王権が、丹後地域に侵攻していく過程を示しているのではないかと思う。

 実際に、神明山古墳は、平城京の北にあるヤマト王権の陵墓群と考えられている佐紀陵山古墳の中の日葉酢媛陵古墳と相似形なのだ。

 このことについての議論は専門家に任せるとして、謎を秘めているのは、聖徳太子の母親とされる穴穂部間人だ。

 結論から先に言うと、この穴穂部間人は、間人に鎮座している竹野神社と関わる存在だろうと思われる。

 竹野神社といっても、現在、巨大な神明山古墳の横に鎮座するものではない。神明山古墳の隣に鎮座する現在の竹野神社は、神明山古墳を築いた勢力が、竹野神社の祭祀を、自分たちの懐に抱き込んだのだろう。この竹野神社には、丹後の鬼退治を行った日子坐王が祀られている。

 竹野神社の参道は、海岸線に向かって伸びているのだが、そこには現在、御旅所がある。そこは竹野川の河口域の弥生時代の遺跡の中で、海岸に鬼が閉じ込められた立岩が聳えている。

 おそらく、そこが、本来の竹野神社の鎮座地だろう。竹野川内陸部には弥生時代の日本を代表するような史跡が散在しており、それらの場所と海をつなぐところに竹野神社があった。

 そして、その竹野神社に仕える巫女が竹野媛だった。

 竹野媛は、古代の記録では、2人存在している。しかも、非常に謎めいたポジションに位置付けられている。

 1人は、前回の記事でも書いたが、丹波道主命の娘で、第11代垂仁天皇後宮に入りながら甚凶醜(いとみにくき)という理由で帰され、その途中、堕国(継体天皇の弟国宮と、桓武天皇長岡京のあったところ)で自殺したとされる女性。この自殺が意味するところについて、殉死=人柱ではないかという考察を、前回の記事で書いた。

 そして、もう1人が、丹波の大県主・由碁理(ゆごり)の娘。第9代開化天皇の最初の妃で、開化天皇が、自分の父親の妃であった物部氏伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を自分の皇后にするという現代社会ではタブーのことを行ったため、丹後の地の竹野に帰り、晩年は、竹野神社で日神を奉斎していたとされる。

 この日神は、アマテラス大神のことにされているが、おそらくそうではない。太陽神信仰は、時代との関係で変容していく。

 わかりやすい例として、古代エジプトがあげられる。

 サッカラに階段状のピラミッドが建築された紀元前3000年頃のエジプト初期王朝時代は、天空の神ホルスが最高神として崇められた時代だ。ホルスは、エジプトの神でもっとも古く、もっとも多様化した神であるが、初期のホルス神は、太陽と月を両目に持つ天空神だった。それは光の神でもあり、エジプトの南と北の異なる聖域を自由に行き交っていた。

 ホルス神は、「王そのもの」であり、当時のファラオは、ホルス神の化身、地上で生きる神(現人神)だった。

 そして、二つの目のうち、右目が太陽のラー、左目が月のウジャト。しかし、ホルス神が父のオシリス神を殺害したセト神(砂漠の神)と戦っている時、ホルス神は、左目(ウジャト=月)を失う。しかし、その後、この左目は、エジプトをさまよって様々な知見を得た後、時の神トート神によってホルス神のもとに回復する。

 そのため、月(ウジャト)の目は、「全てを見通す知恵」や「修復・再生」の象徴とされ、魔除けの護符となり、供物の象徴となる。

 太陽を象徴するラーは、当初は、あまねく地上を照らし出す存在だったろうが、ホルスが外敵と戦う国家の守護神になっていくように、ラーも、戦いの力を象徴する存在になっていく。そして、エジプト古王国時代のギザのピラミッドを建造したクフ王の息子、ジェドエフラーから、ファラオは、「ラーの息子」を名乗るようになる。

 月と太陽のホルス神の時代から、太陽が絶対的な中心になるラー神の時代への移行ということだろう。

 紀元前2500年頃、巨大なピラミッドが建設されていた古王国時代のエジプトで、太陽神ラーは、他の神々を生み出したアトゥムと結びついた万物の創造神であり、ファラオはラーの息子となった。

 しかし、その後、ラーは権威が衰え、自らを崇め敬わない人間を滅ぼそうとするようになる。

 やがて、紀元前1500年頃、エジプト南部のナイル川沿い、現在のルクソールを中心にした新王国の時代、ラーは、この地方の豊穣神アメンに吸収され、ラー・アメン神となり、ファラオもアメン神の子となった。

 そして、太陽信仰が創造神から豊穣神に変容した新王朝のエジプトでは、アメン神殿と祭司団は絶大な権力をふるい、王権と対立する勢力になった。

 遊牧系の人々にとって、太陽は宇宙の秩序を司る神として崇められるものだが、農耕系の人々にとって太陽は、植物の成長を促す豊穣の神として崇められる。

 そして、遊牧系の組織においては、宇宙の秩序を司る太陽と一体化した王が強力なリーダーシップを発揮する。それに対して、農耕系の組織においては役割分担が複雑で、生産活動のための各種の儀礼が重要になり、祭祀集団の力が増していき、王に対抗するようになる。

 いずれにしろ、農耕生産が大規模になっていくと、作物の成長に欠かせない太陽が豊穣・生産の神として存在感を高めていき、やがてはその祭祀自体が権威的存在になっていくが、もっとも古い時代においては、修復・再生の力である月も、太陽と等しく豊穣の神として崇敬されていたということだ。

 女性の月経や潮の満ち干にも影響を与える月のサイクルは、人間が循環する自然界の摂理に添った生活を営んでいる時は、再生力や修復力とつながっていると信じられ、そこに生命原理を認識する人々によって畏敬の対象とされていた。日本の縄文時代もそうだった。

 ゆえに、日本の古代においても、巫女というものは、日々の現実の問題に対応するため、太陽と月の両方に奉斎していたはずだ。竹野媛も同じだっと思う。

 月の神は、日本神話の中で三貴神の一つであるはずなのに、アマテラス神やスサノオに比べて、存在感が非常に薄い。記紀のなかでもほとんど出てこない。

 それは、古代エジプトのように、もともと月と太陽は天の神の両目として同等であったのに、現実世界においては太陽の存在感のみが高まっていき、月は、トート神のように知恵の神や、癒しの神としての位置付けとなり、学問や芸術と結びつくものの、現実の裏側で精神的な役割を果たすだけとなっていくからかもしれない。

 竹野媛が還っていく丹後の間人の地というのは、4世紀から8世紀、もしかしたその後の時代において、自然界の摂理に添った人間の営みが行われていた古代の記憶装置のようなところだったのではないだろうか。

 浦島太郎や羽衣伝説、そして竹取物語が、この地に起源を持つのは、単なる昔話なのではなくて、自然界の摂理から離れて穢れていく人間が、自らを省みるために、記憶の中に眠る古代を復活させる試みなのかもしれない。

 同時に、新しい秩序世界の構築を急ぐ新しい権力者にとっては、そうした記憶は、取り除くべき障害物となる。だから、何度もこの地は鬼退治の対象となる。

 しかし、そうした人間のエゴとエゴがぶつかり合う戦いが続いた後、なんとかそれが治った時は、異なる価値観を持った者どうしが一つに和合していくが必要であり、古代の記憶は、重要なかすがいになり得る。そうして、古代の復活が起こる。

 おそらく歴史というのは、そのように、過去と現在を行ったり来たりしながら進んできたのだろうと思う。決して、右肩上がりの一直線に進んできたのではなく。

 

 前置きが長くなってしまったが、過去と現在が行ったり来たりするように、古代においても2人の竹野媛が登場し、その2人は、もちろん無関係ではなく、当時の人間にとって、共通の記憶のなかにある。

 垂仁天皇甚凶醜(いとみにくき)とされた竹野媛は、垂仁天皇の皇后になった日葉酢媛と姉妹であり、父親は丹波道主命だ。

 丹波道主命は、記紀のなかで日子坐王の息子とされて、その母親は、天御影神という鍛治の神の娘の息長水依媛とされる。日子坐王は第9代開化天皇の息子だから、丹波道主命は、王の血を受け継ぎ、さらに、鍛治の神様の血を受け継ぐ存在であるとされている。

 しかし、丹波道主命を産んだとされる息長水依媛だが、その時代は、息長氏は存在しない。息長氏は、『記紀』の中で、第26代継体天皇の曽祖父にあたる意富富杼王(おおほどのおおきみ)を始祖としているのだから、古事記の中で登場する息長水依姫は、それよりも古すぎて、架空の存在ということになる。

 意富富杼王の後、歴史的に息長氏の名が登場するのは、息長真手王であり、彼の娘の広姫の血が、第34代舒明天皇と、その皇后の第35代皇極天皇(第37代斉明天皇として重祚)に流れているとされ、しかも、この2人の子供が、天智天皇天武天皇と、間人皇女とされる。なぜか、ここにも聖徳太子の母親と同じ名前の間人が登場する。

 ここで問題となるのは、日葉酢媛や竹野媛の父親の丹波道主命だが、日本書紀の異説に、彼の父は、彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)となっている。彦湯産隅命の母親が、第9代開化天皇の最初の妃となった竹野媛なのだから、これは重要な指摘だ。

 敢えて異説という形で記録を残したのは、表の情報を得てわかったつもりになる人を対象にしているのではなく、その裏側にアクセスしようとする人に大切なことを伝え残すためだろう。

 残された異説によって、第9代開化天皇の妃でありながら丹波の竹野に帰って巫女となった竹野媛は、第12代垂仁天皇に、甚凶醜(いとみにくき)とされた竹野媛の曽祖母ということがわかる。

 同じ名前なのは、竹野神社の巫女に対して用いられた名前だからだ。

 そして、日本最古の物語とされる竹取物語(日本の昔話でおなじみのかぐや姫)は、竹野媛の息子の彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)の息子である大筒木垂根王の娘で、垂仁天皇の妃の1人になった迦具夜比売命かぐやひめのみこと)がモデルとされる。すなわち、かぐや姫は、竹野媛の曾孫ということになる。

 大筒木垂根王は、名前のとおり、現在の京田辺市の木津川流域の筒城地域を拠点にしていたと考えられている。

 しかし、この筒城地域の有力者としては、丹後の鬼退治を行った日子坐王と、和邇氏の娘、袁祁都比売命(おけつひめのみこと)との間に生まれた山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)が存在する。しかも、この山代之大筒木真若王が、第15代応神天皇を産んだ神功皇后の曽祖父に位置付けられているのである。

 この筒城の地は、古代史を考えるうえで、とても重要である。なぜなら、第26代継体天皇筒城宮(つつきのみや)を築いたところであるし、桓武天皇平安京を造営する時、筒城の甘南備山をポイントにして、その真北に朱雀通りを作り、その朱雀通りに、政治の中心の大極殿を置いたからだ。(大極殿から南の羅生門までと、北の西賀茂大将軍神社=甚凶醜(いとみにくき)の磐長姫が祭神、までの距離は4.4kmで同じである)。

 丹波道主命の父が二つの陣営に分れているように、この筒城においても、丹後の竹野媛の子孫の大筒木垂根王と、丹後の鬼退治を行った日子坐王の子孫の山代之大筒木真若王が存在している。

 そして、大筒木垂根王の娘、すなわち竹野媛の子孫として、かぐや姫が位置付けられているのである。

 第9代開化天皇の妃の竹野媛も、第11代垂仁天皇甚凶醜(いとみにくき)とされた竹野媛も、迦具夜比売命がモデルとなったかぐや姫も、理由と結果は異なるが、元の場所へと帰っていくことで共通している。

 この竹野の地の女性が意味しているものは一体何だろうか。

 (つづく)

 

 

第1140回 鬼とは何か?という本質的な問い(4) 桓武天皇と継体天皇と明治維新の不可思議な縁の裏側

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鴨川と桂川の合流点。左が桂川、右が鴨川。背後に見える山は、左が比叡山、中央が東山、右が、上醍醐

 

歴史はつながっているという当たり前のことを、現代社会において、あまり意識されることはないが、過去においては、歴史のつながりを無視できない時期があった。歴史こそが、自らが存在する根拠。とくに、国を統治するものにとっては、歴史は、執政の指針であり、護符でもあった

 

 前回の記事で書いた継体天皇のことを掘り下げるために、桂川と鴨川の合流点を訪れた。それぞれの川の水の色が少し違うのがわかる。

 二つの河川が交わるこの場所が、古代、水上交通の要であったことは誰でも想像できる。

 さらに、この場所は、広大なカルデラの中心のような場所で、ぐるりと周辺を山々が囲んでいる。北には比叡山が聳え、その西に愛宕山、南には天王山、交野山から生駒山、東には、上醍醐、東山、宇治から奈良盆地の東の山並みまで、畿内の重要な聖山が見渡せる。

 この二つの川の合流点の西に、羽束師坐高御産日神社(はづかしにますたかみむすびじんじゃ)が鎮座している。通称、はづかし神社だ。

 観光客はほとんど訪れないが、創建は477年と、京都で最も古い神社の一つであり、延喜式神名帳では、山城国第一の社として大社に列している。

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羽束師坐高御産日神

 風水害除けの神としても信仰を集めたが、朝廷は雨乞い祈願の神として崇敬した。遣使など渡航の際には、風雨の災難除けに参詣された。

 現在、周辺は住宅化が著しくて車の通りも多く騒がしいが、境内一帯は『羽束師の森』と称されるように深い森におおわれ、今でも静粛な雰囲気が満ちている。

 なぜ、”はづかし”なのかという問いに対する答えとして、竹野媛の霊を祀っているからという説がある。

 竹野媛というのは、第11代垂仁天皇の時代、丹波道主命の娘で、後に皇后となった日葉酢媛を含む4人の娘の末娘で、姉たちと一緒に天皇後宮に入るが、甚凶醜(いとみにくき)という理由で実家に帰されることになり、その途中、自分のことを恥じて自殺を試み、最終的にこの地で深い淵に堕ちて亡くなったとされる女性だ。その由来で、この地を堕国と呼ぶようになり、それが訛って弟国になったと古事記に記されている。

 しかし、この物語は、竹野媛の容姿が美しくないために帰されたと受け取っている人が多いが、ニニギに選ばれなかった磐長姫の物語に通じるところがあり、近代的価値観のバイアスのかかった顔やプロポーションに関する美醜の問題ではないと私は考えている。”甚凶醜”と、何がどう醜いかは書かれていないのだ。

 そして、前回の記事でも書いた第26代継体天皇が、この弟国の地を都にした理由について、学校の歴史授業に限らず大半の歴史本でもスルーされている事の重要性を、もう少し深く考える必要がある。

 なぜなら、平安時代桓武天皇もまた、この弟国の地に長岡京を造営したからだ。

 もちろん、この地が、上に述べたような水上交通の要の地であることもあるが、それだけではない。

 たとえば、弟国宮(桓武天皇の時の長岡京)の中に向日山があり、その上に向日神社が鎮座しているが、明治天皇を祀る明治神宮は、この向日神社を1.5倍のスケールにした設計なのだ。

 竹野媛が墜ちて死んだという堕国(弟国)は、継体天皇桓武天皇明治天皇に、何かしらの陰を落としている。

 さらに、この場所は、京都から太宰府都落ちする菅原道眞が、途中に立ち寄って、自分と竹野媛を重ね合わせて、歌を残した場所だった。

 その時、菅原道眞は、北の方向を見返したとされ、はづかし神社のすぐそばに見返天満宮が鎮座している。本殿が珍しく北を向いている。

 そして、はづかし神社の本殿の後ろに、北向きの小さな社が合わさっている。

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羽束師坐高御産日神社(通称、はづかし神社)の本殿の裏側。神社では珍しく北を向いている。

 これは、菅原道真を祀る神社の総本山である京都の北野天満宮も同じで、北野天満宮の場合、本殿の裏に天穂日命アメノホヒノミコト)が祀られていて、そちらが本来の聖所だったとされる。

 このはづかし神社の場合、ここから東に7kmほど行ったところ、伏見の地の山科川宇治川が合流するところに式内社天穂日命神社が鎮座している。

 はづかし神社の本殿の裏に一体化している祭神について、神職の方がおられたので尋ねてみたが、菅原道眞が北を見返したこととのつながりかもしれないけれど、よくわからないとのことだった。

 私が思うに、菅原道眞が北を意識したように、北の方向に大事な何かがあるということだ。

 北というのは、この神社にゆかりのある竹野媛の出身地である丹後の間人だろうと思われる。その場所は、聖徳太子の母親の穴穂部間人が、蘇我と物部の争いの時、隠れていたところだった。そして、日子坐王や聖徳太子の弟の当麻皇子の鬼退治の舞台だ。

 そして、竹野媛というのは、古事記日本書紀には2人が登場するが、もともとは、その竹野の地の巫女だった。

 日本海に面した丹後の竹野の地に竹野神社が鎮座するが、現在の鎮座地は、日本海側で2番目に大きな神明山古墳の隣である。しかし、この巨大古墳の造営の時期は4世紀後半とされており、そこから判断すると、鬼退治をした側(日子坐王側)の古墳であろうと思われる。なぜなら、この竹野神社には、日子坐王が祀られているからだ。

 この神社の参道は、異様に長く伸びており、その起点に御旅所がある。おそらく、本来の神社の場所は御旅所があるところだろう。そして、その場所は弥生時代の遺跡の中。目の前に、鬼退治の鬼が閉じ込められたとされる立岩がそびえる。そして、そこは竹野川の河口で、竹野川を遡っていくと、扇谷とか奈具岡など弥生時代のハイテク都市や、弥生時代最大の墳墓である赤坂今井墳墓、卑弥呼の時代にあたる青龍3年(235年)の紀年鏡が出土した大田南古墳がある。 

 この鏡は、方格規矩四神鏡で、継体天皇の古墳とされる今城塚古墳がある高槻の安満宮山古墳から出土した鏡もまた青龍3年の方格規矩四神鏡であり、この二つが、日本で発見されている紀年鏡で最も古い2枚の鏡なのだ。

 竹野媛の出身の丹後の竹野は、弥生時代からとても栄えていた場所だが、鬼退治の物語にも象徴されるように、ヤマト王権とは異なる価値体系、世界観があり、その中心に、日神に奉斎する巫女がいた可能性がある。その日神は、後にアマテラス大神と呼ばれる女性神ではなかったのではないか。

 というのは、太陽神の性質というのは、歴史的段階を踏んで、変容していくからだ。

 古代エジプトにおいても、紀元前3000年の初期王朝、紀元前2500年の古王国偉大、紀元前1500年の新王朝時代で、変化していく。

 この太陽神の問題は、古代の謎のパズルを解く上で極めて重要なので、後日改めて記すが、第11代垂仁天皇は、竹野媛の姉で皇后となった日葉酢媛が死んだ時、もう殉死はやめようと、土師(はじ)氏の祖先の野見宿禰の助言を受けて、埴輪を作って生きた人の代わり古墳に埋葬したと記録されている。

 はづかし神社の場所は、古代、泊橿部(はつかしべ)の土地だったとされるが、泊橿部について実態はよくわかっておらず、土に関連する仕事に従事した泥部と同じ集団ではないかという説がある。

 4世紀末から6世紀前期までの古墳時代、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族が土師氏だが、土師氏という姓は、日葉酢媛の死に際して埴輪のアイデアを出した野見宿禰の功績に対して垂仁天皇が与えたもので、後に土師氏が担うような仕事を行っていたのが泥部とか泊橿部(はつかしべ)の人々だったのかもしれない。そして、その時、まだ埴輪が発明されていないとすれば殉死が行われていたということで、それは、高貴な人の死の時だけではなく、土木工事においても、洪水などの災害が起きないように神に祈願するために、人柱が行われていたのではないだろうか。泊橿部(はつかしべ)は、おそらくその人柱と関係あった。桂川と鴨川の合流時点は、古代から、たびたび川の氾濫が起こったことが記録されている。

 ここで考えなければいけないのは、自ら死を選んだ竹野媛の”はづかしさ”というのは、「恥を知れ」とか、「人と比較した劣等感」といった人間社会のルールや慣習の範疇の”恥”ではないだろうということだ。おそらくその恥は、西行の歌の、「なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」の”かたじけなさ”に通ずるものだろう。

 巫女にとって神に身を捧げることは、身にあまるようなこと。かたじけないこと。

 また ”はじ”は、羞とも書き、ごちそうなどを人に羞める時に用いられるが、本来の意味は、羊の生贄を、うやうやしく、畏れ多く、はづかしさをもって、神にすすめることを意味する。

 いずれにしろ、竹野媛と日葉酢媛は姉妹であり、その死の時期は、殉死から埴輪へと変わる端境期にあたり、そのため、竹野媛の死は、埴輪以前を象徴するもだと洞察できる。

 垂仁天皇は、竹野媛の姿形が美しくないから返したのではなく、本来の場所、つまり神の元に帰した。

 なので、彼女が自殺をしたと描かれているのは、おそらく殉死(人柱)のことではないかと思う。

  「堕は、裂肉を聖所に埋める意味。聖所における呪禁の方法として行われる血祭。それは聖所を守るためのものであり、また同時に聖所を攻撃し、堕廃する方法であったと思われる。共感的呪術は、攻守とも同じ方法をとるのが原則である。(白川静 字統)」

 この白川さんの言葉からすれば、堕というのは、境界を鬼によって護衛する事に通じる。

 きっと堕国という地名の起源はそこにある。

 第1137回の記事で書いたように、ニニギが、妻として迎えることができないと親元に返した磐長姫が、平安京の北を護るために西賀茂大将軍神社に祀られているのと同じだ。

 そして、この堕国の地を、第26代継体天皇も、第50代桓武天皇も、都にした。

 桓武天皇の母親、高野新笠は、土師真妹の娘であり、土師氏の血を受け継いでいる。

 高野新笠の陵が、弟国宮(長岡京)の北西5kmほどのところの京都市西京区大枝にあるが、このあたりの山背国乙訓(古くは弟国=堕国)が、高野新笠の生まれ故郷ではないかと考えられている。

 そして、高野という姓は、桓武天皇の父、光仁天皇が即位する際に、賜ったものだ。

桓武天皇は、母親が土師氏と百済系の和氏の娘ということで出自は低く、さらに父親の光仁天皇も、生まれたからずっと天皇になる予定もなく、むしろ世継ぎ争いに巻き込まれないように慎重に生きていたのに62歳の高齢で即位させられ、桓武天皇即位への道が作られた。継体天皇と同じように、実に怪しい皇位継承となっている。

 高野新笠の生まれ故郷、堕国で亡くなった竹野媛の竹野は、”たかの”だった。そして、奈良時代の最後、孝謙天皇称徳天皇と女帝が重祚したが、この天皇は、「高野天皇」「高野姫天皇」と称され、奈良の平城京の北にある陵も、高野陵とする。

 竹野媛の”たかの”が、継承されているのである。

 桓武天皇というのは、継体天皇の宮、弟国に長岡京を造営しただけでなく、継体天皇のもう一つの宮、木津川沿いの筒城にある甘南備山を平安京造営の軸として、その真北に平安京の中心の朱雀通りを作り、朱雀通り沿いに、羅生門大極殿などを置いた。

 不可思議なのは、この朱雀通りを北に延長したところに、平安京の北を護るように、磐長姫を祭神とする西賀茂大将軍神社が鎮座し、さらに、大極殿羅生門のあいだの距離が、大極殿と西賀茂大将軍神社と同じであることだ。

 大将軍と名付けられる神社は、平安京遷都の時に、都を護る方位神として、平安京の四方に設置された。しかし、磐長姫を祭る西賀茂大将軍神社は、由緒によれば創建は609年、女帝の推古天皇の時代である。すなわち、平安京ができる前から、京田辺の甘南備山と西賀茂大将軍神社の位置関係が定まっており、その南北のライン上に、平安京の中心を持ってきたということになる。

 継体天皇から桓武天皇につながるこの不可思議な縁は、堕国の竹野媛といい、磐長姫といい、”甚凶醜(いとみにくき)」という理由で本来の場所に返されたもの”と関係している。

 このことが、日本の古代史を理解するうえで、極めて重要な鍵であることは間違いない。

 

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この地図上に、垂直と水平のラインがいくつかあるか、この中で、計画的に定められたと記録が残るのが、南北を貫く長いライン。一番南の甘南備山の頂上から真北を見て、平安京の朱雀通りを建設し、朱雀通り沿いに南を護衛するための羅生門を置き、その北に政治の中心の大極殿を置いた。しかし、不可思議なのは、その北の西賀茂大将軍神社(磐長媛とその家族神が祭神)は、平安京遷都以前からここにあった。それ以外のラインは計画的だという記録はないが、偶然とは思えない縁でつながっている。黒のマークは都のあったところ。継体天皇は、この領域で3度宮を造営したが、一番最初が石清水八幡のそばの樟葉宮。2番目が、京田辺の甘南備山のそばの筒城宮。甘南備山を基準に平安京は計画されたが、筒城宮の真北が、伏見の桓武天皇陵。継体天皇の宮の3度目の場所が、1番目の樟葉宮の真北の弟国宮で、桓武天皇も、ここに長岡京を築いた。さらにこの場所の向日神社が、明治神宮のモデルである。桓武天皇の母親の高野新笠の実家もこの弟国郡だが、その陵は羅生門の真西に作られた。そして、継体天皇桓武天皇の都となった弟国宮(長岡京)のすぐそば、真東のところが、羽束師神社ということになる。

 

 

 

第1139回 鬼とは何か? という本質的な問い(3)  古代の復活と、6世紀。

 6世紀、古墳の規模は小さくなったが、石室は大きくなった。そして、縦穴式から横穴式に変わった。単に、古墳の様式が変わったというのではなく、世界観が変わっている。この6世紀に起きた世界観の変容は、日本文化の本質を考えるうえで、きわめて重要ではないかと思う。
  4世紀から5世紀にかけて古墳はどんどん大きくなっていくけれど、当時の石室は縦穴式で、前方後円墳の頂上付近に盛り土を掘り下げる形で石棺が収められていた。石棺に大きな石をかぶせて蓋をするので、一度、死者を埋葬したら、2度とその中に入ることは想定されていなかった。高いところに埋葬されているので、死者の魂は、鳥のように天に上ると考えられていた。
 しかし、6世紀の古墳は、古墳自体の大きさは小さくなるが、石室は横穴式になって、巨石を積み上げるようになる。飛鳥の石舞台古墳や京都の蛇塚古墳が代表的だが、これらは、日本にある全ての古墳を対象に、石室の大きさだけで比較すると、上位6つに入る。石室の大きさの上位は、すべて横穴式になる。
 6世紀、古墳自体は小さくなっても、死者の領域(黄泉)は大きくなるのだ。
 しかも、これだけ巨大な岩を組み上げるために、盛土の上だと石の重みで沈下してしまう。なので、地面と同じ高さのところを、現在、新たに宅地開発するの時のように地盤強化して、つまり踏み固めて巨石を組み上げた。
 そして、横に出入り口があるので何度でも出入りできる。なので、縦穴式古墳の時のように1人の被葬者ではなく、複数の被葬者の棺が石室の中にある。親族なのか側近なのか、関係者が一緒に祀られているのだ。しかも、盛り土の上ではなく盛り土の下なので、死者の魂は天に上がっていけない。黄泉の世界は大地の中ということになる。

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茨木には、4世紀前半に作られた大きな前方後円墳(縦穴式石室)があり、6世紀、その古墳のまわりに横穴式の石室を持つ古墳群ができる。これは、柴金山古墳の近くの海北塚古墳。
 古墳時代の前期から中期(大古墳時代)と後期(6世紀から飛鳥時代)では、古墳の規模が変わっているだけでなく、かなり死生観が変わっている。
 そして、その後期の石室とかを見ていると、古代の磐座を見ているような気持ちになる。
 6世紀の石室を見て、私は、古代の復活を感じる。

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茨城童子が妖術の修行をしたとされる茨城市の竜王山の穴仏。
 縄文時代では、環状列石などの中に墓があり、その環状列石の横に集落がある。そして、集落の住居は地面を深く掘り下げており、人々は、そこで眠る。彼らは、現代人のように建物の中で活動するのではなく、基本的に建物の外で活動する。食事もそうだ。現在、流行のキャンプのように、毎日がアウトドアライフで、住居は、テントのように眠るためだけに存在している。
 テントで眠ることが好きな人は多いが、狭い方が落ち着くのだ。潜在的な記憶が子宮体験とつながっているかもしれない。
 なので、縄文時代の家屋が現代に比べて立派でない、という理由で縄文人の生活文化が劣っていたと判断するのは大きな間違いだ。
 しかも、縄文人は、狩猟採集を行っていたのに、生活する場所を移動させていない。動物や植物の状況に合わせて自らも移動して暮らすなんてことはやっていないのだ。学校教育に問題があるのか、移動生活する原始人のようなイメージで縄文人のことを考えている人は多い。
 縄文人は、現代人では想像もできないほど長期間、同じところに暮らしている。住居跡が重ねられていたりするので、何世代も同じところに住んでいる。何百年どころか何千年というケースもある。 
 それは、単に生活していくための糧を得られるベストな場所に住んでいたからという理由だけでないだろう。
 彼らは、毎日、大地で眠り、その同じ大地の傍には彼らの祖先が祀られている。彼らは、死者の魂と一緒に暮らしていた。彼らは死者の魂に守られて生活していたのだ。
 茨木には、紫金山古墳と将軍山古墳という4世紀の大きな古墳があるが、6世紀、その大きな古墳の周りに寄り添うように、古墳の規模は小さいが横穴式石室を持つ古墳が群れて作られるようになった。あたかも、彼らの祖先のそばに眠るように。

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これは、長いあいだ、中臣鎌足の墓だと思われていた茨木の将軍塚古墳。4世紀前半に作られた将軍山古墳に寄り添うように作られている。現在は、中臣鎌足の墓は、この古墳の北の阿武山の中腹の見晴らしの良いところに築かれた盛り土のない墓がそうではないかと言われている。
 ちょうどあいだの5世紀が抜けているが、5世紀は、古墳が最大になる時で、その5世紀の古墳は、大田茶臼山古墳という全国21位の規模の古墳がある。宮内庁は、この古墳を第26代継体天皇の古墳とみなしているが、継体天皇が生きた時代は6世紀なので、それは間違っている。
 そもそも、全国に16万基あるとされる古墳のどれが天皇陵であるか特定化の作業が行われたのは、江戸時代、徳川綱吉の時代からで、古事記日本書紀延喜式など文献資料で示されている場所や大きさが判断の根拠である。そのようにして決められていった天皇陵の治定は、1889年以降、変わっていない。
 考古学的には、この大田茶臼山古墳から東に1.5kmほどのところの今城塚古墳が、継体天皇の古墳とみなされている。この古墳は、天皇綾の特定化の作業の時代、地震によって崩れていたため全貌がよくわからず、そのため、立派な体裁を整えている大田茶臼山古墳継体天皇綾ということになったのだろう。
 重要なことは、この考古学的には継体天皇綾で間違いないとされている今城塚古墳は、6世紀の古墳なので横穴式であるか、その石棺は3つあり、兵庫県加古川の竜山石、奈良県葛城の二上山の凝灰岩という、それまでの時代、高貴な身分の人の石棺として作られていたもの以外に、阿蘇のピンク石の石棺があることだ。
 阿蘇という、非常に遠方から、わざわざ巨石を運んできて、それを、大王の古墳の石棺にしている。
 これは、古代史の大きな謎の一つとされていて、福井の豪族であった継体天皇と九州勢力とのあいだに日本海交易などで交流があった云々という通説になっているが、近場に良質の石があるのだから、たかが交流くらいで、阿蘇から巨石を運ぶ必要はない。
 その理由について私は、6世紀に起こった古代の復活、と関係していると睨んでいる。その鍵は、当然ながら、阿蘇にある。
 第26代継体天皇は、現在の天皇から過去に向かって皇統を辿れる天皇の最古である。継体天皇は、第25代武烈天皇から血統が断絶している存在なのだ。(第15代応神天皇の5代後の孫云々とされているが、当然ながら、こじつけである)。
 継体天皇の謎は、古代史の謎だが、その謎解きにおいて、多くの研究が単なる当時の勢力関係の分析にとどまっているが、日本の最古層につながる極めて重要なことが、そこに隠れている。
 阿蘇のピンク石を使った石棺というのは、考古学的に第26代継体天皇の古墳と判断される高槻の今城塚古墳だけでなく他にもある。そのほとんど全てが、6世紀の近畿に集中している。例外なのは5世紀のものが1、2箇所見られる吉備くらいである。(これについてはさらなる洞察が必要)。
 近畿においては、この地図において赤印で示している10箇所あり、この分布を見るだけで、6世紀にどういうことが起きていたか想像できる。
 

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 この10箇所は、いずれも6世紀の畿内の重要拠点であり、6世紀に影響力のあった有力豪族の拠点でもあった。黒いマークは、それらの豪族と関わりのある聖域だ。
 阿蘇のピンク石の石棺は、奈良盆地では、北から奈良市の野神古墳 。この場所は、古代、興福寺東大寺と並ぶ大寺であった大安寺のあるところで、大安寺の創始は、病床の聖徳太子を第34代舒明天皇が見舞った際に造営を依頼されたことによる。舒明天皇は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)であり、息長氏の血を受け継いでいる。
 息長氏は、継体天皇とも同族である。
 そして、奈良盆地の東端にそって南に行くと、天理市に鑵子塚古墳と東乗鞍古墳がある。物部氏の拠点の石上神宮から、それぞれ1.5km。
 さらに南に行くと、桜井市の兜塚古墳で、桜井は阿部氏の拠点で、阿部氏の氏寺である安倍文殊院がすぐ近くにある。
 そして、大和川にそって奈良盆地を西に抜けた藤井寺には長持山古墳があり、このすぐ近くに大伴氏の祖先神を祀る伴林氏神社があり、その南、羽曳野市に峯ケ塚古墳がある。羽曳野は、古代の高市郡で、日本書紀には、大伴氏の遠祖・道臣命が、神武東征での功労により大和国高市郡築坂邑に宅地を与えられたとの記述がある。
 そして、 奈良盆地の南、橿原市のところは非常に重要である。ここには植山古墳があり、これは、学会では推古天皇と竹田皇子の古墳ではないかとされているが、推古天皇の古墳は太子町にもあり、被葬者が移されたことになっている。
 その真偽はともかく、この植山古墳のすぐそばに丸山古墳がある。この古墳は、古墳が巨大化した古墳中期ではない6世紀に作られたものなのに日本で6番目の318mという大古墳で、石室(阿蘇のピンク石ではなく加古川の竜山石)の大きさは日本一なのだ。 
 この規模の古墳は、前方後円墳の円墳部分の上部に石室を築く縦穴式の石室が一般的だが、この古墳は、古墳の横から石室に至る横穴式の石室であり、しかも、円墳の中央部から大きくズレてしまっている。その理由として、中央部分まで掘り進めなかったからではないかと、おかしな説明がなされているが、よくわかっていない。
 丸山古墳は、なんとも不可思議な巨大古墳なのだが、この古墳が、継体天皇の息子の第29代欽明天皇であるという説と、天武天皇持統天皇の古墳ではないかという説がある。
 しかし、このすぐそばの平田梅山古墳が欽明天皇の古墳であるとする説もある。
 いずれにしろ、欽明天皇の古墳と仮定される二つの古墳と、阿蘇のピンク石のある植山古墳は、底辺500m、残り二つの辺が800ほどの二等辺三角形の位置関係であり、密接な関わりがあっただろうと想像できる。 
 仮に、阿蘇のピンク石の石棺を持つ植山古墳が推古天皇のものだとしても、推古天皇は、欽明天皇の娘であり、継体天皇の孫ということになる。
 さらに、阿蘇のピンク石の石棺があるもう一つの場所が、阿蘇のピンク石の謎を解く鍵になってくる。
 それは、滋賀県の三上山の麓、野洲の河口そばの甲山古墳と、円山古墳だ。
 なぜここが重要かというと、この場所から24点もの銅鐸が出土し、その一つは日本最大の大きさを誇るからだ。
 しかも、この二つの古墳がある大岩山古墳群は、3世紀後半~6世紀にかけて継続的に古墳が築造されており、主なものだけでも8基確認されている。
 つまり、この場所は、卑弥呼の時代の頃より、ずっと重要な場所であり、その場所で、6世紀、阿蘇のピンク石の石棺を持つ古墳が二基作られている。
 この地の豪族は安直氏であるが、和邇氏の一族であるとされる。古事記のなかでもっとも登場する氏族も、和邇氏(後の春日氏、小野氏)である。
 こうして見ていくと、阿蘇のピンク石は、奈良盆地を東にそって、奈良、天理、桜井、橿原市と続く5箇所と、奈良盆地から西の瀬戸内海に出ていく時の重要拠点である藤井寺(ここを流れる大和川は、現在は西に流れていくが、古代は、藤井寺付近で北上していた。つまり、奈良盆地の東端の三輪山と淀川を結んでいた)、高市(ここを流れる石川は、奈良盆地の西端の葛城の金剛山葛城山あたりと大和川経由で淀川をつないでいた)に1箇所ずつ、そして、奈良盆地日本海に出ていく時のルートの重要拠点である琵琶湖の三上山の麓に2箇所、配置されている。
 しかも、それぞれ、物部氏、阿部氏、大伴氏、息長氏、和邇氏という6世紀において影響力のあった古代豪族の拠点と、継体天皇、その息子の欽明天皇関係なのだ。
 阿蘇のピンク石のことを考える時、第26代継体天皇のことだけを考えていてはいけない。6世紀に、なぜ、阿蘇が出てくるのかを洞察しなければならない。
 そして、この地図を見ればわかるように、継体天皇の古墳のある高槻は、琵琶湖方面、瀬戸内海方面、そして大和盆地から、ほぼ同じくらいの距離のところにある。
 継体天皇が、即位した後、淀川や木津川のそばに都をつくり、20年、ヤマトの地に入らなかった謎について、ヤマトの旧い勢力を警戒していたからだと説明されることが多いが、おそらくそうではなく、新しい国際関係に直面する状況で新しいクニの秩序を築き上げていくうえで、最善の場所が、現在の茨木、高槻から京田辺あたりだったということだろう。
 その理由の一つは、ここが水上交通の要であり、さらに、各重要拠点との距離が最適だったということ。
 そして、もう一つの理由が、阿蘇のピンク石とつながる”古代の復活”に関係することではないかと思う。
(つづく)
 
 
 
 

第1138回 鬼とは何か? という本質的な問い(2) 京の都の背後にあるもの

識られざる神霊の支配する世界に入るためには、最も強力な呪的力能によって、身を守ることが必要であった。そのためには、虜囚の首を携えて行くのである。道とは、その俘馘(ふかく)の呪能によって導かれ、うち開かれるところの血路である。

                               (白川静 道字論)

 

 境界を通って異なる世界に入るためには、最も強力な呪的力能によって、身を守ることが必要であった。そのためには、虜囚の首を携えて行くのである。このことの真意がわからないと、鬼というものもわからない。
 風の旅人の創刊の際、白川静さんに書いていただいた「真」のまことの意味は、このことを言っている。
 真とは、首がひっくり返った状態で、畏ろしいものだ。
 真実というのは、正しいことではない。裏表一体のものである。
 風の旅人を作っている時、常にそのことが念頭にあった。

 

 前回のブログで、磐長姫を祀る京都の西賀茂大将軍神社と羅生門が南北のライン(東経135.74)で、その二つの真ん中が、平安京の政治の中心、大極殿であることを書いた。

 そして、そのライン上を羅生門からさらに南に伸ばしたところに、京田辺市の甘南備山がある。

 甘南備山は、その名の通り山全体が神の山とされるのだが、この場所は、桓武天皇による平安京造営に際して、京都の中軸線として朱雀大路建設の目印にされたという。

 標高221mのこの山に登って、真北を見ると、右に比叡山、左に愛宕山がきれいに見え、二つの山にはさまれたところが平安京で、大極殿が築かれた朱雀通り(現在の千本通り)は、この甘南備山の真北にあたる。

 つまり、西賀茂大将軍社、大極殿羅生門、甘南備山は、一直線に並ぶ。

 

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甘南備山山頂から北を見ると、右手に比叡山、左に愛宕山が見え、その中央部が平安京であり、甘南備山の真北が朱雀通りで、そのライン上に、羅生門大極殿、西賀茂大将軍神社が並ぶ。

  そして、甘南備山の北麓は、鹿児島の大隅半島のオオスミの地で、大極殿までの一直線のライン上に月読神社が鎮座する。

 この場所は、隼人舞発祥の地で、大隅半島出身の隼人の居住地だった。

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京田辺市の月読神社。隼人舞発祥の地

 隼人は、犬の鳴き声のような吠声(はいせい)で皇宮衛門の守護や行幸の護衛を行っていた。その声には悪霊退散の呪力があると信じられたため、儀礼において、官人入場のさい、隼人が立ち並び、そこを官人が通り、吠声を受けていた。 

 さらに、延喜式」の「隼人司」の項目の記録では、国の境界や、山川・道路が曲がっている所を通過する時にも、隼人の吠声が行われた。

 隼人の吠声は、祓いの儀礼と関係している。隼人が、異なる風習、異なる世界に生きている人たちであるという認識が持たれていたからこそ、その犬吠えが、境界を守る力になると考えられていた。

 東国の蝦夷が征伐された後、俘囚として連れてこられた蝦夷の民が、朝廷警護の役割を担っていたことも同じだろう。

 冒頭の白川静さんの言葉のように、もっとも強力な呪力を用いたのである。

 鬼退治された鬼が、守り神になるという構造が、ここにある。

 そして、平安京の真南の甘南備山の真西(34.81度)、15kmほどのところに、茨木童子貌見橋がある。

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 この場所は、第1135回のブログで書いたように、茨木童子が、川の水面に映る自分の姿を見て、自分が鬼だと覚ったところとされている。

 そして、この場所の南1kmのところが、第1135回のブログでも詳しく書いたように、東奈良遺跡の銅鐸の鋳型が出土した場所で、茨木童子貌見橋のあたりは、銅鐸の鋳型が35点も出土した日本最大級の銅鐸製造場所だった。

 さらに、茨木童子貌見橋の真北1.5km、パナソニックの工場敷地内だが、これまた日本でも最大級の規模、弥生時代の140基の方形周溝墓が出土した倍賀(へか)遺跡がある。

 伝承によると、茨木童子は16ヶ月の難産の末に生まれた時には歯が生え揃い、生まれてすぐに歩き出して、母の顔を見て鋭い目つきで笑ったため母はショックで亡くなり、父はその赤子を持て余し、隣の茨木村の九頭神(くずがみ)の森近くにある髪結床屋の前に捨てたということになっている。

 赤子で捨てられた茨木童子を世話したのが髪結床屋というのも象徴的で、髪結いの道具は、古代、若い女性を人柱にした習わしを象徴しているし、には生命が宿り霊力があると信じられていた。

 そして、赤子の茨城童子が捨てられたところ、九頭神の”クズ”というのは何か?

 古代、吉野には、国栖(クズ)と呼ばれる人たちがいて、神武天皇がヤマトに入る時も、壬申の乱の前に天武天皇が吉野の地に隠れている時も、”クズ”の人たちが支援している。”クズ”の人たちは、食生活など異なる文化を持っていた人たちとして記録されている。

 そして、吉野から奈良にかけて、たくさんの九頭神社が鎮座しているが、その多くの祭神は天手力雄命(タヂカラオ)である。

 天手力雄命(タヂカラヲ)を祀る神社として有名なのが、長野県の戸隠神社であるが、ここは、もともと九頭龍大神が祀られていて、伝承では、九頭龍大神が、天手力雄命を迎え入れたとされている。

 スサノオの狼藉があり、アマテラス大神が岩戸にこもってしまい、世の中は暗闇になってしまった。そのアマテラス大神の手を引いて外に連れ出したのが、タヂカラオである。

 タヂカラオは、闇から光への復活と深く関係している。

 茨木を代表する茨木神社は、奥宮として鎮座する式内社天石門別神社が創建された時に始まるのだが、天石門別神社の祭神は、天手力雄命(タヂカラオ)だ。

 この天石門別神社は、茨木童子貌見橋の北、500mのところである。

 茨城童子と、九頭が、ここでもつながっている。

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右の縦のライン。西賀茂大将軍神社から、織姫社(今宮神社境内)、大極殿羅生門京田辺の月読神社、甘南備山と、南北に続く(東経135.74)。 甘南備山の真西(北緯34.81)が、茨木童子貌見橋。その真南が東奈良遺跡。真北(東経135.56)が、天石門別神社、倍賀遺跡、耳原の地の阿為神社御旅所、阿武山。その西北に茨城童子が妖術の修行をした竜王山があり、竜王山の真東が、茨城童子と同一とされる鬼女、橋姫を祀る宇治橋がある。

 

 ちなみに、第1135回のブログの記事で、茨木童子は、宇治の橋姫と重ねられていると書いたが、宇治の橋姫が、嫉妬のあまり愛して男を殺したいと考え、自分を鬼にしてくれるようにと祈るのは、貴船神社の丹生大明神である。

 丹生は、水銀関係の土地と関わりが深いが、特に吉野の地にこの地名は多い。貴船の大明神に仕える鬼たちも、吉野の鬼たちだ。そして、吉野は、上に述べたようにクズの地である。ゆえに、九頭神と関わりの深い天手力雄命(タヂカラヲ)を祀る天石門別神社のそばに、茨木童子貌見橋があるのも不自然ではない。

 天石門別神社の真北5.3kmのところに藤原鎌足の墓ではないかと騒がれた阿武山古墳が発見された阿武山が聳え、その南麓に阿為神社が鎮座する。

 藤原鎌足の勧請で創建されたと伝わるが、祭神は、天児屋命アメノコヤネノミコト)である。

 アメノコヤネノミコトは、タヂカラオとともにアマテラス大神の復活に関わっており、アメノコヤネノミコトは、アマテラス大神が岩戸に閉じこもってしまった時、岩戸の前で祝詞を唱える。

 阿為神社の真南1.6km、タヂカラオを祀る天石門別神社の真北2.5kmのところに阿為神社の御旅所がある。

  御旅所というのは、祭りの時に神輿が立ち寄ったり、神輿が向かう目的地である。神輿は、祭りが終わるまでそこにとどまり、祭りの終わりに神輿は元の神社に戻ってくる。御旅所は、その神社と関係の深い土地であり、もともとの鎮座地であることも多い。つまり、茨木童子貌見橋の近くに、アマテラス大神復活と関わりの深いタヂカラオアメノコヤネノミコトの聖域があることになる。そして、阿為神社の御旅所が鎮座する場所は、今でも、耳原という地名で、耳原古墳なども存在している。

 ミミというのは、『古事記』および『日本書紀』では、和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)、三島の摂津地方に三嶋溝咋(ミシマミゾクイミミ)が記録されているが、いずれもその地方の首長と考えられている。

 茨木童子貌見橋のあるところは三島地方であり、この地の首長、三嶋溝咋(ミシマミゾクイミミ)の娘の玉依姫が事代主(古事記では大物主)と結ばれて、神武天皇の皇后のヒメタタライスズヒメを産む。

 谷川健一は、『青銅の神の足跡』のなかで、ミミの人は、もともとは南方系の海人で、漁労に長けていただけでなく、稲作農耕や金属精錬技術も習得していたと記している。

 そして、ミミの人たちは、鬼退治される側でもあった。

 第10代崇神天皇の時、 丹波大江山は「陸耳御笠(くがみみのみかさ)が支配していて、が日子坐王(ひこいますのきみ・崇神天皇の弟)に退治されたという話が古事記などに残っている。

 三島の”ミミ”の人たちも、歴史のある段階において、鬼という立場になった可能性がある。

  しかし、その三島の地は、銅鐸の鋳型が35点も出土し日本最大の銅鐸工房の一つとされる東奈良遺跡や、140という日本でも2番目の数を誇る方形周溝墓の倍賀遺跡などを見ればわかるように、弥生時代、日本でも有数の先進地帯を築いていた。

 ならば、この弥生時代の先進地帯を築いた人たちが、ミミの人たちで、この人たちと、後からやってきた人たちとのあいだに、血なまぐさい抗争があったのだろうか?

 それとも、この場所に、もしかしたら縄文時代から活動していた人たちがミミの人たちで、後からやってきた東奈良遺跡や倍賀遺跡を築いた人たちが、強力な武器をもって鬼退治を行ったのだろうか。

 いずれにしろ、アマテラス大神が岩戸に隠れ、タヂカラオの手によって外に導き出されるのだから、アマテラスで象徴される太陽神は、もともとミミの人たちの神様で、鬼退治で象徴される出来事の後、いったんは、その霊威を失うが、後に復活させられたと考えることが自然だ。

 アマテラス大神が岩戸隠れをする原因は、スサノオの暴力であるが、具体的には、丹生都比売と同一とされる稚日女尊(わかひるめ)が機屋で美しい布を織っている時、皮を逆さに剥いだ天斑馬(ふちこま)を投げ入れて驚かせ、殺してしまったことがきっかけとなる。

 これは、いったい何を意味しているのか?

 古代において布は非常に神聖なもので、機織りは、巫女の仕事だった。

 神の降臨において、巫女が自ら織った神布を捧げ、神の一夜妻となる。

 このビジョンは、七夕祭りにも流れている。

 日本では古来より、民間信仰のなかに「棚機津女=棚機女(たなばたつめ)」という行事があった。

 それは、水辺につくられた棚機(横板の付いた織機)で乙女が布を織り、神を迎えることを行事化したもので、巫女が神の降臨を待って人里離れた水辺の小屋で一晩過ごし、翌日に笹竹の飾りを川や海に流して穢れも流す。この「棚機女」の信仰と、中国から伝わった「織女伝説」と結びついて、今日の七夕の風習ができた。

 川に流すことで浄めるという発想は、祓いの神、瀬織津姫に重なる。

 宇治の橋姫は鬼女として伝えられるが、もともと川にかかる橋の神は、外敵の侵入を防ぐ守護神である。そして、この宇治橋は、祓いの神、瀬織津姫が祀られていた。

 鬼の橋姫を祀る宇治川宇治橋は、第1135回のブログでも書いたように、茨城童子が妖術の修行をした茨木市の北に聳える竜王山の真東(北緯34.89)である。

 伊勢神宮の内宮に渡るところにも宇治橋がある。

 この宇治橋は、中世、鎌倉時代から室町時代に架けられたもので、もともと橋はなくて、五十鈴川の浅瀬を直接渡っていた。そして、今でも同じだが、御手洗場まで行って清めてから参拝を行う。この場所が、川の神を祀る聖地だ。

 この川の神が、もともとの伊勢の大神で、それが瀬織津姫だった。

 瀬織津姫は、皇大神宮の内宮のすぐ後ろに「荒祭宮」にアマテラス大神の荒魂として祀られている。

 内宮には、別宮が10社あるが、その中で、内宮神域にあるのはこの荒祭宮だけで、内宮と同格の扱いを受けている。

 そして、皇大神宮には、アマテラス大神が祀られていることは誰でも知っているが、実は、皇大神宮の祭神はアマテラス大神ではなく、相殿神として、左に、アマテラス大神を復活させたタヂカラオ、右には、織物の神であり天孫降臨のニニギの母親である栲幡千千姫命たくはたちひめのみこと)が祀られている。

 神話は、物語が重層化して複雑になっているが、構造としてはシンプルである。

 天孫降臨のニニギの母親も織物の神であり、つまり、水辺に作られた織機で布を織って神と交わる巫女である。この栲幡千千姫命は、甘南備山、羅生門大極殿、西賀茂大将軍神社のライン上の、大極殿の北に鎮座する今宮神社境内の織姫社に祀られており、西陣の織物関係者たちが大切に祀ってきた。

  織姫の息子で天孫降臨したニニギは、オオヤマツミノミコトの娘のコノハナサクヤヒメと出会う。

 日本書紀、一書(第六)において、2人の出会いの場面がこのように記述されている。

天孫、また問ひてのたまはく、「其(か)の秀(さき)起(た)つる浪穂(なみほ)の上に、八尋殿(やひろどの)を起(た)てて、手玉(ただま)も玲瓏(もゆら)に、機(はた)織る少女(をとめ)は是(これ)誰(た)が子女(むすめ)ぞ」…

  この記事からもわかるように、コノハナサクヤヒメも機織りの巫女なのである。

 そして、コノハナサクヤヒメは、一夜で身籠もる。まさに、一夜妻である。

 織物の神は、巫女であり、川の流れに穢れを流す祓いの神でもあり、また川にかかる橋の神として外敵の侵入を防ぐ守護神となる。

 川の流れは、龍神に喩えられることもあるが、時に人々に恩恵を与え、時に凶暴な牙をむく。それは、自然現象においてもそうだったが、人間界においても同じだった。つまり、マレビトは、海だけでなく、川をも伝ってやってきたのだ。

 折口信夫は、「客人」を「マレビト」と訓じて、それが本来、神と同義語であるとした。

 外部からの来訪者(異人、まれびと)に、宿や食事を提供して歓待する風習は、各地で普遍的にみられるが、その時、一夜妻となる女性がいて、その女性は、神と交わる巫女と同一となった。

 マレビトは、新しい知識や新しい技術を伝える役割も果たしていた。

 そして、マレビトと結ばれて同族化していく人たちもいただろうし、マレビトとはうまくいかない人もいた。

 磐長姫で象徴されるものたちが、後者だった。

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茨城童子が妖術の修行をした竜王山の磐座、負嫁岩。

 イワナガヒメは、名の通り、岩の神の霊威を伝える。それは、古代から延々と伝わってきているものである。しかし、ニニギにとって、それは、異形のもの、異世界のもので、自分のものにはできない畏れ多いものだったのではないか。

 ニニギに拒絶されたイワナガヒメの恨みが、日本書紀に記されている。

 磐長姫、大きに恥じて詛(とこ)ひていはく…故、生むらむ児(みこ)は、必ず木(こ)の花の如(あまひ)に移(ち)り落ちなむ」…。

…磐長姫、唾(つば)き泣(いさ)ちていはく「うつしき蒼生(あおひとくさ)は、木の花の如(あまひ)に、しばらくうつろひて衰去(おとろへ)なむ。

 「生まれる御子は、必ず木の花のようにはかなく散り、この世に生きている青人草は、木の花のごとくしばらくうつろって衰えることになる」と。

 イワナガヒメが激しく慟哭しながら呪詛の言葉を吐いているようにも見えるが、言っていることは、世の無常である。

 これは、まさしく般若の世界である。

 女性の憤怒 (ふんぬ) と嫉妬 (しっと) とを表した般若の面。

 目を見開き、眉間にシワを寄せた恨みの表情は、恐ろしくもあるが、悲しさや、恥ずかしさや、後ろめたさがある。
 その鬼を鎮める祈祷が、般若心経である。
 源氏物語の「野宮」を題材にした能で、鬼の形相になった六条御息所は、般若心経によって鎮められる。

 般若は、仏の智慧であるが、その核は、空の思想であり、それは、「無常」つまり「この世に常なるものはない」と悟ること。

 磐長姫は、鬼の形相で、無常を語っている。その霊威は般若そのものであり、ニニギには、手が出せない畏れ多いものだった。

 娶らなかったというより、神の元に置いたままにした、ということだろう。

 山の中の磐座の神威は、ニニギの時代も、それより遥か前の時代も、そして現在も、神の依り代として永遠の霊威を保ち続けているのである。

                                 (つづく)

 

  

 

 

 

 

 

第1137回  鬼とは何か? という本質的な問い(1)

 意識的に鬼を追っていたわけでなく、無意識に訪れる場所が、たまたま鬼の聖域であったということが多く、まさにそれは鬼に導かれているかのようだった。
 そして、かなり鬼の核心に迫ってきたように思う。
 

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西加茂大将軍神社の立砂
 今日、平安京大極殿の真北、つまり、かつての朱雀通りの真北に鎮座する西賀茂大将軍神社を訪れた。
 この神社の祭神は、磐長姫と、その家族神。磐長姫は、天孫降臨のニニギが、選ばなかった女神だから、この神社は、皇統から外されたものの聖域ということになる。
 一般的に信じられているように、ニニギに選ばれた木花佐久夜毘売が美人で、磐長姫が醜女であった、というレベルの話ではない。
 ニニギは、磐長姫の神威の強さに怯んで、接触を持たなかった。
 そこには、鬼とは何か? という本質的な問題が横たわっている。
 磐長姫を祀る西賀茂大将軍神社は、平安京大極殿の真北で、比叡山を真東に望み、上賀茂神社も真東、すぐそばに鎮座する。
 

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神社周辺からは比叡山が大きく印象的に見える。比叡山が意識されて、この聖域の場所が決められたことがわかる。
 京都には大将軍社と名付けられる神社がいくつか存在するが、それらは、平安京の遷都の後、桓武天皇の命で都を守護するために東西南北に設置された陰陽道と関わりのある方位神で、それらの場所を訪れても、それほどの神威を感じない。つまり、歴史の蓄積を、それほど感じない。
 しかし、西賀茂大将軍神社とも角社(すみのやしろ)とも呼ばれるこの大将軍神社は、かなり異なる雰囲気がたちこめている。
 まず、この神社の創建は、平安京遷都よりも150年以上も前の推古天皇の時代である。なので、桓武天皇の命令とは関係ない。

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平安京遷都後、ここでは、平安京の建物で使われる瓦が焼かれていた。その時に、焼けた石が残る。
 この西賀茂大将軍神社から平安京の政治の中心、大極殿までの距離は4.3kmで、大極殿から同じ距離を南に行ったところが、羅生門である。羅生門は、平安京南端の中央の正門で、鬼など様々な怪奇譚が知られるところである。
 そして、西賀茂大将軍神社の真西が愛宕山で、一条戻橋で渡辺綱と出会った鬼が、渡辺綱を抱え込んで、飛び去っていこうとした場所である。
 また、羅生門の真西と愛宕神社の真南が交わるところが老ノ坂で、京都から西への出入り口であり、大江山という鬼退治の場所でもあり、さらに首塚大明神があり、ここは酒呑童子という鬼の首が埋められたところとされている。
 つまり、この綺麗な四角形の西賀茂大将軍神社以外の3ヶ所は、明らかに鬼と関係している。

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平安京の南の境界の正門で、数々の鬼のエピソードのある羅生門の真北に西賀茂大将軍社が鎮座し、その中間に大極殿があった。西賀茂大将軍社の真西が、鬼が帰っていこうとした愛宕山で、その真南が、鬼退治の大江山酒呑童子の首が埋められた首塚大明神がある老ノ坂である。ここが、京都と、その西世界の境界。
 そして、西賀茂大将軍神社の創建が推古天皇の時で、この場所の真南が、平安京の真ん中の朱雀通りで、さらに大極殿の位置が、羅生門と西賀茂大将軍神社のど真ん中にあるということは、平安京が、それ以前から存在した西賀茂大将軍神社を意識して、計画的に、位置が選ばれたということになり、そのことに磐長姫が関わっている。
 そして、磐長姫が象徴するものは何か? ということが、鬼というものが何か? ということを考えるうえで鍵になっている。
 ニニギの息子の山幸彦の場合、豊玉姫と結ばれて産まれたウガヤフキアエズを、豊玉姫の妹の玉依姫が育て、その玉依姫ウガヤフキアエズが結ばれて神武天皇が産まれた。
 ウガヤフキアエズは、叔母さんと結婚して、神武天皇の産んだのだ。
 つまり、豊玉姫の父親の綿津見神は、娘2人の両方が、同族のもとに嫁いだ。これは、女系と男系の系統を一本化することにつながる一種の政略結婚である。
 これは、古事記が編纂された時の元明天皇と、天武天皇持統天皇のあいだの息子で皇統を継ぐ予定だった草壁皇子の関係が、そうなっている。
 天智天皇の娘である元明天皇の姉が持統天皇なので、草壁皇子にとって元明天皇は叔母さんだった。壬申の乱天武天皇側と天智天皇の息子の大友皇子側が戦ったが、そうした内乱が生じないように系統と統一する考えがあったのだろう。
 綿津見神の場合と違って、大山津見神の場合、娘2人のうち、ニニギは、1人しか娶らなかった。これに対して、大山津見神は、そんなことをしたら、お前の子孫の繁栄は長く続かないぞ、と警告した。(一般的には、天皇の寿命が短くなるぞと警告されたと解釈されているが、その解釈は、読みが浅い)。
 ニニギに忌避された後、磐長姫は、呪いとともに、大国主の子孫と結ばれる。系統は一本化されず、災いの種は残された。
 この災いの種というのは、単に異なる部族の戦いということではない。忌避して遠ざけたところで消えてしまったわけではなく、禍福に関わる本質的な問題が残るということだ。 
 大山津見神は、山の神であるが、渡しの神であり、これは海上交通と関係している。つまり、山の樹木が船の建材になることを意味しているのだろう。ニニギは、その実用性の方を選んだ。
 しかし、山に受け継がれてきた原始からの岩の祭祀(磐座)を畏れ、忌避してしまった。現世における実用性はないかもしれないが、本質的に重要なものを孕んでいるのに。
 原始的な神域は、縄文に遡り、自然界の本性、本質、本能といった根源的な生命力とつながる。それは、時に、荒ぶるものであるが、生命の活力に必要なものである。
 人間社会の秩序維持においては、実用性に重きを置きながら、形式化による効率化も必要である。官僚組織であれ、会社組織であれ、それは同じ。人間は、生きるうえで目の前の現実が重要であり、そうしたものに気がとらわれる。
 しかし、それが続くと、気が枯れる。それが穢れである。
 枯れた気に必要なものは、本質、本能、本性に近い根源的な生命のエネルギーで、それが注入されることで、淀んだ気力は復活する。それが祓いである。
 穢れを、ただの汚点だとみなし、それを取り除くことが禊だとか祓いだと思っている人がいるが、それは、実用性や形式化に染まり、その範疇でしか物事を考えることができなくなっているからだ。
 つまり、そういう人にとって、穢れは、お荷物のようなものでしかない。
 しかし、たとえば官僚主義の中で機械の歯車の一部のようになって、何事に対しても気力がわかず、生きる屍のようになっている時、何かしらの大きなトラブルがあって、本能に火がついたように活性化することがある。
 鬼というのは、こうした作用をもたらす何かなのだ。
 社会も同じである。しかし、その活性化が、たとえば仮想敵国を作り出すという危険な方向に行く可能性もある。
 だから、鬼は、鎮め方を間違うと大きな災いとなり、正しく鎮めることで、守り神になる。それが、日本古来の御霊会という鬼の対処法だ。
 磐長姫は、私が、風の旅人を創刊した時から掲げていたテーマ、FIND THE ROOT、つまり「根元を求めよ」の、その ROOTにいる存在であり、現在、探求している日本の古層の鍵を握る女神である。
 磐長姫を祀る西賀茂大将軍神社には、上賀茂神社と同じく立砂がある。この立砂は、中世の日本庭園の白砂と同じく比叡山と如意ヶ岳のあいだを源流とする白川が削りとった比叡山周辺の花崗岩であり、立砂の形は、上賀茂神社の北に聳える神山を象徴している。
 この神山の山頂に磐座があり、そこに神が降臨したとされている。
 
(つづく)
 

第1136回 日本文化の古層に流れる縄文人のコスモロジー

 

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北海道 積丹半島

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北海道 積丹半島 水無しの立岩。


 私が子供だった頃、文明は、約5000年前、大河のほとりで生まれたと教わった。エジプト、メソポタミア、インダス、黄河だ。農耕が始まり、富の蓄積によって文明は生まれたということだった。

 しかし、近年、トルコのギョベグリ・テペ遺跡で、多種多様で繊細な模様の刻み込まれた10トン以上の巨大な石柱が多数発見され、年代測定で、今から12,000年前に作られたとわかった。それは、古代の祭祀場だった。

 エジプトのピラミッドより7000年も前、大河のほとりではない高台に、権力者の命令ではなく信仰への欲求が人々を協力させて、大神殿群が作られたのだ。

 近年の様々な発掘成果によって、海外でも日本でも、これまで学校で教わった歴史を根本から見直さなければならない段階に来ている。もちろん、権威ある歴史家は、そう簡単には新しい発見を認めず、もっと慎重に調べる必要があると時間稼ぎを行う。せめて自分が生きているあいだは、これまでの常識が通用するようにと。

 世界の文明に比べて日本は出遅れていたというのも学校で教わった歴史だった。世界各地で文字が発明され金属の道具が使用され神殿が建造され都市が築かれていた時、日本は縄文時代で、人々は粗末な家に住み、毛皮を着て、動物を追いかけ回していたと教育によって植えつけられた。

 しかし、近年になって、新しい発見が続出して、縄文時代に対する認識も大きく変えなければならなくなっている。

 日本は、決して遅れていたわけではない。古代四大文明が築かれた場所が、長いあいだ乾燥地だったのに対し、日本は湿潤な気候だったために、過去の痕跡の多くが朽ちてしまっただけなのだ。

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地鎮山環状列石

 先日、北海道の余市に残る縄文時代の環状列石を訪れた。

 地鎮山環状列石、西崎山環状列石、忍路環状列石と、海岸近くに三つの環状列石が築かれている。それらは見晴らしの良い高台に築かれ、同じ敷地内に墓の跡も発見されている。

 それらの環状列石は、約3500年くらい前のものと考えられているのだが、そのすぐ近くに、フゴッペ洞窟がある。

 フゴッペ洞窟の岩壁には無数の刻画が残されている。人、舟、魚、海獣、4本足の動物のようなものなど200を超す刻画がきれいに残る洞窟遺跡は、世界的にも貴重だ。

 肩に突起のある不思議な人物像も描かれており、豊猟祈願の祭祀的なものだという指摘もある。刻画のほか土器や骨角器、炉跡なども発見されているのだが、その内容から判断して、私は、1万年以上前の石器時代のものかと思ったが、実は、およそ2000~1500年前に属する遺跡であることが明らかになっている。

 だとすると、すぐ近くにある環状列石よりも、1500年から2000年も新しい。

 本州では、ヤマト王権の時代で、各地で巨大な古墳がいくつも建造され、金属器も大量に作られていた。また、ヤマト王権による蝦夷攻撃もあったと考えられるが、その蝦夷は、骨角器で戦ったとは思えないほどの抵抗を見せている。

 東北も含めた本州と北海道では、かなりの違いがあったということか。

 また、フゴッペ洞窟の岩絵と環状列石を比べても、古い時代に環状列石を作り上げた人たちのコスモロジーの方が、ビジョンとして壮大で、地上における目先の現実を超えたところにあるように感じられる。

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忍路環状列石

 私は、すぐ近くにあるこの二つの聖域は、歴史的順番として逆ではないかと思っていた。

 この逆転現象は、ヨーロッパなどでも見られる。有名なイギリスのストーンヘンジは、4000年前から4500年前に作られたと考えられ、太陽の動きや天体との関係が指摘されており、そこには、今日の我々が持つ合理的・科学的な観点を超越した何かがある。

 しかし、その2000年後のローマ時代、タキトゥスが書き残したローマ北方のゲルマン人は、巨石を積み上げる文化など無縁の未開の人々だった。

 イギリスのストーンヘイジをはじめ、ヨーロッパに謎の巨石建造物を築きあげた時代の人々は、古代ギリシャ・ローマや、現代人と異なる思考、ビジョン、宇宙観を持ち、我々とは異なる自然への働きかけ方をしていたのだろう。現代人が、人類の最高レベルであると思っているかぎり、古代の謎を解くことができない。

 北海道の余市にあるフゴッペ洞窟の岩絵について、アムール文化との関連を指摘する声もあるが、そのつながりを説明する証拠はないそうだ。

 アムール河は北海道よりも北のサハリンの北端が河口であり、オホーツク海の流氷は、アムール河の河口で淡水が凍って南下してきたものだ。つまり、アムールは、北海道よりも寒さの厳しいところだ。

 縄文時代、北海道は今よりも温暖だった。しかし、次第に地球の寒冷化が起こり、アムール河流域にいた人たちが南下して北海道の余市周辺に住み着いたのかもしれない。それ以前に北海道にいた人たちは、寒冷化のため、もしかしたら、本州に南下したかもしれない。同じ余市の地において、3500年前の環状列石と、それよりも2000年も経った時に描かれた洞窟壁画との時代的なギャップは、そう考えれば理解できる。

 学者の世界では、証拠が揃わなければ”正しい”とはされないが、縄文時代に起こった寒冷化現象を裏付ける”証拠”も出てきている。

 余市の環状列石群の真南、室蘭の地球岬の近くに北黄金貝塚がある。

 7000年前の史跡である北黄金貝塚は、世界史的にも重要なものである。 

 この貝塚は30万㎡の大きさを誇り、東京ドームの7倍あり、北海道全体の貝塚の5分の1の大きさである。

 北黄金貝塚は、7000年前、4000年前、3000年前と段階がわかれており、海岸線が次第に台地から遠ざかっていることがわかる。その理由は、寒冷化によって極北の海が凍って海面が下がり、陸面積が大きくなっていくからだ。そのため、貝塚で発見される貝の種類も、温暖系のハマグリからカキ、アサリ、ホタテ、ホッキと、次第に寒冷系のものに変わっている。

 北黄金貝塚からの出土品で目立つのは、葬儀や祭事に使われたのではないかと考えられる道具が多く、これまで信じられていたような、貝塚がただのゴミ捨て場という学説に一石を投じている。

 さらに、この遺跡からは、世界最古、6000年前の立派な刀剣が出土している。これは、鯨の骨で作られたものだが、実用のためではなく、何かしらの祭祀用ではないかと考えられている。

 丈夫な鹿の骨で作られた道具もたくさん見つかっており、こちらは漁のためや、装身具など様々に加工されており、装飾も精巧で、衣服作りや刺繍などに応じた各種の縫い針なども見られ、高度で洗練された生活文化も備わっていたであろうと想像できる。

 また、貝塚に隣接する集落跡からも興味深い遺構が多く発見された。

 その一つが、人工の池と、水際まで下りるための足場だ。この場所は、今でも豊富に水が湧き出ているが、底に磨石と石皿が1200個以上敷き詰められており、それらの99%は壊された状態となっている。どうやら、わざと壊して儀式が行われた場所のようだ。この磨石と石皿は、何かを擦りつぶすためのものと考えられており、木の実をつぶしたとか、魚の擦り身づくりだとか生活用具としての役割も考えられるが、どうやら祭祀道具であり、ベンガラなど鉱物を擦りつぶして染料を作るためのものだった可能性がある。

 というのは、北黄金貝塚からは人骨が発見されているのだが、その人骨は、死体の腰や手足を折り曲げて埋める屈葬が施され、埋葬された土の上に、石皿や磨石が供えられているからだ。

 屈葬の理由もいろいろな説があるが、その一つが、胎児の姿を真似て再生を祈るというものがある。

 そして、ベンガラの赤い色素は、生命の象徴である血液を意味するのか、古墳時代の石棺に塗り込められているものがたくさん発見されており、再生のイメージとつながっている。

 さらに、北海道函館の垣ノ島B遺跡から出土した埋葬者の副葬品の衣服も、頭から膝にかけておおわれた繊維が赤色に染められていた。これは、漆と、赤色を発色するベンガラを焼いて混ぜたもので、約9000年前に作られた世界最古の漆製品として知られている。

 漆や土器は、湿気に強く、湿潤な日本の風土のなかでも残りやすい。日本の縄文土器や漆製品が世界最古級であるというのは、この二つだけに特化した文化が日本に存在したということではなく、これらを作り出す高度な技術と知識を備えた人たちが縄文時代に存在していたが、多くの遺物が、湿潤な風土のなかで朽ち果ててしまったと考えた方が理にかなっている。

 垣ノ島B遺跡からわずか2kmほどの大船遺跡からも、北黄金貝塚と同様、膨大な数の石皿が発見されている。皿の数からして色素の大量生産が行われていたという説もあるが、一千年以上にわたって人々が同じ場所で暮らしており、その色素が祭祀用のものだとすると、代々、同じことが積み重ねられて、膨大な数になったとも考えることができる。

 巨石の遺構などにしても、現代人は、どのくらいの人数で、どのくらいの歳月を必要したかと今日の建築物を作るのと同じ発想で計算するが、古代の人々の時間観は現代人とは大きく異なっている可能性が高い。

 縄文人など古代の人は、何千年ものあいだ、同じ場所を拠点としている。一世代に少しずつ積み上げていくことで、千年を超える歳月のなかで、現代人にとってミステリアスなものが出来上がる可能性だってあるのだ。

 縄文人は、狩猟採集を行なっていた。農耕の場合は、同じ土地にとどまり続ける理由は明瞭だが、狩猟採集なのに、なぜ、同じところで住み続けたのかは謎だ。

 もちろん、海の幸、山の幸を獲得するうえで条件に恵まれた場所に集落を作ったから動く必要がなかったということもあるだろうが、代々、同じ場所で死者を供養し、そして、その復活を祈っているのだから、その土地との宗教的関わりが強固であったとも考えられる。

 地面を深く掘った竪穴式住居で眠る時、縄文人は、子宮の中にいる胎児のようなもので、太陽が昇るたびに自分が新しく生まれ出たかのように感じ取っていたのではないか。

 縄文人にとって、自分が暮らしている土地は、きっと母体と等しいものだったのだ。

 そうした縄文人にとって、環状列石は、いったいどのような意味を持っていたのだろうか?

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西崎山環状列石

 環状列石は、現在、日本国内で176箇所が確認されており、その大半が3000年前から4000年前に作られたと考えられているが、秋田県だけで74箇所、その次が北海道の29箇所と、東北だけで軽く半数を超えている。

 そして、環状列石は、日時計状の組石が設置されているなど、方位や太陽の軌道が強く意識されている。東西南北だけでなく、夏至冬至の日没や日の出の方向も示されているのだ。

 単なる時計や暦が必要ならば、巨石を積み上げるなど大規模な工事をする必要はなく、天の摂理と地上の摂理を結びつけようとする宗教的な意思が働いているとしか思えない。

 北海道の余市に3つの環状列石が集中している理由について確かなことはわからないが、不思議なことに、世界最古の刀剣が出土した北黄金貝塚や、世界最古の漆製品が発見された函館の垣ノ島B遺跡、その傍の大船遺跡は、余市の環状列石群の真南のライン上にある。さらに、その南、本州の東北にも縄文の重要遺跡が連なっている。

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北海道の余市にある三つの環状列石から岩手県のシンボルである岩手山まで、東経141度のライン上に、環状列石や縄文遺跡が並ぶ。  余市の真南は、室蘭岬のそばの北黄金貝塚。その南、内浦湾を超えて函館の大船遺跡、その南、津軽海峡に面した戸井貝塚津軽海峡を越えて大間のドウマンチャ貝塚、その南、陸奥湾を越えて夏泊半島の付け根の平内町の60の縄文遺跡、そこからまっすぐ南に奥羽山脈が伸びて、岩手山の北麓に、釜石環状列石がある。  日本最大の環状列石である秋田の大湯環状列石群は、奥羽山脈の西の花輪盆地にあり、大湯環状列石群とともに縄文遺跡を代表する三内丸山遺跡や、その東南8kmの小牧野の環状列石は、奥羽山脈の西の青森平野の周縁の高台に位置する。

 

 函館の大船遺跡は、近くの南茅部町(現在の函館市尾札部町)で発見された「茅空(かっくう)」土偶が有名だ。2017年に北海道初の国宝に指定されたこの土偶は、中空土偶としては国内最大の大きさで、作りが極めて精巧で写実的で、非常に薄づくりで紋様構成も優れていることから、縄文時代における土偶造形の頂点とも評価されている。

 この土偶が発見されたあたりは、著保内野遺跡と呼ばれ、ヒスイの勾玉や漆片なども発見され、縄文時代の集団墓と考えられている。

 大船遺跡は大規模な集落遺跡で、100棟を超える竪穴建物跡が発見されているが、その規模が巨大で、深さ2m以上掘り込んでいることが特徴的だ。その中には長さ8~11メートルのものがあり、三内丸山遺跡と同じく集会場ではないかと考えられている。そして、未発見の建物が地中に800棟〜1500棟あるのではないかと推測されている。さらに、この住居群と貝塚のような大規模な盛土遺構の南西に100基以上の土坑墓群が発見されている。

 大船遺跡の住居跡は幾層にも重なっていることが確認されているので、この集落が、何世代にもわたって長期間、使用されていたことがわかる。

 また、この大船遺跡の真南、津軽海峡に面したところに4000年ほど前の戸井貝塚があり、この貝塚からは、船形の土製品が出土している。縄文人が使っていた船の遺物は発見されていないが、この土製品からイメージすることは可能だ。

 戸井貝塚の真南は、津軽海峡の向こう、マグロの一本釣りで有名な大間で、ここにもドウマンチャ貝塚がある。

 青森県側には、大規模集落で有名な三内丸山遺跡や、その南8kmの環状列石を主体とした小牧野遺跡があり、北海道側の縄文遺跡と共通した様式の土器(円筒土器)や同質のヒスイ製品などがそれぞれ大量に発掘されているので、津軽海峡を挟んだ交流があったのだろう。

 余市の環状列石から続く南北のライン、北黄金貝塚、大船遺跡、戸井貝塚、ドウマンチャ貝塚をさらに南に行くと、陸奥湾を超えて夏泊半島があり、この半島の付け根の浅所海岸という遠浅の海岸に面した平内町には、なんと縄文遺跡が60箇所もある。その遺物は、1万年前にも遡るものがある。

 夏泊半島は、奥羽山脈の最北端で、ここから続く山脈を真南に120km行ったところに聳えるのが、岩手県最高峰の岩手山だ。2038mの円錐状のこの火山は、富士山のように長い裾野を引く整った形で、古くから信仰の山だ。

 この岩手山の北麓に、釜石環状列石という大環状列石群がある。

 環状列石群の中央には直径12mの大型な環状列石があり、その中央には火を炊いた後がある直径1.5mの石囲いがある。そして、北側には縦横2mの石を敷き詰めた祭壇状があり、そこから真南を見ると、環状列石の石組みの延長上に岩手山の山頂部が見え、明らかに、岩手山が祭礼と関係している。

 この巨大環状列石の周囲には、直径3m程度の小型の環状列石が配置され、少なくとも大小7基の環状列石が確認され、環状列石の周囲には住居跡が発見され、さらにその付近からは土器、土偶、土版、石版、石器などが発見されている。

 奥羽山脈は、岩手山から南は、やや西の方向に連なっているが、岩手山から青森県夏泊半島までは、まっすぐ北に連なっており、この山脈の西の秋田県の花輪盆地に、日本最大の環状列石の大湯環状列石群がある。

 この環状列石群のなかの万座環状列石の最大径は54.25メートル、野中堂環状列石の最大径は44.00メートルである。

  これらの環状列石は川原石を雑然と置き並べた程度のものではなく、数個から十数個の石を円形・楕円形や菱形などに組み合わせて、これらが二重の円環を描くように並べられており、「日時計状組石」も存在する。

 また、掘立柱建物群、竪穴住居跡、環状配石遺構、石列、柱列などの遺構がたくさん発見され、多量の土器、石器、土製品、石製品が出土している。

 土器の中には、赤色顔料を塗り、日常使用ではなく祭祀用と考えられるものもある。土製品・石製品も種類が多く、土偶、鐸形・キノコ形・動物形土製品、石刀、足形石製品などがあり、これらは、葬送儀礼など何かしらの祈りとマツリに使用された道具と考えられている。

 さらに、大湯環状列石群とともに縄文遺跡を代表する三内丸山遺跡や、その東南8kmの小牧野の環状列石は、奥羽山脈の西の青森平野の周縁の高台に位置する。

 三内丸山遺跡で人々が活動していた時代は、現在より気温が高かったと考えられており、したがって海水面は今より高く、内陸に入り込んでいた。そのため、青森平野は、海か、湿地帯だったようだ。

 こうして見ていくと、北海道では北の余市から函館、本州では、岩手県岩手山から青森県夏泊半島まで、見事なまでに南北ライン上にそって、環状列石や縄文遺跡が配置されていることがわかる。

 一つひとつの環状列石が方位を意識して作られていることは明らかだが、さらに異なる場所との環状列石がつながって、全体として何か意味を示しているのだろうか。

 環状列石にかぎらず、日本国中に存在する磐座をはじめとする聖域が、冬至夏至のライン、東西南北のラインでつながっているのだが、その精神の源流は、環状列石を作っていた縄文時代にあるのかもしれない。