第1135回 卑弥呼の時代に栄えた三島地方の謎

 伝承に登場するほとんどの鬼が、一方からは極悪として描かれているのに、もう一方からは、人情味があったり、人のために尽くし恩恵を与えてくれた存在として描かれている。

 その例としては、吉備の鬼退治に登場する温羅(うら)という鬼がよく知られている。

 また、平安中期、安倍晴明の時代、酒呑童子の家来とされる茨木童子は、京の都で金銀財宝を盗み、人を殺し、女をさらい、渡辺綱と戦い、腕を切られ、大江山源頼光に誅せられる存在として知られるが、茨木童子の出身地候補の一つ、摂津地方での描かれ方は異なり、父母が病気になったと知って見舞いに訪れるなど、外面的容貌は鬼でも、内面が善良な存在となる。

 酒呑童子の”童子”というのは、もともと、大人になっても子供の髪型のままで生活していた流浪の民だが、農民など定住生活者とは異なるパラダイムの住人である。その怪しい人々は、定住生活者が持っていない知識や技術を備えていたし、特別な霊力を持つ存在として崇められたこともあったが、社会から排除されて差別される存在として扱われた時期もあった。

 一般的に、”鬼”の居場所が金属関係の場所とつながっていることが多いので、鬼とは鉱山関係者、産鉄民だと主張する意見もあるが、そういった特定職業集団と定義づけてしまうよりも、金属という重要資源と関係ある地域を治めていた勢力ととらえた方がいいのではないだろうか。

 茨木童子の出身地候補である茨木から高槻にかけての三島地方は、古代、きわめて重要なところだった。淀川沿いにあるこの地域は、古代、瀬戸内海と畿内を結ぶ重要な交通路であった。

 高槻市にある安満遺跡と、茨木市にある東奈良遺跡の二つの弥生遺跡は、日本古代史の重要な鍵を握る遺跡である。

 甲子園球場の5つ分という広大な安満遺跡は、居住群のまわりを壕でめぐらせる環濠集落跡で、集落の南側に用水路を備えた水田が広がり、東側と西側は墓地になり、方形周溝墓が100基以上確認されている。

 1997年、この遺跡の中にある安満宮古墳から青龍三年と銘記された方格規矩四神鏡が出土した。

 青龍三年というのは中国の魏の年号で、西暦235年のことである。中国では正史として扱われた『三国志』の中の魏書に、倭人について描かれた部分があり、それが有名な『魏志倭人伝』であるが、その中で、景初3年(239)、邪馬台国の女王、卑弥呼が魏に使者を送り、魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記されている。

 当時、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こったが、卑弥呼と言う一人の女子を王に共立することによってようやく混乱を鎮めたとあるが、完全に統一国家ができていたわけではなく、卑弥呼に属するクニと、属さないクニがあったことも伝えられている。

 その邪馬台国がどこにあったかというのが、長いあいだ、歴史好きのあいだで論争になっている。

 そして、これこそが、魏の王が卑弥呼に与えたものであると主張する鏡も、各地にたくさんある。有名なのが、京都府木津川市の椿井大塚山古墳で、1953年、当時最多の三角縁神獣鏡32面が出土した

 その頃、卑弥呼が、魏の王から与えられた鏡を同盟勢力に配分して国をまとめたという説が出され、大量の鏡が出土した椿井大塚山古墳こそが盟主に相応しいとされ、三角縁神獣鏡卑弥呼の鏡の象徴になったのだが、その後、三角縁神獣鏡が各地で大量に見つかり、1997年には、奈良県天理市柳本の黒塚古墳で33面の三角縁神獣鏡が出土した。結果、魏の王が与えた100の鏡よりはるかに多くの三角縁神獣鏡が発見され、しかもこの鏡が中国からは一枚も出土していないこともあって、三角縁神獣鏡は国産品で、卑弥呼の鏡ではないと考える専門家が増えている。

 そうした中、2020年、大分の日田で発見された鉄製の鏡が、卑弥呼の鏡の可能性が高いと主張する学者(中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏)が現れた。この鉄鏡は、金錯や銀錯が施されており、「そんな鏡は王宮関係に限られるので、魏の側からすれば、最高の品質の鉄鏡を贈ること、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と述べている。鉄製か銅製かの違いは、同じ鏡であるので、どちらでも良いそうだ。

 ここまでくると、もう何でもありの世界である。そして、工業技術の高さを示すためという解釈も、あまりにも現代的な考えの押し付けである。

 それはともかく、出土した鏡に年号が刻まれているものは、実はそんなに多くはなく、魏の王が卑弥呼に鏡を与えたとされる239年よりも前のものとなると、さらに限られ、ほんの数枚である。

 その中で、高槻の安満宮古墳から出土した鏡は、もっとも古い235年である。

 同じ年の鏡は、もう一枚、丹後半島の峰山と弥栄町にまたがった大田南5号墳からも出土しているが、この地には、弥生時代のハイテク都市である扇谷遺跡や、名具岡遺跡がある。

 高槻市の安満宮古墳から出土した青龍三年(235)の鏡は、三角縁神獣鏡ではなく方角規矩四鏡である。その背面の文様は、大地は方形で、天はそれをドームのように覆っているという「天円地方」の世界観に基づいて、宇宙の構造を表現している。

 具体的には、中央部に”地”を表す正方形の区画があり、その周縁をとりまくように天穹を表す円が描かれている。そして、その正方形と円のあいだに様々な動物が描かれているが、その中心が、青龍、白虎、朱雀、玄武の四神とよばれる霊獣である。そして、四神のあいだを埋め尽くす渦状の文様は、宇宙に満ちたエネルギー(気)であり、つまり天地の運航と正しく合体することが、世の中を正しく整えることにつながると考えられたのだ。

 794年に造営された平安京が、東に青龍(鴨川)、北に玄武(船岡山)、南に朱雀(巨鯨池)、西に白虎(山陰道)と配置されるなど、方位に重きが置かれていることはよく知られているが、それよりも500年前の卑弥呼の時代、方角規矩四鏡を所有し、中国と交流があったと考えられる高槻市の安満宮古墳の被葬者もまた、そうした思想を共有していたに違いない。

 古代においても方位や天体の動きは地上を治めるうえで重要なファクターであり、その観測技術も備えていたし、そうした宇宙の構造を地上に模式的に置き換えることも行われていただろう。

 さて、高槻、茨木にある弥生遺跡で、日本史の謎を解く鍵となるもう一つの遺跡である東奈良遺跡は、1973年の大阪万博の時、南茨木駅周囲一帯の大規模団地建設の際に発見された大規模な環濠集落であるが、この弥生遺跡を有名にしたのは、銅鐸である。

 この弥生遺跡の工房跡から銅鐸の鋳型が35点も出土し、ここの鋳型で生産された銅鐸が近畿一円から四国でも発見されており、奈良県の唐古・鍵遺跡と並ぶ日本最大級の銅鐸や銅製品の製作場所がここに存在し、各地に銅鐸を配布するほど政治的な力を持っていたと考えられる。

 さらに、ごく最近の2017年、この東奈良遺跡の真北3kmほどのパナソニック工場跡から、弥生時代中期から後期にかけての大規模な遺跡である郡(こおり)遺跡、倍賀(へか)遺跡が見つかり、140もの方形周溝墓(周囲に溝を掘った墓)や、弥生人をかたどった人形などが見つかり、方形周溝墓の数は、現状では、滋賀県の服部遺跡に次ぐスケールである。

 非常に興味深いことに、この郡遺跡、倍賀遺跡から正確に真北の方位の4.5kmのところに阿武山があり、その南麓に、貴人の墓として大騒ぎになった阿武山古墳がある。

 この古墳は盛り土がないが、埋葬されている丘が円墳のような形で、周囲を見渡せる高さを誇り、丘そのものが古墳といってもいい条件を整えている。 

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阿武山からは、交野山から生駒山にかけてと、その背後の三輪山など奈良盆地の東の山々が望める。さらに、大阪方面も見渡せる

 そして、この被葬者が漆の棺に葬られ、玉枕を敷き、飛鳥時代の最高冠である刺繍糸の織冠であることから最上位クラスの人物と考えられ、さらにX線撮影で腰椎を骨折していることがわかり、落馬の記録のある藤原鎌足ではないかと世間を賑わせた。

 しかし、この阿武山の地は、古代、阿部氏の拠点であるため、この古墳の被葬者は、大化の改新後に孝徳天皇の側近として政権トップの左大臣になった阿部内麻呂だとする説もある。

 教科書においては、645年の大化の改新乙巳の変)は、中大兄皇子藤原鎌足の2人が蘇我入鹿を暗殺して政権を奪ったと教えられるが、その時、蘇我入鹿の父の蘇我蝦夷は生きており、この暗殺事件だけで政権が変わるほど事は単純ではない。

 また、この事件の後、即位したのは孝徳天皇で、政権内のナンバーワンとなったのは阿部内麻呂であり、孝徳天皇が遷都した難波京四天王寺のあるところも阿部氏の拠点だった。当時、阿部氏は、阿部比羅夫が、3年間をかけて日本海側を北へ航海して蝦夷を服属させるなど強力な水軍を束ねていた。また、比羅夫は、白村江の戦いにおいても新羅討伐軍の将軍として朝鮮半島に向かうが、唐と新羅の連合軍に大敗する。しかし、その後は、新羅、唐に備えるためか、太宰師となり、九州における外交・防衛の責任者となっている。

 蘇我氏は、渡来人をまとめあげる力に長けていたが、強力な軍をもっていたわけではなかった。

 蘇我入鹿が暗殺された時に蘇我氏が滅んだのではなく、蘇我入鹿の父の蘇我蝦夷は、入鹿が暗殺された後、情勢の不利を知って館に火をつけて、そのことによって蘇我氏は滅んだ。それまで蘇我氏と良好な関係にあった阿部氏が敵側についたことで、蘇我蝦夷は勝ち目なしと覚った可能性がある。

 阿部氏のことについては、第1123回のブログで書いたように食膳の役割を通じて天皇に仕え、外交や朝廷警護(軍隊)の役割を果たしながら実力を蓄えていった氏族だが、もともとは俘囚(蝦夷から連れてこられた人たち)の可能性もある。陰陽師として活躍した安倍晴明も、この系譜のなかにいる。

 不可解なことは、この阿武山古墳と、弥生時代の謎の鍵を握る東奈良遺跡、都遺跡、倍賀遺跡が、南北7kmのライン上に、きれいに配置していることだ。

 そして、阿武山の麓に、阿為神社が鎮座するが、その周辺、安威古墳群があり、ここには、古墳時代前期の前方後円墳と、古墳時代前期と後期の円墳が20ほど確認されている。なぜか、二つの時代のあいだの古墳時代中期のものは存在しない。

 さらに不可解なことに、このライン上、東奈良遺跡の北1.3kmのところに、茨木童子貌見橋がある。この場所は、茨木童子が、川の水面に映る自分の姿を見て、自分が鬼であると気づいた場所とされ、その後、茨木童子は、人間界を去ったということになっている。

 これはいったい何を意味しているのか?

 茨木童子が覗き込んだ川というのは、現在はこの場所からやや東を流れている安威川とされているが、この川は、暴れ川で、昔から治水が課題であり、今は、上流にダムが建設中である。

 水源が北にある安威川の流れを遡っていくと、阿武山の麓を通り、竜王山の麓を通り、亀岡へと至る。竜王山周辺は、上質な砕石が採取できる所で、現在でも大型ダンプカーが行き交い、採取された砕石は、各種建設工事の資材として使用されている。

 竜王山(510m)山中も、聖域となっている巨岩が多く、長いあいだ、北摂屈指の霊峰として厚い崇拝を受けてきた。現在、この頂上付近は森林に覆われ展望が得られないため、高い展望台が作られている。その展望台上からは、大阪平野生駒山地・六甲山等、金剛山葛城山、その背後の三輪山の方まで望むことができる。

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山岳修行の舞台であった竜王山は、巨石の聖域が多い。

 茨木童子は、この竜王山で、妖術の修行をしたとされる。

 竜王山の頂上付近に忍頂寺があるが、この寺は、かつては23もの寺坊を有し、箕面勝尾寺などと並び、山岳修行(修験道場)の聖地だった。

 修験道の開祖である役小角が夫婦の鬼を従えていたと伝承されるように、山岳修行を行うものと鬼が重ねられることが多いので、茨木童子竜王山のつながりも、それと関係しているかもしれない。

 ただ、もう一つ気になるのは、この竜王山山頂から真南に5.7kmのところに、古代、名神大社として格付けされた新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)があり、その周辺に5世紀後半から7世紀にかけての30基ほどの新屋古墳群があることだ。

 この古墳群は、古墳時代前期や中期のものは存在せず、古墳時代中期の後半から古墳時代後期(6世紀から7世紀)の古墳群となっている。

 この新屋坐天照御魂神社の祭神は、物部氏の祖神である天照国照天彦火明大神 (アメノホアカリ)であり、社伝によれば、崇神天皇の御代に神が当地に降臨し、物部氏の祖の伊香色雄命(いかがしこお)に勅して祀らせたのに始まるという。

 阿部氏の祖先、第10代崇神天皇の時の四道将軍の1人である大彦命の母親の欝色謎命(うつしこめのみこと)は、物部氏の出身で、伊香色雄命(いかがしこお)の父親の兄妹であり、大彦命と伊香色雄命は従兄弟ということになる。つまり、阿部氏と物部氏は同族で、この二つの氏族に関係する勢力が、古墳時代の前期と後期、三島の地に勢力を誇っていたと考えることができる。

 さて、源頼光による大江山の鬼退治において、茨木童子酒呑童子の手下という位置づけだが、頼光四天王に征伐される前、茨木童子は、鬼たちの対話の中で、渡辺綱に腕を切り落とされたという述懐をする。

 この話は、京都の一条戻橋で美女に化けた鬼と渡辺綱との戦いとして、御伽草紙や能など、いろいろなシチュエーションで描かれる。

 そして、この渡辺綱に腕を切られる鬼は、平家物語においては、嫉妬のあまり愛した男を殺そうとして、貴船神社の神に、生きたまま鬼になることを願った宇治の橋姫として描かれる。宇治の橋姫は、宇治橋を渡ったところに鎮座する橋姫神社に祀られているが、もともとは、宇治川の守り神で、瀬織津姫と同一視されている。

 水神や瀧神である瀬織津姫は、祓い浄めの女神であり、神道にとっては重要な大祓詞のなかで、山から流れ落ちてきた罪を大海原に流す神として登場するが、なぜか古事記日本書紀には登場しない謎の神である。

 真相は不明だが、瀬織津姫が橋姫で、橋姫が茨木童子であるならば、茨木童子は、瀬織津姫を象徴する何者かであるということになる。

 瀬織津姫は、西宮の廣田神社や、大阪の御霊神社では、アマテラス大神の荒魂と同一神として祀られてきた。

 特に大阪の御霊神社は、平安時代、新しく天皇が即位され大嘗祭が行われた翌年、次の天皇の新しい時代を祈願する八十嶋の祭が執り行なわれていた場所でもあった。これは皇位継承儀礼の一つであるが、その祭事において、陰陽師が京都から難波に来て、この海岸において祭壇を設け、供え物をするとともに天皇の御衣を海に向かって打ち振り、穢れを祓い落とした場所だった。

 このあたりは、飛鳥時代難波京があったところで、四天王寺が建てられた場所は今でも阿倍野という地名だが、阿部氏の拠点だった。

 この御霊神社の真北、修験道の祖の役小角が悟りを開いた箕面山の南麓に為那都比古神社がある。

 由緒によれば、紀元2〜3世紀、このあたりに為那国があり、その国を統括した豪族を祭神として祀っている。

 為那都比古神社の周辺からは縄文時代の遺物も出土しているが、なかでも、団地の造営地で近所の人が散歩中に発見した如意谷の銅鐸は、よく知られている。

 この神社の1km西、如意谷の600m東に医王岩という巨岩があり、この岩を磐座とした原始の信仰が為那都比古神社の原点と考えられる。

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医王岩

 不可解なのは、茨木童子との関係が気になる瀬織津姫を祀る大阪の御霊神社の真北にある為那国の地と、これまた茨木童子と同一である宇治の橋姫が鬼になるために参っていた京都の貴船神社(丹生大明神)を結ぶライン上に、茨木童子が妖術の修行をしたとされる茨木の竜王山があり、さらに、この竜王山の真東が、橋姫を祀る宇治橋であることだ。さらに、京都と亀岡のあいだの老ノ坂にある大江山も、鬼退治の舞台とされているが、この場所にある首塚大明神は源頼光に討ち取られた鬼の首が埋められた場所とされるのだが、この場所も、貴船神社竜王山を結ぶライン上なのである。

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橋姫が鬼になるために神に祈った京都の貴船神社酒呑童子の首が埋められたとされる老ノ坂の首塚大明神、茨木童子が妖術の修行をした茨木市竜王山、かつてこの地にあったとされる為那国を治めていた豪族を祀る為那都比古神社がライン上に並ぶ。為那都比古神社の真南が、橋姫と同一とされる瀬織津姫を祀る御霊神社である。 茨木の阿武山の麓に藤原鎌足もしくは阿部内麻呂の墓だとされる阿武山古墳があり、その真南に、弥生時代の倍賀遺跡、郡遺跡、弥生時代最大の銅鐸製造基地である東奈良遺跡が並び、阿武山の南には弥生時代前期と後期の古墳群がある。茨木童子が、水面に映る自分の姿を見て鬼だと認識した場所も、そのライン上である。そして、茨木童子が妖術の修行をしたとされる竜王山の真南には、物部氏と関わりの深い新屋坐天照御魂神社があり、その周辺には、古墳時代中期の後半から古墳時代後期の古墳群がある。竜王山の真東が、橋姫(瀬織津姫)を祀る宇治橋である。

 

 茨木から高槻にかけての地域は、古代、三島と呼ばれていた。

 三島は、天孫降臨のニニギの妻となって山幸彦と海幸彦を産んだコノハナサクヤヒメの父親のオオヤマツミノミコトを祀る三島系の神社と関係の深い土地であり、伊豆の三嶋大社、愛媛の大山祇神社とともに、高槻の三島鴨神社は、「三三島」とされる。

 そして、神武天皇が世継ぎを決めるにあたって、九州から同行させてきた息子ではなく、畿内において、三嶋湟咋(みしまみぞくい)の娘の玉依姫と、事代主(古事記では大物主)との娘であるヒメタタライスズヒメとのあいだに生まれた子供を正統とした。

 つまり、後の天皇には、事代主(大物主)など出雲系とされる氏族と、三島の氏族の血が流れ込んでいると、記紀のなかで、敢えて強調されている。

 上に述べたように、高槻から茨木にかけての三島の地は、235年の銅鏡が出土した安満遺跡や、銅鐸の一大生産地であった東奈良遺跡など、邪馬台国に匹敵する大きな勢力があったことは確かだ。

 しかし、この地の古墳群は、古墳時代前期や、後期の古墳が多く残されているのに、古墳時代中期が空白となっている古墳時代中期というのは、応神天皇陵や仁徳天皇陵など、それまでの古墳と比べて桁違いに巨大化した古墳が、藤井寺から堺に築かれた5世紀のことだ。

 5世紀、何かしらの理由で勢力図が大きく変わったということだろう。

 しかし、古墳時代後期、6世紀になると、事情がまた異なってくる。

 それまでの王の血統が途切れ、突如、天皇に抜擢された第26代継体天皇は、即位した後の20年間、ヤマトの地に入らず、淀川に近いところに宮を築き、高槻の今城塚古墳に埋葬された。その頃から、再び、三島の地に数多くの古墳が築かれている。

 高槻から茨木にかけての三島の地は、茨木童子で象徴される何ものかの地であり、その何ものかは、瀬織津姫のように、日本社会の中に脈々と伝わっているにもかかわらず歴史の表舞台からは消えている。

 瀬織津姫は、祓いと深く関係している神だが、祓いは、多くの人が考えているような罪や穢れを単純に取り除くための行いではない。

 たとえば御霊会というのは、怨霊を消し去るために行われたのではなく、その霊を鎮めることで、守り神へと転換するためのものだったが、祓いも同じで、エネルギーの悪い流れを良い流れに変えるために行われる。マイナスに見えることでも、自分を生かす力に変えること、それが祓いの真の目的だ。

 日本の宗教において、この祓いの概念はとても重要である。

 学校の教科書では、どの勢力が勝ち残って、どの勢力が敗れ去ったという内容に単純化されて覚えさせられるが、平安時代藤原氏との政争に敗れたとされる大伴氏が、鶴岡八幡宮神職者を続けているといったことと同様のケースは数え切れない。

 また、鬼伝説などで、たとえば源頼光酒呑童子を討伐するシーンでも、頼光たちは山伏に変装して鬼たちと酒盛りをして酔わせて首をはねるのだが、欺かれて首をはねられた酒呑童子が、最期に、「鬼は決して人をだましたりしないのに」と言うなど、鬼の側にも理があって同情を誘う物語となっている。

 三島の地で勢力を誇っていた者たちは、茨木童子が、川の水面に映る自分の姿を見て自分が鬼であると覚ったように、ある時、鬼とされる側に立たされることになったのかもしれない。

 しかし、その敗者もまた、魂が鎮められることで、良き導き手となる。

 茨木から高槻にかけての三島地方の豪族であったと考えられる三島溝杭は、古事記では、神武天皇の皇后となるヒメタタライスズヒメの祖父と位置付けられるが、別名が賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)とされ、これは、京都の古社、下鴨神社の祭神の名前で、山城(京都)の賀茂氏の始祖とされる。

 さらに、もう一つの名が、ヤタガラスである。

 ヤタガラスは、神武東征の神話のなかで、神武天皇を熊野から大和へ導く存在として描かれる。そして、熊野の信仰では、カラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの)とされているのだ。

 中世において、菅原道眞が怨霊から神となったのと構造は同じなのである。

 阿部氏というのは、もともと蝦夷の地にいた人々で、俘囚として畿内に連れてこられて、天皇(朝廷)の守衛を担うことになったという説もある。つまり、もともとは、鬼とされる側である。

 しかし、天皇の側近として仕えることで、食膳を司るようになった。食膳は、天皇の日々の食事だけでなく、外交における饗膳や、大嘗祭など朝廷儀礼において極めて重要で、やがて祭祀全体を取り仕切る役割を持つようになった。

 安倍晴明も、陰陽師として有名であるが、律令制のなかの役割としては大膳大夫という今日で言うところの宴会幹事である。

 また、阿部氏は、朝廷警護という役割から軍事力を備え、朝敵、つまり鬼を討伐するという役割を担う。安倍晴明もまた、陰陽道によって、鬼を鎮める側に立つ。鬼の立場が逆転するのだ。

 この逆転が、日本の古代をわかりにくくしている。

 日本の古代の真相は、誰が勝って誰が負けたという単純な思考、すなわち世に跋扈している「早わかり日本の歴史」という類のアプローチでは、決して解くことができない。
 

 

 

 

 

第1134回 日本の重要な聖域を結ぶ不思議なライン

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 なんとも不思議なことに、日本の重要な聖域が、このラインのなかにきれいに収まる。

 桜島コノハナサクヤヒメを祀る月読神社から、足摺岬室戸岬を横切って伊勢神宮を通るラインは、コノハナサクヤヒメが祭神の富士山から、武蔵国一宮の小野神社を経由して武蔵国国府があった府中に至る。これは、冬至に太陽が沈む方向のライン(30度)。

 八ヶ岳付近から、諏訪大社のある諏訪湖、岐阜の南宮大社、大津の日吉大社、京都の松尾大社を通るラインは、阿蘇神社から、有明海宇土の馬門というところに至る。これも冬至のライン(30度)。

 宇土の馬門というのは、阿蘇のピンク石の産出地で、阿蘇のピンク石というのは、第26代継体天皇推古天皇など大王の石室で使われており、なぜ、こんな遠くから石が運ばれたのかは謎とされている。その宇土の馬門は、桜島の真北である。

 日本を代表する4つの山、阿蘇八ヶ岳桜島と富士山は、それぞれ冬至に太陽が沈む方向のライン(30度)で結ばれ、並行しており、このライン上に、ここに挙げたもの以外にも多くの聖域が配置されている。

 また、島根の出雲大社から、丹後の元伊勢、皇大神社伊吹山を通るラインは、東西のライン(秋分の日と春分の日に太陽が昇り沈む)で、富士山、そして、千葉の九十九里浜に鎮座する一宮の玉前神社に至る。

 玉前神社の社伝によると、この神社の前の浜が豊玉姫の妹の玉依姫が上陸したところで、玉依姫は、乳母として山幸彦の子供のウガヤフキアエズを育て、そしてウガヤフキアエズと結ばれて初代神武天皇を産んだ、ということになっている。その神話はともかく、この神社の鳥居は真東を向いており、秋分春分の日九十九里の海から昇る太陽を望むことができる。

 この玉前神社から、夏至の日に太陽が沈む方向が、府中の国府跡(現在、大國魂神社が鎮座している)を通り、八ヶ岳から諏訪湖に至る。

 玉前神社と富士、出雲大社を結ぶ東西ライン上にある伊吹山、元伊勢の皇大神社の距離は、伊吹山伊勢神宮伊勢神宮熊野本宮大社熊野本宮大社と淡路の伊奘諾神宮、伊奘諾神宮と、元伊勢の皇大神社のあいだの距離と同じ(110km)で、この5つの聖域を結ぶと、綺麗な五角形になる。

 そして、東京の府中の国府は、桜島、伊勢、富士山と結ぶ冬至のライン上にあるのだが、この場所の真北が、日光の男体山だ。男体山は、関東のランドマークといえる火山で、かなり遠くからでも秀麗な姿をのぞむことができる。

 そして、府中の国府男体山のあいだに、埼玉の行田の埼玉古墳群がある。この古墳群は、南関東で最大規模のもので9つの巨大古墳があるが、雄略天皇の名(ワカタケル)や、四道将軍オオヒコの名が刻まれた鉄剣で有名な稲荷山古墳や、日本最大の円墳の丸墓山古墳もここにある。

 興味深いのは、この古墳群にある二子山古墳、稲荷山古墳など巨大な前方後円墳が、同じ方向を向いており、その延長上に富士山があることだ。つまり、稲荷山古墳の後円の部分のてっぺんに立つと、晴れた日は、前方部の方向の先に100km先の富士山が見える。明らかに富士山が意識されて、そしておそらく、真北の男体山も意識されて、埼玉古墳群は作られている。

 この埼玉古墳群と男体山のあいだに栃木県の足利(足利氏の出身地)があるが、ここも不思議な雰囲気のあるところで、1600ほどの古墳が集中し、その北に、空海ゆかりの巨石群、名草厳島があり、その北が、足尾銅山など鉱山地帯である。

 富士山の神様は、天孫降臨のニニギと結ばれたコノハナサクヤヒメで、桜島の月読神社でもコノハナサクヤヒメが祀られ、二つの聖域のあいだに、アマテラスを祀る伊勢があり、これらは、冬至のラインで結ばれている。

 冬至の日、一日の長さは一年で一番短くなるが、翌日からは一日ずつ長くなっていくわけで、すなわち、冬至というのは復活の意味と重ねられる。

 そして、これらのラインにおいて太陽が沈む西の端に位置する熊本の宇土の馬門。ここから産出された阿蘇のピンク石を使った石室は、第26代継体天皇の陵墓とされる高槻の今城塚古墳と、推古天皇とその息子の竹田皇子の合葬墓であったとされる橿原市の植山古墳であるが、実は、この二つの古墳は、今日につながる天皇の系譜を考えるうえで、極めて重要なものである。

 まず、継体天皇は、現代の天皇が系譜を遡ることができる最古の天皇である。というのは、継体天皇の前の第25代武烈天皇が子供を産まずに若くして亡くなり、皇位が途切れた時、大伴氏と物部氏が、応神天皇の5代後とされる豪族を見つけて即位させたのが継体天皇なのだ。この継体天皇は、即位後、九州で起こった古代最大の内乱とされる磐井の乱を制圧して日本を治めるのだが、この磐井の墓とされるのが、九州最大規模の前方後円墳の岩戸山古墳である。この古墳は、前方後円墳12基、装飾古墳3基を含む約300基に及ぶ八女古墳群を代表するものだが、この八女古墳群は、熊本の宇土の馬門の真北60kmのところに位置する。

 継体天皇の陵墓とされる今城塚古墳は、この反乱を起こしたとされる磐井の勢力拠点と、何かしらの関わりがありそうな場所のピンク石を使って石室が作られている。

 しかし、今城塚古墳は、考古学的に継体天皇の陵墓とされているものの、宮内庁は、そのように認めておらず、宮内庁は、今城塚古墳の西1.5kmの茨木市の大田茶臼山古墳継体天皇陵としている。

 そして、推古天皇と竹田皇子の合葬墓とされる植山古墳は、上に述べた近畿の美しい五角形の伊勢神宮と淡路の伊奘諾神宮を結ぶライン上にあり、その真ん中に位置している。

 推古天皇は、聖徳太子とセットにして覚えられている日本の天皇でもっとも有名な天皇の一人だが、この推古天皇について、中国の隋書に、不可思議な記述がある。

 隋の文帝の開皇(かいこう)二十年(600年、推古天皇8年)、倭(原文は俀(たい))王で、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしほこ)、阿輩雞弥(あほきみ)と号している者が、隋の都大興(たいこう)(西安市)に使者を派遣してきた、文帝は担当の役人に俀国の風俗を尋ねさせた。使者はこう言った。
「俀王は、天を兄とし、太陽を弟としている。夜がまだ明けないうちに、政殿に出て政治を行い、その間、あぐらをかいて坐っている。太陽が出るとそこで政務を執ることをやめ、あとは自分の弟、太陽にまかせようという。
俀国王の妻は、雞弥(きみ)と号している。王の後宮には、女が六、七百人いる。

 有名な小野妹子が遣隋使として派遣されたのは第2回の607年で、600年が遣隋使の最初であるが、日本書紀には、600年のことが記載されていない。

 そして、600年というのは推古天皇の時代のはずだが、隋書の記述では、妻がいたり、後宮に大勢の女性がいたり、男性として描かれている。

 実際に、日本書紀で描かれる推古天皇の即位には、不自然なところが多い。まず、推古天皇は、593年、39歳という高齢で即位している。

 第33代推古天皇は、第30代敏達天皇の妻であるが、敏達天皇は、異母兄である。また、聖徳太子の父とされる第31代用明天皇は、推古天皇の同母兄だが、在位はわずか2年であり、その死後の587年、蘇我氏物部氏の戦いが生じた。(仏教をめぐる争いとされているが、実際は、皇位継承問題も絡んでいる)。この戦いで蘇我氏が勝利し、蘇我稲目の孫の第32代崇峻天皇が即位する。崇峻天皇は、推古天皇の異母弟であり、在位5年で、蘇我馬子に殺害されて、死亡した当日に葬られている(歴史上、天皇暗殺は唯一であり、死後、もがり がないのも不自然である)。

 崇峻天皇が殺害された後の推古天皇の擁立は、推古天皇の息子の竹田皇子を即位させるためのつなぎとされるが、竹田皇子は、物部氏蘇我氏の戦い(587年)の後、記録がなく、推古天皇が即位する頃、生きていたかどうかわからない。

 こうした経緯から生まれた推古天皇が、593年から628年まで36年にもわたり、74歳で亡くなるまで在位したことになっており、この期間、600年に、第一回の遣隋使の記録が、男の王によって行われたと『隋書』に残り、そのことが『日本書紀』には記録がない。

 そのため、この隋書の「阿毎(あま)多利思北孤(たりしほこ)」は、蘇我馬子とか聖徳太子ではないかと言われている。

 そして、”あま”と発音されるこの人物が、伊勢神宮と伊奘諾神宮の真ん中の植山古墳において、阿蘇のピンク石の石室に葬られているのである。

 しかも、その『隋書』には、阿毎多利思北孤の領地は、「阿蘇山があり理由なく火を噴き天に接し、祷祭する。」と書かれている。

 つまり、阿蘇山が、信仰の山として紹介されているのだ。

 阿蘇山が信仰の山であれば、阿蘇のピンク石を使った大王の墓があっても不思議ではないが、そういった墓が九州にはなく、近畿の真ん中に存在するのである。しかも、継体天皇推古天皇は、有名なわりに、その登場の仕方に不自然なことが多い。

 「隋書」に書かれている600年の遣隋使を送った阿毎多利思北孤は、阿蘇山の記述などから、明らかに九州と関わりが深い。

 しかしながら、この時代、飛鳥に飛鳥寺が作られ、宮が築かれていたことも確かであり、その場所に、阿蘇のピンク石で作られた大王の墓があるのだ。

 この矛盾をどう結びつけて考えればいいのか。

 日本の重要な聖域を結ぶラインを見てみると、九州と近畿と東国が、冬至のラインや東西のラインで厳密につながっていることが確認でき、それぞれの地域が別々に活動していたとは思えず、確かな連携があっただろうことは想像できる。

 しかし、それぞれの存在の仕方は、ヨーロッパの絶対王政のような中央集権的な体制で、近畿を中心に国土全体が完全に統一されていたわけではなかったのかもしれない。

 阿毎(あま)多利思北孤(たりしほこ)」という名前が気になる。アマタリシホコは、アマテラスとか、アメノヒボコ応神天皇の母、神功皇后の祖神で渡来系とされる)という、神話の中の神の名とニュアンスが重なる。

 ”アマ”は、日本古代においては、天とか海を指している。

 飛鳥時代の後、壬申の乱を経て日本を統一し、律令制を築いた天武天皇は、天皇に即位する前は、大海人皇子(おおあまのおうじ)で、海人(アマ)と関わりが深い。

 日本列島の九州と近畿と東国を結びつけるライン上の聖域も、海人と関わりの深いところが大半である。

 宮が築かれた中央政府とは別に、海人ネットワークが日本に張り巡らされていて、中央政府の強力な後方支援を行ったり、自ら前面に立って実権を握るということが、交互に繰り返されていたのだろうか。 

 

 

 

第1133回 早わかり歴史講座の問題点。

先日、友人の写真家のところに行ったら、奥さんが歴史に関心が深くて、オリエンタルラジオというお笑いコンビの中田が、ユーチューブで歴史講座をやっていて、ものすごい数の視聴者がいて、けっこう面白いよと教えてくれた。

 それで、ちょっとユーチューブを見てみた。

 どうやら、近年、数多く発行されている「早わかり日本史」の一つを読んで、暗唱して、ユーモアを交えて、予備校の名物教師のようなパッションで語りかけるという展開になっている。

 その元ネタになっている「早わかり日本史」の内容は、とくに新しい視点があるわけでなく、中学くらいの学校教科書の内容を、かなり薄くして、要点だけまとめてわかりやすくした解説書のようなものだ。ウケている理由は単純で、教科書だと一年かけて習うような内容を、2時間くらいで、いっきょに縄文から平安まで単純化して伝えて、歴史をわかったつもりにさせてくれるから。

 けっきょく、何も知らないという不安を、わかったつもりになって落ち着かせてくれるという程度のものでしかないが、そのまとめ方が真相を歪めてしまっている。つまり、間違ったことを伝えている。

 たとえば、中田は、「古事記について説明させていただきます。古事記には色々とややこしいことが書かれていますが、ポイントはここ。イザナギイザナミがたくさんの神様を産むのだけれど、イザナギイザナミが産んだ重要な神様が、この三つ、アマテラス、スサノオ、ツキヨミです。みんな神様の名前くらい聞いたことがあるでしょ?」みたいなノリで話す。

 ぼんやりと聞いていると、この短いセンテンスを誰も間違っているとは思わない。しかし、大きな間違いをおかしている。

 アマテラスとスサノオとツキヨミは、イザナギイザナミが産んだ神様ではない。この3神が生まれた時は、イザナミは既に死んでいる。死んだイザナミに会うために、イザナギが黄泉の国に行って、醜い姿に変わったイザナミから逃げ帰って、禊をしている時に生まれたのが、海神三神と、住吉三神と、アマテラス、ツキヨミ、スサノオの三神だ。

 イザナミイザナギの二人の神から生まれた神々と、イザナミが死んで禊をしている時に生まれた神々が存在する。この違いがなんなのかを考えることが重要なのだ。禊は何を意味しているのか? 穢れを清めるために禊をするのだが、その穢れは何だったのか? イザナミを死に追いやったカグツチは何を象徴しているのか(一般に言われている単純な火ではない)。

 中田が語っている内容の間違いは、他にも色々あって数え上げたらキリがないが、壬申の乱の前、大海人皇子(後の天武天皇)が逃げた場所が、後に都のできる奈良であるというのも間違っている。正しくは、奈良よりも南の吉野。吉野の国栖と呼ばれる人たちが、大海人皇子を守っていた。国栖というのはどういう人たちなのかというのが重要な鍵。

 奈良というのは農業のできる盆地であり、吉野は山岳地帯。吉野では、農業はできないから、そこに住む人たちは、漁猟や狩猟や鉱山開発などを行って、生活習慣も価値観も異なる人たちだった。彼らは屈強で、水上交通も得意で、武器の資源にもなる鉱山にも通じていた。吉野には、古代から丹生とか国栖と呼ばれる人たちがいて、神武天皇の東征の時にも彼らが力になっている。そして、最初に大海人皇子を支えた人たちは、この人たちだった。天武天皇の死後、持統天皇も、数えきれないくらい吉野に通っている。後の南北朝後醍醐天皇が拠点にしたのも吉野。吉野と奈良は、異なる世界である。

  さらに、普通に聞いていると、ほとんど誰も気に留めない彼の間違いは、シャーマンの卑弥呼が、亀の甲羅で占っていたなどと言うところ。

 『魏志倭人伝』に、卑弥呼が「骨を灼きて以って吉凶を占う」とあるのは、鹿の骨(肩甲骨)のこと。もともと、古代日本では、鹿卜という鹿の骨を焼いて占う方法が行われ、天岩戸の神話でも、イザナギイザナミの国生み神話でも出てくる。

 鹿の骨でも亀の甲羅でも大して変わらないだろうと言う人がいるかもしれないが、亀の甲羅で占う亀卜は、卑弥呼の時代(3世紀)よりもっと後で、5世紀の後半、壱岐の卜部が伝えたものと記録が残っている。

 これは、けっこう重要なことで、これ以降、壱岐の占い師たちが、古代政治のなかで重要な役割を果たす神祇官を構成する主要メンバーになる(壱岐以外は対馬と伊豆だけ)。つまり、彼らは、いわゆる神道と政治を結びつけていく役割を果たし、それが、今日に伝わる神道儀礼のルーツ。神道は単なるヤオロズの神々のことではなく、自然神をもとにしながら政と祭を統合した秩序づくりのシステムで、そのルーツは、亀卜と一緒にやってきた壱岐対馬の人たちと関係がある。なぜ、壱岐対馬なのか、というのも、とても大事なポイント。

 中田は、「卑弥呼って、占いで政治をやっていたんだよ、古いねえ」という感覚だけで喋っているから、亀でも鹿でもどっちでもいいじゃん、ということになる。

 彼は、卑弥呼よりも450年も後、天武天皇陰陽道の使い手であったことを知らないのかもしれないし、奈良や平安時代も、天皇の側近として陰陽師安倍晴明など)がいたことを無視している。陰陽道に占術は欠かせないし、長いあいだ、政治的重要な会議の日時などは、神祇官による占いで決められ、それは、5世紀後半、壱岐からもたらされた亀卜、つまり亀の甲羅で占う方法で行われていたのだ。

 卑弥呼の時代は、亀の甲羅ではなく鹿の骨で占いが行われ、それは、もっと古い時代から続いていた方法だ。占いというのは、単なる山勘ではない。天文や暦を駆使する陰陽道もそうだが、膨大な知識や情報を獲得したうえで、どうすべきか判断をするうえで行われる。壱岐対馬というのは大陸に対する前線基地であり、壱岐の占い師たちは、常に最先端の大陸事情を知るネットワークを持っていたのだろう。5世紀後半以降、ヤ大陸の動向を読むことが、政治的判断のなかで得に重要だったことを裏付けている。

 あと、中田は、縄文人が大陸と陸続きの時に大陸からやってきた人々で、弥生人が、大陸と少しつながっている時にやってきた人々とか、メチャクチャな話もしている。

 縄文時代黒潮に乗って、南から人々がやってきているし、弥生時代の曙は、中国の江南の人たちが、船でやってきた可能性が指摘されている。

 それ以外、空海最澄の話や、武士の始まりや、源氏物語や、呆れるくらい単純化し、真相を歪めている。源氏物語など、明らかに彼は読んでいないであろう内容説明。藤原道長が美男で、プレイボーイで、紫式部の愛人で、藤原道長を主人公に源氏物語のプレイボーイ小説ができたなどと。

 中田は、藤原道長が、蘇我氏とかがやっていた外戚の権力装置を平安時代に復活させたという説明をしているけれど、これも大間違い。

 藤原道長の系譜である藤原北家外戚による摂関政治体制を整えたのは、桓武天皇の息子の嵯峨天皇に仕えた藤原冬嗣、それに続く良房、基経だ。

 そして、桓武天皇外戚として力を持ったのが藤原式家藤原百川。しかし、藤原式家は、藤原薬子の変など、藤原冬家との権力闘争に敗れる。

 藤原道長の登場は、ずっとその後のことであり、彼は、最後の花火を打ち上げたにすぎないし、その結果、貴族社会の寿命も縮めた。

 藤原道長の栄華というのは藤原氏の栄華というよりも、藤原兼家道長の親子一族の栄華だ。

 この一族の栄華は、10世紀の菅原道眞の怨霊騒ぎとも関係している。菅原道眞と対立し、彼を太宰府に左遷したのは、藤原氏の全てではない。藤原兼家の祖父にあたる藤原忠平は、菅原道眞と親交が深く、道眞の左遷にも反対した。

 そのため、道眞の怨霊騒ぎで藤原時平たちが死んだ後、藤原忠平が、長いあいだ、摂政、関白として活躍した。なぜなら、彼の一族だけは、道眞の霊に守られると信じられたからだ。

 この藤原忠平の孫にあたる藤原兼家は、このことを利用した。菅原道眞を祀る北野天満宮を国家の神社に仕立て上げたのも彼だ。さらに、兼家と、その息子の道長は、当時、武士として力を増していく過程にあった源満仲清和源氏の祖)と組んだ。摂津に拠点を置く源満仲、その息子の源頼光に様々な特権を与えて清和源氏の勢力拡大の後押しをしたのだ。その見返りに、源満仲源頼光は、獲得した利権の一部を藤原兼家道長に還元し、武力による護衛も行った。

 藤原兼家藤原道長親子は成長過程にあった清和源氏を利用して権力を強め、財を成したが、その結果、武士が貴族以上の力を持てるような環境を整えたのだ。

 このあたりの歴史背景を丁寧に把握していないと、藤原道長の「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の有名な歌の解釈も間違う。

 この歌は、藤原道長が栄華の絶頂で自惚れている心を表していると解釈しているのは、中田だけでなく、多くの専門家もそうなのだけれど、この歌に対する感受性は、日本文化の真髄に通じるところがあり、これを間違ってしまうと、日本文化への理解が大きく歪んでしまう。

 そして日本文化への理解が歪んでしまうと、日本の歴史の本質もわからなくなり、間違った歴史解釈が広がっていく。

 日本文化の核心には、もののあはれがある。

 なので、藤原道長のこの歌も、”もののあはれ”で読まなければならないし、源氏物語も同じだ。

 この歌は、栄華の絶頂を歌ったものではなく、

「満月を見て、どこにも欠けたところがないと安心できるようであれば、この世も、我が世だと思えるんだけど、(そうはいかんだろう)という意味になる。。

 当時の歌詠みたちは、月を見る時に、月というものはすぐに欠けていく存在だということを承知のうえで、”あはれ”の心情をそこに重ねた。満月を見ても、その状態は刹那的なものだと、当然ながら認識している。

 どこにも欠けたところのない満月を見て、当時の教養人が、「ああ、私の天下だよ」、なんて、下手な歌を読むはずがない。

「望月の欠けたることもなしと思へば」の、”思えば”は、「そう思うんだからね」ではなく、「そう思うことができるならば」と解釈すべき。

 藤原道長は、貴族から武士の時代へと急激に進む流れを止められないことを悟っていたし、当人も、ずっと病気がちで、すぐに政治の一線を退いて出家している。

 ”もののあはれ”というのは、現代の超高齢化社会の問題を超克していくうえで鍵になる世界観なのだけれど、間違った歴史解釈の”早わかり”がメインストリームになると、ますます、その真意は遠ざかっていくなあと、悲しい気分になる。

  しかし、こうした大事なことが、なぜ間違ってしまうのか。その原因は、中田個人だけでなく、今日の歴史研究や歴史学習にも通じる問題でもあると思う。

 なぜ、中田が間違ってしまうのかというと、彼自身の中で、「そんなの別にどっちでもいいじゃん」、という気持ちがあるからだ。

 たとえば、古事記のなかでアマテラスとツキヨミとスサノオが生まれたことが書かれていることが重要で、それがイザナミが死んだ後か、生きている時かは、どっちでもいいじゃんという感覚。

 また、天武天皇になる前の大海人皇子が逃げたのは、奈良か吉野か、逃げたという事実が大事で、その場所がどこかは、どっちでもいいじゃん、という感覚。

 さらに、卑弥呼が占いをしていたことが重要なんだから、みんな覚えておいてよ、その方法が、鹿の骨か、亀の甲羅か、そんな細かなこと、どっちでもいいじゃん、という感覚。

 つまり、並べられた事実を覚えることが歴史であり、その過程や、個々のつながりや流れは、まあどうでもいいじゃんという感覚なのだ。「大化の改新、虫5匹」で覚えているだけで、その内容を知らないでしょ、その内容は簡単に言うとこうだよ、というのが早わかり歴史解説なのだ。

 しかし、歴史は、事実よりも過程や、その背景の方が大事。吉野と平城京のあった奈良盆地の違いがわからなければ、なぜ、どのように大海人皇子が勝利できたかもわからないし、その勝利が何を意味するのかも、その勝利の後に行った改革のこともわからない。

 そうした事実の背景は、正しいか間違っているかは、専門家でさえまだ誰でも明確なことは言えず、これからも探求していくべく未開の領域だ。

 探求しながらより真実に近いものを探していくための”間違い”と、どっちでもいいじゃんという感覚で、この件はこれで終わり、と処理してしまう”間違い”がある。”どっちでもいいじゃん”の間違いは、より深い探求につながらない。

 早わかり歴史講座の問題点は、そこにある。

 

 

 

第1132回 国生み神話や国譲り神話と、「いかるが」の関係。

 ここ数ヶ月、近畿に6箇所ある「いかるが」の地を探索してきた。

 「いかるが」と聞くと、法隆寺のある奈良の斑鳩を思い浮かべる人が多い。

 そして、奈良の法隆寺以外に「いかるが」という地名があると、法隆寺を作った聖徳太子との関係だろうと整理されてしまう。

 しかし、近畿に6箇所ある「いかるが」の地で、法隆寺が、一番古いわけではない。

 たとえば大阪府交野にある磐船神社の周辺も、「いかるが」である。ここは、記紀において、「饒速日命、天の磐船に乗りて天より降りませり。大和に入らんとして天翔り空翔リ河内国嗜ヶ峰に天降りつ」と記された嗜ヶ峰(いかるがみね)の場所だとされている。

 神武天皇が日向からヤマトの地に至った時、物部氏の祖神である饒速日命ニギハヤヒ)は、ヤマトの豪族、長髄彦の味方であったが、長髄彦を殺して神武天皇に従う。その時、自らも天孫神であることを示している。その饒速日命が降臨したとされる交野の「いかるが」の歴史は、法隆寺よりもかなり古い。

 ゆえに、「いかるが」の地は、法隆寺以前から特別の意味を持つ地名であり、法隆寺もその中に組み込まれたと考えた方が自然だ。

 このブログの第1119回 「いかるが」背後にあるもの⑵の冒頭でも書いたように、”いかる”は、洪水を意味する「いかりみず」ともつながり、また感情が溢れ出す怒りであり、それは怨霊や祟りともつながってくる。

 結論から先に述べると、「いかるが」の地は、古代から氾濫を繰り返してきた大河のそばであること。そして、その大河は、災いだけをもたらしたのではなく、農耕などにおける恵みでもあるし、さらに重要な交通路でもあった。渡来人は、大河を通って移動し、新しい技術をもたらした。また、鉱物資源、陶器、木材など、陸路では運びにくいものは、大河があることで、都など様々な地域へとは運ぶことが可能だった。

 西播磨の「いかるが」である揖保郡太子町は揖保川の流域で、揖保川因幡街道をたどれば、古代、早くから渡来文化がもたらされた鳥取因幡とつながっている。そして、揖保川の上流部は、宍粟や佐用など鉄の産地である。

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西播磨の「いかるが」、揖保川流域の太子町の斑鳩寺。

 

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播磨の「いかるが」、加古川流域の石切場に鎮座する生石神社。この竜山石は、仁徳天皇陵をはじめ、大王の石室に使われてた。

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交野の「いかるが」、磐船神社ニギハヤヒが降臨したとされる。



 そして、播磨の「いかるが」とされる鶴林寺加古川の流域であり、加古川の上流部の氷上は、太平洋側から日本海側に抜ける道としては日本でもっとも低い分水嶺で、標高100m弱でしかなく、氷上の地で由良川にアクセスして若狭湾へとつながる。

 また、加古川の支流の杉原川は、谷川健一氏が指摘しているように鉱物資源が豊富な地で、さらに、由良川流域には、大江山など鉄の生産地がある。また、京都府綾部の「いかるが」は、その由良川流域である。

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若狭湾へとつながる綾部の「いかるが」、私市円山古墳は、由良川沿いの高台に、まわりを見渡すように建造されている。る。

 上に述べた交野の「いかるが」である磐船神社は、天の川流域で、古代、渡来人は、淀川から天の川を通り、奈良の地へと入っていった。また、近くに鎮座する星田妙見宮(隕石が衝突した場所)の周辺には鍛治工房の遺跡がたくさん発見されている。

 そして、奈良の法隆寺のそばを流れる大和川は、まさにヤマト王権の中心部と淀川をつないでいた(古代においては、現在の大阪城のところで合流していたが、17世紀、洪水対策で、川の流れが西向きに変えられた)。

 さらに、四日市の「いかるが」の地は、朝明川の上流部が琵琶湖へと通じる愛知川の源流でもある。同時に、長良川木曽川などの大河の下流域にあたる濃尾平野は、古代、舟運でなければ渡れないところで、四日市は、東国へ向かう渡しの場だった。そのため、四日市の「いかるが」は、久留倍遺跡という弥生時代から続く要所であり、壬申の乱の時も、大海人皇子(後の天武天皇)が、この地でアマテラス大神を崇める勢力を味方につけ、戦いの勝利につながった地である。

 こうして見ていくとわかるように、6つの「いかるが」の地は、鉱物資源や水運の重要地であった。そこでは、”いかりみず”=洪水の対策も必要だったし、有力な勢力が支配に置きたい場所であり、その結果、新旧勢力の攻防の地であったと想像することは難しくない。

 実際に、「いかるが」の地は、神話の中で、国譲りや鬼退治、同盟のための御饗(みあえ)が行われた地であり、二つの異なる勢力による対立や和合があったことが、記紀風土記に記録されている。

 加古川の「いかるが」は、第12代景行天皇播磨稲日大郎姫はりまのいなびのおおいらつめ)を娶るためにやってきて、この地の勢力と結ばれた所であり、ここで、ヤマトタケルが産まれた。

 揖保川の「いかるが」は、播磨国風土記の記述では、以前からこの地を拠点としていた伊和大神(大物主と同じとされる)と後からやってきた天日槍が激しい国土争いをした場所である。

 京都府綾部の「いかるが」は、大江山の鬼退治で有名なところで、四日市の「いかるが」は、壬申の乱で、大海人皇子が、アマテラス大神に戦勝祈願をしたとされる場所。これら4つの「いかるが」は、ヤマト王権の中心から離れたところで、東国、丹後、吉備など、古代ヤマト王権の支配が完全に及んでいない地域との境界である。

 そして、ヤマト王権の中心地に近いところに位置するのが、交野のいかるがと、奈良のいかるがだ。この二つの地は、いずれも物部氏が拠点としていたところだった。

 物部氏は、7世紀の飛鳥時代に仏教をめぐる対立で、蘇我氏と戦い、敗れ去った氏族だと教科書で習うが、それ以前の古代史において、6世紀初頭、第26代継体天皇の擁立や、磐井の乱の鎮めるなど重要な役割を果たしていたことは、あまり知られていない。

 しかし、一部の古代史ファンのなかでは、物部氏の謎をめぐる議論はつきない。物部氏は、血縁関係で結ばれた氏族ではなく、職能集団であるという捉え方もある。平安時代藤原氏のように天皇に娘を嫁がせて外戚として権力を握ったという見方もある。

 いずれにしろ、血縁というのは、他氏族との婚姻を繰り返していくうちに特定化できなくなっていくが、先祖から受け継がれた知識と経験と役割と、その方法を守り続ける共同体というものが存在していたことは間違いなく、物部氏は、祭祀と武力を司っていた氏族だと考えられている。

 そして記紀などによれば、その祭祀と武力は、国の動向を左右するような局面で発揮されている。

  奈良の斑鳩の地の東方、天理市石上神宮が鎮座しているが、古代、ここはヤマト王権の武器庫だったとされる。石上神宮は、物部氏ゆかりの神社とされるが、その理由は、この神宮の祭神が、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊であるからだ。

 布都御魂剣は、タケミカヅチオオクニヌシに国譲りを迫る時に用いた剣で、さらに神武天皇がヤマトの地を目指している時、勝利に大きく貢献した剣であるが、神武天皇の治世では、物部氏の祖とされる宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が宮中で祭っていた。しかし、第10代崇神天皇の時、同じく物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が、天皇の命で石上神宮に移し、御神体とした。

 第10代崇神天皇が実在していたかどうかわからない。

 しかし、日本中に数多く神社で、式内社であるがゆえに一千年を超える歴史を誇ることが確かであっても、その正確な起源のわからない神社の由緒に、崇神天皇の時代に創建されたと記されているところが多い。

 また、記紀においても、崇神天皇の時、疫病で多くの人が亡くなった時、天皇は、この災いは大物主の祟りだという神託を受け、意富多々泥古(おおたたねこ)という人物を神主として三輪山で大物主を祭らせ、物部氏の伊香色雄命にも、「天(あめ)の八十(やそ)びらか(=平らな土器。平たい皿様の器)を作り、天神地祇(あまつかみくにつかみ)を定め奉(まつ)りたまひき。」と記録されている祭祀を行わせた。

 さらに宮中で祀っていたアマテラス大神を、宮中に祀ることは不吉だからと、この神にふさわしい地に祀るように命じて、まずは豊鉏入媛が各地を巡幸の後、それを受け継いだ倭姫命が、伊勢の地に至り、そこを鎮座地とした。

 こうして見ていくと、第10代崇神天皇の時代というのは、古代における日本の宗教革命の時代、つまり神々の再編成が行われ、現代まで連なるこの国の祭祀の起源と位置付けれられているように思われる。古代においては祭政一致が自然なことだったから、祭祀が新しく整えられるということは、政治も新しく整えられたということだろう。崇神天皇の時代に、四道将軍によって、吉備、丹波・丹後、東国の征伐が行われたと記録されているのも、それと関係している。

 第10代崇神天皇の名は、古事記において、「はつくにしらししみまきのすめらみこと」とされるが、日本書紀において、「はつくにしらすすめらみこと」と表記されるのが、初代神武天皇なのである。つまり、この二人は、ともに「初めて国を治めたみこと」として位置付けられている。

 そして、この古代における転換期として位置付けられる崇神天皇の時に、新しく定められた聖域、アマテラス大神を祀る伊勢神宮と、布都御魂剣を祀る天理の石上神宮の二つが、古代において、神宮と称する社だった。

 その後、平安時代醍醐天皇の時の延喜式神名帳では、鹿島神宮香取神宮という日本神話のなかで国譲りを迫る神様を祀る社が、神宮に付け加えられた。

 明治時代、天皇や皇室の祖先神を祭神とする神社の一部が、社号を「神社」から「神宮」に改めたため、神宮は急増した。そして、戦後、神社が国家の管理から離れてからは、「神社」のままか「神宮」とするのかは各神社の判断に任せられているので、神道新宗教教団をはじめ、神宮は、どこにでもある状態となった。

 しかし、古代において、神宮は、伊勢神宮石上神宮だけであり、その理由はなんだったのかと考えることも、日本の古代の真相を解く鍵の一つだろうと思う。

 石上神宮は、物部氏と深い関係にある。

 上に述べたように、石上神宮の祭神は、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊で、タケミカヅチオオクニヌシに国譲りを迫る時に用いた剣で、かつ神武天皇がヤマトの地を目指している時、勝利に大きく貢献した剣である。つまり、この剣は、新旧の秩序交代の鍵を握っている。

 石上は、石神であり、石神というのは塞の神

 そして塞の神は、境界の神である。邪悪なもの、他からのものの侵入を防ぐ神。

 物部氏というのは、古代ヤマト王権の中で、祭祀と武力を担っていた。つまり、塞の神のような役割を果たしていたということだ。

 最近訪れている近畿に6箇所ある「いかるが」の地に、物部氏の影が見え隠れするのは、「いかるが」の地が、邪悪なもの、他からの侵入を防ぐ要所であったからだろう。

 交野の「いかるが」、磐船神社は、物部氏の拠点であり、物部氏の祖神、ニギハヤヒが降臨した場所とされる。

 京都府綾部の「いかるが」には、物部町があり、須波伎部神社が鎮座する。スハキは、物部氏の部民で、清掃具などを納めていた掃部と称される農民である。

 加古川の「いかるが」の場合、鶴林寺の西北4kmのところに仁徳天皇陵の石室などにも用いられた竜山石の産地があるが、この場所に、巨大な岩そのものを御神体とする生石神社があり、播磨風土記において、弓削大連(物部守屋)の造ったものと記されている。

 四日市の「いかるが」においては、伊賀留我神社の北5kmのところを流れている員弁川は摂津の猪名部川沿いに住んでいた木工技術を持つ渡来系の人々が移住したところであり、その猪名部氏の祖が、物部氏の伊香我色男命ということになっている。

  最後が、西播磨の「いかるが」であるが、太子町の西北5kmのところに名神大社で播磨三大社の一つ、粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)が鎮座し、祭神が、天火明命(あめのほあかりのみこと)である。

 天火明命(あめのほあかりのみこと)は、物部氏の祖神である邇芸速日命(にぎはやひのみこと)の別名だ。古代、粒坐天照神社周辺は伊福部氏が勢力を誇っており、天火明命を祭神として粒坐天照神社を創建した。

 伊福部氏は産銅もしくは産鉄に関係する氏族である(谷川健一著、青銅の神の足跡・1989)。『因幡国伊福部臣古志』によると、伊福部氏は、物部氏が祖となっている。血統として伊福部氏が物部氏なのかどうかはわからないが、物部氏という勢力が担っていた役割の中に組み込まれていたことは間違いないのだろう。

 もし崇神天皇が実在していたとしたら、その時代は、4世紀のことと考えられるので、古墳時代の前期後半から中期だ。なので、実際に神宮の立派な建物が作られたのは、もう少し後のこと。

 なので、現在の立派な本殿よりも、神話に記述がある場所自体に大きな意味があるということになる。

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石上神宮の本殿の東は禁足地になっており、この先に、祓戸神社あり、さらにその先に、石上神社が鎮座する。本来の石上神宮は、そこに鎮座していた。中世、この一帯は、真言密教の寺院となり、石上神宮もそこに吸収されていた。

 現在の石上神宮は、本殿の裏に通じる道があり、そちらの方に足を運ぶと、とてもいい風の流れを感じる。そして、そこから先、道は通じているのだが禁足地となっている。その森の先には、祓戸神社が鎮座している。そして、そのさらに先の方、桃尾の山の麓に石上神社というのが今も鎮座しており、実は、このあたりが、本来の石上神宮の鎮座地だった。

 中世、ここには広大な真言密教寺が建設され、石上神宮は、その懐に取り込まれた。

 そして、この本来の石上神宮の場所は、ヤマトの聖山である三輪山の真北にあたる。三輪山も、崇神天皇の時、大物主の祟りを鎮めるために、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が関わって祭祀を行った場所である。そして、元の石上神宮三輪山の南北ライン(東経135.87)は、古代の重要な聖域が並ぶ特別のラインである。

 このライン上には、大津の日吉大社や、奈良の春日山吉野山、さらに修験の聖地、大峰山系が位置している。

 そして、石上神宮から真西に行くと、本居宣長が、イザナギイザナミの国生みの時に最初に作った島、オノゴロ島でないかと指摘する淡路の岩屋の絵島がある。

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淡路、岩屋の絵島。本居宣長は、ここが、イザナギイザナミによる国生みの最初の地、オノゴロ島だとする。

 オノゴロ島の候補地は、他にも幾つかあるが、その一つ、淡路島の南沖にある沼島は、世界的にも極めて珍しい『1億年前に出来た地球の“しわ”』である『鞘型褶曲(さやがたしゅうきょく)があり、その地勢的な特徴から、国生み神話にふさわしいと考えられるが、それに対して、もう一つの候補地、岩屋の絵島周辺は、大規模な褐鉄鉱の産地である。

 褐鉄鉱というのは、水酸化鉄のことで、砂鉄の磁鉄鉱や鉄鉱石の赤鉄鉱よりも不純物が多いために品質としては低いが、縄文土器を焼くくらいの温度でも溶かすことができるため、かなり初期段階(縄文時代という説もある)から、鉄の道具を作るために利用されたものだ。しかし、農具としては使えても、武器としての使用は難しい。

 褐鉄鉱は、銅と錫の合金である青銅と同じように縄文土器を焼くぐらいの温度で溶融するため、道具の作り方としては、後の時代の鍛治のような鍛鉄(高温で焼いても溶けない金属をハンマーで叩いてのばして形を作る)ではなく、鋳鉄(粘土を焼いて型を作り、そこに流し込んで形を作る)という方法が用いられる。

 流し込んだ褐鉄鉱や青銅が冷えて固まると、その粘土型を壊して金属製品を取り出す。銅鐸などの青銅器もそのように作られたのだが、外側の粘土の殻を破って眩い金属製品が出てくるので、そのイメージが、”さなぎ”と重ねられた。

 伊賀の佐那具や伊勢の佐那といった地名でもそうだが、”さなぎ”の地は、鉱物資源と関わりが深い。

 淡路島を目の前に望む兵庫県明石市明石川の河口にイザナミ神社が鎮座し、地元の人は、古くから”さなぎ”と呼んでいるのだが、イザナギイザナミの、”さな”という言葉も、原始の金属器の製造と関係しているという説を述べている学者もいる。(古代の鉄と神々:真弓常忠著)

 その原始の鉄生産と関わりがあると考えられる褐鉄鉱の産地で、かつイザナギイザナミによる国産みで最初にできたオノゴロ島の候補地の一つ、絵島のある淡路の岩屋と明石は、潮の流れの早い海峡をはさんで3kmの距離で、水深は100mしかない。明石は、かつて赤石という地名だったが、おそらく、岩屋周辺の褐鉄鉱の地層が、明石にも及んでいた可能性が高い。なぜなら、明石港近くにある龍の湯という温泉の泉質は、鉄分が豊富で、赤茶色に濁っているのだ。明石の地下は、今でも鉄資源が豊かなのだろう。そして、岩屋の絵島から北上すると明石を通って三木市となるが、三木は、現在でも金物製品で知られたところで、今でもノコギリのシェアは全国の15%もあり、古くから鍛治が盛んだった。この三木市明石市の境界あたり、明石川上流沿いの丘の上に鎮座するのが、可美真手命(ウマシマジノミコト)神社であり、神武天皇の治世において、現在は天理の石上神宮の祭神である布都御魂剣を宮中で祀っていたとされる物部氏の祖のウマシマジノミコトの聖域である。

 

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可美真手命(ウマシマジノミコト)神社

 この可美真手命神社は、雄岡山と雌岡山という鉄資源とも関わりの深い古代からの聖域を目の前に望む丘の上に位置しているが、その場所は、淡路の岩屋の絵島の真北(東経135.02)であり、交野の「いかるが」、磐船神社の真西であり、(北緯34.74)、さらに鶴林寺のある播磨の「いかるが」の真東なのだ。

 磐船神社の祭神は、ウマシマジノミコトの父と位置付けられるニギハヤヒであり、東西のラインで結ばれる交野と明石川上流が物部氏で深く関係しており、その明石川の河口の対岸の岩屋の絵島が、イザナミイザナギによる国生みの最初の地なのである。

 物部氏の祖とされるニギハヤヒは、天孫降臨を行った神として知られるニニギ(神武天皇の曽祖父)よりも前に地に降りてきた存在で、神武天皇が東征を行った時に、ヤマトの地を譲り渡す神として神話では描かれる。

 物部氏が、淡路の絵島で象徴される褐鉄鉱という原始的な鉄製品とも関係があるとすれば、そしてその絵島が、イザナミイザナギの国作りの起源だとすれば、かなり古い段階で、新しい技術を日本列島にもたらして新しい秩序を作り上げることに関係する勢力であり、その後、褐鉄鉱よりも質の高い金属製造技術を持った人たちがやってきた(神武天皇の東征で象徴される)時に、国譲りを行った。国譲りなので攻め滅ぼされたわけではなく、その後は、ニギハヤヒの息子であるウマシマジが、神武天皇の側近として、国譲りの象徴すなわち新たな技術の象徴である布都御魂剣を宮中で守る役割を担うことになった。

 さらに、第10代崇神天皇の時、同じ物部氏伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が、天皇の命を受けて、布都御魂剣を、ヤマト王権の武器庫である石上神宮に遷して祀ったということになる。

 その物部氏が、近畿に6箇所ある「いかるが」の地に関わりを持っているということは、「いかるが」が、新しい技術に伴う国譲りの要所であったということではないだろうか。

 

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「いかるが」の地と、イザナミイザナギによる国生みの最初の地オノゴロ島と、物部氏のあいだに深い関係が見られる。物部氏の祖神、ニギハヤヒ降臨したとされる交野の「いかるが」である磐船神社から真西(北緯34.74)に行くと、明石川上流に可美真手命神社があり、ニギハヤヒの息子で、布都御魂を守っていたウマシマデが祀られている。その真西に加古川流域の「いかるが」鶴林寺が鎮座している。可美真手命神社の真南(東経135.02)が、オノゴロ島候補地の絵島(淡路島の岩屋)である。そして絵島の真東(北緯34.59)に行くと奈良の王子町で、鬼退治の元祖とも言える孝霊天皇の陵があり、これが、法隆寺一帯の斑鳩の地でもっとも古い聖域である。この孝霊天皇の陵の真北が、交野の「いかるが」磐船神社であり、真東が石上神宮石上神宮の真北が三輪山である。

 

 

第1131回 無念を承知の人生。

 池袋で、鬼海弘雄さんの供養のための飲み会が終わった。鬼海さんの本当の供養は、という話となった。鬼海さんが、あちらの世界で、もっとも喜ぶであろうことは?
 人は、この世を去ることで、良い意味で悪い意味でも。その存在が、永遠となる。人は亡くなっても、間違いなく生きている人間の記憶の中に存在し続けているので、たとえば、自分が何かをする時に、あの人が生きていたら何と言うだろうと考えることもある。
 古くから日本人は、死んだら誰もが仏になるとしてきたが、亡くなった人でも、あの人が生きていたらどう言うだろうかと考えてしまう人と、まったくそういうふうにならない人がいる。やはり、この違いは大きいのではないかと思う。
 そのように故人のことを振り返る時は、その人の地位とか名声とは関係なく、その人の生き様が偲ばれる。
 人は、死んでしまったら、地位も名声もお金も関係なくなるが、その人の生き様が美しいものであったかどうかは、後々までけっこう大きな意味合いも持つように思う。
 生き様の美しさに対する判断は、人それぞれという見方もあるが、果たしてそうだろうか。
 人それぞれ、すなわち価値観の多様性ということで煙に巻かれることが多くあるが、人は誰でも根本的には同じということもある。
 そして、歴史を振り返ってみても、生き様の美しさとして語り伝えられているものの多くが悲劇なのだが、悲劇が、時代の価値観を超えて、人々の心を打つ何かしらの力を秘めていることは確かだ。
 今日、小栗さんが、映画を作ってきたことは、無念を積み重ねてきたことにすぎない、という言葉をポツリと発した。
 小栗さんは、カンヌのグランプリを獲得するなど、客観的に見れば、映画監督として成功者だと見られるが、当人は、まったくそうは思っていない。
 無念を承知で作り続けることは、見返りのないことを承知で作り続けるという、ある種の悲劇性を帯びている。
 いったい何のために?
 それはもう、その人の美意識、生き様というしかないが、信頼できる表現者というのは、無念を承知で作り続けている人だ。
 鬼海さんもまた、計り知れない無念の思いを積み重ねて、写真を撮り続けていただろう。
 何かしらの見返りを前提に、ということが透けて見えるような底の浅いアウトプットや、媚びた迎合が氾濫しているが、そういうものに心を預けていると、自らの生き方を判断する力すら失ってしまう。
 

 

 

第1130回 魂の交流と、天命

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お使い帰りの兄妹 撮影:鬼海弘雄

 生前、私を同志と言ってくれた鬼海さんは、2020年10月19日、75歳で逝ってしまった。

 そして、若造の私にとって恩師だった日野啓三さんは、2002年10月14日、73歳で他界された。鬼海さんも日野さんも、ほぼ同じ年齢で、同じ季節に旅立たれた。

 日野さんが亡くなって1ヶ月ほど経った時だろうか、写真家の野町和嘉さんの所に行った。野町さんとは、それ以前、一度だけ仕事をしていた。私が、有楽町マリオンを使って企画したイベントで講演を依頼したのだ。

 日野さんが亡くなった後、野町さんのところに行ったのは理由があった。日野さんは写真が好きで、とくに野町さんの写真を、二回、表紙カバーで使っていた。「砂丘が動くように」と「どこでもないどこか」という小説で。

 それで、日野さんの死の報告と、私が、素人ながら自分の思いだけで作った日野さんの遺著「ユーラシアの風景」を野町さんの所に持っていった。大手出版社から「書くことの秘儀」という本が後で出版されたけれど、原稿としては、「ユーラシアの風景」の中の「北欧の奥行き」という短編エッセイが、日野さんの絶筆だった。

 野町さんと色々話をしている中で、なぜか、出版社の経験のない私が雑誌媒体を立ち上げることになった。それは無理でしょと言っても、これ(ユーラシアの風景)ができるんだったらできるだろう、と強引に。

 私は、野町さん、トチ狂ったこと言っているなあという思いを抱えて帰宅して、そのまま放置していたのだが、それから10日くらい経った時か、野町さんから電話があり、「あれ、進めているか?」と問い詰めてきた。そんなに簡単に始められるようなことではないだろうに。仕方ないので、私は、たしか3日くらいで企画書を作った。とくに深く考えたわけではなく、日野さんの影響を受けて知った偉大なる人たち、20世紀の碩学白川静さんや、川田順造(人類学)さん、河合雅雄(霊長類学)さん、養老孟司(解剖学、脳科学)さん、松井孝典(惑星科学)さん、日高敏隆(動物行動学)さんなど、今、冷静に考えれば恐ろしい人たちをズラリと書き出し、その人たちに書いて欲しいことをポイントで明記しただけのこと。まさに若気の至りで、これらの人たちとまともに話ができていたのかどうか疑わしい。

 テーマは、「森羅万象と人間」FIND THE ROOT つまり、根元に立ち還れ、とした。

 それを野町さんに送ると、うん、内容はいいんじゃない、と軽く言われた(ふつうなら、こんな豪華メンバー、実現するんか?とか言うだろうに。実際に、企画書を送った白川静さんでさえ、「あんた、こんなの実現するんか?」と最初に聞かれたし、河合雅雄さんは、「白川さん、やるう言うとんのか?」 というのが、返事の第一声だった。)。

 そういうデリケートな事情には無頓着に、野町さんは、「内容はいいけど、雑誌だから、先の企画もしておかなければ準備できないだろ」と威圧的に言うので、第一回は「天」、その次は、「水」、次が、「森」、とか、適当に決めた。あとは、走りながら考えればいいや、という気分で。

 そうすると、野町さんは、これでいいんじゃないか、レッツゴーみたいな乗りで、私は、野町さんの仕事場にあった写真集とかを見ながら、写真家はこの水越さんがいいなあとか邪念なく決めていった。私は、写真家との付き合いは、それまでは野町さんと関野吉晴さんしかなかったけれど、真に心に訴えてくる写真を受け止めることはできていたと思う。

 それで、協力してくれることになった水越さんに会うために北海道の屈斜路まで行くと、水越さんも呑気な感じに、それで、どんな雑誌になるんですか?と聞くので、ナショナルジオグラフィックを大きくした感じですよ、と適当に答えると、「それはすごい」と無垢に賛同してくれた。それで、水越さんの仕事場にある膨大なポジを見ることになって、私が、写真をいろいろと見ていると、水越さんは目の前に座って、こちらをじっと見ている。やりにくいので、一人にしてくださいと言い、3時間くらいかかって選んで、これでいきますと伝えると、20点くらいのオリジナルポジを持ち帰らせてくれた。ポジは一点しかないもので、ふつうは複製したりするけれど、初対面なのに、丸ごと預けてくれた。飛行機に乗って持ち帰る時、けっこう緊張した。

 その水越さんが、このたび、北海道功労賞を受賞され、なぜか私が、今月の中旬、贈呈式で、水越さんを紹介するスピーチをすることになった。他の受賞者は、バイオや、ガンの研究者。参列者は、主に行政の長や、外国公館総領事、報道機関の長など堅苦しい肩書き。なので受賞者の紹介者も、立派な肩書きの人たち。水越さんもそういう知り合いはいるはずなのに私を敢えて指名するというのは、私が、立派な肩書きの人たちよりも水越さんの表現を理解しているからで、この選択もまた水越さんならではのセンスなので、私も、その水越さんの流儀にそった役回りをと思っている。

 それはともかく、日野さんが亡くなって半年になる前の2003年4月、風の旅人を世の中に送り出した。おそらく、あの日、野町さんのところに行かなければ、「風の旅人」を作るなどという大それた発想にはならなかった。

 なにかに背中を押されたようにして始めた「風の旅人」で、あの時、ああいう大胆な動き方をしていなければ、小栗康平さんにも、鬼海弘雄さんにも出会うことはなかっただろう。

 小栗康平さんや前田英樹さんとは、2005年くらいから、10年以上、ほぼ毎月に一度、小栗さんの次の映画の構想のためにという建前で、池袋のうどん屋で飲み会合をしていた。

 この7、8年くらいか、頻度は減ったが、鬼海さんも加わるようになった。2、3年ほど前までは、鬼海さんもお酒を飲んでいた。鬼海さんは、私が京都に移った後も、そうして知り合った前田さんの剣術の道場まで、けっこう遠いところなのに、出かけて行ったりしていた。

 前田さんが、鬼海さんの供養のために飲もうというので、コロナ禍の前、昨年の年末以来、久しぶりに明日、池袋のうどん屋に集まる。

 昨年の年末、鬼海さんが、私の背中を押してくれなかったら、「Sacred world」日本の古層vol.1も作っていなかった。なぜなら、私は、本という形にするのは、鬼海さんのように最低でも10年取り組んでからと思っていたので。でも、鬼海さんは、「今、形にしなければ、整理できなくなるよ、もう十分、その段階にきている」と力強く言ってくれた。他の誰かではなく鬼海さんに背中を押されたことが大きい。そして、内容や人の評価はともかく、形にしてよかった。形にすることで、自分がやっていることを整理できて、手応えも感じ、一歩前に進めた。

 そして、鬼海さんの言葉を受けてすぐに取り組んだから、完成品を、まだ元気だった鬼海さんに見てもらうことができた。今思えば、天命だったのだと思う。

 「風の旅人」の場合も、他の誰かではなく野町さんに背中を押されたから始まった。

 優れた写真家は、なにかしら強い直感力と、その直感に基づいて行動する瞬発力や、その行動を成就させるための気迫がある。もちろん、そういうオーラを受け流してしまう人もいるだろうが、私は、たぶん、彼らのオーラの受容体になりやすい体質なんだろう。彼らの強いオーラを自分のエネルギーに転換する体質。「風の旅人」の場作りはそういうものだったし、その場作りは誌面の上だけのことではない。魂の交流という言い方が、なかなか通りにくい世の中になっているが、消えてしまったわけではなく、間違いなくそういうものは存在しており、そのことに敏感であれば、自ら特に意識しなくても、しかるべき道はできていくのではないかと思う。

 鬼海さんは、表現も、人間関係も、魂の交流だけをもとに行っていた。死の数ヶ月前、病院に見舞った時も、ベッドのまわりにたくさんの本があったのには驚いた。抗がん剤で苦しい状況だろうに、よくも読書ができるねと。そして、それらの本は、暇つぶしのようなものは一冊もなかった。鬼海さんは、魂に触れるものを求めるということにおいて、最期まで一貫していた。

 

 鬼海弘雄さんが、40年かけて撮り続けてきた東京の街並み

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第1129回 撮ることの秘儀  鬼海弘雄さんの写真について

 

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 鬼海弘雄さんの写真で素晴らしいものはたくさんある。

 その中で、例えば、この一枚の写真には、鬼海さんの人柄や、哲学、そして写真の凄さ、写真表現だからこそ可能なことが、ぎゅっと詰まっている。

 これは、鬼海さんが、トルコのアナトリア地方を旅している時の写真だ。

 ゆるやかな坂をたくさんのアヒルがヨチヨチと歩いて登っており、その前方にイスラム世界特有のモスクの尖塔がそびえ、そのそばに古びた自動車が停車している。そして、自動車の前方には、見晴らしの良い高台から風景を眺めるためか、一歩一歩、確かな足取りで歩いている1人の男がいる。

 そして、その上空に、ぽっかりと浮かんだ気球。

 これらのものたちは、この一枚の写真の中で、どれ一つ欠けてはならないものたち。

 そして、どれもが、鬼海さんの愛するものたちだ。

 イスラム世界を旅していると、天空にまっすぐに伸びる尖塔を持つモスクの姿を目にしない日はない。

 それはまさに天と地を結ぶ垂直の軸であり、敬虔なイスラム教徒の魂の中心にはその軸がある。その確かな軸があるかぎり、繰り返される日常のなかで、空虚を感じたり、自分を見失うことはないだろう。信仰の深さとは、そういうものだ。

 本物の表現者もまた、自分だけの垂直の軸を魂の中心に抱いている。それは、信仰という言葉より、信念と呼ぶべきもので、信念があるからこそ死を賭する覚悟もある。世俗的な名声や金銭のために魂を売ったりはしない。

 そうした純粋なる精神を鬼海さんは愛していたし、鬼海さん自身も、そういう人だった。

 しかし、鬼海さんの懐の深さはそれだけに止まらない。

 鬼海さんは、天のことなど無頓着に右や左と余所見をしながら、地べたを這いつくばるようにマイペースで歩んでいる無垢なる存在も温かく見守っていた。気取りがなく、自然体で、けれども何かに驚くとパニックになって逃げ惑う、あどけないアヒルのようなものたち。

 そして鬼海さん自身は、そんな天と地のあいだを彷徨う魂の旅人だった。気球のように世界を俯瞰しながら、世の中の硬直した基準に囚われることなく、偏見のない目で様々な物事を見つめていた。

 しかし、ただ風に流されるだけではなかった。やはり、一歩一歩、自分の足で確かな足取りを刻んでいくことの大切さを鬼海さんは意識していた。流行に流されず、たとえ遠回りすることになっても自分のやるべきことを深くやり抜くこと。自由というのは、風の吹くまま、とか、自分の好きなように、という程度の生易しいことではなく、厳しさを引き受ける覚悟のできたチャレンジこそが本質。

 そうした魂の冒険には、相棒も必要だ。相棒は人に限らず、使い込んで身体の一部になった道具も含まれる。しかし、道具というのはあくまでも後ろから自分を支えてくれるものであり、それを使う人間の主体性の方が大事だ。

 最新式の自動車など新しいものに目を奪われるのは人間として仕方ないこと。しかし、その新しいものが、近道を行くためや、虚栄、すなわち自分をごまかすうえで都合の良いものにすぎないのなら、長い目でみれば、かえって自分を貶めるものとなる可能性が高い。鬼海さんは、目新しいものよりも、使い込まれたものに強く親近感を覚えていた。カメラも、ずっと同じものを使い続けていた。本当に信頼に値するものは、自分自身の心と身体で時間をかけて確認していくものなのだ。

 さて、鬼海さんの写真の凄さというのは、ここからが核心である。

 鬼海さんは、あまりシャッターを切らない写真家だが、シャッターを切らない時も、ずっと考え続けているし、写真ではなく文章でもアウトプットを行い、自分の考えを整理し続けている。そのようにして熟成された自分ならではの世界がある。

 それゆえ、鬼海さんが、シャッターを切る時というのは、当然ながらただの風景や人物や事物ではなく、鬼海さんの中で熟成されている”かくあるべき世界”が開示されている瞬間なのだ。

 鬼海さんは、イスラムの尖塔が示すものと、アヒルたちの歩みという一見相反するようなものが調和した状態こそ、世界なのだと一枚の写真で見事に示している。

 どれか一つの要素を偏愛的に愛して、その部分にだけ焦点を合わせている人は、この世にたくさんいる。自分が信じるもの以外は一切認めない、または無関心という頑迷さや偏狭さで。それはなにもイスラム原理主義者に限らず、科学絶対主義の学者なども同じだし、特定ジャンルの権威と祭り上げられている表現者も同じだ。 

 しかし、この鬼海さんのアナトリアの写真の中から、アヒルか、イスラムの尖塔か、気球か、1人の歩く男か、自動車か、どれか一つの要素を取り除いてみればわかるが、一瞬にして何とも味気ないものになってしまう。

 モスクの尖塔の直線と、アヒルの曲線があるから全体の線が豊かになり絶妙なるリズムが生まれる。自分の足で歩いている男と、停止している自動車と、浮かんでいる気球があるから、画面に大きな時空が生まれる。どれか一つだと、それは世界ではなく、カタログのような断片的情報にすぎない。断片的情報の提供は、写真家の仕事ではなく、商業的カメラマンの仕事だ。

 たった一枚の写真で、これだけ世界の真髄を伝えられることが、写真表現の凄さであり、これができる人が写真家という称号にふさわしい。そうでない人が、写真家と名乗るのはおこがましい。

 そんな呼び名はどうでもいいが、本来、神話というものは、この鬼海さんの一枚の写真のように、世界の本質的な有様を開示するために創造されたものだった。

 なので、実証主義という偏狭な価値判断にあぐらをかいた専門家が、神話は史実ではなく作り物にすぎないと主張して威張っているのは、とても滑稽な現象としか言いようがない。

 証拠が出揃って証明できることが、世界の真髄だと思ったら大間違いだ。

 このアヒルたちが、いったい何を考え、何を求め、お尻を振って歩いているのか、的確な説明をして、その証拠を示すことができるのだろうか。

 あどけない表情の鳥類は、官僚的組織のルールに縛られている自らを万物の尺度とする狭い了見の輩たちなど無関係に、人類より遥かに長い時間を地上で生きているのだ。

 世界は、かくも興味深く、謎に満ちて、豊かにそこに存在している。神話が語り継いできたことは、そのリアリティであり、鬼海弘雄という写真家は、近代主義の中で生まれた写真表現を通して、この時代に息づく神話を開示してきた。

 その真価は、人間の自己中心的な世界像を優れたものとみなす近代主義が、みっともない時代遅れと感じられるようになった時、よりはっきりとするだろう。

 

 

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