情報と自分の未来の関係

 Facebookのエントリーで、ちょっとした議論があり、議論を通して、情報伝達の意味とか意義を改めて考えることになった。
 私がとっている情報提供のポジションは、「正しいことを伝える」という裁定者の立場ではなく、常に、「こんなんでいいの?」「こうなんじゃないの?」という思いから生じる揺らぎであり、言葉というのは、そういう風に使うものだという感覚がある。
 現状分析ではなく、現状を、今よりも一歩でもよい方向へ、という思いのこもったマントラであるかどうかが大事で、それがたとえ夢物語という形の暗喩でもいいと考えている。
 だから、情報発信をする時、断片的情報を右から左に伝えるだけではなく、そこに何かしら自分のイメージなり解釈を乗せる。
 解釈の正しさというものを意識しすぎると、みんな右へならへの報道になる。”正しさ”に揃えようとする情報伝達は、たとえ悪意がなくても、もしもその正しさが間違っていたら、けっきょくすべてが間違いに導かれる。
 生物というのは、そういう情報の揃い方に本能的に危機感を感じるらしく、そうならないように予防策をとっている。しかし、パニックに陥った際は、その予防策を放棄して集団自殺と言えるような狂った行動をとってしまう。
 たとえばニホンザルの群れの中で強力なボス猿が君臨しているが、その群れの子供は全てボス猿の子供だと、以前の私は思っていた。しかし、最近のDNAによる研究では、群れの中にボス猿の子供は一匹もいないそうだ。ニホンザルの群れの中ではメス猿は群れから離れられず、ボス猿に守ってもらわなければならないから、発情期以外の時はボス猿に交尾をさせる。しかし、全ての子供がボス猿の子供だということになると、ボス猿がいない時に他のオス猿に子供が苛められるかもしれない。だから誰の子供かわからないようにする必要があるのかもしれない。また、いくらボス猿が腕力に優れていても、遺伝子に何か問題がある可能性もある。そのボス猿だけの子供しかいなくなってしまったら、群れとしても危機的なことであり、リスクヘッジをしておかなければならないという生命の意志が働いているのかもしれない。それ以外にも、飽食状態よりも飢餓状態の方が精子の受精力が強いという話もある。確かに、種が飢餓状態という窮地にあれば、より多くの個体を生み出して確率的に危機を乗りこえようとする働きが生命の中に宿っていてもおかしくないという気がする。難民キャンプもそうだが、発展途上国出生率が異常に高いが、その理由として他にすることがないからとか、避妊の知識がないからなどと説明する人もいるが、もしかして、生命体としての自然の反応かもしれない。ならば我が国の少子化問題の根は、政府が言っているようなことだけでは解決できないかもしれないし、自然のことと受け止めて、ならばどうするかと考えた方がいいかもしれない。
 それはともかく、ニホンザルの群れだけをみても、健全な生物というのは、一極集中にならないように、いろいろと自衛策を講じている。また、ボス猿の子供がいないという新たな情報によって、我々は、これまでの正しいとされてきた情報に基づく世界観を覆される。
 人間にとって情報とはかくも重要である。だからといって正しいことだけを伝えなければならないのではない。今の正しさは、しばらくして、ひっくり返る可能性があるし、ここにこう書いている瞬間から、別の角度で見ればすでに間違っているかもしれない。
 情報は、正しいことを伝える為のものではなく、正しいと認識されていることの周辺に、その背後に、今の自分が認識できていない色々なアヤシイものがあり、そのアヤシイものが自分の生命の可能性に影響を与えてくるかもしれないということを前提に、そのアヤシイものへの想像力が喚起される方法で取り扱われるべきではないかと思う。
 人が言っていることを右から左に伝えるような伝言ゲームは、正確に伝えたと思っていても、大きく食い違っていくものであり、そのように伝言ゲーム化した今日の大衆メディアの情報に対して、正しさを求めてもしかたがない。
 さらに、陰謀とまでいかなくても、スポンサーあっての大衆メディアということは周知の事実であり、そこに所属している個人が、自分の価値判断だけで情報発信できるなどと無防備に考えている人は少なくなっているだろう。記者の原稿がデスクにボツにされたり、デスクの意向が幹部に覆されることは、普通にあることだろうと推測できる。
 だから、それが事実かどうか、それがいいとか悪いとか、今さら議論しても始まらない。
 そんなことよりも、そういうこともあるかもしれないと踏まえて、大手メディアの情報と接することは、人間という、情報の影響を受けやすい生物が、後になって後悔したり、あの時は騙されていたと地団駄を踏まないための、賢明な自衛策だという気がする。
 そのうえで、自分にとっての真は、そんなところにはないという自恃が必要だろう。
 自らを恃むためには、けっきょく自分である程度のリスクをとって色々と経験していくしかない。その経験のたびに、誰か他人が決めた尺度ではなく、自分の尺度を仮決めして、トライしながら仮決めの尺度を修正していくという当たり前のことを続けて、自分にとっての真を追求していくしかない。大衆メディアの情報に限らず人のことを鵜呑みにすることは、素直というより、ある意味で、自分自身に対して不誠実、もしくは怠慢なだけだろうと思う。
 そのようにして自分にとっての真を追求していく過程で用いる言葉は、常に、「こんなんでいいの?」「本当はこうなんじゃないの?」という、自分自身に対する問いとなる。
 その問いは、自分が存在する世界の現状分析ではなく、自分と世界の関係を、今よりも一歩でもよい方向へという思いに裏打ちされたもの。
 その言葉は、どんなに論理を尽くそうとも、決定事項ではなく、未来の暗喩でしかない。だから、言葉を発信しながら、その言葉の先に立ち上がる未来の形を、自分で漠然とイメージすることになる。そのイメージは、具体性がないものの記憶の中に留まり、その記憶イメージが、未来のある瞬間、現実世界の具体的な事実や情報と合致する瞬間があり、だからこそ、ある種の確信を持って、人の意見に惑わされることなく、その事実を選び取っていく。
 「未来は自分の記憶の中にある」というのは、そういうことだと思う。



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