第1040回 日本の古代史につながる身体感覚

 ひさしぶりに、京都の家の近くにある温泉に入り、ぐっすりと眠り込んだ。

 一昨日、和歌山の日前宮を訪れた時、和歌山市内に、関西最強と言われる花山温泉があった。関西最強とされるのは、その含有成分の多さで、温泉水に溶存物質が1000mg/kg以上含まれていれば「療養泉」として認められるが、「花山温泉」はその16倍を超える16000mg/kg以上。しかも、二酸化炭素・鉄-カルシウム・マグネシウム-塩化物・炭酸水素塩泉と様々なミネラル分が含まれ、その色も独特だ。このような特別な温泉がある理由は、おそらく、地下活動の盛んな中央構造線上にあるからだろう。

 この温泉のすぐ隣に県内最大の鳴神貝塚があり、さらに、国内では最大規模の群集墳で、700を超える古墳が集中する岩橋千塚古墳群が近くにある。

 花山温泉は古代から存在していたらしく、温泉のあるところは、聖所が多い。当然だと思う。1日の労働の後に、ゆったりと温泉に浸かれるなんて、これ以上の贅沢はないし、禊としても使われただろう。私が通っている近所の温泉も、神社の隣(たぶん昔は境内)にある。

 和歌山市を訪れた理由は、日本のことをもっと深く知りたいという古代探索の一環だが、次の出来事があったからだ。

 1月8日のエントリーで書いたのだが、今年の正月の明け方、空に光の玉が走るのが全国で目撃され、その後、熊本に地震が起こった。太陽黒点が激変し、太陽活動の低下に伴って太陽風によるバリアが弱まり、銀河宇宙線が、大量に太陽圏内に侵入してきた。その頃から、私の友人のうち敏感な人たちの体調が悪化していた。そのうちの一人、和歌山に住む若い友人は、理由もわからず失神しそうになり、私に電話してきた。身体と感性が過剰に敏感になり、周辺を移動する時にも、ものすごく気持ちが晴れ上がって恍惚とするところと、息苦しくて気を失いそうになる所があると言う。いったいどういうことなのだろうと思い、ぜひとも、それらの場所を訪ねてみたいと思ったのだ。

 すると、日本の古代史とも通じる、とても不思議なことが浮かび上がってきた。

 彼は、和歌山市にある古代からの聖所、日前神宮、国懸神宮のそばに住んでいる。

 この神社は、伊勢神宮と同じ鏡を御神体とするとても古い神社で、中央構造線近畿地方の西の端に位置している。東の端が伊勢神宮、真ん中が吉野であり、いずれも、古代から水銀とゆかりのある場所だ。水銀の存在を示す丹生という地名や神社が無数にある。

 ピュアな水銀は、現在でも漢方として用いられるほどだが(水銀の化合物である有機水銀は毒)、古代から、薬や顔料、そして金属の冶金に使われていた。

 和歌山市内の日前宮は、鳥居をくぐった正面の地に結界が張られていて、中に入ることができず、今は、社殿もなく、二つの灯篭が立っているだけだ。そして、メインとなる本殿は、その場所から左右に分かれて二つ、日前神宮と国懸神宮がある。日本でも最も古い神社の一つだが、それぞれの祭神である日前大神、国懸大神がなんのことかよくわかってない。そして、それぞれ、日像鏡と、日矛鏡御神体としている。

 これらの鏡は、伊勢神宮御神体の鏡の前に作られたけれど、あまり見栄えがよくないという理由で、天の岩戸からアマテラスを引き出すために使われなかったものだ。

 正月に身体に異変を感じた私の友人は、鳥居をくぐってまっすぐに歩いて、左右の分かれ道に来た時に強い神気を感じ、前に進めなくなった。今は何もないその空間のところに引き込まれそうだと言う。その後、左右の本殿を訪れても何も感じず、また最初の神気の強いところに戻ってきて、ここに何があるのだろうかと、結界の周辺をウロウロしていたら、突然、眩しい感じ、頭上を仰ぐと、ちょうど南中の太陽が、鳥居の上に出ていた。時計を見ると、11時57分で、正午になると、その結界の正面に太陽が来ることがわかった。

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日前宮、鳥居の正面、結界の張られた空白地帯

 その後、その友人が、気持が良くなる場所に行きたいと言い、車を東に走らせて、古くから人々の崇敬を集める一宮の伊太祁曾神社を目指した。

 しかし、彼は、伊太祁曾神の社殿のところにはあまり関心がないようで、鳥居を入ったところに座って、ずっと休憩している。そして、伊太祁曾神社から歩いて15分くらいのところにある鎮守の杜に行きたいと、ウズウズしている。そこに向かうために、鳥居のすぐそばに二つの道があるが、どうしてもこちらを通りたい、こちらの方が気持ちいいと彼が言う道は、切り通しになっている。確かに気持ちの良い気が流れている。その時、その切り通しの表面を観察すると、なんとその地層は、樹木が積み重なったものだった。完全に土になりきっていないが、膨大な樹木が横倒しになって積み重なって地層になっているのだった。

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伊太祁曾神の鳥居を出た所の切り通し(樹木の断層)

 その切り通しを通り抜けて、集落の中や田畑のあいだを通り抜け、鎮守の杜にたどり着いた。そこは本当に気持ちの良い気が流れていて、いつまでも留まっていたいところで、私たちは、裸足になって寝そべっていた。すると、彼は、ウネウネと奇妙な舞踏のように身体を動かし、とても安らかな気分に浸っているようだった。

 

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亥の森、三生神社

 この鎮守の杜は、三生神社(亥の森)と言われ、実は、伊太祁曾神社の祭神、五十猛神が、古代に祀られていた場所だった。そして、五十猛神は、この杜に来る前は、なんと、日前神宮に祀られていたのだ。この杜に移されたのが第11代垂仁天皇の時(4世紀ごろ)で、現在の伊太祁曾神社に移ったのは、古事記編纂の翌年の713年だ。

 すると、日前神宮の鳥居の正面、あの何もなかった空間は、五十猛神が祀られていた場所だった可能性がある。家に帰って、いろいろ調べてみると、江戸時代までは、あの鳥居の正面は、今よりもずっと奥行きがあり、いろいろな社殿が建っていたことがわかった。そして、現在の日前神宮、国懸神宮は、その正面のスペースの両隣で、脇役のような存在になっている。

 そして、面白いことに、五十猛神は、樹木の神さまであり、現在の伊太祁曾神社の鳥居のそばの切り通しが樹木の墓場のような地層になっていることを考えると、おそらく切り通し以外の周辺地域も同じような状態で、伊太祁曽神社は、樹木の墓場のような場所に建てられた可能性がある。樹木の神様である五十猛神を祀るために。

 そうすると、私の友人が恍惚感を感じるところは、どれも五十猛神と関係があるところだったということになる。

 彼は、何の予備知識もなく、ただの体感だけで、それらの場所に導かれていた。そして、心底、気持ちが良さそうにしていた。

 樹木の神様の五十猛神とは、いったい何なのか。そして、なぜ、紀ノ川河口に鎮座していたのに、垂仁天皇の頃、亥の森に移り、さらに古事記編纂の頃、現在の伊太祁曾神社に移ったのか。

 それは、日本の古代史の変遷と秘密に、とても深くつながっている。そして、その秘密に、隼人、海人、ニギハヤイ、丹生都比売が関わり、そこに神武天皇の神話が、重なってくる。

 まさに、出雲や播磨と同じように、ここにも国譲りの物語の形跡が見られる。

 日本の歴史は複雑だが、頭で整理する前に、身体で感じるものにそって編んでいくと、くっきりとしたものが浮かび上がってくる。この身体感覚は、いったい何だろうか。そして、今年の正月、太陽活動や宇宙線量の変化にともなって敏感な体質な人に起きた身体の異常と、どのように関係しているのだろうか?

 (つづく)

 

 

第1039回 広河隆一氏の性的暴行について(3)

  昨日、広河隆一氏の性暴力について2度目の記事を書いたところ、それを読んだ女性から、メールでメッセージをいただきました。
 彼女が書いていることは、このたびの事件における一つの大事な側面であると感じ、すぐに返事を書き送ったところ、それに対する返事がきました。 
 今回の事件に関して、世の中でやりとりされている言葉は、そのほとんどが広河氏の酷い性的暴行に対する非難および、被害に遭われた方を慰るものであり、それは当然の心理であると思います。
 しかし、今回の事件を、広河氏の非人間的な行為とだけで片付けてしまっても、それはワイドショーの扱いと同じで、一人の人間を極悪人として葬り、次にまた別の事件を探してきて、「こんなやつ、人間じゃない」と攻撃することが繰り返されるだけ。
 こうした構造自体に、今回の問題を生み出した原因も横たわっていると私は考えていて、それは、今はじめて考えたことではなく、風の旅人を50号まで作り続けたことや、このブログで1000回を超えて書き続けた際に、常に、意識してきたことです。
 なので、私の問題意識の延長線上のこととして、一人の女性から送られてきた文章と、私の返事を、ここに記そうと思います。もちろん、匿名であることを条件に、本人の了解を得て。
 こういうことを書くと、また、「居丈高だ!」とか、「こうした事件を利用して自分が作った本の正当性をアピールしたいだけだ」とか、論理的でなく歪んだ感情で噛み付いてくる人がいることが予想されますが、そのように矮小化された次元のことはどうでもいい。私は、過去にも同じことをずっとアウトプットしていて、別段、今回のことに乗じて考えを変えたわけでもないし、自分が作ってきた風の旅人を売り込みたいわけでもないので(現在は、休刊中で、50号までの在庫はもう手元になく、売りたくても売れないし)。

 以下が、その対話です。

A「初めまして。先日、佐伯さんの「広河隆一氏の性暴力について」を拝見させていただきました。どちらも、でも特に1035回の方は非常に思いの伝わってくる内容でした。

 佐伯さんには大変申し訳ありません。今回私がなぜこのようにメールを送らせていただいたかと申しますと、決して佐伯さんのブログへの感想ではありません。本当にすみません。これは、私が広河氏の一連の報道を受けたこれまでの思いを、ただ、誰かに聞いてほしいと、ただそれだけで送らせていただいてます。今回の報道は本当に衝撃的で、でも周りに広河氏を知っている人はおらず、一から説明して聞いてもらう勇気もなく、ただただ、佐伯さんを頼った次第です。

 念のためお伝えしますが、私は今回の性暴力事件の被害者ではありません。広河氏とは面識はなくあくまでメディアを通じて知っているに過ぎない一般人です。そこのところは安心してください。

 私は広河氏を崇拝していました。広河氏を知ったきっかけはDAYS JAPANです。18歳の時、学校帰りの本屋さんでDAYSの10か月分ぐらいが平積みで置かれていました。どの表紙も写真がすばらしいと思い、私は一目で気に入りました。でも高校生にとっては雑誌で820円は決して安い値段とは言えず、一冊だけ、表紙で気に入ったものを買うことにしました。それは2004年の9月号で、特集は「反テロ戦争」でした。当時はロシアで、チェチェン人のテロが度々報道されていました。テレビではテロの悲惨さは詳しく述べられているものの、チェチェンという国についてはほとんど知る機会がありませんでした。しかしながらDAYSで、チェチェンがいかに悲惨な状態にあるか詳しく紹介されており、私は大きな衝撃を受けました。そして、私は善人と悪人を明解に区別することの危うさを学びました。

 結局、今までに至ってDAYS JAPANで買ったのはこの一冊でしたがそれはわたしの宝物となりました。今でも大事に持っています。そのDAYS JAPANの中核を担っているのが広河隆一という人であるということを知ったのは2016年頃と割に最近です。経歴や慈善活動をしり、あのDAYS JAPANを監修している人はこんなにすごい人だったのかと思い、当時上映された「人間の戦場」の予告編を見て(結局仕事の都合やらで映画は見に行けなかったのですが)広河氏を大尊敬するようになりました。写真もこんなに人をきれいに撮れるんだなあと思うものもあって大好きでした。そして何かあると「広河さんだったらどう考えるだろう。」と思い、勝手に心の支えにしてしまいました。

 改めて、自分はなんと弱い人間なのだろうと思います。どこかに崇拝する人を作って、それを神様のように絶対視して自分を保っているわけです。

 そういう訳があり、昨年末の広河氏の報道は大変大きな衝撃を受けました。あれから1か月弱、広河氏のことを考えなかった日はなかったと思います。いろんなことが頭を巡りました。いったい何時から、何がきっかけでこんなことをするようになったのだろうか?。本人は加害の意識が足りなかったと反省していると言っているが、本当に加害の意識が無いなどあり得るのだろうか?。ホテルへ連れ込む方法などはむしろ計画的ではないか?。慈善活動などで子供達と接する機会も多いのだから、少しは罪悪感を感じないのだろうか?。そうやって人を落としめることと、彼の人権派としての発言・活動が同時平行で行えるということは一体どういうことなのか?。

 そして、本当に呆れることなのですが、事件から日が立つにつれ、私は、「今回の報道の内容はあまりにひどい、でも彼の功績や写真は本当にすばらしいものなのだ。」などと思うようになっていました。

 しかし、おとといに、新たな被害者の証言を受けて、考えていたあれこれはすべてどこかに飛んでいきました。いまはただただ恐ろくて仕方ありません。

 私は、世の中に悪と言われる人たちも、その行為に至るまでの理由があることを学んだはずでした。しかし今回、世の中にはこんなにも、恐ろしく悪い人がいることを知りました。そして、これだけ凶悪な人を私は長い間尊敬し、1月の報道に行きつくまで否定しきれずにいたということも。怖くて仕方がありません。

 先にも言った通り、私はメディアを通して広河氏を知っているに過ぎません。ですが他人事のようには振舞えません。自分のことのように感じます。長い間心の支えてとしていた親近感が重くのしかかります。恐らく私と被害者の年齢が比較的近いのだろうというのもあるのかもしれません。これがもし自分だったら・・と。

 おとといに第二弾の報道が出て以降、私は夜が眠れなくなりました。6~7時間は横になっているのですが、うとうとできるのは1時間ぐらいです。彼が女性の身体を徹底的に玩具にしていた一つ一つの事例がイメージとなってずっと頭の中を反復しています。別のことを考えて紛らわせたいと考えてもできません。心臓の鼓動がずっと早いので苦しくなります。時々手が震えるのを感じます。

 それほどまでに凶悪な人物をずっと尊敬していたことへの恥と責任が重くのしかかります。決して忘れることはできません。怖くて叫びたくなります。でも、そんな人物を崇拝していたということが恐ろしくて、周りに話すことができません。佐伯さんのブログを見て、佐伯さんならきっと聞いてくださるのではないかと思いこのようにメールを送らせていただきました。本当に失礼いたします。それに、私は決して文章が上手い人ではないので読みにくかったと思います。本当に読んでいただきありがとうございます。

 最後になりましたが、被害にあわれた女性の傷は想像できるようなものではないでしょう。彼女たちの傷が完全に癒えることはないのかもしれませんが、少しでも癒しが訪れることがあることを心から願っています。」

佐伯「はじめまして。今回、広河氏の事件を知り、犠牲になったのはまさにAさんのような純粋な方であり、そういう純粋な人たちが付け込まれたことに、やりきれなさを感じます。

 広河氏の下にいた人で、違うタイプの女性を知っています。良くも悪くも図々しいところがあり、ある種の計算と割り切りがあって広河氏のところにいた人です。そういう人は、広河氏を絶対視していないので、自分の中で、こいつはダメだ、と思った時は、彼と衝突して、あっさりと辞めています。
 彼を絶対視してしまった人たちは、純粋であるとともに、免疫がなかった、のではないかと思います。
 免疫というのは、男性経験とかそういうことではなく、社会の矛盾、汚さ、エグさ、に対する免疫です。だから、社会経験のあまりない、つまり社会に対する免疫のない学生アルバイトとかが狙われてしまった。
 免疫には、”文学的”な免疫も含まれます。これは説明が難しいのですが、人の言動の背後にある本当の心理に対する洞察力を深めていくための文学的体験ということです。
(文学というと、小説をイメージするかもしれませんが、小説だけとは限りません。写真にも、文学性のある写真と、そうでない写真があります。前者は、写っているものの背後にあるものを深く想像をさせるもので、後者は、広告写真などが典型ですが、記号化され単純化されたビジュアルで、人心に媚びたり、人心を誘導するものです。そうした文学体験の有る無しが、その人の美意識に影響を与えます。)
 人は、自分の人生の経験だけを経験とするならば、経験は、非常に限られてしまいます。
 しかし、人の経験を深く自分のものにできる舞台があれば、自分一人が経験するだけより、経験は豊かになり、美意識も育まれます。美意識は、何をもって誇りとし、何を持って恥とするかという判断にも影響を与えます。
 ここ20年ほど、この文学的体験が、軽視され、色あせてしまいました。政治家のワンフレーズポリティックのように、簡単な言葉でズバリということが、スマートで、頼りになり、わかったつもりになってスッキリするというように。わかりやすい答えを、近道で得ることが、万人受けするようになり、その種のものがベストセラーになりやすい。テレビなどでも取り上げられやすい。なぜなら、説明しやすいからです。
 それに対して、文学的に深みのあるものは、何がどうなのか説明しずらく、でも心にズシリとくる。そうした文学的体験が人生において重要なのだけれど、そんな遠回りを誰もやらなくなってきました。手近にハウツーを求めてしまうのです。その結果、恥と誇り(カッコウ良い、カッコ悪いという判断)の基軸も、歪んでいきました。
 私は、19歳の頃、広河氏の「パレスチナ」を読み、社会派のジャーナリストになりたいと思いながらも、同時に、たくさんの文学を読んでいました。とくにドストエフスキーの文学は、社会的活動家の自己欺瞞自己矛盾を徹底的に暴いていて、自分の中にもそういう欺瞞があることを突きつけられ、悶え苦しみ、自殺してしまいたいとさえ思いました。そして、自殺するくらいなら、誰も知らない荒野で野たれ死ぬのも同じだと思い、あえて危険なところへと旅を続けました。いったい何をやればいいのだという叫びに似た精神の渇きと、自分が世の中になんの役にも立っていないという自己嫌悪と焦燥と、胸いっぱいに膨れ上がった空虚を抱え込んで。
 そんな私を、空虚や焦燥から救ったのも文学でした。日野啓三という作家です。彼のすべての本を掻き集めて読んだ私は、数年後、なんとかして彼とつながりたいと思い、手紙を書き、講演依頼という理由をつくって会いに行きました。私の手紙を読んだ日野さんは、きみは私と同じだ、と言ってくれました。同時代の多くの人とつながることよりも、100年前、500年前、2000年前のごく僅かな人と蜘蛛の糸のようなものでつながっていると感じられることの方が大事で、文学には、そういう力があり、それが本当の意味で救いなのだ、われわれは孤独でないのだ、ということも、日野さんは言っていました。
 日野さんは、当時、癌で闘病中で、2年に1度、癌が転移して入院ということを繰り返していましたが、およそ6年、彼が亡くなるまで、月に1度、彼と会い、夜遅くまで語り合う貴重な時間を持つことができました。
 私が「風の旅人」という雑誌を創刊したのは、日野啓三さんが、2002年10月に亡くなったことがきっかけです。その前年、2001年9月11日にアメリカ合衆国テロがあり、このことについて、私たちは、深く語り合っていました。
 単に戦争とかテロという問題だけでなく、原理主義という、わかりやすい言葉による正義と正義が衝突する事態は、アメリカとイスラムの問題だけではないと、私たちは語りあっていました。日本でもまさに小泉政権となり、シンプルな正義の言葉(既得権組をぶっ壊すという類の)で大衆を煽り、大衆を味方につけていく構図は、原理主義の戦いと同じだったのです。
 「風の旅人」は、最初からそういう問題意識で作っていました。だから、DAYS JAPANの創刊に協力したものの、創刊号が出た時点で、「これは違う」と思い、離れました。これは、人の思考を養うものではなく、思考を奪っていくもので、原理主義ポピュリズムの手法と同じだと感じたからです。

 2003年に風の旅人を創刊し、第3、第4、第5、第6号で広河氏の写真と言葉を紹介した頃、広河氏からDAYS JAPANというジャーナリズム雑誌を創刊したいと相談があって協力し、その後、出版のパーティがあり、スピーチをするように言われたので、私と広河さんは考え方が違うけれど、今日のメディアや雑誌の状況に一石を投じたいという思いで雑誌を立ち上げたことでは同じだ、という話しをしました。

 19歳の頃、自分が影響を受けた人の役に立てることは、私にとって大きな喜びであり、さらに、その時から20年後、同じ土俵で仕事をしていることに不思議な縁を感じました。 

 しかし、雑誌作りにおける考え方の違いは極めて大きく、また、彼の人間性を疑わざるを得ないこともあり、私は、DAYSに近寄らなくなりました。

 しかし私は、風の旅人を作りながら、ずっとDAYSを意識していました。その理由は、世間には、娯楽雑誌、ゴシップ、趣味教養雑誌が溢れるなかで、世界や人間の問題と向き合うということにおいて、DAYSと風の旅人は、同じだったからです。しかし、その方法論は違っていた。私は、世界や人間の問題に対して、自分の頭で考える土壌づくりが大事だと思っていたけれど、DAYSは、そういう土壌づくりではなく、糾弾することに力を入れていた。その糾弾の表現方法は、強ければ強いほど、人の思考を奪っていく。私は、ずっとそれを懸念していました。DAYSが社会に知られるようになり、賞をとったりするたび、その懸念は大きくなっていきました。

 私は、DAY JAPANと、有名度や部数や賞のことで競争する意識はまったくありませんでしたが、DAYS JAPANが社会的存在になり、盲目的に崇拝する人が出てきていることに危うさを感じ、だからその存在を意識せざるを得ませんでした。

 このたび、広河氏の性的暴行が露わになった後でも、「それはそれ、これはこれであり、 DAYS JAPANなど広河氏がこれまで行ってきたことの価値は損なわれない」という意見を述べる人もいますが、私は、DAYS JAPANの編み方にずっと違和感を感じ、問題があると公言もしていました。まさかここまでのことが起きていたとは想像もしていませんでしたが、「それはそれ、これはこれ」でなく、人がアウトプットしているものには、その人の内側が写っているものです。その欺瞞を察知できるかどうかは、上に述べた文学的体験の深さにかかってきます。

 いずれにしろ、風の旅人を作る前に出版業の経験のなかった私は、出版界の常識はどうでもよく、また世の中の評価もあまり気にせず、最初のうちは、日野啓三さんが生きていたらどう評価してくれるだろうか、ということだけを意識して「風の旅人」を作っていました。

 だから、誘惑に負けず、一貫性を保てたと自分では思っています。誘惑というのはいくらでもあります。たとえば、高名な写真家が、口々に、「風の旅人賞を作ろう、協力するよ」、などと言ってくれたこともそうです。「こうすれば、もっと売れるよ」、という囁きもそうです。自分を権威装置にする道はいくらでもありましたが、私は、それは違うと思い、やりませんでした。真の意味で、文学性から外れるからです。どんな表現も、環境の悪習に簡単に染まらず、思考停止に陥らないための、ある種の修行体験と言える場を提供しなければならない。それができないなら、やらない方がまだマシ。なぜ、やらない方がマシなのかというと、環境の悪習に寄り添っていくと、作り出されるものは、より環境を悪化させるだけ。それが、私自身の考えだからです。

 広河氏と私とのあいだの雑誌作りにおける考え方の違い、何がどう違うのか、もし風の旅人をご覧になっていないのなら、私の手元には在庫がありませんが、アマゾンのサイトでバックナンバーが安く買えますので、1度、ご覧になってください。

 たとえば、私は、作家や写真家がいくら高名であっても、DAYSや他の雑誌のように、肩書きや受賞歴やプロフィールを載せていません。権威の力で、読者を思考停止の受け身状態にさせたくないからです。新人と高名な写真家の取り上げ方にも差をつけていません。また、表紙に、アイキャッチ効果を狙ったタイトルを入れたりしません。

 そして、DAYS JAPANのように、最後のページに、支持者だという有名人の名前をずらりと並べたりしません。

 DAYS JAPANは、権力を攻撃していますが、その作り方は、かなり権威主義的で、洗脳の手法を用いた扇動的媒体の特徴を持っているのです。写真は、これでもかと衝撃的なものを使いますが、その状況を伝える記事の文脈の深みがなく、最初に読者を誘導する結論があり、その結論のための写真と文章になっています。それが洗脳の手法なのです。読む人が、自分の頭で考えるのではなく、異議を唱えにくい正義の論調のなかで、決められた答に誘導されるだけ。

 ただ、広河氏の仕事が、以前からずっとそうだったわけではありません。彼の仕事を掲載した風の旅人の第5号や第6号を見ていただければ感じていただけると思います。

 彼は、長いあいだ、同時代の他のジャーナリストよりも、継続的で、きめ細かなジャーナリズム活動を行っていたのです。独善的で権威主義的な傾向は以前からありましたが、報道でよく見られる扇動的な手法をとることには慎重でした。そのまま表現活動に徹していれば、彼の悪業も抑制されていた可能性があります。しかし、65歳までフリーで活動してきた人が、不慣れな組織運営と経営を行うようになり、次々と作り続けなければならない定期刊行物の売上や返本や在庫のことなどを常に意識せざるを得ないプレッシャーの中で、安易に二項対立をつくって感情(印象や気分)の動きで大事なことを判断したり、ハウツー本のように単純化された解答を求める時代の構造と空気に迎合する道を選んだ。

 しかし、皮肉なことに、時代の傾向に添っていたため、そのように荒っぽい作りのDAYS JAPANを始めてからの方が、社会的に彼への注目度が高くなり、有名人をふくめ彼の周りに集まりやすくなりました。ジャーナリストとして地道ながらいい仕事をしていた頃より、自分の下で仕事をしたいと若い女性も集まってくるし、少し華やかなポジションになり、優越感に浸って自分自身を見誤り、彼の中のモンスターが肥大化していったのかもしれません。人は最初から悪人なのではなく、環境との関わり方が、その人を作り変えていきます。その歯止めになる文学的体験が希薄だと。

 Aさんからいただいた文章を見て、Aさんの欠点をあえて一つだけ申し上げます。

 DAYS JAPANを、たった一冊だけ見て、その後、まったく見ていないのに宝物にしていること。広河氏の仕事に関しても、彼の本などをきちんと読まずに、評価していることです。
 彼を取り上げた映画などにしても、予告編だけを見て、本編を見ずに判断をしてしまっている。そうしたことでは、文脈を読み取る力は育ちません。
 そうした傾向は、イメージに流されやすく、洗脳されやすい状態をつくる。Aさんに限らず、現在の多くの日本人が陥っている一番危ういポイントです。
 これは、太平洋戦争前の日本においても同じだったのです。悪人が悪事を行うことより、悪人によって、そういう洗脳されやすい人を巻き込んだ時が、一番恐ろしく、それが取り返しのつかない巨悪になるのです。もしかしたら、広河氏という権力者に支配されたDAYS JAPANの組織が、それに似たものになってしまっていた可能性もあります。
 今回の新しい記事を読んでも、海外の取材に男女の二人が行くのに、部屋を一つしか手配していないわけです。その手配を、部外者がしたとは思えず、おそらく広河氏の指示で部屋を手配した人は、起こる出来事を予測できたのではないでしょうか。悪人でなくても、簡単に洗脳されると、悪に手を貸すことになります。
 簡単に洗脳されないために、人物や物事を評価したり判断する時に、その人やその物事のことを、もっと掘り下げる必要があります。
 一人の作家の本を読んで感動したら、その感動がどこからくるのかさらに探るために、その人の本を片っ端から読むくらい。
 だって、感動できるものに出会うことは、現代社会では非常に限られており、そういう時こそ、物事を広く深く知るためのチャンスだからです。
 私が作っていた風の旅人と、 DAYS JAPANは、ともに写真の力を大切にしながら、写真と言葉で世界を表現していくものですが、一番大きな違いは、”文学性”の重要さを、どこまで意識しているかです。
 わかりやすい答えを受身的に求めるのではなく、物事の背後のことを、自分の頭でどれだけ深く考え、想像できるか。
 風の旅人の方が、DAYS JAPANに比べて、読み通すためには、はるかに根気がいります。しかし、その根気が、こうした悪業に対する免疫となり、耐性となると私は思います。」
 
A「お返事ありがとうございます。こんなに唐突に送らせていただき、お返事をいただいていいものかと思っていたら、まさかこんなに早く、こんなにご丁寧な返事をいただいてしまって、大変に驚いています。なんとお礼を言っていいのか分かりません。

 読み始めてすぐに涙が出ました。やっと、硬直していたなにかがほぐれてくれたようでした。

 佐伯さんのおっしゃる通りだと思います。私は、見た目や印象で判断して、しかものめり込みやすいのだと思います。特にスマホを持つようになってからは次々現れる情報の波の中で少しずつつまみ食いして、これやよくないと思いつつ、ネットニュースの見出しのようにセンセーショナルで刺激的なものについつい手が伸びてしまいただ「わかったつもりになる」ことも多いように思います。

 佐伯さんの便りを読んでいてネットの危うさを改めて感じました。Twitterなんかもそうですね。今回私が佐伯さんのところに行きついたように、知らない人同士をつなげてくれる、そういう意味では今回は本当に助けてもらったのですが、基本的に短く、わかりやすく、印象に残りやすい言葉ばかりですから、熟考するには不向きです。でもコメントは無限にありますから永遠にみてしまいます。本を読む時間などどんどん無くなっています。

 だからこそ、DAYSや広河氏の危うさに気付くことができなかったのかもしれません。

 でも上述したように情報が次々やってくるので、熟考するための時間を持つのは決して簡単なことでもなさそうですね・・・。

たくさんのことを書いていただいてくださったので、一読では消化できませんでしたが、繰り返して読ませていただいるうちに、ようやく今回の広河氏の報道についても、少し距離を置くことができたように思います。

 そして、今回の報道以降、心の置き場がずっと無くて、どうしたらいいのかわからなかったのですが、風の旅人を紹介していただいたことで、ようやく自分が今なにをやっていくべきなのかが決まって、前を向くことができました。

 風の旅人はぜひ拝読させていただきたいと思います。読み終えた後、感想を佐伯さんの元に送らせていただこうと思います。ものすごく本を読むのが遅いのでいつになるかわかりませんが(笑)。

 この度は本当にありがとうございました。佐伯さんとの出会いに本当に感謝しています。」

第1038回 広河隆一氏の性暴力について ⑵

 年末に週間文春の記事が出て時に文章を書いたが、今日、彼に対するあらたな告発の記事が、文春に掲載された。

 今日発売の週間文春において、広河隆一氏の、前回の記事よりもさらに悪質な性暴力の記事。前回の記事を読んで、それまで自分の中だけに抱え込んで苦しんでいた女性が、この問題を自分の外に露わにすることで、自分に対する罪の意識から少しは解放されたと。もちろん、あれだけ酷いことがあり、その傷が完全に癒されることはないが、それでも、犠牲者は自分だけでなかった、自分が悪いわけでなかったのだと再認識することで、自分で自分を責め続けるという地獄からは、少しは抜け出すことができるのかもしれない。その告発の勇気は、誰にでも持てるものではないけれど、こういう勇気ある告発があったことで、1人で抱え込んでいた他の女性で、少しは救われた人がいるかもしれない。
 それにしても、広河氏の性暴力は、異様すぎる。これまで私たちが知っていた性暴力は、組織内の力関係を利用したものが多かったので、その範囲も限られていた。しかし、今日の文春の記事だと、広河氏は、ジャーナリスト志望の女性や、人権をテーマにしたイベントや講演会に集まってくる人を罠にかけていたわけで、そういう人たちを自分の懐に巻き込んで操る方法論を作り上げていた。その犠牲者は、学生とか、まだ社会人生活の浅い、純粋で無垢な若い女性たちだった。
 人権派ジャーナリストとしてどうかとか、もはやそういうレベルで議論する問題ではなくなっていて、モンスターになってしまっている。
 純粋な気持ちでイベントなどに参加したりボランティアを行って、こうした被害を受けて苦しみを負わされているという状況を知ると、彼個人の悪質さが際立ちすぎて、理解がついていかず、胸が苦しくなる。
 行為だけでなく、「きみはもうセックス相手をしては替え時だ」とか、「(セックス相手として)他の男たちに貸す」といった、女性の尊厳を徹底的に傷つける言葉による暴力もすごかった。
 15年くらい前の彼のことはよく知っていたが、親しい間柄にはなれないと思うところはあったものの、ここまでとはわからなかった。
 彼の人間性の問題だと片付けることは簡単だし、もちろん、それが大きいのだが、人は最初からモンスターだったわけではなく、人をモンスターにしてしまう何かがあるのではないか。
 「自分と付き合うと、報道の世界で都合がいいよ」という台詞は、彼の誇大妄想か、ペテンか、それとも実際にそういうことが成り立っていたのか。(ジャーナリズムに関する賞の審査員などをつとめて、人の進路に影響を与えることができる)
 また、事務所にベッドが設置されていて、それをそういう目的のために使っていることを薄々察知しているにもかかわらず、周りの人が何もできなかったという金縛り状態、だからますます悪質さが増長してしまうという悪循環。
 なぜそういうことが起こってしまうのか。戦争などにしても、後から振り返ると、なんであんなバカなことを、というのがたくさんあるが、その時、その渦中にいた人たちは、思考停止、感覚麻痺に陥っている。企業の不祥事も、本来は真面目な人たちなのに、なぜあんなことを、ということがある。あたかも催眠術にかけられていたように。
 DAYS JAPANは、次の最終号で、この広河問題を特集するのだという。その気持ちはわからないでもないが、それでも、あまりにも極端ではないかという気持ちがしないでもない。私は、 DAYSの創刊の時に少し関わったが、雑誌の編み方が極端すぎるのではないかと懸念を覚え、さらにその後、広河氏と仕事はできないと感じることがあって彼から離れていたが、 DAYSの最後が、そういう壮絶な自己否定の形になるというのは、創刊の時に感じた”極端さ”とも、重なり合う。白か黒か、正義か悪か、敵か味方か、なぜ、そんなに極端になってしまうのか。DAYSの文化には、中庸とか、間合いとか、余白とか、余韻が、まったくなかった。
 人権の旗を掲げながら人権を蹂躙することは、革命の前後などを通して、人類史でいくつものケースを我々は見てきた。
 極端な主張、極端な行動の背後にあるのは、実は、その人の空虚ではないかと、ずっと思ってきた。
 広河氏の正義の旗を掲げた行動は、真に誰かのことを思ってのことではなく、空虚に蝕まれていた結果として、自分にとっての攻撃の対象が必要で、それが、国家とか体制といわれるものだったのではないか。
 今回の文春の記事の中にあるアルバイト女性に対する破廉恥行為などは、セックスの強要とは別の次元の、空虚に蝕まれた人間の変態行為としか思えない。
 あの広河氏と同一人物なのかと夢を見ているように思う人もいるだろうが、これが同一であることの根っこを、私たちは、深く洞察する必要があるかもしれない。

第1037回 天と地と人間を貫く不可思議な力!?

 昨日の夜、突然、若い友人が電話してきた。
 彼は、世間では心の病気とされる症状があり、とても感度が高く、繊細なセンサーを持っていて、そのため、現代社会では非常に生きづらい状態で生きている。しかし、幸いなことに、彼は、自分の状況を客観視する眼差しも持っており、不安定ながらも、薬の力も借りて、なんとかバランスをとりながら生きている。
 その彼が、正月に、全身を貫く電気的な衝撃を受け、その結果、近視のため普段は書棚に並んだ本のタイトルが見えないのに、くっきりと見えたり、自分の身体が別のものになってしまったような感覚になり、意識を失う直前までいき、かろうじて耐えた。その後も、車でドライブに出かけると、ある場所になるとものすごく気分が悪くなったり、その逆だったり、自分に一体何が起こっているのか不安を覚えて、私に電話してきた。
 私に電話してきた理由は色々あるが、その一つは、彼が「風の旅人」の熱心な読者で、その中で連載していた「電気の宇宙論」の中のプラズマ現象などもすべて読んでいて、この正月に自分に衝撃が起きた時に、とっさに、”プラズマ”という言葉が頭によぎったからでもあった。
 他の誰かに電話しても、「疲れているだけじゃない」と言われておしまいだが、私なら、違う答が得られるのではないかと期待して。
 私は、べつに霊能力者でないし、自分がそういうセンサーを持っているとは思っていないけれど、子供の頃、隣に本物の霊媒師が住んでいたという経験などから、自分の感覚では捉えきれない何かが存在しているのだろうな、という意識は持っている。
 それで、彼が電気的衝撃を受けたという自宅の場所などを色々と確認したら、私が、現在、探求している古代のレイライン上にあったので驚いた。
 そのラインは日神のラインと自分では名付けているのだけど、どうにも太陽と関係がある。
 それで、今年の正月、太陽に何かあったかと調べていたら、この正月、太陽と地球の距離が一番近づいていたという記事があった。
 さらに、私は知らなかったけれど、1月3日に、天に巨大な火球が降って、日本の至るところで観測され、動画にも残されていることがわかった。NHKまでとりあげているので、フェィクニュースではないのだろう。
 その火球は、四国の剣山あたりに墜ちたんではないかという観測も出ているが、私に電話してきた彼が住んでいるところは、剣山のすぐ近くではないけれど、四国の対岸の和歌山で、剣山と同じ中央構造線上の、日前神宮國懸神宮のそばだ。
 日前神宮國懸神宮は、奈良の三輪山から見て、冬至の日に太陽が沈む方向だが、そのラインは、私が住んでいる松尾大社比叡山を結ぶラインと平行だ。
 ラインのことは抜きにして、日本を横に貫く中央構造線は、地下にエネルギーが凝縮しているところであることは間違いなく、鉱物の鉱脈も多い。
 そして、南海トラフ地震との関係も指摘されている。
 そうした地下の出来事と、天に徴(しるし)のように現れた光球の関係は、私にはわからない。
 しかし、聖書の時代も、日本の古代も、この天の徴(しるし)のことが記録されている。

 たとえば、大化の改新の前、634年、大きな彗星が現れたのをきっかけに、毎年、次々と異変が起きたことが記録されている。
 日蝕、大洪水、宮殿の火災、干魃による飢饉、台風などの天変地異のほか、凶事とされる星の動きまでが記録されている。
 このような時、舒明天皇崩御し、本来ならば息子の中大兄皇子が世継ぎとなるところ、なぜか、舒明天皇の皇后が、641年に皇極天皇として即位する。しかし、その年も、長雨、日照り、大地震、虫の大発生、日蝕など異変が続いたことが日本書紀に残されている。その後、乙巳の変大化の改新)が起こり、白村江の戦いで日本は惨敗する。
 聖書の黙示録などと、非常に似ている。

 非科学的なことを言うつもりはないが、この正月、感覚の鋭い人の全身を貫いたという電気的衝撃は、いったいなんだったのか。
 時間的には、火の玉が墜落した時間とはズレているので、墜落の衝撃ではない。火の玉の正体は、今のところ隕石ではないかとされているので、その隕石が地球に近づき、プラズマエネルギーを発していたのかもしれない。
 おそらく、彼以外、この正月、同じような衝撃が全身に走っていた人がいるのではないだろうか。彼が特別なわけではなく、人よりも感覚が鋭いだけなので、同じような人は他にもたくさんいると思う。

https://www3.nhk.or.jp/n…/html/20190103/k10011766421000.html …#nhk_news#nhk_video

第1036年 とても残念な日本の精神的光景。

 

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 とても残念な日本の精神的光景。
 桂川の河川敷には広大なグランドと、草原の広がりがある。正月休みということもあり、草原の上で凧揚げを楽しむ親子がいたり、キャッチボールをする父と子、また、正月休暇で、ミニサッカーの娯楽を楽しむ大人がいた。
 それぞれが、それぞれの時間をエンジョイしながら、それぞれの場所に関しては、適度な棲み分けを行えばいい。本能的に、距離を保ちながら、それができる余裕が、広大な河川敷にはある。
 しかし、大人と子供がキャッチボールをしていて、子供のやることだから手加減ができず、手元が狂って、そのボールが、サッカーをエンジョイしているフィールドに転がっていくことだってある。
 そういうことに、いちいち目くじらを立てる必要はない。
なのに、突然、そのサッカーをエンジョイしている大人のうち、一人の女性が、「私たちは、この場所を、予約して、お金を払って使ってんです。だから、もう辞めてもらえますか!」と大きな声を立てる。
 自分たちがお金を払っているグランドの中に他人が入り込んで何かをやっているわけではなく、お金を払う必要のない広大な草原の上で楽しんでいる人の手元が狂って、そこから飛び出したボールが転々と、自分たちの権利がある領域に入り込んでくることが許せないらしい。
 悲しいことに、この国は、子供の遊びに対する寛容がどんどん無くなって、大人の娯楽や、大人の権利ばかりを主張する国になってきていると実感される光景が、いたるところある。
 保育園や幼稚園の少なさを非難する時も、それは、子供達全体のことを憂慮してのことではなく、自分の子供を預かってくれる場所がないというだけの理由で、自分の家の側にそれができると、うるさいから嫌だと反対する大人。

 南青山の児童相談所建設に対しても、児童相談所は、南青山のブランドイメージを損ねるから反対だと、正々堂々と声高に叫ぶ人がいた。そういう姿がテレビに写し出されても、それを恥ずかしいことだと思わない自己正当化の鈍感な感性が、そこにある。

 自分が信じる正義のための破壊行動がテレビに写されても恥じない心理と同じだろうか。

 先日、このブログで書いた広河隆一氏の性暴力のことにしても、正義のために活動しているという自惚れが、自省する心を喪失させ、さらに彼を正義のヒーローのように扱い神輿に載せて担ぐ人々が、彼の自惚れを、よりいっそう肥大化させてしまった。
 いずれにしろ、大人が、ワイワイはしゃぎながらミニサッカーに興じて、自分の時間をエンジョイするのはけっこうだが、その楽しみを邪魔されたくないと大きな声を出しているその女性は、品性のない大人の典型だという気がする。
 そういう人にかぎって、なにやら、ヒーロー気分なのか、随分と堂々としている。
 そのチームの中には、品性も教養も知性もある人がいて、まあそのくらいのことは普通のこと、と受け止めて、一度目、転がってきたボールを取って、笑顔で返す人もいた。
 その品性も、おそらく真の意味で知性も教養もない女性は、そういう優しい男性が、優柔不断で頼りないとでも思ったのか、自分が声を上げなければいけないという自己中心的な正義感なのか、堂々と、胸を張って、高圧的に「ここは私たちに権利がある場所なんですよ」と声をあげる。
 なんだか、とても醜悪で、恥ずかしいものが、そこにあった。

第1035回 人権派ジャーナリスト広河隆一氏の性的暴行について

 まもなく新しい年が始まろうという時、とんでもない事実が発覚した。

 人権派として知られるジャーナリストの広河隆一氏が、最低でも7人の女性への性的暴力の責任をとる形で、「DAYS JAPAN」という雑誌を発行する会社の代表取締役を解任されたと発表があった。

 これまで、芸能プロダクションや高級官僚や政治家など、世俗的な利益や地位や名声を求める人々が集まりやすいところでは、この種のスキャンダルは珍しくなかった。

 しかし、人権を守るという旗を掲げて活動しながら、その活動に積極的に関わりたいと集まってくる人たちを罠にかけていたという今回の事態は、これまでの性的暴力とは別種の異様さがある。神父の児童性的虐待を連想させるところもあるが、人里離れた修道院での出来事ではなく、社会の中で大々的に正義をアピールしている現場で、しかも、犠牲になっていた女性が、明らかになっているだけでも7人という多さ、そしてその犯罪的行為を行っていた人物と、昔、深く関わりがあったゆえに、鳩尾のあたりが、キリキリとする。

 立場を利用して愛人になるように強要したというレベルを遥かに超えて、手当たり次第に女性たちの人権を踏みにじる行為を繰り返し、周辺の人々も、そのことを薄々察していたという。

 この異様な事態を作り出していながら、広河隆一氏は、その事実を認めた上で、ホームページにごく短い謝罪文を載せ、DAYS  JAPANの代表取締役を解任された、というケジメのつけ方を発表した。

 政治家や官僚などが、事実を認めず、地位に留まり続けるという執着を見せることが多いが、それに対してこの広河氏の迅速な行動を、潔い態度だと思う人は、よもや、いないだろう。

 この事件が公になる前から、DAYS JAPANという雑誌 は、あと数ヶ月で休刊することが決まっていた。しかも、この雑誌を発行する会社は、上場企業ではなく広河氏の個人会社にすぎない。

 高級官僚や大会社の幹部のように、そのポジションを追われることで金銭的にも大きな痛手を負うという状況と大きく異なる。

 DAYS JAPANという組織名と切り離された方が、広河氏にとっては楽なことで、その皺寄せは、組織に残る数名の人に、一挙に押し寄せるのだ。

 なかには、「今回の事件は広河個人の責任だけではない、DAYS JAPANという組織としての責任はどうなっているのだ!」と怒りの矛先をスタッフに向ける人もいるが、その人は、今回の出来事を世の中の政治家や官僚の不祥事と混同している。DAYS JAPANという既存の組織があって、その代表を広河氏が務めていたわけではなく、DAYS JAPANという組織は、広河氏個人の”願望”を形にするために広河氏が作ったものにすぎない。そして、その組織は、広河氏を崇拝した人たちによって支えられてきたが、そこには、広河氏の呼びかけで集まった大勢のボランティアや寄付者が含まれる。

 そして、哀しすぎることは、広河氏の願望には、自分自身が人権を守るために戦っている人たちの中でスターになり、芸能人のスターのようにスポットを浴びて女性にもてて、女性を自分の思うようにできる、ということまでも含まれていたことなのだ。

 自分が行っている表現活動などが、たとえ今報われなくても後の時代のために何かしらの意義あることにつながっている、そのことが他の何よりも大事、そうした使命に尽力していることに対して本当の意味で矜持をもっていれば、自分を厳しく律することもできる。

 しかし、広河氏は、モテたいという虚栄心や大勢の中で目立ちたいというプライドは高かったが、孤高の矜持はなかった。

 女性への性的暴力における責任の取り方として、被害にあった女性たちへの対応はもちろんだが、当面の問題として、定期購読のために前払いでお金を支払っている人たちへの対応がある。

 その対応を、 DAYS  JAPANに残る人たちで行うのは、あまりに酷すぎる。

 私も経験があるが、この残務処理は、地道ながら大変なものだ。何千人といる定期購読者で、あと何回分残っているかで金額も異なる。それを一つひとつ確認して指定口座に振り込まなければならない。

 今回の事件が公になっていなければ、広河氏は、「これまで正義のために戦ってきたけれど力尽きました、預かっている金額は、自分の今後のジャーナリズム活動の寄付金にしてもらえないか」といった内容のメッセージを読者に送りつけたかもしれない。寄付を募るという手法は、DAYS JAPANの創刊以来ずっと行われていた。

 広河氏は、ボランティアの支援をあてにして運営してきたので、たぶん幕引きも、ボランティアの手を動員しようと考えていただろう。

 しかし、こうした事件が起きて、その方法は通用しない。

 返金のための事務処理は、残されたスタッフに集中する。その時、裏切られたという気持ちの強い読者から、「これまで続けてきた定期購読のお金も返せ!」という非難を浴びるかもしれない。

 その非難が、DAYS JAPANに残る少人数の人々にふりかかることは、絶対にあってはならない。彼らもまた犠牲者なのだ。

 だから、この事件に対する広河氏の責任の取り方として、「DAYS JAPANの代表を辞める」などという生ぬるいものでいいはずはなく、雑誌休刊における返金処理など、最後の最後まで、広河氏自身が、代表の名をもって行うべきなのだ。定期購読者の全員に連絡をとり、謝罪をし、返金の手続きをすべきだと思う。果たして、前受け金として預かったお金が残っているかどうか心配だが。そのうえで、被害にあった女性たち全てに向き合わなければならない。

 

 私は、20歳の時、大学を辞めて海外放浪をする前、広河氏の「パレスチナ」という新書本を読んだ。その影響もあって、放浪中にアラビア語を学んで、アラブ諸国をまわろうと決め、チュニジアのブルギバスクールに僅かな期間だけれど通った。

 なので、2003年の4月に「風の旅人」を創刊した時、すぐに広河氏に連絡をとった。そして、2003年8月発行の第3号から、2004年2月発行の第6号まで彼の特集を組んだ。イスラエルへの取材のため取材費も準備した。

 それら風の旅人の4冊で編集した広河氏の写真や文章は、たとえ戦乱の犠牲者のことを伝えるものであっても、抑制がきいたもので、それゆえ、心に突き刺さるものだったと思う。

 その期間、広河氏と何度も会い、話をし、その中で、広河氏の雑誌創刊の夢のことを聞かされた。

 1988年4月号から1990年1月まで講談社から発行されていた「 DAYS JAPAN」という雑誌があり、アグネスチャンの講演料問題という奇妙な理由で廃刊に至ったが、広河氏は、あれと同じようなジャーナリズム雑誌を作りたいと言っていた。

 2003年当時は、そうした雑誌の発行はとても無理だと思われていたが、私は、そういう時代に敢えて「風の旅人」という雑誌を創刊し、広河氏は、その内容を高く評価してくれた。そして、その運営のノウハウを教えて欲しいということだった。

  DAYS JAPANの発行後、広河氏が雑誌創刊のいきさつを語る時、かつての DAYS JAPANの廃刊のいざこざが落着いた時、再び、当時の有志が集まって始めたようなことを言っていたが、実情は違う。すでに、廃刊から13年が経っていたし、当時、広河氏のまわりの人たちは、みんなジャーナリズムの新雑誌の創刊など不可能だと決めつけていた。彼の仲間が集まった時も、みんな反対するか無視をし、私一人だけが、それは可能なのだと主張した。というのは、2003年というのはデジタル製版が本格化しつつある時であり、それまで、たとえば風の旅人の場合は150ページほどあるが、その製版代がアナログ時代は800万円、さらに版下制作、写植や修正代などを含め、印刷や製本にかかる前に1000万円ほど必要だったコストが100万円もかからなくなっていた。さらに、メールの発達などによって、編集部員の負担は減り(手書きの生原稿を打ち直す必要もなくなっていた)、その数も少なくてすんだ。私は、実際にそのような新しい方法で運営していた。

 デジタル製版のクオリティに不安があったが、風の旅人の印刷クオリティで広河氏は納得し、その方法でトライする決意をした。

 さらに、売れなければ返本され、なのに40%以上もコミッションをとるトーハンや日販などの書籍流通に依存せず、新しい定期購読者の獲得のために書籍流通を行うという割り切りで、定期購読者を全読者の半数くらいにもっていけば、制作コストも大幅に安くなっているゆえに、かつての雑誌のように十万を超える発行部数の必要はなく、15000部くらいの発行数で、広告出稿をとりにくいジャーナリズム雑誌でも十分に運営が可能だというシミュレーションを彼に伝えた。そして、印刷見積もりをとり、ページ数を決め、効率のよい紙取りができるサイズ(風の旅人と DAYS JAPANは、ページ数は風の旅人が倍以上あるが、判型は同じ)で、広河氏の DAYS JAPANは船出をした。2004年4月だった。さらに、資金協力を仰ぐために、風の旅人をよく読んでくれていた大企業の創業社長に広河氏を紹介し、多少の資金も得ることができた。私は、創刊号の校正刷りも確認した。

 そして、DAYS JAPANの創刊後は、風の旅人とのあいだで、志を同じくするものどうし、お互いの雑誌で紹介し合おうという話もした。

 そのようにDAYS JAPANの創刊までの準備に深く関わった私は、創刊号の巻末に名前が記された。

 しかし、DAYS JAPANの創刊後、それまで絶対に無理だと言い続けていた人たちが、動きだしたトロッコに乗り込むように入ってきた。

 そして、第2号から、私の名前は消え、広河氏が依頼をして承諾した有名人の名がズラリと並び、「DAYS JAPANはこういう人たちに支えられています。だからあなたも賛同してください!」という内容のキャッチが強調された。

 お互いの雑誌で紹介し合うことは、私は果たしたものの、広河氏は、一度も実行しなかった。

 さらに、風の旅人の第9号(2004年8月発行)で、セバスチャンサルガドのページを作ると伝えた時、サルガドを崇拝する広河氏は、自分も DAYS JAPANの中で紹介したい、だから連絡先を教えて欲しいと言い、私は、その申し出を受けたものの、風の旅人の第9号よりも1ヶ月早い発行のDAYS JAPAN(2004年7月発行)の中で、風の旅人で掲載する予定の写真、とくにポスターでも使うメインの写真は使わないで欲しいと彼に伝えたものの、あっさりと裏切られ、その写真がデカデカと掲載されていた。

 DAYS JAPANの創刊以来、その編集内容に対して、私はすでに違和感を覚えていたが、このサルガドの件で、私は彼を信用できなくなった。感謝とか恩義といった、人間関係の基本が通じないような気がした。

 広河氏は、戦場での悲惨なシーンを積極的に掲載するという方針だった。しかし、当時、私は、「戦場で死体を撮った方が金になる」と言い切る報道写真家のことなども知っていて、目を奪う悲惨な写真の背景が気になっていた。

 また、見るものの思考を停止させるような衝撃性よりも、見るものが想像力を働かせて思考し、当事者意識を持てるような誌面づくりの方が大事だと私は考えていた。想像力を喪失して思考停止に陥り、自分が非難する相手は悪で、自分は善という線引きをすることがもっとも恐ろしい結果を生むことがある。歴史をふりかえっても、そうした例は数多くある。

 DAYS JAPANを発行する前、一人のジャーナリストだった広河氏は、もっと抑制のきいた表現を行っていた。だから、私は、彼の文章と写真を、風の旅人に掲載していたのだ。

 しかし、 DAYS JAPANという組織を持ってからの彼は、心に語りかけることより、人の目を惹きつけること、人の目を奪うことに重点を移していったように思う。

 そして、一人のジャーナリストの時は、自分の作品を各出版に持ち込んで売り込み、その相手が、たとえ未熟者でも選択権を持っているという状況に耐えなければいけなかったが、自分が雑誌媒体の所有者になると、自分のところに作品を売り込みたい人がやってくる。そして、ジャーナリズム大賞などという権威的な機関をつくれば、自分の価値観で人をジャッジするという強い立場に立てる。そういう権力を持ってしまうと、人は傲慢になる。権力を批判する立場だった人が権力を持つ側になると、180度変わってしまうことは、歴史を振り返ればいくらでもサンプルがある。

 私は、風の旅人の運営において、どんな人間の中にも潜んでいる、そうした権威主義、権力主義を警戒していた。警戒していてもそれが出てしまうこともあるけれど、自分の中にもそうした根があるかどうか自問しているかどうかによって、行動は大きく変わってくる。

 私は、風の旅人の誌面の中で、作家や写真家のプロフィール、肩書きや経歴を掲載しなかった。名前と生まれ年と出身地の記載だけにした。また、高名な写真家たちから、風の旅人の賞を作るようにとアドバイスされたが、断った。

 アウトプットされたものだけを見て判断することが大事なのに、肩書きや経歴や賞の受賞云々で物事の価値を判断してしまうこと、また、そのように人々の判断を導くものが世間にはあまりにも多く、私は、そこに与したくなかった。

 DAYS JAPANが創刊されてからの広河氏のやり方は、反体制を旗に掲げているものの、私には、それまで体制がやってきたことと方法論が大して変わらないように感じた。そのことも、彼に近づかないようになった理由だった。

 DAYS JAPANの創刊後、その編集部で働く女性たちの何人かとは会ったり、話をしたことがある。(編集部で男性に会った記憶がない)。編集スタッフは、広河氏に命じられらのか、自主的なのかわからないが、風の旅人の定期購読もしてくれていた。

  DAYS JAPANで働いていた人たちや、ボランティアとして支えていた人たちは、当然ながら、真面目な人たちだ。金儲けのために人を利用しようとする人たちは、他に相応しいところに行く。

 ただ、そうして集まった人たちは、DAYS JAPANの情報の深さや情報の伝え方の適切さ、権威主義的な広河氏の矛盾を、どれだけ見極めていただろう。

  DAYS JAPANの情報の質や伝え方のことは考慮されず、広河氏が発する正義のメッセージが、正義の所在がよくわからなかった時代のなか、多くの真面目な人を惹きつけていたのだろうと思う。テレビや新聞や週刊誌など、情報の質や情報の伝え方が、議論の余地もないほど酷いものが多すぎるので、唯一、DAYS JAPANが、まともに見えたのかもしれない。

 人の目を奪うためのやり方を躊躇なく実行し続けた広河氏の作る「 DAYS JAPAN」は、私が作っていた「風の旅人」などより遥かに有名になり、その有名力という権力によって、広河氏は、ますます傲慢になってしまい、自分が行っていることに対して何も判断できなくなるほど、思考と感性が麻痺してしまった。

 そして、いつしか、自分の欲望を満たすために、自分の権限と力をどう使うかを覚えて、味をしめてしまった。卑劣な芸能プロダクションの社長のように。

 芸能人の世界のように、表の顔と裏の顔を使い分けることで世俗的に成功するというところではなく、ジャーナリズムの世界で、「この人に見捨てられたらやっていけない、だから従うしかない」と思い込ませてしまう催眠術は、広河氏自身がかけたものか、それとも、この時代そのものに、そのように人を錯覚させる魔力があるのか。マスコミは、芸術家やジャーナリストもタレントのように扱い、そのように扱われることが表現者自己実現の達成のようになり、その姿に憧れて後を追う人が増えた。

 思えば、私も20歳の時、将来何をすればよくわからず、広河氏の「パレスチナ」を読み、ジャーナリストのような仕事で活躍できるような人間になりたいと思ったことがあった。また、人生の目的として、広河氏が掲げているような崇高な使命が欲しかった。

 詐欺師は、時代の変化の中で形を変えていく。人権という聖域だと考えられていた場所で、今回のような事件が起きたことに対して、真摯に人権のため活動を続けている人たちが、一番、途方にくれているだろう。被害にあった女性たちも、そばにいてそれを阻止できなかった人たちも、自分が巻き込まれてしまった渦の正体がよくわからず、だから、被害者なのに自分に責任があるかのように思いこんで、苦しみを増大させてしまう。

 今回の事件を受けて、様々な媒体で、このたびの出来事について様々な人が意見を述べている。

 自分の強い立場を利用して何人もの女性を陵辱し、傷つけてきたセクハラ、広河氏の行ってきたことの酷さ、おぞましさ、そして許し難さ、また被害にあった女性たちの苦しみ。立場や、広河氏との関わりによってその発言の内容は異なってくる。

 そして私は、私の経験の範疇でしか彼のことを語ることができない。

 忘れもしない今から36年前、1982年の夏、私は20歳だった。その5月、イギリスとアルゼンチンのあいだでフォークランド戦争が起き、その夏、イスラエル軍によるベイルートへの大爆撃があった。私は、そのニュースをチュニジアで見ていた。広河氏の「パレスチナ」によって導かれた場所だった。イスラエルキブツにいた時に第三次中東戦争が始まって、その経験をきっかけにジャーナリストになった広河氏の軌跡をなぞろうとさえ考えていた。

 このたび、一体何が起きたのか、自分の中でまだ整理できていないけれど、広河氏の存在は、20歳の時の諸国放浪の時、40歳の時の風の旅人の創刊の頃、私の中に深く関わってくる何かがあった。

 正しさというのは一体何なのか。時計を戻すことはできず、そのため、人は後悔に苦しめられる。しかし、自分がやってしまった取り返しのつかないことを心から反省し、いっさいの虚栄を捨て、懺悔のためにだけ生きることも、人間には可能だろう。

 人権は、声高く叫んで主張するスローガンではなく、これが善でこれが悪だと言葉で簡単にくくれるものではなく、心の琴線ではかるものだ。

 想像力を麻痺させ、思考停止状態になってしまうと、それはただの盲信、程度によっては狂信になってしまう。

 残念ながら、広河氏の人権に対する想像力や思考力は鈍麻してしまっていた。謝罪文で彼が使っている”不実”(愛情や誠意のなさ)という言葉にも、人権や、このたびの女性の被害に対する彼の麻痺感覚が現れている。

 彼の行ったことは、誠意の問題ではなく、今後の展開によっては刑務所行きの可能性もある暴力的な犯罪である。真面目な人が正しさの砦だと信じて逃げこんだ場所は、実際には、権力者の横暴によって人権を踏みにじる場所だった。広河氏は、そういうことを行っていた。その恐ろしい現実認識から始めて、罪の償いをしていくしか道は残っていない。 

 今回の問題は、広河氏個人の資質の問題が大きいと思うが、正しさにはこのような危険性がつきまとっているという認識を共有しておくことも大事だという気がする。

 最後に、こうした問題について文章で伝えることは、とても難解。いくら長文で書いても、入りきらないことがいっぱいある。風の旅人と DAYS JAPANの両方を読んでくれている人であれば、文章になりきれない微妙なニュアンスも読み取ってもらえるかもしれないけれど、そうでない人は、この文章の中だけで物事を判断するしかない。

 そうした言葉の限界を強く感じるから、人は、もっと丁寧に作り込んだ表現を必要とするのだと思う。しかし、丁寧に作り込んだ表現に丁寧に向き合ってくれる人が減っていることも事実。自分の表現を磨くのではなく、人のアウトプットするものを見て、あれやこれやと自分の好きなように採点する人ばかり増え、丁寧な物作りをしたり丁寧に物事に取り組むことが、とても難しい環境だと思う。

 やっていることが正義かどうかで判断するよりも、物事や人に対する向き合い方や取り組み方が、どれだけ丁寧に行われているかを判断することの方が、大事かもしれない。

第1034回 一千年前の文化が、今を超える。

  

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 京都東山の泉湧寺塔頭の即成院で行われた山下智子の「京ことば源氏物語」、第20帖『朝顔』を聞いてきた。
 即成院には、1094年に造られたという阿弥陀如来と二十五の菩薩像がある。それらの仏様を背後に語られた源氏物語の『朝顔』の帖は、とても素晴らしかった。ちょうど私の前に、宗教学者山折哲雄さんが座っておられ、昨年、私が企画した源氏物語のイベントで講演をお願いしたことがあったのでご挨拶をしたところ、これぞ『源氏物語』の真髄、という印象を持たれたようだった。
もののあはれ」とはなんぞということが、この『朝顔の帖には凝縮している。
 そして、現代文や原文よりも山下智子が語る京ことばの方が、もののあはれと幽玄を伝えるうえで、より言霊の力をもっているということが実感された。
 そして、源氏物語は、その言霊をより強く感応するため、耳で聴くために書かれたということもわかる。
 老いてなお性に奔放な源典侍と、美しく高貴で教養も豊かだが男性には奥手の朝顔の姫君を対比させながら、これまで光源氏と関わった多くの女性達のことが源氏の口から語られ、それらの女性の素晴らしいところを描き出すほどに、今は亡き藤壺の素晴らしさが、よりいっそう鮮明になる。
 しかし、その素晴らしさは、雪のつもる月夜の庭という現実離れした時空の中、藤壺の霊魂を登場させるという設定によって、夢の中の夢のように、よりいっそう現実の彼方の出来事のように感じられるが、それだからいっそう、切なく、胸に迫るものがある。
 この物語の後、光源氏は、雪のつもる月夜の庭という幽玄の世界から、現実世界の栄華を極めた豪華絢爛な世界を築いていくことになるが、この朝顔の帖で、すでに魂は彼岸に向いてしまっているということが伝わってくる。
 そして、その後、光源氏は、月明かりに照らされた雪の中に溶け消えていくようにフェードアウトして、彼を主人公とする『源氏物語』から下りてしまうのだ。 
 源氏物語は、単なるモテ男の女性遍歴などではない。女性遍歴を含め、宮廷生活の彩り豊かな華やいだ世界は、もののあはれや幽玄の世界を、より深く味わい尽くすための仕掛けのようなもの。永遠は、極楽浄土は、時を超える真理は、魂の陰影の深さの中にこそ潜んでいる。
 源氏物語も、平安の時代に掘られた仏も、そのことを、魂の染み入るような深さで伝えてくる。
 一千年も前の文化に比べて、最先端だと気取っている今日の文化は、魂の深さ、世界を洞察する力で計ると、あまりにも浅く、薄っぺらく、周回遅れのランナーのように思えてならない。