第1040回 日本の古代史につながる身体感覚

 ひさしぶりに、京都の家の近くにある温泉に入り、ぐっすりと眠り込んだ。

 一昨日、和歌山の日前宮を訪れた時、和歌山市内に、関西最強と言われる花山温泉があった。関西最強とされるのは、その含有成分の多さで、温泉水に溶存物質が1000mg/kg以上含まれていれば「療養泉」として認められるが、「花山温泉」はその16倍を超える16000mg/kg以上。しかも、二酸化炭素・鉄-カルシウム・マグネシウム-塩化物・炭酸水素塩泉と様々なミネラル分が含まれ、その色も独特だ。このような特別な温泉がある理由は、おそらく、地下活動の盛んな中央構造線上にあるからだろう。

 この温泉のすぐ隣に県内最大の鳴神貝塚があり、さらに、国内では最大規模の群集墳で、700を超える古墳が集中する岩橋千塚古墳群が近くにある。

 花山温泉は古代から存在していたらしく、温泉のあるところは、聖所が多い。当然だと思う。1日の労働の後に、ゆったりと温泉に浸かれるなんて、これ以上の贅沢はないし、禊としても使われただろう。私が通っている近所の温泉も、神社の隣(たぶん昔は境内)にある。

 和歌山市を訪れた理由は、日本のことをもっと深く知りたいという古代探索の一環だが、次の出来事があったからだ。

 1月8日のエントリーで書いたのだが、今年の正月の明け方、空に光の玉が走るのが全国で目撃され、その後、熊本に地震が起こった。太陽黒点が激変し、太陽活動の低下に伴って太陽風によるバリアが弱まり、銀河宇宙線が、大量に太陽圏内に侵入してきた。その頃から、私の友人のうち敏感な人たちの体調が悪化していた。そのうちの一人、和歌山に住む若い友人は、理由もわからず失神しそうになり、私に電話してきた。身体と感性が過剰に敏感になり、周辺を移動する時にも、ものすごく気持ちが晴れ上がって恍惚とするところと、息苦しくて気を失いそうになる所があると言う。いったいどういうことなのだろうと思い、ぜひとも、それらの場所を訪ねてみたいと思ったのだ。

 すると、日本の古代史とも通じる、とても不思議なことが浮かび上がってきた。

 彼は、和歌山市にある古代からの聖所、日前神宮、国懸神宮のそばに住んでいる。

 この神社は、伊勢神宮と同じ鏡を御神体とするとても古い神社で、中央構造線近畿地方の西の端に位置している。東の端が伊勢神宮、真ん中が吉野であり、いずれも、古代から水銀とゆかりのある場所だ。水銀の存在を示す丹生という地名や神社が無数にある。

 ピュアな水銀は、現在でも漢方として用いられるほどだが(水銀の化合物である有機水銀は毒)、古代から、薬や顔料、そして金属の冶金に使われていた。

 和歌山市内の日前宮は、鳥居をくぐった正面の地に結界が張られていて、中に入ることができず、今は、社殿もなく、二つの灯篭が立っているだけだ。そして、メインとなる本殿は、その場所から左右に分かれて二つ、日前神宮と国懸神宮がある。日本でも最も古い神社の一つだが、それぞれの祭神である日前大神、国懸大神がなんのことかよくわかってない。そして、それぞれ、日像鏡と、日矛鏡御神体としている。

 これらの鏡は、伊勢神宮御神体の鏡の前に作られたけれど、あまり見栄えがよくないという理由で、天の岩戸からアマテラスを引き出すために使われなかったものだ。

 正月に身体に異変を感じた私の友人は、鳥居をくぐってまっすぐに歩いて、左右の分かれ道に来た時に強い神気を感じ、前に進めなくなった。今は何もないその空間のところに引き込まれそうだと言う。その後、左右の本殿を訪れても何も感じず、また最初の神気の強いところに戻ってきて、ここに何があるのだろうかと、結界の周辺をウロウロしていたら、突然、眩しい感じ、頭上を仰ぐと、ちょうど南中の太陽が、鳥居の上に出ていた。時計を見ると、11時57分で、正午になると、その結界の正面に太陽が来ることがわかった。

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日前宮、鳥居の正面、結界の張られた空白地帯

 その後、その友人が、気持が良くなる場所に行きたいと言い、車を東に走らせて、古くから人々の崇敬を集める一宮の伊太祁曾神社を目指した。

 しかし、彼は、伊太祁曾神の社殿のところにはあまり関心がないようで、鳥居を入ったところに座って、ずっと休憩している。そして、伊太祁曾神社から歩いて15分くらいのところにある鎮守の杜に行きたいと、ウズウズしている。そこに向かうために、鳥居のすぐそばに二つの道があるが、どうしてもこちらを通りたい、こちらの方が気持ちいいと彼が言う道は、切り通しになっている。確かに気持ちの良い気が流れている。その時、その切り通しの表面を観察すると、なんとその地層は、樹木が積み重なったものだった。完全に土になりきっていないが、膨大な樹木が横倒しになって積み重なって地層になっているのだった。

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伊太祁曾神の鳥居を出た所の切り通し(樹木の断層)

 その切り通しを通り抜けて、集落の中や田畑のあいだを通り抜け、鎮守の杜にたどり着いた。そこは本当に気持ちの良い気が流れていて、いつまでも留まっていたいところで、私たちは、裸足になって寝そべっていた。すると、彼は、ウネウネと奇妙な舞踏のように身体を動かし、とても安らかな気分に浸っているようだった。

 

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亥の森、三生神社

 この鎮守の杜は、三生神社(亥の森)と言われ、実は、伊太祁曾神社の祭神、五十猛神が、古代に祀られていた場所だった。そして、五十猛神は、この杜に来る前は、なんと、日前神宮に祀られていたのだ。この杜に移されたのが第11代垂仁天皇の時(4世紀ごろ)で、現在の伊太祁曾神社に移ったのは、古事記編纂の翌年の713年だ。

 すると、日前神宮の鳥居の正面、あの何もなかった空間は、五十猛神が祀られていた場所だった可能性がある。家に帰って、いろいろ調べてみると、江戸時代までは、あの鳥居の正面は、今よりもずっと奥行きがあり、いろいろな社殿が建っていたことがわかった。そして、現在の日前神宮、国懸神宮は、その正面のスペースの両隣で、脇役のような存在になっている。

 そして、面白いことに、五十猛神は、樹木の神さまであり、現在の伊太祁曾神社の鳥居のそばの切り通しが樹木の墓場のような地層になっていることを考えると、おそらく切り通し以外の周辺地域も同じような状態で、伊太祁曽神社は、樹木の墓場のような場所に建てられた可能性がある。樹木の神様である五十猛神を祀るために。

 そうすると、私の友人が恍惚感を感じるところは、どれも五十猛神と関係があるところだったということになる。

 彼は、何の予備知識もなく、ただの体感だけで、それらの場所に導かれていた。そして、心底、気持ちが良さそうにしていた。

 樹木の神様の五十猛神とは、いったい何なのか。そして、なぜ、紀ノ川河口に鎮座していたのに、垂仁天皇の頃、亥の森に移り、さらに古事記編纂の頃、現在の伊太祁曾神社に移ったのか。

 それは、日本の古代史の変遷と秘密に、とても深くつながっている。そして、その秘密に、隼人、海人、ニギハヤイ、丹生都比売が関わり、そこに神武天皇の神話が、重なってくる。

 まさに、出雲や播磨と同じように、ここにも国譲りの物語の形跡が見られる。

 日本の歴史は複雑だが、頭で整理する前に、身体で感じるものにそって編んでいくと、くっきりとしたものが浮かび上がってくる。この身体感覚は、いったい何だろうか。そして、今年の正月、太陽活動や宇宙線量の変化にともなって敏感な体質な人に起きた身体の異常と、どのように関係しているのだろうか?

 (つづく)