第1041回 病老死を遠ざけたいという、現代の屈折した病

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201902/0012086861.shtml

 2019年2月22日の神戸新聞の記事によると、望ましい最期の場所を余命の短い患者らに提供する施設「看取(みと)りの家」が神戸市須磨区で計画されていることに対し、近隣住民らが反対運動を展開している。施設は、1970年代に入居が始まった須磨ニュータウンの一角にある。少子高齢化の進行で周辺では空き家が増加している。

 昨年10月、事業者が自治会関係者に事業概要を文書で伝えたところ、自治会側が反対の意思を表明。詳しい説明を求める住民と事業者がもみ合いになり、警察が出動したこともあった。自治会側は「看取りの家はいらない」「断固反対」と記したチラシを住民に配布し、各戸の外壁に張り出した。その後、事業者側が住民説明会を申し入れたが、自治会側は拒否している。 

 日本に愛着はあるけれど、日本にいて、なんともやりきれない思いになるのが、こういうニュースに触れる時だ。

 世界の様々な地域を旅したことがある人なら実感としてわかると思うが、日本よりも生活水準が低いにもかかわらず、日本よりも、心豊かに、幸福そうな顔で生きている子供や老人が多いという現実に触れて、人間の豊かさとはいったい何だろうと思わずにいられない、という経験をした人は多いと思う。

 日本は、これから先の20年、相当な危機に直面するだろう。人類史のなかで経験したことのないような、共同体の中に占める高齢者の数。しかも、その高齢者が、病や老いや死を、悪の巣窟のようにとらえ、遠ざけようとすると、いったいどうなるだろう。

 健康産業は潤い、テレビのコマーシャルは、健康に関わる通販番組と、やかましいだけなのに、それが元気で健康的であるかのように見せる番組(消費者に媚びたスポンサーとテレビ局のマーケティングによって)ばかりになるだろう。

 そして、政治は、直面している危機を、統計不正など色々な手段でごまかして、虚ろな大衆に媚びた政策を続けるのだろう。

 さらに、各種の表現に携わる者たちは、こうした偏狭な価値観の変容を促すために努力すべきなのに、政治家と同じように、自身の虚栄を優先して、事態の本質に向き合わず、刹那的な刺激を提供し続けることに、かまけるのだろう。

 虚ろな人々は、自分の子供が通うための保育園や、自分の体調が優れない時に通う病院施設、自分の肉親をケアしてもらう福祉施設の数が足りないと不満の声をあげる。しかし、それは、自分の日々の生活に制限を与える障害をできるだけ遠ざけたいという自己都合的な欲求でしかないのか、自分の家のすぐ側に、それらの施設ができることには、声をあげて反対する。

 現在の日本を象徴する典型的な、屈折した光景を、そこに感じる。

 やかましいだけのテレビから離れ、煽情的な広告塔の乱立する都会に足を向けることもやめ、しばらくの間、自然の中に心身を浸す時間を持つようにすれば、私たちが、生きて存在していること自体が、いったいどういうことなんだろうと不思議でならない気持ちになるかもしれない。生命のこの精巧さ、強靱さ、脆弱さは、一体どういうことなのか。生命の神秘の解答は、ダーウィンの唱える進化論なんかで説明しきれない、もっと奥深いところにあることは間違いない。

 ここ数年、樹齢数百年という大樹を見るために、時々、様々な場所を訪れている。

 長く生きてきた大樹の幹は、あちこちに瘤が盛り上がっている。それは、樹木のエネルギーが、型に収まりきれずに外に押し出ようとする形にも見える。生きているあいだに、そうした衝動が何度も何度も繰り返したのだろう。無数の瘤の集まりが、樹木そのものの本質のようにも見える。生命は、型に収まりきれずに、もがいている。そのもがきこそが生命の証とするならば、現代社会において「病」と整理しているもののなかに、生命の本質が秘められているとも言える。

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樹齢千年と言われる、奈良豆比古神社の楠の木。

 しかし、「病」とされる症状に陥ると、そのもがいている状態が、苦しみという言葉で表される。確かに苦しい。しかし、「苦しい」という言葉を知らずに、その状態と向き合えば、どうなんだろう。わけのわからない突き上げるような衝動。いったい何の衝動が、どこに向かって、突き上げようとしているのか。その先に、生命は、何を志向しているのか。

 世界は揺さぶられて何かが引き起こされる。そういうことが繰り返されてきた。エネルギーというものは、常に、そうした破壊と創造を引き起こす。瘤だらけの幹に生命力を感じるのは、生命力が、まさにそうしたエネルギーであることを、私たちが本質的に知っているからだ。

 調和とは程遠い瘤を醜いと思う人もいる。しかし、長い歳月を乗り越えた大樹が無数の瘤をまとっているということは、瘤の積み重ねこそが、その樹木の歴史なのだ。人類の歴史もしかり。そして、一人ひとりの人生もまた、瘤のような身じろぎ、溢れ出るような衝動を否定してしまうと、いったい何が残るというのか。

 機械のように秩序的に管理された身体と心が健全という考えは、永遠に連なる生命よりも、ただこの瞬間を無難にやりすごしたいという無気力と相性がいいというだけで、現代の人々に支持されている。