第1058回 今、認知症やそれ以外の理由で徘徊や失踪の恐れのある人を介護している人に、お伝えしたいことがあります。

 今、認知症やそれ以外の理由で徘徊や失踪の恐れのある人を介護している人に、お伝えしたいことがあります。
 背中とか、どこか明確なところに、名前と保護者の電話番号を目立つように書いてください。
 というのは、現在、タクシードライバーの中には、経験が浅くてナビやオートマに頼っているだけの人も多く、プロとしての勘を働かせられる人ばかりとは限りません。
 乗せた客が、たとえ手ぶらで着の身着のままにもかかわらず、はるか遠方の場所、九州の博多とか東京と行き先を告げて、「お金は着いた時に家族が払う」と無責任なことを言っても、なんの疑問も覚えず、そのまま行ってしまうドライバーがいます。20万円ほどの料金になることがわかっていても。長時間のドライブの前に到着先の家族の電話番号を聞いて支払いの承諾の確認してから出発するのではなく、そのまま行ってしまうということが起こります。
 そうすると、いくら捜索願を出していても、全国的な範囲となってしまうため、行方不明者が、非常に引っかかりにくくなります。
 本人が自分の名前をはっきり言えば、保護された時、もしくは料金未払いで警察の拘束された時に、パソコンの検索で身元不明者だとわかりますが、その本人が、自分の名前をはっきりと名乗れるとは限りません。記憶喪失だったり、違う名前を信じ込んでいるということだってあります。
 そうすると、どこの誰かわからない人間がお金を払う意思を持たないままタクシーに乗ったということで、その未払いの金額のために、タクシー会社が被害届を出します。その時点で保護者なり引き取り人が誰かわからない状態が続くと、無賃乗車の被疑者の逃亡を防ぐため、逮捕されて留置所に入れられてしまいます。さらに、保護者とのつながりが不明なままの状態が続くと、刑事ではなく検察の案件となり、検察の指揮下での逮捕状態ということになります。
 いったんそういう状態になると、刑事もさすがにそのままにはできないので、ようやく身元不明者との確認を丁寧にやりはじめます。しかし、身元不明者の捜索願の数は膨大で、名前がわからず顔写真だけだと、照会のためにものすごく時間がかかります。
 そして、ようやく身元がわかり、保護者に連絡が行き、保護者が引き取りに行き、説明を行っても、すぐに釈放されません。タクシー会社が被害届を取り下げるための手続き他、時間がかかります。しかも、保護者は刑事と会うことができても、検事に直接会うことはできません。検事の指揮下となっている案件だと、刑事がいくら事情を理解しても、その事情を検事に伝え、検事が、”事件解決”の様々な仕事をしてはじめて釈放となります。
 それでも健常者が拘留されている場合は、日数がかかろうとも、待っていれば檻の外に出られることはわかっているので、辛くても、ひたすら待てばいいのです。
 しかし、もしも、高血圧や糖尿病やそれ以外の薬を飲み続けなければいけない人であった場合、刑務所に拘留され続けているあいだは、家族が持っていった薬を飲ませることはできません。外からの薬は一切禁止です。
 たとえば薬を飲めていないことの症状が檻の中で出ていたとしても、留置所の職員がその症状が何なのか気づかなければ、そのまま放置されます。
 そして、ようやく保護者がわかり保護者が病状を説明してもダメで、通院している主治医と連絡をとり(お医者さんも忙しいので必ずすぐ連絡がとれるとは限りません)、症状を聞き出し、そのうえで、警察署の担当者が、その症状に対応できる病院を探し、病院に協力を依頼し、その病院の医師が診断を行い、そのうえで薬を処方してはじめて、その薬を飲むことができます。
 そうした複雑な諸手続きがあり、いつ薬を飲むことができるかわかりません。
 飲まなければならない薬を飲めないという状態のまま、検事が事件の解決と判断し、定められた仕事を終了しないかぎり、拘留は続きます。検事も忙しいので、すぐにその仕事をするとはかぎりません。
 最低10日ならば、まあ大したことないと思えるのは、健康な人間が拘留されている場合です。そうでなく、何かしらの病を抱えていて薬を飲めないという状態ならば、経過していく1日1日は、地獄のような思いとなります。
 繰り返しになりますが、認知症などの徘徊が、近場で起こっているとは限りません。そういう人を安易に遠方まで連れていってしまうタクシードライバーが存在します。保護者の想像をはるかにこえた所、行方不明の搜索の範疇をはるかに超えたところに、高速道路などを使ってあっという間に行ってしまっているケースもあります。
 さらに、その場所で、留置所に入れられて、しばらく出てこれないという事態に陥っているということも、ありえます。さらに、飲まなければいけない命に関わる薬を飲めず。さらに、ようやく保護者が特定化できても、そこから様々な手続きを踏まなければ、必要な薬を再開できないという恐ろしい事態です。
 そのあいだ、たとえ居場所がわかっていても、自分の懐に保護できず、不安に苛まれる日は続きます。
 今、認知症やそれ以外の理由で徘徊や失踪の恐れのある人を介護している人に、お伝えしたいことがあります。
 背中とか、どこか明確なところに、名前と保護者の電話番号を目立つように書いてください。

第1057回 日本の古層〜相反するものを調和させる歴史文化〜(12)

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伊勢神宮宇治橋と、京都宇治の宇治橋長岡京が造営された向日山、亀岡の稗田野神社は、冬至の日に太陽が上るライン上にある。比叡山の麓の小野郷、山科の小野郷、宇治の朝日山、木津川のそばの椿井大塚山は、同経度(135.816度)の南北ライン上で、和邇氏(小野氏)と関わりが深い。山科の小野郷と同緯度(北緯34.96度の真西が大原野神社で、それぞれ、平安京の風門(南東)と、人門(西南)にあたる。平安京の鬼門(東北)は、比叡山麓の小野郷で、さらに鬼門のラインは、琵琶湖に面した和邇(小野)の地に至る。平安京の守護神、下鴨神社から天門(西北)の方向に、清滝川源流域の小野郷がある。向日山と同経度(135.697度)の真南、木津川、宇治川桂川の合流点のそばにあるのが恵解山古墳で、ここから、700点を超える鉄製の武器を納めた武器類埋納施設が発見された。

 京都市の西部、梅宮大社松尾大社から真南に7kmほど行ったところに、向日市がある。日本で三番目に面積の小さな市だが、この地の向日山を軸にして、その左右に長岡京の左京と右京が広がっていた。

 この地への遷都を提唱し、遷都の最高責任者だった藤原種継は、母親が秦氏で、子供の頃は、母の実家のある大原野で過ごしていた。

 大原野というのは、向日山の西、4キロ弱のところで、紫式部氏神である大原野神社が鎮座している。

 しかし、長岡京建設途中で藤原種継は暗殺され、暗殺の首謀者として、大伴氏、佐伯氏、多治比氏(後に、菅原道眞の怨霊を最初に説いた多治比文子の氏族)、そして、桓武天皇の同父同母の弟である早良親王が捕らえられ、処罰された。

 この事件は、藤原氏による大伴氏など政敵追い落としの陰謀だと言われることがある。

 一方、藤原四家のうち、藤原式家藤原北家の勢力争いが背後にあったと考えることもできる。 

 というのは、藤原種継は、藤原四家のうち藤原式家だった。藤原式家は、藤原百川が、女帝の第48代称徳天皇皇嗣を定めないまま崩御した際、天智系の白壁王(のちの第49代光仁天皇)擁立に尽力し、光仁天皇の息子である桓武天皇即位への道を作り、藤原百川の兄である藤原良継の娘、藤原乙牟漏が桓武天皇の妃となり、第51代平城天皇を産む。

(藤原乙牟漏の墓とされる古墳も向日市にあるが、考古学的に、この古墳は四世紀のものとされ、実情と異なっている。)。

 この平城天皇を支えたのが、藤原種継の子供たちである藤原薬子藤原仲成の兄妹だが、この2人は、第52代嵯峨天皇の妃となった橘嘉智子の姉と婚姻によって嵯峨天皇と関係を深めた藤原北家によって滅ぼされた。(810年 薬子の変

  この後、藤原式家に変わって藤原北家が、政界の中枢を担い続けることとなる。

 それにしても、なぜ、藤原種継は、向日山の地に都を築こうとしたのか。

 自分の母親の実家(秦氏)が大原であり、そこに近いということや、この周辺には物集という土地があり、物集氏は秦氏と同族であったことも理由だろうか。実際に、藤原種継と関わりの深い秦氏一族の者は、長岡京の造営に功があったとして叙爵されている。

 秦氏が日本にやってきたのは第15代応神天皇の治世、5世紀の前半と考えられる。

 しかし、藤原種継が長岡都を築こうとした向日山一帯は、秦氏が日本にやってくる前から特別の場所であった。

 京都の桂川西岸から、向日市長岡京市大山崎町にかけて、100基を超す古墳があり、乙訓古墳群と呼ばれる。この古墳群の特長は、首長クラスの古墳が37基確認されており、古墳時代を通じて継続的に築造されている点で、他に例を見ない特殊な大型古墳群である。しかも、古墳前期の頃から、大和政権中枢の大型古墳と同じ要素を備えているため、大和政権と強い関係があったと考えられている。

 そのなかでも長岡宮を見下ろす位置にある向日山周辺には、古墳時代前期の古い大型古墳が幾つか存在している。

 向日山の南端には、弥生時代の向地性集落、北山遺跡があるが、その北側には、元稲荷古墳という3世紀末頃に作られた大型の前方後方墳がある。

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元稲荷古墳 長岡京を左京と右京に分ける向日山に鎮座する全長94m前方後方墳。紀元前3世紀後に築造された。石室は盗掘にあっているが、神戸で、卑弥呼の鏡と言われる三角縁神獣鏡が7面出た神戸の西求女塚お古墳と同じ時期、同じ大き朝、同じ形である。すぐ近くに、奈良の箸墓古墳と同時期、同型の五塚原古墳がある。元稲荷古墳は、前方後方墳ということで、大和政権とは一定の距離を保っていた豪族のものだと考えられる。

さらに 元稲荷古墳の少し北には、五塚原古墳、妙見山古墳、寺戸大塚古墳という古墳時代前期(三世紀中から四世紀前半)に建造された大型の前方後円墳がある。

 五塚原古墳は、国内でも最古級の大型前方後円墳であり、卑弥呼の古墳と騒がれている奈良の箸墓古墳と共通するところが多い。

 また、妙見山古墳と寺戸大塚古墳からは、卑弥呼の鏡と一部の人のあいだで騒がれている三角縁神獣鏡が出土しているが、木津川の曲がりのところにある椿井大塚古墳から出土した36面以上の三角縁神獣鏡同じ型から制作されたものであるため、椿井大塚古墳の被葬者と、向日山の妙見山古墳と寺戸大塚古墳の被葬者が支配関係にあったという説もある。

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寺戸大塚古墳。古墳時代前期の前方後円墳。全長98m。木津川沿いの椿井大塚山と同じ型で造られた三角縁神獣鏡が出土し、両者のあいだに強い結びつきがあったと考えられる。

 興味深いことに、向日山から冬至の日に太陽が上る方向に、宇治川にかかる宇治橋がある。そして、宇治上神社の背後にそびえる朝日山がある。向日山は、冬至の日に、宇治の朝日山から上る太陽の遥拝所なのだ。

 さらに、この向日山と宇治橋をつなぐ冬至のラインを伸ばしていくと、伊勢神宮宇治橋である。

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伊勢神宮 宇治橋

 宇治の宇治上神社の祭神は、応神天皇と和珥氏祖の日触使主(ひふれのおみ)の娘、矢河枝比売(やかわえひめ)もとのあいだに生まれた菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)=<仁徳天皇皇位を譲るために自殺した>であり、宇治は、和邇氏と関わりが深い。

 また、向日山から逆方向にラインを伸ばすと、古事記』の編纂者の1人、稗田阿礼が生まれ育った場所とされる亀岡佐伯郷の稗田野神社となる。

 稗田阿礼は言霊を担う猿女氏の人物であり、小野氏(和邇氏の末裔)が、猿女氏を管理し、小野氏のなかから猿女を出していたという記録も残されている。

 そのためか、『古事記』のなかで、天皇以外では、和邇氏に関わる記述がもっとも多い。なので、亀岡の佐伯郷も、小野氏と深い関係があった可能性がある。

 和邇氏(小野氏)というのは、古代において、言霊と関わりが深い。

 『古事記』というのは、まさに言霊である。そして、和邇氏の末裔の一つが柿本氏であり、柿本人麿という日本古代における代表的な言霊の使い手が出ている。また、小野氏においては、小野小町小野篁など、和歌や漢詩に優れた者が多く出ている。

 さらに、小野氏と関わりの深い神社は、大祓の祝詞の中でもっとも重要な神、瀬織津姫を祀っていることが多い。祝詞は、神前で奏上する霊力のある言霊であり、その中でも大祓の祝詞は、日本人が古来から大切にしてきた、「穢れ」「罪」「過ち」を祓う重要な言霊である。

 東京(武蔵国)の一宮である小野神社も瀬織津姫が祭神だし、京都市で唯一、瀬織津姫を祀っているのは、京都の北部の小野郷の岩戸落葉神社と大森加茂神社である。どちらも清滝川のそばだが、小野氏(和邇氏)は、宇治川や、小野小町が住んでいた山科の小野郷の山科川比叡山麓の小野郷の高野川など、河川との関わりも深い。

 その瀬織津姫は、向日山から冬至の日の太陽のライン上にある宇治の宇治橋と、伊勢神宮宇治橋にも祀られている。

 それぞれの橋には、橋姫神社、饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)があり、橋姫が祀られているが、橋姫というのは、646年、宇治橋を架けられた際に、宇治川上流に祀られていた瀬織津媛を祀ったのが始まりなのだ。、伊勢神宮宇治橋の方は、後に、宇治の宇治橋に倣って、疫病神や悪霊などの悪しきものが入るのを防ぐために、祓いの神が祀られたそうだ。 

 宇治の橋姫は、『源氏物語』において、光源氏が姿を消した後から始まる宇治十帖の中の最初に描かれる重要なテーマである。
 日本史の中でもっとも優れた文学「源氏物語」の作者である紫式部は、小野氏と関わりが深い。

 京都の西陣の地に紫式部の墓があるが、なぜか、小野篁と隣り合わせになっている。

 そして、紫式部の曽祖父、藤原定方の母は、山科の小野郷の豪族、宮道氏の娘である。

 紫式部氏神である大原野神社と、紫式部の曽祖父、藤原定方の母の実家の山科の小野郷は、同緯度の東西のライン上(北緯34.96度)にあるが、向日山の元稲荷古墳の北の乙訓古墳群(寺戸大塚古墳、妙見山古墳、五塚原古墳)も、ほぼこのラインと近いところにある。

  さて、話を長岡京のことに戻す。

 秦氏を母親にもつ藤原種継が暗殺された後、大伴氏、佐伯氏らとともに早良親王も処罰され、親王は無実を訴えながら悶死する。

 その後、長岡京には、不吉なことが次々と起こり、桓武天皇は、早良親王の祟りと恐れ、長岡京から平安京への遷都を決断する。

 だとすれば、平安京は、まさに祟りへの対応策として建設された都だということになる。

 平安京の要である大極殿から丑寅の方向、すなわち鬼門に位置するのが比叡山の麓の八瀬であり、ここは古くからの小野郷である。

 早良親王が祀られているのは、この小野郷の崇道神社であり、崇道神社の境内から小野毛人(遣隋使で有名な小野妹子の息子)の墓が発見された。

 さらに、この鬼門のラインをのばしていくと、琵琶湖に面した和邇の地、小野郷であり、ここには和邇氏の有力者の墓と考えれている春日山古墳群、小野妹子の墓、小野神社などがある。

 

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滋賀県大津市和邇の地にある小野妹子の墓

 さらに、平安京大極殿から東南(風門)の方向にあるのが、小野小町小野篁が生まれ育った小野郷である。そして、西南(人門)は、大原野神社であり、ここは、紫式部氏神であり、藤原種継の母の実家(秦氏)があった場所となる。

 大原野神社一帯は春日という地名だが、春日氏というのも、小野氏や柿本氏と同様、和邇氏の末裔である。

 この三つの門は、正確に、大極殿から東北、東南、西南に位置している。もう一つの門が、魑魅魍魎が入ってくる天門(北西)であるが、大極殿の天門を鎮めるために造られたのが上京区大将軍八神社なのだが、平安京遷都に当たって、桓武天皇は、下鴨神社で造営祈願を行なった。下鴨神社は、大極殿の東北の鬼門にあたるが、その下鴨神社から北西、天門の位置にあるのが、清滝川上流の小野郷なのだ。

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都の西北部、天門(魑魅魍魎が入ってくる)の位置にあたる清滝川源流域の小野郷

 このように、平安京を守る四方位に和邇(小野)が関係している。

 そうすると、秦氏を母に持つ藤原種継が遷都を提言した長岡京で天災や疫病など不吉なことが続いた後に移った京都は、小野(和邇)の霊性に守られた場所だということになる。

 向日市の乙訓古墳群の妙見山古墳や寺戸大塚古墳との関わりがあるとみられる椿井大塚山古墳がある木津川の曲がりは、和邇氏の拠点だった。系譜の上での神功皇后の祖先は、和邇氏の母から生まれた彦座王(第10代崇神天皇の腹違いの弟。崇神天皇の母は物部氏)と和邇氏の娘、袁祁都比売命(おけつひめのみこと)のあいだに生まれた山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)であり、この王の名は、王の名は地名に由来しており、山城国綴喜郡、木津川に沿った井手町あたりと考えられる。

 そして、不思議なことに、この椿井大塚山古墳と、和邇氏と関わりの深い宇治の地の朝日山、山科の小野郷、比叡山麓の小野郷は、東経135.816度という精密な経度の南北ライン上に位置しているのだ。

 亀岡の佐伯郷は、犬飼川を通じて桂川に至り、桂川は向日山のそばを流れる。そして、桂川は、大山崎宇治川と合流する。京都西南の小野郷を流れる山科川伏見桃山宇治川に合流する。京都東北の小野郷の高野川は鴨川と合流し、さらに桂川と合流する。

 椿井大塚山古墳のそばを流れる木津川も、宇治川桂川と合流する。

 すべての地は川でつながっているが、宇治川、木津川、桂川の大河の合流点が大山崎であるが、そこにあるのが、乙訓古墳群で最大の恵解山古墳(いげのやまこふん)で、この古墳は、五世紀の前半に造られた全長120mの前方後円墳である。

 恵解山古墳の位置は、向日山の真南、東経135.697度である。

 この古墳の最大の特徴は、副葬品の鉄製の武器だ。この古墳からは、大刀146点前後、剣11点、槍57点以上、短刀1点、刀子10点、弓矢の鏃472点余り、ヤス状鉄製品5点)など総数約700点を納めた武器類埋納施設が発見され、古墳からこのように多量の鉄製武器が出土した例は京都府内にはなく、全国的に見ても非常に珍しい。

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向日山から南方向を見ると、右手側にそびえるのが天王山で、その左端が大山崎で、木津川と宇治川桂川の合流点である。

 こうして順々に見ていくと、向日山周辺には、弥生時代から人々が住み着き、3世紀末には元稲荷古墳という大型の前方後方墳が築くほどの勢力を持つ豪族がいた。古墳時代前期、この地域の豪族は、妙見山古墳や寺戸大塚古墳の被葬者のように、木津川流域の椿井大塚山古墳の被葬者と関わりがあり、奈良のヤマト政権ともつながりがあった。

 しかし、五世紀の前半、応神天皇の頃、秦氏など多くの渡来人が日本にやってきたが、彼らは、鉄製の武器制作の技術なども所有し、日本の権力構造を変えた。

 超大型の古墳が、次々と河内の地に造られるようになり、木津川、宇治川桂川の合流付近でも、鉄製の武器によって支配力を強めた豪族が現れた。

 そして、その頃より、向日山周辺には物集女氏(秦氏と同族)が住み、秦氏は、桂川流域の開発を積極的に行い、平安京遷都の前に、長岡京から平安京にかけての地域に、勢力を広げていた。

 秦氏とつながりの深い藤原種継が、長岡京への遷都を提言した背景には、そのあたりの歴史的実情があったと思われる。

 しかし、長岡京の後、平安京の造営においては、和邇(小野)氏の霊性が関わっており、秦氏和邇氏の関係がどういうものであったか、謎は残る。(つづく)

第1056回 選挙の前に考えておきたい日本のこと。

 ふだんから考えていなければならないことだけど、選挙の前は、やはり、ふだんは忘れていることでも、色々と考えざるを得ない。自分の一票が政治を動かすなんて、組織票が圧倒的な力を持つ小選挙区制の中では考えにくいけれど、自分がどういう世の中に生きているか、後に、歴史的にどう評価される時代の中に生きているのか、認識しておきたいという気持ちは強い。
 過去のことを知りたいと思うのも、過去に起きた事実のことが知りたいのではなく、その背景に何があったのか、どういうメカニズムが働いていたのか、その制限のなかで、人間の想像力や認識力や選択肢が、どう限られていたのかを知りたいから。
 人間は、自由気ままに生きられる生物ではなく、決められた制限の中で選択をして生きている。ならば、その制限を生み出しているものが何なのかは知っておかなければならない。
 それが、人間には及ばない自然の力による制限もあるし、その場合は、神頼みするしかないかもしれない。
 しかし、その制限を作り出しているものは、人間自身であるということもある。ならばその制限の理由は何なのか。
 特権化された一部の人間の仕業なのか。
 実はそうではなく、1人ひとりの人間の卑怯さや弱さや愚かさが寄り集まって、そうなっているだけなのか。 
 民主主義で投票行動によって政治家が選ばれるのであれば、数だけ見れば、特権化された人間以外の方が多いのは明らかで、にもかかわらず、特権化された人間に有利な結果しかでないとすれば、一人ひとりの人間の卑怯さや弱さや愚かさに、上手に付け込まれた結果だとも言える。
 だとすれば、政治家の問題以前に、日本人1人ひとりの問題ということになる。
 この国の政治家は信頼に値するのか、と考える前に、日本人というのは、果たして、信頼に値するのか。
 正直に言って、自分も日本人の1人だから偉そうには言えないけれど、日本人ってどうなのよ? と思わされる局面は多い。
 外国人労働者への対応の仕方にしても、近所に保育所ができることへの抗議活動にしても、スマホを見ながら歩いていて、ぶつかった盲目の人に、目が見えないなら1人で歩くなと言う人がいるということや、満員電車の中で自分のスペースを強引に確保してスマホで動画やゲームを楽しんでいる人も多い。
 いちいち挙げていたらキリがないけれど、それではなぜ、そういう風になってしまっているのかを見てみると、子供に害があることを知っていてビジネスのために商品を作り続ける大人がたくさんいるし、世の中は、子供向けのキャッチコピーで子供に甘い親にお金を出させようとするマーケティングだらけ。
 なぜそうなるのかとさらに突き詰めると、けっきょく、食っていくために仕方ない、という話になる。
 日本の政治も、けっきょく、1人ひとりの日本人の、「食っていくためには仕方ない」という保身の気持ちに、どう付け込み、どう利用し、どう味方に引き入れるかという駆け引きでしかないのかもしれない。 
 政治が変われるのかという前に、果たして日本人は変われるのか。
 3.11の震災直後、世の中はちょっと暗くなったけれど、何か変われるんじゃないかと思った時もあった。
 でも、見たくないものは隠して見えないようにしたいという日本人の性根をうまく利用した安倍政権というのができてから、あっという間に、その変化の可能性がもみ消されてしまった。 
 ある意味で、日本人の卑怯さや弱さや愚かさは、安倍政権という権力装置のエンジンであり、だからこそ、この政権が肥大化することが、恐ろしい。安倍政権が恐ろしいのではなく、安倍政権を担ぐ勢力の拡大が恐ろしい。この国が、どこまでも卑劣に、どこまでも猜疑的で小心的に、どこまでも愚かになっていく線路が敷かれていくように思えてならないから。
 だって、安倍首相が、国民の受けを狙って発言している言葉のなかに、人間の徳として惹きつけられるものが、はたしてどれだけあるか確認すればわかる。安倍首相は、1人ひとりの保身の気持ちに働きかける言葉しか発していない。
 与党か野党かということはひとまず置いて、年金問題とか安全保障とか格差是正とか、社会保障の充実とか消費税云々という、所属する組織が同じなら誰が言っても同じ、という内容の言葉しか吐けていない人は信頼できない。そういう人は、所属する組織が変われば異なることを言う。
 安倍首相が長続きしているのは、彼が非個性であり、手渡された文章をそのまま読む人であり、それが組織の安定につながると考える人たちが彼を支える。
アメリカは唯一の同盟国です。日本が侵略されれば守ってくれる国です。その国の代表者と親しくするのは、日本の代表者としての当然の責任です」などという言葉も、誰かから用意されたか、誰かから刷り込まれた言葉にしか聞こえず、自分の信念による自分の言葉だとは、とうてい思えない。
 だって、彼が頼りきっているアメリカのトップは、「日本は自分でちゃんと自分の国を守るべきだ、それをアメリカに負担させるのはおかしい」と、公言してはばからない。
 欧州をはじめ、トランプ政権にすり寄っていくのはちょっとやばい、トランプ政権よりも、トランプ政権がムキになって攻撃し続けている中国やイランの方が、まだバランス感覚があるのではないか、と、トランプ政権から少しずつ距離をおき始めている現在、日本のトップが、世界情勢を正しく俯瞰できているかどうか。
 欧州が少しつづ立ち位置を変えてきているのは、日本よりも近く関係の深いアフリカという大きな大陸の変化も見えているからだろう。
 若い人の人口や資源など将来性の豊かなアフリカの国々の状況が、中国の影響力の高まりとともに刻々と変化し続けている。
 アフリカでは中国語がブームで、ウガンダでは、学校教育で中国語が必須教科になった。
 長い間、戦乱などで荒れ果てていたジプチも、中国の進出とともに劇的に変わりつつある。
 アメリカやソ連がアフリカを利用して争っていた時は、内戦を起こさせることで、その国の主力グループがアメリカを頼らなければならないという構造を維持し続けていた。
 それは巧妙な隷属化であり、それがアメリカのやり方で、実は日本も、そのシステムの中に巧みに取り込まれている。先の大戦後、アフリカの国々との地政学的な違いから、異なる役割を与えられてきただけのことだ。
 中国のアフリカへの進出の仕方は少し異なる。中国は、お金だけでなく、技術と人材と労働者も送り込んで、一つの国を大改造してしまう。それは、この20年ほどの短期間のあいだに自国で成し遂げたノウハウの輸出だ。
 これまでのアメリカに支えられてきた一部の権力者だけでなく、アフリカの国民の多くに変化をもたらし、それが希望に感じられるシステムなのだから、アフリカの人々が中国語を身につけてチャンスを広げようと考えるのも自然なこととなる。
 この流れが続けば、10年後、20年後を見据えれば、アメリカこそが世界の中で孤立化していく可能性だってある。
 そのアメリカに、便利なヤツと軽く思われて仲良くしてもらっている状態を、自分の外交の成果だと思っているほど、日本のトップが能天気な人だとは思いたくないが、この選挙戦の中で用いられる彼の薄っぺらい言葉が、どうも気になる。
 「あの民主党政権に戻っていいのですか?」「アメリカ以外に、誰がこの国を守ってくれるのです」「政治の安定こそ重要です」。
 変化や混乱を嫌い、見たくないものは隠してでも心の安定が得られればいいという日本人の性根に響く言葉であり、誰かが市場調査のうえシナリオを書いて、安倍首相に、たとえ原稿の棒読みでも、語らせればいいと考えている類のもので、それに従う神輿に担がれた首相。
 ただ、それに対する野党の候補者も、果たして、自分の言葉できちんと語れている人がどれだけいるか。
 参院選だけでは、どんな結果になろうが政権交代はない。なので、どの党にするかではなく、誰にするかという基準を自分の中に設定できるような、投票する側の準備(知識や現状認識や将来展望)をする期間と考えてもいいのかもしれない。
 投票者の質があがらなければ、候補者の質もあがらない。
 特別な知識を持った専門家でなくても、安倍首相が「今、経済も好調、雇用も好調、あの民主党政権の状態に戻していいのか?」という主張の欺瞞はわかるはず。
 日銀に、日本企業の株を大量に買わせて、さらに国民の年金資金まで日本株購入にまわして、インチキのやり方で日本株を支えて、見せかけだけの数字を作ってきた安倍政権。
 こういうやり方が長続きするはずがなく、いずれ、とんでもない矛盾が吹き出してくることになる。
 3.11の震災時の原発問題も、本質的には自民党の責任だが、民主党が無能という材料に使われてしまった。
 安倍首相の主張する、「あの民主党政権時代に戻っていいのか」というのは、とんでもない言い分で、あの国家的な危機の時に、野党の立場だった自民党は、民主党政権の「復興政策案、予算案の全てに反対して、果ては 「審議拒否」や「内閣不信任案」まで提出し「解散総選挙」を求めていただけ。
 また、結果的に短命で終わった民主党政権は、2009年の始めから2012年の終わり、すなわち、リーマンショックの直後から、東北大震災と原爆事故という戦後最悪期の政権だった。
 その期間、自民党が政権を担っていなかったのがラッキーで、その幸運によって、安倍政権が長命になっている。
 安倍首相の能力ではなく、そうした背景があって、これまで選挙に大勝しているだけ。
 日銀に架空のお金をつくらせて、それで日本株を買って株価を上げる。海外の投資家たちは、そのインチキを知ったうえで、虚構の株高に便乗しているだけ。そのサイクルのなかで、経済好調に見える。けれども、そのインチキの構造を知っていて参入している人たちは、引き際もわきまえている。逃げるタイミングから遅れることもないだろう。
 安倍首相の主張を真に受けている人が、けっきょくは一番の痛手を追うことになる。そして、政府に騙されていた、と言うしかなくなる。

第1055回 日本の古層〜相反するものを調和させる歴史文化〜(11)

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縦に伸びるラインは、北から、小野郷の岩戸落葉神社、神護寺高山寺、嵯峨野の天龍寺、長岡の走田神社、大山崎離宮八幡宮、交野の星田妙見宮、生駒山二上山の大津皇墓、葛城山。東の縦のラインは、山科の小野郷と宇治上神社。西の縦のラインは、多田銀銅山の金山彦神社、清荒神門戸厄神東光寺。長岡の走田神社(妙見社)の真西が能勢妙見宮。明石から東北に伸びるライン(冬至の日没ライン)は、明石の五色塚古墳長田神社、生田神社、 敏馬神社、廣田神社門戸厄神東光寺離宮八幡、山科の小野郷。宝塚で真横に並ぶ四ヶ所は、清荒神中山寺、山本郷(松尾神社)、加茂遺跡。

 

 前回と前々回の記事で、摂津について書いた。摂津は、京都や大和と瀬戸内海を結ぶ水上交通の要であり、古来より重要な場所であった。そして、海からの出入り口であったため、渡来人が多く住み、新しい技術が、ここを通じて内陸へともたらされた。

 そうした特別な地であったためか、古代から中世への転換も、この地から起こった。

 摂津の地は、源頼朝をはじめとして、新田氏、足利氏、武田氏など、武家として活躍した清和源氏が勢力を伸ばしていく最初の拠点であった。

 その開祖にあたるのが第56代清和天皇の曽孫にあたる源満仲(AD912−997)である。

 源満仲は、二度にわたり国司を務めた摂津に土着し、住吉大社に参籠した時の神託によって摂津の多田盆地を拠点とすることに決め、所領として開拓すると共に、多くの郎党を養って武士団を形成した。

 多田というのは、宝塚の北部で、猪名川の上流にあたる。

 猪名川下流域、現在の大阪府池田市豊中市兵庫県川西市尼崎市には、以前のブログ記事でも書いたように、多くの渡来系技術者が住み着いていた。

 船大工集団の猪名部氏をはじめ、織物、酒造、鍛治などにも渡来人の伝承が多く残されている。

 また、猪名川上流は、杣(そま)の地で、ここの材木が猪名川を通じて、大阪湾、そこから京都や奈良をはじめ各地へと運ばれていた。

 さらに、猪名川上流には、多田銀銅山がある。

 奈良の大仏の銅は、ここから運ばれたと伝えられているし、豊臣秀吉の時代には、この地の銀が、大坂城の台所(財政)を潤したとされる。

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多田銀銅山の瓢箪間歩。ここから出た銀が豊臣秀吉の財政を潤わせた。秀吉が、馬に乗ったまま、この坑道に入ったとされる。

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多田銀銅山の青木間歩。いつの時代か特定できない手掘りの露天掘り。白っぽい岩石と黒赤っぽい岩石のあいだが鉱脈で、鉱脈にそって固い岩盤をノミやタガネを使って彫り続けるという気の遠くなるような作業。

 摂津の地には、猪名川だけでなく武庫川という一級河川も流れている。この二つの川において、住吉大社神代記(じんだいき)』に次のような話がある。

 昔、住吉大社は神殿を造る木材を、山から猪名川を使って流していたが、住吉の男神の美しさに猪名川の女神が気づき、なんとしても妻になりたいと思うようになった。また、西を流れる武庫川の女神も同じ思いを抱き、女神どうしの争いへと発展する。

 猪名川の女神は大きな石を武庫川の女神に投げつけ、武庫川に自生する芹(せり)を引き抜いて取り上げた。そのせいで猪名川には大きな石がなく、芹が生えるようになり、武庫川にはごろごろと大きな石があり、芹が生えなくなった。

 この説話は、暴れ川としての武庫川の氾濫〔はんらん〕を語り伝えていると解釈する人もいるが、真相はわからない。

 しかし、こういう謎解きは、無理があるだろうか?

 武庫川は、六甲山系と接しており、周辺に古代磐座の史跡が数多くある。石というのは磐座ではないか? とすれば、芹とは何か?

 芹沢という古代からの苗字があるが、湿地性の芹の生えた沢の意味ではないらしい。

 芹沢(せりさわ)とは、金羅草羅(せらさわら)で、金(せ)は鉄(くろがね)、羅(ら)は国。そして、朝鮮半島の草羅は慶尚南道の金海のこと。金海は、鉄の産出と鍛冶の地として有名で、その金海の出身が芹沢なのだという。

 つまり、猪名川周辺は、朝鮮半島から金属技術などとともにやってきた渡来人が多く住み着き、それに対して、武庫川は、古くからの磐座信仰に基づく人々が住んでいた。

 武庫川上流部にあたる三田盆地は、旧石器時代から人々が暮らした痕跡がある。2万5千年前の遺跡である広野地区の溝口遺跡からは、ナイフ形石器、石鏃などが発掘されている。また、武庫川沿いにある有鼻遺跡や平方遺跡は、弥生時代中期の遺跡で、ここからは畿内最古の鉄剣や鉄斧などの鉄器類が発掘されている。

 真相はともかく、猪名川の女神と武庫川の女神が争ったという説話は、摂津の土地で、ライフスタイルや宗教観の違いを持つ人々のあいだで大きな確執があったということを表わしているのではないだろうか。

 聖徳太子が、武庫川猪名川のあいだに中山寺を創建して神功皇后に滅ぼされた忍熊皇子やその母親の大中姫、さらには物部守屋の魂を鎮魂したり、第59代宇多天皇が、中山寺のすぐ西に、「理想の鎮護国家、諸国との善隣友好を深め戦争のない平和社会、万民豊楽の世界を開く」ために清荒神を作らせたりしたのも、異なる世界観を持つ人々の調和が意図されていたのかもしれない。

 ちなみに、武庫川に近い清荒神中山寺猪名川のそばにある近畿圏最大級の弥生遺跡、加茂遺跡は同緯度であるが(北緯34.82度)、この東西のラインは、武庫川猪名川をつなぐ橋のようにも見える。

 さらに、武庫川猪名川を結ぶラインの橋は、東西だけでなく南北にも存在する。猪名川は、上流に遡っていくと西に曲がり、中山寺清荒神の北部を流れることになるが、猪名川の支流の野尻川沿いが多田銀銅山のなかでもっとも銀銅の産出量の多かった地域となり、そこに鎮座する金山彦神社が、宝塚の清荒神の真北に位置している(東経135.35度)

 鉱山と縁の深い金山彦神社がこの地に創建されたのは807年で、嵯峨天皇が皇太弟になった翌年、すなわち空海が生きた時代である。

 さらに、金山彦神社と清荒神を結ぶ同経度の南北ラインは、その南で空海と縁の深い門戸厄神東光寺にもつながっている。

 それだけでなく、金山彦神社から同緯度で真東に行くと(北緯34.89)、淀川沿いの離宮八幡宮であり、ここは嵯峨天皇離宮のあった所で、嵯峨天皇の命で空海が厄神明王を勧請した元石清水八幡ということになる。

 同じく空海が厄神明王を勧請した門戸厄神東光寺から真東(北緯34.76度)のところに、これまた空海が開祖とされる交野の星田妙見宮があるが、その周辺は物部氏の拠点で、鍛治工房などの遺跡が数多く発見されている。さらに星田妙見宮は、大山崎離宮八幡宮の真南である(東経135.67度)。

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交野 星田妙見宮の社殿の裏の磐座。

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星田妙見宮のすぐ側に鎮座する磐船神社物部氏の祖ニギハヤヒ降臨の場所とされる。この磐座と、星田妙見宮の頂上の磐座は、キラキラと光る石英が混ざった同じ岩石だった。

 東経135.67度の交野の星田妙見宮、大山崎離宮八幡(嵯峨天皇離宮)の真北が長岡の走田神社(妙見社)であり、その真北が嵯峨天皇ゆかりの京都嵯峨野の天龍寺(もとは、嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子が創建した日本初の禅寺、檀林寺)。その真北が、空海を支援していた渡来系氏族和気氏和気清麻呂が創建した神護寺高山寺のあいだ、さらにその北が、小野氏(和邇氏の後裔)の拠点で、岩戸落葉神社(源氏物語で、夕霧にしつこく求婚される落葉の姫が隠棲していたところ)が鎮座している。小野郷の岩戸落葉神社は、鞍馬寺の真西である。(北緯35.11度)

 この東経135.67度ラインを南に行くと、生駒山二上山山頂の大津皇子の墓、修験道の聖域、葛城山山頂となり、いずれも古代からの聖山だ。

 また、交野の星田妙見宮と、摂津多田の金山彦神社、大山崎離宮八幡宮と摂津の門戸厄神東光寺のラインがクロスに交差するあたりが箕面で、役小角ゆかりの地でもあるが、なによりこのあたりは、空海の母方の実家、物部氏と同族である阿刀氏の居住地なのだ。

 古事記にもっとも多く登場する氏族である和邇氏(その後裔の小野氏)や、空海およびその母方の阿刀氏(ニギハヤヒを祖とする物部氏と同族)、空海を重んじた嵯峨天皇空海を信望していた宇多天皇が関係しているように思われるこれらのラインは、驚くべき精度(経度、緯度ともほとんど誤差がない)で整然と配置されているが、これらが一体何を意味するのか。測量の正確さも驚くべきものだが、これらの聖域を結ぶラインの背後に何かしらの暗号が隠されているとしか思えないほど、意図的に、聖域の場所が設定されている。

  そして、古代から連綿と連なるラインを、さらに強く刻印したのが、中世という時代を切り拓いた清和源氏の祖、源満仲だった。

 上に述べた多田銀銅山の金山彦神社は、空海の時代の創建だが、971年に、源満仲によって大規模な修理が行われ、満仲は、多田銀銅山の開発を積極的に行ったと伝えられている。

 そして、満仲は、天下の武家を制するには武神・坂上田村麻呂の末裔が組織し、全国30ヶ所以上に置かれていた坂上党武士団」が必要と考えた。

 そこで、当時、坂上氏の棟梁だった坂上頼次を武士団の中心として摂津介に任じ、多田の地の警衛にあたらせた。宝塚の山本郷を領地とした坂上頼次は、郷内に坂上党武士団から選りすぐりの強者を選んで配置した。

 頼次の子孫であり渡辺綱などとともに、満仲の息子の源頼光に仕えた坂上季猛が、祖先である坂上田村麻呂を祀ったのが、宝塚の松尾神社である。この松尾神社は、将軍家の祖神として崇敬され、中でも源頼朝の信仰が厚かった。宝塚の松尾神社がある山本郷は、清荒神中山寺と同緯度の真東である。(北緯34.82度)

 坂上氏と松尾神社の関係は、坂上苅田麻呂が京都の松尾大社に祈り得た子が坂上田村麻呂で、そのため、彼は、幼名を松尾丸と名付けられたのだ。

 ちなみに、坂上田村麻呂の墓は、小野篁小野小町などが生まれ育った山科の小野郷のすぐ傍である。

 坂上氏というのは、もともとは渡来系の東漢氏であり、坂上田村麻呂は、桓武天皇に仕えて蝦夷征伐など華々しい活躍をして、英雄となった。

 山科の小野郷は、宇多天皇が、まだ源氏の身分だった頃、この地に拠点を持つ宮道氏の血を引く女性、藤原胤子(ふじわらのたねこ)と結ばれている。二人のあいだに生まれたのが第60代醍醐天皇であり、醍醐天皇の陵墓も、この小野郷にある。

 さらに、藤原胤子の同父同母の藤原定方は、紀貫之の後援者として古今和歌集の編纂に貢献したが、彼の娘が紫式部の祖母である。すなわち、紫式部のルーツも、山科の小野郷の宮道氏ということになる。京都の西陣の地に、紫式部小野篁の墓が並んで存在しており、その理由は謎とされるが、もしかしたら、山科の小野郷という場所が、大きな意味を持っているのかもしれない。

 ちなみに、山科の小野郷は、前回のブログ記事でも書いたように、大山崎離宮八幡を通って、摂津の門戸厄神東光寺廣田神社、生田神社、敏馬神社、長田神社、そして明石の五色塚古墳を結ぶライン上にある。これらの神社は、神功皇后が九州からヤマトに戻ってくる時、住吉の神とともに深く関わりを持っている。

 このラインは、夏至の日に太陽が上り、冬至の日に太陽が沈む方向を示すラインだ。

 『源氏物語』は、物語の展開のなかで、住吉神や摂津の地が重要な鍵を握っている。そして、落ちぶれた光源氏が再生の道を歩み始めるのが明石の地だ。冬至というのは、その日から太陽が力を取り戻していく再生の起点であり、山科の小野郷と明石を結ぶ冬至のラインと、明石から復活する光源氏が重なる。さらに光源氏と結ばれた明石一族が、『源氏物語』後半の主役なのだ。

 源氏物語の後半の10帖は、光源氏が消えた後、宇治が舞台になる。宇治の聖域、宇治上神社は、山科の小野郷の真南(東経135.81度)で、大山崎離宮八幡の真東(北緯34.89度)である。

 そして宇治にある平等院は、源氏物語の主人公候補の一人、源融(みなもとのとおる=嵯峨天皇の息子で嵯峨源氏の祖)の別荘だった。それが宇多天皇に渡り、藤原道長の別荘となった後、道長の息子、藤原頼通の時に寺院となった。その開山にあたったのは明尊だが、彼もまた小野氏(書道の三跡で知られる小野道風の孫)である。

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宇治平等院

 紫式部が生きた時代は、源融の後裔にあたる渡辺綱が、源満仲の息子、源頼光藤原道長の側近)に仕え、酒呑童子退治などで活躍し、摂津の渡辺津を拠点に勢力を拡大していく時期にあたる。

 話を源満仲に戻すと、満仲は、根拠地の多田荘の自分の館のそばに多田院(多田神社)を建立したが、多田荘の艮(うしとら=北東)の方角にある多太神社を、守護神として位置付けた。もともと、この多太神社の祭神は、第10代崇神天皇の時代、天変地異や疫病の流行で世が乱れていた時、天皇の命で三輪山に大物主を祀って祟りを鎮めた大田々根子命だとされる。

 この多太神社は、多田銀銅山と箕面山、交野の里田妙見宮を結ぶライン上にある。このラインは、冬至の日に太陽が上り、夏至の日に太陽が沈む方向を示している。

 さらに、源満仲は、妙見菩薩を信仰しており、屋敷で祀っていた鎮宅霊符神像(妙見菩薩の別名)を、能勢の妙見山遷座した。

 もともと、能勢の妙見山は、750年ごろに、行基が開いた聖域だった。

 そして、満仲の孫である源頼国が能勢に移住して能勢氏を称し、この地の領主となると、当地の妙見菩薩を篤く信仰する。

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妙見山の北に位置する野間の大けやき。高さ27.37メートル、幹まわり13.01メートル、最大枝張は幅39.3メートル、高さ36.2メートルの巨樹。樹齢1000年。西日本のけやきでは最大。全国では4番目。

 能勢の妙見宮は、箕面山の真北であり、さらに真東(北緯34.92度)の長岡では、長岡京や長岡天満宮を見下ろす高台に走田神社がある。走田神社も、かつて妙見社と呼ばれ、妙見菩薩が合祀されていた。この走田神社の真南が大山崎離宮八幡で、さらにその南が、交野の星田妙見宮である。

 妙見信仰は、道教密教陰陽道などの要素が混交しているが、もともとは、古代アッシリアバビロニアの砂漠の遊牧民が、方角を確認するために北極星を神として信仰し、それが中国に伝わって北辰信仰となったとされる。

 また、地中の埋蔵鉱物は、空の星が降って地の中で育つと信じられた時代があった。そこで北極星、つまり妙見が鉱山師の信仰を受けるようになったとも言われる。

 交野の星田妙見宮周辺には鍛治工房の遺跡がたくさんあるが、古代、星田妙見宮に巨大な隕石が落ちたと伝えられ、その隕鉄を使って鍛治が行われたという説もある。

 その真偽はともかく、全国に数多く存在する妙見という地名と鉱山が深く結びついている例は幾つもあり、さらに、各地の妙見の聖域が、星田妙見宮と走田神社や能勢妙見宮のように東西南北のラインで結ばれている。

 また、妙見とのつながりが確認される空海行基は、ともに、土木、灌漑治水事業、鉱山開発などを手がけており、単なる僧侶とはいえない広範囲な活動をしている。

 平安初期に活躍した空海は、讃岐の佐伯氏の出身だが、母親は物部氏と同族の阿刀氏であり、奈良時代に活躍した行基の父、高志氏は、王仁を祖とした河内国和泉国に分布する百済系渡来氏族だった。

 彼らは、中国や朝鮮半島の先進技術や知的情報を多く備えていたし、古来から日本に存在していたものにも深く通じていた。そんな彼らにとって、僧侶という立場は、数多いミッションのうち、一つの役割にすぎなかったのだろう。 

 そして、異なる時代の聖域を結ぶラインを眺めていると、空海行基などの聖者だけでなく、嵯峨天皇宇多天皇源満仲たちの権力者もまた、自分の栄華だけを求めていたのではなく、古代から連綿と連なる何か大切なものに十分に配慮し、それらを未来につなぐことを意識していたように感じられるし、そうした権力者たちの意識が、紫式部などの表現者にも共有されていたように思われる。

 本来、政(まつりごと)や、芸(わざ)というのは、そういうものだったのだろう。

第1054回 日本の古層〜相反するものを調和させる歴史文化〜(10)

 ブラックホールの観測や生命が存在するかもしれない惑星を探すことも、莫大なお金を投じる価値のある探求かもしれないが、もっと身近で私たちの暮らしと関係の深いところ、私たちが住んでいる足元のことで、わからないことが無数にある。

 それは歴史のことである。とりわけ日本の古代は謎だらけで、1500年以上前のこととなると、実際に何が起こっていたのか、知りたくても知れないもどかしさがある。

 西洋や中国ならば、紀元前に作られた建造物や文章が多く残っているので、それらを通じて、具体的に感じたり考えたりすることができる。しかし、古代の日本は、その具体物や記録が極めて少ない。

 にもかかわらず、大変興味深いことに、日本の天皇制は、世界で最長の歴史を誇る王朝とみなされている。神武天皇まで遡るとされる紀元前660年は、辛酉革命説に基づいて恣意的に作られた年代で信憑性に乏しいとされているが、第26代継体天皇(紀元507年即位)以降の1500年間は、王朝としての血統が変わっていないとされている。

 日本の権威的存在である天皇制がこれだけ長く続いている一番の原因は、日本が、この1500年間、他国の侵略や植民地化など国の価値観やシステムが大転換させられる事態に陥っていないからだ。

 欧米の場合は、AD5世紀頃までにゲルマン民族の大移動によってローマ文明世界の価値観やシステムが転換させられたが、その後も、AD10世紀ごろの北方のノルマン人の移動による侵略で、凄まじい破壊と殺戮を経験しているし、マジャールオスマントルコなど、東からの侵攻は、常にあった。

 中国の場合も、歴代王朝の交代の大半は、清、元、北魏など見ればわかるように、北方からの騎馬民族の侵攻や、それらの部族間の激しい抗争の結果によるものが多い。

 日本の場合、何度か海外からの侵略の危機はあったものの、水際で防いできた。

 663年の白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗したこと、13世紀後半の2度にわたる元寇、1853年の黒船来航の後の欧米列強の圧力、そして1945年の太平洋戦争の敗戦が、日本の歴史の中で王朝交代の可能性があった時期だが、かろうじて、その危機を乗り越えてきた。

 日本は、他国による暴力的な侵略を受けなかったので、表向きには王朝交代は必要なかったが、その時々の難しい現実にうまく対応するために、摂政関白の時代や武士の時代など、天皇制の支え方は時代ごとに変わってきている。

 天皇の血族としての一貫性が保たれているかどうかは別として、天皇の権威を使って地上の権力を行使する人物は時代ごとに変遷した。また、飛鳥から平安時代までは、地上の実力者が、誰を天皇にするかを決めることがよくあった。

 蘇我馬子は、自分の言う通りにならない第32代崇峻天皇を暗殺したし、藤原百川は、陰謀によって皇太子他戸親王を廃し,母親の出自が低かった(百済系渡来人)ゆえに天皇になる予定のなかった山部親王 (第50代桓武天皇) を擁立した。

 菅原道眞を重用した第59代宇多天皇も、天皇の臣下である源氏の身分だったが、藤原基経の妹の藤原淑子(母方が難波氏)や、宇多天皇の母の班子女王(はんしじょおう=東漢氏坂上氏と同族の当宗氏)の実家などの氏族連合(主に渡来系)の強力な後押しによって、突如、天皇に即位することとなった。

 さらに、現在の天皇のルーツとして実在性が確かだとされる第26代継体天皇(在位 AD507-531)でさえ、もともとは、近江から福井にかけて勢力を誇っていた地方豪族だった。

 第25代武烈天応が子供を持たずに死んだために、大伴金村物部麁鹿火(もののべのあらかい)が、第14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を天皇に即位させようと亀岡の地に出かけていくが、倭彦王は、怖気付いて逃げ出してしまった。そのため、しかたなく、越前近江にいた第15代応神天皇の5世の孫で、すでに58歳になっていた男大迹王(をほどのおおきみ=後の継体天皇)を天皇に迎えたのだ。もし倭彦王が逃げ出さなかったら、王朝は、越前近江ではなく丹波の氏族に引き継がれていたのだ。

 それはともかく、男大迹王も大和の実力者であった大伴や物部の天皇即位の推戴(すいたい)に疑念を持ち、第26代継体天皇として即位はしたものの、その後19年間も奈良の地には入らず、淀川や木津川のほとりに宮を築いていた。

 それにしても、天皇の地位に就くことを最初に望まれた倭彦王が第14代仲哀天皇の5世の孫で、継体天皇が第15代応神天皇の5世の孫とされるが、仲哀天皇応神天皇は、系譜としては親子なのだ。にもかかわらず、応神天皇仲哀天皇が明確に区別され、継体天皇以降の天皇は、応神天皇の血統であると強調されている。

 仲哀天皇応神天皇の血統をめぐる物語で、もう一つ重要なものが、神功皇后三韓遠征だ。

 第14代仲哀天皇は、熊襲を討つために九州に向かう。途中、神の神託で、熊襲よりも朝鮮半島を攻めるように告げられる。しかし仲哀天皇は、その神託に従おうとしなかった。そのため、神罰で死んでしまった。しかたないので、仲哀天皇の妃であった神功皇后が、朝鮮半島に侵攻する。その時、神の威光を感じてか、相手はほとんど戦うことなく降参してしまった。

 その時、神功皇后のお腹のなかにいたのが応神天皇胎中天皇という異名が示す通り生まれながらの天皇とされる)神功皇后は、戦いの勝利の後、応神天皇を出産し、九州からヤマトに戻ろうとする。その時、仲哀天皇の息子で応神天皇とは腹違いの兄にあたる忍熊皇子たちが、神功皇后の大和入りを阻止しようと待ち構えるが、その戦いに神功皇后が勝利を収め、息子の応神天皇が、正式に第15代天皇となる。

 この戦いに破れた忍熊皇子と、その母親の大中姫の魂を弔うために、聖徳太子が宝塚の地に創建したのが、中山寺ということになっている。

 さらに、中山寺は、蘇我氏との政争に敗れた物部守屋の霊を鎮めるために建立されたとも伝わっている。

 蘇我氏物部氏は仏教をめぐる対立でよく知られているが、蘇我氏は、東漢氏など渡来人の力を束ねることで政治的な実権を強めた。645年の乙巳の変で、蘇我入鹿が中大兄皇子や中臣鎌足に殺されただけで蘇我氏が滅んでしまったのは、東漢氏など武力ととりしきっていた氏族が蘇我氏に見切りをつけて、大兄皇子側にまわったからだ。

 蘇我氏が仏教を重視したのは、仏教は渡来人が多く信仰していた宗教だからであり、物部氏は、それ以前から続く伝統的な祭祀を司っていた。

 また、忍熊皇子を滅ぼした神功皇后の母方のルーツは、天日槍(アメノヒボコ)という新羅の王子、つまり渡来人である。

 聖徳太子が、神功皇后に滅ぼされた忍熊皇子や、蘇我氏に滅ぼされた物部守屋の魂を鎮めるために中山寺を創建したとするならば、渡来人の力が発揮された新しい社会にとってかわられた古い社会が、聖徳太子によって鎮魂、すなわち記憶化されたということにならないだろうか。

 AD8世紀後半、第50代桓武天皇の母方も渡来人で、桓武天皇の右腕として平安京への遷都を実現する和気清麻呂も渡来系である。そして、AD9世紀後半、律令制度が綻び、改革が必要になった時期に即位し、菅原道眞を重用した第59代宇多天皇の母方も渡来人である。

 時代が大きく変わる時、渡来人の力が影響を与えるのは、なにもこれらの時だけでなかった。仏教や各種の思想、官僚組織などの統治手法だけでなく、鉄をはじめとする先進技術も渡来人がもたらしたものである。何より、日本人の主食となる稲作も、弥生人すなわち渡来人によって始まったのであり、日本人を、渡来人かそうでないかで区別することは、あまり意味がないかもしれない。

 日本の歴史において重要なことは、そうした区別ではなく、古くからあったものと渡来人によって導入された新しいものの調和のさせ方なのだ。海外の多くの地域においては、渡来人というのは、多くの場合、侵略者だった。だから、最新の遺伝子研究では、侵略された地域に住む人々の遺伝子は、強姦などのため、ほとんどが侵略者側のものになっているとされる。しかし、日本は、そうはなっておらず、様々な民族の遺伝子がバランスよく残っているらしい。

 つまり、日本にやってきた渡来人は、敵対的に攻めてきたわけではなく、中国や朝鮮半島の動乱からの逃亡者や、日本から迎えられた者が多かったということだろう。それゆえ、その改革者たちは、変革の力となりつつも、新旧の調和に心を配り、滅びゆくものに配慮したのではないか。古くからのものを歴史から抹殺するのではなく、様々な方法で、記憶化した。

 たとえばオオクニヌシの国譲りはその典型であり、オオクニヌシは、滅ぼされたのではなく、自らが大切に祀られることを条件に国を譲り、その祟りの力によって地上に禍があるたびに思い起こされ、現在にいたるまで、日本各地で崇敬され続けている。

 天災や疫病の発生を、「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本特有の信仰を、御霊信仰という。

 大物主(オオクニヌシの別名)や、聖徳太子が祀った忍熊皇子物部守屋、桃太郎の説話の原型である吉備津彦平安時代のはじめ、桓武天皇から嵯峨天皇の治世で怨霊として恐れられた井上内親王など天武系の血統の人たち。そして、宇多天皇に重用された菅原道眞、保元の乱で、平清盛後白河法皇に破れて讃岐に流され朝廷を憎んで死んだ崇徳天皇などが代表的だが、こうした祟りの信仰もまた、変革時の犠牲者に配慮して歴史的に記憶化する方法と言えるだろう。

 日本の歴史を通じて様々な戦いが繰り広げられてきたが、敗者が、ある種の美学をもって語り継がれて、そのため、人気者になっているケースが非常に多い。勝者の正しさと強さばかりが強調される歴史は、日本の歴史風土には育っていない。

 それはともかく、聖徳太子は、物部守屋の魂の鎮魂のために、中山寺以外に四天王寺も創建したとされるが、四天王寺中山寺も摂津の地である。

 さらに、神功皇后の戦いを支援した神々を祀る神社、廣田神社、生田神社、長田神社住吉神社敏馬神社も、摂津国にある。 

 摂津という場所は、ヤマトからの海の出入り口であり、渡来人も多く、必然的に、渡来人と在来の人々とのあいだに確執や棲み分け、そして協同があったことが想像できる。

  摂津国風土記逸文に、敏馬神社の創建に関する記述があり、神功皇后三韓遠征に出発する際に戦勝祈願したとき、猪名川上流の能勢の美奴売山(みぬめやま)の神が来て、美奴売山の杉の木を切って船を作れば必ず勝利すると告げた。その通りにして勝利を納めた帰途、この地の沖で船が動かなくなり、船上で占いをするとこれは美奴売山の神の意志であるとわかったので、そこに美奴売神を祀ったとされている。

 敏馬神社は、現在ではあまり知られていない神社だが、神戸では廣田神社とともに、大変古い神社で、この周辺は、かつては重要な船着場で、大変賑わっていたところだった。

 古代、大和の人が九州や韓国へ行く時、大阪から船出して敏馬の泊で一泊、大和が遠望できる最後の港、逆に帰る時はなつかしい大和が見える最初の港で、大和の人にとっては特別の地であり、また白砂青松の美しい海岸は、多くの歌人たちに讃えられ、万葉集において、大和以外の地には珍しく多くの歌が詠まれている。境内には柿本人麿と田辺福麿の歌碑がある。 

 明治以降は海水浴場として賑わい多くの茶屋料亭芝居小屋が神社周辺にあったが、昭和の初め、阪神電車のトンネル工事の土砂によって海岸が埋め立てられ、さらに戦災で往時の姿を完全になくしている。

 実は、この『摂津国風土記』の敏馬神社の記述に似た物語が、『日本書紀』において、神功皇后忍熊皇子の戦いに合わせて描かれている。

 簡潔に述べると次のようになる。

 神功皇后三韓征伐に出発する際、天照大神の神託があり、和魂が天皇の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろうと言った。

 そして、神功皇后三韓征伐に勝利して戻ってくる時、応神天皇と腹違いの兄である忍熊王が、神功皇后と皇子(後の応神天皇)を亡きものにしようと明石で待ち伏せていた。それを知った神功皇后は、紀淡海峡に迂回して難波の港を目指した。しかし、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまった。そこで兵庫の港に向かい、神意をうかがうと、天照大神の託宣があった。「荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良い」と。そこで皇后は、山背根子の娘の葉山媛に天照大神の荒魂を祀られた。これが廣田神社の創建である。このとき、生田神社・長田神社住吉大社に祀られることになる神からも託宣があり、それぞれの神社の鎮座が行われた。すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王を退治することができた。

 廣田神社に祀られている神は、天照大神の荒魂ということだが、別名は、向津媛命(むこつひめ)で、六甲山の神様。瀬織津姫とも言われる。

 そして、美奴売山の神というのは、弥都波能売神(みずはのめ)。水神であり、元は水銀神である。

 向津媛命とか、瀬織津姫とか、弥都波能売神とか、名前は変わるが、いずれも、かなり古い神である。といっても縄文の神まで遡るのではなく、弥生時代の初期に中国の江南から稲作技術とともに渡来した人々の神ではないかと、私個人は考えている。

 中国の江南、揚子江流域は米どころであるとともに、湖南省は、中国最大の水銀の産出地であるからだ。

 それはともかく、興味深いことに、これら摂津における神功皇后に関わる聖域が、夏至の日の日の出と冬至の日の日没ライン上にズラリと並んでいるのだ。

 

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西から、明石の五色塚古墳長田神社、生田神社、敏馬神社、廣田神社(現在の位置よりも昔は、もう少し北にあった)、そして門戸厄神東光寺、大山埼の離宮八幡、山科の小野郷、近江の三上山山頂、そして、その東にある鏡山の山頂の竜王社、貴船社。 このラインは、夏至の日に太陽が上る方向と、冬至の日に太陽が沈む方向である。地図上の一番下のポイントが、高野山麓の丹生都比売神社、その真北が、四天王寺、渡辺津。渡辺津は、生田神社と平城京の北にある佐紀古墳群の東西の真ん中。宝塚周辺、門戸厄神東光寺の真北が清荒神で、その真東に中山寺がある。

 まず、明石の五色塚古墳は、建設当時の姿を復元した古墳だが、ここが、忍熊皇子神功皇后を待ち構えた陣地であるとされている。

 この五色塚古墳から夏至の日に太陽が上るライン上に、長田神社、生田神社、敏馬神社、廣田神社(かつては現在の地よりもやや北にあった)が並んでいる。

 さらにこのライン上には、空海の築いた門戸厄神東光寺と、空海を重んじていた嵯峨天皇離宮のあった大山埼の離宮八幡(元石清水八幡)、山科の小野郷、近江の三上山山頂(鍛治の神、御影神が降臨したところ)、そして、その東にある鏡山の山頂の竜王社、貴船社までが位置している。

 小野小町小野篁が生まれ育った山科の小野郷と、三上山は、ともに和邇氏と関わりのある地だ。小野氏というのは和邇氏の末裔である。また、三上山に降臨した天之御影神(鍛治の神)の娘の息長水依姫と、和邇氏の母を持つ日子座王ひこいますのみこ)が結ばれて、その血統から景行天皇とその息子のヤマトタケル、さらにその息子の仲哀天皇が出ている。さらに日子座王が、和邇氏の娘、袁祁都比売命(おけつひめのみこと)と結ばれて、その四世代後に神功皇后が出ている。

 第15代応神天皇と、神功皇后に滅ぼされた仲哀天皇の皇子、忍熊皇子のルーツは、ともに日子座王ということになる。

 日子座王というのは、第9代開化天皇の第三皇子で、第10代崇神天皇の腹違いの弟である。崇神天皇の母親は、物部氏伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で、大和王朝に対する物部氏の影響力が一番強かったのは、この伊香色謎命と、その同母兄の伊香色雄命(いかがしこお)が生きた時代である。

 その後は、日子座王の後裔、すなわち和邇氏の血統が、大きな役割を果たすことになる。和邇氏は、古事記のなかで、天皇以外の氏族として、もっとも登場人物が多く、神功皇后忍熊皇子と戦う時に活躍した武振熊も和邇氏だ。そして和邇氏の後裔が小野氏や春日氏、柿本人麿が出た柿本氏である。

 上に示した不思議なラインの中で自然物は三上山だけなので、この山に降臨した天之御影命(鍛治の神)と、その娘と結ばれた日子座王、すべての起点になっている可能性がある。

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近江富士と呼ばれる三上山の山頂。ここに鍛治の神、天之御影命が降臨したとされる。

 このラインになぜ、門戸厄神東光寺離宮八幡(元石清水八幡)など、空海嵯峨天皇ゆかりの地が関係しているのかは今の段階では正確にはわからない。

 ただ、一説によれば、空海の母親の玉依御前は、阿刀宿禰(あとのすくね)の娘で、阿刀氏は、物部氏の同族である。その居住地は、山背国愛宕郡(京都の左京区上京区、北区あたり)や、山背国相楽郡木津川市綴喜郡井手町)、摂津国豊島郡(大阪府豊中市池田市箕面市周辺)が知られている。

 愛宕山は三上山と同緯度の真西に位置し、綴喜郡井手町は、随心院のある小野郷の真南で、摂津国豊島郡は、まさに三上山と明石の五色塚古墳を結ぶライン上(大山崎離宮八幡と門戸厄神東光寺の間)に位置するので、空海の母の実家の阿刀氏と、謎のラインとの関係の深さが伺える。

 また、空海を信望していた宇多天皇の命で築かれた宝塚の清荒神は、門戸厄神東光寺の真北で、聖徳太子忍熊皇子物部守屋の魂を鎮めるために築いた中山寺の真西に位置する。

 清荒神は、896年、「理想の鎮護国家、諸国との善隣友好を深め戦争のない平和社会、万民豊楽の世界を開く」ために、宝塚の地に、宇多天皇勅願寺として建てられたつまり、調和と協同のシンボルだ。

 そして、門戸厄神東光寺が祀る厄神明王とは愛染明王不動明王が一体となって、あらゆる厄を打ち払うというもので、嵯峨天皇が霊感を得、天皇の命を受けた空海が、厄神明王像を三体刻み、高野山麓の天野神社(丹生都比売神社)、山城の石清水八幡宮、そして門戸東光寺へ、国家安泰、皇家安泰、国民安泰を願って勧請したものである。(現在残っているのは東光寺のもののみであるとされる)。

 石清水八幡宮は、現在、男山に鎮座するが、その創建は860年の清和天皇の時代であり、空海は835年に没しているので厄神明王が勧請されたのはここではない。元石清水八幡とされ嵯峨天皇離宮だった大山崎離宮八幡のことだろうと思われる。

 そして、天野神社(丹生都比売神社)の場所は、四天王寺の真南である。四天王寺は、蘇我氏の一員として物部守屋と戦った聖徳太子が、その勝利を祈願して、また物部守屋の魂の鎮魂のために創建したとされる。さらに、この南北のライン上、四天王寺のちょうど真北の淀川沿いに渡辺津がある。

 渡辺津は、大和や京都から瀬戸内海への交通の要所で、かつては難波京や難波津がおかれたところである。

 ここは、交通や経済のみならず、宗教的にも重要な場所で、四天王寺住吉大社・熊野へ詣でる際、人々は淀川を船で移動してきて、渡辺津で下船していた。

 軍事的にも重要な港であった。嵯峨天皇の息子の源融源氏物語のモデルとされ、宇多天皇の時の左大臣)の末裔である渡辺綱がこの地で武士団を形成し、後の子孫も、瀬戸内海の水軍として大いに活躍する。

 渡辺綱は、源頼光四天王の筆頭として知られ、大江山酒呑童子退治などで知られる。

 この渡辺津に鎮座していたのが、摂津国一宮の坐摩神社(いかすりじんじゃ)であり(現在の社は、1583年の大阪城築城時に移転されたもの)、神功皇后三韓征伐より帰還したとき、淀川河口の地に坐摩神を祀ったことが始まりだと伝えられる。

 そして、この渡辺津(坐摩神社)から真東に行くと、奈良の平城京の上に4世紀末から5世紀前半にかけて築かれた巨大前方後円墳群、佐紀古墳群(さきこふんぐん)がある。その古墳群の中、11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命の陵に治定されている佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)と、謎のラインの西端に位置する明石の五色塚古墳は、同時期、同形相似墳である

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11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命の陵に治定されている佐紀陵山古墳。明石の五色塚古墳と、同時期に作られ、同形相似墳であり、深い関係があると考えられる。

 ともに建設されたのは、ヤマト王権の大王墓が大和(佐紀古墳群)から河内(百舌鳥・古市古墳群)にある応神天皇陵など巨大古墳群へと移行する時期だから、時代の転換期と大いに関係がある。

 ラインに関して、もう一つ重要なことがあり、奈良の佐紀古墳群と坐摩神社のあった渡辺津の真西に神戸の生田神社が鎮座するが、生田神社は、神功皇后が築いた場所は布引の滝の近く(現在の新幹線新神戸駅のすぐ傍)だったが、洪水のため現在の地に移された。その移転の時期は、空海が生きていた806年である。

 古い聖域と、それに取って代わった勢力に関わる聖域が、東西南北および冬至夏至の日の太陽の方向を示すラインによって結び付けられているが、古代から存在していたものに加えて、空海の時代に、何か意図的な配慮がなされていることは明らかだ。

 空海が活躍していた時代は、第50代桓武天皇から第52代嵯峨天皇の治世であり、まさに怨霊騒ぎが一番大きかった時代である。その時代に、あらゆる厄を払うという厄神明王が創造され、この場所でなければならないと位置決めされたかのように、いくつかの聖域が設けられた。後に、空海を信望していた宇多天皇(譲位の後、日本史上初の法皇となる)の治世下でも、同じようなことが行われている。宇多天皇法皇)の時代というのは、律令制が破綻し、変革が急がれた時期であり、その変革の担い手が菅原道眞だった。しかし道眞は太宰府に左遷されて悶死する。その後、道眞の怨霊騒ぎが大きくなり、その結果、改革は進み、律令制の基本だった人頭税は完全に終焉し、その後、武士の時代へと続く封建制の枠組みが整っていく。

 時代の変革と、怨霊騒ぎや怨霊の鎮魂は、どうも一体化しているように感じられる。

第1053回 日本の古層〜相反するものを調和させる歴史文化〜(9)

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宝塚の清荒神(北緯34.82度)から真東に、中山寺、天神神社、加茂遺跡がある。中山寺も天神神社も境内に古墳があるので、かなり古い時代のレイラインである。さらに、清荒神(東経135.35)の真南に平林寺、門戸厄神東光寺がある。門戸厄神東光寺から夏至の日没方向が鷲林寺であり、平林寺から夏至の日没方向が岩倉山である。鷲林寺、平林寺、加茂遺跡を結ぶラインは、冬至の日没ラインだが、その東に位置するのが、役小角ゆかりの箕面山である。


 清荒神は、896年、理想の鎮護国家、諸国との善隣友好を深め戦争のない平和社会、万民豊楽の世界を開く」ために、宝塚の地に、宇多天皇勅願寺として建てられた

 こうした聖域が宝塚の地に作られたのは、宝塚のある摂津の地が、それほど重要だったということだ。

『摂』は「治める」、津は「港」であり、摂津は、瀬戸内海航路の起点の地である。

 摂津は、淀川、猪名川武庫川、古代においては大和川といった大河が海に注ぎ込む場所で、海から内陸部へと入り込んでいけるところでもあり、人や物資が頻繁に行き交っていた。とくに、瀬戸内海を通って、また日本海側から円山川由良川武庫川加古川などを経由してやってくる渡来人の集まるところでもあった。

 また、宝塚を流れる武庫川武庫の名は、神功皇后が兵具をおさめたことから名が起こったともいわれ、この場所は、古代から、海上交通の支配をめぐる攻防の地だった。

日本書紀』の応神天皇31年8月の条には、次のような伝承がある。

 朝廷の船五百隻を造り、武庫水門〔むこのみなと〕に停泊させていたところ、倭〔わ〕国に使いにきていた新羅〔しらぎ〕の船から失火して、朝廷の船が全焼してしまった。新羅の王は贖罪〔しょくざい〕として優れた工匠を倭国に献上した。

 その時の工匠たちが猪名部の始祖だという。

 三重県四日市に隣接する員弁郡(いなべぐん)に猪名部神社がある。このあたりは、淡路の巨大鍛治工房でも知られる鉄と船に関わりの深い船木氏の拠点であるが、摂津の猪名川に住み着いた工匠たちの一部が移住し、もともと現地にいた人々と混じり合ったと考えられている。猪名部氏は優れた船大工や、寺院などの木工技術者として、ヤマトの地でも活躍した。

 猪名部神社の祭神は、伊香我色男命(いかがしこお)であり、「新撰姓氏録」の記載では、猪名部氏の祖神とされる。しかし、記紀によれば、伊香我色男命は、古事記の第10代崇神天皇の時に出てくる物部氏の祖であり、国に疫病が流行した時、天皇の夢枕に大物主が現れ、太田田根子に自分を祀らせれば祟りは治り、国は平安になると神託した。

 崇神天皇は、大田田根子を探させ、彼に大物主を祀らせ、伊香我色男命にも祭祀を司らせた。

 そして、伊香我色男命の同母妹の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)が、第8代、孝元天皇の妃、第9代開化天皇の皇后となり、崇神天皇を産む。こうしたことによって、物部氏天皇家の結びつきが強くなった。

 この物部氏と猪名部氏の関係は、第26代雄略天皇に関連する記録、『日本書紀』の12年10月条や13年9月条で、木工技術者の猪名部御田(つげのみた)や、韋那部真根(いなべのまね)を物部に預けたとあり、猪名部氏を管掌するようになったのが物部氏だったようで、そのため、猪名部氏の祖先が伊香我色男命になったようだ。

 猪名川が流れる摂津の宝塚の売布神社の祭神も、伊香我色男命の息子の意富売布連(もののべのおおめふのむらじ)ではないかと言われる。さらに聖徳太子の頃には、物部氏若湯坐連(わかゆえのむらじ)が、宝塚を拠点としており、聖徳太子は、物部守屋蘇我氏に滅ぼされた時、その障りを除く為に中山寺を建立したと、宝塚の中山寺の縁起に残されている。その時から厄神明王が本尊として祀られるようになり、これが我が国最初の厄神明王とされている。

 厄神明王は、愛染明王不動明王が一体化したもので、全ての厄を払う力を持つとされ、今でも大人気だが、明王というのは、憤怒の相である。大日如来の命を受けたり大日如来の化身として、仏教に未だ帰依しない民衆を帰依させようとする役割を持つが、こちらも、荒神と同じく、古代インドの夜叉や阿修羅といった悪鬼神が仏教に包括されて善神となったものだ。

 厄神明王を祀っている聖域の代表が、清荒神の真南のところに位置する門戸厄神東光寺であり、ここは、空海ゆかりの日本三大厄神の一つである。

 空海は、嵯峨天皇の命を受けて厄神明王の像を三体刻み、丹生都比売神社と石清水八幡と門戸厄神東光寺に国の安泰を願って勧請した。これが三大厄神であるが、空海の刻んだ像は、摂津の東光寺にだけ残っているとされる。

  宇多天皇は、空海を追慕しており、天皇に即位して10年で醍醐天皇に攘夷した後、出家して阿闍梨として真言密教の道を究めていくが、宇多天皇も、猪名部氏と深い関わりがある。

 平安時代の女官、春澄 洽子(はるすみ の あまねいこ)が、官稲千五百束を賜って猪名部神社に奉納したという記録が『三代実録』にあるが、彼女の父は、猪名部氏だった。

 洽子は、改名する前は、高子という名で、清和、陽成、光孝、宇多、醍醐の五代の天皇に仕えた。そして、宇多天皇天皇の位に押し上げた功労者である藤原淑子の下で典侍(ないしのすけ)という後宮の次官となり、宇多天皇の信任も厚かったとされる。

 猪名部氏のルーツである宝塚の地に宇多天皇清荒神を作らせたことと、何かしら関係があるかもしれない。

 しかし、それ以上に、門戸厄神東光寺など宝塚周辺の空海ゆかりの地と、宇多天皇ゆかりの清荒神の関係がとても深い。

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清荒神 境内の一番奥、不動明王を祀る龍王

 清荒神は、真言宗の寺だが、鎮守社として三宝荒神社があり、神仏習合の聖域である。

 三宝荒神は、役行者由来の日本特有の信仰である。火と竈の神として信仰されることが多いが、本来は、密教不動明王などと同じ憤怒の表情で仏・法・僧の三法を守護する。神の荒魂に古代インドに源泉をもつ夜叉神の形態が取り入れられた守護神であり、鬼の力で、災いを制するという発想である。

 清荒神との関わりにおいて興味深い話がある。門戸厄神東光寺の西、夏至の日に太陽が沈む方向に、833年、淳和天皇勅願寺として空海により開創されたという鷲林寺があり、その荒神堂に、麁乱(そらん)荒神を祀っている。

 空海が、音霊場を開く土地を求めて廣田神社に宿泊していた時、夢枕に仙人が現れ鷲林寺を創建する地を教示された。それに従い入山したところ、この地を支配するソランジンと呼ばれる神が大鷲に姿をかえ、口から火焔を吹き空海の入山を妨げた。空海は傍らの木を切り、湧き出る六甲の清水にひたして加持をし、大鷲を桜の霊木に封じ込めた。その霊木で本尊 十一面観音を刻み、寺号を鷲林寺と名付けた。同時に、大鷲に化けたソランジンは麁乱荒神としてまつられたとされる。このソランジンは、廣田神社の祭神、向津姫(瀬織津姫)ともされるが、宇多天皇が作った清荒神は、鷲林寺の麁乱荒神を移したものであるという説がある。(東大寺 三宝院洞泉相承口訣)。

 さらに、ソランジンの話は、摂津のシンボルともいえる甲山に鎮座する神呪寺(かんのうじ)にも伝わる。お椀を伏せたような形の甲山は、花崗岩隆起によって形成された六甲の山々と隣接しているが、形成過程が異なり、古い火山が侵食されて今の形になった。

 神功皇后が、国家平安守護のため、その頂上に、如意宝珠(廣田神社の宝物で、神功皇后は、海中からこの宝珠を得てから連戦連勝したとされる)と兜を埋めたという伝説に彩られており、廣田神社神奈備である。六甲山系の東端の高台に鎮座する鷲林寺のすぐ近く真東に位置しているので、鷲林寺において、この山から上る太陽を拝むこととなる。

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鷲林寺の荒神堂。鷲林寺の真西が六甲山の山頂。真東が甲山。


 弘法大師の弟子で、淳和天皇の妃の如意尼が、甲山に寺を建立しようとしていた時、鷲林寺からソランジンと呼ばれる神が大鷲に姿を変えてやってきて、建立の邪魔をしにきた。恐怖を感じた如意尼は、空海に相談したところ、東の谷に大岩があるので、その上に神を祭れと教えがあり、それに従ったところ、ソランジンは、邪魔をしなくなり、守護神になったという伝承だ。

 如意尼は、空海から法名を受ける前、淳和天皇の妃だった時の名は真名井御前であり、丹後の海部氏出身とも、但馬の日下部氏とも言われるが、正史には存在しない。

 清荒神三宝荒神が移される前の話として、宝塚にもう一つの伝承がある。

 淳和天皇の妃となった如意尼の侍女で、後に出家して甲山の神呪寺で修行をしていた如一尼(にょいつに)の夢枕に天女が現れ、東の方の聖なる所に行くよう、お告げがあった。

 その場所に行くと、聖徳太子が建立し、その当時廃れていた平林寺があった。如一尼はこれを再建し、ここで修行を重ねた。

 いく年かが過ぎたある日、西方の峯に一筋の光がさし、雲のたなびく中に荒神が現れた。そのご加護を受けた如一尼は如一禅尼と改名し、人々を分け隔てせずに仏の道を説き、平林寺は栄えたという。

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(左)門戸厄神東光寺。門が真東を向いている。大阪湾に近い高台からの見晴らしは素晴らしい。古代は、すぐそばまで海だった。(右)平林寺と宝塚神社がある高台。門戸厄神東光寺清荒神を結ぶ南北のライン上にある。生駒山からヤマトの金剛山まで見渡すことができる。冬至の日には、大阪の生駒山から太陽が上る。さらに、鷲林寺が、冬至の日に太陽が沈む方向にある。 また、夏至の日に太陽が沈む方向に岩倉山があり、山名の由来は、「神が座す磐座(いわくら)」に由来している。

 如一尼は、和気氏の女性で、奈良時代後半の宇佐八幡宮神託事件道鏡天皇になるのを阻止した和気清麻呂の血縁であるが、和気氏は、もともとは備前の金属技術を持った渡来系の豪族だった。和気清麻呂は、道鏡事件が有名だが、実際の活躍は、桓武天皇の側近の高官になってからだ。播磨・備前国司となった後、786年に、摂津太夫民部卿となり、神崎川と淀川を直結させる工事を達成している。三輪山から奈良の中心部を通って淀川まで流れていたヤマトの大動脈であった大和川の土砂堆積による逆流を防ぐと同時に、淀川水系を使った物流路を作ることにもなった。この物流路が、難波宮の資材を長岡京の造営に再利用するというアイデアとなった。さらに和気清麻呂は、桂川賀茂川に挟まれ、より水流に恵まれ、水運に使えるうえに疫病対策にもなる京都の地に都を作ることを桓武天皇に提案し、造宮大夫として平安京つくりを推進した。

 摂津と和気氏の関わりは、とても深かった。さらに、和気氏空海の関係が、ミステリアスなほど深い。

 京都の高雄山中腹にある神護寺は、和気清麻呂の開基で和気氏の氏寺だったが、遣唐使から帰国した空海が、東寺や高野山の経営に当たる前に拠点とした寺である。

 そして、和気清麻呂の5男、6男の和気真綱と和気仲世が、遣唐使から帰ってきた空海を財政的にも支援していたし、朝廷とのつなぎ役ともなった。

 812年、空海神護寺で初めて行った灌頂を受けた者の名が、空海自身の筆で残されているが、 最澄、 和気真綱、 和気仲世、 美濃種人(和気一族の従者) の4人で、最澄以外は、和気氏関係者だったのだ。

 平林寺を再興した如一尼は、空海から灌頂を受けた和気真綱の娘で、空海の姪とも言われる。

 和気氏は、宇佐八幡宮事件から注目を集め、同じ渡来系の血を受け継ぐ桓武天皇の信頼が厚かったが、和気氏が歴史に存在していなかったら、平安京もなかったかもしれないし、空海が歴史舞台に登場する機会も、失われていたかもしれない。

 そして平林寺は、宇多天皇が作らせた清荒神と、空海ゆかりの日本三大厄神門戸厄神東光寺を結ぶ南北のライン上に位置している。

 さらに不思議なのは、平林寺のある高台から夏至の日の太陽が上る方向、猪名川の側に加茂遺跡があることで、この加茂遺跡から中山寺清荒神が、東西のラインにそって、きっちりと並んでいる。

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中山寺奥宮。宇多天皇自らが天神を彫ったとされる磐座。

 加茂遺跡は、丘陵に立地する近畿地方を代表する弥生時代の遺跡であり、東西800メートル、南北400メートルという広大な環濠集落だ。遺構や遺物は旧石器・縄文時代から平安時代かけてのもので、とりわけ、弥生時代中期~後期の遺構の遺構が最盛期であり、環濠、外濠、斜面環濠を擁し、最明寺川と台地の斜面の地形と合わせ、防御機能に優れている。

 加茂遺跡のある高台から大阪平野を一望できるが、古代の海岸線は今よりも内陸に食い込んでいたので、この要塞化した巨大集落から、海が望めた可能性が高く、行き交う船も確認できただろう。

 さらに、鷲林寺、平林寺、加茂遺跡の夏至の日の出のラインを東に行くと、役小角が修業し、弁財天の導きを受けて悟った箕面山となる。

 役小角は、西宮の甲山の南の目神山でも弁財天を感得し、六甲修験道を開基したが、鷲林寺は、その起点である。(目神山は、鷲林寺と門戸厄神東光寺を結ぶ冬至の日の出ライン上にある)。

 平林寺と中山寺聖徳太子、鷲林寺と門戸厄神東光寺空海、そして六甲修験道を作った役小角は、清荒神「行者洞」でも祀られている。

 宝塚の地は、聖徳太子役小角空海と、それぞれ活躍したのが紀元600年、700年、800年と、百年ごとに歴史上に現れた伝説的な聖者と関わりの深いラインが張り巡らされている。

 さらに、この3人は、怨霊、鬼と深い関係がある。

 そして、空海の時代から100年後の紀元900年が、宇多天皇の時代なのだ(867年 - 931年)。宇多天皇で、忘れてならないのが日本三大怨霊の一つ菅原道眞(845-903)である。

  宇多天皇は、藤原氏の政治的影響をできるだけ減らそうと努力し、菅原道眞を抜擢して、政治改革を行おうとした。

 聖徳太子の紀元600年、役小角の紀元700年、空海の紀元800年は、それぞれ、推古天皇天武天皇桓武天皇という古代における重要な改革が行われた天皇の時である。

 同じく宇多天皇や菅原道眞が世に現れた紀元900年も、延喜の改革が行われるなど、日本の歴史で何度か起きた大きな転換期の一つだった。(続く)

第1052回 日本の古層〜相反するものを調和させる歴史文化(8)

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丹後、鬼伝説の大江山の近くに鎮座する皇大神社伊勢神宮の内宮と外宮に対応するように、豊受大神社が近くに鎮座している。

(日本の古層(6)の続き)

 亀岡の佐伯郷にある御霊神社には、吉備津彦命が祀られている。日本の古層(6)の記事で書いたように、吉備津彦命のもともとの名が、ヤマトから派遣された将軍、彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこ)に討たれた渡来系の製鉄氏族の湯羅(うら)のことだとすると、亀岡の地にも、吉備と似たような鬼退治の歴史があったと考えられる。

 亀岡における製鉄氏族のことも、(6)の記事で述べたように、河阿(かわくま)神社に伝えられている。この周辺は鉱山であったが、約二千年程前に、九州方面から移住してきた南方系の採鉱治金術を知った部族がやってきて、ここに住み着いた。そして、河阿神社の拝殿前には人身御供が入れられた長持(収納箱)が置かれた台石があり、 毎年麓の家々の中から藁屋根に白羽の矢がささった家の娘が人身御供として神前に献上されたと伝わる。

 南方系の九州からやってきた人たちということとなると、(6)の記事で書いたように、稗田野神社などで祀られている野椎神(のづちのかみ)=「鹿屋野比売(かやのひめ)」と重なる。

 さて、丹後・丹波の鬼伝説のうち、最も古いものが、古事記の中の、第10代崇神天皇の時の話である。

 『日本書紀』の中では、第10代崇神天皇の時、吉備津彦命山陽道丹波道主命山陰道の平定のために派遣されたとなっているが、古事記』の中では、山陰道に派遣されたのは、丹波道主命ではなく、その父の日子坐王(ひこいますのみこ)=崇神天皇の弟である。

 日子坐王が、旦波国に遣はされて、「玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめたまひき」とある。

 これについて、「丹後風土記残欠」では、もう少し詳しく、「青葉山中にすむ陸耳御笠(くがみみのみかさ)が、日子坐王の軍勢と由良川筋ではげしく戦い、最後、与謝の大山(現在の大江山)へ逃げこんだ」と記されている。

 大江山は、金属鉱脈が豊富で、周辺には金屋など金属にまつわる地名が多く見られる。

 玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)は、土蜘蛛とされているが、名前に御という尊称がある。さらに、谷川健一は、「神と青銅の間」の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習をもち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」と述べている。そして、福井県から鳥取県日本海岸に美浜、久美浜、香住、岩美などミのつく海村が多いこと、但馬一帯にも、日子坐王が陸耳御笠を討った伝説が残っていると指摘している。

 だとすると、日本の古層(6)に述べたように、亀岡の河阿(かわくま)神社に伝えられている「約二千年程前に、九州方面から移住してきた南方系の採鉱治金術を知った部族がやってきて、ここに住み着いた」という伝承と重なってくる。

 吉備の国の湯羅(うら)もまた、製鉄技術をもたらした渡来人であり、古事記では第7代孝霊天皇の時、日本書紀では第10代崇神天皇の時に討たれたことになっている。

 金属技術をもった人々が戦いに敗れるのだから、より強力な武器を持った人たちが、新しい支配者になったということだろうか。

 とすると、もともと丹波・丹後に住んでいた人たちは、いったいどういう人たちなのか。

 京丹後市弥栄(やさか)町に、弥生時代奈具岡遺跡がある。ここでは、紀元前1世紀頃の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっており、玉造の道具としてノミのような鉄製品も作られていた。ここから出土した鉄屑だけでも数kgにもなり、製作された鉄製品の量は莫大だったことがわかる。

 また、京丹後の峰山に、弥生時代の日本最古の高地性集落、扇谷遺跡がある。一般的に弥生時代の集落は、コメの生産地となる水田に近い平野部に形成されていたが、そうではなく、ここは、山地の頂上・斜面・丘陵にある集落で、石の矢尻や槍など戦いとの関連が考えられる武器や遺体なども発見され、軍事的要素が強い。さらに、ここからは、陶塤、菅玉、鉄製品、ガラスの塊、紡錘車など、古代のハイテク技術が見つかっている。

 この峰山の地に、比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)が鎮座するが、伊勢神宮の外宮の祭神である豊受大神は、ここから、京丹後の鬼伝説で有名な大江山の傍の豊受大神社を経て、伊勢の地に勧請された。伊勢神宮の外宮の神様は、もともとは丹波の神様なのである。

 そして、伊勢神宮の外宮の神職である度会氏が起こした伊勢神道では、豊受大神天之御中主神・国常立神と同神で、この世に最初に現れた始源神であり、豊受大神を祀る外宮は内宮よりも立場が上ということになっている。

 そして、豊受大神は、羽衣伝説と関わりがある。

 羽衣伝説は、全世界に類似のものがあり、なぜ世界中に似た神話があるのかは神話学の難問であるが、日本では、「丹後国風土記」と「近江国風土記」に記されているものが最古と考えられる。静岡の三保の松原の羽衣伝説が一番有名だが、その理由は、室町時代世阿弥によって作られた謡曲『羽衣』のためであり、あそこが羽衣伝説のルーツではなく、丹後と近江の物語が全国に広がったと考えらえる。

 丹後風土記の羽衣伝説は、峰山地方が舞台となっており、丹波郡比治里の真奈井で天女8人が水浴をしていたが、うち1人が老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、しばらくその老夫婦の家に住み万病に効く酒を造って夫婦を富ましめたが、十余年後に家を追い出され、漂泊した末に奈具村に至りそこに鎮まった。この天女がトヨウケビメ豊受大神)であるという。

 羽衣伝説が何を象徴しているのか、様々な議論がある。その一つに白鳥処女伝説という異類婚姻譚(いるいこんいんたん)がある。人間が、人間と違った種類の存在と結婚する説話で、世界中で見られる。

 これは、古代の部族の者以外(生活習慣の違うもの)との婚姻を起源とする説がある。また、何かと引き替えに、女性が一種の人身御供として異類と結婚するということでもある。

 とくに日本には、他界(死後の世界、神の世界等)と関わると何事か幸を得るという感覚が古来からあったようだ。その代表が、「古事記」の中の山幸彦を助ける豊玉姫(海神の娘でワニの化身)だろう。この両者の子供がウガヤフキアエズであり、ウガヤフキアエズ豊玉姫の妹の玉依姫と結ばれて神武天皇を産む。

 神武天皇じたいが、異類婚姻譚の結果なのだ。

 そして、羽衣伝説のあるところは、白鳥の飛来地でもある。京丹後において、天女が降りた地は、比治里の真名井だが、比治里という地名から、とりあえず峰山の比治山とされているが、真名井という場所ならば、元伊勢の籠神社の奥宮であり、籠神社が目の前の阿蘇海は、シベリア地方などから飛来してくる水鳥の絶好の餌場や休息地になっている。

 また、近江国の羽衣伝説の舞台である余呉湖のある長浜周辺も、全国でも有数の野鳥の宝庫であり、コハクチョウが飛来する。

 羽衣伝説のもとになっている白鳥伝説は、異類婚姻譚だけでなくもう一つの深い意味があると考えられる。それは、鉄だ。

 近年の研究でもわかってきたが、渡り鳥には、磁場が見えるらしい。”見える”というのは象徴的な意味ではなく、渡り鳥の目の中で、磁場が生化学的な反応を起こしており、それによって渡り鳥は、地球の磁場を知覚することができ、正確に場所を特定して飛んでいるという新しい説が唱えられている。

 鳥の目の中で起こっていることは人間には正確にわからないが、渡り鳥が、磁場を感知することで正確な方向を把握し、飛んでいることは確からしい。

 そして、鉄鉱石や砂鉄は磁性を帯びているため磁場に微妙な変化を起こしているらしく、その近くに絶好の餌場があると、白鳥は、毎年、規則正しくやってくる。

 近江の余呉湖の近く、長浜市木ノ本町古橋地区は、古代の製鉄遺跡が存在し、その背後の金糞岳から流れ出る東俣谷川(ひがしまただにがわ)周辺にも鉱山跡や製鉄遺跡があり、金糞岳は、伊吹山と並ぶ鉄の山だった。

 また、丹後の比治山を源流とする諸河川では砂鉄がよく採れ、鉄穴流しのタタラ跡が数多く遺っているという。上に述べたハイテク技術の扇谷遺跡も比治山の近くにある。

 さらに弥栄町奈具岡遺跡には紀元前1世紀頃の鍛冶炉が発見されたが、その近くの遠所遺跡は、5世紀末あるいは6世紀前半のものと現状では考えられているが、製鉄から精錬、加工にいたるまで一貫した生産地帯で、古代の製鉄コンビナートというべき大製鉄跡であったことがわかっている。そこから、日本で最も古いものの一つと考えられる砂鉄を原料とした「たたら式」の製鉄炉跡も発見されている。

 しかしながら、天女の豊受大神は、一般的には食物・穀物を司る女神とされている。

 ならば、農耕のための農具をつくる産鉄と関わりがあった可能性がある。

 稲荷神も農業神とされるが、”いな”は、砂鉄という意味もあり、稲荷は、鉄の農具を保管する蔵だという説もある。だから、稲荷神社の狐がくわえている鍵は、農具を保管する蔵の鍵であると。古代、鉄器の威力は農業生産高をあげたが、鉄器そのものが貴重で、貸出制だったと言われ、蔵で管理されたと考えられている。

 そのためか、稲荷神社では、ふいご祭りやたたら祭りなど製鉄と関連する祭りが、よく行われている。

 いずれにしろ、豊受大神(トヨウケ)の“ウケ”および、同じ食物神で亀岡の稗田野神社の祭神である保食神ウケモチ)の”ウケ”と、稲荷神社の祭神である穀物神の“ウカノミタマ”の“ウカ”は、同一の語源なのだ。

 このように見てくると、丹波・丹後には、かなり高度な技術を持った人々が、弥生時代から住んでいた。それは、羽衣伝説に象徴されるように、渡来系の人たちがもたらした技術であり、鉄の技術を含んでいた。

 しかし、第10代崇神天皇の時、崇神天皇の異母弟の日子坐王(ヒコイマスノミコ)が、旦波国に遣はされて、「玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめたまひき」とあるように、二つの集団のあいだで戦闘が行われたということになる。

 そして、この地に攻め込んだ彦座王も、鉄と無縁ではなかった。

 彦坐王は、第9代開化天皇和邇氏の意祁都比売命(おけつひめのみこと)のあいだに生まれたが、古事記によると、息長水依比売命(おきながのみずよりひめのみこと)という 天之御影神(あまのみかげ)の娘を妃として、二人から丹波道主命が生まれている。

 天之御影神は、鍛冶の神として知られる天目一箇神と同一神とされている。そして、丹波道主命の娘の日葉酢媛(ひばすひめ)と第11代垂仁天皇とのあいだに第12代景行天皇が生まれ、その子のヤマトタケルが生まれる。系譜で見ると、丹波道主命は、ヤマトタケルの曾祖父になる。

 さらに彦坐王は、母親の妹の袁祁都比売命(おけつひめのみこと)とも結ばれて子孫を残すが、曾孫として息長宿禰王(おきながすくねおう)が存在し、その娘が「神功皇后」である。

 古事記の中でもっとも知られる英雄伝は、ヤマトタケル神功皇后であるが、その二人が、彦坐王の末裔ということになり、さらに、ヤマトタケルの息子の仲哀天皇神功皇后のあいだの子どもが第15代応神天皇という位置付けなのだ。

 こうして見ていくと、彦座王という存在が、大和朝廷の勢力が全国に拡大していく起点になっていることがわかる。

 そうした大和朝廷にとって、丹波・丹後の豊受大神は、鬼として征伐される対象だった。

 しかし、吉備津彦命と同じく、討たれた鬼が、神として祀られることになる。第21代雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比治の等由気太神(とゆけおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、豊受大神伊勢神宮の外宮に祀られるようになったとされる。

 菅原道眞が怨霊として世間を騒がせた後、天満神として信仰されるケースと同じく、怨みをもって亡くなったものが、後に神として祀られることになる。この転換があるから歴史は複雑になる。伏見稲荷なども、秦氏が祀ってきたので秦氏の神様のように言われることがあるが、もしかしたら、この転換かもしれない。

 こうした転換はなにも日本独自のものではない。

 古代ギリシャでも、神的な力のことを「Daimon」(ダイモン)と言い、このDaimonが、悪魔を意味する「Demon」(デーモン)の語源になっている。

 また、古代ペルシャの国教、ゾロアスター教最高神、アフラ・マズターは、「智恵ある神」を意味し、善と悪とを峻別する正義と法の神で、それが古代インド世界の聖典『リグヴェーダ』の中では生命生気の善神アスラ(阿修羅)となった。

 しかし、しだいに、その暗黒的・呪術的な側面が次第に強調され、ヒンドゥー教世界では魔族となった。さらにその後、仏教に取り込まれた際には、仏法の守護者となった。

 日本においても、阿修羅は、仏法の守護者であるものの、その本質は、戦闘し続ける鬼である。

 また、古代インドにおける英雄神で最高神のインドラは、古代ペルシャゾロアスター教ではダエーワという悪神で、アフラ・マズダー(アスラ)と敵対する。

 そのインドラは、仏教世界では仏教の善なる守護神、帝釈天になる。

 インドラとアスラ、帝釈天と阿修羅は、ペルシャとインドという二つの大国のせめぎあいの中で、位置付けが変わっていったのだ。

  空海によって日本の宗教世界に大きな影響を及ぼしている密教における最高神大日如来は、その起源はアフラ・マズダーにあると言われる。それは大日如来が阿修羅の性質も帯びているということであり、だから、夜叉(鬼神)の姿の不動明王が、大日如来の化身ということになる。

 畏怖すべき力は、時代背景によって、神にも悪魔(鬼)にもなるということである。

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陰陽五行道の反映か、近畿の重要な聖地を結んで正確な五芒星が描ける。西北の丹後には、伊勢の内宮と外宮に対応するように、伊勢の対角線上に、皇大神社豊受大神社がある。東北は伊吹山で、東南が伊勢神宮、真南が熊野本宮大社、西南が伊奘諾神宮。そして、センターラインの真ん中に、神武天皇ゆかりの橿原、奈良、京都が正確に位置する。しかも京都は、伊勢と丹後、伊吹山と伊奘諾神宮のラインが交差するところで、とても偶然とは思えない。京都への遷都は、この設計図があったからなのか。しかし詳細に見てみると、ラインは、京都の平安京ではなく、もう少し東の下鴨神社のあたりを通っており、奈良も、平城京ではなく、その西にある第11代垂仁天皇の古墳や、佐紀陵山古墳(垂仁天皇の妃で景行天皇の母の日葉酢媛の古墳などがある)を通っている。どちらも、平安京平城京より古い。