暮らしは、闇(くら)し。

 京都を訪れた友人が、「京都は暗いねえ」と呟く。そして、「これでいいよね」と付け加える。京都は、電灯の暗さだけではなく、野外広告の規制によって派手な看板がなくなった。「電気が暗いと、活気に乏しいように見えるねえ」などとバカなことを言う経済界の大物もいるらしいが、しっとりとした暗さに慣れると、たまに東京に出る時など、明るすぎる夜に神経が疲れる。人間の生理的な問題として、暗さは必要なのだ。派手な看板と明るい照明によって活気を装っても、中身がどんどん空疎になっていっていることは、少し冷静になれば誰でも意識できることだろう。

 今日、安倍政権が解散総選挙を行なうことを決定した。消費税を先送りしてアベノミクスを推進することに対して国民の信を問うらしい。
 明らかな詭弁だが、街頭インタビューなどで、「消費税を国民が望んでいるかどうか、選挙で確認することはいいことだと思う」と述べている主婦がいた。その程度の認識の人が大勢いて、次もまた自民党の圧勝ということになってしまうのだろうか。
 自民党安倍政権が行なったことは、けっきょく日銀の量的緩和と、それだけでは間に合わなくなって日銀による直接的な国債の購入。それによって円の相対的価値を低下させて円安に誘導し、円安効果を口実に株価のつり上げを画策する外国人投資家のリードによって株価を上昇させたことだけだ。実質的には何の根拠もなく円安になり株価があがり、為替差益で一部の大手企業の業績があがった。しかし、設備投資が伸びているわけでもなく、ちょっとした為替変動で業績があがっただけだから、ちょっとした為替変動で業績が悪化する可能性も高い。5年、10年と持続的に成長できる状況ではない。
 もちろん、残念なことだが自民党以外のどの政党が政権をとっても大したことはないだろうという懸念はある。しかし、もし次も自民党が圧勝したりすると、安倍政権は、国民の信を得たと胸を張り、牽制がきかなくなって、傲慢で雑な政策を一挙に進める可能性がある。そのことがとても心配だ。安倍政権が言っていることは、あからさまなポピュリズムであり、にもかかわらず、その薄っぺらい言葉に簡単に乗せられてしまう国民が大勢いるということがわかれば、安倍政権は、自信を持って、今のスタイルを押し通すだろう。国民の支持を得た政策が素晴らしいのではなく、深刻なことは考えたくない国民の糠喜びを誘いながら、後になって引き返せないような道へと深入りしていくことが恐い。
 安倍首相は、これまでもいろいろ言い訳ばかり繰り返していたが、7月〜9月においても、予想通りGDPが伸びていない。一番の原因は内需が伸びないことだが、政府は、国民の機嫌を取る為に、商品券を配って消費の刺激をするらしい。
 しかし、そんな付け焼き刃的な対応が根本的な解決につながる筈がない。内需が伸びないのは、物が溢れていて物を買う必要がないからだ。人口が増えていないのにGDPを右肩上がりで成長させる為には、昨年に購入した金額以上に物を買わなければならない。しかし、毎年、少しずつ買っているわけで、かろうじて昨年並みに買うことがあったとしても、昨年以上買わなければならない理由はどこにもない。
 そういう状況を考慮せずにバラマキ政策をとっても持続的効果はない。企業にとってもバラマキ政策で一時的な消費活性化が行われても持続性がないことがわかっているから大きな設備投資をできる筈がない。工場を作っても、10年後どうなるかわからないのだから。
 住宅投資の落ち込みもGDPのマイナスに大きな影響を与えているが、人口減少で20年後には家が余っている可能性が高いのだから、積極的に投資できる筈がない。人口減少、高齢化、物が過剰、新興国の台頭という条件を考えれば、消費刺激による経済活性策と、GDPの右肩上がりはあり得ないだろう。仮にできたとしても瞬間的なもので10年、20年と続く筈がない。
 もはや、経済成長がなくても豊かさを実感できる社会の構築、生き方の変化を目指すしかないと思う。
 賑やかで絢爛たる状況が楽しいとは限らず、静かで穏やかで、しみじみと感じられる楽しさがある。有名だけれど人の群がる観光地よりも、無名だけど落ち着いて過ごせる場所の方が気分転換になる。明るさは機微を消してのっぺりと標準化して固有性をなくすが、暗さの陰影は、個々の奥行の魅力を伝える。
 風の旅人の第48号の巻頭に、空海の言葉を綴った。
「生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに闇(くら)く、死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し。」
 この言葉の解説で、人生の始まりも終わりも暗いものだと悲観的にとらえて説明する専門家が多いが、私はそう捉えていない。
 闇というのは、字のとおり、門の下で音を待っている状態。つまり、何か新しい兆しの”おとづれ”を待っている。  
 明るく照らし出して賑やかな音がいっぱいだと、その気配をとらえることができない。明るければ明るいほど物がよく見えるというのは錯覚で、どうでもいいものもいっぱい見えすぎて肝心なものが見えない。
 闇のなか、耳を澄ませることで初めて気付く大事なことがある。
 人生というのは、そうした気づきによって、救われたり、本来あるべきところへ導かれたりする。その気づきがなければ、いくら忙しく立ち回っても、牢獄のようなところで堂々巡りを繰り返しているということがある。
 牢獄を脱け出したいから、人は明るいところに行きたがるのだけれど、現代人は、白々と明るい牢獄で空虚に時間を費やしているのだ。
 牢獄から脱け出すためには、暗いトンネルを抜けることが不可欠。3.11の震災後、街の灯りが少し暗くなって、暗いトンネルの中に入ったかなと思っていたら、いつの間にか明るいところに出てしまった。前に進んで脱け出したのではなく、強引に来た道を戻って、元の白々と明るい牢獄に戻らせたのがアベノミクスだと私は思っている。
 トンネルの先にある世界は、明るい場所ではないだろう。それは、冥(くら)い場所だろう。
 ”冥”というのは、「かなた」という意味。”とらえようがない”ということ。物事がはっきりしているのではない。物事をはっきりさせるというのは、人間の卑小な分別で決めつけているだけのこと。はっきりとさせなければ物事を進めることができないと主張するのは、臆病者。
 先行きが不透明でも、手探りしながら前に進むことはできる。ゴールが見えなくても、勇気のある者は、足を踏み出すことはできる。人はいつか死ぬけれど、死んだらおしまいなのではなく、死んだ後のことが、人間の認識ではとらえられないだけ。
 この変化の激しい時代に、10年後の世界を正確にとらえることなんかできやしない。だから、きちんとした計画を立てることはできない。計画がなくても、人としてどういう方向性が望ましいのかを考えに考え抜いていれば、今すべきことを色々な方法で察知できる。
 「経済優先」などというキャッチフレーズで人生の節目にとるべき態度を決めてしまってはいけない。
 生きて死んでいく生身の一人ひとりが、どういう人生観と世界観を持っているのかが問われる。
 どういう政治になっても、その人生観と世界観は揺らがないようにつとめること。ポピュリズムに傾けば傾くほど政治がいかがわしくなるのは間違いなく、政治家の甘い言葉につられる国民が多いと、そうなっていくことは避けられない。
 「明るい未来」なんて白々しい言葉ではなく、「冥い未来」でけっこう。
 「死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し。」
  死に臨んで、この世界(宇宙)はそういうものであるという謙虚さに至ることこそが臨終の心得であり、それが涅槃というか即身成仏でもあると空海は唱えているのではないか。
 「生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに闇(くら)し。」
 今、これまでにない何かが生まれようとしているが、だからこそ闇(くら)くないと、その気配をとらえきれない。
 そして、暮らしというのは、”くらし”なのだ。くらく控えめで色々なことを慮り、そのために充実感に満ちて過ごせる過程なのだ。

 まあ個人的な勝手な解釈だが、そう思っているので、私が作るものは、徹頭徹尾、暗さに磨きをかけていくことで迷いがない。


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