現在の長野県の県庁所在地は長野市だが、明治の廃藩置県までは松本市が長野の中心だった。
信濃川流域に位置する上田市は、四方に秀麗な形の山が見られるところで、戦国時代の真田氏の拠点として知られるが、軽井沢から群馬の利根川へと抜けるルート上にあるので、縄文文化が華開いた新潟と長野と群馬の境界であるとともに、日本海側と太平洋側を結ぶ要の場所だったのだろうと想像できる。
主祭神は、生島大神(いくしまのおおかみ)と足島大神(たるしまのおおかみ)というあまり聞いたことのない神様だが、式内社の名神大社であるので、1000年以上前から重要な神社だった。
生島大神は、万物を生み育て生命力を与える神、足島大神は国中を満ち足らしめる神という。
この生島足島神社は、レイラインで知られており、東の鳥居から夏至の朝日が昇り、西の鳥居に冬至の日の入りが見られるということで、当日には、多くのカメラマンが訪れるのだそうだ。しかも、このラインは、生島足島神社の旧鎮座地とされる泥宮まで伸び、さらに西に聳える美しい三角すいの女神岳まで伸び、東も、特徴的な山容の烏帽子岳まで伸び、その間に、信濃国分寺が作られた。
レイラインとか冬至のラインは、珍しいものではなく、世界各地に見られるもので、日本中を旅していても、特徴的な形の山を見かけると、その山から冬至や夏至の日の出や日の入りの方向に神社があることが多い。
伊勢神宮の宇治橋の真ん中に冬至の太陽が上ることや、伊勢の二見浦の夫婦岩のあいだに夏至の太陽が上ることもよく知られている。
冬至の日は、太陽の力がもっとも弱まるので、復活の日として特別視されていたこともあるだろうが、実際的な意味としては、暦の基準として、冬至のラインが設定されているということがある。
明治以降、日本は太陽暦を採用したが、それ以前は、ずっと太陰暦だった。
太陽暦は、何回夜になったか記録していかなければ、だいたいの季節はわかっても、今がいつなのかわからなくなる。
それよりも、月の満ち欠けで日にちの経過を判断した方がわかりやすいようで、全世界的に、人類は、この太陰暦を使ってきた。しかし、月の満ち欠けの周期は平均で29.5日なので、1年の周期である365日にぴったりと重ならない。だから閏月をつくって調整し、毎年、一年の始まりの日を設定しなければならない。
その設定日が、冬至であることが多かった。翌日から、1日ごとに陽が出ている時間が長くなっていくから。
冬至の日に、特徴的な山などから上る太陽が確認できる場所を決めておくと、一年の始まりを明確に認識できて、翌日からは月の満ち欠けで、1日1日を認識していけばいい。
つまり、この太陰太陽暦のために、冬至の太陽のレイラインが設定されたと考えられる。
珍しいものではなく、また特別にスピリチュアルなことを考えることなく、非常に現実的で、理にかなっている。
上田のように、四方に特徴的な山がいくつかあるようなところは、冬至と夏至だけでなく、そのあいだの日も、正確に特定できたのではないだろうか。
古代人にとっても、暦はとても重要だった。
今、自分がどの時空にいるのかを知りたいと思う心理は、やはり、環境を認識して、環境に応じて生きる術を構築するというホモ・サピエンスの知恵の中心にある感覚なのだろう。
神話などの創造も、暦を必要とする心理と同じで、歴史的時空間の中で自分たちがどの位置にいるのかを確認する気持ちとつながっているのだと思う。
どこから来て、どこへ行くのかという人類普遍の問い。
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