第1122回 歴史の事実よりも、歴史のリアリティが大事

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相生の松

 京都から、加古川高砂経由で明石へ移動してきた。

 加古川下流、海のすぐ近くに、川の両岸に分かれて高砂神社と尾上神社が鎮座し、ともに相生の松がある。この二つの相生の松は、世阿弥作の能の「高砂」の謡曲で知られ、結婚式では定番の松だ。
 といっても、現代では、「高砂や この浦船に帆を上げて」なんて歌ったところで、いったいどれだけの人が、リアリティを感じることができるのか。
 リアリティというのは現実感。歴史というものが、いつしか、事実の証拠集めの学問になってしまって、現実感の乏しいものになってしまった。現実感が乏しいというのは、自分にとって無関係という認識になってしまうということだ。
 しかし、自分が生きている場所の歴史が自分と無関係になってしまうというのは、自分という存在が、どこから来て、どこへ行くのかという問いすら立てられなくなってしまうということ。つまり、そんなこと考えてもしかたない、今目の前の現実を生きるのに精一杯なのだからと。
 でも、今目の前の現実って、あらためて考えてみると、いったいどういう時空間なのかと思ってしまう。政府なのか、メディアなのか、それとも他の何ものかなのかわからないけれど、自分ではない何ものかが作り上げた価値観のなかで、せっせと働き、時々、娯楽し、物を消費している。この目の前の現実に、何も疑問を持つこともなく自分を委ねてしまって本当にいいのだろうか。
 目の前の現実を生きることで精一杯と言う時の目の前の現実って、それほど自分の生を傾けるための大義名分になるほどご立派なものなのか。
 なんてことを考えだすと、虚しさにとらわれてしまうから、とりあえず何も考えずに、今を消費することに一生懸命になる。
 しかし、歴史の中の世界を、自分たちの現実として引き寄せて生きている人たちは、今目の前の現実という刹那的な時間ではなく、もっと大きな時間の中で、自分たちがどこから来て、どこへ行くのかということに対する確信的なものをもって生きている。
 アメリカ先住民やアボリジニなど口承伝承をしっかりと生活の中に根付いていた人たちはそうだった。
 彼らは、語り継がれる歴史が、事実かどうか、その証拠はどうか、という重箱の隅をつつくだけの行為を正当化するほど偏狭ではなかった。
 歴史は、事実かどうかという頭で処理することではなく、自分たちの中に生き続けている現実として意識できるかどうかだけが問題なのだ。歴史はまぎれもなく現実であり、それが自分のなかに生き続ける現実となっていないのであれば、それは、歴史の伝え方が歪んでしまっているからだろう。
 今日、加古川から明石へ移動し、生まれ育った藤江の海岸近くの昔住んでいた家に立ち寄った。数年前までそこにあった家、40年以上も元のまま存在していることが不思議な感じに思われた家が、新しいマンションに建て替えられていた。
 しかし、その小さなマンションの敷地にある地滑りを防ぐためにコンクリートで固めた壁はそのまま残っていた。
 私が小学5、6年の時、毎日のようにボールをぶつけてキャッチングの練習をしていた壁が、そのまま残っていた。いろいろな野球選手の投球フォームを真似してボールを壁にぶつけて、跳ね返ってくるボールを受けるという単調な運動の繰り返し。それを飽きもせずに毎日のようにやっていた。跳ね返ったボールを取り損ねて、隣にあった駄菓子屋に飛び込んでは、店のおじいさんに小言を言われたのだが、その店の跡地は小さな駐車場になっていた。
 この壁の前に立ってボールを投げていた私の現実は、私の中にしっかりと残っている。懐かしいとかそういう感覚ではなく、今の自分とは別に、幼い自分がここに間違いなく存在していたのだというリアリティ。
 色々な聖域などを訪れる時も、間違いなくここに存在していた人たちの息遣いのようなものを感じ取れるかどうか、というのが、自分にとってとても大事だ。それを感じ取れる時、とても大きな時空を共有している感覚になり、現代社会の目の前の世知辛い現実が、なんとなく白けたものに思えてくる。
 政治家の顔と、その答弁を思い浮かべるだけでも、なんともつまらなく、味気なく、無味乾燥なことを、日々、言っているだけだということがよくわかるし、評論家や各種専門家と称する人の言葉も、同様だ。ニュースキャスターとかコメンテーターなど論外。そこで発せられる言葉が、私たちが自分のすべてを捧げるべき目の前の現実であっていいはずがない。コロナ騒動のバカバカしさも、ここに原因がある。
 現実というのは、今目の前の現実に限定されたことではなく、もっと大きな時間が確かに流れているというリアリティだ。それが感じ取れなくなっているから、多くの人は、目の前の現実のことしか言わなくなってしまっている。
 私たちから、大きな時間の流れを奪ったものは何なのか?
 その一番の犯人は、教育だと思う。人にものごとを教える立場の人が、大きな時間の流れのリアリティを持っていないということが、一番のネックになっている。その結果、右も左も同じように大きな時間の流れがわからない人がリーダーに選ばれて(つまり、目の前の現実だけのことだけをたくみに主張する人)、多くの人が、そのリーダーに追随するという滑稽な社会になっている。

 

 

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第1121回 いかるがの背後にあるもの(4) 源氏物語や住吉神との関係について。

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明石海峡を望む地に築かれた五色塚古墳神功皇后三韓遠征の勝利の後、ヤマトの地に凱旋する時、反乱を起こした忍熊皇子が、淡路島まで船を渡しその石を運んで赤石(= 明石)に陣地を構築したとあるが、それがこの場所であるという伝承がある。墳丘長は194mあり、当時としてはヤマト王権の大王墓(佐紀古墳群)に匹敵する規模の古墳である。


 

 第1120回の続き

 源氏物語の中でも重要な鍵を握っている住吉の神は、光源氏の運命が陰から陽へと転換していく明石の地と深い縁がある。その住吉の神は、第15代応神天皇の母、神功皇后と深く結びついており、さらに神功皇后の夫である第14代仲哀天皇の父ヤマトタケルの誕生とも縁がつながっている。

 明石から加古川にかけての地域が、ヤマトタケルが生まれた場所であることについては、前回のブログで書いたが、ヤマトタケルの物語が史実か神話かに関係なく、ヤマト王権の全国統一の象徴的存在であるヤマトタケルの誕生の背景が示していることは、何かしらの史実と結びついているはずだ。

 ヤマトタケルの父、第12代景行天皇は、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を娶るために、播磨の加古川の地を訪れた。

 播磨稲日大郎姫の父、若建吉備津日子(わかひこたけきびつひこのみこと)は、第10代崇神天皇の時、吉備討伐に派遣され、その途上の播磨を平定し、その後、播磨の国の実力者となっていた。

 播磨平野を流れる加古川の源流部の氷上は、日本海側と太平洋側とのあいだの分水嶺として最も高度が低く、90mほどしかない。そして、その源流部の傍を流れる由良川を遡り、その支流の大手川で若狭湾天橋立近くに至る。天橋立を渡ると丹後一宮の籠神社で、アメノホアカリ神を祀っている。

 アメノホアカリ神は、住吉大社の歴代宮司の津守氏の祖神である。

 第12代景行天皇は、息子のヤマトタケルと同じく日本統一のために各地に遠征した大王であり、九州の熊襲平定などが記録されているが、最初の妃が播磨稲日大郎姫で、その婚姻の背景には、この地の勢力との同盟関係が必要だったと考えられる。

 『播磨風土記』によると、景行天皇播磨稲日大郎姫が身を隠している小島へ渡るため、現在の加古郡播磨町で、御食事(みあえ)を行い、それ以後、そこは阿閇(あえ)の村となったと記される。現在、その場所に阿閇神社が鎮座している。

 この御食事(みあえ)について、景行天皇が食事をしたとか神に食事を捧げたとか説明されていることが多いが、正確には、「あへ」は”饗”であり、「饗応」のことで、”酒食を供してもてなすこと”である。この行為は、現代の政界やビジネス界においても慣習として伝わっているが、同じものを飲食することで結束を固めることが目的となっている。

 さらに、この慣習は、神と人間とのあいだでも行われる。現代でも、神社の祭祀の最後に、神事に参加したもの一同で神酒を戴き神饌を食する共飲共食儀礼直会(なおらい)が行われる。神霊が召し上がったものを参加者が頂くことにより、神霊との結びつきを強くし、神霊の力を分けてもらい、その加護を期待するとともに共同体の結束を強めるのだ。

 景行天皇が御食事(みあえ)を行った地に鎮座する阿閇(あえ)神社の祭神は、住吉三神神功皇后である。

 いにしえより住吉大社に伝来し、その由来について説明する『住吉大社神代記』では、阿閇浜と神功皇后の関係について、次のように説明している。

 熊襲二國を平伏(ことむけ)、新羅國より還り上り賜ふ時、鹿兒(かこ)に似たるもの海上(うみ)に満ちて浮び漕來(きた)れり。見る人皆奇異(あやし)み、「彼れ何物ぞ。」と云ひて鹿兒に似たる物を問ふ。近くに寄りて筑志(つくし)の埼に來り着きて見れば、藪十餘人(あまたのひと)たち、角ある鹿の皮を着て衣袴(いころも)と着(な)す梶取(かじとり)・水手(かこ)人の大神の舟を漕ぎ持ちて來るなり。故、其の地を鹿兒(かこの)濱と号く。皇后、大神に饗を奉らむと、酒塩を以て魚に入(そ)へて奉り賜ふ。號に阿閇濱(あへのはま)と号けて寄さし定め奉り賜ひき。其の時同じく津守宿禰の遠祖を奉仕(つかへまつ)らしめ賜ひき。皇后、合掌(みてをあは)せて誓(うけ)ひ宣(のたま)はく、「寄さし奉る吾が山河海の種種(くさぐさ)の物等を、若し妨げ誤る人あらば、天地のわざはひを蒙り、痛患(くるしみ)に遭ひ、子孫(うみのこ)絶滅(た)へて天下凶亂(あめのしたみだ)れむ。」と。(『住吉大社神代記の研究』田中卓著作集より)

 「三韓遠征から神功皇后が凱旋する時、海の上を鹿の子のようなものがたくさん浮かんでいるように見えて、それが何かと近づくと、角のある鹿の皮を着た大勢の人たちが船を漕いでいた。それで、その地を、鹿兒(かこの)濱と名付けた。神功皇后は、住吉の神に饗(あへ)を捧げるため、酒と塩で仕込んだ魚を捧げた。そこで、阿閇濱(あへのはま)の名付けた。その時、津守氏の祖を、神に仕えるものと決めた。神宮皇后は、合掌しながら、大神の言葉をおうけになって、大神より寄さし奉る(委任されている)山河海の恵みを損なうようなことがあれば、天地の禍が起こり、苦難に遭遇し、子孫も絶滅し、世の中は乱れると告げられた。」

 この内容から判断するに、神功皇后というのは、どうやら住吉大神の依り代であり、神の言葉を媒介する巫女のようだ。

 いずれにしろ、播磨の阿閇の地は、ヤマトタケルの父である第12代景行天皇と、ヤマトタケルの息子である第14代仲哀天皇の皇后の神功皇后が、御食事(みあえ)を行ったところだった。

 そして、平安時代紫式部によって書かれた『源氏物語』においては、この播磨の地に流れてきた光源氏が、明石入道一族と交わることで運命を好転させ、明石一族は、後に天皇家外戚となり栄華を誇るようになる。

 この播磨の地に縁の深い住吉神がどこからやってきたのか、『住吉大社神代記』に次のように書かれている。

 巻向の玉木の宮に大八嶋國所知食(しろしめ)しし活目天皇より橿日宮の氣「帶」長足姫皇后の御世、此の二御世(ふたはしらのみよ)、熊襲并びに新羅國を平伏(ことむ)け訖(を)へ賜ひ、還り上り賜ひて、大神を木國の藤代嶺に鎮め奉る。時に荒振神を誅服(つみな)はしめ賜ひ、宍背の鳴矢を射立てて堺となす。「我が居住はむと欲(ほ)りする処は大屋に向ふが如(ごと)、針間國に渡り住はむ。」と。即ち大藤を切りて海に浮かべ、盟(うけひ)して宣り賜はく、「斯(こ)の藤の流れ着かむ処に、將に我を鎮祀れ。」と宣りたまふ時に、此の濱浦に流れ着けり。故、藤江播磨国明石郡葛江郷と号く。(『住吉大社神代記の研究』田中卓著作集より)

 これによれば、熊襲新羅を平定した後、神功皇后が、住吉神を、紀の国の藤代嶺(和歌山市伊都郡富貴村)に祀ったが、その後、住吉神が、「自分は播磨国に移り住みたいので、海に藤を浮かべて、それが流れ着いたところに自分を祀るように」と申され、その通りにしたら、藤は、明石の浜に流れ着いた。そこは、今でも藤江という地名になっている。

 紀伊国の藤代嶺は、吉野の地において、吉野川に注ぐ二つの丹生川の上流域にはさまれたところだが、なぜか、交野の”いかるが”である磐船神社や奈良の”いかるが”の地の真南に位置する。そして、その藤代嶺から明石の藤江を結ぶラインは、夏至の日に太陽が沈む方向のラインなのだが、その延長上が、西播磨揖保川下流域の太子町の”いかるが”なのである。そして、明石の藤江から太子町の”いかるが”のあいだが、高砂とか相生の松で表される古代からの和合の地、加古川である。

 そして、最初に住吉神が祀られていた藤代嶺は、吉野の丹生の地なのだが、紀伊国に数多く祀られている丹生都比売神と、住吉神が、重なっている。

 播磨国風土記逸文には、「息長帯日女命、新羅を平定(コトムケ)せんと欲して下りましし時、衆神(カミガミ)に祈り給う。時に、国堅大神(クニカタメノオオカミ)の子の爾保都比売命(ニホツヒメ)、明石の国造・石坂比売命(イワサカヒメ)に著きて、『よく我が前を治め奉らば善き験(シルシ)を出して、ひひら木の八尋鉾根底附かぬ国、少女の眉引きの国、玉匣(タマクシゲ)かがやく国、苫枕宝ある白衾(タクブスマ)新羅国を、丹浪もちて平伏(コトムケ)賜はむ』と。かく教(ノ)り賜ひて ここに、赤土を出し賜ひき。その土を天の逆鉾に塗り、神舟の艫舳(トモ)に建て、又御舟の裳(スソ)と御軍(イクサ)の著たる衣を染め、又海水を搔き濁らせて渡り賜ふ時、底潜(クグ)る魚、又高飛ぶ鳥等も往来(カヨ)はず、前に遮(サヘ)らざりき。かくして新羅を平伏けおへて還り上らして、すなわち其の神を紀伊国・管川(ツツカワ)の藤代の峯に鎮め奉りき」とある。

 爾保都比売命とは丹生都比売のことだが、新羅遠征において、神功皇后が神に祈ったところ、丹生都比売神が、明石の国造、石坂比売命の口を借りて託宣を行い、自分を大切に祀れば、事は成就すると伝えた。そして、これを聞いた神功皇后は、神が差し出した赤土を天之逆鉾に塗って船の艫軸に建て、船体、武具にも塗り、自分の衣装や兵士の衣服も染め、その呪力をもって軍を進めると、何にも遮られることなく海を渡って新羅を平定することができたので、凱旋の後、神の加護に謝意を示され紀伊国・管川(ツツカワ)の藤代の峯に祀ったということになる。

 この逸文は、播磨風土記そのものから失われてしまっており、釈日本紀が引用しており、『播磨風土記』における欠文の明石郡の伝承でないかとされている。

 松田寿男氏の『丹生の研究』という書物によれば、管川の藤代の峯は水銀含有率の高い土地なので、水銀と関わりの深い丹生都比売の降臨地として不自然ではないとされているが、この場所が、『住吉大社神代記』によれば、神功皇后によって住吉神が祀られたところと同じなのである。

 いずれにしろ、住吉神、丹生都比売神とともに、神功皇后三韓遠征において大いなる支援をしていることに違いなく、これが一体何を意味しているのかが重要である。

 

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 いかるがは、アメノホアカリニギハヤヒ)、住吉神、丹生都比売神と深い関係がある。黒の点が近畿圏の6つのいかるがである。緑の点が、アメノホアカリ神を祀る主な神社で、尾張の真清田神社、丹後の籠神社、播磨の粒坐天照神社で、いずれも式内名神大社である。吉野の藤代嶺は、神功皇后が住吉神および丹生都比売神を祀ったところで、その住吉神が移動した場所が明石の藤江で、この二つの地を結ぶラインは夏至の日没、冬至の日の出ラインである。このラインの延長上に、播磨町の阿閇(神功皇后、および景行天皇が、御食事(みあえ)を行った)、加古川下流の相生の松で知られる高砂神社、揖保川の太子町の斑鳩寺、龍野の粒坐天照神社が並んでいる。また、尾張の真清田神社と京都府綾部のいかるがの地を結ぶ東西ライン上に、米原では息長氏の本拠地の上丹生があり、滋賀の高島は、息長氏の血統の継体天皇誕生の地、大炊神社である。そして、吉野の藤代の嶺は、交野のいかるがの地の磐船神社、奈良の斑鳩の地の真南である。磐船神社は、アメノホアカリニギハヤヒ)の降臨の地であり、その真東が、加古川のいかるがの地である。

  

 話を景行天皇播磨稲日大郎姫を娶る時のことに戻すが、景行天皇が、摂津の国の高瀬の渡船場に着き、渡し守に淀川を渡りたいと頼んだところ、渡し守の紀伊国の人・小玉は「私は天皇の家来ではありません」と答え、天皇が、なんとか渡してくれるように頼みこんだという話があった。

 紀伊国の渡し守は、自分は天皇の家来ではないのだと、堂々と景行天皇の依頼を拒んでいるのである。ヤマト王権にとって、紀伊国は、支配圏ではないのだ。

 この紀伊国にゆかりのある住吉神、もしくは丹生都比売神と関わりの深い人たちが、紀伊国から明石、すなわち播磨の地へと移動していった。

 もしくは、播磨の加古川(その上流部の氷上から、由良川を経て若狭湾の籠神社周辺に及ぶ地域)は、目の前の淡路島、そして紀淡海峡を経て紀ノ川(吉野川)、そしてヤマトの地へとつながっており、古代、この水上交通を担う人たちが強大な勢力を誇り、景行天皇神功皇后も、彼らの力を必要としたということかもしれない。そして、その勢力は、アメノホアカリ、住吉神、丹生都比売神と関係している。

 ヤマト王権にとって、この水上交通を担う勢力との和合が、外敵を退け、国を一つにまとめるうえでも重要だった。

 そして、播磨の地での和合は、平安時代に書かれた源氏物語のなかの光源氏と明石一族の結びつきへと重ねられ、中世においては、世阿弥による能『高砂』の謡曲へと昇華される。

 『高砂』の舞台は、播磨の加古川下流高砂神社や尾上神社で、ともに相生の松で知られている。

 

  四海波静にて、国も治まる時つ風。枝を鳴らさぬ御代なれや。

  あいに相生の、松こそめでたかりけれ。

  げにや仰ぎても、事もおろかやかかる代に、住める民とて豊かなる。

  君の恵みぞありがたき、君の恵みぞありがたき。

  

  高砂の、尾上の鐘の音すなり。

  暁かけて、霜は置けども松が枝の、葉色は同じ深緑。

  立ち寄る蔭の朝夕に、掻けども落ち葉の尽きせぬは、

  真なり松の葉の散り失せずして色はなほ、真折の葛ながき世の。

  喩えなりける常磐木の、中にも名は高砂の、

  末代の例にも、相生の松ぞめでたき。

 

  高砂や、この浦舟に帆をあげて。この浦舟に帆をあげて。

  月もろともに出汐の、波の淡路の島影や。

  遠く鳴尾の沖過ぎて、

  はや住江に、着きにけり、はや住江に、着きにけり。

 

  千秋楽は民を撫で、万歳楽は命を延ぶ。

  相生の松風、さっさつの声ぞ楽しむ、さっさつの声ぞ楽しむ。

 

 結婚式などでの定番の『高砂』は、夫婦愛や長寿を謡う大変めでたい能楽として広まっているが、波風がおさまった天下国家の平和を祝う祝賀の謡曲でもある。

 とくに最後の部分は、住吉明神が現れて神舞を舞い、御代万歳、国土安穏を祝う。

 しかし、この地における和合が、古代において特に強調されているということは、当然ながら、深刻な逆の事態もあったということではないか。そのあたりのことを、さらに探ってみたい。   

                                  つづく

 

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第1120回 ”いかるが”の背後にあるもの(3) ヤマトタケルとの関係について

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加古川のいかるが、鶴林寺の本堂と太子堂

(第1119回の続き)


 日本神話において、日本を一つにまとめるために東に西にと遠征し続けたヤマトタケルの出生地が、兵庫県加古川の”いかるが”の地である。

 前回の記事で書いたように、加古川の西岸には仁徳天皇陵などの古墳の石室に使われた竜山石の産地があり、その巨大な岩そのものを祀っている生石神社は、物部守屋によって作られたとされているが、この地の歴史は、さらに遡ることになる。

  ヤマトタケルの母、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)は、第12代景行天皇の最初の妃であり、吉備臣らの祖の若建吉備津日子の娘だった。

 加古川(当時は印南川)地域に住んでいた姫のもとに、景行天皇が求婚のためにやってきた時の内容が、播磨国風土記に詳しく書かれている。

 2人は、めでたく結ばれ、ヤマトタケルが誕生することになるのだが、ヤマトタケルの母の播磨稲日大郎姫は、死後、加古川流域の日岡山に葬られ、その陵は、宮内庁により加古川町大野にある墳丘長約80メートルの前方後円墳日岡陵(ひのおかのみささぎ)に治定されている。

 ヤマトタケルが生まれる前、播磨全域は、ヤマト王権支配下に入っておらず、この婚姻は、地方勢力との結束を強めることが意図されていたのではないかと思われる。

 生石神社の真北3kmのところに播磨富士と称えられる姿美しい高御位山(たかみくらやま)がそびえるが、その頂上は、断崖の岩場がせり出して巨大な磐座のようになっている。この磐座を御神体とする高御位神社の祭神は、生石神社と同じ大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命と、少彦名命(すくなひこなのみこと)である。高御位山の頂上は、天津神の命を受け、国造りのために大己貴命少彦名命が降臨した所とされているのだ。

 つまり、一般的に大国主は、国津神として、もともと日本にいた勢力で、天津神に国譲りを迫られるものだと理解されているが、大国主命も、その支援者の少彦命も、国づくりのために他からやってきた勢力であり、彼らの手で国づくりが整った後、また別の勢力に国譲りを行ったということになる。

 この流れは、物部氏の祖神のニギハヤヒと同じである。ニギハヤヒは、天孫降臨をしたニニギの曽孫にあたる神武天皇が東征を行ってヤマトの地に至った時、すでにヤマトの豪族ナガスネヒコとともにあり、最初は、神武天皇に抵抗した。後に、自らも天津神であることを示し、ナガスネヒコを殺して神武天皇に従属する。

 この神話の流れを播磨の地に照らし合わせると、第12代景行天皇と結ばれた播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)の父の若建吉備津日子(わかひこたけきびつひこのみこと)は、第10代崇神天皇の時に諸国に討伐のために派遣された四道将軍の1人、吉備津彦命彦五十狭芹彦命)の弟であるとされ、『古事記』では、吉備津彦命とともに吉備国の追討に派遣されており、針間(播磨)を、道の口として平定したと記述されているのだ。

 つまり、崇神天皇の時に西方に派遣された播磨稲日大郎姫の父は、吉備と播磨を平定した後、播磨の地の実力者になり、そこに景行天皇が同盟のためにやってきたということになる。

 第10代崇神天皇の母親は、前回の記事で紹介した伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の妹の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で物部氏だが、第12代景天皇の母親の日葉酢媛(ひばすひめ)は、崇神天皇の時に丹波に派遣された丹波道主命と、久美浜の地で海運を司る三島系の豪族、河上之麻須郎の娘とのあいだに出来た娘なので、景行天皇崇神天皇とは異なる系譜の大王で、そのため、崇神天皇によって治められた地の豪族と新たに手を結ぶ必要があったのかもしれない。

 そして、さらに興味深いのは、景行天皇播磨稲日大郎姫の結婚の仲立ちをしたのが伊志治という息長氏の人物であったことだ。

 息長氏は、米原の霊仙山の麓を本拠とする豪族だが、日本の天皇制にとって重要な位置づけにある第26代継体天皇および、天智天皇天武天皇との関わりが深い。

 

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交野のいかるがと播磨のいかるがを結ぶ東西のラインの延長上、吉備の地に鬼ヶ城があるが、ここは吉備の鬼退治の舞台である。 綾部のいかるがの真東に、継体天皇の誕生地、近江高島の大炊神社があり、その真東に、霊仙山の麓、上丹生が息長氏の拠点、さらに真東が、アメノホアカリが祭神の尾張一宮、真清田神社が鎮座する。綾部のいかるがの真北も、アメノホアカリが祭神の籠神社である。交野のいかるがの真南は、奈良葛城の金剛山の麓、高天彦神社であり、ここは5世紀の中旬、権力の中枢にいた葛城氏ゆかりの地だが、この神社の傍に蜘蛛窟がある。ここは土蜘蛛と呼ばれ排除された一族の住処と考えられている。また、交野のいかるがと綾部のいかるがを結ぶラインの延長上が久美浜で、ここは、景行天皇の母、日葉酢媛の母の実家である。

 第26代継体天皇の祖父母は、息長氏の意富富杼王おおほどのおおきみ)である。

 そして第30代敏達天皇の皇后が、息長真手王の娘の広姫で、押坂彦人大兄皇子を産むが、この皇子は天皇に即位しなかった。その理由は、蘇我氏の勢力が高まって蘇我氏と血縁関係のある天皇が続いたためである。

 しかし、押坂彦人大兄皇子の息子が、第34代の舒明天皇として即位。舒明天皇は、死後、息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらのみこと)と、息長との関係を強調される名が贈られており、彼の息子が、天智天皇天武天皇でなのである。

 さらに、この2人の天皇の母親である斉明天皇もまた、息長氏の血を受け継ぐ押坂彦人大兄皇子の孫である。彼女は、舒明天皇の死後、後継者が決まらなかったため第35代皇極天皇として即位し、645年の乙巳の変(大化の改心)の後に弟の孝徳天皇に譲位したものの、654年に孝徳天皇が病のために崩御すると、第37代斉明天皇として再び即位した。

 このあいだ、乙巳の変白村江の戦いなど政治的な主導権を握っていたのは舒明天皇の息子の中大兄皇子であるが、彼が第38代天智天皇として即位するのは668年で、すでに42歳になっていた。なぜ、それまで皇位につかなかったかというのも古代史の謎だが、いずれにしろ、629年に舒明天皇が即位した後は、天智天皇天武天皇や、彼らの子孫も含めて、息長氏の血統の天皇がずっと続いている。

 息長氏のなかで、もっとも有名な人物は、第15代応神天皇をお腹にみごもったまま三韓遠征を行って勝利をおさめた神功皇后である。

 神功皇后は、本名は息長足姫尊(おきながのたらしひめのみこと)で、その父系が息長氏で、母系の祖先が渡来系の天日槍(あめのひぼこ)である。

 その神功皇后が嫁いだのは、ヤマトタケルの息子の第14代仲哀天皇である。すなわち、神功皇后は、加古川播磨稲日大郎姫の孫と結ばれ、応神天皇を産んだことになる。

 それゆえなのか、加古川周辺には神功皇后の伝承が多く残っている。

 相生の松で知られ、能・謡曲の『高砂』の舞台の一つとも言われている高砂神社は、加古川の西岸に鎮座し、大己貴命を祀るが、社伝によれば、大己貴命大国主命)の加護によって三韓遠征を成功させた神功皇后が、凱旋の際、大己貴命から「鹿子の水門(かこのみなと)に留まる」との神託を受けたことで創建されたと説明されている。 

 また、加古川をはさんで高砂神社の対岸に鎮座する尾上神社は、神功皇后三韓征伐の際、この地に上陸したが長雨のために船を進めることが出来なかったため、「鏡の池」で潔斎沐浴して晴天を祈願し、住吉大明神を勧請したことが起源とされる。

 興味深いのは、加古川を挟んで鎮座する高砂神社と尾上神社は、ともに、縁結びや和合の象徴とされる相生の松がそびえる場所なのである。

 世阿弥の作とされる能の「高砂」の中で謡われる「高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり」は結婚披露宴の定番の一つであり、高砂の地は、夫婦和合の象徴として知られるが、そのルーツは、この土地でヤマトタケルの父と母が結ばれたことなのだ。

 そして、息長氏と渡来人の血を受け継ぐ神功皇后が、この地を拠点とする播磨稲日大郎姫の孫と結ばれて応神天皇を産む。

 この播磨の地での和合が、その後の栄華とつながる物語は、平安時代に書かれた『源氏物語』にも影響を与える。

 播磨稲日大郎姫を娶るために出かけた景行天皇は、摂津の国の高瀬の渡船場に着き、渡し守に淀川を渡りたいと頼んだところ、渡し守の紀伊国の人・小玉は「私は天皇の家来ではありません」と答え、天皇が、なんとか渡してくれるように頼み、王冠を取って舟の中に投げこんだところ、渡し守は、それを渡し賃として受け取り、天皇を船に乗せた。そして天皇は明石郡の御井(かしわでのみい)に着き、食事を召し上がられた。景行天皇が自分を娶るためにやってくると伝え聞いた播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)は、恐れ多いと姿を隠したが、天皇が行方を探し出して、賀古(かこ)の松原で求婚した。そして自分の船と姫の船をつなぎ、舵取りの息長氏の伊志治とともに六継の村に戻り、そこでめでたく結ばれた。

 この物語に登場する賀古(かこ)の松原が、高砂神社および、その対岸の尾上神社の相生の松に重ねられている。

 この景行天皇播磨稲日大郎姫の物語は、『源氏物語』の第12帖の須磨と第13帖の明石の帖にも重なってくる。

 紫式部は、54帖という長編の『源氏物語』を、須磨と明石の帖から書き始めたとされる。

 京都で公私とも苦境に陥っていた光源氏は、須磨の地へと流れ、そこで寂しく暮らしていた。その時、激しい嵐があり、光源氏は住吉の神に祈る。その結果、命は無事だったが、落雷で邸が焼けてしまう。嵐が静まった朝、源氏の夢の中に桐壺帝が現れ、住吉神にしたがって須磨の地を離れるように告げる。その予言通り、明石入道が迎えの船に乗って現れ、光源氏は明石に移る。明石入道もまた、住吉の神のお告げにしたがったうえでの行動だった。

 そして明石の地で、光源氏は、明石入道の娘と出会う。娘に心を寄せる光源氏に対して、娘は、身分が違いすぎて恐れ多いと躊躇う。しかし、とうとう2人は契りを交わす。

 その後、光源氏に運が向いてきて、京都に戻ることになるが、すでに明石入道の娘は、光源氏の子供を身ごもっていた。後に、2人の子供である明石の姫が、天皇の皇后となり、たくさんの子供を産み、明石一族は栄える。

 『源氏物語』は、第41帖の「幻」を最後に光源氏は姿を決してしまい、その後は、主に宇治の地が舞台となるが、そこで描かれているのは明石一族の栄華である。

 『源氏物語』は、明石一族の栄華を伝えて終了するので、貴公子の光源氏の栄華は、その布石のようになっている。

 『源氏物語』を知らない人はほとんどいないが、54帖の長大な物語を最後まで読んだことのある人も非常に少ないため、この物語を、プレイボーイの光源氏の栄光を描いたものだと勘違いしている人が多い。源氏物語の中の光源氏は、華やかな存在ではあるが、実際には、常に悲哀を帯びており、当人も、世俗を捨てて出家することを強く望み続けている。

 それはともかく、興味深いポイントは、明石から加古川にかけての地が、都の高貴な男性と、地方豪族の美しく聡明な女性との結びつきの場となり、しかも、その結びつきから、ヤマトタケルという歴史の転換期の英雄の誕生や、源氏物語の明石一族の栄光へとつながっていることだ。

 『源氏物語』と神功皇后の物語の中で重要な役割を果たす住吉神は、明石から加古川の地にかけて多くの場所で祀られている。

 住吉神とはいったいどういう神なのか? いかるがの謎を解く鍵が、ここにも秘められている。

                                 (つづく)

 

 

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第1119回 ”いかるが”の背後にあるもの(2)

 

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西播磨のいかるが。兵庫県揖保郡太子町の斑鳩寺。
 ”いかるが”と聞くと、一般的には、聖徳太子法隆寺がある斑鳩を連想するが、その歴史は、もっと古い。”いかる”は、洪水を意味するイカリミズとつながり、感情が溢れ出す怒りでもあり、それは祟りともつながってくる。それらの”いかり”を鎮めなければ世の平安はない。聖徳太子もまた、その鎮魂の役割を果たした1人にすぎない。
 
  2014年、法隆寺補修工事で北室院の庫裏下から、「鵤寺」と墨書きされた土器が出土した。これにより、法隆寺は、もともとは鵤寺(いかるがでら)という名であったことがわかった。

 そして、”いかるが”というのは、法隆寺ができる以前から、この地域の呼び名であった。

 ”いかるが”という地名は、近畿圏には、6箇所ほどある。

 斑鳩と表記されるため、鳥類の鳩との関係で説明する専門家もおられるようだが、斑鳩という文字は後からつけられたものなので、鳥のこととは別に、”いかるが”が何を意味するのかを探ってみたい。

 近畿圏に6箇所ある”いかるが”の地に共通しているのは河川である。

 奈良の法隆寺斑鳩大和川、京都の綾部は由良川兵庫県鶴林寺加古川兵庫県西部の太子町は揖保川四日市の伊賀留我神社が鎮座する地域は米洗川、そして大阪府交野の磐船神社天野川である。

 ”いかる”という発音は、”怒る”に通じるところがある。感情が激しく溢れる状況であり、水が激しく溢れる状況でもある。全国的にも、洪水のことをイカリミズと捉えるところは多く残っている。

 ”いかるが”が洪水と何かしらの関係がある場所だとしても、河川の多い日本には他にも同様の地域がたくさんあるので、なぜ、特定の場所を、”いかるが”と呼んだかを考える必要がある。

 そのためには、6箇所の”いかるが”における他の共通点を探ってみたい。

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黒いマークは、近畿圏の6つの”いかるが”の地。兵庫県揖保郡太子町。兵庫県加古川市鶴林寺大阪府交野市の磐船神社奈良県生駒郡斑鳩町京都府綾部市福知山市の一部、三重県四日市の伊賀留我神社。赤は、丹後の籠神社(祭神がアメノホアカリ)、和歌山の日前宮加古川の泊神社と同じ天岩戸で使われなかった鏡と関係が深い)、赤穂の坂越(聖徳太子に仕えた秦河勝が、太子の死後、猿楽の技を子孫に伝えたあと、現世に背を向けて、空船に乗り込んで西方の海上を漂流し打ち寄せられた所。 漁師たちが舟を陸に上げてみると、たちまち化して神となったという伝承がある。丹後籠神社、和歌山の日前神宮四日市は、外の世界から畿内への入り口である。


 まず、6箇所の”いかるが”は、畿内の中心部と、それ以外の地域を結ぶ交通の要衝であることだ

 日本書紀などによると、ニギハヤヒ神は高天原から「天の磐船」に乗って、河内国河上哮ケ峯(いかるが峯)に降臨した。いかるが峯は、大阪府の東北部、交野市私市(かたのしきさいち)の磐船神社とされている。

 ここには、「天の磐船」といわれる高さ12メートル、幅12メートルある船の形をした巨大な磐座がある。

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交野の磐船神社ニギハヤヒが降臨した場所とされる。

 磐船神社が鎮座する場所は、生駒山系の北端で河内と大和の境に位置し、境内を流れる天野川は、10キロほどくだって淀川に注ぎ込む。この天野川にそって「磐船街道」があり、現在の淀川沿岸の枚方と奈良の斑鳩地方をむすんでいる。

 古代、大陸から大阪湾の到着した人々は、淀川と天野川と磐船街道を通って大和の地に入ったと考えられている。

 この交野のいかるがの地の真南に16kmほど行ったところ、大和川の流域が奈良の斑鳩であり、ここがヤマト世界への入り口となる。大和川は、古代、ヤマトの三輪山周辺地域から奈良盆地を抜け、応神天皇陵など巨大古墳群が存在する藤井寺あたりから北上して、淀川の渡辺津(大阪城のあるところ)をつないでいた。

  そして、四日市の伊賀留我神社が鎮座するところは、東国に遠征したヤマトタケルが帰途に立ち寄ったり、壬申の乱の時に天武天皇が兵を集めたところだが、ここは、畿内の中心部と東国を結ぶ交通の要衝だった。

 また、鶴林寺のある加古川の”いかるが”は、古代の主要な交通路である加古川から、北部の由良川を通じて、日本海側と瀬戸内海を結ぶところだった。

 さらに、加古川の西の揖保郡太子町の”いかるが”は、揖保川下流であり、揖保川にそって出雲方面へとつながる道がつながっていた。なかでも因幡街道は、瀬戸内海と日本海を結ぶ物流の道であり、そのことは風土記にも記されている。

 最後に、京都府の綾部の”いかるが”は、由良川の流域であり、由良川は、日本海側の丹後と丹波を結ぶ交通の要衝であるとともに、氷上あたりから加古川に乗り換えれば、瀬戸内海まで移動することができた。

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由良川

 このように見ていくと、6つのいかるがは、時に洪水を起こす”怒り水”の地であるとともに、重要な交通の要でもあるので、古代から、豪族が奪い合うような土地だったろう。また、加古川由良川揖保川大和川、天の川は、大陸の人や文化を運ぶ道でもあったので、これらの河川沿いに渡来人が住み着いた可能性もある。

 いずれにしろ、ヤマト王権にすれば、河川の管理も含めて、しっかりと治める必要がある場所だった。

 さらに、この6つの”いかるが”の地域をもう少し探っていくと、物部氏との関連が深いことがわかる。

 交野のいかるがの磐船神社に降臨したニギハヤヒは、物部氏の祖神とされている。

 古代から磐船神社の祭祀は、肩野物部氏(もののべし)によって行なわれていた。この一族は現在の交野市及び枚方市一帯を開発経営しており、交野市森で発見された「森古墳群」の3世紀末~4世紀の前方後円墳群はこの一族の墳墓と考えられている。またニギハヤヒの六世の孫で崇神朝における重臣であった伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の住居が現在の枚方市伊加賀町あたりにあったと伝承されている。

 そして、ここから生駒の地を越えて真南に17kmほどのところ、聖徳太子法隆寺を築いた斑鳩の地は、蘇我氏物部守屋が滅ぼされた後、聖徳太子が移り住んだとされるが、もともとは、物部氏の拠点だった。

 また、京都の綾部のいかるがには物部町があるが、ここは古代から物部郷であり、須波伎部神社が鎮座する。スハキとは、古代に掃部と称された農民で、 物部氏の部民として、清掃具や設営具などを納めていた者達と考えられている。

 この神社の東方の丘陵地には知坂(7基)・多和田(5基)・石塚(38基)の古墳群がある。また上市の岫山(くきやま)一号墳は前方後円墳(47.4m)、三号墳(前方後円墳・35m)でほぼ完形であり、ヤマト王権とのつながりが確認できる。

 加古川の”いかるが”の場合、鶴林寺の西北4kmのところに仁徳天皇陵の石室などにも用いられた竜山石の産地があるが、この場所に、巨大な岩そのものを御神体とする生石神社があり、播磨風土記において、弓削大連(物部守屋)の造ったものと記されている。

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物部守屋が作ったという伝承のある生石神社。

 四日市の”いかるが”においては、伊賀留我神社の北5kmのところを流れている員弁川は摂津の猪名部川沿いに住んでいた木工技術を持つ渡来系の人々が移住したところであり、その猪名部氏の祖が、物部氏の伊香我色男命ということになっている。

 『日本書紀』巻第十の応神天皇紀では、武庫の水門に諸国から500船が集った時、新羅船の失火が引火したことが原因で多くの船が焼失してしまったため、それを申し訳なく思った新羅の国王が、償いの気持ちで優れた工匠を奉った。この人たちが猪名部川の流域に住んでいた。その後、雄略天皇の時に、猪名部の人たちは物部氏の管理下となり、木工技術をもって朝廷につかえることになったと説明されている。

 最後が、西播磨の”いかるが”であるが、太子町の西北5kmのところに名神大社で播磨三大社の一つ、粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)が鎮座し、その西北2kmほどのところに井関三神社が鎮座している。この二つの神社は、ともに祭神が、天火明命(あめのほあかりのみこと)である。

 天火明命(あめのほあかりのみこと)は、邇芸速日命(にぎはやひのみこと)の別名で、交野の”いかるが”の磐船神社に降臨した神の名は、天照国照彦天火明奇玉神饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)と、二つの名が合体したものになっている。

 この天火明命を祀る揖保川沿いの粒坐天照神社一帯は、古代、伊福部氏が勢力を誇っていた。

 粒坐天照神社の縁起では、推古天皇の時代、伊福部連駁田彦(イフクベノムラジ フジタヒコ)の前に、童子の姿となって顕れたアメノホアカリ神が、稲穂を授け、これを耕作すれば里全体に豊かに稔り、この土地は永く栄えゆくであろうと告げて昇天したとある。

 また、播磨風土記によれば、粒坐天照神社の一帯は、ここを拠点にしていた葦原志挙乎命(アシハラシコオ)=オオクニヌシと、後からやってきた渡来系の天日槍の土地争いの場所として記述されている。

 伊福部のイフクとは、風を吹く意味の“息吹き”(イブキ)で、谷川健一氏は、「タタラまたはフイゴをもって強い風を炉におくるありさまを示したものである。伊福部氏が産銅もしくは産鉄に関係をもつ氏族であることは、これによって推測される」と説明し、伊福部氏は、フイゴを用いての金属精錬(タタラ製銅・製鉄)に携わった古代氏族としている。(青銅の神の足跡・1989)。

 この伊福部氏は、桓武天皇の時代に編纂された『因幡国伊福部臣古志』によると、物部氏の祖である伊香色雄の息子、武牟口命を祖先としている。

 伊香色雄は、ニギハヤヒアメノホアカリ)の6世孫とされているので、揖保川下流域を拠点にしていた伊福部氏もまた、ニギハヤヒアメノホアカリ)の子孫に位置付けられ、粒坐天照神社において祖神を祀ったことになる。もしくは、物部氏と同じ祖神を崇敬することで、物部氏の一員として自らを組み込んだことになる。

 伊福部氏は、5世紀中旬の雄略天皇の時代から名前が登場しており、因幡国鳥取)の伴造として記録が残っている。古代から、因幡と播磨は因幡街道で結ばれ、瀬戸内海と日本海を結ぶ物流の道であり、そのことは風土記にも記されている。

 さらに、揖保川から市川あたりは播磨平野の穀倉地帯であり、早くから古墳が築かれ、横穴式石室もされており、風土記では、大和や渡来人との関係を裏付ける説話も多い。 

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兵庫県揖保郡太子町の立岡山。『播磨国風土記』によれば、応神天皇がこの山に登り、四方の地を眺め、国見をしたことが記録されている。

 このように見ていくと、6つのイカルガの地域は、物部氏と非常に関わりが深い。交野と奈良のイカルガは物部氏自身の拠点であり、京都の綾部、西播磨四日市の3箇所は、物部氏が管理する氏族であったり、物部氏に組み込まれた勢力の拠点である。

 交野のいかるが、四日市のいかるが、西播磨のいかるがに名前が登場する物部氏の伊香色雄は、記紀によれば、第10代崇神天皇の時に登場する。

 古事記において、第10代崇神天皇の治世において疫病が流行した時、天皇の夢枕に現れた大物主神が、意富多々泥古(おおたたねこ)という人に自分を祭らせれば、祟りも収まり、国も平安になるであろう」と神託を述べた。

 その神託にしたがって、崇神天皇は、意富多々泥古を探し出して神主として三輪山大物主神を祭らせ、伊香色雄に、天八十(あめのやそびらか=平らな土器)を作って天神地祇を定め奉るように命じた。

 また、日本書紀では、大物主の祟りの疫病があった時に、伊香色雄をして、神班物者(かみのものあかつひと=神に捧げる物を分かつ人)にせむと卜(うらな)ふと、吉と出たと記述がある。

 また、大和政権の武器庫の役割を果たしていたと考えられている天理市石上神宮の社伝によれば、武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた布都御魂剣は、神武天皇の東征で熊野において天皇が危機に陥った時に、高倉下を通して天皇の元に渡り、天皇は窮地を切り抜けることができた。その後、物部氏の祖、宇摩志麻治命うましまぢのみこと)により宮中で祀られていたが、崇神天皇の時、勅命により物部氏の伊香色雄命が石上神宮に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建であるとされる。

 これらの記録から、伊香色雄は、布都御魂剣や、大物主の祟りの鎮魂に関係している。つまり、神武天皇による日本統一と、国譲りと関係している。これはどういうことかと考えると、伊香色雄命は、オオクニヌシに要求する国譲りや神武天皇の東征など、新旧勢力の間で生じた軋轢を鎮める役割と関係ある人物なのではないか。

 そうすると、物部氏というのは、ヤマト王権の前に抵抗する勢力を武力によって制圧するだけでなく、彼らが禍を起こさないよう”いかり”を鎮め、御霊会で祟り神を守り神に転換するように、彼らの力を、ヤマト王権のために活かす術を備えていた氏族ではないかと想像できる。

 物部氏は、ヤマト王権に簡単に従わない人々を制圧した後、彼らの神を象徴する神具や神宝を奪い、石上神宮に集めて、祟り神とならないよう鎮魂の呪術を行った。さらに被征服者たちの祭祀をヤマト王権が吸収統合していくことで、彼らをヤマト王権のシステムの中に組み込んでいった。

 飛鳥時代物部氏蘇我氏とのあいだの仏教をめぐる争いは、物部氏がになっていた祭祀の意味合いが、蘇我氏が支援する仏教の教義によって無化されてしまう可能性があったからかもしれない。蘇我氏は、物部氏とはまったく異なる方法で渡来人を管理し、その力を国政に活かそうとした。蘇我氏は、文人(ふみひと)や東漢氏(やまとあやうじ)など、官僚組織や軍部の中枢に渡来人を位置付けており、仏教は、渡来系の人々の宗教でもあった。当時、政治の中心地である飛鳥の道を歩く人の大半は渡来人だったそうで、もはや渡来人の力なくして国を治めることが難しい状況だったのだ。

 そうした時代変化が起こる前、物部氏が武力と祭祀の力のよって王権を支えていた。物部氏は、そうした地方勢力の鎮圧において力を発揮した。第26代継体天皇の時の古代最大の内乱とされる磐井の乱(528年)を鎮めたのも、物部氏物部麁鹿火(もののべあらかび)である。

 そして、 ”いかるが”の地は、古代から重要な場所であったがゆえに、ヤマト王権の前にその地を基盤にしていた人々も、先進の知識と技術を備え、戦闘力も強かった可能性がある。つまり、”いかり”が激しく、後の時代に”鬼退治”や”国譲り”の争いと語り継がれているものの、そう簡単に治められるような相手ではなかった可能性が高い。

 京都綾部のいかるがは、第10代崇神天皇の時、日子坐王による鬼退治の舞台であったし、聖徳太子の時代にも、当麻皇子の鬼退治があった。

 西播磨のいかるがは、葦原志挙乎命(アシハラシコオ)=オオクニヌシに対して、渡来系の天日槍による国譲りの要求があった。

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加古川のいかるが、鶴林寺の傍に鎮座する泊神社。

 加古川のいかるが、鶴林寺のすぐ傍に泊神社がある。ここは、天の岩戸に籠もったアマテラスを導き出すために作られたけれど、正式に使われなかった鏡が流れ着いた場所とされる。このエピソードは、和歌山県紀ノ川下流日前宮に祀られている鏡と同じである。和歌山の日前宮の位置は、綾部のいかるが、私市円山古墳や、アメノホアカリを祀る丹後の籠神社を結ぶライン上である。

 この位置関係は、日本の神的権威として正式に使われなかったという意味深な鏡と、いかるがとの関係を暗示している。

  また、いかるがの地を拠点としていた勢力が、婚姻などを通じてヤマト王権と同一化していったケースもある。加古川のいかるがの地は、第12代景行天皇が自ら赴き、吉備臣らの祖の若建吉備津日子の娘、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)と結ばれ、ヤマトタケルが生まれたところだった。

                                  (つづく)
 

 
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第1118回 ”いかるが”の背後にあるもの(1)

斑鳩法隆寺のことを知らない人はいないと思うが、イカルガという地名は、私の知る限り、近畿圏で6箇所ある。
 そして、その中で、斑鳩法隆寺が一番古いというわけではない。
 日本の古代史のなかで、史実かどうかはともかく、もっとも古いイカルガの記録は、ニギハヤヒが降臨したとされるイカルガ峯だ。
 日本書紀などによると、ニギハヤヒ高天原から「天の磐船」に乗って、河内国河上哮ケ峯(イカルガ峯)に降臨した。このイカルガ峯は、交野の磐船神社とされている。
 

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交野の磐船神社

 その時期は、ニニギが天孫降臨した時期より早い。神武天皇が東征を行ってヤマトの地まで来た時、既にヤマトの地にいたニギハヤヒは、ヤマトの豪族ナガスネヒコとともに、最初は神武天皇に抵抗したが、後に、ナガスネヒコを殺し、神武天皇への従属を誓う。
 ニギハヤヒ物部氏の祖神とされているが、別名が、アメノホアカリともされ、尾張氏の祖神でもある。
 アメノホアカリを祭神とする代表的な神社が、京丹後の籠神社と、尾張一宮の真清田神社である。籠神社は海部氏、真清田神社は尾張氏と関わりが深いが、どちらも、古代の海人(アマ)とされる人たちだ。
 神武天皇より早い段階で、天孫降臨すなわち他の地域から日本という島国にやってきた人たちがいて、それが海人だった。
 近畿圏のイカルガという場所を調べてみると、その海人たちと関係があるように思えてくる。
 まず、京都府綾部市から福知山にかけては、古代のイカルガ郡である。その中で、由良川を見下ろすところに建造された私市円山(キサイチマルヤマ)古墳は、京都府で最大の円墳で70mの大きさがある。

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京都府綾部、私市円山古墳。
 古墳のサイズだけ見れば、これよりも巨大な古墳は日本には無数にあるのだが、この私市円山古墳は、小山の頂上に建造されており、小山それ自体が巨大な古墳のようで、さらに、この古墳から360度のパノラマ風景が絶景だ。
 頂上には、2人の王の墓があった。2人の王は、正確に東西の方向を向いて横たわっており、武具や農工具、鏡、玉類等の副葬品が膨大に出土しており、38本の矢が収められた胡籙(やなぐい)も出土している。
 この古墳は、まさに”大王の墓”のイメージにぴったりの古墳であるのだが、不思議なことに建造は5世紀の古墳中期であり、この時期は、大和朝廷の典型的な前方後円墳が突然巨大化して全国にたくさん建造されていた時期だった。
 その時期に、大王のものと思われる巨大な円墳が綾部の地に築かれている。それは、この地域が、ヤマト朝廷とは異なる勢力の拠点だったからだと想像できる。
 実は、この綾部から西隣の福知山、大江山にかけては鬼退治伝説の舞台である。大江山周辺は鉄の産地であり、綾部は、鉄と織物が盛んだった。私市山古墳のすぐ北に鍛冶屋という集落があり、そこに鉄製品を作る人たちがいたと思われる。
 そして、興味深いことに、この私市円山古墳は、上に述べた京丹後の籠神社(尾張氏の祖神アメノホアカリが祭神)から、東経135.19度の同経度の南北ライン上の、ちょうど30km南に位置している。
 この地名の”私市(キサイチ)”というのは、交野の磐船神社の北の地域、私市と同じ地名なのだが、「日本書紀」によると、天皇の后の用事をする役所を私府(キサフ)と言い、また后のための農耕をした人などを私部(キサベ)と称していた。つまり、交野と綾部は、天皇の妃と関係が深い土地であったということだ。
 日本の古代は、天皇の妃の実家がとても重要な鍵を握っている。なぜなら、天皇は生まれてからは母の実家で育てられ、教育を受けていたからだ。
 そのため、日本の神話においては、天皇個人の系譜だけでなく、その妻や、妻の実家のことが詳しく残されている。
 自分の娘を天皇に嫁がせ、政治的実権を握った氏族として平安時代藤原氏がよく知られているが、それ以前においても、同じようなことが行われていた。
 代表的な氏族としては、第16代仁徳天皇の頃の葛城氏、第29代欽明天皇の頃の蘇我氏などがいるが、第26代継体天皇や、日本を律令国として整えていく天智天皇天武天皇は、血統的にも息長氏と尾張氏との関わりが深い。
記紀』によると、息長氏は、意富富杼王(おおほどのおおきみ)を祖とするとされているが、意富富杼王は、継体天皇の曽祖父にあたる。
 そして、継体天皇の最初の妃は、尾張氏の目子媛(めのこひめ)であり、彼女の子が、第27代、第27代安閑天皇、第28代宣化天皇となった。
 そして第30代敏逹天皇の皇后が、息長真手王の娘の広姫(ひろひめ)であり、押坂彦人大兄皇子を産む。
 しかし、その後、蘇我氏の権勢が高まり、用明天皇推古天皇崇峻天皇蘇我氏関係の天皇が続き、押坂彦皇子は、天皇に即位することはなかったが、その息子が、舒明天皇として即位。舒明天皇は、死後、息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと )という名を贈られるなど、息長氏との関わりが強調されている。
 天智天皇天武天皇は、舒明天皇の子であり、2人の母親の斉明天皇は、息長氏の血を受け継ぐ押坂彦皇子の孫である。
 また尾張氏は、壬申の乱(672)において、籠神社の海部氏に養育された大海人皇子に資金を提供するなど全面的に支援して、その功績が認められている。
 綾部のイカルガは、私市円山古墳から北緯35.31の同緯度の東西ライン上で145kmのところに尾張一宮の真清田古墳がある。ここは、尾張氏の重要拠点で、京丹後の籠神社と同じくアメノホアカリが祭神である。そして、このラインの途中に、伊吹山と霊仙山のあいだの上丹生の地があり、ここは、継体天皇と血統がつながる息長氏の拠点だった。
 さらに、琵琶湖を超えた高島市には、鴨稲荷山古墳があり、ここは、継体天皇の母、振姫の実家である三尾氏の陵と考えられており、さらに、その西には、岳山の麓に大炊神社があり、ここが継体天皇の誕生の地とされている。
 そして、興味深いことに、祭神の正式名が天照国照彦天火明奇玉饒速日命というアメノホアカリニギハヤヒを合体させた交野の磐船神社の真北、東経135.69度で13kmのところが、継体天皇天皇に即位した後、最初に都とした樟葉宮(クズハノミヤ)伝承地であり、さらに、その真北7kmのところが、三番めに都とした弟国宮なのだ。
 そして、もう一つのイカルガが、交野の磐船神社から真西に77kmのところにある加古川鶴林寺で、ここは西の法隆寺といわれ、聖徳太子信仰の中心である。
 鶴林寺は、古代の交通の大動脈といえる加古川下流、海への出口に位置しており、ここから南東5kmほどのところには、卑弥呼の時代と同じ後期弥生時代から古墳時代初頭に栄えた大中遺跡がある。この巨大な集落跡からは、多くの住居跡とともに土器、鉄器、砥石、そして貝殻や飯蛸壺、更には中国との交流を示す分割鏡などが発掘された。
 さらに、鶴林寺の北西5km、加古川の対岸には生石神社がある。ここは、巨大な岩が御神体となっているが、このあたりは、古代の石切場で、仁徳天皇陵など天皇の古墳のなかの石棺で使われていた竜山石の産地である。

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天皇の石棺に使われた竜山石の産地に鎮座する生石神社。
 すなわち、聖徳太子太建立七大寺の一つとされる鶴林寺は、聖徳太子以前から重要な場所であった。なによりも加古川の河口であり、日本海と瀬戸内海を結ぶ交通の要所であり、加古川を遡り本州で瀬戸内海と日本海のあいだの日一番低い分水嶺を抜けて由良川にアクセスすると、若狭湾の籠神社の場所と簡単につながる。
 綾部の私市円山古墳は、その由良川の流域に存在しているので、加古川イカルガと綾部のイカルガは河川でつながっている。
 そして、交野のイカルガは天の川が流れ、淀川に合流し、大阪湾を越えれば加古川イカルガに至る。
 この三つのイカルガ、綾部の私市円山古墳と、加古川鶴林寺と、交野の磐船神社を結ぶと、一辺の長さが77kmほどのきれいな三角形となる。
 さらに三重県四日市にも、イカルガ神社がある。
 四日市イカルガの地は、壬申の乱の時、大海人皇子(後の第40代天武天皇)が、伊勢神宮を遥拝、戦勝祈願したところとされ、さらに第11代垂仁天皇の時、倭姫命の元伊勢巡幸の地でもある。
 古代の鍛治関連の額田氏の拠点でもある。
 そして、もう一つのイカルガが、兵庫県揖保川下流域であり、ここは、法隆寺創建時からの同寺の所領とされる鵤荘(いかるがのしょう)だった。
 そして、この地の北西4kmほどのところに名神大社の粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)があり、ここも、アメノホアカリを祀っている。推古天皇の時代に、突然、この神が容貌端麗な童子の姿となって現れ、自分はこの土地を守って1000年を超えると告げて、神社の造営と水田耕作を命じ、種稲を残したと伝えられている。
 さらに、粒坐天照神社の2kmのところに鎮座する井関三神社は、交野の磐船神社と同じくアメノホアカリニギハヤヒが合体した天照国照彦火明櫛玉饒速日命を祀っており、社伝によると神社の北2kmの亀山に神が降臨したとされる。
 いずれにしろ、兵庫県揖保郡太子町のイカルガも、ニギハヤヒアメノホアカリ)との関係がうかがえる。
 そして、この揖保川イカルガは、高槻にある継体天皇の陵とされる今城塚古墳の真西(北緯34.85度)にある。
 さらに、今城塚古墳は、交野のイカルガ(磐船神社)と綾部のイカルガ(私市円山古墳)を結ぶライン上に位置している。
 このようにして見ていくと、イカルガは、継体天皇尾張氏、息長氏との関係が濃厚で、かつ加古川揖保川由良川大和川、天の川といった重要な河川沿いであり、水上交通との関係も深い場所だということがわかる。
 ちなみに、聖徳太子斑鳩宮を築いたヤマトのイカルガは、物部守屋蘇我氏に滅ぼされる前、物部氏の拠点だったとされる。
 継体天皇天皇に即位させるために動いたのは、大伴氏と物部氏である。そして、物部氏は、尾張氏と同じアメノホアカリニギハヤヒを祖神としている。
 最後に、イカルガと松尾の関係である。

 地図を見ればわかるように、京都の松尾大社は、交野の磐船神社の真北で、四日市イカルガ神社の真西である。

 そして奈良の斑鳩法隆寺の背後に松尾山と松尾寺があるが、ここは、日本最古の厄除霊場で、法隆寺の僧侶の修行場であるともされる。

 さらに、息長氏の拠点である米原の上丹生にも松尾寺がある。

 京都の松尾大社は、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が創建に関わり、松尾大社秦氏は関係が深いと考えられているが、秦忌寸都理は、秦氏に養子入りした賀茂氏だった。

 そして、平安時代初期に将軍として活躍し、後に武神や軍神として信仰の対象となる坂上田村麻呂は、父親の坂上苅田麻呂松尾大社に祈ることで誕生したとされ、幼名を松尾丸と名付けられたのだが、彼は、秦氏と同じ渡来系ではあるが、東漢氏だった。

 聖徳太子の時代の代表的な秦氏といえば秦河勝だが、『日本書紀』によれば、603年、聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け「蜂岡寺」、現在の太秦広隆寺を建てたという。広隆寺は、松尾神社の北東2.8kmのところにあるが、創建当時もここにあったかどうかは定かではない。

 いずれにしろ、法隆寺と松尾山の関係など、松尾とイカルガのあいだには何かしらの関係があることは間違いない。 

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黒い点が、近畿に6箇所あるイカルガの地である。緑の点は、アメノホアカリニギハヤヒ)を祀る場所である。青の点は、継体天皇と関係の深い場所である。  黒の点で形成される三角形は、綾部の私市円山古墳、加古川鶴林寺、交野の磐船神社と頂点としている。交野の磐船神社の真北が、継体天皇が宮を築いた樟葉宮、その真北が弟国宮、その真北が松尾大社である。磐船神社の真南は、法隆寺のあるところではなく、そこから西南4km、聖徳太子斑鳩宮を造営するにあたり、飛鳥の産土神を勧請した三室山である。 綾部の私市円山古墳の真北が籠神社、真東が、高島の継体天皇誕生の地、大炊神社、鴨稲荷山古墳、息長氏の拠点、米原の上丹生、尾張氏の拠点、真清田神社。松尾大社の真東に四日市イカルガ神社。揖保川イカルガの真東が高槻の今城塚古墳(継体天皇の陵)である。
 
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第1117回 京都の古層と、北野天満宮。

 

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京都、太秦の地に築かれた蛇塚古墳。石室は全長17.8メートルで、同じ飛鳥時代に作られた石舞台古墳に匹敵する。玄室の大きさは日本で六番目、積み上げられた岩石は、チャートである。

 

 京都の北野天満宮は、九州の太宰府天満宮とともに学問の神様として崇められる菅原道眞を祀る神社の代表であり、ここから全国各地に天満宮が勧請されている。

 一貴族が、全国的に知られる神様となったケースは菅原道眞くらいのものだが、その理由として一般的に道眞の怨霊が恐れられたからだと説明されるが、実際には当時の政治的状況が大いに関与していたのではないかということを、前回のブログで書いた。

 https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2020/07/12/013520

 北野天満宮は、菅原道眞を祀るために新たに作られた聖域というよりは、それ以前から特別な意味を持つ場所だった可能性が高く、その根拠はいくつかある。

 まず、北野天満宮の一の鳥居をくぐると、楼門に至るまでの参道に、菅原道眞の母の出身の伴氏を祀る伴氏社がある。伴氏社の鳥居は、蚕の社の三柱鳥居や、京都御苑厳島神社の鳥居とともに、京都三珍鳥居とされる。

 伴氏というのは大伴氏のことである。大伴氏は、6世紀前半、第26代継体天皇の擁立の時に活躍する大伴金村をはじめ、古代史において朝廷内で重要なポジションにいた。

 飛鳥時代に、蘇我氏物部氏の台頭で陰が薄くなったが、壬申の乱の時、天武天皇を支援し、その勝利の後、朝廷内で重臣となる。

 奈良時代聖武天皇の頃、高級官吏として歴史に名を残す活躍をした大伴家持は、歌人としても知られ、彼の詠んだ歌が、万葉集全体の1割を超えているため、万葉集の編纂に深く関わったと考えられている。

 しかし、785年、長岡京遷都の時、責任者であった藤原種継が暗殺され、大伴氏がその首謀者であると疑いをかけられ、すでに亡くなっていた大伴家持も関与していたとされて官籍から除名されたほか、多くの大伴氏関係者が斬首されたり流罪となった。この時、桓武天皇実弟である早良親王も罪に問われ、抗議のために絶食するが、淡路島へ配流の途中に亡くなった。その後、長岡京で異変が起こり、早良親王の祟りだと恐れられ、急遽、平安京へと遷都することになった。

 この事件は、藤原氏による他氏排斥事件の一つとして知られているが、事情はもう少し複雑である。桓武天皇を擁立した藤原式家藤原種継が暗殺された後、種継の子供の藤原薬子と兄の藤原仲成藤原北家によって滅ぼされており、その後は、藤原氏のなかでも藤原北家だけが天皇外戚として繁栄を誇るようになるので、藤原氏の中での勢力争いがあった可能性が高い。

 大伴氏は、長岡京の変の後、しばらく衰退していたが、伴善男の時、勢力を盛り返す気配があったが、その伴善男が866年の応天門の変流罪となり、大伴氏の朝廷内での力は完全に失われた。

 しかし、その後、大伴氏が地方に下って生き残る選択をし、もしかしたら道眞の祟りの演出に関わった新興勢力の一員だったのではないかと前回のブログで書いた。

 北野天満宮境内社である伴氏社、もしくは北野天満宮の真西1.6kmのところにある住吉大伴神社が、大伴氏が大和から京都に移ってきた時に氏神を祀った場所であると考えられているので、北野天満宮と大伴氏とのあいだに何かしら関係がありそうである。

 また、北野天満宮に隣接する平野神社は、かつては現在の京都御苑と同じくらいの広さがあった。この平野神社は、土師氏の氏神を祀る神社で、桓武天皇の母親の高野新笠の母が土師氏だった。

 土師氏は、桓武天皇が即位したことによって、新たな姓を賜り、菅原氏、大江氏、秋篠氏となった。すなわち、菅原道眞もまた土師氏なのだ。道眞は大伴氏と土師氏のあいだに生まれた子供であった。

 土師氏というのは、4世紀末から6世紀前期までの古墳が巨大化していた頃、古墳造営や葬送儀礼に関っていた氏族である。巨大古墳には膨大な数の埴輪が埋められており、埴輪の運送の困難さを考えると、埴輪作りに適した場所を土師氏が拠点とし、そこが大古墳地帯となった可能性も指摘されている。実際に、応神天皇陵など大古墳が集中する藤井寺古市古墳群は土師氏の拠点であり、この地の道明寺天満宮は、もともとは土師神社で、道眞の死後、その境内に天満宮が祀られた。ここは、道眞も頻繁に訪れた地であり、道真の遺品である硯や鏡等が神宝として伝わっている。

 土師氏は、国譲りのために高天原から地上へと派遣されたのに大国主に心酔して戻ってこなかったとされる天穂日命アメノホヒ)の末裔とされる。

 北野天満宮の北門から入ってすぐのところ、本殿の背面に、御后三柱(ごこうのみはしら)」という御神座があり、ここにアメノホヒが祀られている。天満宮の参拝は、本殿の表側だけでなく裏側にあたる御后三柱も含めて礼拝するのが基本とされているのだが、現在の北野天満宮の本殿の位置は、南の一の鳥居からは随分と離れており、北門の方が近い。しかも、北門は、土師氏の氏神平野神社の正門のすぐ近くである。北門から入れば、本殿より先に、本殿の裏にある御后三柱のアメノホヒ(土師氏の祖神)にお参りすることとなる。境内の北側にある東門から入っても同じである。

 そして、この北野の地において、今では安産の神として人気の敷地神社(わら天神)は、北野天満宮よりも以前に天神を祀っていた。この敷地神社は、社伝によると、もともとは天神が降臨したとされる天神丘(金閣寺の北)の山麓で天神を祀っていたが、金閣寺造営の時に現在地に遷された。

 不思議なことに、北野天満宮の一の鳥居は、本殿の方を向いておらず、敷地神社と金閣寺の最奥の白蛇の塚(金閣寺が建てられる以前の西園寺家の別荘であった時代からの遺構で、「白蛇の塚」は、西園寺家の守り神だった)、そして天神丘を向いている。このライン上に、北野天満宮の本殿ではなく、伴氏社と、北野天満宮の中で実は一番大事な場所とされる野見宿禰社が位置している。北野天満宮への崇敬がことのほか篤かった豊臣秀吉も、野見宿禰社と同じ社殿に祀られている。

 野見宿禰は、土師氏の祖、つまり菅原道眞の祖先である。第11代垂仁天皇の時に活躍し、殉死に代わる埴輪の案を献言したことで知られる人物だ。

 北野天満宮の一の鳥居をくぐって参道を歩いてゆき、楼門をくぐっても本殿の姿が見えない。そして参道がなぜか左に折れており、その先が野見宿禰社である。 

 また、北門から入ると、まず最初に地主神社がある。もともとこの場所に小祠が設けられて、毎秋、雷神が祀られていた。その西には、西端の牛舎とのあいだに、ずらりと怨霊と関わりの深い12の末社が並ぶ。早良親王藤原広嗣伊予親王橘逸勢淳仁天皇、吉備大臣(吉備真備となっているが、吉備津彦だと思われる)などで、いずれも、恨みを残して死んでいった人たちで、菅原道眞の前の時代、厄災があった時に御霊として祀られた人たちだ。

  南の門から入って鳥居や楼門をくぐると、大伴氏関係の伴氏社や、土師氏関係の野見宿禰社(土師氏の祖)へと導かれ、北門や東門から入れば、まず最初に天神(雷神)や御霊を祀る場所があり、本殿の裏(北から入ればこちらが正面)に、土師氏の祖神であるアメノホヒの聖域がある。

 こうして見ていくと、北野天満宮は、かつては雷神や御霊を祀る聖域で、大伴氏や土師氏が関わっていた。その場所で大伴氏と土師氏のあいだに生まれた菅原道眞が祀られるようになった時、雷神と御霊という祟り神に菅原道眞という具体的な依り代が政治的に統合され、その神力が、より強力になっていったのだろう。

 北野の地で菅原道眞の霊を手厚く祀るようになるのは、朱雀天皇が譲位した翌年の947年からで、その時点で、道眞の死後、すでに44年が経っている。その時は、菅原道眞が現在のように天神そのものとして祀られていたわけではなく、早良親王をはじめ政争に巻き込まれて無念の死を遂げた人々と同じように御霊として祀られていた。

 天皇の勅使が派遣されて祭祀が行われて北野天満宮天神という正式な神号が送られたのは一条天皇が6歳で即位した翌年の987年で、これには一条天皇の祖父の藤原兼家藤原道長の父)が大きく関係している。

 藤原氏のなかでも、菅原道眞と対立した藤原時平と関係ある人々は道眞の怨霊を恐れていたが、藤原氏の中でも例外的に道眞と親しかった藤原忠平の子孫は、道眞の霊に守られるという神託を受けており、藤原兼家は、その忠平の孫だった。

 そして、兼家の姉の安子が第63代冷泉天皇と第64代円融天皇を産んでおり、円融天皇の息子が一条天皇なので、一条天皇もまた藤原忠平の子孫で、道眞の霊に守られる存在であった。

 それゆえ、一条天皇が幼くして天皇の位についた時に、藤原兼家の思惑で、道眞の霊を天皇および国家の守護神としたのだろう。さらに兼家の権勢を継いだ藤原道長も、菅原道眞の霊に守られる特別な藤原一族として、栄華を極めることになる。

 このあたりのことも以前のブログで詳しく書いた。https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2020/07/12/013520

 菅原道眞と牛が結び付けられた伝承がたくさん残っている。菅原道眞が死後、神として祀られる時の号は天満大自在天神であるが、大自在天というのは仏教におけるヒンドゥー教の破壊の神シヴァのことであり、シヴァは白い牛の背に乗っている。

 古代中国において、牛は大切な生贄であり、牛を殺して天神を祀り、祈雨を行ったり、御霊を鎮めていた。これが日本にも伝わり、『日本書紀』によれば、第35代皇極天皇の元年(642)、厄災が続いた時に牛馬を殺して祀ったという記録が残っている。

 また、京都の夏の名物になった祇園祭は、清和天皇の治世において、富士山の記録に残る最大の貞観の大爆発や大地震、大津波、疫病の流行などが起きた後、869年、京都の神泉苑で怨霊を鎮めるための御霊会が行われ、一条天皇の父親の第64代円融天皇が即位した頃(969年)頃から、京都東山の八坂神社の祭礼として毎年行われるようになった。

 祇園祭で有名な八坂神社の祭神は、876年、祇園社として創建されたが、最初の祭神は天神だった。

 この天神に対して牛を生贄として殺すことで豊穣や祈雨が祈願されていたが、この天神が怨霊を鎮める神として崇められるようになり、生贄の牛が供えられることで、天神は牛頭天皇と呼ばれるようになった。

 牛と天神の組み合わせによる霊力はきわめて強力であり、これを丁重に祀れば、災厄のもとになっている怨霊を鎮められると考えられた。

 牛頭天王は、このようにして創造された日本独自の神であり、明治維新までは八坂の祇園社の祭神だった。

 明治維新によって、牛頭天皇スサノオとなり、祇園社は八坂神社となった。

 八坂神社のある東山は、古代、鳥辺野と呼ばれる鳥葬地帯である。

 一般的に、八坂神社にお参りする時、四条通りの突き当りにある大きな朱色の鳥居から入り、この西楼門が入り口だと思っている人が多い。

 しかし、実際はそうではなく、南側にある南楼門が正式な入り口であり、本殿も、南楼門に向かって建てられている。

 今では高台寺清水寺に続く観光ルートになっているが、かつては、この南楼門を出たところから鳥葬地帯へと続いていた。つまりこの門は死の世界へとつながる門である。

 そして北野天満宮の北も、かつては、蓮台野や衣笠山など、鳥葬地帯であった。

 八坂神社と北野天満宮は、京都の東と北の葬送地において、天神と牛の呪力によって怨霊を鎮める聖域だったのだ。

 そして、八坂神社の正門が鳥葬地への出入り口になっているように、北野天満宮の場合、北門と東門が、蓮台野や衣笠山などの鳥葬地、すなわち死の世界への出入り口になっていたのだろう。

 北野天満宮の位置は、菅原道眞を重んじて政治改革を行おうとした宇多天皇ゆかりの仁和寺の真東1.8kmのところで、さらに、宇多天皇や菅原道眞の親しかった藤原忠平の子孫の花山天皇の陵や、一条天皇の火葬塚が、北野天満宮の真北に並んでいる。

 また、北野天満宮は、『平家物語』の鬼の物語にも出てくる。藤原道長の栄華に貢献した源頼光の四天王の1人、渡辺綱が、一条戻橋で出会った鬼に抱きかかえられ、愛宕山に向かって飛んでいる途中、鬼の腕を切り落として落下したところが北野天満宮である。片腕を失った鬼は、そのまま愛宕山へ飛び去るのだが、一条戻橋と北野天満宮愛宕山は、地図上でも一直線上に並んでいる。

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北野天満宮 一の鳥居

 また、北野天満宮の一の鳥居の前に立つと、鳥居の背後に、きれいな山が見える。

 沢山と桃山である。北野天満宮境内の西にそって流れる天神川の源流が、この沢山である。

 沢山周辺は、旧石器時代の石器や、平安時代前期から中期にかけての土器や瓦が出土している。また磐座とみられる大岩もあり、平安時代以前から信仰の対象の山だったことがうかがえる。沢山の山頂近くにある沢ノ池では、建造物の遺構や石段、礎石跡、御堂跡なども発見されており、このあたりが、古代からの祭祀および信仰の場所であったことが想像できる。 

 山深い場所であり、訪れることは簡単ではない。しかも、京都盆地と面する部分は、急峻な断崖絶壁となっている。

 京都盆地の北側にそびえる山々の大部分は、数億年前から遥かなる歳月をかけて海底に堆積した地層である。もっとも深い海底数千メートルのところでは、プランクトンの死骸が堆積して硬いチャート層となり、浅いところでは、石灰岩、砂岩、泥岩、礫岩などが形成された。

 なかでもチャートは特別なオーラーを発していて、水晶と同じ珪素が主成分なので水に濡れると光沢を発し、ナイフで傷がつかない硬さがある。そして、岩石の形成に時間がかかっているので、地球環境の変化の影響を受けており、色味も様々で興味深い。

 沢山周辺は広大なチャート地層であり、沢山を源流の一つとする清滝川から保津川にかけての一帯もチャートの岩盤がむき出しである。

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沢ノ池の近くの菩提の滝。チャートの岩盤がむき出しである。

 沢山が古くからの聖域であった理由として、たとえば沢山の南側の断崖絶壁は、現在のように植林化されていない時、チャートの光沢のある岩盤が南からの陽光を受けて鏡のように輝いていたかもしれない、と想像してみるのも悪くない。

 というのは、沢ノ池の真南4.5kmのところに蛇塚古墳があるからだ。この古墳は、盛り土が流されて石室だけがむき出しになっているが、日本の古墳で六番目に大きい玄室が作られている。日本で五番目に大きな玄室を持つのが蘇我馬子の墓と伝えられる飛鳥の石舞台古墳で、蛇塚古墳は、これと同時代のものである。

 石舞台古墳の巨石は花崗岩だが、蛇塚古墳の方は、独特のオーラを発するチャート岩である。

 これらのチャートは、蛇塚古墳のそばを流れる桂川(西1km)、もしくは天神川(東1.3km)を利用して運ばれたと考えられる。

 どちらも、川を遡ればチャートの岩盤地帯である。

 沢山から発した水は、西に向かえば清滝川となり、神護寺を通り、愛宕念仏寺あたりを抜けた後、保津川桂川)に合流し、蛇塚古墳の西1kmのところを流れる。東に向かうと天神川となって一条天皇の火葬塚、花山天皇の陵を経て北野天満宮へといたり、太秦を通って蛇塚古墳の東1.3kmのところを通り、桂川に合流する。

 沢山から発した流れは、いったんは東西に分かれるが、蛇塚古墳のところでは、二本の流れが2.3kmほどに狭まり、その真ん中あたりに蛇塚古墳が築かれているのだ。

 しかも、東に天神川が流れていく方向が蓮台野の鳥葬地帯で、西に清滝川が流れていく方向に、現在、愛宕念仏寺や化野念仏寺があるが、ここは化野の鳥葬地帯だった。

 沢山から東西に流れていく川が山から里に至るあたりが、鳥葬という生命の循環の場所だったのだ。蛇塚古墳が、ちょうどその二つの川の中間にあるのは、偶然かもしれないが興味深い。

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一番北、沢山の山頂近くにある沢の池周辺には、旧石器時代から平安時代にかけての遺物が多く発見されている。この沢山を源流として、東に天神川となって流れ、一条天皇火葬塚、花山天皇陵、北野天満宮を通り、太秦から桂川へと合流する。また西に向かうと清滝川となり、神護寺を通り、愛宕念仏寺や化野念仏寺のある鳥葬地の化野あたりをすぎたところで桂川に合流する。化野の地と北野天満宮は、ほぼ東西の同緯度で、その途中に、道眞を重んじた宇多天皇ゆかりの仁和寺が鎮座する。嵯峨野の化野と、北野天満宮は、沢ノ池からの距離がほぼ同じである。そして沢ノ池の真南が垂箕山古墳、その真南500mが蛇塚古墳で、蛇塚古墳のところでは、西の桂川まで1km、東の天神川までは1,3kmとなる。同じ源泉から発して北野と化野の東西に分かれた水は、やがて桂川で一本となる

 

 さらに気になるのは、この蛇塚古墳の真北500mのところに垂箕山古墳があることだ。

 この古墳は、桓武天皇の第12皇子である仲野親王の古墳とされているが、それは普通に考えればありえない。というのは、この古墳は前方後円墳で70mほどの大きさを誇り、同じ桓武天皇の皇子で皇位を継いだ嵯峨天皇の陵墓の二倍ほどの大きさがあるからだ。さらに、桓武天皇をはじめ、この時代の古墳は、天皇のものであっても円墳であり、天皇の十二番目の皇子の墓が、巨大な前方後円墳であるはずがない。 

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箕山古墳


 考古学的にもこの古墳は、仲野親王よりも300年ほど前のものとされているのだが、そうした事実よりも、なぜここが仲野親王と結び付けられているかが問題なのだ。

 実は、仲野親王というのは、菅原道眞を重んじた宇多天皇の外祖父なのである。

 前回のブログでも書いたように、もともと天皇になる予定のなかった宇多天皇の母親の班子女王の父親が仲野親王で、母親が東漢氏の当宗氏の女性だった。十二番目の皇子は、自力では生計を立てるのが難しく、仲野親王は当宗氏の女性と結ばれて支援を受けていたのではないかと想像できる。

 そうすると、垂箕山古墳というのは、当宗氏(東漢氏)と関わりの深い聖域だったのかもしれない。

 これとの関連で興味深い記録があり、「806年3月17日、桓武天皇が70歳の生涯を閉じた時、天皇の山陵は当初、平安京の西北郊の山城国葛野郡宇太野(現・京都市右京区宇多野の付近)に定められた。ところが、そのことは宇太野付近の在地勢力の反発をひきおこし、京の周辺の山で不審火があいつぐことになる。占いの結果、これは山陵が賀茂神社に近いための祟りであることになり、天皇の陵は山城国紀伊郡(現・京都市伏見区)柏原山陵(柏原陵)に改められた。」というものだ。

 宇多野というのは、沢ノ池と垂箕山古墳のあいだの地域一帯である。

 この地域に勢力を誇る集団が、桓武天皇の陵の位置を変更させたのだ。

 にもかかわらず、桓武天皇の第12皇子の仲野親王の墓とされる垂箕山古墳や、仲野親王の娘で宇多天皇の母となる班子女王の陵墓(垂箕山古墳の北東1.5kmの福王子神社にあった)や、宇多天皇の陵墓(さらに北東1km)が、この宇多野の地に存在するのである。

  これらのことから、仲野親王宇多天皇の背後には、桓武天皇が築いた王朝体制とは別の力が存在していたとは考えられないだろうか。

 ちなみに、垂箕山古墳の真南500mのところの蛇塚古墳が、日本で六番目に大きな玄室を誇る古墳だが、飛鳥の地に、蘇我馬子の古墳とされる石舞台古墳よりも大きく、日本で三番目の規模を誇る玄室を備えた真弓鑵子塚古墳がある。この古墳は、蛇塚古墳と同じ頃に建造されたものだが、炊飯具をかたどる土器が出土しており、これは渡来人の古墳からよく見つかる土器だということで、京都教育大名誉教授の和田萃氏が、飛鳥時代蘇我氏のもとで勢力を伸ばした渡来系氏族、東漢氏の墓ではないかと指摘している。

 もしそうだとすると、同じ時代、京都の地においても、東漢氏が勢力を誇り、蛇塚古墳を築き、この宇多野の地に勢力を維持し続けて、その一族の女性が桓武天皇の第12皇子の仲野親王に嫁ぎ、班子女王を産んで、彼女から産まれた宇多天皇が源氏の身分から下克上のように天皇に即位し、菅原道眞を重用して政治改革を行おうとし、藤原時平たちによって阻止されると道眞の怨霊騒ぎを引き起こしたというストーリーができる。

 それは空想にすぎないかもしれないが、道眞の怨霊騒ぎの後、東漢氏坂上氏は、清和源氏の武士団の中心として活躍することになり、時代は、貴族の時代から武士の時代へと大きく変化していく。

 いずれにしろ、北野天満宮の境内西にそって流れる天神川の源流である沢山の頂上付近の沢ノ池の真南に、垂箕山古墳、蛇塚古墳が存在していることは、とても興味深い。

 実は、この蛇塚古墳をさらに真南に行くと向日山の東隣を通り、ここは長岡京の政治の中心、大極殿内裏のあったところである。向日山の高台には弥生時代の集落跡があり、さらに日本最古級の巨大古墳で、しかも前方後方墳の元稲荷古墳があり、その隣に向日神社がある。この向日神社を二倍にして設計したのが東京の明治神宮だということは、あまり知られていないが、明治維新という王政復古の大事業における首都の聖域として、なぜ、向日神社がモデルにされたのか!? 

 そして、向日山の麓に、現代の天皇の血統を確実に遡ることのできる最古の天皇、第26代継体天皇が築いた弟国の宮もあり、蛇塚古墳の真南7.5kmの向日山の地が特別な場所であったことは間違いない。

 さらに向日山の真南3kmのところにあるのが、この地域最大、全長128mの惠解山古墳である。この古墳からは、鉄製の武器(大刀146点前後、剣11点、槍57点以上、短刀1点、刀子10点、弓矢の鏃472点余り、ヤス状鉄製品5点)など総数約700点を納めた武器類埋納施設が発見され、このように多量の鉄製武器が出土した例は全国的に見ても非常に珍しい。

 そして、その真南4kmが、石清水八幡神社の鎮座する男山。さらに真南には、奈良県の葛城の地で重要な位置付けとなる神社が南北に並ぶ。長尾神社、葛木坐火雷神社(笛吹神社)、葛城一言主神社、そして高鴨神社(日本の賀茂、鴨、加茂神社の総本山)だ。

 話が長くなるので、それぞれの神社の特殊性については、ここに言及しないが、奈良の葛城の地は、奈良の三輪山よりも古い日本の中心地なのだ。

 いずれにしろ、不思議なことだが、京都の沢山にある沢の池から、日本の古代史の中で重要な場所が、きれいに一本の線でつながっている。

 これは単なる偶然ではない。というのは、5世紀末、奈良の葛城の地に居住していた秦氏などが、京都に移住したという記録が残っているからだ。

 5世紀のはじめ、第15代応神天皇の時代、葛城襲津彦によって、秦氏東漢氏や忍海氏といった渡来系の氏族が日本に移住して、新たな技術をもたらした。

 それからしばらくのあいだ、葛城氏は、大王家との婚姻を重ねて巨大な勢力を誇っていたが、5世紀末、雄略天皇のよって討たれた。葛城の地にいた渡来系の人々が京都に移住したのは、そうした政変のあった頃だと思われる。

  渡来人たちの移住と関係あるのかどうかわからないが、二つの地域のあいだをつなぐ南北のきれいなライン上に、重要な聖域が設けられているのがとても興味深い。

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上から、沢山のそばの沢の池、垂箕山古墳、蛇塚古墳、向日山、惠解山古墳、石清水八幡神社の鎮座する男山、狐井城山古墳、長尾神社、葛木坐火雷神社(笛吹神社)、葛城一言主神社、高鴨神社。

 

 

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第1116回 時を超えた物づくり

 
 

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 亀岡の歴史探求の延長で、亀岡の漆作家、土井宏友さんの工房へ。最近、古代の丹生、すなわち辰砂(硫化水銀)の産地を訪れることが多く、土井さんは、本物の辰砂を使った漆作品を作っている。
 また、土井さんは、古代から大切にされてきた錫(銅と化合させて青銅器を作る)を使った漆作品を多くつくっており、いぶし銀のしぶい輝きになるのだが部分的に鯛の牙で磨き上げて光沢に変化をつけるという遊び心があり、私は、とても好きなのだ。
 亀岡には、大谷鉱山という日本で有数のタングステン鉱山もあるが、タングステンの鉱脈は錫の埋蔵量も多い。鋼鉄より硬いタングステンの融点は3000度で、古代人がこの鉱物を活用できていたかどうかわからないが、錫ならば銅と化合させて青銅器を作ることができる。亀岡には、2000年以上前に金属加工技術を持った人たちが南方からやってきたという伝承もあり、おそらくその人たちは、青銅器の文化をもった人たちだったのではないかと思う。つまり、日本の歴史的段階でいえば、長い縄文時代を経て、時代が大きく動き出した初期段階の形跡が亀岡にはある。
 それはともかく、私は、土井さんの手仕事が大好きだ。この写真のドリップコーヒーのセットは、錫と漆で、まさにいぶし銀の美しさがあるが、土井さんは、ペーパーフィルターでネルドリップの味を引き出すということをテーマに、おいしいコーヒーが飲める店を歩き回り、自分の味覚で確認し、その入れ方を徹底的に研究し、そこに自分なりのアイデアをくわえ、漆製品を作る。その作り方も、実に手が込んでいて、たとえば一般的には接着剤でくっつけることで作り上げる形を、一つの木から形をくり抜いて作ったりする。そうすることで貼り合わせの場所が生じず、水も漏れないし、軽くて薄くても強度を増す。ものづくりが大好きでないとやってられない偏執的な徹底ぶりで、商売という発想がまったくなく、こういうものを愛好してくれる人がいてくれればそれでいい、という童心の自然体を保ち続けているおっさんだ。

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 あと、最近、”手作り感”とか、”温かみ”といった陳腐なキャッチでの物作りがけっこう増えているのだが、それらは技術の鍛錬を経ていないごまかしの物も多い。
 土井さんの作品は、”手作り感”などという曖昧な領域を超えて、人間技の凄みが滲み出ている。だからこそ、出来上がった物には気品が漂っている。どんな物でもそうだが、物作りにおいて、この気品が感じられないものを、どうにも私は信用できない。
 作品の良し悪しにおいて、好き嫌い、新しいとか古いとか、その他、判断の基準はいろいろあるようだが、その人の精神は、作品の気品に現れる。精神とは何かという問題があるが、それは、ものや人に対する誠実さ、畢竟、世界そのものに対する誠実さだと思う。
 2011年、福井県若狭町の鳥浜貝塚で出土したウルシの木片が世界最古の約1万2600年前のものだと判明した。
 また、北海道函館市の垣ノ島B遺跡から出土した約9千年前の装飾品が、世界最古の漆製品とされている。日本の縄文文化は、土器もそうだが、漆もまた世界最古級だ。
 このことはとても重要なことで、なぜなら土器や漆製品を作り出した人たちは、土器や漆の分野だけが得意だったということはあり得ない。なぜなら、土器にしても漆製品にしても、複合的な知恵を組み合わせて製作が可能なものだからだ。そして、複合的な知恵を組み合わせる力を備えていたということは、必ず、他の分野にも応用される。
 日本の縄文文化の中で、世界最古級の土器や漆製品が発見されているのは、それらの製品が、その物自体の性質として何千年もの歳月を経ても分解されずに残るからだ。
 エジプトなど多くの古代文明は乾燥地に位置しているが、それらの地域は遺物を長く保存するための環境条件が整っていただけであり、古代文明が、それらの地域だけで発展していたわけではないと思う。
 漆や土器は、日本の古代人が、エジプトなど古代文明の先進地域とされるところと変わらない知恵や技術を備えていたことを今に伝える貴重なタイムカプセルだ。私たちは、そこから古代のことに対する想像力を膨らませる必要がある。
 日本のように湿潤で全てを土に還してしまう風土の中で、漆が、数千年を超えて残り続けているというのは、すごいことだと思う。
 土井さんの漆作品も、数百年、もしかしたら数千年、作り手の精神とともに生き続けていくことを想像することは、とても楽しいことで、一杯のコーヒーや、一献の酒が、ひときわ美味しく感じられる。
 
 

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