第1115回 菅原道眞と藤原道長のつながり

第1112回ブログ 「歴史を知ることは未来を知ること」

https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2020/06/28/172054

の続き。

 

 この世をば  我が世とぞ思ふ  望月の  欠けたることも  なしと思へば

 藤原道長が詠んだとされるこの歌は、盤石な権力を手に入れ、得意の絶頂で詠んだ歌だというのが通説である。

満月が欠けるところのないように、この世の中で自分ののぞむ所のものは何でもかなわぬものはない第一学習社『詳録新日本史史料集成』

 国語のテストで問題が出れば、この第一学習社の現代訳のように、道長の”驕り”を表現したものであると解答しなければ不正解になる。

 それに対して、近年、道長が残した日記などを分析し、道長はそれほど傲慢な人物ではなく、家族思いの優しいお父さんだったのではないかという捉え方から出てきた。

 平安文学研究者の京都学園大の山本淳子教授が、この歌は、娘の結婚と、その場の協調的な雰囲気の喜びを詠んだとする新解釈を発表し、研究者の中では注目されているそうだ。つまり、道長のこの有名な歌は、子供の幸せを喜ぶ良きパパの歌?なのだと。

 新訳私は今夜のこの世を、我が満足の時と感じるよ。欠けるはずの望月が、欠けていることもないと思うと。なぜなら、私の月とは后である娘たち、また皆と交わした盃だからだ。娘たちは三后を占め、盃は円い。どうだ、この望月たちは欠けておるまい。」 2018.11.2  産経新聞記事より。https://www.sankei.com/west/news/181102/wst1811020001-n1.html

 ちょっと首をかしげたくなるが、どうやら、近年の歴史研究は、欧米の近代合理主義に染め上げられた現代の生活感覚にあてはめる傾向にあるようだ。

 それにしても、これまでの通説も新解釈にも、詩心がまったく感じられない。

 満月への感慨が、はたして自分の権力の絶頂や娘の結婚を手放しで喜ぶことにつながるのだろうか。現代人でも同じだと思うが、満月の輝きは、どこか哀しい。

 その輝きが、刹那的な時間に限られたものであることを認識していない人はいないだろう。月は次第に欠けていってしまうものであり、日の出とともに周りが明るくなっても見えなくなってしまう。

 月の輝きは、美しいけれどはかない。はかないからこそ、かけがえがない。月は、もののあはれの象徴である。

 藤原道長は、紫式部が『源氏物語』を書くことを支援した人物であり、その人物に、”もののあはれ”がわからないはずはない。

 そして道長は、この歌を詠んだ一年後には出家している。 

  道長が残した日記からその人柄を分析して、それほど傲慢ではないという結論を導き、だからという理由で、この歌を家族思いの良きパパの歌だとする結論は、その正誤はどうでもよいが、歌そのものが描き出す世界を感じ取ろうとする詩心が、どこかへ行ってしまっている。研究費と時間を使って行う真実の究明というのは、その程度のものなのだろうか。

 少し前、『源氏物語』をテーマにした大学主催のシンポジウムがあり、話を聞いていたのだが、会場から、「現在における源氏物語の意義は何ですか?」という質問があった。
 それに対して、若い時から源氏物語が大好きであったという源氏物語の専門の男性教授が、「源氏物語のブランド価値、知名度は依然として高いので、映画やテレビドラマだけではなく、商品の販売においてその名を付けるだけでも十分に通用する」と答えたので唖然とした。
 金閣寺龍安寺知名度やブランド価値が高いので観光資源として十分に通用するというのと同じ発想で、歴史価値は、マーケティング価値であるということを、『源氏物語』の専門の教授が思っているのだ。この教授の授業を受ける大学生は、高い入学金と授業料を払い、歴史価値をマーケティング価値にする処世術を学問だと錯覚して勉強することになる。
 そして、そうした学習をつんだ人の中で、自分が学んだことを活かせる仕事に就きたいと高い志を持つ若者が、美術館や博物館の学芸員を目指したり、歴史と町おこしを結びつけるプロジェクトに参加したり、ということになるのだろうか。

 それはともかく、藤原道長安倍晴明を重んじるなど陰陽道に通じていた。一定の期間、外部との交渉を遮断して閉じこもる物忌みを、20年で300回も行った記録がある。また、外出などの際、方角の吉凶を占い、方角が悪いといったん別の方向に出かけるといった方違えも頻繁に行っていた。源氏物語の中でも、光源氏などを通して、こうした様子が描写されている。

 物忌みや方違えを頻繁に行うほど”迷信深い”人物が、己の栄光に有頂天になるとは思えない。道長は、自分の宿命は、自分の意思だけでどうにかなるものではないということを弁えていただろう。

 藤原道長の時代を藤原氏の全盛時代だと思い込んでいる人が多いが、道長の時代は、貴族政治の最後の輝きであり、道長の息子の頼通の晩年、摂関家の権勢は衰退へ向かい、院政と武士の時代へと移る。

 そうした事態は突然起こったわけではなく、藤原道長が実力者として君臨する前から兆候は現れていた。

 藤原道長が娘三人を天皇の皇后にしたことが藤原氏の絶大なる権力を象徴しているように考えられているが、天皇外戚は、長いあいだ藤原氏が独占してきていたので、道長が三人の娘を皇后にできたというのは、藤原氏の中で、道長に対抗できる人物がいなくなったということにすぎない。とりわけ経済的な面が大きいが、藤原道長が特別に力を蓄えることになった理由は後述する。

 時代の変化は、道長の絶頂期の100年ほど前、900年頃に急速に始まっていた。

 班田収授を基本とした律令体制の危機と、次なる時代の鳴動である。

 律令制は、政府から人民に田が班給され、その収穫から租税を徴収するという班田収受法によって運営されていた。

 しかし、徴税を逃れるために土地から逃亡する農民が増え、同時に、自分が開墾した土地は免税という特権を利用して逃亡した農民を使役して荘園を運営して財を成す貴族も増え、班田収受法は機能しなくなっていた。

 矛盾だらけの律令体制を維持することのメリットがあったのは、有力貴族だけであり、朝廷じたいの税収も減るばかりで、天皇家においても、嫡子以外の皇子たちを養う余裕などなかった。そのため皇族たちは、次々と臣籍降下していき、源氏や平氏などの身分で天皇家の家臣となったり、経済力のある豪族との婚姻で生き延びていた。

 その代表的な1人が、887年、突如として第59代天皇に抜擢された宇多天皇である。 宇多天皇は、後に祟り神となった菅原道眞を重んじていたことで知られる天皇である。

 宇多天皇は、本来は天皇になるはずのなかった人物なので、宇多天皇を擁立する陰の勢力が存在していたと思われる。

 というのは、宇多天皇の父親の光孝天皇は、55歳になるまで天皇になることなど夢にも思わず生きていた。宇多天皇は、その光孝天皇の7番目の皇子ということもあり、皇室の身分ではなく源氏の身分に臣籍降下していたのだ。

 しかし、884年、突然、光孝天皇が55歳で即位し、その3年後に重篤な状態に陥った時、宇多天皇に白羽の矢が立てられた。宇多天皇は、887年8月25日に源氏の身分から皇族に復帰し、翌日に皇太子となったが、その日に光孝天皇が亡くなったため、すぐに第59代天皇として即位した。皇室の中に皇統の嫡流に近い者がいたにもかかわらず、2日前までは臣下の身分にあった者が、慌ただしく天皇に即位したのである。

 光孝天皇が55歳で即位したのは、平安時代初期、桓武天皇を即位させるために、62歳になるまでのんびりと生きていた白壁皇子が光仁天皇として即位させられたケースと同じだろう。宇多天皇を擁立するための布石にすぎなかったのだ。

 即位した宇多天皇は、菅原道眞を重んじて、宇多天皇を擁立した勢力に支えられて、政治改革を推し進めようとした。

 その改革の内容がどういうものであったかは、抵抗勢力によって菅原道眞が太宰府に左遷されたことと、その後の怨霊騒ぎで抵抗勢力が滅ぼされた結果、社会がどうなっていったかを考え合わせると想像することができる。 

 まず、菅原道眞が太宰府に左遷された翌年の902年、宇多天皇から譲位されていた醍醐天皇によって、藤原時平の主導で、律令制の最後のあがきと言える班田が行われた。

 宇多天皇は、息子の醍醐天皇が自分と同じく源氏の身分から皇太子となり天皇となっていたので、自分と同じ路線を歩むだろうと判断して譲位してしまったのかもしれない。しかし、醍醐天皇藤原時平に丸め込まれてしまったのか、道眞を太宰府に左遷してしまった。宇多天皇は、なんとかそれを撤回させようとしたが叶わなかった。

 醍醐天皇の時代は、班田を復活させ、貴族、寺社、豪族などが土地を私物化することを禁止する荘園整理令も施行されたため、後の時代の朝廷によって高く評価されているが、その内容は、醍醐天皇が即位した年以降の荘園が増えることを抑制するものでしかなく、藤原時平たちのような既得権組には影響がなかった。むしろ、新興勢力を抑えるということで、既得権組の優位性を強めるものだった言える。

 そして、班田収受を基本とした人頭税は、逃亡農民の増加や、逃亡農民を使って私有地を拡大していた有力貴族の存在によって、もはや時代にそぐわないものになっており、制度の改革が必要になっていた。

 当然ながら、そうした時代変化は止まることはなく、道眞を死に追いやった既得権組は、その後、怨霊による祟りとされる事変によって次第に追い詰められていくことになる。

 909年、菅原道眞を左遷した首謀者である藤原時平が亡くなり、930年、清涼殿に落雷があった。この時、多くの貴族が亡くなり、醍醐天皇は、惨状を目の当たりにして体調を崩し、3ヶ月後に崩御することとなった。そして、この落雷が、道眞の祟りによるものだという噂が広がった。

 醍醐天皇の後を継いだ朱雀天皇は怨霊を恐れた。とくに母親の藤原穏子は息子を怨霊から守るために、朱雀天皇が3歳になるまで幾重にも張られた几帳の中で育てたという。

 そして、醍醐天皇が行った班田を最後に、朱雀天皇以降、班田はいっさい行われなくなった。

 また、朱雀天皇の治世では、939年、平将門藤原純友の乱があった。

 朱雀天皇は、946年、同父母弟の村上天皇に譲位し、村上天皇の治世は、藤原氏の摂関を置かなかった。そのため、後の時代、親政の典範と評価されているのだが、村上天皇は、母親の穏子が道眞の怨霊を特別に恐れていたし、朱雀天皇も政治に強く介入していたことがわかっているので、道眞の怨霊効果が、その治世に反映されていたと考えられる。

 菅原道眞の怨霊の噂は、いくつかの事変のたびに京都の町の中に広がっていたが、北野の地で菅原道眞の霊を手厚く祀るようになるのは、朱雀天皇村上天皇に譲位した翌年の947年からである。

 実はその直前にも布石があった。

 多治比文子の神託である。

 942年、多治比文子が神がかりし、京都を騒がしている不吉な出来事は、菅原道眞の怨霊が原因であり、これを祀り鎮めなければならないという神託を受けたとされている。

 一部では、多治比文子は道眞の乳母だったという話が流布しているが、それはありえない。

 道眞が58歳で死んだのは903年なので、多治比文子が道眞の乳母であれば、道眞が死んだ時は、もっとも若い年齢(15歳)で乳母になったと想定しても73歳であり、神託を受けた時は110歳を超えている。

 それよりも多治比氏というのが一つの鍵で、多治比氏は、平城京遷都以前、柿本人麿のパトロンだったともされる多治比嶋が、持統天皇の時に右大臣となり臣下としては最高位の位であった。しかし、奈良時代藤原仲麻呂に対立する橘奈良麻呂の乱で処罰されたり、長岡京遷都の際の藤原種継暗殺事件に関わったとして、早良親王や大伴氏や佐伯氏とともに処罰されるなど、藤原氏の陰謀によって朝廷内で完全に力を失っていた。

 しかし、多治比氏の血統は、桓武天皇に嫁いだ多治比真宗葛原親王を産んだことで後世に受け継がれた。葛原親王の異母兄の嵯峨天皇が子供達が政争に巻き込まれないように源氏の身分へと臣籍降下させたのに対して、葛原親王の子供達も臣籍降下して、その末裔が平氏となるのだ。

 源氏のルーツは嵯峨天皇平氏のルーツは桓武天皇とよく言われるが、桓武天皇嵯峨天皇の父でもあるので源氏と平氏のルーツである。なので、平氏に限定するならば、そのルーツは、桓武天皇の第三子で、多治比真宗が産んだ葛原親王ということになる。

 多治比氏以外に、菅原道眞と関係しているのが、道眞の母親の大伴氏である。大伴氏もまた、長岡京遷都の際の藤原種継暗殺事件の後、866年の応天門の変伴善男を筆頭に多くの親族が首謀者として流罪となり、朝廷内での力を完全に失っていた。

 しかし、伴善男の後衛とされる三河の伴氏は、源義家郎党で一の勇士として知られる伴助兼などが出る武士団となり、のちに、ここから分かれたものが近江にうつって甲賀流忍術の中心となる甲賀二十一家の伴家にもつながっていく。また、鎌倉武士の守護神である鶴岡八幡宮の神主は、伴善男の後裔の大伴忠国から明治維新まで25代にわたって大伴氏がつとめているのだ。

 藤原氏の他氏排斥のための陰謀によって朝廷内で力を失った多治比氏や大伴氏は、地方にくだって武士として次の時代を拓いており、これらの勢力が、道眞の怨霊騒ぎの陰に存在している。

 実際に北野天満宮を訪れてみるとわかるが、第一の鳥居をくぐって一番最初に鎮座するのが、大伴氏関係の伴氏社であり、ここは「京都三珍鳥居」としても知られている。

 さらに、この北野天満宮の真西1.5kmほどのところに大伴氏の氏神を祀る住吉大伴神社がある。

 北野天満宮境内社である伴氏社は、道眞の母を祀る社とされているが、大伴氏が大和から京都へ移住した時、氏神を祀る社として祀ったのが、この伴氏社か、もしくは住吉大伴神社であるとされており、どちらが氏神であれ、北野天満宮の鎮座する場所は、大伴氏と縁の深い場所だった。

 いずれにしろ、以前にブログに書いたように、道眞の祟り騒動は、当時の政治状況と深く関係している。

 https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2020/05/19/234523

 

 そして、菅原道眞を重んじた宇多天皇の母は、班子女王であるが、彼女は、桓武天皇の第12皇子である仲野親王と、渡来系の東漢氏の当宗氏の母のあいだに産まれた。

 東漢氏は、軍事力に優れていたことで知られるが、秦氏と同じように、製鉄技術を日本にもたらし、土木建築技術や織物の技術者も含まれていた。

 また、白川静氏は、訓読を発明したのは、『史(ふみと)』と呼ばれる人だと指摘したが、史氏(文・書=ふみとも言う)は、公文書の執筆を担っていた東漢氏だった。

 この東漢氏だが、飛鳥時代蘇我氏物部氏の戦いにおいては、東漢氏蘇我蝦夷を裏切ったことで勝負は決まった。また、壬申の乱においても、東漢氏坂上熊毛が、大友皇子を裏切り天武天皇の側について勝利に貢献した。桓武天皇の絶大なる信頼を得ていた坂上田村麻呂もそうだが、自らが王になるのではなく、時代が変化する時、その方向性の鍵を握る存在として実力を誇っていた氏族だった。

 そして、菅原道眞の怨霊騒ぎの頃から摂津の多田の地で足場固めをしつつあった清和源氏のルーツ源満仲は、この東漢氏の一族、坂上氏(坂上田村麻呂の末裔)を武士団の中心としていた。源満仲もまた、藤原氏の政敵である源高明を裏切って、これを滅ぼし、藤原氏と手を組むことを選択した。

 この東漢氏の一つ当宗氏が、宇多天皇の母、班子女王の母の実家であり、この氏族もまた新興勢力だったのだ。

 新興勢力は、律令制に変わる社会制度を求めていたのだろう。道眞の怨霊騒ぎによって班田が行われなくなり、人頭税から地頭税へと移行していくと、土地の計測や税収の管理を行う受領の権限が増していった。彼らは強力な武士団も持っていたので、中央の統制を受けずに、土地を開墾し、鉱山を開発し、その富を蓄積していくことになる。京都に止まって出世争いするのは身分の高い家柄の貴族だけであり、それ以外は、地方に下って受領となることで活路を見出そうとしていた。彼らが新興勢力である。

 宇多天皇と菅原道眞(903年没)の時代から、道眞の祟りで社会が動揺していた時代は、まさにその過渡期であり、その過程の939年、平将門藤原純友など新興勢力の反乱があった。

 そして、その乱の直後の942年、道眞の怨霊を祀るように多治比文子に神託があり、怨霊を恐れる朱雀天皇村上天皇に譲位した翌年の947年、道眞の霊が、大伴氏ゆかりの北野の地に祀られる。

 そして、天皇の勅使が派遣されて祭祀が行われて北野天満宮天神という正式な神号が送られたのは987年、一条天皇の治世である。その4年後の991年、北野天満宮は、国家の重大事、天変地異の時などに天皇から特別の奉幣(神への捧げもの)を受ける神社に加えられた(当時は19社、のちに22社)。

 しかし、一条天皇の治世と言っても、987年というのは僅か6歳で一条天皇が即位した翌年のことであり、一条天皇の意思ではない何かが、こうした動きの背景にあったものと思われる。 

 6歳の一条天皇を強引に天皇に即位させたのは、藤原道長の父、藤原兼家である。

 986年、天皇に即位してわずか2年、当時18歳だった花山天皇が、出家に追い込まれた。

 この陰謀の首謀者が、一条天皇の祖父であった藤原兼家であり、これは藤原氏のなかでの権力争いでもあった。

 花山天皇の出家事件の時、源満仲率いる武士団が、天皇を護衛するという口実で睨みをきかせていた。

 こうして藤原兼家から藤原道長にいたる栄華の道が準備されたわけだが、その段階で、北野天満宮で祀られる菅原道眞が、国家的な神となるのである。

 藤原兼家の次女で円融天皇に嫁ぎ、一条天皇を産んだ藤原詮子は、国母として強い発言権をもち、しばしば政治に介入した。

 この詮子に、989年3月19日、北野天満神が憑依したという記録が、『小右記』に残されている。

 『小右記』というのは、藤原道長の時代を代表する学識人、藤原実資が書き残した膨大な日記であり、社会や政治、宮廷の儀式、貴族の暮らしなどを知るうえで重要な史料である。 出家後の道長の法成寺での生活ぶりや、藤原道長が詠んだという歌、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」も、ここに記されている。

 藤原詮子への北野天満神(=道眞)の憑依は、内裏の火災を防ぎたければ、幼い一条天皇藤原氏氏神である春日大社へと行幸させよという内容であったが、978年に大内裏を焼失し、その後も内裏の再建と火事を繰り返していた円融法皇を牽制するものだった。

 北野天満神が国家神となってからすぐの藤原詮子への憑依であるが、藤原兼家は、自分に抵抗する勢力を抑え込むために、道眞の怨霊の力が有効であることを認識していた。

 その理由は次のように考えられる。

 藤原兼家や、その娘で一条天皇の母となる詮子と、北野天満宮との関係を考えるうえで重要な人物が、兼家の祖父の藤原忠平である。

 忠平は、宇多天皇や菅原道眞と深く結ばれた関係であった。藤原忠平の妻、源順子は、宇多天皇の皇女(養女ともされる)という説もあるが、『大和物語』では、菅原の君とされ、菅原道眞の近親であると考えられる。

 道眞と藤原時平が対立した時も、忠平は道眞と親交が深く、道眞の左遷に反対した。

また道眞が左遷された後も手紙をやり取りしていたため、忠平の子孫を保護するという道真からの御託宣があったとされる。

 忠平は、菅原道眞の怨霊騒ぎのなか藤原時平が亡くなり、醍醐天皇が病気がちになって宇多法皇が国政に関与するようになると急激に出世し、朱雀天皇の時に摂政、次いで関白に任じられる。以後、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。

 この藤原忠平の次男、藤原師輔が、藤原兼家の父(藤原道長の祖父)であるが、彼は、藤原忠平の意思を継いだのか、道真を祀った北野神社を支援していた。

 師輔自身は、摂政・関白になる事はなかったが、彼の死後、娘の安子が生んだ冷泉天皇円融天皇の二代の天皇が続き、藤原兼家道長など子孫の繁栄の基礎を築いた。

 このように見ていくと、藤原兼家藤原道長親子は、兼家の祖父の藤原忠平の時から菅原道眞と関係が深く、忠平の子孫として道眞の霊に護られる存在であり、道眞の怨霊で追い詰められていった人たちとは逆の立場だという精神的強みがあった。

 興味深いのは、菅原道眞と親しかった藤原忠平の孫の藤原安子が産んだ円融天皇、その息子の一条天皇、安子が産んだ冷然天皇の息子の花山天皇の陵が、北野天満宮のまわりに規則正しい配列で位置しているのだが、これらの天皇もまた、菅原道眞の霊に保護されるという藤原忠平の子孫に該当するのである。 

  このようにして確認していくと、北野天満宮に国家神として菅原道眞が祀られるようになった理由が、浮かび上がってくる。

 道眞の怨霊があまりにも恐ろしかったからというよりは、10世紀の政治的事情が絡んでいたということだ。

  藤原道長の父、藤原兼家は、天皇外戚として摂関家となり繁栄するが、その繁栄の手口は、道眞を死に追いやった藤原時平たちの時代と異なっていた。

 もはや時代の流れに逆らえないと判断していたのか、兼家は新興勢力に対抗するのではなく、逆に密接に結びついて主従関係を結んでいった。

 兼家が関係を結んだ勢力を家司受領という。徴税によって国家財政を支えるはずの受領は、地頭税における土地と税収の管理の権限を高め、私的収奪による蓄財を行った。それを黙認したのが新しく摂関家となった藤原兼家藤原道長であり、受領は、その見返りに摂関家に対して経済的奉仕を行った。莫大な献物を行い,受領在任中に摂関家に荘園を寄進し,その経営にも当たるなど摂関家の経済基盤の重要な一翼をになったのだ。

 藤原兼家の時の家司受領の代表的人物が、源頼朝足利尊氏など清和源氏の発展の基礎を築いた源満仲である。

 彼は、969年、安和の変において、藤原氏の政敵の源高明に謀反の疑いをかける密告の役割を果たした。そして、986年には藤原兼家の孫の一条天皇を即位させるために花山天皇を出家させる時にも関与をした。

 また満仲の長男の源頼光は、藤原兼家道長親子の家司として備前・但馬・美濃・伊予・摂津等の受領を務め、蓄えた財により京都の一条通りに邸宅を構え、たびたび藤原兼家道長に多大な進物をして尽くした。兼家の二条京極第新築の宴で来客への引出物として30頭の馬を贈ったり、道長の土御門殿が全焼して再建する際には家具・調度一切を頼光が一人で贈ったという記録が残っている。

 また、藤原道長は、正室の源倫子以外に、藤原氏との政争に破れた源高明の娘の明子を妻とし、2人の源氏の女性とは、それぞれ六人の子宝に恵まれ、そのうち3人が天皇の皇后となった。さらに妾四人のうち2人が源氏の娘なのである。

 そして、源倫子の父、源雅信の孫にあたる源済政が、信濃、美濃、讃岐、近江、丹波、播磨の受領を歴任できたのも、藤原道長や頼通への徹底した奉仕の結果だった。

 藤原道長が伴侶に選んだ妻と妾、あわせて6人のうち4人が源氏の娘であり、道長が、いかに源氏との関係を大事にしていたかがわかる。

 藤原道長の栄華は、このように新興勢力の成長段階において、持ちつ持たれつの関係を築けたからであった。それは、朝廷内で発言力のある摂関家だから可能だったことであり、そのため、道長と、それ以外の貴族(藤原氏も含む)のあいだに圧倒的な差が生まれた。道長が3人の娘を3代の天皇に次々と嫁がせて皇后にできた理由がそこにある。

 しかし、こうした癒着によって実力を蓄えた新興勢力は、その勢いを増し、重要な政局においては、彼らの存在を無視できなくなる。武家の源氏や平氏は、そのように台頭していった。

 藤原道長は、当然ながら、そうした時代の流れも読んでいただろう。道長の栄華は、貴族の時代から武士の時代へと変化していく流れの中の、一瞬のタイミングをうまくとらえたものでしかない。

 そして、摂関家の立場を利用して、新興勢力と持ちつ持たれつの関係になることは、新興勢力に勢いを与えることでもあり、強大化していく彼らが、そのうち自分たち貴族に取って代わる存在になると道長は悟っていただろう。

 藤原道長は、紫式部に『源氏物語』を書かせる。光源氏の栄光の人生は道長自身と重なるが、源氏物語の主人公は、道長が持ちつ持たれつの関係を築いていた源氏という設定にしている。

 そして藤原道長は、『源氏物語』の主人公に自分をだぶらせるように、新しい時代の到来を予感しながら、光源氏と同じく早い段階で出家し、静かに一線を退く。

 藤原道長の歴史的貢献は、紫式部を通して、「もののあはれ」という精神を、この世に深く刻んだことだ。

 その藤原道長が詠んだとされる歌、

 

この世をば  我が世とぞ思ふ  望月の  欠けたることも  なしと思へば

 

 は、地上の栄光の上にあぐらをかいた傲慢者の心情ではなく、かといって娘の結婚を喜ぶ良きパパの心情を詠ったものでもない。

この世界を自分のものだと思うのは、満月を見て欠けたところなど何一つないと思うことに等しい。(いくら美しい満月でも、やがて欠けていく宿命に逆らえないのだから、人の栄華だって同じだろう。)

 いろいろと理屈を考えず、月のことを思い浮かべ、歌をそのまま自然に味わっても、こうした心情なのではないかと思う。

  (つづく)

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北野天満宮にて菅原道眞を国家神として祀ったのは、藤原道長の父の藤原兼家だが、藤原兼家の姉で、菅原道眞と親しかった藤原忠平の孫の藤原安子が産んだ第64代円融天皇、その息子の第66代一条天皇、安子が産んだ第63代冷然天皇の息子の第65代花山天皇の陵が、北野天満宮のまわりに規則正しい配列で位置している。  三角形の一番北が一条天皇の火葬塚、その南1kmが花山天皇の陵、さらにその南500mが北野天満宮の北門である。  一条天皇の火葬塚の西南1.7kmのところが一条天皇陵のある朱山、その麓が龍安寺で、ここはもともと大伴氏の拠点の場所だった。龍安寺から西南500mが、菅原道眞を重んじた宇多天皇ゆかりの仁和寺仁和寺北野天満宮の本殿の真西1.9km。仁和寺の真北800mが宇多天皇の陵。   北野天満宮の北門の真西1.6kmが、大伴氏の氏神、住吉大伴神社。  北野天満宮の一番南側にある社が、道眞の母親、大伴氏を祀る伴氏社。その真西2.5kmが、円融天皇の陵。そのすぐ傍にあるのが、宇多天皇の母親の班子女王(東漢氏の当宗氏)を祀る福王子神社(陵もここにあったとされる)。

 

 

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第1114回  美意識と人生の選択。

 

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京都郊外、日本一の高さを誇る花脊の三本杉。現存する樹木としては国内最高となる62.3メートル(右端の杉)、残りの二本も、国内第2位と5位。

 

古樹と巨岩と水の流れ。悠久の時間を感じさせるものと、絶えず流転していくもの。古代から日本人の心に受け継がれてきた自然観は人生観につながっている。そして、日本人の美意識も、この自然によって育まれてきた。
 静と動に濁りがないこと。それを日本人は美と感じてきた。日本の自然環境が、そうした美意識を育んできた。
 何を美しいと感じるか?
 人生の進路、人との関係、選挙の投票など、様々な重要な場面で、美のセンサーが重要な鍵を握る。
 そして、美のセンサーを磨くものと、劣化させるものがある。
 美のセンサーを磨くものは、己を謙虚にし、劣化させるものは、虚栄を美と錯覚させる。

 

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名張川龍王の滝。

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古墳で、有名な飛鳥の石舞台古墳のように石室がむき出しになっている。石舞台古墳蘇我馬子の古墳とされ、たくさんの観光客が訪れるが、太秦の蛇塚古墳の石室は全長17.8メートルで、石舞台古墳に匹敵する規模なのだ。そして玄室の底面積の大きささは日本の古墳で四番目の大きさ。そして、石舞台古墳で使われている石材は、わりとどこにでもある花崗岩だが、太秦の蛇塚古墳の石材は、チャートである。

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愛宕山麓、空也の滝。

 

 

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第1113回 自然と人間のあいだ

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 1日の降雨量が、1ヶ月の平均総雨量と等しいとか、その2倍、3倍であるという報道が増えた。

 梅雨の7月は、例年でも降雨量が多いのに、以前なら1ヶ月かけて降り積もった雨量が、たった1日で降ってしまうという状況は、いったい何を物語っているのか。

 地球温暖化との関係が強調されてはいるが、人間にとって都合のよかった気象条件の緩やかな変化を、人間自身の手によって、人間には対応しずらい劇的な変化に変えてしまったということなのか。

 一昨日前、「エベレスト」という映画を見た。1996年の大量遭難事故の事実に基づいて作られた映画だ。
 お金さえ支払えば、登山のアマチュアであってもプロのガイドやシェルパーによる全面サポートを受けながらエベレストに登頂できる。そのようにして、七大陸最高峰にトライすることが人気なのだという。
 あらかじめシェルパーやガイドによって急斜面にロープが張られたりクレバスに橋がかけられたりするので、登攀技術や経験を持たない参加者が多く、そのため登るスピードは遅いし、障害物のある場所などでは混雑で渋滞状態となり、長時間待たされ、それに対して参加者が不満をぶちまけるというシーンもあった。
 この映画の前に、「フリーソロ」というドキュメンタリー映画を観た。ヨセミテのエル・キャピタンという岩山の1000mもの垂直の壁を、命綱を使わず、素手で登るという究極のチャレンジ。ちょっとしたアクシデントが死に直結する。
 二つの映画は、ともに人間によるチャレンジでも、あまりにも対照的であるが、自然の凄まじさは同じだ。しかし、自然の凄まじさを理解し尽くして、その克服のための準備を最大限に行うという姿勢と、自然のことを甘く見てしまう姿勢で、結果があまりにも違ってしまう。
 世界最高峰のエベレストは、天候が穏やかであれば、荘厳で美しく、プロのガイドやシェルパーが至れり尽くせりのサポートをしてくれれば、人に自慢できるような栄光の瞬間を手に入れることができるかもしれない。しかし、ひとたび天候が悪化すると自然の猛威は凄まじい。人間の努力なんかまったく無関係で、あっという間に、死の淵に飲み込まれる。

 とくに、高山などにおいては、一瞬のあいだの気象変化は、天国と地獄の差ほど劇的である。気持ちを整理したり準備を整えたりする余裕なんかまったく与えてくれやしない。
 なので、自然の状態変化を読み取る能力が必要であるし、たとえ何事も起こっていない状況であっても注意深く行動しなくてはならない。油断や欲は禁物だ。また自分の身体状態に対しても敏感でなければならず、状況に応じて弁えて行動しなければ取り返しのつかないことになる。それらは、野生動物にとっては当たり前のこと。
 現代文明は、人間に楽をさせてくれるが、その代償として、人間の野生のセンサーが鈍麻していく。
 野生のセンサーが壊れているけれど現代人にとって最優先の安楽で快適な状態が、人間にとって望ましいことなのか、敏感な野生のセンサーを備えたまま、自然の怖さと素晴らしさに向き合えることの方が望ましいのか。

 1000m近い絶壁を素手で4時間ほどで登りきってしまったアレックス・オノルドは、は、「幸福な世界には何も起きない」と言う。

 アレックス・オノルドは、何も起きない退屈な人生を選択する気持ちはなく、多くの人は、何も起きないことが幸福だと思い、その道を選択する。

 しかし、当人は、何も起きないという状態に安住したくても、自然は、そのように都合よく振舞ってくれない。

  コロナ問題にしても、安全・安心とか科学的分析や対応を強調する声ばかりが異様に大きいのだが、そういったものは、身体的感覚を失った頭(左脳)だけの情報操作にすぎないのではないか。
 対策をきちんとしてもらえなかった、正しい情報をもらえなかった、だから危険な目にあってしまったという不平や不満の声は、現代社会では簡単に多くの支持者を得る。
 自分の野生のセンサーを大事にしている人なんか、ほとんどいないからだ。
 もはや野生のセンサーという言葉自体が、非科学的でリアリティのないものになってしまっているので、それを失っているという自覚もないし、そのことに対して反省する必要もない現代社会。
 野生動物の世界では通用しない人間様だけの論理で、どこまで押し通せるのだろうか。

 

 

 

 

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第1112回 歴史を知ることは、未来を知ること。

 私が子供の頃もそうだが、日本の歴史教育は、本当につまらないものになっている。「鳴くよウグイス平安京」と、何年に何が起こったかと、権力者や優れた業績を残した人の名を覚えることが重要視され、教科書に載っていることを正確に覚えて書けるかどうかをテストで試されるだけで、なぜそうなったのか?など、その背景のことについてじっくり想像したり、議論する学習はなかった。

 歴史の成績は、権威機関によってこれが正しいと決められたことを正確に覚えることが重要で、想像力を膨らませてしまうと、間違った解答とされてしまう。

 しかし、これからの行為においては、正しいか間違っているかの判断は重要だが、過去に起きたことについて、正しいか間違っているかを決めることに、どれだけの価値があるのだろう。なぜ、過去のことなのに、権威機関が正しいと決めたことに従わなければいけないのだろう。

 歴史を学ぶことの意義は、温故知新であり、古いものをたずね求めて新しい知見や道理を発見することのはず。新しい知見は、全員が共有できるものである必要はなく、人それぞれの人生が違うように、少しずつ違っていて構わないのだ。

  そして歴史認識は、未来の洞察と関わっている。歴史がどのように動いてきたのかを考えることは、これからどのように歴史が動いていくかを考えることにつながる。

 マルクスは、階級闘争が歴史を動かすと説いた。その思想を信じた人たちが、階級闘争によって現状を力づくで変えようとした。また、天皇を中心に日本の歴史が継承されてきたと教えられ、そのことを強く信じてしまうと、天皇に忠義を尽くすことが日本人として相応しいということになってしまう。

 また、テクノロジーの発達が歴史を動かしてきたと信じている人は、未来もそうやって作られると信じているだろうし、戦争が時代を変えてきたと思っている人は、これからもそうだと思う。時の権力者が自分に都合の良いように歴史を動かしてきたと思う人は、これからも歴史はそうやって動くだけだと諦めて政治に無関心になる。

 歴史はどう動いてきたかについて、一つの正しい答を覚えて信じることは、思考停止に陥ることだから、害の方が大きいかもしれない。

 歴史は、生き物である。歴史への向き合い方に応じて、姿を変える。それは未来も同じである。

  今では多くの観光客が訪れる京都の上賀茂神社。この上賀茂神社は、京都でもっとも古い神社の一つで、この神社の神体山である神山の麓からは縄文時代後期の土器が出土している。

 この神社は、もともとは賀茂氏の神社だったが、長岡京遷都の頃から国家の神社に位置付けられるようになり、桓武天皇によって、平安京遷都以降、平安京の守り神となった。

 京都の地図を見ればわかるように、この上賀茂神社の位置は、愛宕山比叡山という二つの代表的な山のあいだで、京都を南北に貫く中心軸の上にある。

 桓武天皇は、天皇になるまでに数々の血なまぐさい政争を経験し、実の弟の早良親王をはじめ、無念の死を遂げた人たちの”怨霊騒ぎ”に悩まされていた。疫病などで人が亡くなったり天変地異があると、怨霊の仕業だから、その霊を鎮めなければならないと、祓いや祈祷を行ったり誰もが必死だった。

 律令制の基礎を築いた天武天皇の治世以来、陰陽道は政策決定における重要な位置を占める官僚組織になっていたので、たとえば都の鬼門(鬼が入ってくる方向)に比叡山がある云々と、陰陽道にもとずいて、平安京内の聖域が定められていることは多くの人に知られている。

 しかし、その当時の朝廷の陰陽道依存は、現代人の我々が想像するよりも周到であったのではないかと思う。

 昔の人の方が現代人よりも迷信深いからというのではない。科学的分別に支配された現代人であっても、初詣の時に神社で購入した破魔矢を、ゴミ箱に捨てたりする人は、ほとんどいないのである。

 最初から何もしなければ気にしないことでも、何らかの関係が生じたものは、途中からぞんざいに扱うと罰が当たる。現代人でも、そう考えるのだから、当時の人々は、なおさらだろう。

 だから、神様との関係において、陰陽道などを用いて何かしらの条件設定を行えば、それ以降も、その条件を徹底していくということが行われるはずで、そのあたりのところを確認していくと、一つひとつの聖域が持つ意味も、より深いものになってくるだろうと思う。

 平安時代以降、国家において伊勢神宮の次に重要な神社となった上賀茂神社に話を戻すと、上賀茂神社の祭神は、賀茂別雷神社(かもわけいかずちのかみ)である。

 名前からして雷の神様のように聞こえるが、単なる雷の神様ではなく、字のとおり、雷の力で別ける神様だ。一般的に水と火を別けるとされているが、雷というのは、たとえば磁鉄鉱に磁性をもたらす力があり磁石をつくることができるので、砂浜で砂鉄を選り別けることも可能になる。

 とくに陰陽道のことを踏まえると、森羅万象を構成する要素である水、火、土、金、木などを別ける力を備える神と捉え直してもいいかもしれない。

 次の地図には、京都の代表的な聖域がのほとんど全てが含まれている。

 これを見ればわかるように、聖域の位置が、山と盆地の境界で、かつ東西や南北など一直線上にきっちりと配置されている。(寺社の境内は広く、昔はさらに広かったので、一点だけのポイントだけで見ると少しズレているが、空間としてはほぼライン上である)。

 京都の代表的な山は、比叡山愛宕山で、この二つの山が、東西のライン上に並んでおり、その間に京都の都がある。その中心軸のラインは、貴船、上賀茂、一条戻橋、東寺である。しかも、西端の老ノ坂峠、東端の逢坂の関という京都の東西の出入り口が、北緯34.99度の同緯度なのだ。さらに老ノ坂峠は、愛宕山の真南でもある。

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京都は、山に囲まれた盆地だが、この限られた空間に配置された聖域は、見事なまでに位置関係が整理されている。 一番上が、貴船大明神が降臨した貴船山で、その真南に上賀茂神社、一条戻橋(晴明神社)、東寺である。 東西の平行線は、一番上のラインは、西から愛宕山、高雄山、上賀茂神社比叡山。上から二番目が、西から愛宕念仏寺、大覚寺仁和寺北野天満宮、北白川天神宮。 三番目が、西から嵯峨野天龍寺蚕ノ社永観堂三井寺。四番目が、西から松尾大社、八坂神社。 五本目が西から老ノ坂峠(京都への西の出入り口)、西芳寺清水寺、逢坂の関(京都の東の出入り口)。上賀茂神社から西南の斜めのラインは、五山の送り火の左大文字、金閣寺龍安寺仁和寺仁和寺の真南が双ヶ丘、蚕の社愛宕山から東南に伸びるラインは、龍安寺北野天満宮、一条戻橋、京都御苑永観堂を通って、逢坂の関まで伸びる。 松尾大社から比叡山までの西北のラインは、梅宮大社、一条戻橋、下鴨神社糺の森)を通り、近江の地の日吉大社に至る。日吉大社松尾大社の祭神はオオヤマクイで同じ。このラインは冬至のラインでもある。不思議なことに、晴明神社のある一条戻橋が、これらのラインの中心にある。一条戻橋が平安遷都の時に作られていたが、その後、晴明がこの橋のたもとに屋敷を構えて、橋の下に式神を置いていた理由は謎だったが、この地図を見れば、まさにここが京都の中心点にあたることがわかり、陰陽道にとって要の地だったことがわかる。

 上賀茂神社の真西は、火の神、カグツチを祀る愛宕山愛宕神社で、真北は、水の神とされる貴船大明神が降臨した貴船山。五行の”火”と”水”が、真西と真北にある。

 さらに、真東には比叡山があり、真南には、平安京鎮護のために東寺が建造された。

 さらに東南の方向に下鴨神社があるが、ここは、元々は巨大な森だった。「糺の森」と呼ばれるこの森は、現在でも東京ドームの約3倍の広さがあるが、平安時代は、現在の40倍の大きさを誇っていた。(応仁の乱で7割が焼失した)。つまり、鴨川と高野川の合流する三角ポイントの広大な地域が、原始の森だったということになる。

 つまり、この方向は五行の”木”である。

 そして、上賀茂神社の西南の方向には、金閣寺龍安寺仁和寺といった京都を代表する寺や五山送り火の左大文字が並ぶが、このライン上にある朱山や衣笠山は、古代からの葬送の場所だった。衣笠とは遺骨を覆った布を指す。つまり、このラインは五行の”土”と言える。

 残るは、”金”ということになるが、五山送り火大文字山比叡山から琵琶湖西岸の比良の山々は、古生層に花崗岩が貫入した古代の鉄鉱石資源帯だった。比叡山大文字山のあいだの花崗岩帯の副成分鉱物の「褐簾石(カツレン石)は、1903年、日本で初めて発見された放射性鉱物としても知られている。そして、ここには、関西で一位、全国でも二位のラジウムを誇るとされる北白川温泉もある。陰陽五行の”金”とは鉱物を指すので、比叡山が、金ということになる。

 そうした、金、木、土、水、火のこじつけはともかく、上賀茂神社を中心にして、京都を代表する聖域が、東西南北に広がっていることは間違いない。

 さらに興味深いことに、この上賀茂神社の真南、東寺の方向に、一条戻橋が位置していることだ。

 この橋は、あの世とこの世をつなぐ橋をして知られ、平安京造営の時から作られていたとされる。

 そしてこの橋のたもとに、10世紀に活躍した陰陽師安倍晴明の屋敷があり、現在は、晴明神社となっている。

 陰陽道では、使役する鬼のことを式神と言うが、安倍晴明は、この式神を、一条戻橋の下に住ませていたという伝承もある。

 この一条戻橋は、「平家物語」で、渡辺綱が女に姿を変えた鬼と出会う場所である。鬼は、渡辺綱を掴んで空に舞い上がり、愛宕山に向かって飛ぶ。その時、渡辺綱は、「髭切」の太刀を抜いて鬼の腕を切り落とし、北野天満宮に墜落する。片腕を失った鬼は、愛宕の方向へ飛び去る。

 よく知られた説話であるが、面白いのは、鬼と出会った一条戻橋と愛宕山の一直線上に北野天満宮があることだ。

 日本の三大怨霊の一つとされる菅原道眞を祀る北野天満宮の位置も、方位に従って周到に定められた可能性がある。

 さらに、渡辺綱に腕を斬られた一条戻橋の鬼は、平家物語で描かれる橋姫と同じだという話がある。

 橋姫は、嫉妬に狂った女が鬼となって夫を奪った女性を殺したいと貴船大明神に祈って鬼となる物語だが、貴船大明神が降臨したと伝わる貴船山は、一条戻橋の真北に位置しているのだ。

 これらを確認するだけでも、京都の聖域は、陰陽道などを元にしたコスモロジーに従って位置関係が決められ、平家物語などの物語は、それを踏まえて表現されていることがよくわかる。

 平安遷都の時にすでに、上賀茂神社を起点として、南に東寺、北に貴船神社、西に愛宕山、東に比叡山など東西南北の重要な聖域が定まっていたので、その後に作られていく中世の聖域も、このコスモロジーに基づいて、順々に線上に重ねられていった。

 上賀茂神社衣笠山や朱山を結ぶ西南の方向には、金閣寺龍安寺仁和寺という京都を代表する寺院が並ぶが、そのラインに五山送り火の左大文字がある。そして、見晴らしの良い朱山の中腹に第66代一条天皇の綾が作られ、一条天皇の火葬場までがこのライン上である。

 一条天皇の時代は、日本の精神文化の歴史を考えるうえで重要である。

 藤原道長による藤原摂関家の絶頂の時とされるが、正確に言うと、藤原摂関家の栄華の最後の花火であり、藤原氏は、道長と頼通の親子以降、影響力を失っていく。もう少し具体的に言うと、一条天皇の後、貴族の時代から武士の時代に移行していくのだ。

 一条天皇の時代は、『源氏物語』を書いた紫式部など日本固有の文学が花開いた時であり、さらに、第60代朱雀天皇の頃から活躍したとされる安倍晴明の影響力が、もっとも高まった時代と言えるかもしれない。

 安倍晴明は、一条天皇の前の花山天皇が皇太子の頃から信頼を受けていたが、一条天皇の治世においては、天皇だけでなく藤原道長にも重んじられていた。

 藤原道長は、陰陽道を重視していたようで、一定の期間、外部との交渉を遮断して閉じこもる物忌みを、20年で300回も行った記録がある。

 また、外出などの際、その方角の吉凶を占い、その方角が悪いといったん別の方向に出かけるといった方違えも頻繁に行っており、そのまえに、所有している別の自宅を使っていた。源氏物語の中でも、こうした貴族の陰陽道に基づく風習が描写されている。

 そして、今では菅原道眞を祀る神社として知られている北野天満宮だが、祟り神としての道眞を、国家的な守り神へと昇格させるうえで、どうやら陰陽道が関係しているように思われる。

 菅原道眞が亡くなったのは903年であるが、天皇の勅使が派遣されて祭祀が行われて北野天満宮天神という正式な神号が送られたのは987年、一条天皇の治世である。その4年後の991年、北野天満宮は、国家の重大事、天変地異の時などに天皇から特別の奉幣(神への捧げもの)を受ける神社に加えられた(当時は19社、のちに22社)。

 道眞が亡くなってから90年近く経っている。

 そして、一条天皇の治世と言っても、987年というのは僅か6歳で一条天皇が即位した翌年のことであり、一条天皇の意思ではない何かが、こうした動きの背景にあったものと思われる。

 幼少の一条天皇が即位したのは、藤原道長の父親の藤原兼家の陰謀で、安倍晴明に深く信頼を寄せていた花山天皇が、即位して僅か2年、18歳で出家させられて退位したからである。

 北野天満宮と、その祭神の菅原道眞が、国家にとって特別なものとなるのは、菅原道眞の死後(903年)の厄災が直接の原因ではなく、国の秩序が大きく変貌しつつある状況のなかで、相変わらず権謀術数が繰り返し行われている時だったのだ。

 

(つづく)

 

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第1111回 わかりやすい自分事と、わかりにくい他人事で切り分けるのではなく。

 近年、テレビメディアやSNSの影響からなのか、人々は、わかるかわからないか、共感できるかできないか、という単純な線を引きたがる傾向が強い。
 しかし、わかることや簡単に共感できることというのは、自分の経験の中で処理できることにすぎず、重要なことは、わかるかわからないかではなく、わからないことへの自分の向き合い方なんだと思う。
 わからないことは不安なことだから、どうしても自分から遠ざけてしまいたくなる。それは異なる価値観への排斥や、時には暴力行為にも通じる。
 しかし、自分の人生についても、どうすればいいかわからない問題に直面することは多い。自分の問題なら自分で考えて行動するしかないが、たとえば身内が重い病を患っている場合など、自分ではどうしようもなく、どうすればいいかもわからず、心苦しく見守るしかないということだってある。そういう苦しい心境を吐き出せる場を見つければいいという考えもあるけれど、吐き出したところで救いになるわけではなく、じっと堪えて向き合い続けるしかない。
 私は、わからないことだらけの古代のことを、敢えてピンホールカメラで向き合うという選択をしているが、ピンホールカメラで撮った写真というのは、見るというより、眺めているという感覚になる。針穴を開けている長時間露光の時も、風景を見ているというより、眺めている、もしくは、その状況を祈るような気持ちで見守っている。
 眺めたり見守る時というのは、その瞬間だけを見ているのではなく、その先に思いを馳せている。その先に思いを馳せる感覚は、祈りに近い。
 そして、その先というのは、未来でもあり過去でもある。
 たとえば病の中にある身内のことを思う時、その未来のことを心配すると同時に、過去の懐かしさが苦しくなるほど胸に迫る。
 それは、現代の病んだ社会のことを思う時だって同じだろう。
 私たちは、祈るような思いを抱いている時、切り取られた現代のこの一瞬だけに向き合っているのではなく、過去と未来と重なった現代に向き合っている。そういうトータルな時間は、見るというより、眺め渡すような感覚だ。部分的に曖昧であるか明晰であるかという分別はどうでもよく、全体として、それらのトータルな時間が、自分事であるかどうか。
 最新のカメラが典型だけれど、解像度をあげることが、物事を正確に映し出すと現代人は考えている。

 監視カメラの高性能化によって、犯人を特定しやすくなり、はるか上空を飛ぶカメラで地上の様子が手にとるようにわかる。かつてのSF世界の中で私たちは生きている。 

 このように解像度をあげることを良しとする監視世界の正確さとは何なのか? それは、当面の課題解決のための正確さであるが、その部分の解像度があがり、そこに意識を集中するにつれ、当面の課題以外の大事なことが次第に見失われていく。 

 たとえば、今回の新型コロナウィルス騒動にしても、1日の地域ごとの感染者数や感染経路などが詳細にニュースで伝えられる。全体の時間は限られているわけだから、一つ事が詳細になればなるほど他の事が締め出される。新型コロナ騒動のあいだ、世の中で、他に事件は何も起こっていないかのようだった。

 しかし、日本国内で、不幸にも新型コロナで亡くなった人はいるものの、同じ期間に自殺したり交通事故で亡くなっている人は、はるかに多い。一月から5月まで、東京だけで自殺した人は797人。全国だと7797人。毎日、60人弱が自殺していた。

 コロナウィルスで亡くなった方は、日本全国で、6月26 日現在で968人。その大半は70代以上で持病のある方なので、無神経な言い方かもしれないが、コロナウィルスに感染せず、他のインフルエンザや風邪、熱射病でも亡くなった可能性のある人だって大勢いる。

 そうしてコロナウィルスで亡くなった人や、その遺族のコメントに報道の時間が割かれるなか、コロナ禍の最中に自殺した人や家族の何人が報道で伝えただろう。問題がないのではなく、問題が常態化してしまっているから伝えられないだけで、新規の問題のことだけが異様に解像度が高くなっている。私たちは、そのように高解像度によって修正された現実に生きているという認識が大事だ。

 一番の問題は、この近視眼的な目だ。環境問題、地域紛争、教育格差や経済格差、世の中には様々な課題があるが、近視眼的な目でしか物事を見られなくなると、当然ながら、他の部分が見えなくなり、現実感覚に偏りが生じる。

 現代の問題を、現実感覚に偏りが生じた思考で解こうとしても、さらに問題を複雑化させるだけなのだ。

 仮想敵が最新の武器を備えれば、それに対抗するためにこちらも最新の武器を備えて、そのことが仮想敵にさらなる対策の口実を与えるという堂々巡り。

 現代の問題を考えるために、現代の解像度をあげて見るということが、果たして、現代の問題を正しく見ることになるのか?
 どこまで解像度をあげても表層的なものにすぎないのではないか。
 現代の問題の本質を考えるためには、未来と過去を重ねて捉える視点が必要なはずで、それは、トータルな時間全体を眺め、見守るような眼差しであり、そうしないと、現代において著しく欠損しているもの、見失っているものを発見できない。
 高解像度の精密な描写というのは、物事を正しく写しているのではなく、恣意的に切り取った範囲のことを、わかったつもりになって処理することにだけ向いているとしか思えない。
 重要なことは、わかることではなく、わからないことに対する作法。
たとえわからなくても、もしくは、わからないからなおさら、自分ごとの感覚が深まること。
 作為的に技巧的に、ある種の虚栄で難解にしただけのものは、自分ごとの感覚から遠ざけるばかりで、人を他人事に導いてしまう。
 わかりやすい自分事や、わかりにくい他人事は世の中に無数に存在するが、わかりにくい自分事こそが、自分の未来の在り方につながっているのだと思う。

 

 

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第1110回 現代人にも受け継がれている縄文の世界観や生命観。

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山添村 縄文時代早期の遺物が多く出土した大川遺跡の目の前の名張川

 最近、山の中に分け入って、激しく急流が流れるところを訪れることが多いのだが、そういう場所の近くに見晴らしの良い高台があり、そこに縄文人が住んでいたと知ると、縄文の人たちの世界観や生命観を身近に感じられるような気持ちになる。

 激しい急流、多彩な滝、巨岩だらけの山、日本以外の国で、人が住む里からすぐ近くにこういう場所が無数に存在しているところはあるだろうかと考えてみた。
 私は、70カ国以上、海外の国々を訪れたが、日本よりもスケールの大きな自然が見られるところはたくさんある。しかし、人間が住んでいる場所のすぐ近くで、これだけ変化に富んだ場所が存在するところは珍しいと思う。
 まず日本が島国であること。火山国であること。断層が多くて滝も多くなること。国土の大半が山に覆われて、急流のある上流部が近いこと。それらは日本人にとって当たり前のことが、実はかなり特殊なことではないかと思うようになってきた。
 ただし、東京は、関東平野が広くて、山の姿も見えず、急流がそばにあるわけでもなく欧米の都市の条件とさほど変わらない。だから、欧米の価値観に染まりやすいということもあったのだろう。
 そして、その東京から発信される情報が日本のスタンダードとなっており、まったく異なる風土、環境世界に住んでいるにもかかわらず、東京発の情報に踊らされるということが、現代日本を歪なものにしているかもしれない。
 東京という中心からものを見るのではなく、周辺から中心の異様さを見てみるという逆転の発想が大事だろうと思う。

 管理された縄文遺跡それ自体は、ダミーの縦穴式住居が作られ、芝生が敷き詰められたりしているので悠久の時間を感じることは難しいが、周りの風景は、おそらくそんなに変わっていないはずで、例外なく、その風景は素晴らしい。縄文人は、現代人でも、こんな所に住めれば理想的だなと思うような、見晴らしがよく風通しもよく、風景も美しい場所に集落を作っている。だから、狩猟採集を行っていたと言われるわりに、集落と集落の距離が狭い。条件の良いところを選んで住むようになると、自然とそうなる。

 私が小学生の頃、縄文人は毛皮を着て狩をしている人のイメージだったが、近年の新たな発見によって、縄文人がかなり高度で洗練された営みを行っていたことがわかってきた。現代人も羨むような素晴らしい本麻の衣服を着用し、装飾品も、漆や朱で美しく彩られた精巧なものが作られていた。食事も、海の幸、山の幸が豊かで、加工品だらけの現代人よりもはるかに健康的な食生活だった。

 家については縦穴式住居などが発掘されているが、もっと大きく立派なものを作ろうと思えばできたことは三内丸山遺跡などの建造物を見ればわかる。しかし縄文人は、共同で使う祭祀用の建物は立派なものを作っていたが、個々の住居は快適に暮らせればそれで十分だと考えていたのだろう。縦穴式住居の中は、とても居心地良く、安眠できる空間だと思う。

 先日訪れた山添村の大川遺跡は、名張川に面した場所で、縄文時代早期(約8000年前)の住居跡や集石炉、焼土壙が確認されている。土器は早期の押型文土器、石器は石鏃、石錐、尖頭器状石器など多数出土している。

 集落の目の前の川の流れが心地よく、まわりを低い山で囲まれており、川と山の幸がふんだんに得られただろうと想像できる。

 この遺跡においては、住居の外に食事のための竃が作られており、毎日、キャンプをしているようなものだった。縄文人にとって、毎日の生活がキャンプのように刺激的で、一日中外で活動して家に戻り、家ではぐっすり眠るだけだったのだろう。大自然がフィールドなのだから、壁で囲った大きな家が必要なはずはない。

 大きな家を望むのは、毎日、ゴミゴミしたところで仕事をしなければならない人間が、せめて家の中ではゆっくりとくつろぎたいと思うからか、それとも、自分の人生がうまくいっていることを他人に誇示したいか、どちらかなのだろう。

 現代人は、縄文人と比べて、心地よさや快適さを得るために、随分と屈折した心理を持つようになってしまった。

 現代人が理解できない縄文人の不思議さは色々あるが、たとえば縄文人は、何千年にもわたってずっと同じところに住んでいた。そして、他にも住むためのスペースがあるはずなのに、集落と集落の距離が近い。もしも狩猟採集生活を基本としているのなら、もう少し分散した方が収穫量も多くなるのではと邪推するが、ストックするという発想がないから、食物の獲得と、いざという時の助け合いなどの必要性など、最適なバランスの中で集落の位置が決まっていったのだろう。なによりも、彼らは、戦争を必要としなかった。足るを知る人々だったからだ。

 なぜ、縄文人は、足るを知る人だったのか。

 現代人は、これまでの人類史の中でもっとも優れた文明を手にしていると錯覚しているが、足るを知ることがないために、常に不安や焦燥に苛まれている。

 他人と比較し、他人を羨んだり見下し、他人との比較で安心したり不安になったりする。

 できるだけ多くお金を得たいと考え、できるだけ大きな家に住み、できるだけ便利で楽な生活をしたいと願い、できるだけ寿命を伸ばそうと足掻く。

 そして、発展途上国の人々の映像を見て、自分より劣った生活をしているということに少し安心しながら同情する。

 どれだけ物質が増えようとも、足るを知ることがないことが、不幸の源泉になっていることを自覚できていない現代人。

 だからといって、意識的に、足るを知ろうとしてできるものではない。

 それはなぜなのか?

 一言で言って、植えつけられている死生観、生命観、世界観の問題だ。つまり、宗教の問題。

 縄文の人たちは、「人を含めた全ての生物は死んで神になる」と普通に考えていただろう。死は、身体に限られたもので、死んだ身体は他の生物に食べられ土に戻り、魂は山に帰って神となる。

 ”神”と言っても、キリスト教徒やイスラム教徒が主張している唯一絶対神ではなく、我々が生きている世界の中に満ちている霊的エネルギーのようなものだ。形あるものを動かしている力は、その霊的エネルギーであり、形を失えば、その霊的エネルギーは山に帰り、また他の形あるものに力を与える。

 理屈ではなく生活実感として、縄文人は素直にそう感じていたのだろう。

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山添村。現在はダムの底に沈んでいる上津大片刈遺跡は、縄文時代草創期から早期の住居跡や遺物を多数出土している。その近くの大井戸の杉。

 だから、彼らは、集落の位置を簡単に変えたりしない。その場所から霊的エネルギーを受け取って生きて、死んだらそれを元のところに返すわけだから。

 また、同じ霊的エネルギーのめぐりの中に生きているだけだから、他人と比較する必要もないし、できるだけ多く、できるだけ大きく、などという発想もない。お腹がすくというのは、霊的エネルギーが不足しているわけだから有り難く補充させていただく。お腹がいっぱいになったら、それ以上、補充は必要がない。獣たちのように、できるだけ不必要なエネルギーは使わず、のんびりしていればいい。

 幸いなことに、山や川の恵みが豊かな日本の風土の中では、飢えをしのぐために他の場所に移動して、そこにいる人を殺したり食べ物を奪ったり支配したりする必要がなかったのだろう。

 この日本が、急激に変わっていかざるを得なくなったのは、2500年ほど前、中国で春秋戦国時代という激しい内乱が起き、多くの人が日本に逃げて来ざるを得なかったからだ。

 彼らは、稲作などの技術をもたらしただけでなかった。彼らは、縄文人と違った死生観、生命観、世界観を持っていた。ただ、日本は大陸から離れた島国だったため、日本を支配できるような集団が大挙してやってくるということはなかった。

 しかし、大陸からやってきた人たちは、他人と比較したり、序列をつけたり、他人を管理下に置くという知恵分別と方法論を身につけていた。

 新たに持ち込まれた技術を用いたところと、そうでないところに格差ができはじめると、それまで長いあいだ保ち続けてきた全体の調和が崩れていく。有利と不利という分別が生じる。いったんそういう分別が生じると、人間は焦燥や不安に駆られるから、突然、変化は激しくなり、魏志倭人伝で伝えられるように戦乱の絶えない世界になってしまった。それまでの悠久の数千年の幸福は、数百年のうちに劇的に見失われていったのだ。

 しかし、日本の風土が大きく変わらないかぎり、死生観も大きく変わらない。

 新しく仏教が入ってこようが、それは日本独自のものに変容する。

 釈迦は、生老病死を”苦”ととらえ、その”苦”から逃れる道を探し求めて旅をし続け、最終的に、「世の中で永遠なものは一つもない」、「形あるものは必ず消滅する」という諦観の境地に至った。つまり、長い苦行と思索の果てに、世界はそういうものであるという認識に至った。

 しかし釈迦は、「私たちはどこから来て、何を成し、どこへ行くのか?」という永遠の問いに応えたわけではなく、この人間の微力な力ではどうしようもない厳然たる世界を潔く引き受けることで執着や煩悩を断つことが、真の意味で心の安らぎであると説いたのだった。

  釈迦は、キリスト教などのように唯一絶対神を想定し、最後の審判を設定することで厳然たる世界を潔く引き受けるという方法を提示したわけではなく、どちらかというと古代ギリシャソクラテスの無の思想のように、哲学的に着地点を見出そうとした。

 しかし、ソクラテスや釈迦が必死の探求の果てに到達した世界認識は、おそらく縄文人にとっては当たり前のことだった。縄文人は、自然界において「形あるものは必ず消滅する世界」、「全ては無に帰する世界」を当たり前のこととして受け止めながらも、悠久の時を超えて存続し続ける特別のもの、巨岩の磐座などを崇めていた。

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大川遺跡のそばに鎮座する岩尾神社。今も巨岩が御神体である。かつては龍神として祀られていた。

 

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山添村の長寿岩。長いあいだ、地中に深く埋もれていた。山添村ふるさとセンターの建設地の造成のため削っていた地中から現れた。

 日本の自然のように何一つ同じ状態を保ち続けるものがない世界で、巨岩だけは不動だ。そしてその岩は数億年の歳月を経ているものもあるし、美しい鉱物資源を含んでいるものもある。人間世界を超えた神秘がそこに宿っていることを現代人でも感じることができる。

 縄文人は、おそらく永遠と無常の世界観を、ごく当たり前のように感じ、その不可思議な、流動的で循環的な調和世界を司るエネルギーを、神の力として受け止めていたことだろう。その霊的エネルギーの一部として生きている彼らは、ニヒリズムに陥ることなく、前向きに生きていられた。形にこだわらず、形あるものを動かしている霊的エネルギーの方が重要であるということを知っていたからだ。

 縄文人の方が、釈迦やソクラテスよりも上とか下とかではなく、この違いは、生きている風土の違いによるものなのだろう。

 こうした縄文世界に、大陸の苛烈な風土で育てられた世界観や生命観を持つ人たちが少しずつやってきて、どちらか一方が他方を実力で強制的に支配管理するのではなく、少しずつ両者の世界観や生命観が重なり合っていくことで、日本独自の精神世界が形成されていった。

 縄文のような世界は地球上の他の地域にあったかもしれないが、人間の集団移動が簡単な場所であると、自分を有利にするための手段を多く身につけている狡猾な人々に、あっという間に支配されてしまう。

 新たにやってきた狡猾な人たちは、その土地の人たちを自分たちのシステムに組み込むため、その人たちの世界観、生命観の形成に通じるものを根絶やしにするだろう。そして、混血を重ね、たちまち一つの価値観を共有する集団がそこにできる。

 しかし、日本はどうやらそうはなりにくかった。日本人の遺伝子を調べると、現在でも、縄文系と弥生系の違いがはっきりしている人がたくさん存在している。これは、大陸における被支配国ではあり得ないことらしい。

 弥生時代が始まってから、日本列島には大陸から人々がやってきて住み着くようになったが、その数は少しずつであり、現地の人たちと対立的ではない方法で生きていくことが重要だった。そのため、日本においては、過去の精神世界が破壊されず、積み重なってきている。その積み重なりが膨大になったゆえに、複雑化し、本来の姿がわかりにくなっているが、本来のものが消えて無くなってしまったわけではない。

 現在、複雑なものをより複雑にしていく研究が立派な学問のように思われているが、(難しくてわかりにくいほど高尚に見える)、複雑さの中に埋もれてしまっている本来のものを露出させることが、今こそ重要になっている。

 たとえば日本の仏教の始まりについては、聖徳太子が活躍していた時代の蘇我氏物部氏の対立がよく知られている。

 しかし、ここで言う仏教は、真の意味で仏教精神に関わる問題ではなく、従来の神祇の中に仏像礼拝をどう位置付けるかということと、戦国時代のキリスト教問題と似ていて、宗教とともに入ってくる新しい知識や技術に関する政治的駆け引きだ。

 釈迦が必死の思いで創造した世界観に関しては、古来の日本人にとって目新しいものではなかったが、悟りに達した釈迦が自らの救いのためにも実践していった”衆生の救済”という精神は、古来の日本人にとって当たり前のことではなかった。この精神の輸入によって生まれた日本の新たな宗教としての仏教の始まりは、おそらく修験道ということになるだろう。

 修験道と聞くと、多くの人は、悟りを得ることを目的に山へ籠もって厳しい修行を行う山伏の姿を思い浮かべる。

 そして修験道とは何かを知ろうと思って本を読むと、修行の内容やら歴史やら、修験者が信仰する神のことやら色々と複雑である。

 しかし、それらの内容は後の時代に色々と後付けされた結果であり、始まりはもっとシンプルであった筈だ。

 おそらく上に述べたように釈迦が辿り着いた世界観に関しては、山と森と急流の多い日本の風土の中では、自明のことだった。

 現在でも日本の国土の約70%が山岳地帯だが、古代においては海岸線は今よりも山に近く、大阪平野濃尾平野なども、その多くの部分が海の底だった。つまり、山岳地帯は、70%よりも広かった。縄文の世界観は、その風土の中で育まれていた。地上の形あるものは、山からやってきた霊的エネルギーによって動いており、死んだら、霊的エネルギーは山に帰る。人間はどこから来てどこへ行くのかということにおいて、哲学的な問いは必要なかった。

  仏教は、形あるものは消えていくという空の概念を伝え、それゆえ執着することの無意味さを説くが、そんな自明のことより、古来の日本人にとって新鮮だったことは、生きているあいだに何を成すか、というポイントだった。

 修験道というのは、古来の日本人が備えていた山を中心とした魂のコスモロジーにくわえて、現生において、”衆生の救済”の実現を目指していく新しい精神的実践活動だった。

 山から離れた生活を続けてしまうと、改めて山にこもって修行をしなければならなくなる。しかし、本来、その修行とは、滝に打たれたり肉体を極限まで追い込むようなものである必要はなく、山に入って、森の中や急流を渡りながら、五感および六感をすべて使って世界の原理を感じ取ることだろう。そこにはあらゆる生命が潜み、絶妙なバランスがあり、劇的な変化がある。天候も気圧の変化で読めるだろうし、何かしらの不穏は音や匂いだけでわかるだろう。それを感じることは、現代でも可能である。

 天武天皇の時代に活躍されたとされる伝説の人物、役小角吉野の金峯山で示現した蔵王権現は、修験道の本尊とされる。

 蔵王権現というのは、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊の合体したもの、もしくは、仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括しているというと、わけのわからない説明がなされる。

 釈迦は「過去世」、千住観音は「現世」、弥勒菩薩は「未来世」の救済に関わるのだが、ようするに、蔵王権現というのは、過去とか現在とか未来という分別も、仏や菩薩や神々の役割分担の分別も関係ない、無分別の融通無碍の超越者であるということだ。

 それは、過去と現在と未来、そして全ての様相が有機的に関係し合って生かし生かされている山のコスモロジーそのものである。

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山添村の布目ダムの底に桐山和田・北野ウチカタビロ遺跡が沈んでいる。縄文草創期の有尖頭器と石鏃、有溝砥石などの石器、隆起線文土器、早期の文土器、集石炉等(12000年~6200年前)が多数出土している日本最古級の縄文遺跡である。このそばに牛が峯という古代からの聖域があり、その山頂に巨大磐座が鎮座する。その磐座の壁面に空海が刻んだと伝説のある大日如来が描かれ、ここは真言密教の聖地となった。

 仏教が入ってきた頃の日本は、すでに各地で分断が起きていた。縄文時代の足るを知ることによる万物の調和や心の安穏は失われつつあり、歪みが至るところに出ていた。

 特に稲作は、山の生活と比べて、天候の変化で大きな影響を受けた。日照りや台風が致命的な結果を残す。

 そうした困難に陥っている衆生を救済するための日本人の精神的実践活動の始まりが、行基集団の活動であり、その活動の主導者である行基(668-749)を守り、支えたのが修験道者だった。 

 百済系渡来氏族を父に持つ行基は、知識結とも呼ばれる新しい形の僧俗混合の宗教集団を形成して貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。

 行基の活動に関して、当初、朝廷は弾圧をくわえた。当初の仏教は、国家鎮護のためのものにすぎず、民衆への布教活動を禁じていたからだ。

 しかし、聖武天皇の皇后、光明子は仏教に篤く帰依し、東大寺国分寺の設立を聖武天皇に進言しただけでなく、貧しい人に施しをするための施設「悲田院」や、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行っており、衆生の救済の実践者だった。その影響からか、聖武天皇行基の活動を認めるだけでなく、僧侶の最高位である大僧正に行基を任命し、東大寺と大仏造立の責任者とした。

 仏教と修験道が統合されたうえでの衆生の救済”という社会活動の実践は、平安時代が始まると空海によって受け継がれていく。

 

 

 (つづく)

 

 

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 第1109回 「命は何よりも大事」と言う時のいのちとは何か?

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 今回のコロナウイルス騒動で、強く感じた違和感。
「命は何よりも大事」という時の”命”とは一体何を指しているのかということ。
 生命尊重という言葉を使っていると、現代社会においては、まず誰からも非難されることはなく、腹の中で何を考えていようが、良心のある人徳者としてふるまうことができる。
 しかし、生命尊重の”生命”が指すものが、単に肉体的なもの、すなわち物質的なことにすぎないとすれば、それこそ死んでしまえば何もならないということになり、それは大きな意味で”生命”の意義を貶めていることにならないのだろうか。
 人は必ず死ぬ宿命だけれど、30年より60年、60年より90年というカレンダー上の長さ、つまり物資的なスケールが生命の重みを計る基準だとすると、何か救いようのない気持ちになる。
 その基準は、どれだけ多くのお金を稼いだか、どれだけ立派な肩書きを得たか、どれだけ大きな家を建てたかなどの物質的なスケールの基準が、人間の幸福を決定するという考えと重なっている。
 しかし、いくら努力しても人間は万能ではない。自らの努力とは関係なく、容赦なく過酷なまでの宿業を背負うことがあり、そのことによって物質的なスケールにおいては乏しい人生になってしまうことだってある。その場合は、価値のない生命ということになってしまうのか。
 この不条理の問題について、人間ははるか古代から考え続けてきた。
 生命の定義を物質的な側面だけに限定してしまうと救われないし、やりきれない。そして冷静に自然界を観察していると、たとえばミツバチの働き蜂は、短い一生を、自分が産んだわけではない子供を育てることのみに捧げるし、倒木の幹からは新たな芽が育っており、生命が個体の物質的な限定を超えて他へと繋がっているケースを幾らでも確認できる。ならばきっと人間だって同じだろう。特定の宗教が説くように、たとえ肉体が滅んでも、あの世で魂が生き続けることができるというビジョンも救いになる場合があるが、この世とあの世の二つに分けなくても、一つの世界のなかで、自分の生が何かしらの形で他の生につながっている。そして、そのつながりは、生命を育てる霊的エネルギーのようなものであり、霊的エネルギーを介して、個は他の個とつながっていると考えることだってできる。
 「命は大事」と言う時、たとえ物資的には滅んでも霊的エネルギーは存在し続け、その霊的エネルギーを介して他の個がまた新たな生をつないでいくという意味においての”命”のことでないと、個体としては必ず滅びることが宿命づけられている人間は、救われない。
 また、死んだ後の救いとして、死んでも誰か他の人の心の中に生き続けるなどという、死んだ後も自己承認欲に縛られたことである必要もない。
 肉体はあくまでも器であり、自分の身体が生きているあいだ預かっていた霊的エネルギーを、身体が滅んだ後は山や海にお返しする。その霊的エネルギーの循環に終わりはない。
 祖先を敬うという場合も、自分と血縁のつながった特定の誰かを指すのではなく、霊的エネルギーを循環させ続けてきた万物全体のことを指している。
 自分の祖先が歴史上活躍した人だとか、そうでないとか、そういう人間に限定された世俗的な問題ではなく、祖先の口から入ってお尻から出ていった循環物全てに対する崇敬が、本当の意味で、祖先を敬うということだろう。
 生きているのではなく生かされているということの納得感は、そういう霊的エネルギーを預かって、お返しするだけであるという認識を自然に持てた時に得られる境地なのだろうと思う。
 人間の生命観は、生きている風土による影響が大きい。
 乾いた砂漠の中で育まれた世界観と、湿潤な森の中で育まれた世界観は異なる。
 コロナウイルスの騒動の中でも、しきりに”科学的な分析と判断と対応が必要”という言葉が聞かれた。現代社会において、科学は、もはや一種の権威装置であり、それに抵抗することは簡単ではない。
 しかし、現代人が圧倒的に信頼を置く科学というのは、西洋文明の科学のことであり、西洋文明というのは、古代ギリシャ文明とキリスト教の強力なタッグのもとに築かれている。
 第1級の科学者として尊敬されているアインシュタインニュートンも、西洋人が信じる唯一絶対神が作った宇宙の法則を、古代ギリシャを見本とする理性と論理で解きあかそうとする精神の運動に従ったまでのことだ。
 アインシュタインニュートンは、神はサイコロをふって決めるような曖昧さでこの宇宙を作ったのではないという強い信念を持っていたからこそ、その法則の解読のための努力が、唯一絶対神に対する敬虔さの証明にもなった。
 ”科学的”という言葉を使う時、そのことを忘れるわけにはいかない。もし、私が、ニュートンアインシュタインが信じた唯一絶対神を、何の違和感もなく共有できるのであれば、そこから生まれた近代科学に、自分の生命観を委ねることに躊躇はない。
 しかし、審判において天国に行けるか地獄に落ちるかという二者択一の発想は、乾いた砂漠から生まれたコスモロジーとつながっている。砂漠の上で死んだものは、乾いた骨となり風に吹かれて消えていく。砂漠における物質の滅びは、孤独極まりなく、その孤独に耐えるための信仰が必要であり、そこから、キリスト教ユダヤ教イスラム教などの旧約聖書を共有する唯一絶対神を仰ぐ宗教が発生した。

 

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 それに対して日本の生命は、山川草木など万物自然の中で育まれ、循環してきた。
 近代化された都会は、乾いた砂漠のようで、唯一絶対神を背景に持つ近代科学とは相性がいい。しかし、科学的対応だけではどうにもならない心の問題が残る。
 湿潤な日本の風土の中では唯一絶対神の宗教があまり根付いてこなかった。
 宗教も、歴史にさらされてきたものは、様々な経験によって矛盾に対する調整機能を発達させているが、新興のものはそこが弱く、矛盾に対する抵抗力が極めて弱い。そのため、時間をかけて整えていく負荷や苦しみに我慢できず、一気にケリをつけようとする性急な行動に駆られることが非常に多い。オウム真理教の例えを出すまでもないが、おぞましい宗教戦争を繰り返してきた欧米人は、賢明に、上手にごまかしながら唯一絶対神とお付き合いできる人が多いが、日本人はそうはいかない。

 

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 日本には日本の風土があり、その風土から生まれたコスモロジーがあり、そこで育まれた生命観がある。
 苦しい局面に立たされた時は、心の拠り所をそこに向けるしかない。
 万物は流転し、形あるものは必ず滅びる。そして、形あるものが存在しているのは、霊的エネルギーのようなものを一時的に預かっているからであり、それが終わったら、お返しするだけである。お借りした霊的エネルギーが帰っていくところは、それが帰っていきそうだと直感的に感じられるようなところであり、そのことが実証できるかどうかは大きな問題ではない。他の誰かからそう信じるように仕向けられるのではなく、自分が、そう感じられればそれが救いにつながるのだから。
 霊魂は存在するかどうかと科学的に問われれば言葉に詰まるが、霊的エネルギーのようなものはあるだろうし、それがなければなぜこうやって生きていられるのか説明ができない。
 心臓が動いて血液を循環させて栄養と酸素を云々という機械論的な説明に、自分の生命を置き換えることの方が違和感がある。そういう機械論的な説明ですんでしまうのなら、胸が圧迫されるような悲しみなんか生じるはずがない。

 

 

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