第1093回 森羅万象の摂理と、ピンホール写真。

原初というのは、終わってしまった過去ではない。
森羅万象の摂理においては、そこから生まれたものは、そこに還っていく宿命にある。
 
  このたび制作した「Sacred World 日本の古層 Vol.1」に掲載されている写真は、この数年間、日本の様々な聖域を訪れ、すべてピンホールカメラで撮ったものだが、ピンホール写真の興味深い点の一つに”等価性”があると思う。
 ふつう、写真を撮る場合、昨今では”インスタ映え”という言葉を使うようだが、フォトジェニックな被写体、もしくはアート表現のための思わせぶりなものを狙う。
 被写体を探して狙い撃つ、だから「撮影する」という英語は、shootとなる。
 カメラのシャッターは拳銃の引き金であり、連写できる高性能カメラはマシンガンのようなもので、一発で仕留められる腕がなくても、連射することで相手を殺せる。
 しかし、ピンホールカメラはシャッターがなく、0.2mmほどの窓を長時間開くだけの行為なので、撃つというより、呼び入れるという感覚が近い撮影になる。
 そのため三脚を立てる場所も、インスタ映えをする被写体を一発で狙える所とはならない。なぜなら、ピンホール写真の特性として、”見栄え良く”写らないことは最初からわかっているからだ。
 なので三脚を置く場所は、その場の何かを引き出したい、呼び入れたいと感じる所ということになる。
 表玄関の堂々とした建物よりも、裏側にまわったところにあって人が見落としてしまうようなものが密やかに何かを発していることがあり、その声にもならない声を掬いとりたい場合に、ピンホールカメラというのは向いている。
 たとえば、次の写真は、滋賀県近江高島市の琵琶湖に面した白髭神社で撮ったものだが、この神社は、湖の中に鳥居が浮かんでおり、安芸の宮島厳島神社に似ていることからパワースポットとして有名になり、わりと観光客が訪れて琵琶湖と鳥居をバックに写真を撮って帰る。しかし、あの鳥居は1981に再建されたもので、1280年の絵図では鳥居は陸地に建てられている。歴史的には、それほど意味がない鳥居なのだ。
 この白髭神社の裏にあるのが今でも禁足地の岳山で、そのギリギリのところに、この写真の磐座がある。この磐座の後ろにうっすらと見えるのは、古墳の石室の入り口である。
 白髭神社の本来の聖域は雰囲気からしてもこのあたりの筈だが、ほとんどの観光客はここまでは来ない。湖の鳥居よりも1500年以上古い祈りの時間を刻み込んでいるのが、この磐座なのに。
 この磐座をデジタルカメラでも撮影したが、ただの岩にしかならなかった。デジタルカメラは、時を静止させることは得意だが、その画像は、悠久の時を漂わせない。
 実際の現場に立った時には周辺の森の木立はほとんど目に入っていないのに、デジタル画像は、それらも鮮明に映し出してしまい、かえってノイズになる。フレームの中の隅々まで綺麗に写し取りたい時にはデジタルカメラは向いているのだろうが、人間の目は、そのように物を見ていないのだ。

f:id:kazetabi:20200504101904j:plain

 
 また、「Sacred world 日本の古層」の表紙の写真は、お花畑を目指して撮影に行った時のものではなく、京都の鴨川源流の雲ヶ畑というところに志明院という空海ゆかりの寺があり、そこを訪れた際、境内は撮影禁止のために仕方なく手ぶらで見てまわり、その帰り際、門を出たところの脇の小さなスペースに咲き誇っていた小さな花々に呼び止められるような感覚になり、地面スレスレにピンホールカメラをセットして、長時間露光して撮影したものだ。普通に歩いていたら見向きもされない道端の野草である。

f:id:kazetabi:20200503115908j:plain

 

 また、次の写真は、京丹後の一宮である籠神社を訪れた際、その奥宮の真名井神社が、もともとの聖地なのだが、ここも境内は撮影禁止である。

 なので、境内の聖域をぐるりとまわって帰ろうとして門を出て歩いていたら、やはり、何かに呼び止められるような気になって、ふだんはあまり撮影することはない守護獣(ここは、守護獣が狛犬ではなく龍になっている)を撮影しただけ。

 しかし、後になって振り返ると、新しく新調された境内で感じたものよりも、この写真が表しているものの方が、真名井神社の気配を伝えているような気がした。

f:id:kazetabi:20191209140852j:plain

 

 さらに次の写真は、琵琶湖に面した小野郷に怪しさに惹かれ、何度も通っていた時、小野妹子の墓とされる唐臼山古墳を撮影したものだ。

 唐臼山古墳と、古墳の名前がついているが、実際にその場所を訪れると、小さな丘が崩れて、破壊された石室の破片が散らばっているだけ。

 何人かの友人を現場に案内したけれど、この場所自体に、見栄えのよい何かがあるわけではない。しかし、この古墳のある高台からの眺望は素晴らしい。ちょうど琵琶湖のもっとも狭いところが眼下に見下ろせる位置にあり、古代、琵琶湖は重要な海上交通の舞台だったので、そこを行き交う船を監視するうえで絶好の場所であることはわかる。

 今でこそ、崩れて見栄えのしない墓跡であるが、古代、この高台の上は特別の何かであったことは間違いない。とはいえ、その栄華を今、十分に伝えることはできない。そのギャップを感じながら、小野妹子とともに生きていた人たちのことを想像しながら、三脚を立てた。時は真夏で、夕暮れだったので、30分くらいの長時間露光だった。時おり夕日の残像が差し込んで揺らめいていたが、とにかく藪蚊がすごくて、痒くてしかたなかった。

f:id:kazetabi:20200503123108j:plain

 

 言い出したらキリがないが、Sacred worldの中の写真の多くは、撮ろうと思って撮ったのではなく、 写ってしまった、たまたまそうなってしまった、というものが多い。

 しかし写真の歴史を振り返ると、写真が撮影者の都合に合わせた道具になっていくのは、1900年頃、誰でも簡単に携帯できる35mmカメラが発明された時からで、近代写真の父とされるアメリカのアルフレッド・スティーグリッツが、その祖とされる。

 撮影する側に主導権のある写真、つまり人間の意図に利用されやすい写真は、広告に向いていた。そして、写真はマスメディアと連携してモダニズムの代表的表現ツールになる。 

 しかし、もともと写真はそういうものではなく、世界に対して、謙虚な姿勢が要求される道具だった。

  写真の始まりは、1824年、ニセフォール・ニエプスによるもので、現存する最初の風景写真は、1826年、露光時間に8時間以上かけて撮影されたとされる「ル・グラの自宅窓からの眺め」だ。

f:id:kazetabi:20200504110159p:plain


 この、どこにでもある場所の風景を撮った写真が語りかけてくるもの、そしてこの写真の味わい深さのもとにあるのは何なのか。

 人によって色々な印象や意見があるだろうが、私の記憶では、若い頃、パリの屋根裏に住んでいた時、昼間何もすることなくぼんやりと外を眺めていた時の感じと似ている。見るのではなく、眺めるという感覚。
 私たちは、いつも獲物を狙うような目で風景と向き合っていたりしない。ガイドブック片手にお目当の観光名所の場所を訪れて、ガイドブックと照らし合わせて確認して、次の目的地へと移動する時以外は。
 人が、インスタ映えのする風景で撮影する時、自分とその風景とのあいだに通い合う時間よりも、他の誰かにその風景を見せていかに賞賛を受けるかという方に、より意識がいく。それが1900年頃から始まった写真のモダニズムであり、その結果、写真は、商業主義と相性がよく、商業主義を加速させる道具(広告表現)となった。
 しかし、自分に都合よく風景や被写体を切り取ることを目的とするばかりで、風景や被写体とじっくりと対話をしていなければ、その風景や被写体に秘められた言うに言われぬリアルな何かが自分の記憶の中に蓄積することもないかもしれない。
 ピンホールカメラというのは、絵になるかどうかという基準ではなく、そこに何かがあると感じられる場所(呼ばれるような感覚と言うのかもしれないが)でしか三脚をセットしない。呼ばれるような感覚とは、おそらく自分が意識できない無意識の記憶、もしかしたらそれは自分個人の生涯には収まりきれない人類の潜在的記憶と呼ぶべきものの呼応なのかもしれない。
 フランス語のデジャビュー(既視感)で、わけもなく懐かしいと感じることは、よくあることだ。フロイトは、その現象を、自分では実際に体験していなくても、夢の中ですでに観ているからだと説明した。しかし、その夢がどこからやってくるのか、うまく説明はできない。
  いずれにしろ、ピンホールカメラは、三脚をセットしたら針穴を開けて、しばらく待つだけとなる。待っているあいだは、いい写真になるようにとか一切考えない。いつ針穴の扉を閉めるか判断するために、時間と光の状態だけに注意するだけである。
 その結果、出てくる画像は、どの場所も等価になる。むしろ、表玄関のフォトジェニックな建物よりも、そうでないものの方が語りかけてくるものが多い場合がある。なぜそうなるのか。
 一般社会においては、物事を判断するうえで、大小とか、カッコいいとかそうでないとか、古いとか新しいとか、流行かそうでないか、イケてるかイケてないかとか、数かぎりない分別の尺度でカテゴライズされて選別されるのが当たり前だが、森羅万象というのは、そういう分別はなく等価に存在している。
「Sacred world 日本の古層」の最後の章、「もののあはれ源流」の冒頭に記している古事記の序文、「この世界は、ものの形と質が分離してなくて、名前も行為も、形も存在しない。」という状態であり、それを人間の分別が切り分けでいくのだ。天と地、そして生と死も。
 現代社会というのは、そうした人間の分別が極限までになった状態であり、まさに人間様が万物の尺度となり、人為的に、計算高く、様々な演出を凝らしたものを無数に作り出した。
 しかし、人間が仕分けしたと思っているものは、実は、流動するエネルギーの一時的な状態でしかない。つまり、幻である。
 「数を尽くして変を極め、形に因りて移りゆくものを、化といい幻という。」という中国戦国時代の思想家、列子の言葉を、Sacred worldの「もののあはれ源流」の章においては古事記の序文と等価においたが、時の流れは人間の一切の作為を風化し、残されるのは、形ではなく、エネルギーの痕跡だけである。
 「これ生死であり幻化であり、この双方は一つである。列子
 人が何らかの形で世界を理解したと思って、それを形で表したところで、そんなものは幻であると列子は言っている。
 2400年前の中国戦国時代も、現代のように詭弁家(同じ時代、古代ギリシアソフィストに等しい)が跋扈し、万物の尺度を人間において、分別によって世界を切り分けていた。
 しかし、時を経ればすべてが等価だとわかる。人間は同じことを繰り返しているということも。
 Sacred Worldというのは、天国のような特別な場所を指すのではなく、世界の普遍性を反映する根源的な場所のことであり、その根源性は、時を経てきたもの全てに等価に行き渡っている。
 その等価性に基づく写真は、獲物を狙うような目と、高性能の描写力で世界をくっきりと切り分けるデジタルカメラでは難しく、セフォール・ニエプスのような、自分と風景とのあいだに通い合う時間に身を委ねる撮影方法の方が適していた。
 ただ、ピンホール写真は、きわめて抽象的な表現であり、分別で頭を整理することに慣れた現代人には、それだけでは伝えたいものが伝わらない。なので、この「Sacred world 日本の古層 Vol.1」においては、1/3のスペースを言葉のためのものとした。
そして、その言葉は、できるだけ具体的であることを心がけた。
 現代人は、右脳で世界のイメージを掴めても、左脳の働きがなければ、世界を認識できないから。
 原初というのは、終わってしまった過去ではない。
 森羅万象の摂理においては、そこから生まれたものは、そこに還っていく定めにある。写真だけが例外ということはない。
 
 
 Sacred world 日本の古層 Vol.1の全ての内容を、このホームページでも確認できます。