第1234回 和を以て貴しとすること。

聖徳太子が制定したとされる「十七条憲法」の第一条の冒頭。

 「和を以て貴しとし、忤(サカフル)ことは無いように。人には皆、党(タムラ)があり、悟っているものは少ない。よって君父(キミカゾ)に従わない。また、隣の里とも違うだろう。しかし、上と和し、下と睦まじくして、事を論じて話し合って、諧(カナウ)するなら、物事は自然と上手くいき、なんでも成せるだろう。」

 少し意訳になるが、「人は、それぞれ所属するところがあるし、生きている場所によっても色々異なっており、その範疇のことしか考えない傾向があるが、異なるものに対して無闇に反発するのではなく、それを調和させることが最高に素晴らしいものだと悟るべきだ。上も下も分け隔てることなく本質にそって対話を行い、その結果として調和に導くことができれば、物事は自然と上手くいき、何事も成就していく。」ということが、述べられている。

 はるか1400年前に、日本人の精神は、こういう境地に達していた。ここに述べられていることは、現代人が直面している深刻な事態にも通ずる普遍性がある。

 「和」というのは、同じ性質のもの同士の閉鎖的な予定調和ではなく、異なるバックグラウンドを持つもの同士が、お互いを生かすように組み合わさること。

 日本文化、日本の芸術表現は、ずっとそこを目指していた。

 絵画で言えば、動と静を一枚の絵の中に見事調和させる。俳句は、一瞬にして、目の前の小さな光景を森羅万象に広げる。そして、能は、彼岸と此岸を溶け合わせる。

 動きに関しては、ゆったりに見えるのに速い。軽やかなのに重厚。おっとりとしているのに凛としている。

 そして、物事の裁定においては、「いき」なはからい。

 誰かが決めたことを拠り所にしたり、前例に固執するのは、野暮。白を白と言い、黒を黒と言うだけなら、風流がない。

 日本人の美意識では、冬枯れの景色も趣がある。逆もまたしかりなのだ。

 聖徳太子が、実在していたかどうかなんて、どうでもいい。聖徳太子という人物像を創造した、いにしえの日本人の心に思いを馳せればいいだけのこと。

 大阪の富田林市にある美具久留御魂神社の境内に立つと、鳥居の向こうに二上山が見える。そして、美具久留御魂神社と二上山のちょうど真ん中3.4kmのところが、叡福寺境内の聖徳太子の陵墓であり、この二つを結ぶラインを東に伸ばしたところが三輪山大神神社である。

 この東西のラインは、大物主(大国主)の祟りと関係している。

 美具久留御魂神社の御神体は、出雲の神宝とされていた生弓と生太刀なのだが、これは、大国主が、スサノオの館から逃れる時に持ち出したもので、この弓と刀が国づくりにおいて大いに力を発揮した。 

 第10代崇神天皇の時代、美具久留御魂神社周辺で大国主の祟りがあり、これを鎮めるため、出雲の国からこの刀と弓を獲得して、大国主御神体としたという伝承がある

 祟りには疫病や自然災害も含めた国内秩序の乱れが集約されているが、重要なことは、そうした厄災における対処方法だった。

 古くは、そうした厄災において人柱などが実際に行われていた。

 しかし、崇神天皇の時に起きたとされる大物主の祟りでは、従来の方法ではうまくいかなかったと古事記日本書紀では記され、天皇の夢枕に現れた大物主が、大田根根子に自分を祀らせるように指示をして、そのようにすると鎮まったことが伝えられている。その場所が三輪山だった。

 大田根根子は、賀茂氏の祖だが、その祭祀の方法は、須恵器を用いることだった。

 1100度以上の高温で焼く須恵器は、それまでの低温で焼く陶器の土師器と異なり、水漏れがしづらく、液体の貯蔵などに向いており、主に酒器をはじめ祭祀器として用いられた。酒や食物をこれに盛って、供えるのである。

 日本社会においては、昔も今も、同じものを飲食することで、立場の異なるものが調和をはかろうとする習慣がある。だからビジネスでは接待が欠かせないし、外交においても必ず饗応がある。

 この慣習は、古代、神と人間とのあいだでも行われた。今でも神社の祭祀の最後に、直会(なおらい)が行われる。神霊が召し上がったものを参加者が頂くことにより、神霊との結びつきを強くし、神霊の力を分けてもらい、その加護を期待するとともに、同じものを食べた人間のあいだに調和が生まれる。

 太子町の聖徳太子の御陵には、太子が一緒に埋葬されることを望んだ妃の膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)が合葬されているのだが、彼女の実家の膳氏は、こうした食膳を管理する一族だった。

 大田根根子によって大物主の祟りが鎮められる話には続きがあり、高橋邑の活人という者が、大物主にお神酒を捧げさせたという記述がある。高橋邑の活人は膳氏であり、膳部菩岐々美郎女の祖先が、大物主の祟りを鎮めることに関わっていたのだ。

 だとすると、聖徳太子の御陵が、大物主の祟りと関わる三輪山と美具久留御魂神社を結ぶライン上にあるのは、妃の膳部菩岐々美郎女が合葬されていることも、理由の一つになってくる。

(太子町にある聖徳太子の御陵。太子の妃の膳部菩岐々美郎女と、太子の母、穴穂部間人が合葬されている)

 そして、この東西のラインを美具久留御魂神社から13kmほど西に伸ばすと、和泉黄金塚古墳があるのだが、この周辺が、古代、大物主の祟りを鎮めた大田根根子と関わりの深い須恵器製造場所だった。

 この和泉黄金塚古墳もまた、神秘に彩られた古墳である。築造は4世紀末から5世紀前半とされているが、被葬者は3名、真ん中が女性で、両隣が男性である。さらに、多くの副葬品が出土したが、2世紀末〜3世紀中頃という古い時期の青銅鏡が6面も出土し、その一つに、景初三年(239年)という、卑弥呼が魏の皇帝から銅鏡百枚を賜った年が刻まれている。

 古墳の被葬者のうち真ん中が女性というのは、時代は異なるが、この女性が卑弥呼のような宗教的リーダーであったことを示している。

 実は、2012年、奈良盆地の西の端、二上山から東北4kmの上牧町の丘陵で、三世紀後半の古墳が見つかり、銅鏡が出土したのだが、これが、和泉黄金塚古墳から出土した景初三年(239年)と同型だった。

 この上牧久渡古墳群は、古墳時代初期から終末期まで一つの丘陵に6基の各時代の墳墓が有る珍しい古墳群で、さらに、弥生時代の祭祀道具である銅鐸が出土した所でもある。

 つまり、上牧久渡古墳群は、弥生時代から祭祀と関わる場所であり、それが古墳時代後期まで続いていた。そして、この場所で最も古い古墳から出土した銅鏡が、三輪山、太子町を結ぶラインの一番西に位置する和泉黄金塚古墳の、宗教的指導者と思われる女性の被葬者の副葬品になっている。それが、景初三年(239年)という卑弥呼と関わりの深い年号なのは、偶然ではなく、極めて計画的に深い意味がこめられている。つまり、大物主の祟りを鎮めるという象徴的な儀礼のために、過去との調和もはかられているのだ。

(東から、三輪山の麓の大神神社二上山、太子町の聖徳太子の陵墓、美具久留御魂神社、和泉黄金塚古墳)

 当時の政治の中心は奈良盆地にあったが、その場所に立てば、太陽は双耳峰の二上山の向こうへと沈んでいく。そこは死後の世界である。聖徳太子の御陵をはじめ大王の墓が集中している太子町は、まさにその場所にある。

 天津神は、大国主に対して、力のある者が全てを所有物と見なすウシハクの国ではなく、他の者と共有化し、役割を定めて治めるシラスにしようと、国譲りを迫る。その提案を受け入れた大国主は、幽冥界の主となり、人の世が不穏になると、祟りという警鐘を鳴らした。

 大国主は、天津神によって侵略されて排除されたわけではなく、役割が変わっただけであり、その声を尊重して、様々な方法で祭祀が行われた。

 大国主(大物主)の祟りにおける祭祀とは、人間が、自らの驕りを省みる機会である。人と人とのあいだだけでなく、人と神とのあいだも、それが幽冥界の主であれ、和を以て貴しとするのが、いにしえの日本人の目指すところだった。

 

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