第1076回 日本の古層(22)  元伊勢と鬼伝説の大江山(1)

 京丹後の鬼伝説で知られる大江山の傍に鎮座する皇大神社は、元伊勢伝承地の一つである。

 元伊勢というのは、第10代崇神天皇の時、それまで宮中に祀られていたアマテラス大神を怖れた天皇の命で、この神の適切な鎮座地を求めて各地を転々としたことである。

 アマテラス大神は、皇祖神ということになっているが、崇神天皇がアマテラス大神を恐れたということは、この神が、自分の祖神でなかったということではないか。おそらく、アマテラス大神は、崇神天皇側との戦いに敗れた人たちの神様だった。古代の氏族間の戦いは、それぞれが祀る神と神の戦いでもあり、戦いに敗れた側は、自分たちが大切にしていた神器を勝利者に差し出した。そして勝利者は、敗者が祀ってきた神を祀るということが行われた。祟りを怖れたからである。

 崇神天皇の皇女である豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)とともにヤマトの地を出たアマテラス大神は、その後、第11代垂仁天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)に引き継がれて各地を巡り、最終的に伊勢に落ち着くが、それまでの間に訪れた一時遷座地が、各地で元伊勢として語り継がれている。

 アマテラス大神に相応しい場所を探して各地を巡っているわけだから、もともとアマテラス大神を祀っていた人たちの拠点を転々とした可能性が高い。

 元伊勢伝承地は、丹後(丹波)、吉備、紀伊、近江、愛知、岐阜、三重に残されており、いずれも海や湖の近くや、内陸部では木津川や野洲川木曽川など河川流域で、海人が活躍していたところであり、とくに、伊勢湾、愛知、美濃、近江などは、壬申の乱天武天皇が戦いを有利に進めたところで、安曇氏の拠点である。

 *天武天皇の養育係であった丹後の凡海(おおあま)氏は、安曇氏である。  

 いずれにしろ、京丹後の鬼伝説で知られる大江山の傍の皇大神社も、そうした元伊勢伝承地の1つである。

 元伊勢伝承地は無数にあるが、この大江山皇大神社は、それ以外の伝承地に比べて、三重県伊勢神宮と共通するところが非常に多い。

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皇大神社の傍を流れる五十鈴川に鎮座する天岩戸神社

 たとえば、伊勢神宮の内宮の北4kmのところに豊受大神を祀る外宮があるが、大江山皇大神社も、南3kmのところに豊受大神社がある。

 そして、皇大神社のすぐ傍を流れる川が、伊勢神宮の内宮と同じ五十鈴川である。

 外宮に該当する豊受大神社が平坦地に鎮座し、内宮に該当する皇大神社が、樹々が生い茂る森の中に鎮座する構造も同じである。

 また、皇大神社の両脇に鎮座する摂社が、左に栲機千々姫社、右が 天手力雄命社であるが、これらは三重の伊勢神宮の内宮の御正殿において天照大御神とともに祀られている神々であり、その左右の配置も同じである。

 大江山皇大神社の傍を流れる五十鈴川沿いに、天岩戸神社が鎮座しているが、そこに向かう途中に、美しいピラミッド型の神奈備日室ケ岳を望む遥拝所がある。

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 日室ケ岳は、天照大神が神霊降臨された山として今でも神聖視されている。

 この遥拝所に立つと、夏至の日、日室ケ岳の山頂に太陽が沈む。日室ケ岳は、今でも禁足地であり、かつて登ったことのある人の話では、山頂には三角形をした「磐座」と、その周りに環状列石があるそうだ。

 日室ケ岳の山頂から真西に1.5kmのところ、大江山の森の中に鬼獄稲荷神社が鎮座する。また、皇大神社の南10kmほどのところにも鬼ヶ城がある。

 皇大神社周辺は、古代から鬼退治伝説として知られるところだ。

 大江山は鉄資源など鉱物の豊かなところで、鬼というのは鉱山関係者のことではないかと指摘する研究者は多い。大江山以外の場所、たとえば吉備の鬼退治の物語も含め、鬼伝説のあるところは、確かに鉱物資源と関係が深い土地が多い。

 そして、鬼伝説は、異なる時代に何度か生まれている。大江山がある京丹後の場合も、第10代崇神天皇の時代の日子座王聖徳太子の時代の麻呂子親王、そして藤原道長の時代の源頼光などが知られている。

 鉄という強力な武器を持つ豪族が、各時代において、中央政府の指示に従わずに激しい抵抗をしていたのだろうか。

 また、丹後の皇大神社の日室ケ岳の遥拝所と、日室ケ岳を結ぶラインの延長上に、久美浜町の須田という土地がある。(このラインを逆方向に伸ばしていくと、三重の伊勢神宮である。)

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大江山の元伊勢、皇大神社の日室ケ岳遥拝所と、日室ケ岳を結ぶラインの延長上に久美浜の須田の豪族、河上摩須良を祀る衆良神社がある。この一帯は王家の谷と呼ばれ、無数の古墳がある。

 そして久美浜の須田には、王家の谷と呼ばれる伯耆谷があり、これに沿って弥生式後期の遺跡があり、伯耆谷一帯には、無数の古墳が存在する。

 そして、この須田に、河上摩須良という豪族がいて、その娘と日子座王の息子、丹波道主王が結ばれ、日葉酢媛を産んだと、古事記に記されている。

 日葉酢媛というのは、第11代垂仁天皇の皇后であり、第12代景行天皇の母親、ヤマトタケルの祖母である。さらに、天照大神に最適な地を求めて各地を巡幸した倭姫命の母親である。

 日葉酢媛は、第15代応神天皇が現れるまでの大和王朝にとって、重要な役割を果たす人物なのである。

 また、丹波道主命と河上摩須良の娘とのあいだに生まれた娘たちは、日葉酢媛以外も垂仁天皇の妃となった。

 久美浜の須田の地には、河上摩須良を祭神とする衆良神社と、そのすぐ近くに河上摩須良が崇敬したとされる三嶋田神社がある。三嶋田神社の祭神は、現在は、大山祇命であるが、かつては、上津綿津見命表筒男命、すなわち綿津見と住吉という海関係の神も祀られていた。

 この地は、金谷と称し、かつては鉱山の関係者、即ち金屋集団が住んでいたとも言われ、南北朝時代には足利尊氏の庇護も受け、隆盛を極めた時代もあった。

 河上摩須良という人物がなにものであるか記紀とも明らかにしていないが、古事記』において、「綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されている安曇氏の可能性が高い。

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丹波道主命を祀る久美浜の神谷神社。丹波道主命が身につけていたという宝剣【国見の剣】を祀っているため【太刀宮】と呼ばれる。この地には巨大な盤座があり、太陽や星の位置との関わりが指摘されている。この岩の裂け目は真北を指し、夏至の日、かぶと山から昇る朝日が、この磐座の中心を照らす。古代太陽祭祀の跡と考えられている。

 谷川健一は、『青銅の神の足跡』の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習をもち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」と記述し、香住や久美浜など、日本海岸の地名にミがつく土地が多いことも、それと関係があると指摘している。

 『古事記』の中では、丹波道主命の父、日子座王が土蜘蛛の玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を征伐するために丹後に派遣されたと記述されている。

 しかし、『日本書紀』の中では、丹波道主命が、四道将軍の一人として丹波に派遣されたと記述され、土蜘蛛退治などの派遣の理由は記載されていない。

 そして、その『日本書紀』の中で、丹波道主命の娘の日葉酢媛のことは記載されているが、妻の具体的な記載はない。それに対して、『古事記』の中で、丹波道主命の妻は、河上摩須良の娘と書かれている。

 いずれにしろ、日子座王もしくは丹波道主命が丹後・丹波の地に派遣されたのは第10代崇神天皇の時である。上にも述べたように、崇神天皇は、天照大神の祟りを怖れた。そして、この大神に相応しい場所を求めた巡幸があり、最終的に伊勢に至った。

 その伊勢と、丹後の元伊勢の皇大神社を結ぶラインの延長上に久美浜の須田の地があり、丹波道主命がその地の豪族の河上摩須良の娘を娶り、日葉酢媛が生まれ、第11代垂仁天皇の妃となるのは偶然だろうか。古代史において極めて重要なことが、このラインに隠されている。  (つづく)

 

ピンホールカメラで撮った日本の聖域→https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world

 

                                

第1075回 日本の古層(21)  古代日本の先進地域、京丹後(2)。

(1)の続き 

 古代、現在の丹後、但馬、丹波はタニハと呼ばれ、丹後国丹波国が分れたのは713年である。

 タニハにおける古墳の建造時期を見ると、古墳前期には現在の京丹後が中心であり、4世紀中旬から巨大化している。日本海で3番目に大きな蛭子山古墳(全長14⒌m)が4世紀中旬、最大の網野銚子山古墳(全長207m)と2番目に大きな神明山古墳(全長190m)が、4世紀末から5世紀初頭の建造であり、5世紀中頃以降は古墳建造の中心地が丹後地方から篠山や亀岡など丹波地方に移っている。

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作山古墳。蛭子山古墳に隣接。同時代の4世紀中旬の建造。

 すなわち、タニハにおいては、4世紀中旬と5世紀中旬に変化が見られる。

 4世紀中旬にこの地に起こったこととして、古事記の中に第10代崇神天皇の時の話がある。

 そこには、日子坐王(ひこいますのみこ)=崇神天皇の弟が、旦波国に遣はされて、「玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめたまひき」とある。

 日子座王(ひこいますのみこ)は、紀元300年から320年生まれの人と推定され、もしそうだとすると、この鬼退治の後、京丹後の古墳が巨大化していくことになる。

 これについて、「丹後風土記残欠」では、もう少し詳しく、「青葉山中にすむ陸耳御笠(くがみみのみかさ)が、日子坐王の軍勢と由良川筋ではげしく戦い、最後、与謝の大山(現在の大江山)へ逃げこんだ」と記されている。

 大江山は、金属鉱脈が豊富で、周辺には金屋など金属にまつわる地名が多く見られる。

 玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)は、土蜘蛛とされているが、名前に御という尊称があり、現地にて崇敬されていた存在である可能性がある。さらに、谷川健一は、「神と青銅の間」の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習をもち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」と述べている。

 この鬼退治については、以前日本の古層(8)で書いた。

 https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2019/04/24/212931

 日本海で2番目に大きな神明山古墳の麓に竹野神社があるが、祭神として日子坐王を祀っている。

 そして、タニハにおける第2の変化である5世紀中旬というのは、讃・珍・済・興・武という5世紀初頭から末葉まで中国南朝の宋に朝貢していた倭の五王の時代である。

 豊受大神を丹後から伊勢に遷した第21代雄略天皇は、倭の五王の武だとされているが、その頃から、タニハの中心は、丹後ではなくなり、篠山や亀岡に移る。

 さらに、丹後の鬼退治の伝承は、6世紀後半から7世紀初頭の聖徳太子の時代にもあった。

 河守荘三上ヶ嶽(大江山の古名)に英胡・軽足・土熊に率いられた悪鬼が、人々を苦しめたので、勅命をうけた麻呂子親王が、神仏の加護をうけ悪鬼を討ち、世は平穏にもどったというもの。

 麻呂子親王というのは第31代用明天皇(在位585−587)の第三皇子で、聖徳太子の異母弟にあたり、当麻皇子とも呼ばれる。

 最初の鬼退治の日子坐王との関係では、日子座生の皇子の一人が當麻の勾君(たぎまのまがりのぎみ)の祖とされているので、麻呂子親王の別名、當麻王との繋がりが確認できる。

 神明山古墳のすぐ近くに、高さ20メートルにも及ぶ日本でも最大級の一枚岩の柱状玄武岩がある。立岩と呼ばれるこの岩は、伝説によれば、麻呂子親王によって退治された鬼が、封じ込められた場所とされる。

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間人(たいざ)の立岩。この岩のそばに、日本海を見つめる母子像が設置されている。聖徳太子の母親、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)と、聖徳太子だ。

 この場所は、間人(たいざ)と呼ばれ、物部氏蘇我氏が争っている時、聖徳太子の母親、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が、この地に身を寄せていたとされる。そして宮に戻る時、自分の名前、”間人”をこの地に贈った。しかし、そのままその名前を呼ぶのは畏れ多いからと、地元の人は、間人と書いて、”たいざ”と呼ぶ。

 このように神明山古墳のそばに、聖徳太子の母親と、聖徳太子の弟による鬼退治の伝承が残っている。

 この鬼退治は、いったい何を物語っているのだろうか。

 4世紀中旬の日子座王の時のように、もともとこの地にいた人々が討伐されたのだろうか。

 麻呂子親王の鬼退治の物語は、実は、朝鮮半島の混乱の時期と重なっている。

 5世紀末から6世紀の初頭にかけて高句麗との戦いで百済が深刻な状況に陥り、多くの技術をもった渡来人が来日する。

 さらに、6世紀の後半には、ヤマト政権と高句麗との交流が始まり(570)、高句麗を通じた文化流入が起こった。

 そして、聖徳太子と同母弟の来目皇子(くめおうじ)が、当時、朝鮮半島で力をつけていた新羅征討(西暦602年~603年)を命じられたが、病気で亡くなり、麻呂子親王が後を継ぐ。しかし、播磨国明石で妻が亡くなり、彼女を明石に葬った後引き返したという奇妙なエピソードがある。

 当時の日本は蘇我氏を中心に新たな国家体制を作ろうとしたため、国家統治の技術として、渡来人の最新の知識や技術を必要とし、積極的に渡来人を受け入れていた。

 麻呂子親王の鬼退治は、そうした変化に抵抗する勢力の討伐であったのか、それとも、動乱の朝鮮半島から日本に逃れてきて、現地の住民とのあいだで何かしらの揉め事を起こしていた人々なのか。

 京丹後の地は、古代から日本にやってくる渡来人の上陸地であった。

 古代の船はエンジンがないので、風や潮流の影響を受ける。そのため、小さな島がひしめき、潮の方向が読めないうえに海賊に襲われやすい瀬戸内海の航海は、簡単ではなかった。

 それに対して日本海は、西から東へと対馬海流が流れている。そのため、朝鮮半島の南端の百済あたりから船に乗ると、北九州に上陸しやすいが、朝鮮半島の中ほどから船に乗ると、潮流に乗って、京丹後から若狭湾にかけて上陸する。そして、朝鮮半島のさらに北の高句麗あたりからだと、新潟や秋田県にかけて上陸するのだそうだ。

 そして京丹後には由良川という大きな河川が流れており、その上流部は、兵庫県の氷上あたりだが、そこは日本で一番低い分水嶺で、標高100mほどしかない。そして加古川武庫川を通じて、播磨や摂津へと移動し、奈良や京都にも簡単に達することができる。

 こうした地勢的な条件を踏まえると、大陸や朝鮮半島から九州に渡った渡来人ばかりでなく、直接、京丹後あたりに上陸し、しばらくの間、そこに住み着いたり、ヤマトの地へと移動していった人々がいたことは、十分に想像できる。

 京丹後における鬼退治の話は、藤原摂関家が栄華を極めていた10世紀にも生まれている。その当時、京の都から人々が次々とさらわれ、陰陽師安倍晴明によって、これは大江山に棲む酒呑童子のしわざと判明され、多田の地で清和源氏の基礎を築いた源満仲の息子、源頼光が鬼退治を行った。源頼光は、藤原道長の側近としても活躍した人物であるが、渡辺綱など四天王と呼ばれる屈強な武士を連れて討伐に向かう。

 この場合の鬼とは何か?という疑問に対して、大江山の産鉄民であり、朝廷が管理下に置きたいがゆえに、鬼退治の物語が作られたという説がある。

 頼光の父である源満仲は、京都での暮らしの嫌気がさし、住吉神の神託を受けて摂津の多田の地を拠点にすることになったが、多田は有数の銀銅山であり、源頼朝足利尊氏など後に武士として活躍する清和源氏の発展と鉱山の関わりは深い。

 聖徳太子の時代の麻呂子親王による京丹後の鬼退治もまた、大江山の鉄との関係が考えられる。

 麻呂子親王当麻皇子は、奈良県葛城の二上山の麓に鎮座する当麻寺を開基したとも伝わるが、この当麻の地は、大和鍛治で知られ、平安時代後期以降、大和の国に栄えた刀工集団、千手院、当麻、尻懸、保昌、手掻の大和五派の一つである。

 もともと葛城の地は、鉄と関わりが深く、この地を支配していた葛城襲津彦(4世紀末から5世紀初頭=娘の磐之媛命(いわのひめのみこと)が仁徳天皇の皇妃となり、その子供、履中天皇(第16代)・反正天皇(第17代)・允恭天皇(第18代)の外祖父となる)が、新羅を攻略した際に捕虜として鍛治関連技術を持つ人々を連れ帰り、自分の支配地に住まわせて働かせた。彼らを忍海漢人(おしみのあやひと)という。 

 そして、葛城山麓の平野部には、南郷遺跡群や脇田遺跡など数多くの鉄器を生産した鍛冶工房の遺跡群が近年明らかになっている。この地の群集墳から、副葬品として鍛冶道具や鉄滓などが見つかっており、中でも、寺口忍海古墳群は、鍛冶道具一式をもった古墳もある。

 また、聖徳太子の同母弟、来目皇子による第二次新羅征討計画(西暦602年~603年)において、推古天皇は忍海漢人肥前国三根郡に派遣し、新羅征討の為の兵器を作る指揮を取らせたという記録がある。

 武器のための鉄資源を求めて、聖徳太子の異母弟、麻呂子親王による丹後の鬼退治が行われたのかもしれない。

 ピンホールカメラで撮った丹波、丹後の聖域→https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world/kyoto 

第1074回 日本の古層(20)  古代日本の先進地域、京丹後(1)。

 京丹後が、古代、日本の最先端地域であったことは考古学的に証明されている。

 今から2300年前くらい前、京丹後の峰山の扇谷遺跡、その後、弥栄の奈具岡遺跡において、玉、鉄、ガラスなどの精密な製品が製造されており、当時、このあたりが日本のハイテク地域だったことがわかっている。そして、古墳時代に入ると、4世紀中頃から巨大古墳が建造されており、網野銚子山古墳(全長207m)・神明山古墳(全長190m)・蛭子山古墳(全長14⒌m)と、日本海で1番から3番目に巨大な古墳が、この地域に集中している。

 そして、日本全体の問題とも深く関わることとして、豊受大神のことがある。

 伊勢神宮は、現在の日本でもっとも神聖なところと位置付けられるが、その内宮にはアマテラスが祀られていて、この神がどういうものか、とりあえず誰でも知っている。しかし、外宮に祀られている豊受大神のことは、よくわからない。とりあえず、アマテラスの食事係ということになっているが、そうすると、内宮がメインで、外宮がサブというイメージになる。

 しかし、そうした位置付けに反発して、もともとは伊勢神宮全体の神主だったのに、内宮が中臣氏系の荒木田氏が神主となった後は外宮の神主に限定された度会氏は、伊勢神道なるものを創造し、豊受大神はアマテラスが生まれる以前に存在した宇宙創造神で、天御中主と同じだという主張を展開した。

 京丹後は、この豊受大神のルーツである。伊勢に移る前は、京丹後のどこにいたのか?

 第21代雄略天皇の夢枕に現れたアマテラス大神が、「丹波国の比治の真名井に座すトヨウケ神」を、自分の食事を司る御饌都神(みつけかみ)として呼び寄せるように告げ、伊勢に移られたと記録が残っており、いくつかの地が候補地になっているが、代表的なのが、天橋立の近くの籠神社の奥宮、真名井神社と、峰山の比沼麻奈為神社(ひぬままないじんじゃ)である。しかし、この二つの聖所の位置付け、バックグラウンド、場が持っている雰囲気は、まるで違っている。

 具体的には、籠神社の側は、アマテラスも豊受大神も、伊勢より、こちらが本家本元だという強い自負が感じられ、比沼麻奈為神社の方は、豊受大神は伊勢に移られたので、分霊をひっそりと祀っているという立場で、慎ましくて控えめだ。

 籠神社の奥宮、真名井神社は、籠神社の祭神である天彦火明命(アメノホアカリ)が、始原の神として豊受大神を祀っていたことが起源とされ、はるか2500年も前から、神社境内の磐座で神祀りが行われていたとされる。

 アマテラス大神に関しては、第10代崇神天皇の時代まではヤマトの宮内に祀られていたが、その状態を畏れた天皇、皇女豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメ)にアマテラスの神霊を託して理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命がこれを引き継ぎ、伊勢の地に遷座したとされる。(現在の伊勢の内宮に遷座したのは第40代天武天皇で、その前は、同じ伊勢の度会郡の滝原宮に祀られていたという説もある。)

 アマテラス大神が伊勢に落ち着くまでに辿った各場所の伝承地が元伊勢とされる。

 籠神社も元伊勢の候補地であり、もともと豊受大神を祀っていたが、第11代垂仁天皇の時、アマテラス大神も祀られたが、その後すぐこの地を離れた。

  さらに第21代雄略天皇の時、天皇の夢枕に現れたアマテラス大神のお告げで、豊受大神が、ここから伊勢の外宮に移られたということになっている。

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籠神社の奥宮、真名井神社。ここから先は、撮影禁止。

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籠神社の前の海から見る天橋立

 それに対して比沼麻奈為神社は、羽衣伝説にもとずく聖所であり、天女が豊受大神なのである。

 比沼麻奈為神社は久次岳(ひさつぎだけ、標高541m)の東麓に鎮座している。 太古、豊受大神が、種々の農業技術をはじめた尊い土地であるゆえ、久次比(竒霊(クシビ)の里と呼ばれていた。その山頂近くに、古代、豊受大神が鎮座したと言われる「大神社(オオガミノモリ)」があり、巨岩がいくつも存在する。

 文章で残された日本最古の羽衣伝説は、「丹後風土記」の記事であり、それによれば、比治の里の比治山の頂きに、池があって、その名を真名井と言い、そこに天女が8人降りて水浴びをした。比治というのは、比沼麻奈為(ひぬままない)神社が鎮座する周辺の地である。そして、天女たちの様子を見ていた老夫婦が一人の天女の羽衣を隠してしまったため、 その天女は天に還ることができなくなってしまい、やむなく老夫婦の養女として10年ほど暮らすことになった。 

 天女は稲作・養蚕・酒造の技術を伝えたが、それによって裕福になった老夫婦は、ある日「おまえは自分たちの子ではない」と天女を追い出してしまった。悲しみに暮れた天女は、彷徨った末に船木(現京丹後市弥栄町船木)の里に至り、「わが心なぐしく(慰め)なりぬ」と、そこに安住の居を構えたという。

 これにちなんでこの地を奈具と呼ぶようになった。そして村びとたちによって天女は豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)として奈具神社に祀られた。

 この奈具神社のすぐそばに、弥生時代のハイテク都市、奈具岡遺跡がある。

 この遺跡は、紀元前200年頃から栄え、紀元前1世紀頃の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっている。玉造の道具としてノミのような鉄製品も作られていたようで、出土した鉄屑だけでも数kgにもなり、この時期の遺跡としては日本でもっとも多い。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土している。

 丹後風土記の羽衣伝説に基づけば、天女8人が降臨した比治山のそばの比沼麻奈爲神社が、豊受大神の最初の降臨地域ということになり、米・麦・豆等の五穀を作り、蚕を飼って、衣食の糧とする技を始めた豊受大神を主神として、古代より祀っている。 

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比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)

 この物語においては、古代のハイテク都市、京丹後弥栄町奈具岡は、天女の神話と関係している。羽衣伝説は、他の地からやってきた人々が、新しい技術文化をもたらしたという歴史的な出来事が、説話化された可能性がある。

 また、比沼麻奈為神社と奈具岡遺跡のあいだ、京丹後の峰山に大田南5号古墳という方墳があるが、その棺内に鏡と鉄刀1本が収められていた。

 鏡は方格規矩四神鏡で、「青龍三年」(魏の年号で西暦235年)の銘がある。

 日本で発見された銅鏡は総数で4千枚あるとされるが、その中で、年号が刻まれたもの紀年銘は14枚しかない。さらに、「魏志倭人伝」で、239年、魏の皇帝が卑弥呼銅鏡百枚を下賜したとする記述があるが、239年より以前の銅鏡は6枚しかなく、238年が1枚(山梨)、239年が2枚(大阪の和泉と出雲の加茂岩倉遺跡の近く)、もっとも古い235年が3枚で、そのうち1枚は出土地不明、残り2枚は、高槻の巨大弥生都市の安満遺跡にある安満宮山古墳と、京丹後の峰山である。

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敦賀気比神宮は、渡来人の天日槍と関係が深く、第15代応神天皇と名前の交換を行ったイザサワケ神を祀っており、各地の重要な聖域を結ぶ要にあるが、その真西にあたるのが、京丹後峰山で235年の鏡が出た大田南5号墳である(北緯35.65)。そして、鬼退治の舞台となった福知山の大江山の8号目に関西随一の雲海で知られている鬼嶽稲荷神社がある。この真北が日本海で2番目に大きな神明山古墳で、麻呂子親王に鬼が閉じ込められた立岩のすぐ近くである(東経135.11)。また、羽衣伝説の舞台で豊受大神が伊勢に移る前に鎮座していたとされる比沼麻奈為神社は、日本海でもっとも大きい網野銚子山古墳の真南(135.029)である。

 京丹後に残る渡来人伝説としては、徐福伝説もある。

 秦の始皇帝の時代(BC246−BC221)、呪術、医術、占星術天文学に通じた徐福は、始皇帝に不老不死の仙薬の入手を命ぜられ、紀元前219年、童男童女三千人、五穀の種子や絹を船に乗せ、各種技術者とともに、 大船団を率いて中国を出航した。徐福は何日もの航海の末辿り着いた先で『平原広沢』という地を得て、中国には戻らなかったとされており、その『平原広沢』が日本で、先進技術を伝えたと言われ、その伝承地は、青森県から鹿児島県まで20箇所以上あるが、その一つが京丹後である。

 京丹後における豊受大神の歴史的な位置付けが、古代、この地にやってきて新しい技術文化を伝えた人たちであるとすれば、籠神社の祭神である天彦火明命(アメノホアカリ)が籠神社の奥宮の真名井神社始原の神として豊受大神を祀っていたとされるので、豊受大神は、彦火明命(アメノホアカリ)より古いということになる。

 天彦火明命は、尾張氏や海部氏などの祖神であるが、物部氏の祖神である饒速日尊(ニギハヤヒ)と同じともされる。

 饒速日尊というのは、天孫降臨ニニギよりも早く天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)に天降った天神の一神であるが、神武天皇の東征の際、最後まで抵抗したナガスネヒコを殺害して、神武天皇に帰順することを選択した。つまり、彦火明命(アメノホアカリ)は、ニニギや神武天皇よりも古くやってきた存在である。

 この流れをみると、外の世界からやってきた人たちは、豊受大神、天彦火明命、神武天皇という三段階の順番になるのだ。

 神武天皇の即位は、日本書紀』に基づく明治時代の計算によると西暦紀元前660年2月11日ということになるらしいが、これは辛酉革命に基づくものである。辛酉革命というのは、1260年に一度の辛酉(かののとり)の年には大革命があるというもので、推古天皇9年(601年)がその年に当たり、この年の1260年前である西暦紀元前660年に神武天皇が即位したとされた。

 しかし、豊受大神と羽衣伝説の関係、そして羽衣伝説と弥生時代のハイテク都市、奈具岡遺跡との関係をつなげると、豊受大神がやってきたのは、徐福伝説と同じ頃の紀元前200年前後となる。

 その後に天彦火明命(ニギハヤヒ)で象徴される人々がやってきて、その後が神武天皇ということになると、実在したかどうかはともかく、神武天皇が象徴する時代は、紀元前660年というのはありえず、おそらく紀元後となる。

 それぞれの時代は、タニハ(丹波、丹後、但馬)や近畿の地に大きな変化が起きた時期と重ねて考える必要がある。(つづく) 

  ピンホールカメラで撮った丹波、丹後の聖域→https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world/kyoto

                                  

第1073回 日本の古層(19)  東国に秘められた謎

 古代の聖地を実際に訪れると、いつも驚くべき発見をすることになる。

 数日前、栃木足利市の名草厳島神社という巨石群を訪れた。その動機は、聖蹟桜ヶ丘にある武蔵国一宮、小野神社の、まったく同経度の真北にあること。そして、名草および厳島という名が気になったこと。さらに、社殿が巨大な岩の上にあり、周辺に巨大な奇岩が多く、おそらく縄文古代からの聖域だったろうと想像したからだった。

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空海が勧請したと伝承が残る名草厳島神社

 

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名草厳島神社 高さ11メートル、周囲30メートルある御供石。

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名草厳島神社 奥の院


 名草という地名は、和歌山の紀ノ川の下流域のことがよく知られており、古代史において極めて重要な神社である日前・国懸神宮のあるところだ。古事記において、日向からやってきた神武天皇がヤマト入りをしようとしたところ、紀ノ川下流を拠点にしていた名草戸畔(戸畔というのは女性の首長)が激しい抵抗を示した。

 また、名草彦命というのは、空海高野山神領として提供した丹生都比売神社の祭神、丹生都比売命の御子神。それは、高野山4明神のうち狩場明神と同じともされる。

 足利の名草厳島神社は、空海が勧請したとされるが、たしかに空海が開山した高野山の4明神、気比、丹生都比売、狩場、厳島のうち、名草(狩場)と厳島の二つが関わっている。

 「狩場」というのは、狩猟のことではなく、鉱山とくに銅山のことをいう言葉であった。

 そうすると、足利に名草(狩場明神)の名があることは、おそらく同じ栃木の足尾銅山と関係あるからとなる。足尾銅山は、名草厳島神社の真北の同経度にある。銅山の前に、渡良瀬川が流れており、この川は、足利市を通過して利根川に合流し、太平洋につながる。和歌山の紀ノ川流域の古代鉱山開発者が、黒潮に乗り、茨城の霞ヶ浦あたりに上陸し、利根川を遡って、足利までやってきたのだろうか。それとも、岐阜、諏訪を経て、東山道を通ってやってきたのだろうか。

 それとも、朝鮮半島の北部から船を出して対馬海流に乗ると、新潟から秋田にかけて上陸する(新羅からだと福井、百済からだと北九州に上陸しやすい)ので、日本海側から大陸の鉱山技術を持つ渡来人がやってきたのだろうか。

 いずれにしろ、古代から何か怪しいものがある足利の地に、中世、清和源氏が拠点を築き、後に足利氏の室町幕府へとつながった。

 足利市には1600もの古墳がある。その中でとくに古い時代のものは、名草厳島神社の同経度の真南にある藤本観音山古墳で、4世紀末に作られた巨大な前方後方墳だ。

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藤本観音山古墳

 前方後方墳としては、全国で5番目の大きさ(全長118m)。その西に4kmのところ(真西のラインからは1kmだけ南にずれている)にあるのが東日本最大の太田天神山古墳(5世紀中旬建造 全長210m))。こちらは群馬県太田市になるが、足利市太田市は、栃木と群馬の県境である。

 足利や群馬あたりの古墳で大きなものは、初期(紀元4世紀末くらいまで)が、前方後方墳で、5世紀からは前方後円墳になる。

 この事実は、とても興味深い。というのは、近畿においては、かなり古い段階、紀元3世紀中旬以降、前方後方墳としては向日山の元稲荷古墳などたくさんあるが、同じ頃から大型の前方後円墳もあり、両者は、同じ時期に近いところに共存している。そして、前方後円墳が超巨大化するのが、5世紀からだ。

 つまり、前方後方墳は、近畿も群馬や栃木も、わりと早い段階から普及しているのだけれど、前方後円墳は近畿の方が早く、群馬、栃木あたりは遅れて普及している。

 とすると、大和政権に特徴的なものが前方後円墳だとすると、大和政権が群馬や栃木まで勢力を広げたのは5世紀で、それ以前は、西も東も、前方後方墳を作る人たちが全国に広がっていたということになりそうだ。(もう少し丁寧に調べなければならないが。)

 足利で古い時代に作られた前方後方墳の藤本観音山古墳は、渡良瀬川利根川のあいだの平原地帯にあるが、その南に、水田開発に重要な役割を果たしたであろう水路の遺構が見つかっている。このあたりの平原は、藤本観音山古墳が作られた4世紀、広大な稲作地帯だったのだろう。

 それから50年ほど経った5世紀中旬、この古墳のすぐそば、西4kmのところに東日本最大の前方後円墳が作られた。

 5世紀というのは、第15代応神天皇以降であり、秦氏をはじめとする大陸からの帰化人がたくさんやってきたことが記録には残されている。

 中国においては、三国志の時代の後の五胡十六国の激しい戦乱の時代だった。442年に北魏華北を統一するまで中国国内の混乱は続いていたので、その期間、日本に逃げてきた人が大勢いたことは想像できる。

 その時点から日本の古墳が超巨大化しているのだが、そのことと何かしらの関係があるのかもしれない。

 5世紀、栃木の足利周辺に動きがあった。足利だけではなく、その西の群馬でも。

 足利の藤本観音山古墳に立つと、はるか西の方に特徴的な山並みが見えた。調べてみると、群馬の妙義山だった。妙義山の麓の妙義神社が、藤本観音山古墳の真西で同緯度だった(北緯36.30度)。

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妙義山 石門

 さらに興味深いのが、この東西のライン(36.30)が、群馬の高崎市も通っていた。

 高崎の古墳数は日本屈指で、2741基もある。群馬県全体で、古墳は12000基、埴輪も全国一の質量を誇る。古墳からの出土品としては、金銅製品、馬や鉄関連のものがたくさんある。

 その高崎市にある浅間山古墳が、足利の藤本観音山古墳と妙義山の東西ライン上に位置している。

 浅間山古墳は、172mもある東日本で3番目の大きな古墳で、4世紀末から5世紀初頭の建造だから、このあたりに進出した前方後円墳ではもっとも早い段階の巨大古墳である。

 さらに興味深いのが、この浅間山古墳の南500mのところに大鶴巻古墳、小鶴巻古墳があり、これらも4世紀末から5世紀初頭の建造だが、それぞれ、浅間山古墳の2/3、1/3サイズの相似形となっている。

 足利でもっとも古い段階の古墳である前方後方墳の藤本観音山古墳から妙義神社を結ぶ東西のラインにそって、東日本で1番と3番の大きさを誇る前方後円墳があることの不思議。これは、偶然だとはとても思えない。

 さらに面白いことに、妙義山の真南に富士山があり、富士山と聖蹟桜ヶ丘の小野神社は、冬至のライン上にあり、(聖蹟桜ヶ丘に立つと、冬至の日、富士山のところに太陽が沈む。古代、冬至復活の日を意味する。)、小野神社の真北が、足利の藤本観音古墳、名草厳島神社、さらに足尾銅山なのだ。

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上のライン、西から群馬の妙義山妙義神社高崎市の東国で3番目に大きな浅間山古墳、太田市の東国で一番大きな太田天神山古墳、足利市の藤本観音山古墳。縦のラインは、上から足尾銅山、名草厳島神社、藤本観音山古墳、武蔵国一宮の小野神社。小野神社の真西、富士山の真北のポイントは、甲斐一宮の浅間山神社、縄文遺跡の釈迦堂遺跡があるところ。

 古代の謎は、現在の私たちの常識、理性、つまり現代人の人智を超えたものを踏まえていないと、解けない何かがある。

 あまりにも正確な東西および南北、そして冬至のラインにそった聖域が意味するところは、いったい何なのだろう。知れば知るほど、新たな謎が出てくるばかり。

 

ピンホールカメラで撮った、群馬、栃木の聖域→https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world/hida-nagano

第1072回  風土と人間

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 大阪のphoto gallery Saiで、写真家の小池英文さんが、「瀬戸内家族」というテーマで撮り続けたきた写真の展覧会を行っています。
 小池さんの写真は、風の旅人でも何度か紹介させていただきましたが、この写真展を機会に、私と、小池さんに、ギャラリーの主宰の赤阪友昭氏も交えてトークを行うことになりました。
 テーマは、「風土と人間」です。
 風土は、気候、地形、地勢、その環境が育てる世界観、文化、その影響下で生きる人間、その人間の営みの蓄積である歴史など、すべてが有機的につながったトータルなもので、「私たちはどこから来て、どこへ行くのか?」という実存的な問いとも深く関わる永遠のテーマだと思います。
 日時: 12月3日(火)19:00~21:00
 参加費: 1,500円(入場料+ワンドリンク+軽食付き)
 会場:〒553-0002 大阪市福島区鷺洲2-7-19   tel: 06-6452-0479
 申込方法:akasaka.tomoaki@gmail.com まで
  メールのタイトルに「トークイベント「風土と人間」参加希望」と記載の上、① お名前、② 連絡先(メール及び携帯電話番号)をお送りください。
 なお、写真展詳細、並びに会場アクセスについては、http://photo-sai.com/ ご参照ください。
 これを機に、ギャラリーに展示されている瀬戸内の写真も、じっくりとご堪能いただければ幸いです。
 どうぞよろしくお願いいたします。

 現在の東京を首都とする日本では、瀬戸内海はかなり中心から遠いという印象がありますが、奈良や京都に都があった時代の方がはるかに長いわけで、都への入り口にあたる瀬戸内海は、歴史や文化など、日本という国を形作るうえで大切な場だったと思います。
 瀬戸内海の和んだ空気も、本来の日本人の気性にあったもので、昨今の慌ただしい時の流れの中で蝕まれていくものを、再び取り戻すための何かが、瀬戸内海の風土のなかにあるのではないかと、ふと思ったりします。
 風土は人を育てます。コンクリートジャングルの中で育つものは、そこにあるもので心身を作っていくわけですから、コンクリートのようなものにならざるを得ない。頑丈だけれど、熱いか冷たいかのどちらかで、温もりがない。
 瀬戸内海にいると、見えるのは海だけでなく、山や森も大事な風景。都会で生きていると日本が島国であるということを忘れてしまいますが、島国の中に歴史文化を蓄積し、そのネットワークを広げてきたことがもっとも伝わるのが、瀬戸内海なのかもしれません。

 私は、18歳まで明石の海のそばで育ちました。 

 家の窓から明石海峡が見え、朝の新聞で大型船が通る時間を確認して、海のかなたを眺めていたものでした。 

 当時、日本の造船は世界一で、世界一の大きさを誇るタンカーが明石海峡を通過していくこともありました。

 高校三年生まで、夏休みは、ほぼ毎日のように海で泳いでいました。明石海峡の波は高くないのですが潮の流れは強く、沖合に出ると西か東にかなりの力で運ばれます。なので、前もって、西か東にずれたところから沖に向かいました。波打ち際でバシャバシャするのではなく、沖合に出て、波の上で仰向けになってプカリと浮かんでいることが好きだったのです。

 小学生の頃、私は魚釣りはあまり好きではなく、わかめ採りに夢中になっていました。

 家でのご飯のおかずは魚ばかりで、魚が嫌いだったのです。魚が美味しいと思い始めたのは、高校を卒業し、20歳の時に海外に放浪に出て、2年後、日本に帰ってきてからです。その時初めて、明石の魚がこんなにも美味しいとは!と、感動しました。

 なので、子供の頃、魚を釣って家に持ち帰っても、おかずに出されるのは嫌だし、どうすることもできないので、あまり魚釣はやりませんでした。 

 わかめ採りは、竹の棒の先に針金で熊手のような細工をして、流れているわかめをすくい取るのです。沖合のテトラポットのある場所に、大きなわかめが漂っていることが多く、その上に立って、竹の棒を波間に伸ばしていました。日に照らされて海面がキラキラと輝き、その波間に黒いわかめの影を見つけて、引っ掛けるだけです。放心したように海面を見つめながら何時間もやっていました。

 バケツいっぱいになったわかめを持ち帰ると、母親は喜んで、一緒に物干しなどにわかめを掛けて干しました。乾燥させると保存がきくのです。

 あのわかめ採りのようにぼんやりと海面を見つめながら時間を過ごす感覚は、自分が一番好きな時間のような気がします。

 私は、長年、グラフィック雑誌を作ってきて、多くの写真家と知り合いになり、彼らから私も写真を撮るように勧められていましたが、写真を見ることが仕事でも、自分自身が一眼レフカメラなどでパシャと写真を撮ることが、身体的にピンとこなかったため、あまり真剣に写真を撮ってきませんでした。

 海外や日本の聖域は、若い頃からずっと訪ねてきましたが、技術の問題などあるかもしれないけれど、自分がカメラで撮影した写真を見ても、その現場にいた感覚が写っていない。リアリティがないという気持ちでした。しかし、3年ほど前、ピンホールカメラで写真を撮ることを始めて、自分の生理感覚にあっているという気がしています。

 樹木や岩や古墳や廃墟などの前に、レンズもシャッターもないピンホールカメラをセットして、数分間、放心したように、ほとんど何も考えず、待つだけです。

 長時間露光によって、0.2mmの小さな穴に光が差し込んで風景がフィルムに焼き付けられるのです。

 それを待っている時の感覚がとても心地よい。周りの気配と一つになる感覚です。もしかしたら、この感覚は、小学生の頃のワカメ採りの時の感覚と似ているかもしれない。最近、ふとそう思いました。

 子供の頃、育った風土の記憶というのは、そのようにして身体の奥深くに刻まれており、無意識のうちに、その後の人生に働きかけてくるものだと思います。

 

ピンホールカメラで撮った日本の聖域→https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world

 

 

 

 

 

第1071回 日本の古層(18) 異なる世界の和合。聖武天皇の謎の遷都と、空海の時代(2)

 さて、前回の記事で、日本で最初の本格的な都市計画に沿って作られた藤原京の位置関係について言及した。

 藤原京の建設は、第40代天武天皇による律令国家の成立と重なっており、その位置も含めて、日本という国を一つにまとめるための象徴的な意味合いを備えていた。

 そして、それほどまでにして建造された巨大な藤原京が捨てられ、710年に奈良の平城京に遷都したものの、天武天皇以降、男性の天皇および天皇候補者として唯一、長生きができた聖武天皇は、740年から5年間にわたって次々と遷都を繰り返した。

 そして、母が百済系渡来人で出自が低かったため皇族としてではなく官僚として生きることが期待されていた桓武天皇が、781年、陰惨な政争を経て即位することとなり、784年に長岡京に遷都。しかし、遷都の責任者であった藤原種継(母親が秦氏)が暗殺され、その首謀者として有力氏族であった大伴氏や佐伯氏とともに桓武天皇と父母が同じ早良親王にも疑いの目が向けられ、早良親王は無実を訴えて絶食し、憤死した。その後、長岡京に不吉なことが重なり、祟りを恐れた桓武天皇は、794年、京都の平安京に遷都することになる。

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長岡京は、古代の代表的な前方後方墳である元稲荷古墳(3世紀後半築造)のある向日山の左右に左京と右京が築かれた。

 こうした流れを見ると、694年に藤原京に遷都(その後の研究により、壬申の乱天武天皇が勝利した4年後、676年に、藤原京の建設が開始されていたと考えられている)から平安京への遷都までの100年は、日本が一つの国にまとまるために、幾つもの困難な障害があったことが伺える。

 そして、平城京恭仁京紫香楽宮難波京長岡京は、新しく開発された場所ではなく、もっと古い時代から重要視されていた場所だった。

 奈良の平城京は、4世紀末から5世紀前半にかけて築かれた佐紀盾列古墳群のすぐ近くで、そこには200メートル超す巨大古墳が4基みられ、初期ヤマト政権の王墓である可能性が高いと考えられている。

 また、恭仁京は、かつては卑弥呼の鏡と騒がれた三角縁神獣鏡が33面出土した椿井大塚山古墳(3世紀末の造営)がある場所である。

 そして紫香楽宮の背後には、近江の大峰山とも言われる修験の山、飯道山がある。戦国期には甲賀忍者の修行の場でもあったこの山は、全山が花崗岩からなり、山の頂きは二峰になっており、第一峰の頂き付近には山岳寺院群が築かれ、第2峰の頂きは、巨岩、奇石が屹立し、古代からの磐座信仰の形跡がある。そして、この山の北から東にかけての山麓には、渡来系の古墳が多数存在している。

 難波京は、第40代天武天皇の時代も、大化の改新後の第36代孝徳天皇の時代も都が置かれていた。

 長岡京は、角のように平地に突き出した向日山を取り囲むように右京と左京に分かれているが、向日山の上には弥生遺跡と、3世紀後半に築造された前方後方墳の元稲荷古墳がある。この古墳から、京都の桂川の西岸まで乙訓古墳群が連なっている。

 

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右の縦線:上から気比神宮、鏡山、紫香楽宮。左の縦線:上から恭仁京、黒塚古墳、天河大辨財天社。下の横線:西から日前神宮高野山、天河大辨財天社。下から二番目の横線:西から仁徳天皇綾、応神天皇綾、黒塚古墳、笠山荒神。その上の横線:西から門戸厄神東光寺、星田妙見宮、恭仁京。一番上の横ライン。長岡京の背後の向日山、紫香楽宮の背後の飯道山。

 さらに、それらの場所は、日本の古代における重要な聖域とも一本の線で結ばれていた。

 たとえば、奈良の北部と大阪湾をつなぐ木津川のほとりに築かれた恭仁京は、上に述べたように3世紀末の歴史を知るうえで重要な鍵を握る椿井大塚山古墳のあった場所だが、この場所の真北(東経135.84)には比叡山延暦寺、真南の天理市では、奈良県では最大規模の弥生後期の高地性遺跡があり、その場所に、和邇氏の拠点と考えられている東大寺山古墳(4世紀後半)が建造されている。

 さらに、日本最大の前方後方墳の西山古墳(4世紀)や、三角神縁神獣鏡が33面も出土した天理市柳本の黒塚古墳(4世紀初頭)、三輪山の麓の卑弥呼の墓と騒がれたこともある巨大古墳の箸墓古墳(3世紀末から4世紀前半)までが同じライン上に位置している。

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箸墓古墳

 恭仁京のポジションは、弥生時代から古墳時代前期(AD4世紀後半くらいまで)というかなり古い時期の需要な聖域が多く並ぶライン上にあるのだ。

 そして、この南北のライン上、吉野の地に、天河大辨財天社(日本三大厳島)がある。

 天河大辨財天社の草創は飛鳥時代役小角によるものだと考えられているが、空海高野山の開山に先立って大峯山で修行し、その最大の行場が天河大辨財天社であった。

 この天河大辨財天社と、高野山奥の院にある空海廟、紀ノ川下流日前神宮、そして空海が生まれ育った讃岐の善通寺が同緯度(34.22)なのである。

 そしてなぜか、天河大辨財天社の真北にある恭仁京の真西の方向に、空海の伝説に彩られた交野の星田妙見宮や、さらにその西の兵庫県西宮に空海が創建した門戸厄神東光寺があり、北緯34.76で同緯度なのだ。

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交野の星田妙見宮

 さらに興味深いのが、恭仁京と同経度の天理の黒塚古墳の真東の笠山荒神は、日本三大荒神の一つで空海高野山を開山する前に祈願を行った場所であるが、この北緯34.56のラインには、応神天皇綾や仁徳天皇綾など、日本を代表する古墳がある。

 そして、応神天皇綾が、高野山空海廟と同経度(135.60)で、南北ライン上にあり、高野山の奥社で日本三大荒神の一つである立里荒神の祭神が、火雷神応神天皇なのだ。なぜか、高野山応神天皇に深い関係性が見られる。

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高野山の奥社 立里荒神

 ちなみに、日本三大荒神のもう一つ清荒神は宝塚にあるが、この場所は、空海が創建した西宮の門戸厄神東光寺の真北(東経135.35)である。

 そして、紫香楽宮においては、その背後に近江の大峰山とも言われる修験の山、飯道山があり、その麓に渡来系の古墳が集中しているが、さらにその真北が、近江の鏡山である。鏡山の麓には渡来系の神で応神天皇の母親の神功皇后の母方の先祖にあたる天日槍を祀る鏡神社が位置している。このあたりは、大量に銅鐸が出土した場所で、その中に日本最大の銅鐸が含まれている。

 また、鏡山の横にそびえる三上山は、近江富士と称され、鍛治の神、天乃御影神が降臨した場所とされる。

 そして鏡神社のすぐ北には、古代鍛治関係の氏族である菅田氏が祀る菅田神社があり、その真北が敦賀気比神宮となる。

古事記」の中で、第15代応神天皇が、竹内宿禰に連れられて気比神宮を訪れ、気比神宮の祭神イザサワケと名前の交換を行ったとされており、気比神宮は、応神天皇や、その母の神功皇后、そして天日槍との関係が指摘されている。

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気比神宮

 このように、気比神宮、鏡山、紫香楽宮と、東経136.07度にも、古代史における重要何かが重なっている。

 そして、紫香楽宮の背後の飯道山と、長岡京の背後の向日山が、東西のライン上なのだ。(北緯34.94)。 

  空海は、もし、厳島神社気比神宮に何かのことがあれば、高野山の私財を投げうってでも、社殿の復興に尽くさねばならない」と遺言した。

 この場合、厳島というのは、空海高野山の開山の前の最大の行場だった吉野の天河大辨財天社だと考えられ、福井の気比神宮は、空海唐に渡る前に訪れ、航海の安全を祈るためが祭壇を設けて7日7夜の祈祷を行った場所である。

 そのように、気比も厳島も、空海個人とも関係が深い場所ということになるが、それぞれの聖域が、上に述べたように古代の重要な聖域と南北や東西のラインで結ばれ、聖武天皇が行った遷都の恭仁京紫香楽宮もまた、そのラインに添っているとなると、そこには何か深い意味が隠されているように思える。

 空海聖武天皇に共通していることが一つある。ともに陰惨なる氏族間の抗争が繰り広げられた時代を生きた人物であり、強く平和を志向していたということだ。聖武天皇は、遷都の途中から仏教に深く傾倒していく。空海は、第52代嵯峨天皇の信頼が厚かったが、嵯峨天皇は大胆な軍縮を行い、その後、日本は、平安の名のとおり、日本史上もっとも長く平和が続く時代となるのである。

 話をまとめると、紫香楽宮の真北の気比神宮および鏡山のラインは、天日槍など渡来系や鍛治関係の氏族、大量の銅鐸、応神天皇(5世紀前半)などと深い関係がある。

 そして、恭仁京の真南の天河大辨財天社厳島)までのラインは、箸墓古墳、黒塚古墳、椿井大塚山古墳など、古墳時代初期(紀元3世紀中旬〜)の代表的な古墳や、和邇氏の拠点であった東大寺山古墳(4世紀後半)など、応神天皇よりも古い時代の聖域と関係の濃いラインである。

 厳島神社宗像三女神は、宗方氏が祀る神だが、宗方氏というのは、胸に入れ墨をしていた海人であり、新撰姓氏録』では、宗像氏も、和邇氏も、吾田片隅命を祖とし、応神天皇よりも早い段階で、大和の地に影響を持っていた氏族である。

 ※『新撰姓氏録』というのは、空海が活躍していた815年、嵯峨天皇の命によって、京および畿内に住む1182氏を、その出自により分類して、その祖先を明らかにし、氏名(うじな)の由来や分岐の様子などを記述したもので、神武天皇以降に天皇家から分かれた皇別氏族神武天皇以前の神別氏族(天神、天孫、地祇)、渡来系の「諸蕃」などに分けられている。

 すなわち、空海の遺言にある気比と厳島というのは、どうやら日本古代の二つの時代において中心的な役割を果たした勢力のことを指しているように思われる。

 その和合こそが、古代日本における平安の重要な鍵であり、後の時代においても、その和合の方法が、象徴的な形で伝えられていったのではないだろうか。

 古事記など日本の神話においては、国譲りのオオクニヌシ三穂津姫天孫降臨のニニギとコノハナサクヤヒメ、そして東征の神武天皇ヒメタタライスズヒメは、後からやってきた者と、それ以前にいた者が、婚姻という形をとって和合するのである。

 すなわち、後代の日本人は、その和合によって生まれたものの子孫ということになる。

 

✳︎ピンホールカメラで撮影した日本の古代の聖域の写真を紹介するホームページを一新しました。 https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world




第1071回 鬼海弘雄 最新写真集 SHANTI persona in india

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https://www.chikumashobo.co.jp/special/persona/shanti/


 スマホで、色調その他色々と調整ができて、手軽に撮影ができる時代、プロとアマチュアの差がほとんどわからなくなった時代。もはや、「いい写真だね」という言葉は、褒め言葉でもなんでもなくて、ただの挨拶言葉。

 そして、たまたまその場にいたことで面白いシーンが撮れたという素人写真を集めればそれなりに楽しめたり、特定の特徴のある人を記録すればユニークなものになるという被写体に寄りかかっただけの映像体験が満ち溢れており、写真そのものに感心しきり、という写真に出会うことは稀になった。

 そうした写真風潮のなかで、鬼海弘雄さんの新写真集「SHANTI」は、写真そのものの力を再認識させてくれる貴重な写真集である。

 そして、この写真集は、真剣に写真表現と向き合い、その表現力の向上を真摯に目ざしている人にとっては、最高のテキストとなるだろう。

 この写真集の主役は、子供達だ。写真を見続けていくと、まずは、子供達の目の輝き、力強さ、美しさに惹きつけられる。同時に、彼らの表情、仕草、振る舞い、姿勢、活動の豊さに、惚れ惚れとする。さらに、その子供達の背景の多様な展開に惹き込まれる。海や山など自然風景、街並み、田園、生活現場、動物たちなど、子供達が生きている環境が、一眼でわかるだけでなく、その光景が、なんとも懐かしく、美しく、神々しく、魅了される。

 一枚の写真の中に、これだけ多彩で豊かな光景と活動と物語をこめられるなんて、本当に素晴らしい。

 しかも、鬼海さんの絶妙なる立ち位置によって、画面の中の様々な出来が、実に見事に連関を成しており、そこに生じるリズムやハーモニーに、うっとりさせられ、唸らされる。

 どの写真も、主役の子供たちの有り様に感心しているだけで終わらず、画面の隅々まで見逃せない。ほんの僅かなスペースにも、驚くべき瞬間、愉快であったり、痛快であったり、惚れ惚れとするものであったり、この世界の奇跡の一瞬が焼き付けられているのだ。とくに広角レンズで遠景を撮った写真。人間の営みの多様極まりない曼荼羅世界というか神話世界が、たった一枚の写真の中に写り込んだ写真が何枚もあり、こういう世界表現は、唯一無二のものだと思う。

 

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 鬼海さんの写真は、その一枚ずつの中に世界の様々なエッセンスがこめられており、そして一切のごまかしがない。デジタルカメラで何枚もシャッターを切っていたら、たまたま子供のいい表情が撮れたとか、絶好のタイミングで面白いものが写っていた、という昨今の写真術の典型とは、かけ離れている。

 それにしても、一瞬のシャッター時間のなかに、よくもこれだけ多彩な物語を、同時に詰め込めるものだと感心する。これは本当にすごいとしか言いようがない。

 こういう写真は、誰にでも簡単に撮れるものではない。観察力や洞察力、先を読む力が必要だし、その瞬間を逃さない瞬発力も必要だ。何よりも、気の遠くなるような忍耐力がなければ不可能だ。

 おそらく鬼海さんは、シャッターを切ることもなく、インドの雑踏や荒野を何日も歩き続けて、シャッターを押すべき瞬間に出会えればいいという覚悟で歩き続けたのだろう。しかも、様々な奇跡が重なり合う瞬間というのは、おそらく一度限りのものなので、何度もシャッターを切って、その中で出来のいいものを選ぶというやり方は通用しない。

 鬼海さんは、リュックを背負って放浪といえるような長いインドへの旅を20回も繰り返して、さまよい歩いた。

 写真は滅多に写らないことを知ってから写真家になったので歩き続けることができたんだよと、鬼海さんは呟く。

 こういう写真は、写真家のなかでも、自分の状態にあぐらをかいて向上心を失っている人は見たくない写真だろうし、そうでない人は、写真のインフレ状態のなかで写真の持つ可能性を再発見させてくれるものとして、希望になるだろうと思う。

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 この写真集は、世間に氾濫している可愛い子供の本とは、まるで別ものである。

 そして、この写真集は、インドという限られた国のドキュメントでもない。

 写っている子供達を可愛いとか可哀想だとか客観的に見る感覚ではなく、写真の中で駆け回る子供達を目にするたびに、その子供達の中に自分が紛れ込んでいるような錯覚を覚える。

  海があり、山があり、川があり、街の雑踏があり、田園があり、雨の日も晴れの日もある。

 笑いがあり、涙があり、何かを訴えたいような口元もあれば、警戒している目もあるし、戯れる手足があれば、仕事に没頭する肉体もある。

 すべてが、リアルな生であり、そのリアルな生の傍らにはリアルな死があることを、体験を通して、写真の中の子供達は知っているし、写真を見る私たちにも伝わってくる。

 そして、人間の仕合せを、ニュースを通して客観的に分析するのではなく、生身の人間の1人として、この時間を生きている1人として、写真の中の子供たちは直に感じているし、写真を見る私たちにも伝わってくる。

 この写真集の中には、死体も、ゴミもある。清と濁、生と死、全てが隣り合わせなのだけれど、綺麗なものと汚いものと分別することはできず、全体として美しい。

 ほとんどの子供達は、裸足で大地をしっかりと踏みしめており、粗末な衣服を身につけているだけなのに可憐で美しい。貧しいとか豊かであるという分別も受け付けない。

 着飾る必要がない美しさ。美というのは、偽や仮の反対語であり、その意味は、真に近い。真というのは、ごまかしがないということ。

  私たちが生きるこの100年は、人類史の例外中の例外であり、それ以前の何百年、何千年と、人間の暮らしぶりは、この写真集の中の世界のように、どこの地域を訪れても大した差異がなく、ずっと変わらなかった。長く続けてこられたのは、人間本来の在り方が、そういうものだったからだろう。

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 この100年、人間は、なんと多くの仮のもの、偽りのものに自らの仕合せを重ねて夢見てきたことか。生のリアリティが、どんどん遠ざかるばかりなのに。

 もう元に戻れないとは思わない。

 この大量消費の時代は、人類史の例外中の例外であり、人類が積み重ねてきたリアルな生の連続過程ではないのだから。

 数年前にもてはやされた流行のものが、すっかり忘れさられているように、この時代そのものも消費されて、懐かしいという感慨もなく、忘れ去られる。

 そして、残り続けるものは何か?

 時間と場所を超えて、受け継がれていくものは何か?

 鬼海さんの写真の一枚一枚と向き合い、それらの写真の時空に導かれ、入り込んで、子供達が裸足で感じ取っている大地の感触を感じ、水や風の揺れを肌で受け止め、木の温かさや岩の冷たさを想像し、あらゆる自然と交流し、世代を超えた様々な人々の混ざり合いの中から無限のメッセージを受け取る。その時間のなかで、世界の多様さ、豊かさと、人間本来の美しさというものを、心から実感できる。

 鬼海弘雄という孤高の写真家は、写真に真摯に取り組んでいる人から、もっとも尊敬されている写真家の1人である。

 この稀有なる写真家の仕事を通して、誰にでも手軽に写真が撮れる時代だからこそ、写真が、他の芸術表現にはできない写真だけの奇跡を引き起こせる表現であることを改めて感じられることに感謝したい。

 

鬼海弘雄さんが、生きた東京の街を40年間にわたり撮影し続けた集大成「Tokyo View」も、まだ在庫が残っています。

 この写真集は、インドの写真と違って人間の姿は一切写っていません。にもかかわらず、そしてだからこそ、人間の気配が濃密に漂っています。

 写真を見る人が、今そこに生きている人間、そしてこれまで生きてきた人間を、写真の像から呼び覚ます、そんな写真集です。

https://kazesaeki.wixsite.com/tokyoview

 

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✳︎ピンホールカメラで撮影した日本の古代の聖域の写真を紹介するホームページを一新しました。 https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world