第1132回 国生み神話や国譲り神話と、「いかるが」の関係。

 ここ数ヶ月、近畿に6箇所ある「いかるが」の地を探索してきた。

 「いかるが」と聞くと、法隆寺のある奈良の斑鳩を思い浮かべる人が多い。

 そして、奈良の法隆寺以外に「いかるが」という地名があると、法隆寺を作った聖徳太子との関係だろうと整理されてしまう。

 しかし、近畿に6箇所ある「いかるが」の地で、法隆寺が、一番古いわけではない。

 たとえば大阪府交野にある磐船神社の周辺も、「いかるが」である。ここは、記紀において、「饒速日命、天の磐船に乗りて天より降りませり。大和に入らんとして天翔り空翔リ河内国嗜ヶ峰に天降りつ」と記された嗜ヶ峰(いかるがみね)の場所だとされている。

 神武天皇が日向からヤマトの地に至った時、物部氏の祖神である饒速日命ニギハヤヒ)は、ヤマトの豪族、長髄彦の味方であったが、長髄彦を殺して神武天皇に従う。その時、自らも天孫神であることを示している。その饒速日命が降臨したとされる交野の「いかるが」の歴史は、法隆寺よりもかなり古い。

 ゆえに、「いかるが」の地は、法隆寺以前から特別の意味を持つ地名であり、法隆寺もその中に組み込まれたと考えた方が自然だ。

 このブログの第1119回 「いかるが」背後にあるもの⑵の冒頭でも書いたように、”いかる”は、洪水を意味する「いかりみず」ともつながり、また感情が溢れ出す怒りであり、それは怨霊や祟りともつながってくる。

 結論から先に述べると、「いかるが」の地は、古代から氾濫を繰り返してきた大河のそばであること。そして、その大河は、災いだけをもたらしたのではなく、農耕などにおける恵みでもあるし、さらに重要な交通路でもあった。渡来人は、大河を通って移動し、新しい技術をもたらした。また、鉱物資源、陶器、木材など、陸路では運びにくいものは、大河があることで、都など様々な地域へとは運ぶことが可能だった。

 西播磨の「いかるが」である揖保郡太子町は揖保川の流域で、揖保川因幡街道をたどれば、古代、早くから渡来文化がもたらされた鳥取因幡とつながっている。そして、揖保川の上流部は、宍粟や佐用など鉄の産地である。

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西播磨の「いかるが」、揖保川流域の太子町の斑鳩寺。

 

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播磨の「いかるが」、加古川流域の石切場に鎮座する生石神社。この竜山石は、仁徳天皇陵をはじめ、大王の石室に使われてた。

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交野の「いかるが」、磐船神社ニギハヤヒが降臨したとされる。



 そして、播磨の「いかるが」とされる鶴林寺加古川の流域であり、加古川の上流部の氷上は、太平洋側から日本海側に抜ける道としては日本でもっとも低い分水嶺で、標高100m弱でしかなく、氷上の地で由良川にアクセスして若狭湾へとつながる。

 また、加古川の支流の杉原川は、谷川健一氏が指摘しているように鉱物資源が豊富な地で、さらに、由良川流域には、大江山など鉄の生産地がある。また、京都府綾部の「いかるが」は、その由良川流域である。

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若狭湾へとつながる綾部の「いかるが」、私市円山古墳は、由良川沿いの高台に、まわりを見渡すように建造されている。る。

 上に述べた交野の「いかるが」である磐船神社は、天の川流域で、古代、渡来人は、淀川から天の川を通り、奈良の地へと入っていった。また、近くに鎮座する星田妙見宮(隕石が衝突した場所)の周辺には鍛治工房の遺跡がたくさん発見されている。

 そして、奈良の法隆寺のそばを流れる大和川は、まさにヤマト王権の中心部と淀川をつないでいた(古代においては、現在の大阪城のところで合流していたが、17世紀、洪水対策で、川の流れが西向きに変えられた)。

 さらに、四日市の「いかるが」の地は、朝明川の上流部が琵琶湖へと通じる愛知川の源流でもある。同時に、長良川木曽川などの大河の下流域にあたる濃尾平野は、古代、舟運でなければ渡れないところで、四日市は、東国へ向かう渡しの場だった。そのため、四日市の「いかるが」は、久留倍遺跡という弥生時代から続く要所であり、壬申の乱の時も、大海人皇子(後の天武天皇)が、この地でアマテラス大神を崇める勢力を味方につけ、戦いの勝利につながった地である。

 こうして見ていくとわかるように、6つの「いかるが」の地は、鉱物資源や水運の重要地であった。そこでは、”いかりみず”=洪水の対策も必要だったし、有力な勢力が支配に置きたい場所であり、その結果、新旧勢力の攻防の地であったと想像することは難しくない。

 実際に、「いかるが」の地は、神話の中で、国譲りや鬼退治、同盟のための御饗(みあえ)が行われた地であり、二つの異なる勢力による対立や和合があったことが、記紀風土記に記録されている。

 加古川の「いかるが」は、第12代景行天皇播磨稲日大郎姫はりまのいなびのおおいらつめ)を娶るためにやってきて、この地の勢力と結ばれた所であり、ここで、ヤマトタケルが産まれた。

 揖保川の「いかるが」は、播磨国風土記の記述では、以前からこの地を拠点としていた伊和大神(大物主と同じとされる)と後からやってきた天日槍が激しい国土争いをした場所である。

 京都府綾部の「いかるが」は、大江山の鬼退治で有名なところで、四日市の「いかるが」は、壬申の乱で、大海人皇子が、アマテラス大神に戦勝祈願をしたとされる場所。これら4つの「いかるが」は、ヤマト王権の中心から離れたところで、東国、丹後、吉備など、古代ヤマト王権の支配が完全に及んでいない地域との境界である。

 そして、ヤマト王権の中心地に近いところに位置するのが、交野のいかるがと、奈良のいかるがだ。この二つの地は、いずれも物部氏が拠点としていたところだった。

 物部氏は、7世紀の飛鳥時代に仏教をめぐる対立で、蘇我氏と戦い、敗れ去った氏族だと教科書で習うが、それ以前の古代史において、6世紀初頭、第26代継体天皇の擁立や、磐井の乱の鎮めるなど重要な役割を果たしていたことは、あまり知られていない。

 しかし、一部の古代史ファンのなかでは、物部氏の謎をめぐる議論はつきない。物部氏は、血縁関係で結ばれた氏族ではなく、職能集団であるという捉え方もある。平安時代藤原氏のように天皇に娘を嫁がせて外戚として権力を握ったという見方もある。

 いずれにしろ、血縁というのは、他氏族との婚姻を繰り返していくうちに特定化できなくなっていくが、先祖から受け継がれた知識と経験と役割と、その方法を守り続ける共同体というものが存在していたことは間違いなく、物部氏は、祭祀と武力を司っていた氏族だと考えられている。

 そして記紀などによれば、その祭祀と武力は、国の動向を左右するような局面で発揮されている。

  奈良の斑鳩の地の東方、天理市石上神宮が鎮座しているが、古代、ここはヤマト王権の武器庫だったとされる。石上神宮は、物部氏ゆかりの神社とされるが、その理由は、この神宮の祭神が、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊であるからだ。

 布都御魂剣は、タケミカヅチオオクニヌシに国譲りを迫る時に用いた剣で、さらに神武天皇がヤマトの地を目指している時、勝利に大きく貢献した剣であるが、神武天皇の治世では、物部氏の祖とされる宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が宮中で祭っていた。しかし、第10代崇神天皇の時、同じく物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が、天皇の命で石上神宮に移し、御神体とした。

 第10代崇神天皇が実在していたかどうかわからない。

 しかし、日本中に数多く神社で、式内社であるがゆえに一千年を超える歴史を誇ることが確かであっても、その正確な起源のわからない神社の由緒に、崇神天皇の時代に創建されたと記されているところが多い。

 また、記紀においても、崇神天皇の時、疫病で多くの人が亡くなった時、天皇は、この災いは大物主の祟りだという神託を受け、意富多々泥古(おおたたねこ)という人物を神主として三輪山で大物主を祭らせ、物部氏の伊香色雄命にも、「天(あめ)の八十(やそ)びらか(=平らな土器。平たい皿様の器)を作り、天神地祇(あまつかみくにつかみ)を定め奉(まつ)りたまひき。」と記録されている祭祀を行わせた。

 さらに宮中で祀っていたアマテラス大神を、宮中に祀ることは不吉だからと、この神にふさわしい地に祀るように命じて、まずは豊鉏入媛が各地を巡幸の後、それを受け継いだ倭姫命が、伊勢の地に至り、そこを鎮座地とした。

 こうして見ていくと、第10代崇神天皇の時代というのは、古代における日本の宗教革命の時代、つまり神々の再編成が行われ、現代まで連なるこの国の祭祀の起源と位置付けれられているように思われる。古代においては祭政一致が自然なことだったから、祭祀が新しく整えられるということは、政治も新しく整えられたということだろう。崇神天皇の時代に、四道将軍によって、吉備、丹波・丹後、東国の征伐が行われたと記録されているのも、それと関係している。

 第10代崇神天皇の名は、古事記において、「はつくにしらししみまきのすめらみこと」とされるが、日本書紀において、「はつくにしらすすめらみこと」と表記されるのが、初代神武天皇なのである。つまり、この二人は、ともに「初めて国を治めたみこと」として位置付けられている。

 そして、この古代における転換期として位置付けられる崇神天皇の時に、新しく定められた聖域、アマテラス大神を祀る伊勢神宮と、布都御魂剣を祀る天理の石上神宮の二つが、古代において、神宮と称する社だった。

 その後、平安時代醍醐天皇の時の延喜式神名帳では、鹿島神宮香取神宮という日本神話のなかで国譲りを迫る神様を祀る社が、神宮に付け加えられた。

 明治時代、天皇や皇室の祖先神を祭神とする神社の一部が、社号を「神社」から「神宮」に改めたため、神宮は急増した。そして、戦後、神社が国家の管理から離れてからは、「神社」のままか「神宮」とするのかは各神社の判断に任せられているので、神道新宗教教団をはじめ、神宮は、どこにでもある状態となった。

 しかし、古代において、神宮は、伊勢神宮石上神宮だけであり、その理由はなんだったのかと考えることも、日本の古代の真相を解く鍵の一つだろうと思う。

 石上神宮は、物部氏と深い関係にある。

 上に述べたように、石上神宮の祭神は、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊で、タケミカヅチオオクニヌシに国譲りを迫る時に用いた剣で、かつ神武天皇がヤマトの地を目指している時、勝利に大きく貢献した剣である。つまり、この剣は、新旧の秩序交代の鍵を握っている。

 石上は、石神であり、石神というのは塞の神

 そして塞の神は、境界の神である。邪悪なもの、他からのものの侵入を防ぐ神。

 物部氏というのは、古代ヤマト王権の中で、祭祀と武力を担っていた。つまり、塞の神のような役割を果たしていたということだ。

 最近訪れている近畿に6箇所ある「いかるが」の地に、物部氏の影が見え隠れするのは、「いかるが」の地が、邪悪なもの、他からの侵入を防ぐ要所であったからだろう。

 交野の「いかるが」、磐船神社は、物部氏の拠点であり、物部氏の祖神、ニギハヤヒが降臨した場所とされる。

 京都府綾部の「いかるが」には、物部町があり、須波伎部神社が鎮座する。スハキは、物部氏の部民で、清掃具などを納めていた掃部と称される農民である。

 加古川の「いかるが」の場合、鶴林寺の西北4kmのところに仁徳天皇陵の石室などにも用いられた竜山石の産地があるが、この場所に、巨大な岩そのものを御神体とする生石神社があり、播磨風土記において、弓削大連(物部守屋)の造ったものと記されている。

 四日市の「いかるが」においては、伊賀留我神社の北5kmのところを流れている員弁川は摂津の猪名部川沿いに住んでいた木工技術を持つ渡来系の人々が移住したところであり、その猪名部氏の祖が、物部氏の伊香我色男命ということになっている。

  最後が、西播磨の「いかるが」であるが、太子町の西北5kmのところに名神大社で播磨三大社の一つ、粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)が鎮座し、祭神が、天火明命(あめのほあかりのみこと)である。

 天火明命(あめのほあかりのみこと)は、物部氏の祖神である邇芸速日命(にぎはやひのみこと)の別名だ。古代、粒坐天照神社周辺は伊福部氏が勢力を誇っており、天火明命を祭神として粒坐天照神社を創建した。

 伊福部氏は産銅もしくは産鉄に関係する氏族である(谷川健一著、青銅の神の足跡・1989)。『因幡国伊福部臣古志』によると、伊福部氏は、物部氏が祖となっている。血統として伊福部氏が物部氏なのかどうかはわからないが、物部氏という勢力が担っていた役割の中に組み込まれていたことは間違いないのだろう。

 もし崇神天皇が実在していたとしたら、その時代は、4世紀のことと考えられるので、古墳時代の前期後半から中期だ。なので、実際に神宮の立派な建物が作られたのは、もう少し後のこと。

 なので、現在の立派な本殿よりも、神話に記述がある場所自体に大きな意味があるということになる。

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石上神宮の本殿の東は禁足地になっており、この先に、祓戸神社あり、さらにその先に、石上神社が鎮座する。本来の石上神宮は、そこに鎮座していた。中世、この一帯は、真言密教の寺院となり、石上神宮もそこに吸収されていた。

 現在の石上神宮は、本殿の裏に通じる道があり、そちらの方に足を運ぶと、とてもいい風の流れを感じる。そして、そこから先、道は通じているのだが禁足地となっている。その森の先には、祓戸神社が鎮座している。そして、そのさらに先の方、桃尾の山の麓に石上神社というのが今も鎮座しており、実は、このあたりが、本来の石上神宮の鎮座地だった。

 中世、ここには広大な真言密教寺が建設され、石上神宮は、その懐に取り込まれた。

 そして、この本来の石上神宮の場所は、ヤマトの聖山である三輪山の真北にあたる。三輪山も、崇神天皇の時、大物主の祟りを鎮めるために、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が関わって祭祀を行った場所である。そして、元の石上神宮三輪山の南北ライン(東経135.87)は、古代の重要な聖域が並ぶ特別のラインである。

 このライン上には、大津の日吉大社や、奈良の春日山吉野山、さらに修験の聖地、大峰山系が位置している。

 そして、石上神宮から真西に行くと、本居宣長が、イザナギイザナミの国生みの時に最初に作った島、オノゴロ島でないかと指摘する淡路の岩屋の絵島がある。

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淡路、岩屋の絵島。本居宣長は、ここが、イザナギイザナミによる国生みの最初の地、オノゴロ島だとする。

 オノゴロ島の候補地は、他にも幾つかあるが、その一つ、淡路島の南沖にある沼島は、世界的にも極めて珍しい『1億年前に出来た地球の“しわ”』である『鞘型褶曲(さやがたしゅうきょく)があり、その地勢的な特徴から、国生み神話にふさわしいと考えられるが、それに対して、もう一つの候補地、岩屋の絵島周辺は、大規模な褐鉄鉱の産地である。

 褐鉄鉱というのは、水酸化鉄のことで、砂鉄の磁鉄鉱や鉄鉱石の赤鉄鉱よりも不純物が多いために品質としては低いが、縄文土器を焼くくらいの温度でも溶かすことができるため、かなり初期段階(縄文時代という説もある)から、鉄の道具を作るために利用されたものだ。しかし、農具としては使えても、武器としての使用は難しい。

 褐鉄鉱は、銅と錫の合金である青銅と同じように縄文土器を焼くぐらいの温度で溶融するため、道具の作り方としては、後の時代の鍛治のような鍛鉄(高温で焼いても溶けない金属をハンマーで叩いてのばして形を作る)ではなく、鋳鉄(粘土を焼いて型を作り、そこに流し込んで形を作る)という方法が用いられる。

 流し込んだ褐鉄鉱や青銅が冷えて固まると、その粘土型を壊して金属製品を取り出す。銅鐸などの青銅器もそのように作られたのだが、外側の粘土の殻を破って眩い金属製品が出てくるので、そのイメージが、”さなぎ”と重ねられた。

 伊賀の佐那具や伊勢の佐那といった地名でもそうだが、”さなぎ”の地は、鉱物資源と関わりが深い。

 淡路島を目の前に望む兵庫県明石市明石川の河口にイザナミ神社が鎮座し、地元の人は、古くから”さなぎ”と呼んでいるのだが、イザナギイザナミの、”さな”という言葉も、原始の金属器の製造と関係しているという説を述べている学者もいる。(古代の鉄と神々:真弓常忠著)

 その原始の鉄生産と関わりがあると考えられる褐鉄鉱の産地で、かつイザナギイザナミによる国産みで最初にできたオノゴロ島の候補地の一つ、絵島のある淡路の岩屋と明石は、潮の流れの早い海峡をはさんで3kmの距離で、水深は100mしかない。明石は、かつて赤石という地名だったが、おそらく、岩屋周辺の褐鉄鉱の地層が、明石にも及んでいた可能性が高い。なぜなら、明石港近くにある龍の湯という温泉の泉質は、鉄分が豊富で、赤茶色に濁っているのだ。明石の地下は、今でも鉄資源が豊かなのだろう。そして、岩屋の絵島から北上すると明石を通って三木市となるが、三木は、現在でも金物製品で知られたところで、今でもノコギリのシェアは全国の15%もあり、古くから鍛治が盛んだった。この三木市明石市の境界あたり、明石川上流沿いの丘の上に鎮座するのが、可美真手命(ウマシマジノミコト)神社であり、神武天皇の治世において、現在は天理の石上神宮の祭神である布都御魂剣を宮中で祀っていたとされる物部氏の祖のウマシマジノミコトの聖域である。

 

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可美真手命(ウマシマジノミコト)神社

 この可美真手命神社は、雄岡山と雌岡山という鉄資源とも関わりの深い古代からの聖域を目の前に望む丘の上に位置しているが、その場所は、淡路の岩屋の絵島の真北(東経135.02)であり、交野の「いかるが」、磐船神社の真西であり、(北緯34.74)、さらに鶴林寺のある播磨の「いかるが」の真東なのだ。

 磐船神社の祭神は、ウマシマジノミコトの父と位置付けられるニギハヤヒであり、東西のラインで結ばれる交野と明石川上流が物部氏で深く関係しており、その明石川の河口の対岸の岩屋の絵島が、イザナミイザナギによる国生みの最初の地なのである。

 物部氏の祖とされるニギハヤヒは、天孫降臨を行った神として知られるニニギ(神武天皇の曽祖父)よりも前に地に降りてきた存在で、神武天皇が東征を行った時に、ヤマトの地を譲り渡す神として神話では描かれる。

 物部氏が、淡路の絵島で象徴される褐鉄鉱という原始的な鉄製品とも関係があるとすれば、そしてその絵島が、イザナミイザナギの国作りの起源だとすれば、かなり古い段階で、新しい技術を日本列島にもたらして新しい秩序を作り上げることに関係する勢力であり、その後、褐鉄鉱よりも質の高い金属製造技術を持った人たちがやってきた(神武天皇の東征で象徴される)時に、国譲りを行った。国譲りなので攻め滅ぼされたわけではなく、その後は、ニギハヤヒの息子であるウマシマジが、神武天皇の側近として、国譲りの象徴すなわち新たな技術の象徴である布都御魂剣を宮中で守る役割を担うことになった。

 さらに、第10代崇神天皇の時、同じ物部氏伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が、天皇の命を受けて、布都御魂剣を、ヤマト王権の武器庫である石上神宮に遷して祀ったということになる。

 その物部氏が、近畿に6箇所ある「いかるが」の地に関わりを持っているということは、「いかるが」が、新しい技術に伴う国譲りの要所であったということではないだろうか。

 

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「いかるが」の地と、イザナミイザナギによる国生みの最初の地オノゴロ島と、物部氏のあいだに深い関係が見られる。物部氏の祖神、ニギハヤヒ降臨したとされる交野の「いかるが」である磐船神社から真西(北緯34.74)に行くと、明石川上流に可美真手命神社があり、ニギハヤヒの息子で、布都御魂を守っていたウマシマデが祀られている。その真西に加古川流域の「いかるが」鶴林寺が鎮座している。可美真手命神社の真南(東経135.02)が、オノゴロ島候補地の絵島(淡路島の岩屋)である。そして絵島の真東(北緯34.59)に行くと奈良の王子町で、鬼退治の元祖とも言える孝霊天皇の陵があり、これが、法隆寺一帯の斑鳩の地でもっとも古い聖域である。この孝霊天皇の陵の真北が、交野の「いかるが」磐船神社であり、真東が石上神宮石上神宮の真北が三輪山である。

 

 

第1131回 無念を承知の人生。

 池袋で、鬼海弘雄さんの供養のための飲み会が終わった。鬼海さんの本当の供養は、という話となった。鬼海さんが、あちらの世界で、もっとも喜ぶであろうことは?
 人は、この世を去ることで、良い意味で悪い意味でも。その存在が、永遠となる。人は亡くなっても、間違いなく生きている人間の記憶の中に存在し続けているので、たとえば、自分が何かをする時に、あの人が生きていたら何と言うだろうと考えることもある。
 古くから日本人は、死んだら誰もが仏になるとしてきたが、亡くなった人でも、あの人が生きていたらどう言うだろうかと考えてしまう人と、まったくそういうふうにならない人がいる。やはり、この違いは大きいのではないかと思う。
 そのように故人のことを振り返る時は、その人の地位とか名声とは関係なく、その人の生き様が偲ばれる。
 人は、死んでしまったら、地位も名声もお金も関係なくなるが、その人の生き様が美しいものであったかどうかは、後々までけっこう大きな意味合いも持つように思う。
 生き様の美しさに対する判断は、人それぞれという見方もあるが、果たしてそうだろうか。
 人それぞれ、すなわち価値観の多様性ということで煙に巻かれることが多くあるが、人は誰でも根本的には同じということもある。
 そして、歴史を振り返ってみても、生き様の美しさとして語り伝えられているものの多くが悲劇なのだが、悲劇が、時代の価値観を超えて、人々の心を打つ何かしらの力を秘めていることは確かだ。
 今日、小栗さんが、映画を作ってきたことは、無念を積み重ねてきたことにすぎない、という言葉をポツリと発した。
 小栗さんは、カンヌのグランプリを獲得するなど、客観的に見れば、映画監督として成功者だと見られるが、当人は、まったくそうは思っていない。
 無念を承知で作り続けることは、見返りのないことを承知で作り続けるという、ある種の悲劇性を帯びている。
 いったい何のために?
 それはもう、その人の美意識、生き様というしかないが、信頼できる表現者というのは、無念を承知で作り続けている人だ。
 鬼海さんもまた、計り知れない無念の思いを積み重ねて、写真を撮り続けていただろう。
 何かしらの見返りを前提に、ということが透けて見えるような底の浅いアウトプットや、媚びた迎合が氾濫しているが、そういうものに心を預けていると、自らの生き方を判断する力すら失ってしまう。
 

 

 

第1130回 魂の交流と、天命

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お使い帰りの兄妹 撮影:鬼海弘雄

 生前、私を同志と言ってくれた鬼海さんは、2020年10月19日、75歳で逝ってしまった。

 そして、若造の私にとって恩師だった日野啓三さんは、2002年10月14日、73歳で他界された。鬼海さんも日野さんも、ほぼ同じ年齢で、同じ季節に旅立たれた。

 日野さんが亡くなって1ヶ月ほど経った時だろうか、写真家の野町和嘉さんの所に行った。野町さんとは、それ以前、一度だけ仕事をしていた。私が、有楽町マリオンを使って企画したイベントで講演を依頼したのだ。

 日野さんが亡くなった後、野町さんのところに行ったのは理由があった。日野さんは写真が好きで、とくに野町さんの写真を、二回、表紙カバーで使っていた。「砂丘が動くように」と「どこでもないどこか」という小説で。

 それで、日野さんの死の報告と、私が、素人ながら自分の思いだけで作った日野さんの遺著「ユーラシアの風景」を野町さんの所に持っていった。大手出版社から「書くことの秘儀」という本が後で出版されたけれど、原稿としては、「ユーラシアの風景」の中の「北欧の奥行き」という短編エッセイが、日野さんの絶筆だった。

 野町さんと色々話をしている中で、なぜか、出版社の経験のない私が雑誌媒体を立ち上げることになった。それは無理でしょと言っても、これ(ユーラシアの風景)ができるんだったらできるだろう、と強引に。

 私は、野町さん、トチ狂ったこと言っているなあという思いを抱えて帰宅して、そのまま放置していたのだが、それから10日くらい経った時か、野町さんから電話があり、「あれ、進めているか?」と問い詰めてきた。そんなに簡単に始められるようなことではないだろうに。仕方ないので、私は、たしか3日くらいで企画書を作った。とくに深く考えたわけではなく、日野さんの影響を受けて知った偉大なる人たち、20世紀の碩学白川静さんや、川田順造(人類学)さん、河合雅雄(霊長類学)さん、養老孟司(解剖学、脳科学)さん、松井孝典(惑星科学)さん、日高敏隆(動物行動学)さんなど、今、冷静に考えれば恐ろしい人たちをズラリと書き出し、その人たちに書いて欲しいことをポイントで明記しただけのこと。まさに若気の至りで、これらの人たちとまともに話ができていたのかどうか疑わしい。

 テーマは、「森羅万象と人間」FIND THE ROOT つまり、根元に立ち還れ、とした。

 それを野町さんに送ると、うん、内容はいいんじゃない、と軽く言われた(ふつうなら、こんな豪華メンバー、実現するんか?とか言うだろうに。実際に、企画書を送った白川静さんでさえ、「あんた、こんなの実現するんか?」と最初に聞かれたし、河合雅雄さんは、「白川さん、やるう言うとんのか?」 というのが、返事の第一声だった。)。

 そういうデリケートな事情には無頓着に、野町さんは、「内容はいいけど、雑誌だから、先の企画もしておかなければ準備できないだろ」と威圧的に言うので、第一回は「天」、その次は、「水」、次が、「森」、とか、適当に決めた。あとは、走りながら考えればいいや、という気分で。

 そうすると、野町さんは、これでいいんじゃないか、レッツゴーみたいな乗りで、私は、野町さんの仕事場にあった写真集とかを見ながら、写真家はこの水越さんがいいなあとか邪念なく決めていった。私は、写真家との付き合いは、それまでは野町さんと関野吉晴さんしかなかったけれど、真に心に訴えてくる写真を受け止めることはできていたと思う。

 それで、協力してくれることになった水越さんに会うために北海道の屈斜路まで行くと、水越さんも呑気な感じに、それで、どんな雑誌になるんですか?と聞くので、ナショナルジオグラフィックを大きくした感じですよ、と適当に答えると、「それはすごい」と無垢に賛同してくれた。それで、水越さんの仕事場にある膨大なポジを見ることになって、私が、写真をいろいろと見ていると、水越さんは目の前に座って、こちらをじっと見ている。やりにくいので、一人にしてくださいと言い、3時間くらいかかって選んで、これでいきますと伝えると、20点くらいのオリジナルポジを持ち帰らせてくれた。ポジは一点しかないもので、ふつうは複製したりするけれど、初対面なのに、丸ごと預けてくれた。飛行機に乗って持ち帰る時、けっこう緊張した。

 その水越さんが、このたび、北海道功労賞を受賞され、なぜか私が、今月の中旬、贈呈式で、水越さんを紹介するスピーチをすることになった。他の受賞者は、バイオや、ガンの研究者。参列者は、主に行政の長や、外国公館総領事、報道機関の長など堅苦しい肩書き。なので受賞者の紹介者も、立派な肩書きの人たち。水越さんもそういう知り合いはいるはずなのに私を敢えて指名するというのは、私が、立派な肩書きの人たちよりも水越さんの表現を理解しているからで、この選択もまた水越さんならではのセンスなので、私も、その水越さんの流儀にそった役回りをと思っている。

 それはともかく、日野さんが亡くなって半年になる前の2003年4月、風の旅人を世の中に送り出した。おそらく、あの日、野町さんのところに行かなければ、「風の旅人」を作るなどという大それた発想にはならなかった。

 なにかに背中を押されたようにして始めた「風の旅人」で、あの時、ああいう大胆な動き方をしていなければ、小栗康平さんにも、鬼海弘雄さんにも出会うことはなかっただろう。

 小栗康平さんや前田英樹さんとは、2005年くらいから、10年以上、ほぼ毎月に一度、小栗さんの次の映画の構想のためにという建前で、池袋のうどん屋で飲み会合をしていた。

 この7、8年くらいか、頻度は減ったが、鬼海さんも加わるようになった。2、3年ほど前までは、鬼海さんもお酒を飲んでいた。鬼海さんは、私が京都に移った後も、そうして知り合った前田さんの剣術の道場まで、けっこう遠いところなのに、出かけて行ったりしていた。

 前田さんが、鬼海さんの供養のために飲もうというので、コロナ禍の前、昨年の年末以来、久しぶりに明日、池袋のうどん屋に集まる。

 昨年の年末、鬼海さんが、私の背中を押してくれなかったら、「Sacred world」日本の古層vol.1も作っていなかった。なぜなら、私は、本という形にするのは、鬼海さんのように最低でも10年取り組んでからと思っていたので。でも、鬼海さんは、「今、形にしなければ、整理できなくなるよ、もう十分、その段階にきている」と力強く言ってくれた。他の誰かではなく鬼海さんに背中を押されたことが大きい。そして、内容や人の評価はともかく、形にしてよかった。形にすることで、自分がやっていることを整理できて、手応えも感じ、一歩前に進めた。

 そして、鬼海さんの言葉を受けてすぐに取り組んだから、完成品を、まだ元気だった鬼海さんに見てもらうことができた。今思えば、天命だったのだと思う。

 「風の旅人」の場合も、他の誰かではなく野町さんに背中を押されたから始まった。

 優れた写真家は、なにかしら強い直感力と、その直感に基づいて行動する瞬発力や、その行動を成就させるための気迫がある。もちろん、そういうオーラを受け流してしまう人もいるだろうが、私は、たぶん、彼らのオーラの受容体になりやすい体質なんだろう。彼らの強いオーラを自分のエネルギーに転換する体質。「風の旅人」の場作りはそういうものだったし、その場作りは誌面の上だけのことではない。魂の交流という言い方が、なかなか通りにくい世の中になっているが、消えてしまったわけではなく、間違いなくそういうものは存在しており、そのことに敏感であれば、自ら特に意識しなくても、しかるべき道はできていくのではないかと思う。

 鬼海さんは、表現も、人間関係も、魂の交流だけをもとに行っていた。死の数ヶ月前、病院に見舞った時も、ベッドのまわりにたくさんの本があったのには驚いた。抗がん剤で苦しい状況だろうに、よくも読書ができるねと。そして、それらの本は、暇つぶしのようなものは一冊もなかった。鬼海さんは、魂に触れるものを求めるということにおいて、最期まで一貫していた。

 

 鬼海弘雄さんが、40年かけて撮り続けてきた東京の街並み

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第1129回 撮ることの秘儀  鬼海弘雄さんの写真について

 

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 鬼海弘雄さんの写真で素晴らしいものはたくさんある。

 その中で、例えば、この一枚の写真には、鬼海さんの人柄や、哲学、そして写真の凄さ、写真表現だからこそ可能なことが、ぎゅっと詰まっている。

 これは、鬼海さんが、トルコのアナトリア地方を旅している時の写真だ。

 ゆるやかな坂をたくさんのアヒルがヨチヨチと歩いて登っており、その前方にイスラム世界特有のモスクの尖塔がそびえ、そのそばに古びた自動車が停車している。そして、自動車の前方には、見晴らしの良い高台から風景を眺めるためか、一歩一歩、確かな足取りで歩いている1人の男がいる。

 そして、その上空に、ぽっかりと浮かんだ気球。

 これらのものたちは、この一枚の写真の中で、どれ一つ欠けてはならないものたち。

 そして、どれもが、鬼海さんの愛するものたちだ。

 イスラム世界を旅していると、天空にまっすぐに伸びる尖塔を持つモスクの姿を目にしない日はない。

 それはまさに天と地を結ぶ垂直の軸であり、敬虔なイスラム教徒の魂の中心にはその軸がある。その確かな軸があるかぎり、繰り返される日常のなかで、空虚を感じたり、自分を見失うことはないだろう。信仰の深さとは、そういうものだ。

 本物の表現者もまた、自分だけの垂直の軸を魂の中心に抱いている。それは、信仰という言葉より、信念と呼ぶべきもので、信念があるからこそ死を賭する覚悟もある。世俗的な名声や金銭のために魂を売ったりはしない。

 そうした純粋なる精神を鬼海さんは愛していたし、鬼海さん自身も、そういう人だった。

 しかし、鬼海さんの懐の深さはそれだけに止まらない。

 鬼海さんは、天のことなど無頓着に右や左と余所見をしながら、地べたを這いつくばるようにマイペースで歩んでいる無垢なる存在も温かく見守っていた。気取りがなく、自然体で、けれども何かに驚くとパニックになって逃げ惑う、あどけないアヒルのようなものたち。

 そして鬼海さん自身は、そんな天と地のあいだを彷徨う魂の旅人だった。気球のように世界を俯瞰しながら、世の中の硬直した基準に囚われることなく、偏見のない目で様々な物事を見つめていた。

 しかし、ただ風に流されるだけではなかった。やはり、一歩一歩、自分の足で確かな足取りを刻んでいくことの大切さを鬼海さんは意識していた。流行に流されず、たとえ遠回りすることになっても自分のやるべきことを深くやり抜くこと。自由というのは、風の吹くまま、とか、自分の好きなように、という程度の生易しいことではなく、厳しさを引き受ける覚悟のできたチャレンジこそが本質。

 そうした魂の冒険には、相棒も必要だ。相棒は人に限らず、使い込んで身体の一部になった道具も含まれる。しかし、道具というのはあくまでも後ろから自分を支えてくれるものであり、それを使う人間の主体性の方が大事だ。

 最新式の自動車など新しいものに目を奪われるのは人間として仕方ないこと。しかし、その新しいものが、近道を行くためや、虚栄、すなわち自分をごまかすうえで都合の良いものにすぎないのなら、長い目でみれば、かえって自分を貶めるものとなる可能性が高い。鬼海さんは、目新しいものよりも、使い込まれたものに強く親近感を覚えていた。カメラも、ずっと同じものを使い続けていた。本当に信頼に値するものは、自分自身の心と身体で時間をかけて確認していくものなのだ。

 さて、鬼海さんの写真の凄さというのは、ここからが核心である。

 鬼海さんは、あまりシャッターを切らない写真家だが、シャッターを切らない時も、ずっと考え続けているし、写真ではなく文章でもアウトプットを行い、自分の考えを整理し続けている。そのようにして熟成された自分ならではの世界がある。

 それゆえ、鬼海さんが、シャッターを切る時というのは、当然ながらただの風景や人物や事物ではなく、鬼海さんの中で熟成されている”かくあるべき世界”が開示されている瞬間なのだ。

 鬼海さんは、イスラムの尖塔が示すものと、アヒルたちの歩みという一見相反するようなものが調和した状態こそ、世界なのだと一枚の写真で見事に示している。

 どれか一つの要素を偏愛的に愛して、その部分にだけ焦点を合わせている人は、この世にたくさんいる。自分が信じるもの以外は一切認めない、または無関心という頑迷さや偏狭さで。それはなにもイスラム原理主義者に限らず、科学絶対主義の学者なども同じだし、特定ジャンルの権威と祭り上げられている表現者も同じだ。 

 しかし、この鬼海さんのアナトリアの写真の中から、アヒルか、イスラムの尖塔か、気球か、1人の歩く男か、自動車か、どれか一つの要素を取り除いてみればわかるが、一瞬にして何とも味気ないものになってしまう。

 モスクの尖塔の直線と、アヒルの曲線があるから全体の線が豊かになり絶妙なるリズムが生まれる。自分の足で歩いている男と、停止している自動車と、浮かんでいる気球があるから、画面に大きな時空が生まれる。どれか一つだと、それは世界ではなく、カタログのような断片的情報にすぎない。断片的情報の提供は、写真家の仕事ではなく、商業的カメラマンの仕事だ。

 たった一枚の写真で、これだけ世界の真髄を伝えられることが、写真表現の凄さであり、これができる人が写真家という称号にふさわしい。そうでない人が、写真家と名乗るのはおこがましい。

 そんな呼び名はどうでもいいが、本来、神話というものは、この鬼海さんの一枚の写真のように、世界の本質的な有様を開示するために創造されたものだった。

 なので、実証主義という偏狭な価値判断にあぐらをかいた専門家が、神話は史実ではなく作り物にすぎないと主張して威張っているのは、とても滑稽な現象としか言いようがない。

 証拠が出揃って証明できることが、世界の真髄だと思ったら大間違いだ。

 このアヒルたちが、いったい何を考え、何を求め、お尻を振って歩いているのか、的確な説明をして、その証拠を示すことができるのだろうか。

 あどけない表情の鳥類は、官僚的組織のルールに縛られている自らを万物の尺度とする狭い了見の輩たちなど無関係に、人類より遥かに長い時間を地上で生きているのだ。

 世界は、かくも興味深く、謎に満ちて、豊かにそこに存在している。神話が語り継いできたことは、そのリアリティであり、鬼海弘雄という写真家は、近代主義の中で生まれた写真表現を通して、この時代に息づく神話を開示してきた。

 その真価は、人間の自己中心的な世界像を優れたものとみなす近代主義が、みっともない時代遅れと感じられるようになった時、よりはっきりとするだろう。

 

 

 鬼海弘雄さんが、40年かけて撮り続けてきた東京の街並み

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第1128回 追悼 鬼海弘雄さん(2)

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Impact hub Kyoto で行った鼎談「黙示の時代の表現〜見ることと、伝えること〜」(右から、鬼海弘雄さん、小栗康平さん、佐伯剛) 撮影:市川 信也さん 

 2018年11月11日。とっても楽しかった。この後、小栗さんと鬼海さんで、何日、我が家に泊まっていたのか忘れたけれど、連日、近くの温泉に行き、神護寺の紅葉を楽しみ、亀岡にも足を伸ばした。鬼海さんは、桂川沿いの嵐山の探索がお気に入りで、毎日、一番奥のところまで散歩していた。ある時、鬼海さんは、散歩のついでに自分で買い出しして、特性のスパゲティを作ってくれた。

 鬼海弘雄さんが作ってくれたスパゲティは、記憶に残る味わい深いスパゲティだった。麺の茹で加減と、カルボナーラのソースが絶妙にマッチしていて、料理というのは、こういうものなんだと本当に感心した。

 こうした話を過去形で言わなければならない悲しみはあまりにも深いけれど、記憶は永遠だ。

 同じ人間がやることだから、表現も料理も、共通したものがある。

 

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 この写真は、家の玄関にあって、毎日のように眺めているものだが、いつも感心してしまう。画面の中に、いろいろな”素材”が盛られているが、それらが絶妙に調和していて、その調和のさせ方が、鬼海さんならではのものだ。実に味わい深い。

 鬼海さんは、料理も、写真も、文章も、そしてトークも、実に味わい深い。それは、私に限らず、鬼海さんのアウトプットに接したことがある人間なら、誰でも知っている。

 その味わい深さはいったいどこからくるのかというと、それははっきりしていて、鬼海さんの人間性からだと思う。

 その人間性というのは、良い人とか悪い人とか、世間の薄っぺらい価値判断に基づくものではない。

 うわべを取り繕ったり、ごまかしたり、手を抜いたり、安っぽい取引をしたり、卑屈に妥協したりということを一切やらないで、そのことによって自分が不利になろうが、孤独に追い込まれようが、荊の道になろうが、自分の魂を疎かにすることに比べれば小さなことだという潔さを貫き通した人だけが持つ、底知れない深さからくる味わい深さだ。

 鬼海さんが材料を買ってくれて料理してくれたあの日の夕食は、スパゲティ一品だった。でも究極のスパゲティは一品だけで十分に満ち足りたものになる。小栗さんも私も、スパゲティを食べているという分別を超えて、その味わい深い何ものかを噛み締めていた。

  鬼海弘雄さんと濃密に仕事をするようになってから、飲んだりする時に、よく言われた。

 「なあんで、俺のとこ、こないんだって、頭にきてたんだよ」って。

 風の旅人の掲載のことだ。だって、鬼海さんの写真を風の旅人で初めて掲載したのは、44号(2011年10月号)で、東日本大震災の後、一度休刊しようと決めた時で、創刊から8年も経っていたから。

 それまで、日本の写真史のなかで重要だと自分が思う写真家は、ほとんどすべて声をかけていた。しかし、鬼海さんだけは別だった。もちろん、みすずが発行した「INDIA」は大好きな写真集で、色々な写真家が出しているインドの写真集のなかで最高峰のものだと思っていたし、「PERSONA」は、人類史における普遍のポートレートだとわかっていた。

 そして、私は、おっかない人ほど近づいていくのが好きだったので、鬼海さんのことを恐れていたわけでもない。

 しかし、たとえばカメラ雑誌のように、「鬼海弘雄特集!!」というやり方だと、簡単にいつでも特集は組めるが、風の旅人の編集は、そういうものではなく、最高の素材を、最高の状態で調理させていただいて食卓に出すような感覚で作らせていただいていた。

 私は、そういう編集をしていたので、鬼海さんの「PERSONA」や、 「INDIA」には、ちょっと手を出しづらかった。

 すでに世の中に出ているこれらの写真集以外に、他にやりようがないと感じたのだ。だからといって、一つのテーマに何十年もかける人だし、何か新しいテーマで撮ってきてくださいと簡単に依頼できない。

 後に作った「居場所」のような依頼仕事は特殊で、互いに十分な信頼感が養われていたからこそ可能になった。

 「PERSONA」や「INDIA」の世界は、風の旅人の中でどう掲載しようが、そこだけ、鬼海さんの世界として完結する。というか、あらためて、数枚の写真だけ借りてきて風の旅人の中で取り上げる意味がない。

 そういう思いがあったので、長いあいだ、鬼海さんに近づかなかったけれど、休刊と決めた時には、もう後がないという心境だった。それで、鬼海さんが取り組んできた写真の中では、比較的露出の少ない、本人もまだ撮り切っていないという意識が強いトルコの写真を風の旅人で組ませていただいた。

(風の旅人第44号)

https://www.kazetabi.jp/%E9%A2%A8%E3%81%AE%E6%97%85%E4.../

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 (撮影:鬼海弘雄 「アナトリア」より)

 

 渋谷で会って、食事をしている時、「さて、俺のことをどう扱う」というような目で、こちらを見ていた鬼海さん。

 それから数年の後、鬼海さんの世界を、きちんと編集させてもらうには写真集を作るしかない。そう考えて、鬼海さんと色々話をしていた時、「TOKYO VIEW」の話になった。

 東京の街角を撮った写真は、鬼海さんが長年取り組み続けてきたものだ。鬼海さんは、長年、「東京の街角」、「浅草の人物」、「インド」、「トルコ」と、並行して4つのテーマに取り組んでいたのだが、そのうち三つは、すでに大型の豪華本として世の中に出ているのだが、唯一、集大成のような大型本が出ていないのが東京の街角の写真だった。

 さらに、唯一、人物が1人も写っていないシリーズであり、それゆえ、ちょっとマニアックというか、本当に写真を愛する人、写真がわかる人しか関心を示さないだろうものだ。

 美しい風景とか個性的な人物の写真は、写真以外の要素でも人を惹きつけるが、TOKYO VIEWは、研ぎ澄まされた写真表現の真骨頂であり、風景や人物ではなく、まさに写真と向き合うための写真である。

 しかし、ここまでこだわり抜いたものというのは、かえって読者層を狭める。なので、さほど販売数を期待できない。それでなくても、大型の写真集を世の中に出すのは難しい時代だ。しかも、鬼海さんがイメージしているような品質だと、当然、価格も高くなり、一般の出版社が取り扱わない分野になっている。

 この「TOKYO VIEW」は、日本の出版社はどこもダメだったのでとアメリカの出版社に声がけして話を進めていた。1年くらいか、話は順調に進んでいるようだったが、結局、ダメだということになった。

 それで、私にとっての初写真集、森永純さんの写真集「WAVE」が、ようやくできた時、次作として、鬼海さんの「 TOKYO VIEW」をやろうということになったのだ。

  今、私の家の壁面には、ミニ展覧会が開けるくらい、鬼海さんの写真がズラリと並んでいて、それらの写真が、いつも語りかけてくるので、鬼海さんの肉体は消えても魂と対話ができるような気分になっている。

 なぜこれだけたくさんの鬼海さんの写真があるかというと、鬼海さんが、「TOKYO VIEW」の写真集と物々交換してくれたからだ。

 鬼海さんは、「 TOKYO VIEW」の売れ行きを気にかけてくれていた。私が、大きな赤字を抱え込むのではないかと心配してくれていた。

 私は、たとえ今現在、この写真集の価値が世の中の多くの人に伝わらなくても、10年後、20年後にはきっと伝わるので、大切に在庫を持ち続けていれば少しずつ減っていきますよと答えていた。一時的に大ブームになって売れ行きを伸ばして、しばらく経つと完全に忘れ去られてしまうようなものを作りたかったわけではないのだからと。  鬼海さんは、そうだよなと言いながらも、やっぱり気にかけてくれて、自分のルートで 「TOKYO VIEW」を人に手渡そうとしたのか、定期的に、数十部単位で、オリジナルプリントと物々交換をしてくれた。

 写真集それ自体が大赤字になったとしても、私の手元には鬼海さんの写真がたくさん残されたので、私はもう十分ですよと言っていた。

 十分どころか、大変だったけれど本当にやってよかった仕事だと心の底から思っている。やらせていただいたことを感謝しているし、幸運だったことは間違いない。

 写真だけでなく、私の手元には、鬼海さんのお化けペンタックスまで残された。

 

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  ピンホールカメラで撮った写真を見せた時だったか、ピンホールカメラでこれだけきちんと世界を切りとれるんだから、これでも撮ってみなよ、と言われて渡されたものだ。

 鬼海さんは、ハッセルで撮る前、これで撮っていたのだ。しかし、あまりにも重くて、持ち歩くのが辛いのでヤメた、と言っていた。

 確かに重い。そして、鬼海さんのように1日歩き回っても一枚もシャッターを押さないことが多い写真家だと、トレーニングのためにダンベルを持って歩き回っているようなものだ。

 この重いカメラを使って何をどのように撮ればいいのか、まだ掴めない。

 ピンホールカメラで撮るようになってからよくわかったけれど、機械は、本当に身体の一部になるくらい使いこんではじめて、自分の思うようになるということ。

 そして、このカメラの場合、重いのは単にカメラの重量だけでなく、鬼海さんの魂がドッシリと載っかかっているので、さらに重い。それを自分のものにするまで長生きできるかという問題があるが、そういうことだけのために残りの人生を賭けるのも惜しくないという気持ちもある。

 人の幸福は人それぞれで、何の悩みもなく不自由もなく楽しい日々を送ることができればいいというのもあるし、それとまったく逆の過程で心身とも苦難の連続でも、鬼海さんのように、最期の時期に、「死ぬのは別に怖くはないですけどね」とサラリと言えてしまうというのもアリだと思う。

 これをサラリと言えるのは、自分に与えられた命を、しっかりと使い尽くしたという自分なりの納得感があるからだろう。その納得感を得るために、人は生きているということを、人は、忘れてしまう。

 時々、それを思い出すたびに、空虚に襲われ、死を極端に恐れてしまう。

 鬼海さんは、写真を撮る時、写真を撮られる側の人や風景に対して、その秘められた本質を、その価値を、決して損なわないように、決して歪めないように、ということに精魂を傾けてきた。

 そういう精神で生み出された結晶のような写真を、安易な気持ちで編集なんてできない。

 東日本大震災で多くの人命が失われ、風の旅人の休刊を決めた時の44号のテーマは、「まほろば」であり、この究極のテーマにいたって初めて、私は、鬼海さんに土俵に乗ってくれるよう依頼した。

 その時の企画内容は、

 「人間と自然の間には、人間が作り出した物が積み重なっている。

 人間は、考えることで、人間と自然の間を離したり埋めたりするが、自然を作ることはできないし、自然に戻ることもできない。

 しかし、人間が考えて作り出した物が、人間と自然の間をつなぎ、人間の心や世を鎮め、平和をもたらすこともある。」

 というものだった。

 鬼海さんが撮る写真というのは、その全てが、そういうものだった。その徹し方は見事としか言いようがなく、残されたものに、多少のごまかしが混ざっているようなものが一つもない、ということに、あらためて畏敬の念を覚える。

 

                                     合掌

 

 

 

 鬼海弘雄さんが、40年かけて撮り続けてきた東京の街並み

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第1127回 追悼 鬼海弘雄さん(1)

  10月19日、鬼海弘雄さんが、2年あまりのリンパ腫との闘病の末、亡くなった。 春頃までは、電話がかかってくれば、次の本作りのことや、良くなったらあと一回、トルコに取材に行きたいなあとか、そういう前向きな話ばかりだった。きっと、自分を鼓舞していたのだろうと思う。

 2、3ヶ月くらい前からは、次の仕事のことは話さなくなり、自分の体調のことには触れず、こちらを讃え、激励し、力を与えてくれるような内容ばかりになっていた。

 人生の奥義を知り尽くしている人だから、少しずつ達観の境地に至っていたのだろうと思う。

 抗がん剤治療という壮絶な苦しみを背負うならば、数年は生き延びることはできるが、抗がん剤治療をやめるなら数ヶ月だと医者から言われていると、2、3ヶ月前、淡々と話していた。

 その時、「もうこの年ですから、死ぬのは怖くないですけどね」とポツリと言っていた。どのような決心をなされたのか。

 最後に電話で話をしたのは9月下旬。いつもより時間は短かったが、やはり、こちらを讃え、激励する内容だった。

 人は、人生のなかで多くの出会いがあるのだけれど、人生の方向性に大きな影響を与える出会いは、数限られている。その方向性の選択の結果が、社会的評価として良かったと悪かったとかの世俗的な分別を超えて、自分自身として、その選択に納得できるかどうかは、その出会いに対する感謝があるかどうかで決まってくるだろう。

 この道を歩んでいるのは、あの出会いがあったからこそと振り返る時、この道を歩んでよかったかどうかを考えるまでもなく、この道と自分が一体化している。

 鬼海さんは、私だけでなく多くの人に、表現を通して、その人柄を通して、そんな稀有なる出会いをもたらしている。

 鬼海さんが撮ったインドや浅草やトルコや東京の街中の写真は、全て鮮明に覚えているくらい何度も何度も見てきたけれど、鬼海さんの死の前日、なぜだかふと、「居場所」という本を見ていた。

居場所 | 北星学園余市高等学校

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  北海道、京都、大阪、東京などを一緒にまわり、若者たちを取材した時のもの。

 不登校の子供達を受け入れる北海道の北星余市高校が、通信制の学校が増えてことなどもあって存続の危機にあり、この高校を卒業して頑張って社会で生きている子達を取材して、通信制の学校だと得られないものが人生の糧になるのだということを伝えるための本を作ろうとした。

 その時、写真撮影をお願いした。「日本社会においても重要な仕事だから」と、即答で受けてくれた。そして、「悩んでいる家族にも、悩んでいない人にも、よい本になるように」と、言ってくれた。

 その「居場所」という本の中には、会ったばかりの20代の若者と、ほんの少し話をして、そのあたりを一緒に散歩したりして撮影した写真や、北星余市高校まで出かけて行って、現役の生徒たちの学習風景や、彼らを支えている先生や町の人を撮った写真が掲載されている。

 そして、それらの写真がおそろしく絶妙なのだ。

 インドや浅草の写真は、撮影している現場を見たことがないが、「居場所」という本は、私自身、ずっとそばにいて、一緒に歩いて、撮影する瞬間も見届けていた。どの瞬間も、何か特別なことが起こるわけでないし、ロケハンをしていい場所をあらかじめ決めていたわけでもない。ごく普通の街中で、ごく普通の若者たちを撮影しただけだ。

 しかし、写真が送られてきた時、唸った。カメラは、シャッターを押せば誰でも撮れる。そんなシンプルな機械なのに、送られてきた全ての写真が、あったかい空気で包まれており、そのうえで、写っている人たちのそれぞれ異なる魅力が引き出されている。それがほんとに不思議で、奇跡の産物のように思われて仕方なかった。

 それまで、そう簡単にシャッターを押さない人だということは、当然、知っていた。真実の瞬間を待ち続けることにおいて常人にはないタフな精神が宿っていることはわかっていた。時間をかけて撮り続けることで、あれらの珠玉の写真群ができあがるのだと。

 しかし、やはり、それだけではないのだ。限られた時間のなかの瞬間芸のような仕事でも、他の人には真似ができない魅力的な世界が立ち上がってくる。単に写真が上手いとかそんなことではなく、「居場所」という本を通して実現しなければならないと考えていたことが、その通りになっているのだ。

 仕事を一緒にするパートナーとして、こんなに楽なことはない。

 かと思えば、「 TOKYO VIEW」という写真集を作る時は、まったく楽ではなかった。

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 この本は、長い編集制作期間を除いて、印刷だけで、やりなおしなども含めて、1年かかった。

 私は、本作りの経験はけっこう長くなるし、写真の再現性が強く求められるものも作ってきたので、印刷のことはかなりわかるという自負がある。

 しかし、それまで経験したことのない高次元のレベルが求められた。はっきり言って、狂っているとしか言いようのないくらいのテンションになって、2人で、最高峰の印刷を求めた。

 歴史に残る写真集にするために。100年後、200年後に見る人も、強く心を惹きつけられる写真集にするために。

 最高峰の印刷を求めるというのは、印刷会社に要求すればいいという問題ではない。

 単に綺麗に印刷すればいいというわけではないのだ。何をどのようにレベルアップさせるのかということをしっかりと掴んでいなければ、たとえば紙の選択、特色の選択、ニスの使い方など、印刷会社ではなく制作者サイドで決めなければならないことが決められない。

 そして、何度も何度もやりなおして、ようやく完成した「Tokyo view」という写真集において、もう発売から数年経つのに、最近も、しょっちゅう電話してきて、「今、見直しているんだけどさあ、最高だよね。いやほんと、いいものを作ってくれて、ありがとう」と言ってくれた。

 去年の暮れ、見舞った時に、私がピンホールカメラで撮っているプリントを見せた。

 すると、「すぐに本にしなよ」と言うので、驚いて、「もう少し時間をかけるつもりなんだけど・・」と言うと、「もう十分だよ、今、やんなきゃ、まとめられなくなるよ、大丈夫だよ」と、ものすごく強引に背中を押してくれた。

 そして、そのエネルギーをいただいてSacred wordを作った。

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  3月末に完成してすぐに送ったら、「こういうのは、これまで誰もやってないものだよ」と褒めてくれた。写真だけでなく、文章量も多いのに、丁寧に読んでくれて、面白いと言ってくれ、次は自分自身のこと(時間の中を旅している存在として)をもう少し入れてもいいじゃないか、とアドバイスをくれた。

 この本を1000部、55万円で印刷したという話をしたら、こういう形で未発表のトルコの写真集を作ってみようかと、盛り上がった。そのあとも、トルコの写真のネガを見直しているとか、あと一回、取材に行きたいとか、次の本作りのことを考えるのを心の励みにしていた。抗がん剤によって蝕まれる気力を奮い立たせるように。

 2年前までは元気だった。外でお酒を飲むこともできていたし、京都に来た時は、けっこう石の階段の上り下りがきつい神護寺など観光したし、嵐山の桂川沿いを、一番奥まで、飽きもせず、なんども散歩していた。

 最近、同じ場所を歩くたびに、あの時の光景を思い出していた。「居場所」の写真のように、鬼海さんのあったかい眼差しで包まれたあの光景を。

 覚悟はしていたけれど、こんなに早く逝くなんて。

 わかっていたことだけど、とても辛い。

 ありがとうという言葉では簡単には言いつくせないものをいっぱい頂きました。それを無駄にしないように生きていきます。

 

 

 

 

第1126回 ものの気配と、永遠

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 人はよく「気配を感じる」とか、写真などで、「気配が写っている」とよく言うのだけれど、”気配”って、何かしらんと思う。
 私は、古くからの聖域を訪れる時、ピンホールカメラで撮影するとともに、コンパクトのデジタルカメラでも記録している。
 そして、その二つの画像を見比べると、その場にいた時の自分の感じ方は、ピンホールカメラで撮った画像の方が近いと思う。
  その理由は、自分の目で見ているものよりも、デジタルカメラの写真の方が、写りすぎているからだ。
 たとえば、大きな磐座があって、まわりに森が広がっているような場所で、私は、森の木々の葉の一枚一枚を見ていないのだけれど、デジタルカメラで撮った画像には、それらが写ってしまっている。
 私は、その場に立ち尽くして、磐座を凝視しているというより、なんだか遠くの世界を覗くような感覚で眺めているので、たぶん焦点はちょっとぼやけている。デジタルカメラで撮った画像のように明晰に、対象を見てはいない。
 だいたい、人は、ちょっと興奮気味の時は、対象を明晰に見ていたりしないだろう。
 人を好きになるというのも、相手を明晰に見て判断しているというより、動きや仕草や表情も含めて、なんか全体から立ち上るものに惹きつけられている。
 明晰に見るというのは、対象の動きを止めてしまって見ているわけで、それは、醒めた目で見ているということだ。
 醒めた目で見て、それでも相手を好きだと言っているのは、冷静な客観的判断ということで科学的にはその方が正しいとされるが、相手や物事との関係においては、そこに何かしらのズルイ計算が入るケースが多いのではないか。
 生き生きと動いている相手の全体を好きになる時というのは、おそらく、細かなディティールにはこだわっていない。
 ピンホールカメラで撮る感覚は、それに近い。
 人を好きになる時、相手の息遣いを身近に感じるが、それは自分の息遣いでもある。
 そして、その息遣いの共振が、気配なのだ。
 ”気配”というものは、対象が発しているものを冷静に受信して感じているというより、対象が発しているものと自分が共振することで感じているもの。
 そして、共振している時というのは、相手のディティールを細かく見てはいない。細かく見る前に、相手とつながってしまっているからだ。
 ピンホールカメラで撮る写真というのは、何らかの作用で、その場所とつながってしまった写真なのだ。自分の意思というより、意思を超えた何かに引き寄せられて。 
 それはオカルトでも何でもない。人を好きになる感覚もそういうものなのだから。
 見栄えがいいものの写真を撮るという行為は、その対象を好きになっているというより、どちらかというと自分のアピールだろう。
 見栄えがいいかどうかわからないが、その場から醸し出されている何かに惹きつけられて共振してしまっている時、自分のことよりも大きな何かとつながっているという感覚になる。
 そのつながりを、他の誰かが認めるとか評価するとか、そんなことは二の次である。
 なぜならば、その大きな何かとのつながりだけが、時空を超えるからだ。数年単位の分別ではなく、数十年、数百年、それこそ無限に。
 表現において、永遠ということが意識されなくなって、どれくらいの歳月が流れているのだろうか。
 地上に存在するどんな物も、消滅していく定めにあるが、気配として、余韻として、いつまでも残り続けるものがある。人はそこに永遠を感じてきた。とりわけ日本人は、自然環境の影響もあって、その感性を、より研ぎ澄ませてきた。もののあはれは、永遠とつながっている。
 気配や余韻は、あからさまであることによって阻害されることがあり、たとえ幻のようなものであっても、存在の確かさが十分に伝わる伝え方がある。
 
また見付かつた。
何がだ? 永遠。
去(い)つてしまつた海のことさあ
太陽もろとも去(い)つてしまつた。
 
このランボーの詩、中原中也以外に、小林秀雄とか、数えきれないくらいお人が翻訳しているのだけれど、ランボーが表している永遠を、きちんと捉えていると感じられる人のものは少ない。中原中也以外には、金子光晴くらいかな。
二人に共通しているのは、彷徨い人であること。世間の定めた価値の枠組みの外に出て、ものごとを見ている人。
ランボーがそうなのだから、ランボーの気持ちは、そういう人にしかわからない。
 
Elle est retrouvée,
Quoi? ― L'Éternité.
C'est la mer allée
Avec le soleil
 
また見付かつた、
何が、永遠が、
海と溶け合う太陽が。
小林秀雄訳)
 
もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは、太陽と番(つが)った
海だ。
堀口大学訳)
 
とうとう見つかったよ。
なにがさ? 永遠というもの。
没陽といっしょに、
去(い)ってしまった海のことだ。
金子光晴訳)
 
これらの訳の違いは、allée 英語のgo の捉え方だと思うけど、中也と金子光晴以外は、海と太陽を男女の交わりに置き換えて、その昇天(恍惚)の方を永遠と捉えていて、それに対して、とくに中也は、その後の気配を永遠と捉えている。昇天するにはしたものの、その後の余韻というか虚脱を残して、あっという間に消えさったものを、焦がれる思いで追憶している。
 
 

 * Sacred world 日本の古層 Vol.1を販売中。(定価1,000円)

 その全ての内容を、ホームページでも確認できます。

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