一夜明けて

 12/16の対話、あれは本当に浅田さんだったのだろうか? 

 免疫学者の安保徹さんの話しではないけれど、思いもかけず強いウイルスが身体の中に入ってきた時に、白血球を出して、熱を出して、ウンウン呻ってウイルスと戦っていた時には、そんなことを考える余裕はなかった。しかし、熱が引いてさっぱりとした気分で冷静になってみると、もしかしたら、愉快犯にからかわれたのかもしれないという気分も少しある。ネット社会って何でもありの世界だから、誰かが浅田さんになりすまして、浅田さんに似せた言葉で、あちこちの掲示板に書き込むことって、あり得ることだろう。

 正直言って、浅田さんの書くものは好きではないのだけど、どこかで意識はしている。それは、20年ほど前、私が二年間の諸国放浪から帰国した頃、浅田さんの『構造と力 』や『逃走論』が話題になり、ニューアカデミズムの旗手として脚光を浴びていて、その書物に触れたからだ。それらの書物に、私は共感ではなく、強烈な異質感を覚えた。

 20歳の時からの二年間の放浪で、私はずっと「実」のようなものを探し求めていたような気がするのだけど、浅田さんは、”この世には「虚」しかない、だからそれに抗っても無駄。抗えば抗うほど虚に囚われる。「虚」と闘う術はただ一つ、「虚」の正面に立たず、そこからスルリと逃走し続けることだ”と言っているように聞こえた。

 そうした考えは、当時の私の体質とまったく正反対のもので、それが、あまりにも正反対すぎるので、とても気になったし、ずっと気にしていたのだった。私の住んでいる宇宙とは別の宇宙の住人という感じで。

 それは、住んでいる世界が違うとかそういう世俗的なレベルのことではなく、「物質」と、私にはリアリティはないが、この宇宙に存在するという「反物質」との違いのような感覚だ。

 同じ時代に同じ社会に生きているのに、ベクトルが全然違うのはどういうことだろうか。世の中は多様性で成り立っているなどといった世俗的な話しではなく、まったく逆向きのベクトルが同時に共生していて、何も大きな問題がないという現象。たとえて言うと、私は、時々、介護現場で働く人たちを取材するのだが、その人たちは、アキバ系?と言われる人が、同じ時代、同じ社会にいるということが、実感としてまるでわからない。そして、アキバ系?の人たちも、介護の現場で働いている人の日常に対して、知識としては知っているかもしれないが、おそらく、まったく現実感覚がないのではないかと思う。

 この二つが、衝突することなく、現実感覚もないものだから軋轢もなく、平然と同時に存在している。この現実って、いったい何なのだろう。

 そういうわけで、浅田彰さんは、私とは別の宇宙の住人であるのだけど、書物などを見るかぎり、「そこに在る」ことは、どうも確からしい。そうした妙な感覚を与えるもっとも象徴的な人だったわけだ。

 そういう人であるから、この私とは、この世で接点がある筈は絶対にないと無意識で思い続けていたのだと思う。

 それで私は「風の旅人」を制作していくにあたって、白川静さん、保坂和志さん、茂木健一郎さん、前田英樹さんなど、同じ宇宙に住んでいると実感できる人たちに執筆をお願いしてきた。もちろん、めいっぱい背伸びをして襟を正してお願いしなければならず、心休まるということはないが、同じ宇宙にいることで、その人たちからは安心感をいただいていた。

 そういう状況のなかで、一瞬ではあるけれど、私の現実世界で、私にとって別の宇宙の住人である浅田彰さんと接触が生じた(もしかしたら、現実ではなく、愉快犯の仕業かもしれないが)のだから、「ええっ、マジ」って感じになってしまった。

 地球の外からウィルスに感染したみたいに。

 しかし、今は不思議なことに、未熟ながらも体熱をあげて白血球を出して応戦したことで、自分の中に免疫抗体ができたような気分になっている。

 インフルエンザの後、熱が引いた後のすっきりとした気分みたいに。

 私は、これまで「実」に軸足を置こうとし、心のなかで「虚」に反発を感じていた。

 この宇宙にある「物質」を信じながら、「反物質」の存在を、自分がリアリティがないという理由で否定していた。

 しかし、この宇宙には、「物質」と「反物質」は、やはりあるのだろう。宇宙誕生の頃、「物質」と「反物質」がぶつかりあっては消えて、ごくわずかだけ「物質」が残ったためにバランスが崩れ、今のような「物質」だらけの宇宙になったと宇宙論は語っているが、それが言葉上のことではなく、何か実感のようなものとして自分の中に生じたのだ。

 「物質」と「反物質」がぶつかりあった時に、完全に消えてしまうのではなく、きわめてわずかな不均衡があって、何かモゴモゴとした揺らぎのようなものが残る。そして、その揺らぎが、こちらの領域のなかで増幅していく。そのこちらの領域が私のいる宇宙で、私は私のいる宇宙の摂理で生きていくしかないけれど、この宇宙とは別の宇宙が確かにあって、その中にはその中の摂理があってしかるべしという感覚とでも言えばいいのだろうか。ちょっと大袈裟な言い方だけど、理屈ではなく実感として、そういうことがあるのではと思うとともに、昔からの陰陽の易学とか、古代の人は宇宙のそういった仕組みを体得していて、それを精妙に体系化していったのではないかと考えたりする。 

 そしてもう一つ。物質の最小単位である素粒子は、エネルギーが物質としての仮の姿をとったもので、素粒子の電子と陽電子が衝突すると質量が全部消えて、光になると知識で教えてくれる。

 それとの関係で、ハイデッガーか誰かが「存在の明るみ」という表現で、存在することは、それ自身、明るさなんだと言う。つまり、この宇宙のなかで、私たちは物質的に存在しているかのように見えるが、それはエネルギーの仮の姿なんだよ、物質世界と光の世界は、相互に転換するのだよ、と言っているのだと私は解釈するが、そういうことを知識としてではなく、実感として感じたのだ。

 そういう言い方をすると宗教じみて聞こえるが、実際にはとても単純なことだ。

 昨日の夜、前田英樹さんから、今回の浅田彰さんとのやりとりについて、メールをいただいた。前田さんは、今回のことを適度に距離を置いて見てくださっていて、前田さんにとっては、フウッと息を吹きかけるくらいの軽い気持ちの短い一文ではありながらも、私にとっては重い密度の詰まったメールを送ってくれた。その言葉は、私にとって、反物質ではなく物質、つまり私のいる宇宙からのものだと安心できる質のものなのだが、それを目にした瞬間、濁りが払拭された。その感覚は、「光あれ」みたいな感覚だった。その明るみのなかで、揺らぎの余韻のままの状態で「総括」などといって荒々しく書き込んだ自分が恥ずかしくなった。

 「言葉」も物質化しているように見えるが、「言葉」と「言葉」が究極のところでぶつかると、「光」すなわち、エネルギーになる。

 「物質」と「反物質」は、共存している。そして、物質側の世界で、「物質」と「物質」が遭遇して、「物質」が壊れるだけの衝突もあるが、「光」になる稀有なる瞬間もある。

 「存在」というのは、物質(言葉)もしくは反物質(もう一つの宇宙の言葉)だけで捉えようとしても実感しがたく、物質(言葉)と物質(言葉)の稀有なる衝突<反物質にも稀有なる衝突があるのだろう>によって、物質(言葉)が光=エネルギーに転換するという感覚を得て、その明るみのなかでこそ感じ得るものではないかと思ったのだ。

 その明るみというのは、自分がいる宇宙に対する信頼感のようなもので、同時に、自分とは別の宇宙があってしかるべきだと実感としてわかり、その中の反物質=「私にとっては、実感がないゆえに認めがたかったモノ」も、在ってしかるべき形で在り続けるのだろうという感覚を得ることだった。

 まあ、こうしたことは個人的な言うに言われぬ感覚で、言葉では説明しづらいものなのだが、自分の得た感覚を自分の中に刻んでおくために書いておこうと思う。

 以上のことを総括して、やはりこのたびの浅田彰さん(愉快犯の可能性は大だが)との邂逅は、その意外性ゆえに稀有なることで、自分にとって大変意味あるものだったと実感する。そこに岡崎乾二郎さん(ホンモノかなあ)とまで少しだけ接触できたわけで、私なんぞにはもったいないというかなんというか(まあ、みなさん、たまたまでしょうが)、何が起こったんだという感じで、なかなか貴重で楽しい経験をさせていただきました。

 今日からは、もう一度、自分を入れ替えて、自分のペースに戻したいと思う。

 いずれにしろ、結果的に私にとって深い意味のあった瞬間的スパークを与えてくれた、”反物質”さん(愉快犯でも同じ)に向けて、感謝したいと思う。