第1216回 危険と背中合わせだった諏訪の御柱祭さえ歪めるコロナパニック。

 ショックな出来事。

 4月上旬に行われる予定の諏訪の御柱祭

 申年と寅年に行われる奇祭、1200年も続いてきた伝統の祭りが、コロナ禍の影響によって、山出しの曳行(えいこう)や木落としが行われないのだという。

https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2022022200681

 長い歴史を誇る御柱祭で初めてのことらしい。この1200年のあいだい様々な厄災があったはずなのに、今回のコロナ禍の心理的、社会的影響は、それ以上ということか。

 新型コロナウイルス感染防止の安全、安心が保証できないことなどが理由とされているが、山の斜面を大木に乗って滑り落ちる危険な木落しでは、これまで何人も死者が出ているが、死者を出した親族もそれを受け入れ、その死を公にしないこともあったようだ。

 危険と隣り合わせなことは承知のうえ、これまで続いてきた祭りが、安全、安心が保証できないという理由で、その内容を変更させられるという時代社会に、私たちは生きている。

 「人の生命は何よりも大事」という、善良そうでいて、実は、人間のことしか考えていないという偏狭な価値観を軸にして。

 12年前の寅年の時、本当は氏子の人しか参加できない山出しの曳行(えいこう)を経験させていただいた。祭りのハイライトは劇的な木落しだが、その前に、御柱になる大木を、長い道のりをかけて氏子さんたちが引いていく。そして斜面の頂上まで行ったところで、御柱を引いてきた人たちは斜面の下に陣取る。斜面を滑り落ちてくる御柱を、一等席で見る資格が与えられるのだ。

 その場所は狭いために、物見遊山の見物客は入れず、遠く離れたところから、祭りの雰囲気を味合うしかない。

 こうして山から切り出されて、氏子に引かれて、斜面を滑り落ちた16本の御柱は、諏訪の上社と下社に建てられる。

 今年は、その御柱は、トレーラーで運搬されるのだという。

 これからの8年間は、諏訪大社を訪れても、トレーラーで運ばれた木を見ることになる。

 プロセスは関係なく、形だけがそこにあるということになるのだが、食物なども、どのように作られているのか全く知らないという私たちの日常と同じだ。数字とか肩書きとか経歴とか、目にみる部分でしか評価判断しないことも同じ。

 そうしたプロセスを知らなくても、違いがわかるという感性が保たれていればいいのだけれど、そもそも、祭祀というのは、目に見えていない領域にアクセスする力を保つためのものだった。

 以前、高千穂の夜神楽に行った時、テレビ映りを意識してか衣装が新調されていたことにがっかりしたことがあった。

 伝統もまた形式主義になっており、このたびのコロナウィルスの禍というのは、実際の病の怖さよりも、そうした形式主義による害の方が大きいように感じられる。形を整えているかどうかが評価基準になるという矮小な時代に私たちは生きているが、諏訪の御柱祭というのは、そんな形式主義を吹き飛ばすような、生命の本質に基づいた大きな風だったのだけれど、そうした風さえ立つことのない世界って、精神が沈滞して淀むばかり。

 

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第1215回 歴史を再認識する必要性

私は、20歳の頃から世界の70カ国以上を訪れ、特に重要な古代遺跡とされるものは、そのほとんどを訪れてきました。子供の頃から、「謎の古代文明」に強く関心があったからです。

 古代文明の地を実際に訪れると、人類の歴史は、階段を登るようにステップアップしてきているわけではないと感じます。

 数千年前に、現代の技術でも簡単ではないことが成し遂げられています。

 そして、様々な地域を訪れることで実感したことは、文明や文化は一つの地域で完結しているわけではなく、古代からかなり広範囲の交流があり、互いに影響を受け合っていたということです。

 また、その交流ネットワークと宗教の関係も重要です。宗教は単に救いのためだけでなく、遠方の人々と情報を共有したり交易を行ううえで、互いの同胞意識を高める力があり、そのための改宗も行われました。

 紀元前以前、シルクロードの隊商都市は、ペルシャ系などアーリア人が担っていたであろうことは、楼蘭の美女の目鼻の整った顔立ちから想像できます。楼蘭の美女のミイラは、纏っていた衣服の炭素年代測定によって4000年ほど前のものと考えられています。

 その後、約2000年ほど前、ガンダーラ美術が盛んに作られた頃、仏教徒であることが東西交易において優位となりました。地方の豪族も、仏教徒の交易人が町に立ち寄ってお金を落としてくれるように仏教を奨励し、積極的にストゥーパや寺院を建立しました。

 約1000年前には、イスラーム教徒になれば戦争を避けられ、かつ商売を優遇されるという理由で、イスラーム教徒が、シルクロードの交易を担うようになりました。

 そのように、宗教と、各地域を結ぶネットワークは、切り離せないものです。

 日本の古代においても、こうしたことを考慮して探求する必要がありますが、実情はそうなっていません。

 歴史認識を改めるために、まず第一に、日本においても、古い時代の方が劣っていたわけではないことを再確認する必要があります。

 1400年前に作られた法隆寺は、現代の建築家が作るものより劣っているのでしょうか?

 よく知られた話では、刀を作る技術は平安末期から鎌倉時代が最高峰で、後の時代は劣化しています。

 また、川端康成は、こんなことを言っています。

「日本の物語文学は「源氏」に高まって、それで極まりです。

 軍記文学は「平家物語」に高まって、それで極まりです。

 浮世草紙は井原西鶴に高まって、それで極まりです。

 俳諧松尾芭蕉に高まって、それで極まりです。

 また、水墨画雪舟に高まって、それで極まりです。

 宗達光琳派の絵は俵屋宗達尾形光琳に、あるいは宗達一人に高まって、それで極まりです。

 それらの追随者、模倣者、亜流ではなくても、後継者、後来者は、生まれても生まれなくても、いてもいなてもよかったようなものではないでしょうか。」

 過去を知るうえで、これまで考古学による実証的研究が重視され、歴史学の権威的立場になっています。

 しかし、考古学的実証だけに重きを置く問題もあります。新たに重大な証拠が発見されると、すべてを書き換える必要が出てくるのです。

 たとえば、ほんの最近まで、日本で最も古い鉱山は、奈良時代に入ってからのものしか発見されていませんでした。

 したがって、飛鳥時代ヤマト王権の時代も卑弥呼の時代も、日本は鉄をはじめ自前の鉱物資源を得ることはできず、輸入に頼り、それを加工することだけにとどまっていたというのが通説でした(今もなお)。

 しかし、各地の遺跡や古墳から、膨大な金属製品が次々と出土しています。それらは全て輸入によるものなのか?という疑問が生じても、学会の掟では、証拠が発見されるまでは何も言えません。

 ところが2019年、辰砂の採掘跡とされる徳島県阿南市の若杉山遺跡で、弥生時代後期(1~3世紀)とみられる土器片がみつかりました。この時期にすでに採掘が始まっていたとみられ、国内最古の鉱山遺跡となる可能性が高まったのです。

 辰砂というのは硫化水銀のことで、朱色の原料となるほか、古代、船などの防腐剤としても使われていますが、金の精錬やメッキにおいても欠かせないものです。

 この辰砂の鉱山が、弥生時代に遡るということで、日本の鉱山の歴史が500年も遡ることとなりました。

 しかもこの500年は、日本史において空白の時代と呼ばれる謎の多い時代でありながら、現代の日本という国の制度や文化の基礎が整えられていった重要な時代なのです。

 この重要な時代において、日本が自前の鉱物資源を得ていたか、それとも輸入に頼っていたかというのは、非常に大きな問題になります。

 なぜなら、輸入だけに頼っていたとなれば、大陸との接点にあたる地域の重みが増しますし、自前の鉱山があったということになれば、鉱物資源がある地域の重みが増します。

 そのように考古学的実証は、新たな発見によって従来の説が絶えず更新されていく定めにありますが、それに対して、古代から現在まで変わらないものがあります。それは、地理上の痕跡です。

 日本という国は、湿潤な風土のため、古代の歴史建造物などは朽ちやすいし、森林に覆われているので発見しずらい。そのため、考古学的発見には限界があります。

 一方、古代から何かしら伝承のあるところには、今でも神社が鎮座しており、時代を超えて大切に祀られています。小さな祠にすぎないものもあり、見た目は貧弱で観光客は訪れませんが、”その場所でなんらかの神さまが祀られている”というのが、歴史を解く鍵です。上に述べたように、宗教と人々のネットワークは、切り離せない関係にあるからです。

 そして、古墳もまた、後からやってきた権力者が、それ以前の権力者の古墳を破壊するということを行っていないため、日本には、およそ16万基もの古墳が残っています。

 神社などにおいても、本殿の立派な建物は、後の時代の権力者の建てたものが大半ですが、裏にまわれば、ひっそりと摂社や末社があり、実は、それらの神様が、古来からの神様であることが多い。

 後からやってきた権力者が以前の権力者や神様に対して配慮するというマインドが古代の日本人にはあったようで、神社が統廃合されて消滅させられたり、住宅開発によって古墳が壊されることは、明治以降に著しいものとなりました。

 昔の日本人が、それ以前の聖域に配慮したのは、祟りを恐れてのことだと思われますが、そのおかげで、考古学的発見に頼るだけでは得られない古代の情報にアクセスする可能性が残されています。

 今では小さな祠にすぎないものが、地理的に他の重要な聖域と結ばれているという事実を発見する時、その関係性の糸によって、古代の新たな姿が浮かび上がるということがあります。

 そして、気になって少し調べると、その小さな祠は、数百年前までは巨大な聖域であったが戦乱や地震などで破壊されて再興されていないという事実に行き当たります。

 考古学分野と、古代文献分野のこれまでの功績は素晴らしく、論文として発表されているものは、今では、インターネットで簡単に確認することもできます。

 しかし、その分野の中だけで議論をしていても、歴史のほんの一部しかわかりません。

 それらを統合していく新たな視点が必要だと思います。

 ということを踏まえて、2月27日(日)午後3時から、IMPACT HUB京都において、映像&トークを行います。

 全体を貫くテーマは、「日本人とは何か? われわれは、どこから来て、どこへ行くのか?」ということになりますが、その第1回の内容は「京都に秘められた古代の記憶」となります。

 イベントの詳しい内容、お申し込みは、

 こちらのサイトをご覧いただければ幸いです。

kyoto.impacthub.net

第1214回 日本の古層をめぐる旅 イベント開催 第1回「京都に秘められた古代の記憶」 

2016年から日本の古層を探求し続けて、これまで2冊の本を発行してきましたが、このたび、IMPACT HUB京都において、映像&トークを行うことにいたしました。

 全体を通したテーマは、「日本人とは何か? われわれは、どこから来て、どこへ行くのか? 日本の聖域に秘められた古代の記憶を探る」ということになりますが、その第一回目を、2月27日(日)午後3時から行います。

 内容は「京都に秘められた古代の記憶」となります。

*古代の京都なので、山城国(現在の京都市京田辺市向日市長岡京市木津川市)のことです。

 イベントの詳しい内容、お申し込みは、こちらのサイトをご覧いただければ幸いです。

 

kyoto.impacthub.net

 

 現在、継続中の「Sacred world 日本の古層」プロジェクトでは、日本の聖域に秘められた古代の記憶にアクセスし、日本人の世界観や死生観に通じる日本文化の深層を浮かび上がらせる試みを行なっており、そのアプローチを、年に一回、本という形にしていくことを目標にしていますが、こうしたテーマにご関心を持たれる方がおられるようでしたら、今後、イベントも定期的に続けていきたいと思います。

 近年、考古学的な新発見があまりにも多く、それらの新発見を専門家は歴史の新解釈にまでは落とし込めていません。

 また、世界的にもグーグルアースなどの最新のテクノロジーが、これまでと違った古代の探求ツールとして活用されています。

現代の歴史探求は、考古学だけでなく、地理や地勢、そして神話などの文献資料などを統合したアプローチが必要になっていますが、それらの領域が分断されているのが現実です。

 正しい答えを求めることが現代の学問の主流ですが、その時の正しさは、次の創造や発見によって、間違ったものになってしまうことが歴史的には繰り返されています。

 おそらく大事なことは、実証的な正しさではなく、「世界への向き合い方」の正しさであり、その正しさとは、一つの正しい答えではなく、関わり方やアプローチの誠実さではないかと思います。

 関わり方やアプローチの誠実さというのは、やはり、ミッションに関わることであり、それは、正義の大義名分や学問のための学問とは真反対の、未来への祈りに通じるものだと思います。

 そして、古代から編まれてきた神話もまた、「世界への向き合い方」の正しさをベースにした、未来への祈りをもとに創造されたのではないでしょうか。

 そういう意味で言うなら、現代にも、新たな神話が必要なのだと思います。

 

 

ピンホールカメラで、日本の古層をめぐる旅

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第1213回 現代もまた銀河鉄道の旅の途中

  

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(小池博史ブリッジプロジェクトのInstagramから)

 

 昨日、小池博史ブリッジプロジェクトの「Milky Way Train」を観てきた。

 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を基点にした小池さんのオリジナル世界。

 小池さんの舞台を観に行く人で、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を期待して観に行くような人はいないと思うが、小池さんは、宮沢賢治の世界を解体して再構築する。

 だから、頭の中に宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」しかない人は、わからないと言うだろう。

 そもそも、どんな表現でもそうだが、「わからない」という人は、自分の中にあるものを確認したいだけか、事実の答えしか求めない人。

 事実の答え合わせではなく宮沢賢治の神話的世界を、どう体験するかが大事であり、「ああ、あの銀河鉄道ね」と頭にあるものをなぞって安心させて喜ばせるようなものは、神話的体験にならない。

 小池さんの舞台では、銀河鉄道に乗って宇宙の果てをめざしながら、その旅の途中、タイムトリップして太古の地球の世界を通過する。6000万年以上前の恐竜の世界も、数万年前の人類誕生、もしかしたら数百年前のどこかの村が、ひとつながりになる。さらに、死後の世界も通り抜けていく。

 もちろんそれらの世界は事実ではなく、イリュージョンだ。しかし、夢が現実なのか現実が夢なのか、いったい誰が確定できるのか。

 それよりも大事なことは、宇宙の果てとか地球の歴史とかに関する科学的事実を知ることより、肉体の束縛が、消えていく感覚。

 けっきょく、頭で色々なことを知っても、限界ある肉体の呪縛から自由になれなければ、人間にとって救いはない。

 肉体の呪縛から自由になるということは、魂の世界に重点がいくということで、救いは、そこにあり、神話は、その回路へと導く舞台装置。

 小池さんの舞台は、神話の謎どきではなく、舞台それ自体が神話になる。

 具体的な事実を伝えるのではなく、現実を超えたもののリアリティの体験が小池さんの舞台にはあるのだが、この体験を、アニメーションで表現するのではなく、肉体という制限のある媒介を通じて表出するところに、小池さんならではのクリエイティビティががある。肉体は、アニメーションのように、想像のまま動かすことはできないから。 

 小池さんは、その人間の肉体を振り出しに戻すところから、物語を編んでいく。小池さんの舞台の特徴とも言える猿のような身体の動きとか、発声。小池さんは、人間という枠が定まってしまっていない状態から、人間世界を作り直そうとするのだ。

 人間は、自分の目で世界を見て、世界のことを考えて、わかったつもりになっている。

 しかし、その視点や思考は、人間世界の中で積み重ねられてきた慣習に大きな影響を受けて歪められている。

 それぞれの時代社会において特定のものの見方や捉え方に、私たちの目や思考は、支配されているのだけれど、そのことに自覚的な人は、あまりいない。

 実は、その支配が、人間を不自由に、不幸にする原因になっていることが多い。

 もっとも卑小なケースは、「お金持ちの人と結婚すれば幸福になれる」とか、肩書きで人を判断するようなことも、その一つだ。

 そもそも幸福の概念じたいが、特定のものの見方や捉え方に支配された結果。

 最近、少しずつ次の「Sacred world 日本の古層」を整え始めていて、その中でニライカナイのこと考えていたのだけれど、ニライカナイを定義づけても意味がない。

 事実を確定させるのではなく、魂がやってきて、魂が還っていくところを、昔の人は、ニライカナイという世界観で捉えていて、もちろんそれもまた、科学優先のこの時代からすれば迷信に支配された思考なのだけれど、逆の立場からすれば、科学という迷信に支配されたのが現代人でもある。

 どちらがどうだという議論ではなく、思考をいったん振り出しに戻すところから始めればいいのではないか。

 小池さんは、どの舞台でもそのスタンスは一貫していて、肉体の動きと音と色を混ぜ合わせて、混沌の中の統合的宇宙を、そして、無秩序に見えるもののなかに隠れた、秘密の秩序を示そうとしている。頭でわかるではなく、身体でそれを感じられるように。

 私が、今回、制作した「The Creation 生命の曼荼羅」にも通じるところがあると私は思う。

 現代もまた、銀河鉄道の旅の途中なのだ。

 

 

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第1212回 伊豆と鹿島と九州における海人や縄文時代とのつながり。

 

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(熱海 来宮神社
 一昨日のエントリーで伊豆の来宮(キノミヤ)神社と海人と縄文時代の関係について書き、さらにキノミヤ信仰が鹿島踊りと関わりが深いと述べたが、「鹿島」は、茨城の鹿島だけでなく、海人と関わりの深いところに地名が残っている。

 たとえば、長野の安曇野周辺は、海人の安曇氏の拠点だったところとして知られているが、ここに鹿島川が流れている。

 北アルプスを源流とする鹿島川は、南に下って鹿島扇状地となり大町市犀川と合流するが、その合流点から20km南、犀川高瀬川と合流するところに安曇氏とつながりの深い穂高神社がある。

 

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安曇野穂高神社

 また、鹿島川から山を隔てて4kmのところに青木湖があるが、ここは、映画、犬神家の一族で、「湖面から逆さに突き出す両足」が撮影された場所である。長野県内では諏訪湖野尻湖についで3番目に大きく、透明度が水深58mと長野県で一番の湖だが、流入河川が無いにもかかわらず水位が維持されており、湖底にかなりの量の湧水があると考えられている。また、湖底をはじめ周辺には水晶が多いことが知られている。

 そして、このあたりの湧水が姫川の源流である。新潟の姫川は、日本列島を東西に分かつ糸魚川・静岡構造線に沿って流れているが、ヒスイの産地として知られ、ここのヒスイが、縄文時代、日本各地に流通していた。

 北九州の霊山、英彦山の北山麓の後遺跡(福岡県田川郡添田町)や、青森の三内丸山遺跡から新潟県姫川産のヒスイの大珠が出土している。北海道、東北、茨城県、沖縄でも見つかっており、姫川産のヒスイの分布は、縄文時代に、かなり広範囲に流通していた。

 ヒスイは、日本で産出する岩石の中でも最高度の「硬さ」を誇る宝石で、それを加工し、製品化するには労力と技術を要する。そして製作途中の未完成品が出土する地域は全国でも数箇所に限られているので、石の産地と、それを加工、製作する人々が住む地域と、その完成品を欲する地域が、海上ネットワークで結ばれていたと考えられる。

 鹿島神宮の鹿島は、鹿の島のことであり、そのルーツは北九州の志賀(しか)島で、志賀島は、安曇氏の拠点である。

 海洋民族の安曇氏は、弥生時代の曙において、稲作文化を中国南部から日本に伝えるうえで大きな役割を果たしたとされるが、新潟産のヒスイが、北九州や、茨城の縄文遺跡からも発見されていて、それらの地に鹿島=志賀の島の名が残されていることから、安曇氏という名が歴史に登場する以前、縄文時代に遡る海人ネットッワークが、それらの地を結んでいた可能性が高い。

 鹿は海を群れて渡ることから、古代より海人との関わりがあるとされているが、安曇氏の拠点である志賀島の志賀海(しかうみ)神社の拝殿前に「鹿角庫(ろくかくこ)」があり、その中は、鹿の角で埋め尽くされている。

 また、『住吉大社神代記』で、神功皇后に関する次のような記録がある。

 熊襲二國を平伏(ことむけ)、新羅國より還り上り賜ふ時、鹿兒(かこ)に似たるもの海上(うみ)に満ちて浮び漕來(きた)れり。見る人皆奇異(あやし)み、「彼れ何物ぞ。」と云ひて鹿兒に似たる物を問ふ。近くに寄りて筑志(つくし)の埼に來り着きて見れば、藪十餘人(あまたのひと)たち、角ある鹿の皮を着て衣袴(いころも)と着(な)す梶取(かじとり)・水手(かこ)人の大神の舟を漕ぎ持ちて來るなり。故、其の地を鹿兒(かこの)濱と号く。」(『住吉大社神代記の研究』田中卓著作集より)

 古代、北九州の筑後平野に筑志米多国造 ( つくしのめたのくにのみやつこ ) という国造が設置されていたので、筑志の埼というのは、この場所を指している。

 すなわち、三韓遠征から神功皇后が凱旋する時、筑志の海の上を鹿の子のようなものがたくさん浮かんでいるように見えて、それが何かと近づくと、角のある鹿の皮を着た大勢の人たちが船を漕いでいたという意味になるが、その大勢の人たちは、海人だろう。

 後漢光武帝が、建武中元2年(57年)に、奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印だとみなされている純金製の漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)。

 教科書には必ず載っているこの金印が出土した場所は、安曇氏の拠点、九州の志賀島だと考えられている。

 そして、志賀島から北九州の博多、春日市大野城市にかけての福岡平野一帯は、御笠川那珂川が流れているが、この地域は古代の那珂郡であり、ここが、中国の『後漢書』や「魏志倭人伝」に表れる奴国であるとされる。

 那珂郡には縄文晩期の水田跡が発見された板付遺跡がある。さらに遺跡内のゴボウ畑から、地元の考古学研究者である中原志外顕(しげあき)氏が、縄文時代終末期の夜臼式(ゆうすしき)」土器と、弥生時代初期の「遠賀川式(おんががわしき)」土器を一緒に採集した。板付遺跡は、日本で最初に縄文と弥生の二つの時代が重なった場所とされている。

 そして、興味深いことに、鹿島という地名のある茨城県には、那珂という地名もあり、721年に完成した『常陸風土記』にも記録されている。

 水戸とひたちなか市のあいだに那珂川が流れているが、その周辺には数多くの古代の遺跡がある。そして、石器時代ではシベリア文化との繋がりが強い細石刃文化が見られ、縄文時代は、東北地方、北陸地方南関東地方のさまざまの要素が流入しており、新潟県の姫川産のヒスイが那珂台地で発見されている。また、弥生初頭の海後遺跡では、水稲栽培が見られる。

 九州と茨城に、那珂という土地が存在し、ともに縄文時代からの弥生時代にかけて、遠く離れた地との交流が裏付けられる遺跡が充実し、国譲りにおいて重要な役割を果たすタケミカヅチを祀る鹿島神宮が茨城に鎮座している。

 鹿島神宮の祭神であるタケミカヅチノミコトのところに、アマテラス大神の使者としてやってきた天迦久神(アメノカグノカミ)の「迦久」は鹿児(かこ)の意で、これは、上に述べたように海人と関係の深い鹿の神であるとされる。また、奈良の春日大社は、タケミカヅチ鹿島神宮から神鹿の背に乗ってやってきたとされ、春日大社でも鹿が聖なる生物となった。

 安曇氏の拠点である九州の志賀島と、鹿島の地である茨城は、ともに古代の海上ネットワークの拠点だった。

 初代神武天皇の母親にあたる玉依毘売と、祖母にあたる豊玉姫は、ともに安曇氏の祖神に位置付けられるワタツミの娘であるので、神話づくりの段階において、海人の安曇氏の存在が重要視されていたことは明らかだ。

 しかし、天孫降臨の息子の山幸彦は、ワタツミの力を借りて兄の海幸彦を懲らしめたのだが、その海幸彦は、南九州の阿多隼人の祖とされている。

 そして、山幸彦と海幸彦を産んだコノハナサクヤヒメは、別名が神阿多都比売(かむあたつひめ)であり、この女神もまた、南九州の阿多隼人の女神を意味する。

 ゆえに、コノハナサクヤヒメの長男の海幸彦が、南九州の阿多隼人の正統であり、次男の山幸彦が、安曇氏の祖神であるワタツミの力を借りて海幸彦に象徴される阿多隼人を懲らしめて従属させたことになる。

 この阿多隼人と、海人の宗像氏は同族である。

 宗像氏は、宗像三姉妹を祀る全国の国宗像神社の総本社・宗像大社の大宮司家であり、主に玄界灘に活動の痕跡が残り、九州と朝鮮半島のあいだの海運で活躍した勢力として知られるが、阿多隼人の吾田片隅命を祖としている。

 阿多隼人は、フィリピンやインドネシアなど南方から黒潮に乗って北上した海人であると考えられているので、宗像氏は、もともとは南方からやってきた海人だということになる。

 それに対して安曇氏は、稲作が日本に伝えられる際に活躍した海人であり、中国の江南と関わりが深い。

 古代、異なる海人が存在し、日本が一つの国にまとまっていく段階において、海人のなかでも力関係の変化があった可能性があるのだ。

 だとすると、阿多隼人の女神コノハナサクヤヒメの父、オオヤマツミ神は、いったい何を意味するのか?

 オオヤマツミ神は山の神であるが、渡しの神でもある。水上交通のための船の材として山の森林が重要だったし、日本は海や湖や河川にそって特徴的な形の山が多く、それらは海人にとっての目印になっていた。ゆえに、オオヤマツミ神もまた海人と関わりの深い存在だと考えられる。

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大三島大山祇神社
  オオヤマツミ神を祀る神社の本拠地は、愛媛県大三島町大山祇神社であり、ここは、古くから西日本と近畿を結ぶ水運交通の要だった。

 また、淀川流域の三島鴨神社もそうで、ここは、古代、重要な軍港だった。 

 そして、伊豆の三嶋大社の祭神の三島明神は、江戸時代の国学者平田篤胤が事代主のことだとしたが、それ以前の記録では、オオヤマツミ神であり、ゆえに現在は、この両神主祭神となっている。

 三島明神は伊豆諸島の開拓神であり、三宅島から伊豆下田の伊古奈比咩命神社=白濱神社が鎮座する場所に移り、その後、現在の三嶋大社の地に移ったとされるが、下田の伊古奈比咩命神社では、縄文時代の祭祀場の跡が発見されている。

 

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(伊豆下田の伊古奈比咩命神社)

 この三島明神オオヤマツミ神)の最初の妃が、黒曜石の島、神津島の女神、阿波姫である。この女神は、熱海の多賀神社(白浪之彌奈阿和命神社)、掛川の粟ヶ岳山頂の阿波々神社など、海人とも関わりのある地で、かつ縄文祭祀とつながっている地に祀られている。

 三島明神オオヤマツミ神)と縄文は、深く関わっているのだ。

 だとすると、オオヤマツミ神の娘のコノハナサクヤヒメが南九州の阿多隼人の女神であるとすると、もう一人の娘、磐長姫は、いったい何を意味するのか?

 天孫降臨のニニギは、この磐長姫を忌避した。

 この謎を考えるヒントが、伊豆にある。

 一般的に、富士山の女神はコノハナサクヤヒメであり、富士山に対する信仰の神社である浅間神社は、コノハナサクヤヒメが祭神のところが多い。

 しかし、西伊豆の標高162mの烏帽子山の山頂に鎮座する雲見浅間神社と、東伊豆の大室山の火口に鎮座する浅間神社の祭神は、ニニギに忌避された磐長姫(コノハナサクヤヒメの姉)だ。

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西伊豆の雲見浅間神社

 この二つの神社に共通しているのは、いずれも富士山を遠望できる場所で、なおかつ火山と直接関係のある場所に鎮座しているということ。

  東伊豆の浅間神社が鎮座する大室山は、4000年前に噴火した火山であり、西伊豆の雲見浅間神社が鎮座する烏帽子山は、火山の地下深くのマグマの通り道が地殻変動で隆起して地表に姿を現したものだ。

 さらに、富士山の五合目に鎮座する富士山小御嶽神社の祭神も磐長姫である。

 小御嶽は現在の富士山より先に「富士」に出現した山で、小御嶽と古富士の二つの山を土台に噴火を繰り返し、形作られたのが現在の富士山であり、その小御嶽の山頂部分に磐長姫が祀られている。

 また、東伊豆の大室山の浅間神社と、富士山小御嶽神社を結ぶラインを延長すると、八ヶ岳権現岳であり、この山頂に檜峰神社の祠があり、ここでも磐長姫が祀られている。

 つまり伊豆半島から富士山を通って八ヶ岳まで一直線のラインが引かれ、それぞれの火山と関わりの深いところに磐長姫が祀られているのだ。

 そして、八ヶ岳の麓は、代表的な縄文文化圏である。

 そもそも、富士山の信仰の神社なのに、なぜ「浅間神社」なのか?

 浅間という名は、活火山で有名な浅間山群馬県と長野県の県境)が有名だ。

 しかし、九州の阿蘇山が望めるところにも浅間神社が鎮座しているように、「あさま」は火山を示す古語とされ、阿蘇山の「あそ」も同系の言葉であると言われる。

 実は、この長野の浅間山の周辺にいくつか鎮座している浅間神社もまた、伊豆半島浅間神社と同じく、祭神がコノハナサクヤヒメではなく磐長姫なのだ。

 富士山の噴火は、5世紀後半、清寧天皇の時のものが記録されているが、その後は781年、それ以降現在まで16回記録され、特に、平安時代には立て続けに噴火し、平安時代だけで10度の噴火がある。富士山と火山との関係が強く意識されたのは、おそらく平安時代だろう。

 特に864年の貞観の大噴火は凄まじく、『日本三代実録』によれば、この大噴火を受けて甲斐国でも浅間神を祀ることになり、865年に甲斐国八代郡浅間神社を建てたとあり、その時、コノハナサクヤヒメが祭神となった。

 それに対して、群馬の浅間山は、天武天皇の時、「685年、信濃国で灰が降り草木が枯れた」とする記述が日本書紀にあり、これが浅間山の噴火とされている。 

 685年というのは、日本書記や古事記が書かれる直前だ。

 なので、古事記が書かれた当時、大噴火と結びつけられる火山は、富士山ではなく浅間山だった。

 だから、火山と関係の深い神社である浅間神社は、もともとは富士山信仰の神社ではなく、浅間山に代表されるような大噴火と関係のある神社だったのだろう。そして、その時の女神は、磐長姫だったのではないか。だから、現在も、火山の痕跡の著しい東伊豆の大室山や、西富士の烏帽子山に鎮座する浅間神社の祭神が、磐長姫になっている。

 こうして見ていくと、どうやら伊豆から群馬や長野にかけての火山帯において、古代、火山と関わりのある女神が磐長姫だったのではないかと想像できる。

 (火山の島である三宅島に二宮神社が鎮座し、ここは、伊波乃比咩命神社の論社されるが、この祭神の伊波乃比咩命(いわのひめ)が磐長姫であるという説もあり、磐長姫を祭神とする西伊豆の雲見浅間神社も、伊波乃比咩命神社の論社である)。

 磐座は、風化侵食に負けない固い岩であるが、その多くは、火成岩や、火成岩が火山噴火で焼き固められた変成岩が多い。

 縄文時代の遺跡は火山周辺に多いことから、縄文人は火山を信仰の対象としていたと思われる。ゆえに、縄文人にとって磐座は神の宿る場所だった。

 しかし、弥生時代になって、火山活動は、農耕に大きな被害をもたらす厄災となった。だから天孫降臨のニニギは、火山活動を象徴する磐長姫を忌避した。それに対して、磐長姫の父親のオオヤマツミ神は、ニニギの子孫の寿命は短くなると嘆いた。

 実際にその通りとなり、火山と共存しながら安定し長く続いた縄文時代に比べて、弥生時代以降、人々の暮らしは不安定になり、変遷の著しいものとなったのだった。

 

ピンホールカメラで、日本の古層をめぐる旅

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第1211回 伊豆のキノミヤ信仰と、海人や縄文時代とのつながり。

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(熱海 来宮神社の樹齢2000年を超えるとされる楠木)

 熱海の来宮神社は、日本屈指のパワースポットなどと言われ、毎日、多くの参拝者が訪れている。本殿の左奥にあるご神木の大楠の巨樹は、樹齢2000年を超えると言われるが、樹齢1300年とされるもう一本の楠木は、約300年前の落雷を受けても強い生命力で、今でも葉を茂らせている。

 来宮神社という名の神社は、伊豆半島賀茂郡河津町伊東市伊豆市にもあり、伊豆のキノミヤ信仰があるところは、鹿島踊りの盛んな地域と重なっている。

 鹿島踊りは、その名のとおり茨城の鹿島神宮と関わりがあるが、本質的に、海からやってきた神を迎える儀式の踊りだ。

 古代、海人の安曇氏が拠点としていたところは、今でも長野県の安曇野や、滋賀県安曇川など、地名として名が残っているが、熱海(アタミ)とか渥美(アツミ)半島などもそうで、熱海は、その地勢的および地理的な理由で、古代から海人と関わりの深いところだった。

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(熱海 多賀神社 境内の蛙石=左側)

 熱海の南部の海岸沿いに鎮座する多賀神社には、縄文、弥生、古墳時代の祭祀場の痕跡が発見されている。境内の石塊の下から計4面の青銅鏡が出土し、石塊の下には玉石が敷かれてあるのが確認され、祭祀を行なった遺構であることが判明した。

 熱海の多賀神社に残された記録では、多賀神社の祭神は、多賀神社のすぐ南にある戸又海岸に漂着したと伝わる。

 多賀神社は、1711年に近江の多賀神社からイザナギ神とイザナミ神を勧請したが、ここは、式内社の白浪之彌奈阿和命神社(しらなみのみなあわのみことじんじゃ)、通称、阿波神社の有力候補であり、創建は、はるか1000年よりも前のことである。

 阿波神社というのは、古代、神々が集う島とされた神津島に鎮座する阿波命神社と同じであり、神津島は、品質の高い黒曜石の産地だった。

 『続日本後紀』(840年)における記事で、神津島に坐す神である阿波神は「三嶋大社本后」とされ、江戸時代の平田篤胤は、この阿波神は、天津羽羽神と同じとしている。

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掛川の阿波々神社の磐座群)

 掛川の粟ヶ岳山頂に巨大な磐座祭祀場があるが、ここに鎮座する阿波々神社や、高知の赤鬼山の麓に鎮座する朝倉神社の祭神と同じである。

 静岡の掛川の粟ヶ岳は、海からも目立つ山で、古代から海人の信仰が厚かった。

 また、高知の朝倉神社は、俗称「木の丸様」と呼ばれる。その由来は、斉明天皇が、百済支援のために難波宮を出て西征し朝倉宮を築いた場所がここで、朝倉神社背後の赤鬼山の木を切って山麓に宮を築き、その宮を「木の丸殿」と称したからだと地元では伝えられる。

 朝倉宮が築かれた場所の候補地はいくつかあり、北九州の朝倉が有力視されているが、具体的にどこかはわかっていない。

 高知は、現在も森林率が84%と日本一なのだが、高知が朝倉宮の候補の一つになっているのは、百済支援の遠征には莫大な船が必要で、その船材として高知の材木資源が使われたからかもしれない。

 そして、伊豆もまた、応神天皇の時代に造船が行われたと記録されているように、古代、木材の供給地だった。高知と伊豆は、黒潮でつながっており、神津島と高知に、天津羽羽神=阿波神が祀られている理由も、そこにあるかもしれない

 しかし、神津島の黒曜石の流通は石器時代縄文時代にまで遡る。だとすると、数千年、数万年前に、海人のネットワークがあったということなのだろうか。

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足摺岬唐人駄場の巨石群)

 高知県足摺岬は、黒潮が直接ぶつかる場所であるが、ここに唐人駄場(とうじんだば)の巨石群がある。唐人とは異人、駄場とは平らな場所という意味を持ち、この周辺では、縄文時代早期(7000年前)の耳飾、縄文前期(6000年程前)の土器片、石斧、石錐、石鏃などが出土し、さらには弥生の土器片、古墳時代の須恵器片など、多数の石器や土器なども出土している。

 そして伊豆半島の海人と関わりが深い来宮神社が鎮座する場所、熱海には縄文時代の祭祀場があるが、それ以外の場所も、縄文時代の痕跡が残っている。

 伊東市八幡宮来宮神社は、単成火山の大室山の真南3kmのところに鎮座しているが、特徴的な形の大室山は、海を航海する人々の目印だったとされる。

 また、八幡宮来宮神社の社殿の周囲からは土器や石器の欠片や黒曜石の鏃などが多く出土している。

 この神社の祭神は、伊波久良和気命(いわくらわけのみこと)で、磐座の神の意味だろうとされる。この神は、太古の昔、現在の神社の場所から南東に1kmのところの海岸に漂着し、「堂ノ穴」という海蝕洞窟に祀られていたからだと考えられている。

 また神社の本殿の裏には洞窟があり、この洞窟は下田の伊古奈比咩命神社に繋がっている と伝えられてきた。

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(伊豆下田の伊古奈比咩命神社)

 八幡宮来宮神社の神事においても、かつては竹筒に神酒を入れて下田の伊古奈比咩命神社に送っていたようだが、伊古奈比咩命神社には、 縄文時代の祭祀場跡が存在する。

 この伊古奈比咩命神社は、三宅島から上陸した三島明神が最初に宮を築いたところとされている。

 さらに、伊豆半島の東岸の賀茂郡河津町には、川津来宮神社(別名 杉桙別命神社)が鎮座している。この神社の祭神は杉桙別命神だが、ここもまた漂着神の伝承があり、神社の場所から南東1kmほどの木の崎(現在は鬼ヶ 崎)に流れ着き、最初はその場所に祀られ、後に今の場所に移されたという。

 社伝によると、この神社は、古代から鎮座していたが、和銅年間(708 - 15年)に再建されたとされる。境内にそびえる神木の大楠は、10世紀の「延喜式」にも記録されており、1100年も前の時点でも注目に値する樹木だった。この楠木は、一般的な楠木が地上から近いところで枝分かれしているのに対して、太い幹がかなりの高さまで伸びたところで枝分かれしており、非常に美しい姿をしている。

 

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(河津来宮神社の樹齢1000年を超える楠木)

 河津来宮神社は姫宮遺跡という縄文遺跡の中にあり、かつての祭祀場であった可能性が高い。河津来宮神社の1kmほど東の高台には見高神社が鎮座し、その社殿は真西の河津来宮神社を向いている。また見高神社の背後には段間遺跡があり、ここからは、重さ約19キロの黒曜石の原石や薄片など計254kgも出土しており、この場所で鏃や斧なのでに加工されて、各地に運ばれていたのではないかと考えられている。

 古代、神々が集う島とされた神津島は、品質の高い黒曜石の産地だった。日本には、神津島以外に、八ヶ岳和田峠隠岐や瀬戸内海の姫島など代表的な黒曜石の産地があるが、とくに神津島の黒曜石は切れ味が鋭く、関東や中部地方の太平洋岸を中心に西は伊勢湾、能登半島まで分布している。

 30,000年前よりも前の旧石器時代から、神津島の黒曜石は本州で使われており、当時の人々が、船を使って黒曜石を運んだことがわかっており、河津町の段間遺跡が、その流通の拠点だったと考えられている。

 また河津来宮神社は、本殿が南東を向いており、その方向には新島、さらに三宅島がある。

 三宅島は、三島明神の本貫の地とされ、三島明神は、ここから伊豆半島へと上陸し、その上陸の場所が下田の伊古奈比咩命神社とされるが、河津来宮神社が三宅島の方向を向いているのは、ここもまた、三島明神と関わりが深いことを意味している。

 三島明神は、江戸時代の国学者平田篤胤事代主命のことだとしたが、それ以前は、オオヤマツミ神のことを指していた。そのため、現在、静岡の三嶋大社では、その両神主祭神として祀っている。

 河津来宮神社の参道は河津川に並行するが、河津川は、天城山塊が源流である。そして、天津山塊を源流として河津川の反対側、三嶋大社の方に向かって流れていくのが狩野川である。

 狩野川の流域は、古代から船材に適した楠木の産地であり、日本書紀には、応神天皇が、この地で船を作らせたとの記録がある。その木材の集積地もしくは造船の地が、三嶋大社から真南20kmのところに鎮座する式内社の軽野神社だとされるが、偶然なのか、軽野神社は、神津島と河津来宮神社を結ぶラインの延長線上である。そして、この軽野神社から東に6.5kmのところ、狩野川の支流の大見川のほとりの高台に伊豆市来宮神社がある。

 伊豆市来宮神社から西1.7kmのところ、大見川沿いに上白岩遺跡がある。ここは、縄文中期から後期にかけての遺跡で、埋甕(うめがめ)」と呼ばれる人の埋葬施設や住居跡が発見されているが、完全な形でストーンサークルが発見された。

 縄文時代ストーンサークルは、北海道から東北地方に中部地方と、東日本に偏って存在している。​

​ 上白岩遺跡のストーンサークルは、直径12メートル。この南に長さ10mの帯状列席が構築され、長径約2mの円形の組石が接している。この配石遺構からは、石皿・石棒なども多く発見された。ストーンサークルの外側には、4基の竪穴住居跡と、約60基の土坑も発見された。

 出土物のなかには、八ヶ岳周辺の縄文遺跡から多く発見されている人面把手付きの土器の破片が見られる。人面把手付土器は、土偶のように意図的に壊されたと思われるものが多く、土偶と同じく祭祀用だった可能性がある。

 このように見ていくと、伊豆のキノミヤ信仰と関わりの深い来宮神社が鎮座する場所は、海人との関わりとともに、縄文時代とのつながりが濃厚である。

 

 

ピンホールカメラで撮った日本の聖域と、日本の歴史の考察。

2021年7月5日発行  sacerd world 日本の古層 vol.2   ホームページで販売中

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第1210回 出版不況のなか、あえて写真集を作るなら。

 このたび制作した大山行男さんの写真集「The Creation 生命の曼荼羅」。

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 発送作業も一段落し、届いた方から、メッセージをいただいています。幸いなことに、今のところ、不満の声は届いていません。

 私は、これまで同じ印刷方法で、自分の「Sacred world 日本の古層」を二回、発行しましたが、他の写真家でのチャレンジは初めてだし、カラー印刷は初めてだったので、少しは心配していました。ただ、印刷は、モノクロの方が難しく、モノクロである程度は納得できるものだったので、カラーは大丈夫だろうとは思ってはいましたが。

(モノクロは、白黒だけで表現するので、白黒の濃淡のバランスが少しブレるだけで印象が変わってしまうのです)。

 「The Creation 生命の曼荼羅」の写真集は、税込、運賃込みで1500円で販売しているので、もっと薄っぺらいカタログのような本が届けられると思っていた人が多かったようで、ボリュームと、再現性のクオリティにびっくりしている人が、けっこういました。

 私は、近年、自分のまわりの写真家でもそうですが、出版社に共同出版を持ちかけられて、小さくページの少ないもので250万円、ちょっと大きくなると400万円も負担させられて写真集を作っている人が増えていて、そのことにものすごく違和感を感じています。写真家にお金がない場合は、クラウドファンディングをするように促されて。

 クラウドファンディングで作ることを否定する気はありませんが、クラウドファンディングは、お礼状その他の付加価値をつけて、実際価格よりも高額の負担を強いることで目標金額に達することを目論むものが多いです。なので、一度は協力してもらえても、何度も繰り返しやったりすると、辟易される可能性があります。

 クラウドファンディングをするくらいなら、適正価格で事前予約をとって、印刷すればいいのです。お金の流れとしては同じです。お付き合いでお金を払ってもらうのではなく、本当に欲しいと思ってもらえるかどうかというジャッジを、作り手は自分に課した方がいいです。お付き合いで買ってもらっても、ちゃんと見てもらえなければ、せっかくの作品は死んでしまいますし。

 とはいえ、もはやどこの出版社も、写真集を作ってもメリットがないと思っているのが現実であり、自費出版にするにしても作家の負担が大きすぎる現実があります。

 なので、私は、何人かの友人の写真家に、こういう方法もあるよと、私の方法を実践してみせているのです。

  「The Sacred world 日本の古層」は、モノクロ1色の印刷で1000部作り、税込、運賃込みで、印刷代は45万円くらいです。

 今回の「The Creation 生命の曼荼羅」は、カラー印刷で1200部作り、総額65万円くらいです。

  写真集でよくやるようなモノクロの特色使いはできないのですが、風の旅人の時のように4色でモノクロ印刷をすることは可能で、そうすると、黒はもう少し締まります。私は、「Sacred world日本の古層」は、文章も多いので、あえて4色にはしていません。4色にすると、10万円強、コストアップします。

 この方法で一番心配なのは、校正刷がないことです。物理的に校正刷は可能です。しかし、総額が65万円と安いのに、校正刷代が一回で同じくらいのコストが必要です。

総額が300万円くらいになるとすれば、その300万円を無駄にしたくない心理が働き、慎重に校正を行なって360万円になっても仕方がないということになります。

 しかし、総額が65万円となると、校正刷りを出して130万円にする必要があるのかどうか、ということになります。だったら思い切って作ってしまえばいいんじゃないかという発想。

 というのは、昔と違って、現在、校正刷はそんなに意味がありません。

 昔は、ポジとかプリントを入稿して印刷会社が、写真を4色に分解していました。なので、その結果を校正刷りで確認する必要がありました。

 しかし、今は、データーの作成を制作者側で行い、そのデーターの出力結果を校正で確認するだけのことです。そして、修正が必要な場合は、けっきょく印刷会社側が、入稿データをフォトショップで修正をするのです。それゆえ、入稿データは、印刷会社も対応できるadobeインデザインなどのソフトで制作することが求められるのです。

 だったら、入稿前に、どのように出力されるかを制作者が判断してデータを作れば、校正刷は必要ありません。

 制作者側が作ったデータに忠実に、印刷されるだけです。

 制作者側が作ったデータは、データが固定されるようにPDFデータに変換します。

 その PDFデータを、印刷会社は印刷データに変換します。近年、この変換技術がレベルアップしているのです。

 その印刷データから刷版を作り、印刷を行うという流れができていますから、印刷会社は、昔のように営業担当の人間が、制作側と印刷現場のあいだを行ったり来たりして、制作者側の要求を伝えるなんてことはしません。そういう人件費もすべてコストにはねかえっているだけです。

 もちろん、本の作り方はいろいろあります。手作り感を出した凝った製本にするとか、制作者側の欲求にそって、その分、コストをかければ何でもできます。

 私の場合は、風の旅人も、森永純さんの「Wave」や鬼海弘雄さんの「Tokyo view」など大型写真集も、体裁にコストはかけず、写真の力を最大限に引き出すことだけに力点を置いて作っています。中身重視です。

 それは個人的な性格にもよるもので、食べ物なども、見た目が悪くても、うまいと感じられるものが好きなのです。

 パッケージなども、どうせゴミになるからという野暮な気持ちが強いですし、本も、帯とかカバーが嫌いです。あれがあると読みにくいので、読み始める前に外して捨ててしまいます。手に持った感じ、手に触れた感じで、いい感じの物の方が、服なども好きです。

 人それぞれですが、どこにコストをかけるかの違いです。

 デザインソフトなども、いろいろと複雑なことができるアドビのインデザインの方が信頼性があるかのような錯覚で、高いお金を出して、みんなそれを使います。

 毎月5000円も支払って。私は、1ヶ月間の無料トライをやってみて1週間で、これは必要ないと判断して辞めて、1回だけ2000円を払えばいいソフトをダウンロードして使っています。

 こちらの方が操作が簡単で、マニュアルなど読まずに直感的に操作ができるからです。

 広告のデザイナーで、クライアントから無理難題を言われても応えなければならないような人は、完全武装をして備えておく必要がありますが、ふつうに本を作るだけなら複雑な完全武装は必要ないです。

 最近、有名な出版社も、経営が苦しくなってきているのでしょうが、素人の人たちに向けて「あなたの本を、プロの編集者が作ります」といった広告を多く出しています。

 世の中の人々に本を買ってもらえなくなって収益が得られないので、本を作りたい人の本を作ってあげることを収益にしようとする戦略です。しかし、本を買う人が大幅に減少しているという現実認識があるにもかかわらず、素人に本を作らせようとしているわけで、大きな矛盾があります。モラルも何もないとしか思えません。まあ、そういう戦略に簡単に乗ってしまう人が多いから、そういうことができてしまう。

 自分の本が、ごく特定の本屋に置かれる(買ってもらえるわけでないのに)ことが誇りに感じられるというのは、もはや、完全に時代錯誤のような気がするのだけれど。

 

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