第1223回 ウクライナのことと、政治家の白痴化に対する不安。

 ウクライナとロシアの戦争について、歴史文化も国の置かれている状況も異なる日本に安住している自分が、何かの考えを持ったところで、それは浅いものにしかならないという自覚があった。

 今もその感覚は変わらないが、昨日、ウクライナのゼレンスキー大統領のオンラインによる演説が終わった時の、政治家たちのスタンディングオベーションや、山東昭子参院議長や岸田首相の発言の浅はかさに、黙っておられないという気持ちが強まった。

 「大統領が先頭に立ち、人々が命をもかえりみず祖国のために戦っている姿を拝見し、その勇気に感動している。一日も早く貴国の平和と安定を取り戻すため、私たち国会議員も全力を尽くす」(山東昭子氏)とか、「困難な状況の中で、祖国と国民を強い決意と勇気で守り抜いていこうとする姿に感銘を受けました。」(岸田文雄首相)など、あまりにも浅い思考と感性しか持たないレベルの低い政治家たちに自分たちの未来を預けなくてはならないということに、若い人たちは、もっと危機意識を持った方がいい。

 現在、ロシアの攻撃に対して必死に闘っている人たちについて、私は何も言える立場ではないけれど、ゼレンスキー大統領の政治家としての判断ミス(確信犯かもしれないが)のことが、人々の頭からすっかり抜け落ちていて、日本の政治家がそのことについて無自覚であるということは、彼らが同じ過ちを犯す可能性があるということで、そのことをはっきりと言っておきたい。

 そもそも、ゼレンスキー大統領が、NATOの一員になることに頑迷なまでにこだわり続けたことの責任はどこにいった?

 EUという経済協力関係によって、国の経済を立て直すということなら、まだ理解できる。

 しかし、NATOは、明確な軍事同盟であり、NATO加盟国の軍事費の合計は、世界全体の70%以上を占めている。そして、加盟国は、2024年までにGDPの2%以上の国防費を目標とすることに合意している。

 軍事同盟であるのだから、仮想敵があるということで、その仮想敵は、世界全体の軍事費30%以下に入る国々ということになる。

 国際的治安維持のためという大義名分で、この軍事力を使って、イスラム圏内の国々など、価値観が違ったり体制が違う国々が、これまで色々な理由をつけて攻撃の対象となってきた。

 ウクライナという国は、ロシアとNATO諸国のあいだに位置する巨大な国であり、資源にも恵まれているし、ロシアと欧州をつなぐ天然ガスのパイプラインが通っている。

 政治判断として、このポジショニングを生かして、あえてグレーの立場で駆け引きすることで国を発展させる戦略を練ることが、真の意味で国民のためになることだったのではないか。

 ゼレンスキー大統領の政治家としての未熟さ(政治経験の浅い彼を操る存在がいても不思議ではない)が、そうした賢明な判断を遠ざけたのではないか?

 もちろん、専門家でない私が、簡単に理解できない複雑な事情があるかもしれない。しかし、NATO加盟を強引に進める理由がどこにあったか、他の方法はあり得なかったのかと冷静に考えることを、せめて日本の政治家には求めたいが、「命をもかえりみず祖国のために戦っている姿を拝見し、その勇気に感動している」という発言からわかるように、この国の政治家の頭は、相当に悪い。

 もしも、日本が、ウクライナのように非常に微妙な判断と戦略が求められる状況になった時、彼らを頼りにすると大変なことになる、ということが、ひしひしと感じられる。

 考えが浅いくせに、ずる賢い彼らは、自分の判断ミスや思慮の浅さを隠し、祖国のために戦う勇気を強いて、思考停止に陥った群衆の大歓声で、命をかえりみない行動を促すのだろう。

 ゼレンスキー大統領には、一つ大きな誤算があった。彼は、NATO諸国が、ウクライナに加勢してくれると読んでいたのではないか。

 NATO軍が加勢してくれてロシア軍を追い出すと、彼は、国民的大熱狂のなか、ヒーローになっただろう。

 まさに、彼の本職のテレビドラマの、ポピュリズムに寄りかかったシナリオの主人公のように。

 しかし、彼の読みは外れ、NATOは、武器を提供するものの、慎重な姿勢を保ち続けている。

 イラクを敵にまわすのと違い、核保有国であるだけでなく、自国のエネルギーを依存しているロシアを、完全に敵にすることはできない。

 経済制裁などで揺さぶりをかけるのが精一杯なのだ。

 そうしているうちに、ウクライナ国内で人々が次々と亡くなっていく。

 しかし、ゼレンスキー大統領は、ここで負けを認めるわけにはいかない。NATO加盟を急いだ自分の判断ミスと、NATOの支援が得られなかった政治力の無さと読みの浅さが明らかになるからだ。

 ロシアのプーチン大統領の問題は、今さらここで述べるまでもなく、ありとあらゆるメディアが、そのことを伝えているので、多くの人が承知している。

 しかし、アクション映画のように、悪の帝王を設定して、ゼレンスキー大統領をヒーロー扱いするのは間違っている。

 彼の演説を聞いて、スタンディングオベーションをするなどという政治家の白痴化は、見ていて耐えられない思いがする。いったいなぜ、あんな演出が必要なのか。

 この時代、これだけ激しい戦闘中であっても、世界にメッセージが発信でき、敵国とも交渉ができる環境は残されている。

 ゼレンスキー大統領が、NATOという虎の威を借り続けているかぎり、国民の犠牲が大きくなるばかりだ。

 敗戦を認めたらロシアに国を乗っ取られるというイメージが浸透してしまっているが、そもそも、そうではなかったはず。

 ドイツとイタリアとフランスに挟まれた小国のスイスは、したたかな戦略で生き延びて、かつ豊かさを獲得してきた。

 ウクライナという国のポジションは、それに似ているが、ウクライナは、スイスなどよりはるかに広大で豊かな国土を持っている。

 パフォーマンスの得意な政治家ではなく、したたかな政治手腕を持つ政治家であれば、NATOなどという巨大軍事同盟の一員になどならずに、たとえば永世中立国という斬新な戦略を打ち立て、豊かな未来を築くことは、決して不可能ではないだろう。

 真の意味で優れた政治家というのは、ハリウッド映画のヒーローのような演説やパフォーマンスの上手な存在ではなく、何を考えているかわからないしたたかさで、難しい状況のなか最善のバランスを作り出す存在だ。ユーゴスラビアのチトー大統領のように。

 ウクライナと同様に、複雑な民族構成とソ連と西側諸国の挟まれて、チトー大統領は、ソ連の暴君であるスターリンと対等に渡り合い、見事な揺さぶりをかけてスターリンを諦めさせ、独自の社会主義路線でソ連社会主義に染まらず、西側からも協力を得るという絶妙なポジションを獲得した。そして、第三世界に接近し、東側でも西側でもない非同盟陣営を確立した。さらに国内においては、異なる宗教、異なる民族、異なる言語の国内において過激な民族主義を抑え込み、少数民族に配慮し、体制批判のメディアに対しても寛容な政策をとり、年率6.1%の経済成長を達成し、識字率は91%まで向上させた。残念ながら、チトー大統領が亡くなったユーゴスラビアは、あっという間に崩壊し、酷い内戦状態に陥ってしまったように、政治家の手腕一つで、国の運命が大きく変わってしまうということがある。

 どの国とも国境を接していない日本の政治家は、これまでも、そしてこれからも、誰がなっても同じという能天気な状況ですむのだろうか。彼らを選ぶ私たち自身が、危機感が弱く、思慮も浅く、感度も鈍いことが一番の原因だ。

 そして、ある日突然、今まで何も考えてこなかった政治家や大勢の群衆に、「命をもかえりみず祖国のために戦うこと」が、勇ましく感動的なことだとプレッシャーをかけられるなんてことが起こり得るのだろうか。

 若い人たちが、思考停止状態の老いた者たちの安住のために、そうならないことを切に願う。

 

 

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第1222回 学校で教えてくれない歴史の核心

 京都を訪れる人は、下鴨神社上賀茂神社を訪れることが多いと思うけれど、そこに祀られている神様のことが、よくわかりません。

 下鴨神社賀茂建角身命とか、上賀茂神社の賀茂別雷尊とか、覚えにくい神様の名前で、正直言って、なんだかよくわからない。けれど、なんか、とても大事な神様だろうってことは感じられる。

 賀茂の神が祀られている場所や、”かも”という名前の土地は、日本にたくさんあって、その中で代表的なのが京都。

 京都は、賀茂の神様の地であり、祇園祭とともに京都を代表する祭りの葵祭は、賀茂の神様の祭り。

 この祭りの起源は、今から1450年ほど前、欽明天皇の時代、賀茂の神の祟りを鎮めるために始まった。

 賀茂の神の祟りって何なのよ? という疑問はすっかり忘れられて、祭りは、その後もずっと続けられてきて、1000年前に書かれた「源氏物語」でも、重要な鍵を握る舞台になっている。

 よくわからないのだけれど気になる賀茂氏や、賀茂の神。

 京都は歴史の宝庫というイメージがもたれているけれど、多くの観光客が訪れる場所は、実は、そんなに古くなく、江戸時代以降の場所がほとんど。コロナ禍の前には観光客で溢れかえっていた祇園の花見小路は明治維新廃仏毀釈建仁寺の領地が削られてできた場所にすぎない。

 清水寺のある東山、金閣寺周辺、嵯峨野が、京都の三大観光地だけれど、この三つは、それぞれ鳥辺野、蓮台野、化野という風葬地帯だった。つまり死者の世界。だから、お寺もたくさんあって、それが今では観光の目玉になっている。

 京都の歴史は、実はもっと古い。そうすると、学校で習ったように「鳴くよウグイス平安京」の794年からの歴史を考えなければいけないと気づく人も多いけれど、実は、もっと古いところに京都の歴史がある。

 行基が作ったとされる行基図が、江戸時代に伊能忠敬が精密な地図を作る以前に広く活用されていた地図。この地図は、山城国(京都周辺)から道が全国に広がっているので、奈良時代に生きた行基とは関係ないもので、山城国が日本の中心になった平安時代以降に作られたものだと専門家は説明するが、なんでそんな矮小な発想になるのか。

 奈良の平城京が政治の中心だったからといって、奈良を中心に物事が動いていたわけではない。そもそも、奈良時代平城京にずっと都があったわけではなく、木津川のほとりの恭仁京、琵琶湖に近い甲賀紫香楽宮、大阪湾に面した難波京と、めまぐるしく遷都していた。この奈良時代の遷都は、今でも歴史の専門家のあいだでも謎とされるが、実は、これらの遷都地の背後に、”かも”が関係している。

 そして、古代から、山城国は、”かも”の地であり、だから、”かも”のネットワークが、山城国(京都周辺)から全国に伸びていっている行基図が、奈良時代に作られていても、何の不思議もない。 

 古代のダイナミズムを考えるうえで、水上ネットワークを抜きにすることはできない。

 たとえば都を建設する時には、膨大な木材や石材が必要になるけれど、これらを、遠いところから山を越えて、荷車でゴトゴトと運ぶことなど不可能。

 陶器類など壊れやすいものはなおさらのことで、だから、張り巡らされた川の道が、とても重要になる。

 添付した地図は、近畿圏の水上ネットワーク。

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  これを見れば、なぜ藤原京飛鳥宮から奈良の平城京に遷都することになり、奈良時代に遷都が繰り返され、さらに平城京から長岡京、そして京都へと都が移っていったかがわかる。

 (赤いマークが、都が置かれたところ。下から飛鳥、藤原、平城、恭仁京、長岡、平安京。大阪湾のところが難波京で、東が紫香楽宮で、琵琶湖湖畔が大津京) 

 飛鳥時代藤原京の時代は、和歌山県を流れる紀ノ川が重要視されていた。

 紀ノ川の河口からは、瀬戸内海や、四国の南を通って九州、逆方向の伊勢や東国への移動が便利。

 九州が大陸文化の玄関だったとすると、このルートが一番早かっただろう。

 奈良の平城京への遷都は、この紀ノ川ルートを犠牲にしてでも、木津川と大和川ルートを重視したということがよくわかる。

 都が北へと移動していくのは、それだけ日本海ルートが重視されるようになったからだ。

 白村江の戦い(663年)の時に百済が滅んでしまったが、百済は、日本と親交が深かった。百済というのは、朝鮮半島の西に位置しているので、そこから船に乗れば九州に到達する。

 しかし、最初は高句麗の属国にすぎなかった新羅が7世紀中旬頃から力をつけていって百済が滅んでしまうと、日本は新羅が交流の相手国になった。新羅は8世紀(奈良時代)に入ると朝鮮半島を統一するが、もともと朝鮮半島の東に位置していたので、ここから船に乗ると日本の山陰地方から若狭、北陸地方に辿り着く。

 この新羅の北、かつては高句麗があり、奈良時代からは渤海という国になったが、渤海からだと、船は主に福井の敦賀あたりが出入り口になる。

 奈良時代の中旬以降、新羅との関係が悪化し、唐とも距離を置き始めた日本において、最大の交流国は、この渤海だった。

 つまり、大陸との出入り口は、福井の敦賀だった。

 そのようにして、藤原京から平安京まで、都が北に移動していったけれど、古代から変わらず水上ネットワークの中心にあるのは、現在、石清水八幡宮がある場所。ちなみにこの場所は、紀ノ川の水運を担っていた紀氏の領地で、石清水八幡の神職は、この紀氏が世襲してきた。 

 この場所は、かつて巨椋池という広大な湖があり、多くの船舶が集まっていた。なぜならここは、淀川、桂川宇治川、木津川の結び目だから。淀川をくだって大阪湾方面、桂川を遡って丹波丹後方面、宇治川を遡って琵琶湖から福井。木津川を遡って、奈良、伊賀、伊勢方面。近畿の全ての場所に河川交通でつながっていくのが、この場所だった。

 そして、下鴨神社の祭神である賀茂建角身命は、別名が、三島溝杭といい、この謎の存在が、この河川交通の要の場所に大いに関係していた。

 奈良時代、最初は朝廷から弾圧されることもあった行基は、行基集団という民の力を結集し、各地に、灌漑施設や橋など様々なインフラを作り出し、聖武天皇は、菩薩のように人に崇められた行基を崇敬するようになった。そして、行基を僧侶全体のトップの地位に指名して行基の人望と動員力によって奈良の大仏の造立を成し遂げるが、その行基を支え続けていたのが修験者たちで、修験の祖の役小角は、賀茂氏だった。

 修験者が単なる山の修業者でないように、賀茂というのは、単なる神への信仰ではなく、公共事業などにも力が発揮されたように、人、物、金を動かし、まとめあげる力でもあった。

 そのあたりのことを、 3月26日(土)、 IMPACT HUB KYOTOで行う映像&トークで、深掘りしたいと思います。

 

第二回映像&トーク「Sacred world 日本の古層」BY 佐伯剛(風の旅人 編集長) - Kyoto

 

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第1221回 横のつながりだけでなく、時間を超えたつながり

 3月26日(土)第2回映像&トーク「Sacred world 日本の古層」開催いたします。

第二回映像&トーク「Sacred world 日本の古層」BY 佐伯剛(風の旅人 編集長) - Kyoto

 日本の観光名所の案内ではなく、日本の歴史の深層を想像力で旅する時間です。

 ヨーロッパを旅行する時は、歴史文化に触れることが大きな目的になりますが、その歴史は中世以降のものが大半で、1000年以上前となると、よくわかりません。

 中国やエジプトやローマやギリシャでは、もっと古い歴史建造物を見ることができますが、現代とのつながりを見出すことが難しくなります。

 それに比べて日本の歴史との関係は、独特です。日々の生活や街の中で歴史を感じることは、ほとんどありませんが、日本中どこにもある神社は、1000年以上前からの神様を祀っていて、人々は当たり前にお参りをします。

 また1800年くらい前からの古墳が、日本には160,000基も残り、人々が住んでいる地域に溶け込むように存在し続けており、その大半は、未調査で、その中はまるでタイムカプセルです。

 そのように、日本人は歴史と隣り合わせに生きていながら、その歴史が複雑すぎることもあって、その意味するところがよくわからず、いまだに謎のことばかりです。

 しかし、謎だと認識できるのは、記録や物など歴史の足跡が膨大に残っているからこそです。それらがいったい何を意味し、どういう関係であり、なぜそこにあるのか?

 そんなこと現代の我々の暮らしに何の関係があるのか?と、自分の人生に忙しい人は言うでしょう。

 しかし、ならば自分の人生っていったい何なのか?という大きな問いが、残ります。

 もし、自分の人生が、自分が生まれてから死ぬまでのあいだの限られた時間で、楽しいとかそうでないとか、悲しいとか嬉しいとか、楽だとか不便だとか、豊かだとか貧しいとかの分別に左右されるばかりで終わってしまうのは、なんだか虚しい。

 虚しいと感じる人が増えているから、人々とつながりたいと感じる人も増えているのだけれど、そのつながりは、同時代の横のつながりばかりが意識されている。同時代の横のつながりというのは、時とともに終わることが前提です。

 横のつながりだけでなく縦のつながり、すなわち時間を超えたつながりが人間界には存在しており、古代の人は、その大切さを理解していた。もしかしたら、現代人より古代人の方が、哲学的な深さがあったかもしれない。つまり、昔の人の方が、永遠というものに対する思いが強かった。

 現代社会は、消費社会であり、「永遠」という言葉なども、説得力もなければ重みもない、商品パッケージのラベルのような扱いになっています。

 創作活動に携わっている人でさえ、口に出すのも恥ずかしいものになっており、アートの価値も、新しい問題提起、新しい暮らしの演出、新しいスタイル、という基準で計られている。

 しかし、変わり続けているようで、けっきょく何も変わっていないということを、私たちは、うすうす感じている。

 そんな時、突然、1000年以上も前のことが、とても身近に感じられたりします。

 人間の思いというのは、1000年経とうが2000年経とうが、そんなに変わらないのだということに、今更ながら気づくことがある。そして、その気づきは、悠久の時が横たわっているゆえに、途方もなく壮大なイメージと一体化しています。

*イベントの詳細と、お申し込みは、こちらから。

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第1220回 卑弥呼の時代と第26代継体天皇のつながり

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西山塚古墳

 飛鳥の牽牛子塚古墳を訪れた後、天理にある第26代継体天皇の皇后、手白香皇后の西山塚古墳を訪れた。

 しかし、宮内庁は、すぐ近くにある全長230mの巨大な西殿塚古墳を手白香皇后の古墳だとし、陵墓の静安と尊厳の保持のため管理の対象としている。

 考古学的な調査で、この西殿塚古墳は、手白香皇后が生きた6世紀より200年ほど古いことがわかっており、すぐそばの西山塚古墳の方が手白香皇后の時代に合致していると研究者は判断している。

 また、継体天皇の古墳とされる今城塚古墳の全長が190mなのに、その皇后の陵墓だと宮内庁が治定する西殿塚古墳の方は230mで、天皇墳より巨大であり、その不自然さについて、宮内庁は、なんとも思わないのだろうか。

 これについて宮内庁は、考古学調査で継体天皇陵の可能性が高まった今城塚古墳の西にある太田茶臼山古墳(全長226m)を継体天皇陵だとしているのだが、この古墳は調査によれば5世紀中旬のものであり、継体天皇が生きた時代(6世紀以降)より古い。

 いろいろと矛盾があっても、宮内庁は、一度決めたものは、なかなか変更しない

 そして、さらにややこしいことに、全長230mの巨大な西殿塚古墳が、3世紀後半から4世紀前半の古墳だとわかってくると、近くに箸墓古墳があることもあって、箸墓古墳が以前に卑弥呼の古墳と騒がれたものだから、この西殿塚古墳は、卑弥呼の後継者のトヨの墓ではないかという新説も出てきた。

 そもそも前提の説の段階から矛盾がいっぱいだから、その矛盾を取り繕うために出てくる説が、さらに輪をかけておかしいものになっていく。

 箸墓古墳(全長278m)が卑弥呼の古墳だと騒がれたのは、三輪山の麓、纏向遺跡など初期ヤマト王権のものとされる遺跡の傍に建造された古墳の中で、古くて巨大だから、邪馬台国畿内説)の女王にふさわしい古墳ということになってしまった。

 しかし、卑弥呼の時代は弥生時代の後半で、大古墳時代にまだ完全に移行していない。

 箸墓古墳も、当初は3世紀中旬から後半という説もあったが、今では4世紀中旬以降ではないかと考えられているので卑弥呼の時代より100年ほど新しい。

  いずれにしろ、箸墓古墳卑弥呼の古墳だという説が出てきたのは、戦前であり、考古学的な成果もろくになかった時代だ。

 そして次に卑弥呼の古墳ではないかと騒がれたのが、木津川の椿井大塚山古墳。1953年、国鉄奈良線の拡幅工事の際に竪穴式石室が偶然発見され、当時最多の三角縁神獣鏡32面が出土した。

 この古墳は、全長175mで箸墓古墳より小さいが、3世紀後半の建造で、卑弥呼の時代にも近い時期の前方後円墳

 魏志倭人伝に、卑弥呼が魏から100枚の鏡を賜ったという記録があるため、この椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡こそが卑弥呼の鏡だと騒がれることになった。そして、三角縁神獣鏡は日本各地の初期古墳から少しずつ出土しているので、卑弥呼が、魏から授かった鏡を各地域の豪族に配り、同盟関係を結んだという説になった。

 しかし、三角縁神獣鏡は、その後も各地で次々と見つかり、合計100枚を軽く超えてしまった。さらに、このタイプの鏡は、中国本土から発見されなかった。つまり、日本のオリジナルではないかということになった。

 その大半の三角縁神獣鏡には年号が入っていないのだが、239年とか240年の年号がわかる鏡も出土した。これは、卑弥呼が魏から鏡を賜った年代と同時期なので、この鏡がそれかもしれないなどと人々をミスリードして鏡を展示している博物館もある。

 卑弥呼が鏡を賜ったのは238年であり、同時期かどうかが重要なのではなく、この年より前か後かが重要だ。238年より後の鏡だということになると、卑弥呼が賜ったものでないということは子供でもわかる。しかし、博物館の説明は、この238年を明記しておらず、矛盾をごまかし、人々を欺いている。どうせ、歴史のことは誰もよくわからんだろうという開き直った態度で。

 そして、椿井大塚山古墳が卑弥呼の古墳という説が完全に崩れ去ったのは、1997年、天理の黒塚古墳から33枚もの三角縁神獣鏡が出土したからだ。

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黒塚古墳

 この黒塚古墳は、手白香皇后の古墳のそば、柳本古墳群のなかにある。

 三輪山からこのあたりにかけて、山の辺の道という人気スポットで多くのハイカーが訪れるが、この地域に初期ヤマトの大古墳群が無数にある。

 そのなかで、この黒塚古墳が一番最初に作られたのではないかと考えられている。

 箸墓古墳、椿井大塚山古墳、黒塚古墳は、大きさは違うけれど、形は、ほぼ相似形。京都の向日山の五塚原古墳も同じ。

 いずれにしろ、黒塚古墳からも大量の三角縁神獣鏡が出土したので、この鏡は卑弥呼の鏡ではないと、はっきりとした。

 しかし、これだけ大量に出てきて、しかも同じ鋳型から作られた鏡が日本各地の古墳から発見されているので、この鏡を使った地域間の交流があったことは確かだろう。三角縁神獣鏡は、卑弥呼の鏡ではないが、ヤマト王権の拡大と関わっている可能性は否定できない。

 日本国内で発見された鏡のうち、卑弥呼の鏡だと明確に主張できる権利のある鏡は、2、3枚しかない。

 それは、238年よりも古い年号が銘記されている鏡で、そのうちの一つが、大阪府高槻市の安満宮山古墳から出土した青龍三年(235年)と銘記された鏡。

 京丹後の峰山の大田南5号墳からも、青龍三年(235年)と銘記された鏡が出土した。

 その次に古いのが、赤烏元年(238年)と銘記された鳥居原狐塚古墳(とりいばらきつねづかこふん)で、これは甲府盆地の南縁にある。

 この三箇所を私は訪れたが、同じ青龍三年(235年)の高槻と京丹後の関係は想像できるものの、甲府との関係は読み取れない。

 大阪府高槻市の安満宮山古墳周辺は、畿内で一番最初に稲作が始まった地域で、とてつもなく巨大な弥生集落の痕跡がある。

 そして、京丹後の大田南5号墳の周辺の峰山地域には、弥生時代のハイテク都市とされる扇谷遺跡などがある。

 高槻も京丹後の峰山も、弥生時代後半の最先端地域であり、その両方の地で、卑弥呼が生きた時代の鏡が出土しているのだ。

 さて、ここまで回り道をして説明してきたけれど、本題はここからだ。

 第26代継体天皇の即位については、第25代武烈天皇が子供を持たずに亡くなったので、急遽、福井から近江にかけての豪族が、天皇に担ぎ上げられたことはよく知られている。

 つまり、今の天皇陛下の血を遡っていくと、もっとも古いのが継体天皇で、その前の天皇とは血統的には断絶しており、万世一系とは言えず、それは朝廷も認識している。

 そして、福井から近江にかけて勢力を誇っていた継体天皇が、ヤマトの王権とつながるために娶ったのが、第24代仁賢天皇の娘の手白香皇后であり、二人のあいだには、欽明天皇が生まれた。

 継体天皇が埋葬された陵は、上に述べた青龍三年(235年)の鏡が出土した大阪府高槻の地に建造された今城塚古墳だ。 

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今城塚古墳

 そして、皇后の手白香皇后の陵は、天理の西山塚古墳で、上に述べた33枚の三角縁神獣鏡が出土した黒塚古墳のそばである。

 宮内庁は、文章記録などによって、継体天皇と手白香皇后の古墳を治定しているので、地域的には間違っていないのだが、その地域で一番立派な古墳を二人の古墳としてしまったから、考古学的に矛盾したことになっている。

 継体天皇の時代は、古墳時代の後期であり、それほど立派な古墳が作られていた時代ではない。宮内庁が治定した古墳の近くにある、外見的に少し劣った古墳の方が、考古学的に正しいのだ。

 それはともかく、手白香皇后と継体天皇が夫婦なのに、なぜ高槻と天理という離れた場所に埋葬されているのかは学会でも謎だった。

 これを解く鍵が、手白香皇后の父親の第24代仁賢天皇の古墳だ。この古墳は、藤井寺古市古墳群のなかに築かれた埴生坂本陵、通称ボケ山古墳とされる。

 この周辺は、応神天皇陵など、主に5世紀前半から中旬の超巨大古墳が集中する地域である。

 仁賢天皇は、それよりも後の時代の人なので、このボケ山古墳は、古市古墳群で最も新しい。仁賢天皇は、この地で活動していたわけではないので、あえて、この超巨大古墳群の中に、彼の古墳が築かれたということになる。

 そして、このボケ山古墳というのは、奈良盆地の西端だが、この真東のところ(北緯34.56度)に、天理の黒塚古墳(手白香皇后の古墳の近く)がある。そして、ボケ山古墳の真北(東経135.59度)が、継体天皇の今城塚古墳なのだ。

 この三箇所は、ドンピシャで、東西、南北の関係である。

 継体天皇に関係するこの三箇所の古墳は、規則的な線で結ばれて配置され、それは計画的なものであることは間違いない。

 これらは、卑弥呼の時代の鏡が出土した高槻と、初期大和王権が築かれた場所で33枚の三角神獣鏡が出土した黒塚古墳の場所と、5世紀前半、超巨大な古墳群が築かれた場所(河内王朝と呼ばれる)であり、継体天皇、手白香皇后、仁賢天皇の古墳が、この三箇所を結んでいる。

 継体天皇というのは、突然、天皇に即位することになった人であり、それは彼自身の野心とか望みによってではなく、当時の有力者たちの意思によるもので、背景には朝鮮半島の情勢変化があった。

 朝鮮半島において、新羅は、5世紀初期の頃までは北の大国、高句麗の属国にすぎなかったが、5世紀後半から国力を増し、継体天皇が即位(507)した頃には、国号を正式に新羅とし、王という称号を用いるようになった。

  日本も、この新羅に対抗するため、統一的な国になる必要があり、奈良盆地の中の世襲的な王の枠組みを超えた存在が必要になり、それが継体天皇だった。

 継体天皇は、即位してから19年間、ヤマトの地に宮を築かず、山城国周辺に三箇所、宮を築いて活動した。

 この理由について、継体天皇がヤマトの豪族を警戒していたからだと専門家は説明するが、たぶんその程度の理由ではなく、継体天皇は、新羅と対抗するための準備を行なっていたのだ。

 というのは、日本書紀によると、継体天皇が、ようやくヤマトの地に宮を築いてすぐ、527年6月3日、近江の豪族の近江毛野が、6万人もの兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、(朝鮮半島の)任那へ向かって出発した。

 この計画を知った新羅は、(九州北部の)筑紫の有力者であった磐井とつながり、大和朝廷軍の進軍を妨害しようとした。

 磐井は挙兵し、火の国(肥前国肥後国)と豊の国(豊前国豊後国)を制圧するとともに、日本と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖した。

 これが古代最大の反乱とされる磐井の乱(528)だが、磐井という人物は、かつて、新羅討伐軍の将であった近江毛野と、ヤマトの官僚時代に親交があったと記録されている。

 ゆえに、磐井の乱は、一般的に認識されているような、ヤマト王権に対する九州北部の反乱というよりは、新羅の力を背後にした磐井と、ヤマト王権の戦いととらえ直した方が理解しやすい。

 奈良時代に突如起きた藤原広嗣の乱も、構造は同じである。

 奈良時代聖武天皇が、この乱を恐れて、平城京を離れ、あちこちを彷徨い、最終的に恭仁京に遷都したのも、遠く離れた九州で左遷された藤原広嗣が反乱を起こしたという小さな問題ではなく、その征伐のために16,000人もの兵士を投入せざるを得なかったように、背後には新羅の存在があった。

 藤原広嗣の乱の時、新羅は唐と連合し、北方の渤海に対抗しており、渤海と関係を深めていた日本の橘諸兄政権を敵視するようになっていたのだ。

 663年の白村江の戦いの前も同じで、新羅と唐は、高句麗という共通の敵のために同盟し、そのことが日本の脅威となり、日本はそれに備える統一国家を作ろうとして、大化改新が行われていた。このように外の脅威に備えて国をまとめようとする動きは、明治維新の場合も同じだ。

 外に手強い敵が現れた時、内のまとまりが必要になる。継体天皇の時代においても同じだが、考察すべき大事なポイントは、そのまとまり方だ。

 継体天皇について語る時、もう一つの大きな謎が、この王の棺が阿蘇のピンク石で作られていることだ。

 阿蘇のピンク石は、熊本の有明海宇土という石切場から運ばれてきたことがわかっており、なぜ、わざわざ九州の石材を畿内まで運んできたのかが謎とされている。

 このピンク石の石棺について、継体天皇の古墳のことばかりが話題になるが、実は、他の古墳でも発見されている。しかし、不思議なことに、なぜか継体天皇の時代に集中している。

 しかも、奈良盆地を囲むように、橿原市桜井市天理市奈良市藤井寺市、そして、近江の三上山の麓に築かれた古墳の石棺に使われており、他の地域では吉備の一箇所を除いて存在しない。

 これらの地は、当時の有力豪族の拠点であり、桜井市は阿部氏、天理市物部氏奈良市は中臣氏、藤井寺は大伴氏、近江の三上山は和邇氏である。(しかも、三上山のピンク石の石棺のあるところは、日本最大の銅鐸が出土した銅鐸集中地帯でもある。)

 唯一、橿原市の植山古墳が、この時代より100年後の推古天皇とその息子の竹田皇子の合葬墓であったとされる。

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黒いポイント:高槻が第26代継体天皇陵の今城塚古墳。藤井寺が、継体天皇の皇后の手白香皇后の父、第24代仁賢天皇のボケ山古墳。この二箇所は、東経135.59度。そして、黒いマークの天理のところが、三角縁神獣鏡が33面出土した黒塚古墳(北緯34.56で藤井寺のボケ山古墳と同じ)で、この近くに、手白香皇后の西山塚古墳がある。赤いマークは、阿蘇のピンク石を使った石棺の古墳。黒いマークの高崎の今城塚古墳もそう。あと、地図には入っていないが、近江の三上山の麓に二つ(ここは日本最大の銅鐸の出土地)。高槻の青いマークは、青龍三年(235年)の鏡が出土した安満宮山古墳。238年に卑弥呼が魏から賜った100枚の鏡だと主張できる三つほどしか発見されていない238年以前の年号が入った鏡の一つ。

 

 いずれにしろ、阿蘇のピンク石の石棺は、継体天皇の時代から飛鳥時代にかけて、日本が一まとまりになっていく時代に作られている。

 それにくわえて、上に述べたように、継体天皇と手白皇后と、その父の仁賢天皇の古墳が、邪馬台国の時代(3世紀前半)、初期ヤマト王権の時代(4世紀前半)、河内朝といわれる盛期ヤマト王権(5世紀前半)の時代の拠点を、規則的に結んでいることを考え合わせると、後期ヤマト王権の時代(6世紀前半)に該当する継体朝は、日本の王統の古代からの足跡をつなぐことで、王としての正当性を獲得しようとしたのではないかと思われる。血統よりも大事なことは、この国の王としての役割なのだと歴史に刻むように。

 だとすると、これは想像でしかないが、阿蘇のピンク石をわざわざ運んできた理由は、阿蘇が、中国の文献に残る邪馬台国と関係があったからではないかと思う。

 もちろん、その時代、発達していたのは九州だけでない。奈良も山城も近江も丹後も四国も、そして東国も、すべての地域において、その痕跡がある。

 しかし、重要なことは、中国本土と直接の交流を行なっていたのはどこかという問題だ。中国の使者は九州までやってきて、それ以上、東に向かう理由がなければ、その記録は、九州のものとなるだろう。

 そして、邪馬台国にかぎらず、たとえば新潟のヒスイが北九州から出てきているように、縄文の時代から、日本全土にわたるネットワークがあり、邪馬台国というのは、そのネットワークじたいを指す可能性もある。

 ただ、いずれにしろ、継体天皇の時代は、卑弥呼の時代から300年ほどしか経っていないわけであり、当時の人間は、中国の書に記録された邪馬台国がどこかは知っていただろう。

 自らを過去とつなぐために、文章として記録があるところを重視するのは自然なことだ。

 継体天皇一人の意思というより、当時の日本を運営する豪族たちの意思として、それを行なった。だから、彼らの古墳もまた、阿蘇のピンク石の石棺なのだと思う。

 

Sacred world 日本の古層をめぐる旅

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「日本の古層を探求する旅」の第2回目の映像&トークを開催します。

 3月26日(土)、午後2時から、IMPACT HUB KYOTOで行います。

 イベントの詳しい内容、お申し込みは、こちらのサイトをご覧いただければ幸いです。

kyoto.impacthub.net

第1219回 謎が謎を呼ぶ古代世界

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牽牛子塚古墳

 

 飛鳥時代の女帝・斉明天皇と、娘の間人皇女の陵とされる牽牛子塚古墳。2018年1月からかつての姿を蘇らせるために工事が行われていたが、ついに完成し、3月6日から一般公開されたので、さっそく訪れてきた。

 この古墳は全国に14基ほどしか発見されていない八角形の古墳。そのうち半分は、天武天皇の血縁関係者の古墳だ。

 ただ、宮内庁は、これを斉明天皇の古墳と認めておらず、そのため発掘調査が可能になり、ほぼ斉明天皇の陵で間違いないということになっている。それでも、宮内庁は認めない。

 その理由は、日本書紀では、斉明天皇の息子、天智天皇の言葉で、民に負担をかけないために大規模な工事を行わなかったと記録されているのだけれど、この古墳は膨大な石材が使われており、それらを運ぶだけでも1,400人もの人員が必要だったと推定できるから。

 しかし、斉明天皇の古墳は699年に修造されたという記録が続日本記に残っており、この大規模で美しい八角形は、その時に整えられたのだと思う。

 なぜなら八角形の古墳は、道教を重視した天武天皇の時代に作られたはずであり、儒教を重んじた中大兄皇子が、最初にこの古墳を作った時は、八角形でなかった可能性が高いからだ。

 まあ、それはともかく、こちらが斉明天皇の本当の古墳だとなると、今、宮内庁が、斉明天皇の古墳だとしている車木ケンノウ古墳は、誰の古墳なんだ、という新たな謎が増える。

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岩屋山古墳

 そして、この牽牛子塚古墳の近く、飛鳥駅の隣に岩屋山古墳があり、こちらも斉明天皇の古墳候補だった。この古墳の石室も立派で、硬く巨大な花崗岩が、大阪城の城壁のようにまっすぐに切りそろえられており、作るために相当な労力が必要だったと思われるが、ここも斉明天皇陵でないとすると、誰の古墳なんだということになる。

 全国にある天皇や皇后の古墳は調査ができない。そこが一番残念なところで、もし調査ができれば、古代の謎のパズルは、もう少し解きやすくなると思う。

 そして、宮内庁天皇陵だと認めていないゆえに発掘調査が可能になって大発見があったケースもある。大阪府高槻市の今城塚古墳(第26代継体天皇陵)などがそうで、阿蘇のピンク石の石棺が出土して、なぜ、わざわざ九州から運んだのかと、また新たな謎が生まれた。

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益田岩舟

 この牽牛子塚古墳も、宮内庁天皇陵だと認めないからこそ調査できて、その結果、この近くの益田の岩舟という謎の石造建造物の謎が解けた。益田岩船は、牽牛子塚古墳の石棺と同じ構造だったので、石棺を作ろうとしたものの何らかの理由で途中で放棄されたものだとわかったのだ。

 それまで益田の岩舟は、古代の謎であり、松本清張などは、ゾロアスターの祭壇だという説を主張していた。

 
日本の古層を探求する旅」の第2回目の映像&トークを開催します。
 3月26日(土)、午後2時から、IMPACT HUB KYOTOで行います。
 日本人とは何か? われわれは、どこから来て、どこへ行くのか? 
 前回は、京都盆地周辺の古代山城国について案内させていただきましたが、今回は、丹波や奈良を京都地域と結びつけて、深堀できればと思います。
 日本の古代の謎の大半が、ここに凝縮しています。
 イベントの詳しい内容、お申し込みは、こちらのサイトをご覧いただければ幸いです。

 

Sacred world 日本の古層をめぐる旅 ピイホールカメラで撮った古代の聖

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第1218回 われわれは、どこから来て、どこへ行くのか? 第一回 京都に秘められた古代の記憶

「日本人とは何か? われわれは、どこから来て、どこへ行くのか? 日本の聖域に秘められた古代の記憶を探る」

 2022年2月27日 第一回開催 「京都に秘められた古代の記憶」において、参加者に事前に送らせていただいた長いメモを添付します。

 古代のことを語るうえで、神様の名前や地名や、歴史背景などは欠かせませんが、そういったものに縁が遠くなった現代社会において、固有名詞を耳で聞いても、具体的なイメージに結びつけることが難しいものも多く、そのため、イベントトークにおける話の内容を文章化しておくことで、参加者が、後で振り返ることができればと思いました。

 メモのつもりで書いていたら、一つのことを伝えるにしても、その背景がわからなければ理解が遠のきますので、書き加えていたら膨大になりました。最後まで読もうとする人はほとんどいないことはわかっていますが、こういうことに少しでも関心を持つ人がいれば、第二回以降も、続けていこうと思います。

 (自分としては、イベントトークの有る無しに関係なく、年に1度のペースで本を発行していければいいと思っています。)

 歴史は、私たち自身の足場を確認するうえでも大事なことなのですが、娯楽物の大河小説や大河ドラマは好きだけれど、それ以上は興味が持てないという人も多いです。

 そうなる理由は、大河小説や大河ドラマは、現代人にもわかりやすくするために、現代的価値観にそって構築しているからです。

 しかし、歴史探求は、娯楽として消費するだけでなく、現代人が失ったものを再発見するために必要なことで、そのためには、現代的価値観にあてはめないアプローチが必要です。

 具体的には、形も大きさも不揃いな巨石を積み上げて巨大で頑丈な城壁を作り上げた石工は、設計図にもとずいて作っていません。

 彼らは、石の声を聞いて、石がどこに行きたいのかを判断するといいます。石の声を聞くという言葉じたいが、すでに現代的価値観では理解できないものです。

 しかし、石工に限らず、どんな名工でも同じでしょう。樹木であれ何であれ、それ自身の声に耳を傾けることができる人が、時代を超えた物を作り出しています。

 歴史もまた同じなのだと思います。

 明治維新以降、日本は西欧文化を追いかけ、必死に取り入れてきました。しかし、風土も歴史も異なる西欧で生まれ育った精神を、そのまま日本に定着させることはできません。日本人は、無意識のうちに、日本流に変容させて西洋文化を摂取しているのですが、自分たちの基盤であるはずの日本のことを、まるでわかっていないと自覚している日本人は多くいます。

 私もそうです。私は、世界中70カ国以上を旅してきましたが、海外に出て帰ってくるたびに、日本のことがまるでわかっていないことを思い知らされたのです。

 しかし、風の旅人を編集制作し続けている時は、日本のことを深く理解していなくても世界中を旅したことが肥やしにはなっていました。

 ところが、第50号の次のテーマとして「もののあはれ」を設定した時、「もののあはれ」については感覚的になんとなくわかっているつもりでしたが、それは現代の価値基準の範疇のものでしかなく、その本質がまったく理解できていないことに気づきました。

 「もののあはれ」は、日本の歴史文化の全てが凝縮したものですが、そもそも、どういった精神的土壌から生まれ、育まれてきたものなのか?

 ”もののあはれ”は、過去を懐古的に振り返るための材料ではなく、生老病死を否定的にしかとらえない現代の死生観や、際限のない消費生活を考え直すうえで重要な精神です。それゆえ、表面をなぞるように形を整えて処理するわけにはいきません。

 過去と未来をつなぐ大切な橋としての「もののあはれ」。その精神の探求が必要であり、日本の古層をめぐる私の旅が始まりました。

 過去を知るうえで、これまでは考古学による実証的研究が重視され、その成果も大きいのですが、考古学的実証だけに重きを置く問題もあります。新たに重大な証拠が発見されるたびに、これまでの説を書き換えていかなければならないのですが、その手続きの速度があまりにも遅いのです。

 とりわけ、この20年ほどの間に大きな発見が続いており、これまでの歴史認識を修正しないと説明できないことも多くあります。

 もちろん、新しい事実の発見と議論は、真実に辿り着くために重要なプロセスですが、正しい答えの追求と、今を生きる私たちの在り方を切り離してしまうと、その知識はウンチクにすぎません。

 必要なことは、正しい答えを知って頭で覚えることではなく、世界と向き合う自分の眼差しが、どう変化するかです。それは、新しい目の付け所を獲得するといった処世的なことではなく、「われわれは、どこから来て、どこへ行くのか?」という人類にとって永遠の問いにつながる目線を獲得することです。

 過去のことを考える時、過去の人たちの方が現在の我々よりも劣っていると思っている人たちがいますが、それは間違っています。

 優劣の違いではなく、世界観の違いでしかなく、過去の世界観が幼稚ということではありません。

 人間は一つの世界観のなかで生まれ育つと、その世界観に慣れるようにできています。

 それは、脳の特性にすぎず、脳の容量は過去と現在で変わりはありません。

 現在の方が過去よりも情報量が多いと思っている人も多いですが、それも違っていて、人間の認知が反応する対象が異なっているだけで、テレビのない時代の人たちは、現代人よりはるかに虫の音を聞き分けられたでしょうし、夜空の星の位置も把握していたでしょう。

 ですので、古代のことを考察する場合、現代人の尺度を過去に当てはめた分析では、現代人には納得しやすいかもしれませんが、けっきょく、現代人の眼差しや意識、つまり現代的価値観をより頑なにするだけのことにすぎません。

 たとえば、古代の都について考える時、現代人の発想だと、戦いに備えることや交通の利便性や水の確保など、現代にも当てはまる理由を思い浮かべます。

 しかし、古代の都は、”まつりごと”の舞台であり、古代における政治と祭祀は一体です。祭祀は、過去から連続しているものであり、祖先崇拝という現代人が失った感覚を古代人は維持していたと思われます。

 また、祭祀は、目の前に展開する現実世界を超えたものにアクセスすることで、目の前の問題の細部にとらわれすぎている視点を大局的な視点へと変化させるものであり、祭祀には、世界の広がりや大きな時間を感じさせる舞台装置が必要です。

 それゆえ、”まつりごと”を行う都の建設においても同じでしょう。もちろん利便性も考慮されたのでしょうが、それだけでなく、周りの景観、方位、天体の動きとの関係、何よりも重要なことは、過去とのつながりです。

 たとえば、水の便が決して良いとは言えない平城京への遷都は、平城京の北を守るように東西に伸びる佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群と、無関係だとは思えません。

 奈良時代天皇である称徳天皇は、この古墳群の中に陵を作っていますし、元明天皇元正天皇聖武天皇も、この古墳群の東西のラインの東端に陵を作っています。

 この佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群は、4世紀末から5世紀前半の大古墳群で、河内に応神天皇陵などが築かれる直前の、ヤマトの大王クラスの陵と考えられています。

 奈良時代は、古事記日本書紀が編纂された時期ですから、過去の大王のことについての認識を持っていました。その認識が正しかったかどうかは別にして、その認識に基づいて”まつりごと”を行なっていたわけで、”まつりごと”を行なっていた人たちは、その時代の大王たちを自分たちとつながっている存在として捉えていたと思われます。

 具体的には、この古墳群に葬られている第11代垂仁天皇の皇后の日葉酢媛が重要です。

 日葉酢媛は、丹後の国から嫁いだ女性です。その父、丹波道主命は、近江の三上山に降臨した天御影神の娘、息長水依媛と和邇氏の母を持つ彦坐王のあいだに生まれた存在で、垂仁天皇に嫁いで景行天皇ヤマトタケルの父)を産んでいます。

 そして平城京が築かれた場所、三笠山から天理にかけての春日の地は、5世紀後半から和邇氏が居住していた地域です。

 平城京の場所は、木津川と大和川のあいだにあり、和邇氏と関係の深い琵琶湖方面(日本海に抜けるルート)と、奈良盆地南の古代ヤマトの地や、瀬戸内海に抜ける大和川ルートの中間地帯で、交通においてもバランスが保たれ、かつ、古代とのつながりが深い地なのです。

 同様に、なぜ平城京から長岡京平安京に遷都されたかを理解するうえでも、過去とのつながりを考慮する必要があります。

 政治に口出しをする奈良の僧侶を嫌ったからという教科書にも書かれている理由は、まったく無いわけでなくても、主たる理由ではないと思います。その理由だけなら、京都でなく他のどこでもいいわけですから。

 過去とのつながりを知るためには、考古学だけが手段ではありません。

 日本には無数の神社が鎮座しています。立派な本殿は、後からやってきた権力者が作ったものが多いのですが、境内には末社や摂社があり、古くからの神様がそこに祀られています。古墳もまた、後からやってきた権力者が、それ以前の権力者の古墳を破壊するということを行っていないため、日本には、およそ16万基もの古墳が残っており、前方後円墳のすぐそばに前方後方墳という、異なる種類の古墳が隣接しているところも多く見られます。

 そうした事実によって、私たちは、考古学的発見に頼るだけでは得られない古代の情報にアクセスする可能性が残されています。

 今では小さな祠にすぎないものが、地理的に他の重要な聖域と結ばれているという事実を発見する時、少し調べると、その小さな祠は、数百年前までは巨大な聖域であったのに戦乱や地震などで破壊されて再興されていないという事実に行き当たることがあります。

 考古学と古代文献のこれまでの研究成果は多くの論文として発表されていますが、インターネットで自由にそれらを確認することができる時代に生きている私たちは、江戸時代の本居宣長より多くの情報を得ることは不可能ではありません。

 しかし、いくら情報量が増えても、たとえば、古代人が正確な測量技術を持っているはずがないとか、過去を現代より劣ったものだと思いこんでいると、真相も遠のきます。

 古代とそれほど変わらない交通手段しかなかった江戸時代ですが、伊能忠敬は、1800年、商いを息子に譲った55歳の時から日本地図を作るための測量を開始しました。

 歩幅を正確に69センチで刻めるようにして、1日に10kmずつ測量を重ね、わずか17年で、伊豆諸島や屋久島、佐渡対馬など離れ島も含めて、日本全土の地図を完成させたのです。

 一人の人間が人生の晩年から始めたことでも、それだけのことができてしまうわけです。

 古代においても、精密過ぎるほどの測量でなければ、遠く離れた場所の位置関係の把握など、そんなに難しいことではなかったと思われます。

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 さて、京都盆地には、古代の重要な聖域を結ぶラインが、いくつかあります。

 もっとも古い聖域は、冬至のラインで結ばれています。冬至というのは、太陽の力が一番弱くなる日ですが、再生への折り返しの日でもあり、日本に限らず、世界中の古代世界で、強く意識されていた日でした。

 やがて、中国文化の影響を強く受けるようになると、天界の不動の星、北極星を重視する北辰信仰が、日本の聖域にも反映されるようになります。

 中国においては2500年前の春秋戦国時代から北極星を用いた方位測定法が行われ、都城造営に用いられていました。

 また、飛鳥時代の頃、大王から「天皇」へと称号が改称されましたが、天皇号には、北極星を神格化した宇宙の最高神天皇大帝の意があります。日本における天皇という言葉は、608年、聖徳太子が隋に送った国書に、「西皇帝(もろこしのきみ)」に対して「東天皇(やまとのてんのう)」と称したとある『日本書紀』の記述が最初とされます。

 京都(山城国)でも、古代の重要な聖域が南北のラインで結ばれています。

 京都は、794年に平安京が建設されてから発展した場所ではなく、縄文時代弥生時代においても人々が活動していました。

 また、6世紀の第26代継体天皇は、第25代武烈天皇が子供を持たずに亡くなったため、有力豪族たちによって帝位に推挙された人物ですが、即位した後、19年間も大和の地に入らず、京都周辺に三つの宮を建造し、まつりごとを行いました。

 専門家の説では、大和の勢力を警戒していたためとされていますが、そうではなく、彼が、この地域と関わりの深い人物だったからでしょう。

 継体天皇が宮を築いたのは、山城国において古代から特別に意味のあった場所ばかりです。

 弟国宮が築かれた向日山(京都府向日市)は、冬至のラインの交点にあたり、縄文時代からの重要な場所でした。ここでは、縄文時代の祭祀道具である石棒が発見され(製造場所も近くにあります)、さらに、弥生時代の祭祀道具である銅鐸の鋳型も発見され、ここが銅鐸の製造場所だったことがわかっています。さらに、向日山の上には、戦乱に備えた高地性の弥生集落があり、3世紀の巨大な前方後方墳、元稲荷古墳が残っています。この向日山から冬至の日没ラインにそって50km西に行ったところ、神戸市灘区に西求女塚古墳があり、この古墳は、元稲荷古墳と相似形で同じ大きさの前方後方墳ですので、二つの場所に関係があったことが想像できます。さらに、この西求女塚古墳の2kmほど東に14基の銅鐸が発見された桜ヶ丘遺跡があります。

 この西求女塚古墳から出土した祭祀用の土器は、山陰系(古代出雲の中心地とされる日本最大級の弥生遺跡、妻木晩田遺跡のそばの徳楽方墳から出土した土器に特徴的な、装飾性の強い壺型のもの=伯耆系特殊土器)で、石室の石材は、地元だけでなく阿波(徳島)や紀伊(和歌山)のものが使われています。このことから、この古墳と相似形の向日山の元稲荷古墳も、出雲と紀伊、阿波の勢力との関係が想像できます。

 そして、元稲荷古墳の600m北の高台に前方後円墳の五塚原古墳が築かれています。前方後方墳の元稲荷古墳(全長94m)とほぼ同じ大きさ(91m)で、3世紀という建造時期もほぼ同じですが、この古墳は、卑弥呼の墓とも騒がれているヤマトの箸墓古墳と、大きさは違いますが相似形で、関係があると考えられています。

 二つの異なる勢力を象徴する古墳が、向日山に、向き合うように築かれているのです。

 そして、この向日山を基点として、冬至の日の出ラインを東にいくと、宇治川宇治橋で、さらに伸ばしていくと、伊勢神宮宇治橋になります。

 伊勢神宮宇治橋は、冬至の日、太陽が橋の中央から上ることが知られており、その瞬間を写真にとらえようと多くの人が訪れます。この宇治橋は、明らかに冬至の日の朝日を意識してかけられています。

 また、向日山から冬至の日の出ラインを西にのばすと、大原野神社を通って亀岡の稗田野神社の場所です。ここは古事記の作成に関わった稗田阿礼生誕の伝承地ですが、三年ほど前、この佐伯郷で、巨大都市遺跡が発見されました。亀岡は、この地の出雲大神宮こそが元出雲大社と言われるほど数々の神話の舞台になっているのですが、これまで考古学的に大きな発見がありませんでした。しかし、この大都市遺跡の発見で、間違いなく古代史における重要な場所であることが証明されました。

 このように、向日山は古代世界の交点にあたる重要な聖域であり、異なる勢力の攻防の舞台でもありました。

 継体天皇は、この場所に弟国宮を築き、桓武天皇は、ここに長岡京を築きました。

 そして、京都盆地周縁には二箇所、銅鐸の埋納地があり、その一つが、向日山の真北の梅ヶ畑で、ここは嵯峨野の広沢池の横から日本海側に向かう周山街道への出入り口に当たりますが、この場所で、弥生時代から平安時代まで祭祀が行われていました。

 さらに、梅ヶ畑の銅鐸埋納地の真北、沢山の西に沢の池があり、ここは京都盆地を見下ろす標高500mほどの場所ですが、石器時代縄文時代の痕跡が残り、平安時代においても祭祀が行われていました。

 もう一つの銅鐸埋納地が、向日神社の真南です。木津川、桂川宇治川が合流する地点、かつては巨椋池があった場所ですが、ここに聳える男山に石清水八幡が鎮座します。その南麓が、銅鐸埋納地です。

 銅鐸は、境界に埋められていることが多いのですが、梅ヶ畑と男山の二箇所が、京都盆地の境界なのでしょう。そして、男山の南麓の銅鐸埋納地のそばに継体天皇樟葉宮(くすはのみや)を築き、同じ場所で桓武天皇は即位儀礼を行い、父を祀る交野天神社を作りました。その真北の向日山が、継体天皇の弟国宮で、桓武天皇長岡京を築いたのは偶然とは思えません。

 このように、京都盆地の銅鐸関連地三箇所は、向日山を中心に南北に並び、桓武天皇継体天皇という、本来は天皇になる予定でなかったのに天皇に即位することになった歴史的に重要な人物が築いた宮が並んでいます。

 また、興味深いことに、向日山の上に鎮座する向日神社を1.5倍の大きさにしたのが明治神宮です。明治維新政府が、古代の歴史をどれだけ意識したかはわかりませんが、桓武天皇は、300年ほど前の継体天皇を明らかに意識しており、都の建設地が重なるだけでなく、桓武天皇の陵は、継体天皇が宮を築いた筒城宮の真北に作られています。

 継体天皇が築いた三つの宮のうち、弟国宮や樟葉宮は銅鐸関連ですが、もう一つの筒城宮は、弥生時代後期の高地性集落があったところです。現時点では銅鐸は発見されていませんが、近くで縄文時代の祭祀道具である石棒が発見されています。集落の中に埋められている銅鐸は、特別の例外であり(銅鐸祭祀の集団が関係していると思われる)、多くが人里離れた場所(山との境界など)に埋められているため、たまたま地元の人が見つけたり、住宅開発で掘り起こしていたら出てきたものが大半ですから、今後も、筒城周辺で銅鐸が発見される可能性はあります。

 そして、東経135.77度の筒城宮の真北が桓武天皇陵ですが、その3km北に伏見稲荷大社があります。

 この場所は鴨川の扇状地で、京都盆地で最初に稲作が行われた深草遺跡があった場所です。このあたりは陶土にも最適な土が得られる場所で、伏見人形はこの土で作られてきました。

 また、ここは、聖徳太子一族の上宮家の暮らしを支え、皇子の世話や養育を行う乳部壬生部)の場所で、その集団を管理していたのが秦氏でした。聖徳太子には秦河勝が側近として仕えていましたので、山城の秦氏と上宮家の結びつきがあったということです。

 それゆえ、同じ時代、京都の太秦秦氏の氏寺である広隆寺が建造され、聖徳太子から賜ったと伝承のある弥勒菩薩半跏像が、国宝第一号として知られています。

 また、聖徳太子の子、蘇我入鹿によって滅ぼされた山背大兄皇子の”やましろ”は、山城国深草との関係であると思われ、皇子は、蘇我入鹿の軍勢に襲われた時、この深草に逃げるように進言されましたが、戦って民を巻き込みたくないからと、一族はもろともに自害を遂げました。

 この深草の真北に、現在、下鴨神社が鎮座していますが、境内から縄文時代の遺物が出土しており、鴨川と高野川が合流するこの場所は、縄文時代からの祭祀場だったと考えられています。

 さらに東経135.77度の真北には鞍馬山があり、鞍馬山の左右に貴船川と鞍馬川が流れ、ここが鴨川の源流です。

 鞍馬山の背後に、貴船神社の奥宮があり、そこに船形石がありますが、これは、神武天皇の母親の玉依姫が乗ってきた黄船を、人目に触れぬよう石で覆ったものとされます。

 なぜこんな山中に玉依姫がやってきたのか不思議に思われるかもしれませんが、貴船神社の場所は、実は、瀬戸内海へとつながっていく鴨川の源流であるばかりでなく、北の日本海にもつながる場所なのです。

 若狭湾の小浜で南川と北川が日本海に注ぎますが、この二つの川にそって京都に向かう道が、鯖街道として知られています。

 南川は、周山街道とつながり京北から京都西部に入る道となります。

 北川は、琵琶湖岸の近江高島に向かいます。近江高島継体天皇が生まれた場所です。

 そして、高島からは安曇川が京都方面に流れ、その源流が、貴船の北の花背あたりです。花背は、日本で一番背の高い杉の木があることで有名です。

 また、花背は、桂川の源流でもあります。桂川は、ここから西に向かい、亀岡で平野部に出て、保津川渓谷を抜けて京都の嵯峨野に入ってきます。

 さらに桂川源流付近の支流、片波川源流域一帯は、古くから御杣御料として守られてきた森で、西日本屈指の巨大杉群落の森です。長岡京平安京の造営時や御所炎上の際には、膨大な量の建築用材がこの地より供給されたという記録が残ります。1本の木から多くの材がとれるように台杉仕立てが盛んに行われ、さらに雪の重みで伏した形となり、伏状台杉と呼ばれる、杉とは思えない奇怪な形をしています。当然ながら、それらの木材は、川を利用して京都まで運ばれました。

 継体天皇の生誕地、高島と京都を結ぶ安曇川は、古代、海人の安曇氏の拠点であり、安曇氏の祖神がワタツミで、その娘が豊玉姫玉依姫であり、貴船神社の奥宮に玉依姫が船で到達したという伝承があるのは、安曇氏が、日本海と京都を結ぶ水路を担っていたということでしょう。

 継体天皇が築いた筒城宮は木津川沿いで、弟国宮は桂川と鴨川の合流点のそば、樟葉宮は木津川と桂川宇治川の合流点です。どの場所も、継体天皇生誕の地である近江高島とは河川交通でつながっています。

 また、筒城宮から真西に15kmの淀川沿いにあるのが三島鴨神社で、ここは古代の軍港ですが、全国にある三島系の神社のなかで、伊予の大山祇神社と伊豆の三嶋大社とともに、三三島とされます。

 この場所は、三嶋湟咋( みしまみぞくい)の拠点です。古事記では、三嶋湟咋の娘が、大物主神日本書紀では事代主神)と結ばれて生まれた娘が神武天皇の皇后になり、後継を産みます。

 つまり、現在の天皇には、摂津の三島氏の血に出雲系の血が混ざり、九州から東征してきた神武天皇の血が混ざっているということになります。

 三島系の神社の祭神は、大山祇神です。大山祇神は、山の神ですが、渡しの神でもあります。それは、山が、船の建造に必要な木材の供給地だからです。ですから、伊予、摂津、伊豆の大山祇神の聖域は、水上交通と深い関係があります。

 また、大山祇神の娘のコノハナサクヤヒメが、天孫降臨のニニギと結ばれたわけですから、大山祇神は、それ以前から存在していたということです。

 さらに、コノハナサクヤヒメは、別名、神吾田津姫で、阿多隼人の女神です。阿多隼人というのは、鹿児島の大隅半島を拠点としていた黒潮系の海人です。宗像三神を祀る宗像氏と同族であり、宗像氏は九州と朝鮮半島のあいだをつなぐ海人でもありました。

 同じ海人でも安曇氏は、古代、中国とのあいだをつなぐ海人で、弥生時代初期に中国の江南地方から稲作文化を伝えたとされます。

 この安曇氏の祖神がワタツミであり、ニニギの息子、山幸彦は、ワタツミの娘の豊玉姫と結ばれました。

 山幸彦の兄の海幸彦は、山幸彦が失くした釣針の件で彼に辛く当たりますが、山幸彦はワタツミの力を借りて海幸彦を懲らしめ、海幸彦は、山幸彦に服従することを誓います。海幸彦は、隼人の祖先と位置付けられています。

 山幸彦と海幸彦の確執は、山の神と海の神との争いではなく、海幸彦とつながる隼人という黒潮系の海人に対して、山幸彦を支援したワタツミを祖神とする安曇氏が優位に立つ物語と読み取れます。史実としても、安曇氏が、全国の海人を統率する役目を担うことになるのです。

 また、三嶋湟咋は、下鴨神社の祭神の賀茂建角身命と同じとされます。山城国風土記では、賀茂建角身命の娘の玉依姫が、向日神社の祭神である火雷神(朱塗りの矢に変身した)と結ばれて上賀茂神社の祭神である賀茂別雷神を産んだとされます。

 秦氏の伝承では、この火雷神が、秦系の松尾大社日吉大社の祭神である大山咋神(オオヤマクイ)に入れ替わっています。

 このあたりの事情は複雑ですが、平安京遷都の前から、京都には賀茂神社と、松尾大社伏見稲荷大社広隆寺など秦系の聖域が築かれていたことからわかるように、賀茂氏秦氏は、京都の古層を理解するうえで最重要なポイントなので、少し詳しく説明をさせていただきます。

 下鴨神社の祭神である賀茂建角身命は、別名、八咫烏ともされ、神話のなかで神武天皇の東征を導いたともあります。

 咫というのは、長さの単位で親指と中指を広げた長さなので、八咫もある巨大な烏というふうに解釈されてきました。

 しかし、八咫烏の真意は、伝承にもある三本の足の方が重要です。

 三足烏(さんそくう)は、古代、中国における霊鳥で、太陽の中に住み、1日に1度、太陽を背中にのせて天空をまわるとされます。ゆえに、八咫烏も、日輪の中に描かれているケースが多いのです。

 朝鮮半島においても4世紀から6世紀の高句麗の古墳に日輪と三足烏が描かれており、飛鳥のキトラ古墳の天井に描かれた天文図の太陽の中にも三本足の鳥が描かれています。

 ただ、中国や朝鮮半島における霊鳥としての烏(カラス)は、おそらく、鵲(カササギ)のことではないかと思われます。

 カラス科のカササギは中国語で“喜鹊”xǐquèと言い、喜び事を伝えてくる鳥とされます。吉兆のシンボルで、とても愛されており、歌うようにさえずることから、同じカラス科でも、他のカラスとの扱いはまるで違います。カササギは、脳が大きく賢い鳥で、哺乳類以外ではじめてミラーテスト(鏡に写った姿を自分だと認識する)をクリアしました。

 また、七夕伝説においても、織姫と彦星は天の川によって分けられてしまいますが、カササギが群れをなして飛んできて橋を作るという設定になっています。

 カササギは、隔たったものをつなぐカラスなのです。

 しかし、日本においては、福岡県と佐賀県に生息域が限られ、豊臣秀吉朝鮮出兵の時に、はじめて連れ帰られたとされます。

 そして、八咫の「咫」は、「タ」ではなく「アタ」です。八咫烏は、「ヤアタガラス」です。 アタという音に長さの単位の咫がつけられてしまいましたが、実際は、南九州の黒潮系の海人である阿多隼人の可能性があります。神武天皇の東征を導いたのは、海人であり、熊野からヤマトへの道も熊野川だったのでしょう。

 黒潮系の海人に対して「隼人」という呼び名がつけられたのは、天武天皇の時代以降です。

 その理由として本居宣長が、「すぐれて敏捷(はや)く猛勇(たけ)きが故」などと書いていますが、発想が安易だと思われます。

 律令制が始まる頃に建造されたキトラ古墳の石室には、東・西・南・北にそれぞれ青龍・白虎・朱雀・玄武の動物が描かれ、その方位の守護をつかさどっています。

 この四神のうちの朱雀は、古くは「鳥隼(ちょうしゅん)」で、南方位を守護するのが「隼」であったようです。

 ゆえに、宮の南の位置に、呪力をもって朝廷の守衛・警護を行なっていた南九州をルーツとする黒潮系の海人を居住させました。その呪力は、隼人犬吠とか、隼人舞などが知られています。

 そして、その居住地は、まずは東経135.74度、吉野川の阿陀比賣神社が鎮座する場所です。ここは、吉野川が大きく蛇行するところで芝崎の奇岩として知られています。

 この場所は、藤原京平城京の真南ではなく、斑鳩で最も大事な場所であった中宮寺聖徳太子の母、穴穂部間人の宮殿)の真南です。

 そして、この東経135.74度のラインに、もう一箇所、隼人の居住地があり、それは、京田辺の月読神社のところです。ここは、隼人舞発祥の地として知られています。

 実は、この隼人舞発祥の地の南に甘南備山がそびえていますが、この山の上に立って、平安京の位置決めが行われたとされています。

 吉野川の阿陀比賣神社、斑鳩中宮寺跡、京田辺の甘南備山、月読神社が位置している東経135.74度は、平安京の中心の朱雀通りとなり、このラインにそって、南の入り口、羅生門大極殿が築かれ、北を守る玄武として、船岡山があります。

 一般的には、平安京の四神相応は、北の玄武が船岡山、東の青龍が鴨川、西の白虎が、双ヶ丘ともしくは山陰道、南の朱雀は、かつて存在した巨鯨池(石清水八幡宮のところの三つの河川の合流点)とされますが、平安京の南を守る朱雀は、鳥隼(ちょうしゅん)であり、それは、京田辺の隼人居住地ということになります。

 さて、中国の伝承にある三足鳥のカササギは、古代の日本には生息していませんでしたが、鴨氏の鴨は、稲作と相性の良い鳥です。田んぼの雑草や害虫を食べてくれ、田んぼを泳ぐことで、田んぼの土をかき混ぜ、土に酸素が混ざり、根から酸素が吸収されます。また、糞もまた肥料になります。

 しかし、鴨は当て字であり、かも氏は、賀茂や加茂など様々な表記があり、もともとは「かみ」だと考えられます。

  賀茂氏のルーツは二つあり、一つは八咫烏賀茂建角身命)の天神系と、大田根根子を祖とする地祇系です。

 太田根根子というのは第10代崇神天皇の時の人物です。その時代、世が乱れ、占いによって三輪山の大物主の祟りだということになりましたが、天皇の夢枕に大物主が現れ、大田根根子を自分を祀る祭主にするように告げました。そして、その通りにしたところ、疫病は収まり、国内も鎮まり、五穀が実って、百姓は賑わった、と日本書紀に記されています。

 大田根根子は、神と人のあいだをつなぐ祭祀者であり、彼の出身は、茅渟県の陶邑とされています。陶邑は、須恵器の生産地であり、須恵器は祭祀具として使われていました。

 また、奈良盆地の西の葛城の地の高鴨神社の祭神は、アジスキタカヒコネですが、この神は、大国主命と、宗像三姉妹のタギリ姫のあいだの子です。

 宗像氏は、黒潮系の海人の阿多隼人と同族です。

 八咫烏賀茂建角身命=三島溝杭はもまた黒潮系の海人だと考えられ、出雲の地の古墳の祭祀用土器と、阿波や紀伊の石材を使った前方後方墳が、神戸の西求女塚古墳であり、これと同じ大きさで相似形が、向日山の元稲荷古墳でした。

 この勢力が、紀ノ川(吉野川)を遡って、奈良盆地の南西の葛城の地に入っていたと思われます。

 そのため、葛城の地の祭神は、事代主やアジスキタカヒコネなど出雲系です。

 そして、祭祀族である”カモ”の人々とつながった黒潮系の海人は、伊豆諸島や伊豆半島にも到っており、ここもまた古代の賀茂郡です。伊豆諸島および伊豆の開拓者として三島明神が祀られ、三島大社がありますが、その祭神は、摂津の三島鴨神社から勧請されました。

 伊豆半島南部には面積のわりに式内社が非常に多いのですが、律令時代の神祇官は、対馬出身が10名、壱岐出身が5名、そして伊豆出身が5名と決められていて、この5名は、伊豆の賀茂郡神職です。

 ”かも”=神は、血族というより、もともとは祭祀を司る人たちのことだったのでしょう。

 淀川沿いの三島鴨神社の真西、3kmのところにある弥生時代の東奈良遺跡からは36点もの石製の銅鐸鋳型が発見され、ここは銅鐸製造における日本最大の拠点でした。

 三島鴨神社の近くの東奈良遺跡と関連する銅鐸祭祀者も、”かも”だったのでしょう。

 もう一つの重要な銅鐸製造拠点は、奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡遺跡ですが、こちらの鋳型は陶器性が多く、時代的には石製の方が古いとされます。銅鐸は、紀元前2世紀頃から紀元200年頃の400年にわたって普及し、突然、作られなくなりました。

 前期においては淀川沿いの東奈良遺跡が、途中からはヤマトの唐古・鍵遺跡遺跡で作られた銅鐸が、近畿を中心に各地に流通したのです。(近畿式と言われる「見る銅鐸」は、東は静岡の掛川、西は四国の高知と愛媛までしか発見されていません。)

 

 京都と”かも”の関係は、『山城国風土記逸文では、賀茂建角身命八咫烏)が、神武天皇の先導をした後、山城国へ至ったとなっています。

 そして、賀茂建角身命の娘の玉依姫が、川遊びをしている時に、朱塗りの矢が流れてきて、賀茂別雷命上賀茂神社の祭神)が生まれ、朱塗りの矢の正体は、火雷神向日神社の祭神)とされています。

 これは、歴史背景から考えても、賀茂氏が奈良葛城から山城に移住したことを物語っているのではありません。

 賀茂建角身命の聖域となった下鴨神社の地は、縄文時代からの祭祀場でした。そして火雷神の向日山も、縄文時代の祭祀道具である石棒の製造地であり弥生時代の銅鐸の製造地でした。鴨川を通じてつながるこの二つの場所が、山城国の精神的古層になっているということを、神話は語っているのだと思います。

 そして、史実として、賀茂氏が奈良から北上して京都入りをするのは、5世紀末、第21代雄略天皇によって、奈良盆地の西に大きな勢力を誇っていた葛城氏が滅ぼされた時です。

 この時、同じ場所にいた秦氏も北上して京都に入っています。

 とはいえ、賀茂氏は、祭祀に関わる人であり、その全員が山城国に移住したわけではありません。

 天武天皇の時代に活躍した修験道の祖である役小角は、奈良葛城の賀茂氏の出身です。

 修験道空海密教にもつながっていきますし、山城に移住した賀茂氏陰陽道を担い、安倍晴明は、賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学びました。賀茂氏が伝えた精神世界は、後の日本の精神世界に大きな影響を与えています。

 また、秦氏は、一つの血族というより職業集団であり、雄略天皇の頃までは各地の豪族のもとで専門技能を発揮していました。そのことについて秦酒公が雄略天皇に訴え出たため、雄略天皇は、秦酒公にその技能集団を束ねることを認めました。そして、秦酒公は、彼らの力を結集して絹織物をたくさんつくり、雄略天皇の宮の庭に積み上げました。それが、京都の太秦という名の起源とされます。

 秦酒公の活躍が雄略天皇に認められ、それまでは葛城氏の管理下にあった賀茂氏の一部とともに、秦氏山城国に移住したのでしょう。秦氏は、技能集団として山城国の産業や治水灌漑工事などに関わり、賀茂氏は、祭祀を司る者として。

 賀茂建角身命の娘、玉依姫と結ばれたのは、山城国風土記では火雷神ですが、秦氏の記録ではオオヤマクイ(秦氏と関係の深い松尾大社の祭神)となっているのは、5世紀末以降、山城国を開発し治めていったのが、この両氏族だからでしょう。

 そして、上にも述べたように、第26代継体天皇は、近江を中心にした海人と、その水上ネットワークを重視していましたが、その息子の第29代欽明天皇は、再び、紀ノ川への出入り口となる飛鳥を中心に祭りごとを行い、葛城氏と同族の蘇我氏が台頭します。

 その欽明天皇の567年、国内は風雨がはげしく五穀が実らなかった時、賀茂の大神の崇敬者であった伊吉の若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるというので、祭礼を行い、これが、京都の葵祭の起源となりました。 

 その後、葛城系(紀ノ川と関係が深い)の蘇我氏を滅ぼした天智天皇は、第26代継体天皇と同様に、まつりごとの中心を、琵琶湖系の水上ネットワークにつながるところに置きます。

 琵琶湖は、現在も琵琶湖大橋の近くに和邇という地名が残るように和邇氏(小野氏)の拠点です。

 さらに宇治川流域や山科川流域も和邇氏(小野氏)と関係が深い場所です。

 第26代継体天皇の最初の妃は、和邇氏と同族の尾張氏尾張目子媛であり、その後も、近江高島の三尾氏や和邇氏から妃を迎えています。

 天智天皇の血統である桓武天皇が築いた平安京は、小野氏(和邇氏)と非常に関係が深い都です。

 平安京が、風水に基づいて作られた都であることは知られていますが、平安京の四隅を守る鬼門(東北)、風門(東南)、人門(西南)、天門(北西)のうち、西南の人門以外は、すべて小野郷です。

 そして、その四つの方位が交差するところに晴明神社堀川通)が鎮座しています。ここは、安倍晴明の館があったところです。安部晴明は平安京遷都とは関係ありませんが、安部晴明に陰陽道を伝えたのは賀茂氏ですので、賀茂氏を通じて、安部晴明は、風水の要に館を置く重要性を知ったのでしょう。

 平安京の「まつりごと」の中心である大極殿は、現在の千本通丸太町通が交差するところにありましたが、ここから晴明神社を通って東北方向の鬼門にラインをのばしたところにあるのが小野郷の崇道神社で、さらに琵琶湖湖畔までラインを伸ばすと、小野神社や小野道風神社、小野妹子の墓がある小野郷となります。

 崇道神社は、長岡京の変で無実の罪を着せられて悶死した桓武天皇の同母弟、早良親王の祟りを恐れて祀っている場所ですが、この敷地内から小野毛人小野妹子の息子)の墓誌が発見されたように、このあたりも小野氏の拠点でした。

 また、平安京の風門(南東)にあたる山科川流域も小野郷で、真言宗小野流の本拠、随心院があります。随心院小野小町ゆかりの場所で、小野小町小野篁がこの地で育ったとされます。

 さらに、平安京の西北、邪霊が入ってくるのを守る天門にあるのが、岩戸落葉神社。なぜ落葉なのかというと、源氏物語の登場人物、落葉の宮が隠棲していた所だからです。

 落葉の宮は、光源氏の妻となった女三宮に恋い焦がれて亡くなった柏木の妻でしたが、柏木の死後に、光源氏の息子、夕霧にしつこく求婚される女性で、源氏物語でも、小野の地に隠棲していたと書かれています。

 以上、平安京を守る四つの方位のうち、三つが小野の地です。

 そして、この小野氏と何かしらのつながりがあったと思われるのが紫式部です。

 紫式部の墓は、堀川通にあります。ここは、晴明神社上賀茂神社を結ぶ南北のラインと、平安京の北を守る玄武とされる船岡山下鴨神社を結ぶラインが交差するところなのですが、彼女の墓は、なぜか小野篁の墓と隣り合わせなのです。200年近く異なる時代の二人の墓が、夫婦のように並んでおり、その理由が謎とされています。

 俗説では、恋愛小説を書いた紫式部が地獄に落ちないように小野篁に守ってもらうためなどとも言われますが、平安時代、恋愛は自由ですから、そんなことが罪になる筈がありません。

 小野篁というのは、六道珍皇寺の冥土通いの井戸の伝承で知られています。

 昼間は天皇に仕えていた小野篁が、夜は閻魔大王に仕え、地獄に落ちる人間を裁定する手伝いをしていたという伝承があり、小野篁は、この井戸を通って地獄の入り口に通っていたとのことです。

 この六道珍皇寺の隣に、私は3年くらい前まで住んでいました。この場所は、現在、松原通ですが、かつての五条通りです。昔は、この松原通祇園祭山鉾巡行も行われていました。

 現在の五条通りは、第二次世界大戦の時、延焼を防ぐために、住民が建物を壊した跡地に作られた新しい道です。

 現在の五条通りの鴨川にかかる橋に弁慶と牛若丸の像がありますが、この場所で弁慶と牛若丸が出会ったのではなく、現在の松原通にかかる橋ということになります。

 松原通は、かつては死者を運ぶ道でした。

 鴨川の西岸までが人間の営みの世界であり、亡くなった人の遺骸は、松原通りを通って鴨川を渡り、六道珍皇寺で最後のお別れを行い、さらに東に向かって歩いていくと清水寺になりますが、そのあたりが鳥辺野とされる風葬地帯だったのです。

 六道珍皇寺の井戸で冥土通いをしていた小野篁は、生と死の境界に関係していたことになります。

 これは、小野篁個人にかぎったことではなく、小野氏が、そのように生と死のはざまに関係する氏族だったのです。

 平安京の鬼門にあたる場所の小野郷(比叡山の麓)は、八瀬童子で有名で、八瀬童子は自らを鬼の子孫と称していますが、この人たちは、亡くなった天皇の棺を運ぶ役割を担っていました。

 小野氏というのは、和邇氏の末裔です。和邇氏の末裔は、春日氏、柿本氏もそうで、皇族の死に際して多くの挽歌を詠んだ柿本人麿も同族です。小野小町小野道風など、古代、文人などが多く出ている氏族です。

 また、古事記において、天皇以外に最も登場する氏族が和邇氏で、その多くは、天皇に見初められ、天皇とのあいだに多くの子を残しますが、悲劇的な物語が多いのです。

 日本文学の特徴である悲劇のルーツに、和邇氏の存在が見え隠れします。

 小野篁紫式部の墓が並んでいることについて、これをどう考えるかですが、もともとは9世紀前半に活躍した小野篁の墓がここにあって、後から11世紀前半の紫式部の墓が作られたと考えるのが自然でしょう。

 しかし、その理由を考えるためには、紫式部が、いったい何者であるかを考えることが必要です。

 お送りした地図で、黒いマークが、紫式部に関係する場所です。

 まず、平安京の人門(南西)にあたる場所ですが、ここに大原野神社があり、紫式部氏神とされています。

 4つの門のうち、ここだけが「小野」ではなく、「春日」と呼ばれます。

 ここは桓武天皇が鷹狩りをしていた場所で、奈良の春日の地と似ていたからだとされますが、奈良の春日の地は、古代、和邇氏の拠点で、春日氏も和邇氏の後裔、つまり小野氏と同族です。

 そして、大原野神社を真東に伸ばしていった琵琶湖のほとりが石山寺で、ここは、紫式部源氏物語を書き始めた場所です。このあたりは、古代、隼人の拠点でした。

 紫式部は、源氏物語を、「須磨」と「明石」の帖から書きはじめたとされていますが、それは、紫式部の存在の背後に、海人がいるからです。隼人も、和邇氏も、海人です。

 古代、和邇氏と、和邇氏の祖にあたる尾張氏など海人は、女性を大王に嫁がせ、婚姻を結ぶことで同族となっています。

 戦闘においても、物質を運ぶうえでも、海人の存在は不可欠でした。

 しかし、宮中に迎え入れられた海人の女性たちは、いわば人質であり、いくつもの悲劇を経験します。古事記の中にそれが描かれていますが、紫式部の文学のなかには、これら運命に翻弄される女性たちが重ねられています。

 そして、石山寺大原野神社を結ぶライン上の黒いマークに、現在、観修寺があります。

 観修寺は、醍醐天皇が宮道氏の館を寺にしたものですが、この地を拠点にしていた宮道 弥益(みやじ の いやます)が、紫式部の血統を遡ったルーツなのです。

 この場所は、山科川を挟んで、小野郷の随心院の対岸です。

 宮道弥益は、陰陽寮陰陽道の官僚組織)に所属していたことがわかっていますが、多くは謎に包まれています。

 この人物が歴史的に重要なのは、彼の娘の列子が、藤原高藤に見初められ、二人のあいだにできた胤子が、まだ源氏の身分だった頃の宇多天皇に見初められて醍醐天皇を産んだからです。

 そして、この胤子の兄が藤原定方で、定方の娘が、紫式部の父、藤原為時の母です。

 つまり、紫式部は、小野郷の宮道氏の血統です。

 そして紫式部の曽祖父にあたる藤原定方は、歌人としても活躍しますが、紀貫之を後援し、古今和歌集編纂の陰の貢献者となります。

 さらに、10世紀、菅原道眞の祟りによって、道真を失脚に追いやった藤原氏の人物たちが死んでいく中で、藤原氏のなかでは例外的に菅原道真の友人だった藤原忠平左大臣になった時、藤原定方は右大臣となり、道真がやり残した改革を推し進めます。

 菅原道真宇多天皇に信頼を受けていました。

 そして宇多天皇は、源氏の身分の時、宮道氏の血を引く藤原胤子を娶ったのですが、継体天皇桓武天皇のように、本来、天皇になるはずがない存在だったのです。

 桓武天皇の母、高野新笠は、土師氏と百済系渡来人の和氏のあいだの娘でした。そして、宇多天皇の母もまた、渡来氏族である東漢氏系の当宗氏の娘でした。桓武天皇の時代に征夷大将軍として活躍した坂上田村麻呂東漢氏であり、彼の墓は、宮道氏の館のあった場所のすぐ北に存在します。

 宇多天皇天皇に擁立された背景として、この山科の地の豪族の存在が見え隠れしますし、菅原道真が行おうとした改革の内容や、祟りもまた、それに関係してきます。

 道真の左遷によって改革は頓挫しますが、道真の死後、祟りによって改革は進むのです。

 そして、紫式部の曽祖父の藤原定方は、道真の祟りが吹き荒れる中、文人としても政治家としても活躍しましたが、彼は、宇多天皇の義理の兄であり、醍醐天皇にとっては叔父になります。

 藤原定方の息子で紫式部の父となる藤原為時は、歌人漢詩人として活躍し、花山天皇に漢学を教えたことでも知られる人物です。

 紫式部は、文学の家系に生まれ育ち、当然ながらその教養が豊かだったわけですが、源氏物語には、古代の神話とつながる場面も多く、とりわけ、光源氏を加護し、光源氏が消えた後に繁栄する明石一族とも関わりの深い住吉神の存在が気になります。

 あの長大な物語の書き始めが、明石と須磨という住吉神の舞台であることも鍵を握っています。

 住吉神は、もともとは、海人によって大切にされてきた神であり、神話の中では神功皇后を守護し、そのため、遣隋使、遣唐使など国家的な航海守護の神として崇められ、平安時代からは和歌の神として朝廷・貴族からの信仰を集めました。

 山城国の古代からの聖域は、どこも河川の流域です。

 京都北部の山間部の聖域を流れる清滝川や天神川は桂川と合流し、鞍馬川や貴船川は鴨川と合流し、鴨川と桂川が合流し、山科川宇治川と合流し、さらに桂川宇治川と木津川が合流して淀川となって瀬戸内海に注ぎます。

 この河川ネットワークが、山城国の古代からの聖域を結んでいるのです。

 古代、とりわけ物資を運ぶためには、陸路ではなく水路が重要視されていました。そして、海人たちは、木を切り出して船を作り、船を操りました。

 そして海人たちと、権力者は、婚姻によって同族化していきました。

 女性が権力者に嫁ぎ、子供を産むと、子供は母親の実家で育てられました。

 古代日本の系図には、必ずといっていいほど母親の実家が記されています。母の実家こそが、その時代を読み解くうえで重要な鍵となるのです。

 子供が産まれ、権力者の後継になれば、その一族も繁栄します。しかし、嫁ぐ女性は、いわば人質です。権力者の周辺で不穏な動きがあれば、その影響を真っ先に受けます。そうした女性の悲劇が、古事記の中に多く描かれていますが、紫式部が描いた女性たちにも、同じようなことが反映されています。

 源氏物語は、途中から主人公の光源氏が姿を消し、和邇氏(小野氏)と関わりの深い宇治の地を舞台に物語は進みます。この宇治十帖の中で栄華を誇るのは、光源氏との身分の違いに苦悶してきた明石の君が産んだ娘の子供たちです。

 明石の君は、明石の地の海人と関わりの深い明石入道の娘です。

 源氏物語は、紫式部が筆を動かして書かれたものかもしれませんが、紫式部の周辺に、古代からの記憶の伝承者たちがいたのではないかと思われます。

 古代からの記憶の伝承者は、もともとは猿女氏でした。古事記の編纂に関わった稗田野阿礼は、猿女氏です。

 しかし、奈良時代頃より、猿女氏が小野氏によって管理されるという事態が生じ、猿女氏が、その不満を朝廷に訴え出たという記録が残っています。

 古代の猿女氏は、口伝えで話を伝承しました。耳で聞いて物語を記憶することに才能のある人物を輩出し、稗田阿礼もその一人でした。

 神話の中に、謎の神、猿田彦が登場します。

 天孫のニニギの案内人です。しかし、その案内とは、おそらく地理的なことに限定されないのだと思います。

 猿田彦は、「上は高天原(たかまのはら)を光(てら)し、下は葦原中津国(あしはらのなかつくに)を光す神」とされます。

 この解釈について専門家の中でも色々議論があるようですが、すべてに明るいということは、古代からの事情に通じているということでしょう。

 そして、猿田彦と、猿女氏の祖神のアメノウズメが夫婦となります。

 稗田阿礼の稗田氏は、その猿女氏と同族です。

 しかし、8世紀、物語の伝達において、口誦(こうしょう)から記載への転換が起こります。口から口へ受け継がれた文学から、書く文学という根本的に新しい質の文学への転換が起こったのです。

 その流れを加速させたのが歌であり、和邇氏の末裔、柿本人麿という存在が重要です。

 やがて、猿女氏の役割は、小野氏に取って代われます。

 小野氏は、小野小町小野篁など多くの文学者を輩出します。

 さらに小野郷の宮道氏から、藤原定方藤原為時を経て紫式部が誕生します。

 1300年前の稗田阿礼の役割を、1000年前の時代状況に応じて、紫式部が果たしたとも言えるのです。

 日本書紀古事記は、藤原不比等藤原氏の正当化のために捏造したかのように言う人がいますが、日本書紀は、複数の言い伝えを併記するような非常に学問的な書き方をしているので、陰謀説とは相容れない。

 また、古事記の序文には、天武天皇の言葉が載せられている。

 天武天皇は、聖徳太子の頃に作成された帝紀および旧辞を書き写したものが、いろいろな氏族のあいだで所有されていたが、それぞれの氏族が自らに都合が良くなるように虚偽を加えていたことを嘆き、これを正して後世に伝えなければならないと真実は滅んでしまうと決心し、その重要な役割を稗田阿礼に命じたとしている。

 継体天皇桓武天皇も、自らの”まつりごと”のために、過去から伝わっているものを疎かにしなかった。

 日本という国は、外から新しいものが入ってきて、古いものと新しいものを和合させながら自らを変化させてきました。

 古いものを尊重していたからこそ、新しいものが、この国にしっかりと根付いていき、なかには、発祥の地よりも日本の中でより高められていったものがたくさん存在します。

 密教や禅などの仏教もそうです。

 また漢字から仮名文字を生み出し、源氏物語などの傑作を創造しました。

 我々がどこから来て、どこへ行くのか? 

 この永遠の問いの答えを、古代人も、真摯に考えていたのだろうと思います。

 

日本の聖域に秘められた古代の記憶

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第1217回 「土偶を読む」を絶賛する人たちの心理って?

 縄文時代のことが気になっている一人として、「土偶を読む」という本がベストセラーになっていると知って立ち読みしたが、あまりにも独断的で、答えを最初に決めてから、それにそった裏付けだけを集めているという姿勢が目に余ったので、どうでもいいと思っていた。しかし、サントリー学芸賞とか、大きな賞を受賞したり、各種メディアで取り上げられて、本の販売数が伸びているというのだから驚く。この本の内容よりも、この本を褒める人の心理の方が気になる。

 この土偶の顔は栗だ、くるみだ、里芋だ、とやって、「これで謎の土偶が解明された!」「これまでの考古学のように、専門家の世界の常識に囚われていたら真実は見えてこない!」などと反権威ののろしをあげるセールスプロモーションがうまくいったようだが、考古学会以外の有識者とされる大勢が、絶賛している。

 考古学会が地道にやっている実証的歴史研究と、その説明が、人々の歴史への興味を遠ざけてしまっている原因になっていて、それへの反発もあるだろうし、知識文化人が、自分たちがやっていることに対して閉塞感を感じているのはわかるが、こんな土偶論を持ち上げる心理や感性や知的洞察力が不思議でならない。

 目の付け所として新しいから、そうした目の付け所も排除しないことが誠実な学問的態度だというスタンスなのだろうか。

 ならば、逆に、この「土偶論」は、自らが展開する説にそっていないものを、意識的に排除して持論を繰り出しているので、権威的考古学者たちよりも視点が偏狭だ。情報提供の恣意的な限定は、縄文のことを深く知らない人たちをミスリードするだけだ。そして、テレビメディアのターゲットは、そういう人たちだ。ミスリードされやすい人たちが、テレビを見て、この本を買うという、マーケティングとしては望ましい効果が期待できる。

 ユーチューブで、歴史のことをよく知らない人たちをターゲットにして、面白おかしく歴史を解説するお笑い芸人がウケているらしいが、それと似ている。

 しかし、娯楽の一線を超えて、権威的な賞を与えてしまえば、著者と出版社の思う壺。知的有識者もまた、マーケティングの材料、もしくはその寄生者でしかない

 ただ、いずれにしろ、こういう本を読んで、土偶の顔は栗なんだ、と頭にインプットしたところで、いったい何になるんだろう。縄文時代に関する知識を、そのように整理したところで、自分の人生の豊かさに何か影響でもあるのだろうか。酒の席のウンチクにしても、あまり興味深い内容だとは思えないし。

 この本の内容について、いろいろ言いたいことはあるけれど、一時、土偶作りや縄文土器づくりに没頭した経験から、土偶は、この本の中で示されている写真のような視覚的に平面なものではなく、もっと立体的で土の質感の伴ったものだ。中空土偶は、なぜか頭の背面の膨らみがない。

 栗を想定するならば、絵を描くように平面的な形をなぞるということにはならず、もっと膨らみが意識される。ハート形土偶を「くるみ」の形だとする説もそうで、「くるみ」を割った時の平面的な形が似ていたとしても、くるみは、もっと奥行きのある実態であり、ハート形土偶のように薄っぺらいものとして、印象を受けない。

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 そもそも、ハート土偶にしても、たくさんの種類があって、まったく同じハート型ではなく、少しずつ違っている。その中には、くるみを割った形に見えるものもあるが、まったく見えないものもたくさんある。

 本の中で使われている写真は、私のなかでは彫りの深い顔であり、一般的なハート形土偶の印象は、もっと平面的な顔だ。

 国宝の「縄文のビーナス」にしても、顔の形と植物の形を結びつける著者は、この土偶はトチノミを表しているとするのだけれど、この土偶の身体の線については何も感じないのだろうか。

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 顔の形よりも身体の線、とくにお尻に惹かれて、私は、なんどもこの土偶を作った。お尻がうまくできなければ、自分の中ではすべて失敗だった。

 著者が、顔の形が栗と同じだとする中空土偶にしても、小さな顔よりも、この美しいラインのボディに、惚れ惚れする。

 パリに住んでいた20歳の頃、ルーブル美術館に通って眺め続けていたサモトラケのニケ像のように、顔がとれてしまってボディだけになっても訴えかけてくるものがある。

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 現代人でも、あの人の顔は狐だ、犬だ、カバだといくらでも分類できるけれど、顔の形はそんなに重要ではない。造形がカバのようでも、内から滲み出るもので美しく感じられる顔もあるし、逆の場合もある。

 縄文人は、表向きのものより、内から滲み出るものに敏感だっただろう。

 それは、初期の頃の土偶をみれば、より明瞭だ。

 造形的に凝っているわけではないけれど、初期の土塊からも滲み出る何かがある。それは、生命感という言葉に置き換えてもいいだろう。

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 縄文人は、土をいじり、こねながら、生命を吹き込んでいる。植物も生命だから、そのイメージが土偶に投影されることもあるだろう。しかしそれは、栗やくるみの形といった、明瞭に線でなぞらえる形のことではなく、自分自身の魂と呼応する何かだ。

 芸術家は、栗を表現する時、写真で撮ったような平面的な栗の形をなぞって、これが栗だとは言わないだろう。

 芸術家は、目に見えている形の向こうにアクセスする人たちであり、その意味で、縄文人も芸術家と同じ魂を持っていたと私は思う。それは、土偶縄文土器を見る時、その形の向こうにある何かを感じずにはおれないからだ。

 顔の造形はともかく、初期土偶から滲み出るものが何なのか?

 何事も、その源流から考えていかなければ、その本質は遠のくばかり。

 

日本の聖域に秘められた古代の記憶

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