第1432回  安井仲治と、鬼海弘雄の写真が示す未来。

安井仲治 「馬と少女」

 安井仲治の写真について、2回にわたって書いたきたが、不思議なことに安井仲治は、38年の短い生涯で、近代写真の最初から、21世紀芸術として写真表現が存続するための唯一の在り方まで、全てをやりきって

いる。

「21世紀芸術として写真表現が存続するための唯一の在り方」というのは、非常に大仰な言葉だと思われるかもしれないが、スマホカメラで誰でも写真が撮れて、かつ AIで作為的な画像を誰でも作れるようになる時代に、写真が芸術表現として生き残る道は、非常に限られている。

 2003年に、鬼海弘雄さんの大判写真集「PERSONA」が出た時、作家の種村季弘さんが、「鬼海さんは、それと知らずに21世紀芸術の幕を切って落としているのである。」という言葉を残している。

 この写真集で鬼海さんは、浅草寺で出会った個性的な人たちのポートレートを撮っているのだが、固有の魅力を湛えた人たちとの向き合い方は、かぎりなく優しく、愛に満ちている。

鬼海弘雄「Persona」の中の「遠くから歩いてきたという青年」。 AIでは表現できない表情や手の構えや肩や髪の気配。

 他者(世界)を、自己表現の材料に都合よく使うことしか考えていない自称表現者が20世紀には氾濫していた。しかし、他者(世界)の固有性は、自己には簡単に理解できない多くのことを語りかけてくる。その語りかけが、自己の狭さと、外の広がりや豊かさに気づかせてくれる。

 愛するというのは、そのように自己の外に開かれていく出会いの実現であり、決して自己の観念による所有を意味するのではない。

 しかし、他者(世界)との固有の出会いを大事にする道は、その固有性ゆえに社会現象になりにくい性質を持ち、センセーショナルな人気や流行にはなりえない。どちらかというと、社会の裏側で、人から人へ伝

えられるように影響が浸透していく。

 人を愛する場合と同じで、表現物も、毎日見ていることで、じわじわと魅力が伝わってくる味わい深いものと、飾り立てているだけだからすぐに見飽きてしまうものの違いがある。

 いくらデザイン的に斬新でも、プラスチックのカップで毎日コーヒーを飲んでいて、カップに対する愛着が増してくるだろうか?

 合板の家具よりも無垢の木の家具の方が、使い込むほどに味がでる。

 この微妙な違いこそ、AIでは再現できない領域なのではない

かと思う。

 AIは、そのプログラムの性質からして、関係性の微妙な固有性よりも、標準的なものを作り出すことが得意だ。

鬼海弘雄「Tokyo view」の中の「壁面がアブストラクトになった裏庭。」もはやAIの入り込む隙のない風情。

 私は、鬼海弘雄さんの「TOKYO VIEW」という超大判の写真集を制作したが、この写真集は、「 Pe

rsona」とは究極の表裏の関係にあり、東

京の無人の風景を撮ったものだ。写真の中に人物は写っていないが、狭い路地、行き止まりの道とともに、洗濯物、並べられた靴など、固有の生活風景が撮られている。似たようなものをAIでも制作できるだろうが、微妙に漂っている風情を作り出すことはできないと思う。

 何が違うかというと

、愛の眼差しが違っている。 

 鬼海さんの出発点は、哲学である。大学時代、哲学科に席を置いていた鬼海さんは、彼の恩師である福田貞義先生の勧めで写真を始めた。

 鬼海さんは、写真撮影において、常に、"人間であるとはどういうことか?"というシンプルな問いに立ち返ることを自分に課していた。

 だから鬼海さんは、写真を撮らない時は、文学本や哲学書を読んでいる人だった。

 大学を卒業して社会に出てからも、大型トラックの運転手になったり、マグロ漁船に乗り込んで働いていたのは、そうした肉体労働を通して人間の原点を見つめるためである。

 肉体を通した仕事は

、机に向かって頭だけで処理する仕事と違って、簡単に標準化できない複雑なものを、リアルに実感させる。

 頭と違って肉体には明確な限界があるからだ。人間は、その明確な限界の中で生きている。生老病死は、当然ながら、その限界の枠組みの中にある。

 AIが、肉体の限界に配慮できずに頭だけで物事を決めていくものになってしまえば、人類を蝕むものになっていくのは当たり前だ。

 オープンAIが、「 Sora」という動画作成ツールを発表したことで世間は大騒ぎしている。これは、文章を打ち込むだけで、人工知能が動画を作

成してくれるものだが、裏を返せば、文章化の難しい微妙な機微は、削ぎ落とされていくということでもある。

 つまり、この新しい技術が淘汰していくのは、そうした微妙な機微を含まない映像を制作している人たちなのだ。

 無垢の家具ではなく、設計図で大量生産できるプラスチックや合板の家具と同じ、他者(世界)との微妙な関係性が反映されない物づくりは、人工知能にすぐに取って変わられる。

 だとすると、21世紀、人間に残された道は、AIが苦手なことということになり、それは、上に述べたように、鬼海さんの「愛の眼差し」につながる。

 「鬼海さんは、それと知らずに21世紀芸術の幕を切って落としているのである。」という言葉を残した種村さんは、そのことを見事に看破していた。

 そして、この鬼海さんの愛の眼差しを、80年前に示していたのが、安井仲治だった。

安井仲治 「海港風景」

 死を間際にした安井は、「芸術もけっきょく人に帰するが、単純なものほど人に帰する点が多く、技術でごまかすことは出来ない。卓上一個の果実を撮る人も、戦乱の野に報道写真を撮る人も、”道”において変わりはない。」という言葉を残したが、「技術でごまかすことは出来ない」という言葉は、今では、「AIでごまかすことは出来ない」という言葉に置き換えることができる。

 ごまかすことはできないのが、人に帰するものであり、それが”人の道”であろう。AIは、人の道から外れたことをしたとしても何とも感じないが、表現者が、そうならないことで、人々が簡単にAIに騙されない感受性を維持するための表現の創出が可能になる。

 表現者を自称する者は、自分とAIの違いに対して、強く自覚的でなければならない。
 そのためには、鬼海さんが肝に銘じていたように、常に、"人間であるとはどういうことか?を問い続ける哲学者でなければならない。それが、安井の説く「人の道」である。
 戦後日本の写真界の悲劇は、近代写真の最初から最後までを見通した安井仲治という存在がいなくなり、写真表現が、次第に「人の道」とは無関係のところに向かっていったところにある。
 (肉体を備えた)人間であるとはどういうことか? ではなく、頭でっかちに「自己」の周辺ばかりを追うようになってしまった。
 自己愛と自己顕示欲と自己承認欲求だけに止まって表現を繰り返している人も非常に多いし、そうした自己に対する批判の眼差しを持って、自己欺瞞や自己解体が、表現になっていった人もいた。
 現在、近代美術館で写真展が開催されている中平卓馬は、そうした自己中心的な時代のなかで、烈しく自己解体していった誠実な写真家ではあるけれど、彼の写真のなかに、他者(世界)との新たな関係性の扉があるとは、私には感じられない。
 天国の中平卓馬も嘆いているだろうが、中平卓馬が日本の戦後写真を代表する一人であると取り上げられることで、何を勘違いしているのか、彼の悲壮な自己解体を表現上のテクニックのようにとらえて、まるで初期型の稚拙なAIのようにコピー作品を作る輩が、現在でもまだ多く存在している。
 安井という精神の柱を失った戦後の日本写真界は、あいかわらず未成熟で、写真が、未来との架け橋にならなければいけない表現であるという自覚からは遠い。
 AIは、そうした現状を一掃する力となるだろう。それは諸刃の刃であり、だからこそ、安井の説く「人の道」が、写真表現においても極めて重要なこととなる。
 安井仲治が、太平洋戦争が始まって日本が勝利に浮かれている時に世の中から消えてしまったことは、まるで神が、その後の日本人を試しているかのように思えてくる。 

 

 

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第1431回 もし安井仲治が、あと30年長生きしていたなら。(2)

日本が太平洋戦争に突入する直前、安井は、驚くべき写真を創出する。

 それは、「磁力の表情」と題されたシリーズで、鉄粉と磁石で作り出した磁場の形を浮かび上がらせたものだ。

 このイメージは、私が編集制作を行っていたグラフィック雑誌『風の旅人』の第31号から連載で紹介し続けていた「電気の宇宙」のビジョンとそっくりであり、太陽コロナや銀河から、ミクロ世界にも相似形で連なっている宇宙の姿だ。 

 そのため私は、この安井の「磁力の表情の写真を、「この世の際」というテーマで制作していた風の旅人の第39号の表紙にした。

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 この号には、いわゆる世間的には障害者とされる人が制作するアウトサイダーアートも紹介していたが、安井の磁場の写真は、それらのエネルギーとも呼応していた。

 なぜ、安井は、戦争前の時期に、この作品を作り出していたのか?

 おそらく彼は、宇宙や地上の出来事が、争い事も含めて、磁場のなかのエネルギー現象のように見えていたのだろう。

 安井は、世の中では誰も戦争の気配を感じていなかった時期に、個人の意向ではどうにもならない宇宙的原理のようなものを実感していたのだと思う。

 同じ頃に撮られた写真は、異様で、物事の見え方を反転させるものが多い。 

 砂浜に横たわった一見健やかな肉体に見える男が、まるで死んでしまっているようにも見える写真。枯れたヒマワリの花が乾き切った泥の上に落ちているのだが、周辺の泥の方が生きて蠢いて、ヒマワリの種を飲み込んでいく緊迫感が伝わってくる写真。生と死は、同じ位相にあり、表裏の関係でしかない。安井は、それを視覚的に、象徴的に示している。

 さらに安井は、自らの死の直前、雪、月、花、池、林といったものをモチーフに写真を撮っているが、彼は、それらを「人の心ばえ」であると言っている。

 世界と安井が、それらの写真を通じて一体化しており、白と黒、光と影、陰と陽が均衡している。

 「雪」の写真の場合は、白くはかない雪と、底無しの闇が、ぎりぎりの緊迫感で均衡する。

 「月」では、丸く小さな月が、生茂る木々の黒い陰と怪しく均衡する。

 「林」では、白い林のなかで行き止まりのように見える真ん中の黒い陰が、向こう側に通じるトンネルのように見える。

 「池」は、まるで三途の川のようで、あの世とこの世の境界を超えて黄泉の国に辿り着いた死者の視線だ。これらの写真を見ていると、極限まで行って、もうそれ以上どこにも行けないと悟った人間だけが見ることのできる「世界の反転」が示されているように感じられる。

 すなわちそれは、ひとつの終わりが、あらたな世界を開くビジョンになるという「終わりと始まりの合一」であり、その境地を、安井は、「心ばえ」と言っている。 

 行き止まりの人間にとって究極の救いのビジョンを示して、安井は天に召されたのだ。

 1941年12月8日、日本軍が真珠湾を奇襲し、ここから日本軍の快進撃が始まった。

 1942年2月、日本軍は、ジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。

 日本社会は、戦勝に沸いていた。

 この風向きが変わったのは、太平洋戦争の転換点とされるミッドウェー海戦の大敗だが、これが1942年6月。

 それでも日本国内は、戦争に浮かれていて、誰もその後の深刻な事態を想像すらしていなかった。

 このミッドウェー海戦の3ヶ月前の3月15日、他界してしまった安井仲治の目には、その後の不吉は、しっかりと捉えられていた。 

 安井は、太平洋戦争直前の1941年10月、病のなか最後の力を振り絞るように、「写真の発達と、その芸術的諸相」と題する講演を行った。

 そのなかで、「普及が却ってその芸術を滅ぼす。ゆえに、普及の円の中心が確固としていなければならない。そして、それは”道”である。全人格的努力を傾注するものが必要である。」と、芭蕉の言葉を借りながら説明している。

 さらに、写真家に対して、その仕事として、「アマチュアの同情者(共感を得るという意味)としての必要もあるだろうが、芸術的な仕事をしている人は、芭蕉の言葉に聴くところが多くなければならぬと思う。」と言い添えている。

 「芸術もけっきょく人に帰するが、単純なものほど人に帰する点が多く、技術でごまかすことは出来ない。卓上一個の果実を撮る人も、戦乱の野に報道写真を撮る人も、”道”において変わりはない。」

 このシンプルで深い安井の言葉を指標にしたくない多くの写真家(写真家志望者も含めて)や、それらと同調する評論家が、コンセプトやテクニックで空疎なものを意味ありげにして、結果的に写真そのものを貶めている。

 木村伊兵衛たちメディアの戦争宣伝工作部隊は、ミッドウェー海戦の大敗以降、逆に活動を活発化させた。あたかも日本が勝ち進んでいるかのように、真実を覆い隠し続けた。

 安井が言っていた「全人格的努力」を行うのではなく、時流に乗るどころか時流を煽る表現者の社会的ポジションが上がっていき、本土空襲や沖縄の悲劇、広島と長崎への原爆投下につながっていった。

 

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第1430回 もし安井仲治が、あと30年長生きしていたなら。(1)

 東京都国立近代美術館で展覧会が行われている中平卓馬の写真が、対象を観るというより、強い自我と呼応させるように対象に手をくわえているのに対して、虚心の目に徹し切って世界の実相を写真で捉えようとした安井仲治の展覧会が、東京都ステーションギャラリーで開催されている。

 自我を軸にした虚栄や卑屈の自己中心的アウトプットが氾濫する時代に、中平卓馬が次世代に与えた影響などを確認するよりは、安井仲治の写真に、未来の在り方を再確認した方がいいのかもしれない。

 安井仲治は、1903年に大阪で生まれ、1942年3月、腎不全のため38歳の若さで夭折したが、もしも彼があと30年長生きしていたら、戦後日本の写真は、メディア受けの良さが評価基準になったり私ごと表現に閉じてしまわず、もう少し人間と世界の関係を思索させる表現になっていたのではないだろうか。

 安井仲治は、「カメラの発見は、文字の発見と同じ程度の意味がある」と考え、その自覚のもと、写真家の存在根拠と、その未来を一心に求め続けた。

 虚心に世界を観るからこそ、自分が置かれている状況に応じて見えてくるものが異なって当然である。その見え方を偽りなく写真化することが写真家の仕事であり、その時、写真の中に世界の実相が現れる。そのように安井は、考えていた。

 安井が、虚心の目で世界を観て撮った写真によって、それぞれの状況における人間や物事の構造が象徴的なサインとなって浮かび上がる。そのサインは、個々の人間が、テレビや情報知識の影響を強く受けながら見ているようで実際は見ていないリアルな世界の実相だ。

 それは、中平卓馬のような、世界の実相ではなく自己の内面を覗き込むような視点とも違う。

 安井仲治の写真は、初期のビクトリア朝の作風から、コラージュ、フォトモンタージュ、ソラリゼーション、クローズアップ、プレボケなど戦後日本社会で流行したテクニックを、戦前に全て消化しているが、多くの写真家が流行の技法自体に踊らされたり執着するのみで、西欧の写真の未熟な模倣に落ちているのに比べて、安井は、まったく異なる次元で自作に昇華させて、特に晩年の寂寞とした境地は、西欧を通りぬけて日本固有の世界観へと到達している。

 安井が生まれたのは、ちょうど日露戦争の前年だった。日本が世界の大国の仲間入りを果たそうと急激に近代化を進め、その性急なる行動の結果、深刻な矛盾に直面し、ついには太平洋戦争に突入するという時代を安井は駆け抜けたのだった。

 安井の人生において一貫していることは、他者(世界)に対する謙虚な眼差しだ。彼は、幼少の頃より異質なものが集まって世界が構成されることを肌で知っていたので、自己の殻に閉じこもることなく、異質な他者に心を開き、受け入れ、自分の中で異質なものを調和させ結実させていた。それが彼の写真だった。

 彼の生家は、洋紙店で、仕事柄、海外と接触の多い環境で育ったが、住んでいた家は本格的な日本庭園を備えた純日本風の邸宅だった。そして身体が弱く文学に親しんでいた彼は、健康のために野外に出るようにカメラを与えられる。若い頃の安井は、文学、絵画、短歌、茶道などにも親しんでいたが、18歳の時に大学受験に失敗し、写真の道に入っていく。

 安井は、既に一般化された価値観や美意識を拠り所にした表現活動で優劣を競い合っていた同時代の多くの写真家たちと距離を置いていた。だからといって新しい変化の表層を追うのではなく、その変化の中に潜む力を捉え直して、新たに再構築していくことを自分の天命と捉えていた、それは、彼が慕い、研究を続けていた芭蕉の「不易流行」の精神に通じるものがある。

 安井は、とても裕福な家に育ったが、その世界に閉じこもることなく、身体が弱かったせいもあるかもしれないが、貧しい人たちなど弱い立場にありながら尊厳を持って生きている人々に惹きつけられ、彼らの内面を引き出すような写真を撮った。

 10代の頃、朝鮮人の人々に出会い、「ほんとうの人間らしい顔」を発見したと述べ、朝鮮集落を何度も訪れ、写真を残している。

 「ほんとうの人間らしい顔」とは、どういうことなのだろうか。

 安井は、権威化されたこと、ステレオタイプ化されたこと、大勢が「いいね!」としていることをなぞるだけで満足している姿勢に違和感や反発を持ち、そうした流れとは逆の方向へ自分を導いていた。惰性に陥ることは、人間ではなく機械のようなものだと感じていたのだろう。

 

 安井は、戦時下の1941年にナチスの迫害を逃れてアメリカに行く途中で神戸に立ち寄った亡命ユダヤ人を撮影しているのだが、その肖像写真は、自らが置かれた恐怖と不安のなかでも決して投げやりになることなく生きている人間の真摯で哀しい表情と目が捉えられている。

 また、安井の人間性と、表現者としての姿勢と視点が、非常にはっきりとしている一枚の写真がある。

 それは、「惜別」と題されたものだが、出征兵士を見送る人々のなか、じっと立ち尽くす母親を撮ったものだ。母親以外の群集は川のように流れて姿は判別しない。

 顔の見えない集団の激しい流れのなか、朧に浮かび上がる母親を通じて、集団のなかの個の哀しみが漂う。

 太平洋戦争の最中、多くの写真家は、戦争宣伝メディアの一員となった。

 1942年、東方社という出版社のもとで、戦争プロパガンダを目的とするグラフ誌「FRONT」が創刊されたが、東方社の写真部主任を努めていたのが木村伊平衛であり、彼は、軍の宣伝工作に積極的に便乗していた。 

 そして、戦後の日本写真界の主要な評価軸になったのが、この木村伊平衛であり、新人写真家の登竜門のようになった賞に、その名前がつけられている。

 新人発掘の権威機関のようになった木村伊平衛賞が、きわめて世俗的なものになっていったことは、たまたまではない。

 私が2014年に「WAVE」という写真集を作った森永純という写真家がいた。

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 彼は、若い頃、高度経済成長下の東京のヘドロだらけのドブ河の写真を撮っていたが、それらの写真を見たユージンスミスが号泣した。そして、ユージン・スミスは、彼をアシスタントにし、その後、ニューヨークに彼を呼んだ。

 ユージン・スミスにとって、森永純との出会いは大きく、彼が後に「水俣」の写真を撮ることになる流れは、森永純との邂逅から始まっている。

 当時、ユージン・スミスが、日本に来ていた理由は、LIFEという世界的権威のようになっていたグラフ雑誌と対立して仕事を失っていたからだ。

 ユージン・スミスは、自分が信念を持って撮った写真をメディアが都合よく利用することに反発し、写真家は、自らの信念と自らの視点に基づいた表現者でなければいけないと考えていた。

 生前の森永純から聞いた話では、このユージン・スミスと一緒に行動していた森永純は、帰国してすぐに細江英公さんたちと相談して、写真家が自らの作品の発表の場として写真展を開いて、写真プリントを販売することを計画した。こういう試みは今では当たりだが、その当時の日本では、無かった。

 その写真展で、最初の展示をしたのが森永純だったのだが、その会場に、木村伊兵衛が乗り込んできて、猛烈に非難したのだという。

 木村伊兵衛は、LIFEと対立したユージン・スミスとはまったく逆の考えで、写真というのは、写真家の表現物ではなくメディアを通じて世の中に伝えられるもので、その見返りとしてメディアからお金をいただくもの。だから、メディアから自立して自分のプリントを売るなどという行為は許されないものだったらしい。

 木村伊兵衛という写真家が、もともと戦争の宣伝工作を専門とするメディアの主力写真家であったことに関して、戦後の日本写真界では沈黙しているようなところがある。あの時代の流れでは、しょうがないという言葉で。

 もちろん、正面から軍事政権と対立できる時代ではなかった。しかし、積極的にメディアの宣伝工作に便乗するのと、なんとか違う形で、ぎりぎりの抵抗を見せるのでは、表現者としての資質に大きな違いがある。

 たとえば濱谷浩もまた、1941年、東方社に参加することとなって対外宣伝誌『FRONT』のため陸海軍関係の撮影に従事するが、疑問をもち退社。その後、文化人らの肖像撮影を手がけ、1944年新潟県に移って、ここを拠点に日本海側の風土や人々の営みを記録し、「裏日本」という形にまとめた。

 戦時下において、日本を気高く紹介することが写真家のミッションであったわけだが、濱谷浩は、木村伊兵衛衛のように安易に戦争賛美の流れに乗らず、表現者としての矜恃を保ち続けた。

 ユージンスミスの影響を誰よりも受けた森永純も同じで、彼は、表現物でさえ娯楽と無聊の慰めになってしまった消費社会と交わらず、ドブ川の写真集の本の後、ひたすら「波」だけを30年以上にわたって撮り続け、私と出会った頃は、写真界からは、ほとんど忘れられた存在になっていた。

 彼が、生涯にわたって形にした本は、東京のドブ川と、私が作ったWAVEの2冊だけである。

 この森永純も、もしも日本の戦後写真界の主要な評価軸が、木村伊兵衛ではなく安井仲治であったなら、まったく違う写真家人生だったかもしれない。

(つづく) 

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第1429回 現実とファンタジーをつなぐ写真 『ON THE CIRCLE』。

「円形の貯水槽の上に寝て目を閉じる。

 宇宙に包まれるという感覚ではなく、宇宙を包み込むという感覚、そのような一瞬は来るのだろうか。

 多分、その時は、生きることの不安からも死の恐怖からも解放されるに違いない。

 瞼に柔らかな光を感じながら漠然とそう思う。

 円の上で交差する。直線的な時間と円環する時間が。

 円の上で融合する。日常と非日常の世界が。

 草を揺らす風の音。小鳥のさえずり。銃声。子供の泣き叫ぶ声。水面ではじける水滴の音。円の上に音があふれる。

 母の声は錯覚だったのだろうか。

 日が落ちて、ぼくは起き上がり、貯水槽の上に立つ。

 仄暗い中、何もない円を見つめる。」

ーーーー

 この文章は、写真家の普後均さんが、写真集『ON THE CIRCLE』の中にはさんでいる言葉だ。

 私の家には数多くの写真集があるけれど、何度も見返したくなるような写真集は、ごくわずかしかない。

『ON THE CIRCLE』は、その限られた一冊だが、この写真集の中の写真は、その一枚だけを取り出して壁にかけて観賞するようなものではなく(それでも十分に魅力的だが)、写真集全体が舞台であり、その舞台の中で、まるで映画のように一枚一枚が欠かせないシーンになっている。

 これについて、今、言及しているのは、さきほど書いた小栗康平さんとビクトル・エリセの映画との関係が、ふと頭をよぎったからだ。

 ファンタジーと現実を別々と割り切った多くの表現と称するものたちと違って、普後さんの『ON THE CIRCLE』は、その虚構世界のなかで、現実がファンタジー化されている。

 虚構世界というのは、「円形の貯水槽」が舞台化されているという意味においてだが、この円形の貯水槽は、映画のセットではなく、現実の事物である。

 

 これは、すごい写真世界だと思う。近年、写真をアートと称して作り物のセットを撮影した虚構表現を行なっている人が増えているのだが、普後さんの眼差しは、そういう偽表現者のように現実から目を逸らすということをしていない。

 円形の貯水槽の上の人々は、リアルな現実の中に生きている人たちであり、そのことも十分に伝わってくるが、まるでファンタジーの世界のようでもある。

 この感覚は、普後さんが書いているように、宇宙に包まれるという感覚ではなく、宇宙を包み込むという感覚に通じる回路だ。

 宇宙に包まれる感覚程度の癒しでは、リアルの現実における本当の救いにはならない。

 生きることの不安からも死の恐怖からも解放されるに違いない本当の救いは、宇宙を包み込むという感覚を通してだろうという普後さんの直観は当たっている。


 さきほどの映画の話のなかで、ビクトル・エリセは、そこまでの境地には思いいたらなかったのではないか。

 普後さんが写真表現において設定した円い貯水槽の輪郭は、まさに、映画におけるフレームと同じであり、そのフレームのなかで、現実とファンタジーを分離させることなく融け合わせること。それは、世間や評論家の評判などとは関係なく、自分自身の魂の救済のためだ。

 そして、それだけ、表現における誠実さがゆえの苦悩が深いということでもあり、その苦悩がなければ、たどり着けない境地でもある。

 しかし苦悩があれば辿り着けるわけでもない。

 これが先ほど小栗康平さんとビクトル・エリセの違いについて書いたことで、芭蕉俳諧にある「軽みの境地」というべきものであり、これが、普後さんの『ON THE CIRCLE』から感じられる。

 常識を脱ぎ捨てるその捨て方に、「軽み」の真骨頂がある。

 普後さんは、『Flying Frying Pan』という写真集で、フライパンだけを使って「宇宙」を出現させたのだが、その軽みの境地が、『ON THE CIRCLE』では、人間の現実に向けられた。

 この軽みの境地は、自作を次々と脱ぎ捨てていく小栗さんの映画作りにおいても通じるものであり、場面の切り替え方と、その連続で、絵巻物のように現実と虚構を同一空間とすることができる。

 その日本文化の軽みの技が、西欧世界における表現の誠実がもたらす垂直的苦悩からの超克になる可能性があるが、小津安二郎を敬愛するというヴィムヴェンダースは、俳諧の軽みにある宇宙を包み込むという感覚に基づく平安ではなく、見たくないものを見ないという軽さ(easy=手軽さ)での心の平静にすりかえて「perfect days 」を作ってしまった。だから、真摯な芸術表現ではなくBGMになってしまった。これは、ビクトル・エリセ小栗康平さんが映画表現において目指すものとは、まるで違うものだ。

 普後さんの「ON THE CIRCLE」が、目の付け所と技巧で騙されやすい評論家が褒める類のイージー現代アート風装いの写真群と違うように。

 

 

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第1428回 ”いのち”のさだめと、もののあはれ。

 

今年の京都の桜の開花は、ウェザーマップによると平年より早く、3月21日に開花、3月30日に満開になると予想されているが、そのタイミングとなる3月30日(土)と31日(日)に、京都でワークショップセミナーを開催します。

 当日は、嵐山の渡月橋あたりに集合して、桂川沿いに松尾大社方向へと歩いて20分くらいのところの私の事務所に向かいます。 

 嵐山の桜見物は、渡月橋を渡って嵯峨野方面へと人が流れていき、あちら側は大混雑。渡月橋から松尾大社方面も、桜が美しいのに、なぜか観光客がほとんどおらず、のんびりと桜を愛でることができます。

 2月に東京で行ったワークショップから、映像素材に、カラーのピンホール写真を使っている。

 これまでモノクロのピンホール写真を使っていた。

 モノクロのピンホール写真には霊性が写るが、カラーのピンホール写真の方が、「いのち」が写るような気がしている。

 霊性って、揺るがない確かさがあるけれど、いのちは、艶かしさと儚さがある。

 今年、制作する本のテーマは、「もののあはれ源流を辿る」。

 もののあはれは、現在、大河ドラマでやっている紫式部の「源氏物語」が、文学作品として、その極点にあった。

 源氏物語には多くの女性が登場する。そのなかで、怨霊となって現れる六条御息所はモノクロ画像の方が説得力があるが、夕顔や紫上や玉鬘や秋好中宮など他の女性には、それぞれカラーのイメージがある。

 モノクロピンホール写真は、「物・もの・霊」といった気配を強く醸し出し、とても抽象的で神話的世界だと思うのだけれど、カラーピンホール写真は、霊性よりも物質性や身体性に通じるものが感じられる。

 私が取材で訪れる日本各地で拾ってくる石ころにも、「色」がついている。それらをモノクロで撮ると、岩石という質感と気配を強く伝えてくるのだけれど、緑色変成岩の緑とか花崗岩の白とか辰砂の赤が、古代人の心を引きつけたのは、それらの色に「いのち」を感じたからだろうと思う。

 いのちの領域にあるからこそ、”あはれ”が感じられる。 

 霊性という永遠の領域から、”いのち”という定めの領域へ。

 色即是空。目に見えるものの色は、不変なる実体ではなく、因果によって生成し、刻々と変化し続けるが、その因果がなければ消え去ってしまう。

 そうした”いのち”の定めに、あはれの美を見出したのが、源氏物語をはじめとするいにしえの日本の文化だった。

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第1427回 ビクトル・エリセと小栗康平の眼差しが交差するところ

ビクトル・エリセの最新作の「瞳をとじて」を観て思うところがあったので、昨日の夜、彼の処女作である「ミツバチのささやき」を久しぶりに観てきた。
 素晴らしく心に染み込む映画ではあるのだけれど、この映画の魅力は、無垢の少女のアナの眼差しに引き込まれて、その眼差しと自分の心が重なって現実と虚構の境界が揺らいでいくところにある。
 「ミツバチのささやき」の中の少女の汚れなき眼差しは、映画の作り手にとっても、映画表現を通じて残し続けたい、世界と向き合う際の心の誠実さだろう。
 それに対して、最新作の「瞳をとじて」には、無垢な少年や少女は実際の人物として出てこなくて、映画という虚構世界の中で使われる一枚の写真の中に閉じ込められている。その少女が、映画の最後の方で写真の中から現実の中に出てきても、それでもなお制作中の映画の中の出来事という設定であり、その制作中の映画を、「瞳をとじて」という映画の中で私たちは観ることになる。
 そのように虚構が何重にも重ねられて、その虚構の層の奥から、無垢な少女の瞳が私たちを見つめてくる。
 無垢とか誠実に対して、これが年をとるという現実なのだろうか。
 「ミツバチのささやき」のなかでの「私はアナよ」という台詞は、少女アナが映画で観た気の毒なモンスター(フランケンシュタイン)と重ねた逃亡兵士と心を通い合わせるために発せられるものだが、「瞳をとじて」の方で発せられる「私はアナ」という台詞は、記憶をなくした父に向けられるものだ。
 「ミツバチのささやき」の方のアナは、自分が助けようとしたモンスター(兵士)が死んでしまうと、激しい衝撃を受けて現実世界から魂が遊離してしまうけれど、「瞳をとじて」のアナは、久しぶりに会った父が記憶を取り戻して自分のことを思い出してくれないと、主人公の映画監督ほど思い入れがないようで、すぐに自分の現実に帰っていこうとする。
 これもまた年をとるという現実になるのか。
 映画監督である主人公の祈りと哀しみは、ビクトル・エリセの祈りと哀しみ。その哀しみは、自分の未完成の映画フィルムをテレビ番組の素材として使って小遣いを稼がなければいけないという今日の表現者が置かれた立場の哀しみでもあるけれど、それ以上に、表現者のミッションとして、世界と誠実に向き合って真理を探究することなど誰も期待していないという現実のなかに自分が存在しているという哀しみだろう。
 この現実の中での「探究」とは、自分の映画フィルムが素材として使われるテレビ番組の「失踪者の探索」にすぎないのだから。
 ビクトル・エリセの映画を観て考えたのは、エリセと同じく寡作な日本の映画監督、小栗康平さんだ。
 小栗さんの処女作の「泥の河」は、エリセの「ミツバチのささやき」と同じく無垢な少年の眼差しの中の世界が描かれていた。
 この作品が大成功を収めて、今でも小栗映画といえば「泥の河」が好きだという人が多いのだが、小栗さんは、同じ位相にとどまらなかった。
 次の「伽倻子のために」は、青年男女の純粋誠実な眼差しの中の世界であり、その次、カンヌグランプリを受賞した「死の棘」では、中年男女が主人公で、夫の不倫で心が壊れていく女性を通して純真が描かれた。
 そして次の「眠る男」では、壮年から老年の登場人物が多く、主人公は、植物人間だ。現実世界と切り離されているがゆえに魂が清らかなままの植物人間の周りで物語が進んでいく。
 さらに次の「埋れ木」では、展開はさらに複雑になる。無邪気な少女たちは、ファンタスティックな物語を次々と作り出していくのだが、町に住む大人たちは、ファンタジーとは無縁の世知辛い現実に即したリアルな過去の物語の中にいる。この二つの物語は決して交わるところがないのだが、地中に埋もれた古代樹という神話世界を通じて交わることになる。
 古代樹の世界は、神話的であるが、そこに在る現実だ。ファンタジーを作り続けていた少女たちと、ファンタジーとは無縁になっていた大人たちにとって、古代樹の世界は、同じ夢の中の世界でもある。
 「埋れ木」は、映画という虚構世界が、夢を失った現実に対して、リアリティを失わずに、夢を保ち続ける装置として働いている。
 ファンタジーの難しい現実に直面しながら、小栗さんは、「眠る男」という作品で「植物人間」を表現の軸にせざるを得なかったわけだが、さらに難しくなる現実において、映画の可能性を諦めない小栗さんは、「埋れ木」というリアル世界と接点のあるファンタジーを作り出した。
 しかし、世間の人々の多くは、リアルとファンタジーの接点など誰も気にしなくなった。世の中に媚びた評論家は、ファンタジーの虚構性の作り込みだけを絶賛したり、リアル世界をなぞるだけのものを社会性のある映画などといって褒め称える。ファンタジーと現実は別ものでいいという風潮だから、複雑にならざるを得ないチャレンジをした「埋れ木」を、難解だと切り捨てる人もいた。ハリウッド映画の単純明快さにすっかり慣らされてしまっているからだ。
 こうした現実世界のリアルと、芸術表現に向き合う魂の誠実さのあいだの葛藤を、戦争という極限世界を通じて描いたのが、小栗さんの次の映画である「 FUJITA」だった。
 しかし、誠実なる映画表現をとりまく環境は最悪である。世の中のムードとして、もはや映画は単なる娯楽であり、気分転換の道具でしかないから、世相に媚びても疾しさも感じない評論家は、「 FUJITA」を、暗いとか重いといった陳腐な表現でしか論じない。また、表現の深さよりも政治的な判断で映画を観る偽インテリは、現実の問題をなぞるだけの映画を、人々が関心を持つべき社会的映画などと持ち上げるばかりだ。
 小栗康平さんは、「泥の河」から「FUJITA」まで、一貫して、映画表現における誠実を追求してきた。
 現実の中で生きるということは、時とともに薄汚れて穢れていくことは仕方がなく、誠実であり続けることは夢物語でしかないと多くの人が自分に言い聞かせている現実世界のなかで、小栗さんは、虚構の映画世界のなかで、そのように人々が思い込んでいる現実と、ファンタジーのあいだを、つなごうとしてきた。
 小栗さんにとって映画を作ることの意味は、そこにしかないから、一本ずつの映画に時間をかけるしかなく、寡作になって当然だ。
 もちろんビクトル・エリセも、映画作りに対する思いや苦しみは小栗さんと同じなのだけれど、この二人の映画監督には、西欧世界の視点と東洋世界の視点の違いがあるように私には感じらる。
 ビクトル・エリセの方が、たとえば「誠実」とか「無垢」という主題においても頑なに垂直に掘り下げていこうとする指向性が強いのに対して、小栗さんは、水平にずらすことで、そこに近ずくアプローチができるような気がする。その分、小栗さんの映画の方が、6作だけれど、広がりがある。どの作品も、まったく異なる映画世界であり、ビクトル・エリセの作品のように自作をオーバーラップさせるような手法は微塵もない。
 小栗さんは、「泥の河」を作った時から、心の存り様は変わっていないけれど、同じ手は使わない。現実が変わってきているのだから当たり前のことだ。
 しかし「FUJITA」まできてしまうと、次が簡単ではない。簡単ではないけれど、ビクトル・エリセの「瞳をとじて」のラストのように、映画への希望を誰かにつなぐという祈りにはならないだろう。
 映画という虚構世界の中で、夢と現実を自分自身の手でつなぐことしか、小栗さんは考えていないだろう。
 何を信じればいいかわからない世の中でも、自分の手を信じることこそが、希望の道筋であることは変わりないからだ。

 

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第1426回 瞳をとじて

 昨日、久しぶりに新宿歌舞伎町まで足を伸ばし、ビクトル・エリセの31年ぶりの新作、「瞳をとじて」を観てきた。

 同じように20代の頃に観ていたヴィムヴェンダースの新作の「perfect days」よりは、映画の時間の中に潜入することができた。

 「perfect days」は、心の疲れた時のBGMのようなもので、私自身、アナログ好きだし、トイレ掃除を一生懸命やる姿は見ていて気持ちがよかったが、映画として真剣に論じる気にはなれなかった。そもそも、映画館で観なくても、すぐにネット配信で流されるだろうが、家のテレビでご飯を食べながら、テレビドラマでも見るような感覚で見られる映画だ。だから、この映画のタイトルの「perfect days」には、それほど深い意味はなく、一仕事を終えて風呂に入ってビールを飲んで、明日も頑張るかと寝床に入るくらいの意味で、何も引きずらないという意味でしかない。つまり思索を深めてくれるわけでも、目が開かれるわけでもない。

 ビクトル・エリセの映画は、そういうわけにはいかないし、やはり、敢えて映画館に足を運ばなければ映画の時間を体験できないし、思考停止に導くようなものではない。

 しかし、今回の作品は、若い頃に観た「ミツバチの囁き」のように、時を超えて脳裏に焼きつくようなシーンが無いような気がした。

 ミツバチの囁きで、少女アナを演じた人が、大人になって、同じアナという役名で出演していたけれど、この女性にも、あまり深みや魅力を感じられなかった。

  事前にプロモーション画像で見た時、海岸にあるサッカーのゴールポストの映像は、映画のフレームを象徴しているのだろうと思い、そのフレームの中で何かを訴えているのだと受け止めていたが、このシーン、たぶんそういう意図なんだと思うけれど、映画の中で、あまり心に刺さるシーンではなかった。

 自分が年齢とともに色々な表現体験を重ねて鈍くなってしまったのかもしれないが、劇場を出ると目にする風景が違って見えるような感覚がなかった。

 わざわざ映画館に足を運んで見る映画には、そうした映画体験を期待してしまう。そうでなければ、家のなかでネット配信を見ればいいのだから。

 それでも、ヴィム・ヴェンダースの新作からは彼自身の映画に対する深い思いのようなものは伝わってこず、慣れ仕事のような感じだったが、ビクトル・エリセの新作からは、映画に対する祈りのような深い思いがあることは伝わってきた。その思いの強さが、31年ぶりのこの映画制作の情熱を支えたのではないかと感じられるほど。

 だからかどうか、登場人物は、監督のその思いを示すための駒にすぎないようにも感じられた。そのため、一人ひとりに、さほど深みを感じられなかったのかもしれない。それぞれの場面で交わされる会話も、ただの会話にすぎず、引き込まれなかった。

 もっとも残念だったのは、場面と場面が、まるで響きあってこなかったことだ。全ての場面が、最後のハイライトの場面のための準備でしかないような。

「ミツバチの囁き」は、どこかで映画が途切れてしまったとしても、そんなことは関係なく脳裏に焼きついたままの場面がいくつかあった。後々まで記憶に残る映画というのは、そういうものだ。

 観たり読んだりすることによって、こちらの思索を深めてくれるものでないと、それは、ただのBGMであり、消費財にすぎない。

 いいね!の数をいくら積み上げたとしても、そんなものは、10年後には記憶からは消え去っていて、長いあいだ、思い入れを維持できるようなものではない。

 ビクトル・エリセの新作は、なぜ、それほどの深みを伴っていないかと考えざるを得ないものがあるから、 BGMだとか消費財とは思わない。

 ビクトル・エリセの限界(年齢も含めて)ではなく、映画の限界なのだろうか、それとも、時代の問題、もしくは私自身の問題なのだろうか。

 「瞳をとじて」の公開に合わせて、「ミツバチの囁き」を上映している映画館がいくつかあるので、確かめてこようと思う。

 ヴィムヴェンダースのperfect daysを観た後は、この「何故なんだろう?」というモヤモヤとしたものは残らなかったから、かつての映画を見なおそうとは思わなかった。perfect daysは、日本の内側深くに入り込んで複雑な内実をどう表すべきなのか葛藤しているわけではなく、自分の印象を軸にして、表層をサラッと流しただけのものだから、人間の「生きる」ことや「在る」ことに対する根本的な問いと向き合う映画表現の限界や可能性を論じる対象ですらない。

 ビクトル・エリセが、31年も沈黙していたのは、ずっと映画の可能性と限界に対する問いに向き合っていたからだと思う。彼の年齢と、一本の映画にかける時間から判断して、次はもうないだろう。そして、この最後の一本において、ビクトル・エリセは、自身が、映画の可能性を拓くことを目指していない。

 「瞳をとじて」というタイトルのように、瞳をとじて、あとは祈るだけだ。

 最後の作品の最後のシーンは、映画の可能性に対する祈りであり、この祈りが限られた誰かに伝わることを願う遺言になっている。この遺言のための筋書きであるため、各場面が、その御膳立てのようにしか感じられないのかもしれない。

 それでも、彼の祈りを受信する映画監督は、きっと世界中のどこかにいるだろう。

 話は変わるが、映画監督の小栗康平さんが、年末あたりからオフィシャルサイトで手記なるものを書き始めた。

 

www.oguri.info

 長年、まったくといっていいほどご自身の考えを文章化してこなかったけれど、月に一回を自分に義務付けて書くことにしたのだそう。

 その第一回前の投稿で、「映画は生きて在る人の姿を写している。それだけでも凄いことではないか。そう考えれば、私にももう一本は撮れるかもしれない」と書かれている。

 「生きる」ということと、「在る」ということ。これがどういうことなのかを突きつけてくる映画表現は、とても少なくなった。

 そして、感傷的にすぎないものを、「生きる」とか「在る」と錯誤させるものが多い。

 「生きる」とか「在る」ことの痛みが強いものは、敬遠されがちな世の中だ。見たくないものを避け続けているから、ますます、その耐性は衰えていく。

 感傷に流れて、その痛みがあまり感じられないものほど、いいね!と軽く共感されるのだけれど、そのなかに、凄いものはない。

 凄いものは、「恐ろしくなるほど」のもので、時には「気味が悪い」もの。

 小栗さんの作品の数は、とても限られている。それは、「生きる」とか「在る」の痛みは、そう簡単に引き受けて形にすることができるものではないからだ。

 泥の河、伽耶子のために、死の棘、眠る男、埋れ木、 FUJITA、どの作品にも、生きることと在ることの深い痛みがある。

 これでも十分とも言えるし、渾身のもう一本が形になることを、私は祈りのような気持ちで期待しているけれど、「月に一回を自分に義務付けて書く」ということは、きっとその始動になるはずだ。

 

 

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