第1446回 悶えて加勢する巫の力。

(昨日の続き)

 世界中の文学のルーツには悲劇がある。悲劇には、人間の心の深いところを揺さぶる力がある。だから後々まで伝承され、記憶が引き継がれる。

 現代社会のように、人間の欲望を刺激するものが溢れ、悩みや不安を一時的に紛らわす娯楽に不自由しない状況でも、人のために尽くすことを願う人たちも多い。

 欧米風に表現することが好まれる現代では、「コンパッション」という言葉が使われる。これは、相手を深く理解し、相手の役に立ちたいという純粋な思いを持ち、相手と共にある力のこと。

 古代においても、この「コンパッション」の道を歩むものがいて、それが巫であった。

 古事記において登場する女性の多くは、この巫であり、その多くは、悲劇的な存在として描かれている。 

 古事記の中では、とくに、「和邇氏」関係という設定の人物が、女性だけでなく男性でも多い。

 その代表が、仁徳天皇皇位を譲るために自殺した菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)で、ヤマトタケルもまた、母親の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)が、和邇氏の娘である。

 ヤマトタケルは、古代日本で最も有名な英雄ではあるが、父に恐れられ疎まれて、わずかな従者も与えらずに九州の討伐を命じられ、討伐から帰るとすぐに東方の蛮族の討伐を命じられた。そのためヤマトタケルは、父が自分に死ぬことを望んでいるのかと嘆く。そして、最期、望郷の歌を詠んで亡くなるわけで、明らかに、悲劇の主人公である。

 和邇氏は、後に柿本氏や小野氏となるが、ともに歴史上に名を残す文学者を輩出している。

 歴史探究の好きな人たちのあいだでは、和邇氏とか物部氏とかを古代の血族集団と捉え、その系図などを細かく辿る人たちも多いのだが、これは一種の職業集団であろう。

 欧州では、ホメロスの時代から吟遊詩人と呼ばれる人たちがいた。彼らは定住者でなく、各地を旅しながら、歌や音楽とともに、物語を伝承していったが、日本でも同じだろう。

 日本のような島国おいて、各地を自在に移動できるのは、縄文時代から自由に海を行き交っていた人たちで、それが後に海人族として束ねられていったのだが、彼らにも職能の違いがあり、安曇氏のように日本海側を主たる活動範囲として食膳と深い関わりを持つ勢力もあれば、紀氏のように、太平洋側で活動し、木材の調達に深く関わる勢力もあった。

 日本列島は、黒潮にそった南側が森林資源が豊かであり、九州南部、四国、紀伊半島、伊豆にかけて木材を調達し船舶を製造する海人勢力は、森林資源を求めて海から河川深くに分け入っていく。河川沿いは、川が削り取った地質が剥き出してあり、鉱脈が見える。とくに船の防水と防腐に効果のあった辰砂=丹(硫化水銀)を欲していた彼らは、鉱山開発の人々でもあった。

 辰砂がとくに豊富なところは、近畿の吉野から伊勢にいたるルートで、大和水銀鉱山奈良県宇陀郡)は、明治時代まで採鉱が続いた日本最大の水銀鉱脈であり、伊勢国飯高郡丹生は、中世まで代表的な水銀鉱床だった。 

吉野の丹生川神神社。

 現在でも、各地に丹生という地名が残るが、それらは、辰砂の採鉱現場である所か、辰砂と関わりの深い人々が拠点としていた所だった。

 辰砂というのは、船の防水や防腐だけでなく、様々な用途がある。金の精錬も、水銀アマルガム法で行われるし、大仏などのメッキも水銀と金を化合させたものを全身に塗って、沸点の低い水銀だけ蒸発させる方法をとる。

 そうした実用性だけでなく、古代から辰砂は、たとえば古墳の石室に敷き詰められてたり、刺青に使われていたことが魏志倭人伝に記録されたり、祭祀的にも用いられていたことがわかっている。神社の鳥居もそうだ。

 辰砂の朱色は、血のように深い色で、古代人にとって、生命を象徴する色でもあったのだろう。

 万葉の時代、辰砂の朱と白が特別な色として歌が詠まれた。

 白は、「きよし」、「さやけし」。 朱の色を、「にほふ」、「てる」、「ひかる」、「はなやか」と詠まれた。

 この朱と白が、日本の国旗であるが、神道の巫女が着用する衣装も、上半身の白い小袖と、下半身の赤い袴の組み合わせである。

 「きよし」は、穢れがないことで、「にほふ」は、現在では嗅覚を意味するが、もともとは染色で花草木の色によく染まるという意味で用いられるなど、生命の力が照り映えるような状況である。

 日本の国旗である日の丸のことについて議論される時、赤を「太陽」とだけ結びつけて、皇祖神に位置付けられるアマテラス大神の重ね、天皇を中心とする国家神道の象徴として捉えられ、そのことを支持するか、それとも反発するかという構図になってしまう。

 しかし、赤と白は、巫の衣装でもあり、巫とは何なのかという視点から、このことを深く考えることも大切だ。

 古来より巫女は神楽を舞ったり、神託を得て他の者に伝えるものと考えられていたので、神話において、天岩戸の前で舞いを行った天鈿女命(あまのうずめのみこと)が、巫女の原型とされている。

 しかし、天岩戸に籠もったアマテラス大神も、別名が「オホヒルメノムチ(大日孁貴)」で、「ヒルメ(日孁)」の孁は、「巫」と同義であり、古来は太陽神に仕える巫女であったとも考えられている。

 また、アマテラス大神の天岩戸籠りの原因となったスサノオの狼藉も、アマテラス大神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、スサノオが機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ血まみれの馬を落とし入れたことであるが、織物をする女性は、古代の巫女を象徴する姿である。

 古代、織物は、神や先祖霊に捧げる最高の供えものであった。布を織る者は、禊をして身を清め、布を織る場所も水辺であった。水は、穢れ祓いに通じている。

 ニニギの天孫降臨の時、最初に出会ったコノハナサクヤヒメやイワナガヒメも水辺で機織りをしていた。そもそも、ニニギの母親の栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)も機織りの神である。

 身にまとう衣服は、依代であり、神や王のために織物を織る巫女には、それだけ神聖な力が求められたということになる。

 全国的に存在する鶴の恩返しの伝承は、人間界の存在ではない鶴が、織物を通して、人間の老夫婦を豊かにする物語なので、巫女の物語の様相を帯びている。

 この物語のなかで重要なポイントは、恩返しのために機織りを行う鶴が、自分の羽毛で機を織っているので、日に日に痩せ細っていくことだ。

 巫の霊力が発揮されるのは、自己犠牲も厭わない「コンパッション=相手とともにあること」ゆえのことである。まさに、石牟礼道子さんの「悶えて加勢する」という言葉が、これに該当する。

 巫は、自分の存在を打ち捨てる覚悟で神に仕えることで、その身に神を憑依し、神そのものになって、人々に豊穣をもたらし、人々を災難から守護する存在だった。

 琉球王国では、17世紀まで、ノロによる神女体制が続いていたが、琉球神道における「ノロ」が、そうした古代の巫女の姿を今に伝えている。

 そして、上に述べたように、辰砂(丹生)の朱色は、血のように深い色で、古代人にとって、生命を象徴する色でもあったゆえに、丹生と、巫女の結びつきは、いくつも見られる。

 たとえば聖徳太子は、太子町の叡福寺に、なぜか二人の女性とともに埋葬されている。

 一人は、母親の穴穂部間人。そして、もう一人が、最愛の妻の膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)である。

 膳部菩岐々美郎女の実家、膳氏は、主に食膳を司り、軍や外交などでも活躍した海人系。

 この膳氏の古墳が集中しているところが若狭の膳部山の麓で、上ノ塚古墳などがある。ここは、古代から遠敷(おにゅう)郡だが、7世紀後半の藤原宮の木簡では「小丹生評」と表記されており、ここもまた「丹生」であり、聖徳太子の妻、膳部菩岐々美郎女もまた、丹生の巫だった。

瓜割の滝。日本有数の名水。若狭の遠敷郡。7世紀後半の藤原宮の木簡では「小丹生評」と表記されている。聖徳太子の妻の実家、膳氏の拠点。

 古代、丹生の巫は、その呪力によって王を支え、実家の海軍力でもまた王を支えていたが、政治の表舞台には立つことなく、陰で支えていた。

 例外的に表舞台に立って活躍した神話上の人物が、新羅討伐を行った神功皇后応神天皇の母)であるが、彼女に神が憑依して神託を告げるという内容が示されていることから、巫女であることがわかる。

 神功皇后の本名は、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)であるが、息長氏の聖域は、滋賀県の丹生(米原市)である。

 丹生の巫と関わりが深い息長と、悲劇的な巫の伝承の多い和邇の結びつきを示しているのが、近江富士の三上山に降臨した天御影命の娘の息長水依姫と、彦坐王という和邇氏の血を引く皇子が結ばれたという神話伝承だ。

 二人の子の丹波道主命の娘の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が、第12代垂仁天皇に嫁いで景行天皇を生み、この流れが後の天皇の血統になると示されている。

 さらに和邇氏は、全国にある浅間神社の総本社の富士山本宮浅間大社の神官として、皇祖神のニニギと結ばれたコノハナサクヤヒメを祀ってきた。コノハナサクヤヒメは、別名が神吾田津姫で、これは、南九州を拠点とする海人族の女神だが、和邇氏の祖も、吾田片隅命(あたかたすみのみこと)で、同じ吾田である。

 これが史実かどうかわからないが、こうした伝承が残されていることじたいが、これら伝承の背後に、丹生と和邇の勢力が存在していたことを暗示している。

 

ここに書いたことを、3月31日と31日に京都で行うワークショップで、掘り下げます。

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 3月30日(土)、31日(日)に、京都で開催するワークショップセミナーの詳細と、お申し込みは、ホームページにてご案内しております。

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第1445回 この時代の巫の力。

 2011年の東北大震災から13年が経った。
 ここにアップしている石牟礼道子さんの写真は、風の旅人の第48号(2014年6月1日発行)に掲載しているロングインタビューの時の写真で、写真データを確認したら、ちょうど10年前の2014年3月11日になっている。
 このインタビューの時、ご病気の状態は悪くて、パーキンソン病のため、お身体もずっと震えておられて、写真なんか撮れそうもなかった。でも帰り際、部屋を出かけたところで、意を決して振り向いて、思いきってお願いしたら、了承してくれ、小さなカメラを向けたら、その瞬間だけ震えが止まり、童女のような表情になった。
 こんな石牟礼さんの顔は初めて見た。
 私は、風の旅人の第45号から「3.11以降を生きる」というテーマで、作家の宮内勝典さんや丸山健二さん、染色家の志村ふくみさんと、ロングインタビューを重ねていた。
 そして48号のテーマを「死の力」と決めた時から、石牟礼道子さんにインタビューを依頼したいと考えていた。
 当時の石牟礼さんのご病気が重篤であることは、石牟礼さんを尊敬する人たちのあいだでは常識だった。
 しかし、風の旅人の第47号で志村ふくみさんをロングインタビューした時、雑談のなかで、「昨日、石牟礼さんと電話で会話をした」という話が出た。さらに、志村さんは、石牟礼さんと懇意なので、自分のロングインタビューを石牟礼さんに送ってくれと私に依頼した。
 それで、石牟礼さんには、まだそういう力が残っているのだと思ってしまい、私は、ロングインタビュー依頼のお手紙をお書きした。
 すると、若い頃の石牟礼さんの才能を発掘し、その後ずっと支え続けてこられた渡辺京二さん(2022年に他界されたが、この方の『逝きし世の面影』という本に私も多大な影響を受けた)から、石牟礼さんは、年末年始からご病気が一段と酷くなって、状態が良い時はあるにはあるが、約束できる状態ではない、来ても話ができないかもしれない、それでもということならばと、非常に微妙なご連絡があった。
「死の力」というテーマでお話を聞けるとしたら、日本に、石牟礼さん以上の方はおられないということを渡辺さんもご理解されていて、だから、運命に賭けるしかないだろうということだと、私は受け止めた。
 そして、本の発行が6月1日なので、病状が落ち着くまで、3月末まで待とうと思っていたが、4月になってしまい、ほぼ諦めたところ、突然、付き添いの方からお電話があった。今ならお話ができるかもしれないと。それを聞いて私は、すぐに羽田に向かい、その日の夜のうちに熊本入りをした。
 だから、実際に石牟礼さんをインタビューしたのは、2014年3月11日ではない。にもかかわらず、撮影した写真データに、2014年3月11日と刻まれている。
 その謎はともかく、インタビューは、自分で言うのはなんだが、奇跡的な内容となった。
 きれぎれの言葉であったが、病状の重い石牟礼さんから、「生類の命と、大調和の世界。」という内容に相応しい広がりと深みのある話を聞くことができた。
 この奇跡が実現したのは、二つのシンクロがあったからだ。 
 一つは、石牟礼さんが、白川静さんをこの世で一番偉い人だと思うほど深く尊敬していたことで、私が、白川さんに依頼した連載の最後にあたる風の旅人第15号の「人間の命」を、インタビューの場に持参していたこと。
 そして、前日の深夜に熊本に着いて、適当に素泊まりで安い宿を予約したら、たまたま湯の児温泉だったこと。真っ暗な中、宿に到着し、朝起きて窓を開けて初めてわかった。目の前の不知火海の風景は、石牟礼さんの「椿の海の紀」の舞台であり、石牟礼さんが子供の頃、過ごした場所だった。
 石牟礼さんにお会いしてすぐ、そのことを伝えたら、石牟礼さんはすごく喜んでくださって、目を輝かせて、子供の頃の話をたくさんしてくださった。
 今、ここで石牟礼さんの話をしているのは、ここ数日、古代の巫の話を書いてきたのだが、石牟礼道子さんというのは、まさに現代の巫だと思うからだ。
 その石牟礼さんは、白川静さんのことを、「私が探し求めているところを、先に行く人」、「古代の神さまは、きっとこういう人だったろう」と言っていた。
 私は、風の旅人を50号で終えてから「日本の古層」の本を、これまで4冊作ってきたが、全てに、白川さんの言葉を引用している。日本の古層の取り組みは、白川静さんと石牟礼道子さんという神さまと巫とのご縁を、自分では意識しながら続けている。
 神さまのことはともかく、巫とは何なのか?
 これは預言者であると私は思う。未来の出来事を告げる予言ではなく、預言とは、きたるべき世界を前にして、人々の心構え、行動の指針を示すことを意味する。
 そして石牟礼文学の預言は、心構えとしての「のさり=自分の及ばぬ大いなるもののはからいを引き受ける」と、行動の指針としての「悶えて加勢する」に凝縮しているように思う。
 古代の巫は、その霊力で王を支えたと、昨日のタイムラインで書いた。
 こうした構図が、源氏物語にも反映されていると。
 ならば、その霊力とは何なのか?
 それは、特殊な超能力ということではなく、石牟礼さんの「のさり」と「悶えて加勢する」という言葉のように、人の苦しみも、大いなるもののはからいを引き受けるという境地で、自分ごととして引き受けて悶えて加勢する力なのではないかと思う。
 理性分別で自分の損得を考えてしまう人間にはできないという意味において、これは特殊な力なのかもしれないが、現代では「コンパッション」という言葉が使われる。「相手を深く理解し、役に立ちたいという純粋な思い、相手と共にいる力のこと」だと説明されるのだが、巫は、その力がかなり強力で、時に応じて自己犠牲も厭わない、むしろそれを喜びとするくらいのものが、巫の霊力だったのではないかと私は思う。
 苦境に陥っている人間を救う力は、まさにこうした巫の霊力だった。
 現代社会のなかの価値観では、こうしたことはバカバカしいと思う人が多いかもしれない。
 どちらかといえば、現代社会には、自分が人に何かをやってもらうこと、自分が楽な状態であることを幸福だと思わせるバイアスが強くかかっている。そして、そういう「幸福」を得ようとして、うまく立ち回ろうとする人も多いかもしれない。
 そういう人にとって、巫は、愚かで悲劇的で不幸な存在にしか見えないだろう。
 しかし、いくら美味しいものを誰かに食べさせてもらって、いろいろなところで遊ばせてもらって、何の不自由もなくても、自分が誰の役にも立っていない、人に必要ともされていない状態が、果たして人間にとって幸福だと言えるだろうか。
 それは、誰の心にも記憶されないということでもある。
 古事記などに登場する女性の多くは悲劇的であり、その悲劇の主人公は巫の立場であるが、そもそも、歴史上、今日まで伝えられている文学の大半は悲劇である。
 その主人公は、人に尽くしていない人間ではなく、人に尽くしたり、誰かのために犠牲になっている人間である。
 悲劇は、人間の心に強い働きをする。だから記憶される。
 こうした巫の在り方は、社会状況によっては、現代のように、暗いとか重いなどと敬遠される。
 それは、自分が安住している世界の土台を揺るがせたくないからだろう。
 しかし、いくら見ないふりをしても、人間の現実は、そうはいかない。そもそも、人間は、生老病死から自由ではない。
 人間にとって、本当の意味で“生きる”とはどういうものなのか?
 人それぞれで構わないと脇に流すことができるのは、安泰した状態にいる時だけで、いつまでも、それが続くとは限らず、誰しも人生のどこかの時点で、人間の現実に直面することになる。その時に、本当の救いがどこにあるか真剣に考えざるを得ない。
 巫というのは、古代も現代も、人間の理性分別によって曇らされた生の本質を、身をもって示す存在だ。
 それは文学の世界に限らない。3.11の震災の後、私は、現地で奮闘する介護会社の人たちを取材し続けたが、その人たちの言葉や行動は、まさに現代の巫だった。
 自宅に残された高齢者を助けようとして、逃げるのが遅れ、津波に飲み込まれて九死に一生を得た人もいる。
 その時、その人の心の状態は、ひたすら「必死」だった。この必死が、自らの犠牲につながることもあるが、生きていることの証でもある。
 後のことを計算せずに、「必死」を積み重ねるだけで人生を全うする人もいる。「必死」を経験したことのある人は、「必死」のない状態では、心に張り合いがなくて、生きている気がしなくなるからだ
 後のことの計算ばかりしていて、必死を経験せずに、それで本当に幸福になれるのかどうか。
 巫は、古代も現代も、人のために必死になれて、そのことを本望だと潔く受け止めて、生を全うしている人なのだろう。
 そういう姿勢は、人の心に間違いなく力を与える。霊力というのは、オカルト的な超能力ではなく、リアルに生命力につながったものなのだ。

 

 

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第1444回 源氏物語と、京都と吉野をつなぐ古代の巫の勢力。

(3月30日と31日に京都で行うワークショップのメモ②)

 何度も書いてきたことだけれど、「源氏物語」というのは、11世紀の初頭に突然出てきた創作物ではなく、こういう文学が創造されるまでの歴史的な準備期間があった。

 源氏物語の100年前、10世紀の初頭、紀貫之によって古今和歌集が編纂されたことは、一つの起点であった。

 8世紀に律令制が始まる前、「歌」というのは、人間社会の事情を超えたところにアクセスするための魂の運動だった。しかし、律令制が始まってからは、少しずつ、歌が、身辺雑記風になっていき、自然を愛でる場合も、個人的な感慨にすぎなくなっていく。それは万葉集の前期と後期の変化に表れており、前期の集大成が柿本人麿だった。

 さらに9世紀になると、教養人は歌ではなく漢詩の方に関心を持つようになった。8世紀から始まった律令制は、白村江の戦いに敗れた日本の唐化であり、太平洋戦争の後に急速に進んだ民主主義化と同じで、必ずしも、自らが望んだり勝ち取ったものとは言えない。

 その流れが、10世紀に変わり始めた。背景には、中央集権的体制の矛盾が大きくなっていったことがある。

 中央集権的体制は、今でもそうだが、中央で決めたルールを国の隅々まで徹底していく。そのルールは明確でなければならず、明確であるためには人間世界の事情に限定しておく必要がある。人間世界の事情を超えるという曖昧なものは、当然ながら排除される。そして、そのルールを上手に使いこなすものや、運用するものが社会的に優位に立つ。

 そうした既得権組が、時代の変化を顧みずに、頑なにルールを維持することで自らの立場を維持しようとすれば、矛盾が大きくなり、綻びが目立ち始める。

 9世紀の日本では、中央から地方に派遣されて戸籍を作る役人貴族に対するワイロが横行していた。逃亡農民を囲い込んで自らの荘園を開拓する貴族が大金持ちになった。

 この中央集権的体制が崩れていく時、人間の心の中にも変化が生まれた。和歌の復活である。

 そして、こうした変化が起きた10世紀に、象徴的な出来事として、菅原道真の怨霊騒ぎがあった。

 その火付け役は誰なのか?

 京都の北野天満宮菅原道真の聖域だが、この聖域の構造は、少し不思議なことになっている。

 鳥居をくぐって参道をまっすぐに進んでいくと、道真を祀る本殿は、左側にズレた所にある。参道をまっすぐに行ったところにあるのは、多治比文子を祀る社だ。鳥居のところで敬礼すると、多治比文子に挨拶をしていることになる。

 この多治比文子こそが、菅原道真の霊のことを最初に言い出した巫女である。

 多治比というのは丹比と書く。歴史上、この氏族の代表的人物が、飛鳥後半の白鳳時代左大臣という政権トップだった丹比嶋という人物で、彼が、柿本人麿の支援者だった。

 この丹比氏は、大阪の住吉大社のところが拠点で、住吉神と深く関わっていた。そして、住吉大社の摂社に、式内社の大依羅神社があり、呪的集団の依羅(よさみ)連が、ここを拠点としていたのだが、柿本人麿の妻、依羅娘子が、この出身だった。

 丹比と、柿本人麿は、この線でつながっていた。

 この丹比は、785年の長岡京の変で、大伴氏や佐伯氏とともに処罰される。これは、一般的には藤原氏の他氏排斥陰謀などとされるが、万葉歌人大伴家持などは既に亡くなっていたのに、罪をきせられ官籍からも除名されている。これらの氏族が全滅させられたわけではないので、古代のスピリットを継承する勢力が、中央集権的政治の舞台から遠ざけられたのだろう。

 なぜなら大伴氏は、次の武士の時代を築いた源頼朝を支えた北条時政(母親が大伴氏)を通じて、影響力を復活させ、鶴岡八幡宮の初代神官となり、明治維新までそれが続いたのだ。

 丹比も、長岡京の変の後、潜伏していたが、怨霊となった菅原道真の神託を受けたという設定で、中央集権体制の終焉への動きを作り出した。

 律令制の根幹にある班田収授が完全に終焉したのは、道真の祟りが吹き荒れている朱雀天皇の治世だった。祟りという粛清で、中央集権的体制によってメリットを享受していた貴族や役人たちが、次々と闇に葬られたのだ。

 飛鳥時代の後半、「柿本」が果たしていた役割は、次の時代、「小野」に引き継がれる。どちらも古代和邇氏の後裔であり、文学と関わっている。

 紫式部の墓が、京都の堀川通小野篁と並んで作られていることは、わりと知られているが、その理由をきちんと説明したものは見たことがない。

 小野篁について、全国的には知らない人が多いが、京都ではわりと有名だ。東山の六道珍皇寺をはじめとして、地上世界と冥界をつなぐ役割があったという伝承が残されている。

 紫式部は、個人の才能だけで源氏物語を書いたのではなく、柿本人麿のように、その背後に巫の集団による伝承の蓄積があった。

 紫式部の父、源為時の母は、藤原定方の娘である。

 この藤原定方は、菅原道真の怨霊が吹き荒れるなか、右大臣として、左大臣藤原忠平とともに、菅原道真がやり残した改革を進めた。藤原定方は、紀貫之の後援者となり、古今和歌集編纂の陰の力となった。また、この時、左大臣だった藤原忠平は、菅原道真の友人であり、この忠平の子孫が藤原道長である。この一族は、菅原道真の怨霊に守られる立場にいた。

 紫式部の血統である藤原定方の母は、宮道列子。山科の小野郷の豪族、宮道弥益の娘だ。

 さらに、紫式部の母親は、藤原為信の子だが、その為信の相手の女性が謎。しかし、可能性が高いのが、宮道忠用の娘だとされている。おそらく間違いないだろう。

 なぜなら、紫式部は、父と母の血統につながる宮道弥益のことを意識して、源氏物語を書いているからだ。

 宮道弥益の娘の宮道列子は、藤原高藤と結ばれて胤子が産まれたのだが、この胤子が、源氏の身分だった宇多天皇と結ばれて醍醐天皇を産んだ。

源氏物語」が、なぜ源氏を主人公にしているのか、不思議でもなんでもなくて、源氏物語の書き出しにある桐壺帝(光源氏の父という設定)は理想の帝として描かれているが、このモデルが、宇多天皇の子で源氏の身分で生まれた歴史上唯一の醍醐天皇であり、この天皇は、紫式部にとっても血縁関係にあたるのだ。

 紫式部の祖にあたる宮道弥益の娘、宮道列子の娘が宇多天皇に嫁いで世継ぎを産む構図は、光源氏と結ばれた明石の君が産んだ明石の姫君が皇太子に嫁いで世継ぎを産む構造と同じである。

 つまり、自分の娘が産んだ娘が天皇の世継ぎを産むことが悲願だった明石入道は、紫式部の父と母に血がつながる宮道弥益と重ねられている。

藤原定方の墓)

 そして、この宮道氏が何ものかが謎なのだが、山科の小野郷に残されている藤原定方(宮道列子の子で紀貫之の後援者)の墓が亀の背に乗っていることからも、海人族をしのばせている。そして、実は、山科にある宮道神社は、宮道氏の祖にあたるヤマトタケルを祭神としている。このヤマトタケルというのは真相をぼかすカムフラージュで、大事なのは、ヤマトタケルの母、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)だ。この女性の父が、和邇氏であると記紀に記録されている。

 つまり、宮道氏は、和邇氏の系譜であると、それとはわかりにくい方法で自らを存在証明している。だから、その館(今は宮道神社)は、山科の小野郷にある。小野は和邇氏の後裔だ。

 しかも、この宮道氏の館の場所を真南に行ったところが宇治であり、ここが源氏物語後半の舞台となる。

 宇治で最も古い聖域の宇治上神社は、仁徳天皇皇位を譲って自殺したという美談の残るウジワキイラツヒコで、これは和邇氏の子。そして宇治橋の橋姫は、小野氏が全国に伝えた瀬織津姫の別名。宇治は、古代から和邇(小野)の聖域だった。

 紫式部の背後には、宮道氏を通して、この和邇系勢力がいたのだが、宮道弥益をモデルにしたと思われる明石入道が崇敬していたのが住吉神であり、源氏物語のなかで、光源氏も、住吉神によって救われる。

 上にも述べたように、柿本人麿の後援者であり菅原道真の怨霊の神託を受けたと最初に述べた「丹比」の勢力が、住吉大社と深い関係があった。

 丹比というのは「丹生」のことでもあり、紀ノ川の丹生都比売が、時代背景が変わってことで、住吉神になった。

 どちらも、伝承では、神功皇后新羅遠征の時に支援した神で、戦いの後、吉野の藤代嶺に祀られたということで同じである。

 吉野には丹生川が二つあり、この二つの丹生川のあいだが、藤代嶺だと考えられている。

 そして、興味深いことに、吉野の丹生川の上流部にある丹生川上神社(下社)は、真北に行くと、京都の比叡山麓の小野郷で、このライン上に、宇治と、紫式部のルーツである宮道氏の館がある。さらに、山科には天智天皇、飛鳥には天武天皇の陵がある(ともに八角形)。

 そして、吉野の丹生川をくだって吉野川に合流する場所の近くに吉野三山があり、これは、金と銀と銅の山だけれど、この銀山の頂上に波宝神社が鎮座している。

吉野三山の銀嶺山の頂上の波宝神社

 

 波宝神社の祭神は、天津羽羽神(別名が阿波姫)で、これを祭神とする神社は少ないが、四国の吉野川、和歌山の紀ノ川河口、伊豆の神津島、静岡の南アルプス南端の掛川、房総半島に関わる神で、間違いなく海人族の女神。天津羽羽神は、四国では大宜津比売と同じとされ、水銀との関係がある。

 この波宝神社の真北が、京都の堀川通で、上賀茂神社紫式部の墓、安倍晴明の館、五条通の柿本町が位置している。

 さらに、その北端が、貴船山であり、貴船山の麓の貴船川沿いに貴船神社がある。

貴船神社奥宮

 宇治橋の橋姫は、嫉妬に狂い、鬼と化したという伝承があるが、彼女を鬼にしたのは、貴船大明神である。大明神は「鬼になりたければ、姿を変えて、宇治川に21日間浸かりなさい。」と告げ、その通りにして鬼となったのが橋姫。さらに、この鬼になった橋姫は、一条堀川の戻橋で源綱によって腕を切られるのだが、この戻橋は、安倍晴明の館のそばだから、同じ南北ライン上にある。

 さらに、貴船神社の社家である舌家(ぜっけ)の『黄船社秘書』によると、舌家は貴船大神の降臨に「お伴した」牛鬼の子孫で、牛鬼は、天上の神々の秘密を暴露したために貴船大神に舌を八つ裂きにされ、吉野山に逃げたあと暫くして貴船に戻り、許されるまで鏡岩に隠れていたと書かれている。つまり、貴船と吉野が繋がっている。

 吉野と京都は、近畿の真ん中あたりに広がる縦長の盆地の南北の両端にあたるのだが、吉野の丹生の聖域と、京都では小野と和邇と柿本、そして紫式部関係の聖域が結びついているのだ。

 柿本人麿の時には、丹比嶋という人物を通じて、和邇系と丹生系の二つは結合していた。

 この丹生と和邇系の勢力の特徴は、いずれも古代の巫集団で、王に嫁いだ女性が、その霊力で王を支え、さらに水軍力で王を支えるという構図がある。

 そして、その霊力というのは、時代によって変化していくのだが、文字のなかった時代は、口寄せ巫女だったものが、後に文学という表現になる。文学もまた、和歌がそうだったように、もともとは、人間世界の事情を超えたところにアクセスするための魂の運動だった。

 この文学のルーツが、和邇系の柿本や小野だった。

 そして、丹比は、大嘗会の時に田舞を奏した記録があるので、古舞を管掌する家柄だった。

 これが中世、出雲のお国一座などが始めた女歌舞伎の踊りの面影を色濃く残している綾子舞へとつながる。

 伝統的芸能である綾子舞のルーツは、菅原道真の怨霊の神託を受けたとする丹比文子をルーツとするという説がある。

 中央集権的時代が崩壊した後の中世日本では、文学と芸能が花開いていくのだが、この二つは古代の魂に通じており、人間社会の事情に囚われないための表現だった。

 その表現の方法は、時代によって異なり、源氏物語においては、人間世界で栄華を極めているかのように見える光源氏が、常に空虚な心を抱え、出家願望の強い人物として描かれる。

 そして、源氏物語の締め括りは、二人の男のあいだで板挟みとなる苦悩から自殺を決行したものの失敗に終わった浮舟が、潔く出家をして、二人の男との縁を完全に断ち切るところで終わる。

 この時代ならではの人間社会の事情という狭い世界の超え方が、源氏物語のラストでは示されている。

 中央集権的体制が強まると、こうした表現物も、人間社会の事情に囚われたものや、その風潮に迎合するものが増える。体制の秩序安定のためには、その方が良いからだ。

 今日的に言えば、その体制を疑うことがないからこそ、趣味的なものにいそしんで、その範疇で、どちらが優れているか価値評価したり、感想を言い合ったりする。結果として、そういう人々の価値観に媚びたり寄り添ったものが多くなり、その中での人気投票が行われる。

 しかし、その体制が信じるに値しないものになっていった時、再び、古代的な、人間社会の事情という狭い世界を超えたものを、人々が指向するようになる。それらは、表からは見えにくくなっているが、消えてなくなってしまったわけではなく、深層で、再び発見されることを待っている。

 その深層は、社会の深層でもあり、一人ひとりの意識の深層でもある。

 歴史は、そのように繰り返されている。

 

ここに書いたことを、3月31日と31日に京都で行うワークショップで、掘り下げます。

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 3月30日(土)、31日(日)に、京都で開催するワークショップセミナーの詳細と、お申し込みは、ホームページにてご案内しております。

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第1433回 時代が変わる時。

(3月末に行うワークショップについて)

 現代世界には、環境問題をはじめ様々な問題が横たわっているが、それらの問題の根元には、「万物の尺度は人間にあり」という、すべての物事を人間を基準にして測る価値観がある。

 この価値観が人間の傲慢さにつながっているわけだが、ここに問題があることがわかっていても、一度身につけてしまった傲慢さは、なかなか解消できない。

 しかし、今年の能登や13年前の東北大震災のように、大自然の猛威を前に人間の無力さを痛感させられる事態が起きるたびに、人生観や世界観を根本から見つめ直そうとする人も多い。

 日本という国は、世界のなかでも突出して自然災害が多い国であり、そのため、自然に対する謙虚な姿勢を軸として、日本人は文化を育んできた。

 本居宣長は、「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」を「あはれ」と言うのだと述べている。

 そうした繊細な情(ココロ)の働きの起源は、自然との深い関わりの中から生じており、古代より日本人は、山や岩や樹木などを神々が天降った場所だと信じ、カムナビと称して崇敬してきた。

 古代人に限らず、現代の我々もまた、そうした自然に対する畏敬の情(ココロ)を完全に喪失していない筈。そこに、人間の情(ココロ)の普遍性があり、情(ココロ)の働きの原点を見つめ直すことで、日本人とは何か、人間とは何かという問いに、深く向き合えるような気がする。

 作家の石牟礼道子さんが、次の言葉を残している。

「人間も含めて全て生類で、私は、生類たちには魂があると思っています。東京あたりの市民活動家の方と会った時、「石牟礼さんは、”魂”とよくおっしゃるけど、眼に見えないものを信じるのか」って言われたことがありまして、びっくりしましてね。魂があるから、ご先祖を感じることができるでしょ。みんなご先祖を持っているわけですね。人間だけでなくて、草や木にも魂があって、いつでも先祖帰りをすることができる。それは、美に憧れるのと同じだと思います。美しいもの、より良いものに憧れる・・・、そう私は思っています。」

 ”もののあはれ”の真意は、石牟礼道子さんの言葉、「人間だけでなく、草や木にも魂があって、いつでも先祖帰りをすることができる」という言葉のうちにあるように私には感じられる。

 草や木にも魂があるということを、リアルに感じていた時代と、その感覚が薄れていった時代の分岐点が、実は過去にもあった。

 それは、万葉集の前期と後期のあいだに見られると、白川静さんが指摘している。

 柿本人麿がその分岐点に位置しているのだと。

 つまり、8世紀、奈良時代に入ってから変化があった。

 原因は、おそらく、急速に進んだ唐化だろう。

 持統天皇は、天皇としてはじめて火葬された。天皇の死後の魂のことを考えると、この火葬というのは、大きな分岐点になる。

 663年に、日本は白村江の戦いで唐と新羅に大敗し、その後、672年の壬申の乱を経て実権を握った天武天皇が、律令体制を築き上げたと教科書では習う。火葬をした持統天皇は、その妻だ。

 教科書では、日本が、唐の都に習って藤原京平城京を築き、唐の制度をとりいれていたと教わるのだが、果たしてそうなのかという疑問がある。

 663年の白村江の戦いの敗戦の後、実質的な唐との交流はなかった。遣唐使が復活するのは、大宝律令が制定された701年の翌年。にもかかわらず、藤原京平城宮を築く技術、律令制を整える知識は、どこからやってきたのか?

 考えられるのは、唐と新羅に滅ぼされた百済(660年)や高句麗(668年)から大挙してやってきた渡来人だが、それだけでなく、日本書紀には、白村江の戦いの後、日本の敗戦処理のような形で、唐から郭務悰という将軍に率いられた2000名の人が2度にわたって来日したことなどが記録されている。

 唐という国は、周辺諸国に対して、羈縻(きび)政策をとっていた。羈縻(きび)政策というのは、戦いで打ち破った地域を力づくで搾取しながら支配するのではなく、その国の制度を唐と同じものにして、懐柔していく統治スタイルのこと。

 実は、世界に民主主義を広めていこうとするアメリカの政策も、羈縻(きび)政策だ。相手国を自分と同じ体制にすることで、自分の経済圏に組み込んでいく。ドルが基軸通貨であることが、アメリカの繁栄の背景にある。

 ちなみに日本の最初の流通貨幣は、708年に唐の銭貨「開元通宝」をモデルとした和同開珎。

 つまり、白村江の戦いの後、急速な唐化が進み、そのことが、万葉集の前期と後期のあいだの断絶を引き起こした。これは、太平洋戦争の前後や明治維新の前後の断絶と等しいものがある。

 万葉集前半の集大成に位置付けられる柿本人麿までは、人の死に際して歌を詠む場合、本気で魂を招魂しようとしている。自然を歌う場合も、本気で、自然の魂と一つになっている。しかし、柿本人麿以降、しだいに他人事になっていって、(個人的に)情景を愛でるだけとか、自分個人の感傷を歌う程度のもの(今日の「私ごと」の表現)となって作者の魂の質が低下し、他者(外界)を自分の魂に引きつける力が弱くなっていった。

 そして9世紀になると、和歌は消えて、ほとんど漢詩ばかりになる。

 ところが歴史には反動があるもので、10世紀の初頭に、紀貫之古今和歌集が編纂され、国風文化が花開き、源氏物語で、その頂点を迎える。

 こうした流れは、それを支える勢力がなければ生じない。

 紀貫之にも、支援者がいた。その支援者は、藤原定方であり、この人物の娘が、紫式部の父、藤原為時の母だ。

 そして、藤原定方というのは、京都の山科の小野郷の宮道氏の娘、宮道列子の子であり、彼の妹の胤子が、まだ源氏の身分だった宇多天皇と結ばれて、醍醐天皇を産んだ。

 天皇になる予定のなかった宇多天皇は、急遽、天皇に即位して菅原道真を重用して政治改革を進めようとしたのだが、その政策は、一言で言うなら、中央集権的体制から地方分権的な政治への移行だ。税制を、人頭税から、土地や収穫物を基準にするようにすること。そうすることで、中央から地方に派遣される役人ではなく、地方に拠点を置くようになった豪族たちの権限が強まる。

 宇多天皇菅原道真の背後には、この豪族勢力がいた。彼らが、菅原道真の祟り騒ぎの時に暗躍し(その代表が清和源氏)、菅原道真太宰府への左遷によって、政治改革の流れを阻止しようとした人たちを闇に葬った。結果として、律令制の根幹だった班田収授は、道真の祟りを恐れた朱雀天皇の時(天皇の母が恐れた)、完全に終焉を迎えた。

 中央集権的政治においては、明文化された規則が基準になるから、昔も今も、合理的な思考が要求される。文化もまた、社交的目的や、地位名声のための単なる教養でしかない。

 これは昔も今も同じで、奈良時代から西暦900年頃までは、そういう時代が続いた。

 しかし、中央集権的政治の崩壊とともに、押さえつけられていた不合理なものの力が、表に出てくるようになった。道真の祟りという仕掛けが、その象徴であり、怨霊という不合理な力で、政治の方向性を大きく変えていったのが、10世紀だ。

 ちなみに藤原道長は、菅原道真の怨霊を利用してのしあがっていった藤原氏のなかの例外的一族の系譜であり、それは、菅原道真の友人で、最後まで左遷に反対した藤原忠平の子孫である。

 そして、柿本人麿というのは、特定個人というより「柿本」という巫の集団の一人。

 この柿本は、春日や小野といった古代和邇氏の系譜につながり、海人族をルーツとするこの人々が、古代から、様々な伝承とともに、巫のスピリットを伝え続けていた。

 巫のスピリットというのは、本質的に、他者(外界=自然界)を自分の魂に引きつける力であり、「万物の尺度を人間に置く世界観」の真逆にある。

 本来、歌が備えていた力というのは、そういうものだった。

 だから、紀貫之は、古今和歌集の冒頭で、

 「やまとうたは人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」と言い、さらに「力をも入れずしてあめつちを動かし目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」とまで言い切っている。

 この紀貫之を支援していた藤原定方のひ孫が、紫式部であり、源氏物語もまた、紫式部個人の力で書かれたというより、和邇系(柿本、小野)が脈々と伝えてきた古代からのスピリットが、その背後にある。

 だから、紫式部の墓は、京都の堀川通小野篁と隣り合わせに築かれており、紫式部のルーツは、山科の小野郷である。小野氏は、小野小町をはじめ、文学のルーツに位置している。

 さらに源氏物語の後半の舞台である宇治は、和邇(小野)と関わりの深い聖域だ。宇治で最も古い聖域は、宇治上神社で、これは、仁徳天皇皇位を譲って自殺したウジワキイラツヒコを祀っているが、この人の母は、和邇氏であり、宇治橋に祀られている橋姫は、別名が小野氏と関わりの深い瀬織津姫

 こうした背景を持つ源氏物語であり、第41帖までの主役である光源氏を、単なる女たらしの男だと思っている人が多いが、それは大きな間違い。

 光源氏の「色ごのみ」は、単なる好色という意味ではなく、民俗学折口信夫や宗教学の山折哲雄さんが指摘しているように、「優れた女性を得ることは、女性の巫女としての霊力を得ることと同義」という古代信仰から来ている。

 これは、女性が備えている霊力に対する敬意と裏表の関係であり、単なる女たらしではない。だからこそ、光源氏の女性のもてなし方は、尋常ではない。その「もてなし」の方に目が届かない源氏物語解説は、根本からわかっていない。

 他者(外界)を自分の魂に引きつける力は、「もてなし」に反映されている。

 それは、相手が女性とはかぎらない。自然物に対しても同じで、歌を詠むこともまた、その精神は、「もてなし」にある。

 「もてなし」の本意は、「相手をだいじに扱う」ということであり、それによって初めて、相手の霊力が自分の魂に流れ込んで、自分も満たされる。

 現代社会は、万物の尺度を自分に置いて、自分のために他を利用すれば、自分が満たされると考えてしまっている人も多い。

 合理的思考を突き進めると、自分の損得の判断基準の視界が狭まり、自己中心的になっていく。

 その流れは、自分だけでなく自分と関わるものを蝕んでいく。

 合理的思考というのは、実は、その時の体制が、合理的思考を求めているにすぎない。

 合理的思考というのは、画一と規格を押し進めるが、そうした標準化によって全体を整えようとする体制の時に、大きな力を持つし、その力に長けた人が優位に立ちやすいだけのこと。

 果たして、このまま中央集権的な価値観が続いていくのかどうか?

 それが、人間の繊細な情(ココロ)にとって、望ましいものかどうかを真剣に考えざるを得ない局面にきている。

 1100年前にも起きたように、その変化は、間違いなく起きる。それが歴史のサイクルだから。

 そして、自然にもサイクルがあり、南海トラフ地震は、ペリーの黒船来航の翌年と、太平洋戦争終戦の時に起きていて、80年から100年のあいだに起きるサイクルがあるとされる。

 西暦2025年が、その80年にあたる。世の中を一変させてきた大地震が、いつ起きてもおかしくない段階に来ている。

 ここに書いたことを、3月31日と31日に京都で行うワークショップで、掘り下げます。

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第1432回  安井仲治と、鬼海弘雄の写真が示す未来。

安井仲治 「馬と少女」

 安井仲治の写真について、2回にわたって書いたきたが、不思議なことに安井仲治は、38年の短い生涯で、近代写真の最初から、21世紀芸術として写真表現が存続するための唯一の在り方まで、全てをやりきって

いる。

「21世紀芸術として写真表現が存続するための唯一の在り方」というのは、非常に大仰な言葉だと思われるかもしれないが、スマホカメラで誰でも写真が撮れて、かつ AIで作為的な画像を誰でも作れるようになる時代に、写真が芸術表現として生き残る道は、非常に限られている。

 2003年に、鬼海弘雄さんの大判写真集「PERSONA」が出た時、作家の種村季弘さんが、「鬼海さんは、それと知らずに21世紀芸術の幕を切って落としているのである。」という言葉を残している。

 この写真集で鬼海さんは、浅草寺で出会った個性的な人たちのポートレートを撮っているのだが、固有の魅力を湛えた人たちとの向き合い方は、かぎりなく優しく、愛に満ちている。

鬼海弘雄「Persona」の中の「遠くから歩いてきたという青年」。 AIでは表現できない表情や手の構えや肩や髪の気配。

 他者(世界)を、自己表現の材料に都合よく使うことしか考えていない自称表現者が20世紀には氾濫していた。しかし、他者(世界)の固有性は、自己には簡単に理解できない多くのことを語りかけてくる。その語りかけが、自己の狭さと、外の広がりや豊かさに気づかせてくれる。

 愛するというのは、そのように自己の外に開かれていく出会いの実現であり、決して自己の観念による所有を意味するのではない。

 しかし、他者(世界)との固有の出会いを大事にする道は、その固有性ゆえに社会現象になりにくい性質を持ち、センセーショナルな人気や流行にはなりえない。どちらかというと、社会の裏側で、人から人へ伝

えられるように影響が浸透していく。

 人を愛する場合と同じで、表現物も、毎日見ていることで、じわじわと魅力が伝わってくる味わい深いものと、飾り立てているだけだからすぐに見飽きてしまうものの違いがある。

 いくらデザイン的に斬新でも、プラスチックのカップで毎日コーヒーを飲んでいて、カップに対する愛着が増してくるだろうか?

 合板の家具よりも無垢の木の家具の方が、使い込むほどに味がでる。

 この微妙な違いこそ、AIでは再現できない領域なのではない

かと思う。

 AIは、そのプログラムの性質からして、関係性の微妙な固有性よりも、標準的なものを作り出すことが得意だ。

鬼海弘雄「Tokyo view」の中の「壁面がアブストラクトになった裏庭。」もはやAIの入り込む隙のない風情。

 私は、鬼海弘雄さんの「TOKYO VIEW」という超大判の写真集を制作したが、この写真集は、「 Pe

rsona」とは究極の表裏の関係にあり、東

京の無人の風景を撮ったものだ。写真の中に人物は写っていないが、狭い路地、行き止まりの道とともに、洗濯物、並べられた靴など、固有の生活風景が撮られている。似たようなものをAIでも制作できるだろうが、微妙に漂っている風情を作り出すことはできないと思う。

 何が違うかというと

、愛の眼差しが違っている。 

 鬼海さんの出発点は、哲学である。大学時代、哲学科に席を置いていた鬼海さんは、彼の恩師である福田貞義先生の勧めで写真を始めた。

 鬼海さんは、写真撮影において、常に、"人間であるとはどういうことか?"というシンプルな問いに立ち返ることを自分に課していた。

 だから鬼海さんは、写真を撮らない時は、文学本や哲学書を読んでいる人だった。

 大学を卒業して社会に出てからも、大型トラックの運転手になったり、マグロ漁船に乗り込んで働いていたのは、そうした肉体労働を通して人間の原点を見つめるためである。

 肉体を通した仕事は

、机に向かって頭だけで処理する仕事と違って、簡単に標準化できない複雑なものを、リアルに実感させる。

 頭と違って肉体には明確な限界があるからだ。人間は、その明確な限界の中で生きている。生老病死は、当然ながら、その限界の枠組みの中にある。

 AIが、肉体の限界に配慮できずに頭だけで物事を決めていくものになってしまえば、人類を蝕むものになっていくのは当たり前だ。

 オープンAIが、「 Sora」という動画作成ツールを発表したことで世間は大騒ぎしている。これは、文章を打ち込むだけで、人工知能が動画を作

成してくれるものだが、裏を返せば、文章化の難しい微妙な機微は、削ぎ落とされていくということでもある。

 つまり、この新しい技術が淘汰していくのは、そうした微妙な機微を含まない映像を制作している人たちなのだ。

 無垢の家具ではなく、設計図で大量生産できるプラスチックや合板の家具と同じ、他者(世界)との微妙な関係性が反映されない物づくりは、人工知能にすぐに取って変わられる。

 だとすると、21世紀、人間に残された道は、AIが苦手なことということになり、それは、上に述べたように、鬼海さんの「愛の眼差し」につながる。

 「鬼海さんは、それと知らずに21世紀芸術の幕を切って落としているのである。」という言葉を残した種村さんは、そのことを見事に看破していた。

 そして、この鬼海さんの愛の眼差しを、80年前に示していたのが、安井仲治だった。

安井仲治 「海港風景」

 死を間際にした安井は、「芸術もけっきょく人に帰するが、単純なものほど人に帰する点が多く、技術でごまかすことは出来ない。卓上一個の果実を撮る人も、戦乱の野に報道写真を撮る人も、”道”において変わりはない。」という言葉を残したが、「技術でごまかすことは出来ない」という言葉は、今では、「AIでごまかすことは出来ない」という言葉に置き換えることができる。

 ごまかすことはできないのが、人に帰するものであり、それが”人の道”であろう。AIは、人の道から外れたことをしたとしても何とも感じないが、表現者が、そうならないことで、人々が簡単にAIに騙されない感受性を維持するための表現の創出が可能になる。

 表現者を自称する者は、自分とAIの違いに対して、強く自覚的でなければならない。
 そのためには、鬼海さんが肝に銘じていたように、常に、"人間であるとはどういうことか?を問い続ける哲学者でなければならない。それが、安井の説く「人の道」である。
 戦後日本の写真界の悲劇は、近代写真の最初から最後までを見通した安井仲治という存在がいなくなり、写真表現が、次第に「人の道」とは無関係のところに向かっていったところにある。
 (肉体を備えた)人間であるとはどういうことか? ではなく、頭でっかちに「自己」の周辺ばかりを追うようになってしまった。
 自己愛と自己顕示欲と自己承認欲求だけに止まって表現を繰り返している人も非常に多いし、そうした自己に対する批判の眼差しを持って、自己欺瞞や自己解体が、表現になっていった人もいた。
 現在、近代美術館で写真展が開催されている中平卓馬は、そうした自己中心的な時代のなかで、烈しく自己解体していった誠実な写真家ではあるけれど、彼の写真のなかに、他者(世界)との新たな関係性の扉があるとは、私には感じられない。
 天国の中平卓馬も嘆いているだろうが、中平卓馬が日本の戦後写真を代表する一人であると取り上げられることで、何を勘違いしているのか、彼の悲壮な自己解体を表現上のテクニックのようにとらえて、まるで初期型の稚拙なAIのようにコピー作品を作る輩が、現在でもまだ多く存在している。
 安井という精神の柱を失った戦後の日本写真界は、あいかわらず未成熟で、写真が、未来との架け橋にならなければいけない表現であるという自覚からは遠い。
 AIは、そうした現状を一掃する力となるだろう。それは諸刃の刃であり、だからこそ、安井の説く「人の道」が、写真表現においても極めて重要なこととなる。
 安井仲治が、太平洋戦争が始まって日本が勝利に浮かれている時に世の中から消えてしまったことは、まるで神が、その後の日本人を試しているかのように思えてくる。 

 

 

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第1431回 もし安井仲治が、あと30年長生きしていたなら。(2)

日本が太平洋戦争に突入する直前、安井は、驚くべき写真を創出する。

 それは、「磁力の表情」と題されたシリーズで、鉄粉と磁石で作り出した磁場の形を浮かび上がらせたものだ。

 このイメージは、私が編集制作を行っていたグラフィック雑誌『風の旅人』の第31号から連載で紹介し続けていた「電気の宇宙」のビジョンとそっくりであり、太陽コロナや銀河から、ミクロ世界にも相似形で連なっている宇宙の姿だ。 

 そのため私は、この安井の「磁力の表情の写真を、「この世の際」というテーマで制作していた風の旅人の第39号の表紙にした。

https://www.kazetabi.jp/%E7%AC%AC%EF%BC%93%EF%BC%99%E5%8F%B7-%E7%AC%AC%EF%BC%94%EF%BC%90%E5%8F%B7/ 

 この号には、いわゆる世間的には障害者とされる人が制作するアウトサイダーアートも紹介していたが、安井の磁場の写真は、それらのエネルギーとも呼応していた。

 なぜ、安井は、戦争前の時期に、この作品を作り出していたのか?

 おそらく彼は、宇宙や地上の出来事が、争い事も含めて、磁場のなかのエネルギー現象のように見えていたのだろう。

 安井は、世の中では誰も戦争の気配を感じていなかった時期に、個人の意向ではどうにもならない宇宙的原理のようなものを実感していたのだと思う。

 同じ頃に撮られた写真は、異様で、物事の見え方を反転させるものが多い。 

 砂浜に横たわった一見健やかな肉体に見える男が、まるで死んでしまっているようにも見える写真。枯れたヒマワリの花が乾き切った泥の上に落ちているのだが、周辺の泥の方が生きて蠢いて、ヒマワリの種を飲み込んでいく緊迫感が伝わってくる写真。生と死は、同じ位相にあり、表裏の関係でしかない。安井は、それを視覚的に、象徴的に示している。

 さらに安井は、自らの死の直前、雪、月、花、池、林といったものをモチーフに写真を撮っているが、彼は、それらを「人の心ばえ」であると言っている。

 世界と安井が、それらの写真を通じて一体化しており、白と黒、光と影、陰と陽が均衡している。

 「雪」の写真の場合は、白くはかない雪と、底無しの闇が、ぎりぎりの緊迫感で均衡する。

 「月」では、丸く小さな月が、生茂る木々の黒い陰と怪しく均衡する。

 「林」では、白い林のなかで行き止まりのように見える真ん中の黒い陰が、向こう側に通じるトンネルのように見える。

 「池」は、まるで三途の川のようで、あの世とこの世の境界を超えて黄泉の国に辿り着いた死者の視線だ。これらの写真を見ていると、極限まで行って、もうそれ以上どこにも行けないと悟った人間だけが見ることのできる「世界の反転」が示されているように感じられる。

 すなわちそれは、ひとつの終わりが、あらたな世界を開くビジョンになるという「終わりと始まりの合一」であり、その境地を、安井は、「心ばえ」と言っている。 

 行き止まりの人間にとって究極の救いのビジョンを示して、安井は天に召されたのだ。

 1941年12月8日、日本軍が真珠湾を奇襲し、ここから日本軍の快進撃が始まった。

 1942年2月、日本軍は、ジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。

 日本社会は、戦勝に沸いていた。

 この風向きが変わったのは、太平洋戦争の転換点とされるミッドウェー海戦の大敗だが、これが1942年6月。

 それでも日本国内は、戦争に浮かれていて、誰もその後の深刻な事態を想像すらしていなかった。

 このミッドウェー海戦の3ヶ月前の3月15日、他界してしまった安井仲治の目には、その後の不吉は、しっかりと捉えられていた。 

 安井は、太平洋戦争直前の1941年10月、病のなか最後の力を振り絞るように、「写真の発達と、その芸術的諸相」と題する講演を行った。

 そのなかで、「普及が却ってその芸術を滅ぼす。ゆえに、普及の円の中心が確固としていなければならない。そして、それは”道”である。全人格的努力を傾注するものが必要である。」と、芭蕉の言葉を借りながら説明している。

 さらに、写真家に対して、その仕事として、「アマチュアの同情者(共感を得るという意味)としての必要もあるだろうが、芸術的な仕事をしている人は、芭蕉の言葉に聴くところが多くなければならぬと思う。」と言い添えている。

 「芸術もけっきょく人に帰するが、単純なものほど人に帰する点が多く、技術でごまかすことは出来ない。卓上一個の果実を撮る人も、戦乱の野に報道写真を撮る人も、”道”において変わりはない。」

 このシンプルで深い安井の言葉を指標にしたくない多くの写真家(写真家志望者も含めて)や、それらと同調する評論家が、コンセプトやテクニックで空疎なものを意味ありげにして、結果的に写真そのものを貶めている。

 木村伊兵衛たちメディアの戦争宣伝工作部隊は、ミッドウェー海戦の大敗以降、逆に活動を活発化させた。あたかも日本が勝ち進んでいるかのように、真実を覆い隠し続けた。

 安井が言っていた「全人格的努力」を行うのではなく、時流に乗るどころか時流を煽る表現者の社会的ポジションが上がっていき、本土空襲や沖縄の悲劇、広島と長崎への原爆投下につながっていった。

 

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第1430回 もし安井仲治が、あと30年長生きしていたなら。(1)

 東京都国立近代美術館で展覧会が行われている中平卓馬の写真が、対象を観るというより、強い自我と呼応させるように対象に手をくわえているのに対して、虚心の目に徹し切って世界の実相を写真で捉えようとした安井仲治の展覧会が、東京都ステーションギャラリーで開催されている。

 自我を軸にした虚栄や卑屈の自己中心的アウトプットが氾濫する時代に、中平卓馬が次世代に与えた影響などを確認するよりは、安井仲治の写真に、未来の在り方を再確認した方がいいのかもしれない。

 安井仲治は、1903年に大阪で生まれ、1942年3月、腎不全のため38歳の若さで夭折したが、もしも彼があと30年長生きしていたら、戦後日本の写真は、メディア受けの良さが評価基準になったり私ごと表現に閉じてしまわず、もう少し人間と世界の関係を思索させる表現になっていたのではないだろうか。

 安井仲治は、「カメラの発見は、文字の発見と同じ程度の意味がある」と考え、その自覚のもと、写真家の存在根拠と、その未来を一心に求め続けた。

 虚心に世界を観るからこそ、自分が置かれている状況に応じて見えてくるものが異なって当然である。その見え方を偽りなく写真化することが写真家の仕事であり、その時、写真の中に世界の実相が現れる。そのように安井は、考えていた。

 安井が、虚心の目で世界を観て撮った写真によって、それぞれの状況における人間や物事の構造が象徴的なサインとなって浮かび上がる。そのサインは、個々の人間が、テレビや情報知識の影響を強く受けながら見ているようで実際は見ていないリアルな世界の実相だ。

 それは、中平卓馬のような、世界の実相ではなく自己の内面を覗き込むような視点とも違う。

 安井仲治の写真は、初期のビクトリア朝の作風から、コラージュ、フォトモンタージュ、ソラリゼーション、クローズアップ、プレボケなど戦後日本社会で流行したテクニックを、戦前に全て消化しているが、多くの写真家が流行の技法自体に踊らされたり執着するのみで、西欧の写真の未熟な模倣に落ちているのに比べて、安井は、まったく異なる次元で自作に昇華させて、特に晩年の寂寞とした境地は、西欧を通りぬけて日本固有の世界観へと到達している。

 安井が生まれたのは、ちょうど日露戦争の前年だった。日本が世界の大国の仲間入りを果たそうと急激に近代化を進め、その性急なる行動の結果、深刻な矛盾に直面し、ついには太平洋戦争に突入するという時代を安井は駆け抜けたのだった。

 安井の人生において一貫していることは、他者(世界)に対する謙虚な眼差しだ。彼は、幼少の頃より異質なものが集まって世界が構成されることを肌で知っていたので、自己の殻に閉じこもることなく、異質な他者に心を開き、受け入れ、自分の中で異質なものを調和させ結実させていた。それが彼の写真だった。

 彼の生家は、洋紙店で、仕事柄、海外と接触の多い環境で育ったが、住んでいた家は本格的な日本庭園を備えた純日本風の邸宅だった。そして身体が弱く文学に親しんでいた彼は、健康のために野外に出るようにカメラを与えられる。若い頃の安井は、文学、絵画、短歌、茶道などにも親しんでいたが、18歳の時に大学受験に失敗し、写真の道に入っていく。

 安井は、既に一般化された価値観や美意識を拠り所にした表現活動で優劣を競い合っていた同時代の多くの写真家たちと距離を置いていた。だからといって新しい変化の表層を追うのではなく、その変化の中に潜む力を捉え直して、新たに再構築していくことを自分の天命と捉えていた、それは、彼が慕い、研究を続けていた芭蕉の「不易流行」の精神に通じるものがある。

 安井は、とても裕福な家に育ったが、その世界に閉じこもることなく、身体が弱かったせいもあるかもしれないが、貧しい人たちなど弱い立場にありながら尊厳を持って生きている人々に惹きつけられ、彼らの内面を引き出すような写真を撮った。

 10代の頃、朝鮮人の人々に出会い、「ほんとうの人間らしい顔」を発見したと述べ、朝鮮集落を何度も訪れ、写真を残している。

 「ほんとうの人間らしい顔」とは、どういうことなのだろうか。

 安井は、権威化されたこと、ステレオタイプ化されたこと、大勢が「いいね!」としていることをなぞるだけで満足している姿勢に違和感や反発を持ち、そうした流れとは逆の方向へ自分を導いていた。惰性に陥ることは、人間ではなく機械のようなものだと感じていたのだろう。

 

 安井は、戦時下の1941年にナチスの迫害を逃れてアメリカに行く途中で神戸に立ち寄った亡命ユダヤ人を撮影しているのだが、その肖像写真は、自らが置かれた恐怖と不安のなかでも決して投げやりになることなく生きている人間の真摯で哀しい表情と目が捉えられている。

 また、安井の人間性と、表現者としての姿勢と視点が、非常にはっきりとしている一枚の写真がある。

 それは、「惜別」と題されたものだが、出征兵士を見送る人々のなか、じっと立ち尽くす母親を撮ったものだ。母親以外の群集は川のように流れて姿は判別しない。

 顔の見えない集団の激しい流れのなか、朧に浮かび上がる母親を通じて、集団のなかの個の哀しみが漂う。

 太平洋戦争の最中、多くの写真家は、戦争宣伝メディアの一員となった。

 1942年、東方社という出版社のもとで、戦争プロパガンダを目的とするグラフ誌「FRONT」が創刊されたが、東方社の写真部主任を努めていたのが木村伊平衛であり、彼は、軍の宣伝工作に積極的に便乗していた。 

 そして、戦後の日本写真界の主要な評価軸になったのが、この木村伊平衛であり、新人写真家の登竜門のようになった賞に、その名前がつけられている。

 新人発掘の権威機関のようになった木村伊平衛賞が、きわめて世俗的なものになっていったことは、たまたまではない。

 私が2014年に「WAVE」という写真集を作った森永純という写真家がいた。

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 彼は、若い頃、高度経済成長下の東京のヘドロだらけのドブ河の写真を撮っていたが、それらの写真を見たユージンスミスが号泣した。そして、ユージン・スミスは、彼をアシスタントにし、その後、ニューヨークに彼を呼んだ。

 ユージン・スミスにとって、森永純との出会いは大きく、彼が後に「水俣」の写真を撮ることになる流れは、森永純との邂逅から始まっている。

 当時、ユージン・スミスが、日本に来ていた理由は、LIFEという世界的権威のようになっていたグラフ雑誌と対立して仕事を失っていたからだ。

 ユージン・スミスは、自分が信念を持って撮った写真をメディアが都合よく利用することに反発し、写真家は、自らの信念と自らの視点に基づいた表現者でなければいけないと考えていた。

 生前の森永純から聞いた話では、このユージン・スミスと一緒に行動していた森永純は、帰国してすぐに細江英公さんたちと相談して、写真家が自らの作品の発表の場として写真展を開いて、写真プリントを販売することを計画した。こういう試みは今では当たりだが、その当時の日本では、無かった。

 その写真展で、最初の展示をしたのが森永純だったのだが、その会場に、木村伊兵衛が乗り込んできて、猛烈に非難したのだという。

 木村伊兵衛は、LIFEと対立したユージン・スミスとはまったく逆の考えで、写真というのは、写真家の表現物ではなくメディアを通じて世の中に伝えられるもので、その見返りとしてメディアからお金をいただくもの。だから、メディアから自立して自分のプリントを売るなどという行為は許されないものだったらしい。

 木村伊兵衛という写真家が、もともと戦争の宣伝工作を専門とするメディアの主力写真家であったことに関して、戦後の日本写真界では沈黙しているようなところがある。あの時代の流れでは、しょうがないという言葉で。

 もちろん、正面から軍事政権と対立できる時代ではなかった。しかし、積極的にメディアの宣伝工作に便乗するのと、なんとか違う形で、ぎりぎりの抵抗を見せるのでは、表現者としての資質に大きな違いがある。

 たとえば濱谷浩もまた、1941年、東方社に参加することとなって対外宣伝誌『FRONT』のため陸海軍関係の撮影に従事するが、疑問をもち退社。その後、文化人らの肖像撮影を手がけ、1944年新潟県に移って、ここを拠点に日本海側の風土や人々の営みを記録し、「裏日本」という形にまとめた。

 戦時下において、日本を気高く紹介することが写真家のミッションであったわけだが、濱谷浩は、木村伊兵衛衛のように安易に戦争賛美の流れに乗らず、表現者としての矜恃を保ち続けた。

 ユージンスミスの影響を誰よりも受けた森永純も同じで、彼は、表現物でさえ娯楽と無聊の慰めになってしまった消費社会と交わらず、ドブ川の写真集の本の後、ひたすら「波」だけを30年以上にわたって撮り続け、私と出会った頃は、写真界からは、ほとんど忘れられた存在になっていた。

 彼が、生涯にわたって形にした本は、東京のドブ川と、私が作ったWAVEの2冊だけである。

 この森永純も、もしも日本の戦後写真界の主要な評価軸が、木村伊兵衛ではなく安井仲治であったなら、まったく違う写真家人生だったかもしれない。

(つづく) 

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