ライブドアのやり方に対して、識者たちが「お金があれば何でもできるという考えはよくない」などと言うけれど、どうも論点がすり替えられているように思う。
ライブドアはお金があるのではなく、借金を背負ってやっているにすぎない。お金の力にまかせて好きかってにやっているのではなく、リスクを負って勝負に出ているにすぎない。
また、公共の電波が一つの企業に乗っ取られたら大変だ、メディアの中立性が保たれないなどと騒いでいる人もいるが、果たしてどうだろうか。たとえライブドアが露骨な手を打っても、メディアはライブドアだけでないのだから、最終的に視聴者によって裁きを受けるだろう。
むしろ逆に、情報を伝える側はいっさい判断を入れず、すべて視聴者の判断によって成立つメディアをつくることを堀江社長は宣言していて、そうした姿勢によって、視聴者が短絡的に喜びそうなものばかり伝えられることを懸念する人もいる。例えば政治のこととか、イラクやアフガニスタンなど外国で起こっていることが、視聴者の関心が低いという理由でまったく取り上げられなくなるのではないかと。
しかし、情報を伝える側の判断を入れて伝えている今日の政治報道やイラク報道が、伝えられるべきことが伝えられているかどうか疑問だ。視聴者は、もっと本当のことを知りたいのに、そうなっていないことの方が多いのではないか。むしろ、骨抜きにされて中途半端にダラダラと伝えられるので食傷気味になってしまうということもあるのではないか。イラク情勢を伝えましたという涼しい顔の後にコマーシャルやバライティが混入され、それぞれの情報を同じ箱の中で処理する方が、大事なことが希薄化されるのではないか。
いずれにしろ、ライブドアが完全に視聴者判断の番組を作ったとしても、全てのメディアがライブドアの影響化に入るのではない。メディア側の判断でやるところも残るのだろうし、むしろその方が歪みが大きいのかもしれないし、今のように横並びで、どれがまともでどれがそうでないのか判別つきにくい状況を作ることで自らの保身をはかる戦略が横行するより、ましだと思う。
実際に一番性質が悪いのは、中立を装う顔をしていながら、そうでない人たちだ。新聞やテレビは公共のものだというが、今日では広告の受け皿として存在し、広告収入によってのみ成り立っている。
広告主は番組内容に直接口だしをすることがないとしても、スポンサーを降りることをほのめかすことで、いつでも圧力をかけることができる。そうしたことによって内容が大きく歪められることがないとしても、無意識のうちにスポンサーの顔色をうかがって、無難なところでお茶を濁すということもあるだろう。大きく歪められた方が問題が目につきやすいが、小さな歪みを積み重ねられると、知らず知らず洗脳されていく。
そうするとNHKのように国民の視聴料で成り立つ番組が必要だという話しになってしまう。確かにNHKは民放より質の高い番組を作っているが、あれだけお金をかければ誰だってそういうことが可能だというレベルにすぎず、国民からあずかったお金をできるだけ切りつめて、最小限のコストで最高のものを作るのだという発想があるかどうか疑問だ。
ライブドアの行っていることを、お金の力にまかせて好き放題しているという見え方に導いているのは、既得権に守られた勢力であって、その時点で既に報道は歪められている。お金の力だけでなく、既得権を守ろうとする力によっても情報は歪められる。
どんな努力を行っても、既得権の前に太刀打ちできないということがよくある。既得権というのは、リスクをおかす必要がなく、楽で美味しいので、それを掴んでいる人は、なかなか手放そうとしない。例えば雑誌などにおいても、マーケットのなかで裁定されるのではなく、公共という名の某規制産業のPR誌などを優先的に制作する恩恵を受ける場合、べらぼうな金額を請求できたりする。だから広告など入れずに、それなりの体裁を保つことができるが、どう見たってそんなに経費はかからないだろうと思われるものでも、それが通ってしまうのだ。私の知っている某雑誌は、「風の旅人」の5倍の制作・製造費を請求している。そのように楽に稼げる構造づくりのために、いろいろ知恵を働かせてきた人たちがいる。平安時代の貴族たちのように。今日では、天下りもその一つの手だろう。天下った人が、ほとんど働かないのに好待遇を受けることができるのは、それを受け入れる側にそれ以上のメリットがあるからなのである。
また、雑誌などを一から立ち上げるとよくわかるが、今日の書籍流通システムにおいても、新参者は圧倒的に不利な状況に置かれている。掛け率とか、入金時期とか、流通量とか、大手出版社と比べて非常に悪い条件のなかで闘わなければならない。そういうシステムを作ったものが強いのは当たり前で、それを突き動かす為には、時には無謀とも思えることをやるしかないのだ。ひんしゅくを買おうが非難を受けようが。非難を受けにくい構造のなかで実際にえぐいことをやっているのは、既得権を保守しようとする側のことが多いのだ。
フジテレビとライブドアの闘いは、平安時代の荘園領主である貴族と、新興の武士の闘いのように思える。貴族の側から見れば、自分たちが狡猾に築いてきたシステムを、武器の力で奪おうとするヤツはなんてひどいヤツだということになるだろう。しかし武士というのは、単純に武器を持った人間ということでなく、仕事らしい仕事もせずに上前だけをはねる貴族のための荘園制度に変わって、封土の給与と軍役の義務という主従ともにリスクを背負う新しいシステムの必然性のなかに生きた集団なのだ。ライブドアも、お金の力で、荘園制度のような既得権社会に切り込んだのではなく、新しいシステムで生きることを宿命として受け入れているようにも見える。
そのようなライブドアばかりを一方的に非難して、その相手側を非難しない人たちは、何らかの形で荘園制度の恩恵を受けているか、その状況を居心地よく思っている人だろう。ライブドアが、平将門になるか、平清盛になるか、それとも源頼朝になるかわからないが、荘園制度から封建制度に移行せざるを得なかったように、旧い既得権社会が崩壊する必然があるのは間違いないと思う。