第1509回 すべてをこの地上の生のうちに見ること。

「 かんながらの道〜日本人の心の成り立ち〜」の納品日が、10月26日と決まりました。
 ワークショップ の日と重なってしまうので、受け取りのタイミングが問題。
 それはともかく、オンラインでの販売サイトを立ち上げました。
 詳しくは、次のアドレスからホームページをご確認ください。https://www.kazetabi.jp/
 年があけて2025年2月6日~2月17日に新宿のOM SYSTEMギャラリーで写真展を開催しますが、その展示作品は、この本に掲載されているもので構成しようと考えています。
 2016年10月に「日本の古層のプロジェクト」を始めてから8年、2020年4月から毎年一冊ずつ本と作ってきて5冊目ですが、今回は、はじめてカラー写真で構成しています。
 私は、もともと、ピンホールカメラで撮影するにあたって、富士フィルムの6㎝×9㎝のカラーネガを発売停止になるまで、使用していました。
 しかし、これまでの本は、写真よりも文章の内容を重視していたのでモノクロ1色で印刷していました。印刷コストもその方が安く、販売価格も安く設定できますし、モノクロにすることで異世界の感覚があり、それが古代を表現するのに向いているとも思えたからです
 ところが、そのようにして示される古代世界は、歴史に対して好奇心がある人を別として、多くの人にとっては自分ごとにはなりにくい。残念ながら、歴史を自分ごとにすることは、とても大事なことだけれど、現在の日本社会においては、かなり難しいことになっています。
 今日の社会では、自分に関係あること=自分が関心あることの範囲は、とても狭くなっており、ネット情報に限らず書物なども、自分の仕事や生活に直接関係あるもの、もしくは、気晴らしになるようなものしか選択されにくい傾向にあります。
 そういう難しい状況であることは承知していますが、諦めて投げ出すわけにもいかない。とはいえ、続けるからといって興味の一分野としての歴史という扱われ方はつまらなく、普遍性のあるリアルのために、本という形にしたい。
 そういう思いで、今回は、文章においても、歴史や神話の洞察よりも、現在につながる「日本人の心の成り立ち」に焦点をあて、それゆえ写真も、異世界の感覚が強くなってしまうモノクロよりも、今ここにある現実の感覚に近いカラーを採用しました。
 人はなぜか、夢の中ではモノクロの世界を見て、目覚めている時は、カラーの世界を見ている。だからカラーの方が、今ここにある現実という意識をつなぎとめる力がある。
 しかし、カラー写真でも高精細すぎるデジタル写真だと、今目の前にある現実に意識を静止させてしまいがちですが、ピンホール写真の場合、カラーであっても物事の陰影で世界を再現する性質があり、そのことによって夢と現実の境界を曖昧にする効力があると感じられます。
 荘子が、「私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。」という逍遥遊の境地、すなわち、 今目の前にある現実に執着しすぎる状態でもなければ、単なる夢見心地の状態でもない覚醒の融通無碍こそ、真の自由であると説いています。
 さらに、今年、その普遍的なリアルのことを漠然と考えている時、かつて読んだ本のリルケの言葉を再発見し、自分の考えがより確固たるものとなりました。
「彼岸に目を向けることなく、すべてを、神に関することも、死も、すべてこの地上のこととして考え、すべてをこの地上の生のうちに見ること。
 すべてのものを、神秘的なものも、死も、すべて生のうちに見ること。  ライナー・マリア・リルケ」  
 すなわち、すべてをボーダレスにすること。すべてを、今を生きる私たちのなかのこととして、リアルに受け止めること。現代も古代も、神話も、そして、都市と山河も、すべて同じ現実のなかに落とし込んで考える必要がある。
 そんな気づきから、東京と京都の二つの都の写真もピンホールカメラで撮り始め、来年は、この二都物語を一冊の本にしたいと思っていますが、今回は、その橋渡しとして、後半の20ページほど、東京と京都の写真に費やしました。
  「かんながらの道」というのは、一般の辞書などでは、「神慮のままで、まったく人為を加えない道。」などと説明されたりしていますが、それは違っています。
 なぜなら、人間として生きる以上、人為を加えないことなど、ありえないからです。 
 「かんながら」は、「神のおぼしめしのまま」という意味になりますが、この「神」は、西欧の一神教の神ではなく、古代日本においては、「迦微」(かみ)と表記され、迦は「巡り合う」、微は「かすか」という意味となり、日本人の「かみ」への祈りは、自分の理解を超えた何事かに対する「畏れ多さ」を元にした、自然界の営みの背後に隠れている力に対する心の在り方だったと思われます。
 なので、かんながらの道は、親鸞の説く「自然=じねん」に近い。「おのずから、しからしむ」ということです。 
 これをもう少し私なりに噛み砕けば、
「人間は、生きていくかぎり人為から逃れられないので、その人為が、自ずからそう成っているものかどうか、自然の声に耳を傾けながら、人為を整えていくのが、人間の理。その人為を、祈りにまで高めていく道筋が、人間の智。自ずから然らしむように、理と智を一つに統べていくことが、かんながらの道。」
 今回の本は、このアイデアにそって編集構成しています。
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10月26日(土)、27日(日)、東京の高幡不動で、フィールドワークとワークショップセミナーを開催します。詳しくは、こちらをご覧ください
https://www.kazetabi.jp/%E9%A2%A8%E5%A4%A9%E5%A1%BE-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97-%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/